随談第257回 京の夏

松竹座を見た日の大阪も暑かったが、翌日の京都も37.4度という暑さだった。京・大阪の暑さは東京とはワンランク違う感じがする。しかしこの日は、気温の高さとは裏腹に、まことに涼やかな半日を過ごすことになった。円山公園で美しい京都弁をつかう子供づれの若いお母さんから道を尋ねられるという椿事のあと、祇園の一力で、常磐津を聴いて午後を過ごすという稀有な体験をしたからである。

常磐津の都(みやこ)会というのは、大正のむかし、新橋の名妓で六代目菊五郎の地方(じかた)をつとめたこともあるという常磐津の名手であった常磐津都(みやこ)師が関東大震災で京都へ移住、その地に根づいて爾来三代、祇園を拠点に活動を続けている、その八〇周年の演奏会に、若い女性の友人である田口章子こと常磐津都章さんが名取として披露するというので、お祝いのお相伴にあずかったというわけである。その種の会の当然として、先代以来のお弟子という老巧の旦那衆もいれば、まだ日の浅い人、なかには異国の女性もいたり、といったとりどりの人たちが、入れ替わり立ち代わり出演する。当代の家元と若師匠が、休むことなく地方をつとめるという大奮闘がほほえましい。都章さんは三味線の方で、大曲『将門』を、若師匠の上調子にあるいは助けられ、あるいはリードされながら、立派に弾いてのけた。

当然ながら常磐津ばかりだが、すこしも食傷しない。思うにこれは、常磐津というものの持つ、奥行きの深さのせいに違いない。浄瑠璃ではあっても義太夫のように物語に縛られないし、浄瑠璃とはいえほとんど唄に近い清元や、長唄に比べ綾や含みが多い上、三味線の音色そのものが「遊び」に満ちている。歌舞伎の音曲四種のなかで、一見、もっとも地味なようでその実もっとも「味な」存在であることに、改めて思い至った。

夕景、会が終って表に出ると、三連休の中日とあって、花見小路はまだ観光客が行き交っている。何だコレ、と一力の暖簾を見て呟いている若い男がいる。ここは昔、近藤勇や何かが出入りをしたところよ、と連れに囁いている中年女性がいる。それはまあ、近藤も来たろうが、何故か由良とも内蔵とも仰せがない。

翌日は洛北雲ケ畑までドライヴ。鳴神上人が籠ったという岩屋のあるところである。小さいが室町時代の建造というなかなか凝ったつくりの山門があって、ものものしくはないが神さびているのが、いかにもそれらしい。熊が出没するから注意、といった警告が要所にある。絶間姫よろしく、しばし急坂を登る。なるほど、それとおぼしき岩屋があり、滝があった。清水の舞台をはるかに縮尺し、素朴にしたような舞台もある。別に現地調査のつもりで出かけたわけではないが、しかしやはり、来てみてはじめて知れることはあるもので、つまりここが賀茂川の水源なのだということである。だから鳴神上人が龍神を封じ込めたというのは、芝居の上では雨を降らせないということになっているが、じつは賀茂川の水源を切ったということなのだ。朝廷の権力をもってしてもままならない賀茂川の水を、法力をもって涸らしてしまうというのがシンボリックである。

東京だったら、こんな景色は奥多摩あたりまで出かけなければ見られないが、井の頭公園まで車を走らせる程度の近間(あれだって神田川の水源だが)であるところが、京都ならではだ。しかも夏休み冒頭の連休というのに、ちらほらとしか、他のお客に出会わない。旅館が一軒あり、そこでさっき見た滝から流れ下る渓流の瀬音を聞きながら、ビールを飲んで汗を引かせるという寸法である。

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