随談第259回 野球談義・3千本安打は本当に大ニュースなのか?(続)

前回は、3千本安打は本当に大ニュースなのかと表題に謳いながら、話がそこまで行かない内に終ってしまったので、その続きである。

テレビのスポーツニュースで、日本の野球の報道はあっさりなのに、メジャーリーグ情報なるものは、一打席一打席克明に報道するのはなぜか? 答えは幾つか考えられるが、もっとも平均的なのが、オラガ国サの代表選手だからみんなが注目しているであろう、という前提のもとに、そのニーズに応えようというものだろう。その背景には、メリケン・メジャーこそが本場であるという、暗黙の前提がある。支流よりも本流に泳ぐ魚こそが本当の魚であるというわけだが、その論理の道筋を辿ってゆくと、やがてある限界点を越えたところで、ナショナリズムから国際主義、さらにはグローバリズムへと反転する。ニッポン、チャチャチャと無邪気のはしゃいでいた人が、一転して国際派になる。思えば一四〇年前、攘夷主義者が開明派に豹変し鹿鳴館でダンスを踊り出したのと、よく似た構図であり、力学である。(そういえばかつて、フランス語を国語にしようという意見もあったっけ。それ式の意見の人って、いまでも必ずや、何パーセントかはいるに違いない。)

さて話を戻して、イチローの日米通算3千本安打である。もちろん、偉業である。しかしこれは、日米を通じての大ニュースなのだろうか? アメリカ側がこれをどういう風に受け止め、メディアがどういう風に報道しているか知らないが、おそらく、ひとつの話題という以上には出ないであろうことは、容易に想像がつく。(もし私がフツーのアメリカ市民だったら、きっとその程度にしか受け止めないだろう。)

アタリマエである。彼らは、メリケン野球という本流を泳ぐ魚としてのイチローは評価するが、日本野球などという支流を泳ぐ魚であったころのイチローには、興味はない。アメリカ野球の記録と日本野球の記録を合算することなど、考えもしないだろう。アメリカ人から見れば、イチローはまだ2千本も打っていないのだ。現にわれわれだって、イ・スンヨプの韓国野球でのホームラン記録を日本での通産本塁打数に合算しようなど、誰も考えないではないか。韓国でも凄い選手だったんだってさ、とは知っていても、もし合算して何百本という記録になったら、へーエ、というだけの話だろう。仮にそれが王貞治の記録を数字の上で抜いたとして、どう評価され、報道されるだろう?

ならばどう考えるべきなのか? 少なくとも確かなのは、メリケン野球だけが本流であり、本流に泳ぐ魚だけが本当の魚であるという、グローバリストが陥りがちな論理の錯覚から抜け出すことだろう。誤解のないために言っておくと、私は、日米通算3千本という数字には、意味があると思っている。しかしアメリカ人の無関心をよそに、3千本と無邪気に大騒ぎするのには乗り切れないものを覚える。イチローは、オラが村さのフンドシかつぎではない。なればこそ、ニッポン村の中だけで、メリケン・メジャーという鬼の首を取ったみたいに騒ぐのは空しくはないだろうか?

そこで思い浮かぶのが、ワールド・カップのときの、あのイチロー発言である。あの発言は、私の思うに決して単なるナショナリズムではない。アメリカの中にあって、日本野球とアメリカ野球の関係を、イチローなりに見切っていればこそ出た、いささか過激な言葉だったに違いない。

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