随談第260回 観劇偶談(その121) 新派百二十年『紙屋治兵衛』

三越劇場の花形新派公演『紙屋治兵衛』がなかなかいい。新派百二十年の今年、一月の三越劇場『女将』、六月新橋演舞場の『婦系図』『鹿鳴館』と並べて、客観的な劇評とは別に、可能性という点からいうなら、見ていてこれが一番面白かった。

『女将』は、昭和28年という設定の「現代劇」であることが、かえって、いま上演することの難しさを感じさせた。私個人としては、当時の流行歌がふんだんに流れてくるなど、結構楽しんだが、それは現代の若い観客に通用することではない。当時の「アプレゲール」の男女が、いまから見れば何ともお行儀のよい、品行方正の青年にしか見えない。あれは、作者の北条秀司という「おとな」の目から見たあの頃の「新人類」であって、考えてみれば、女将役の水谷八重子こそ、まさに当時のアプレゲールの典型だったのだ。あの「水谷良重」が、いま二代目水谷八重子として「近過去」を演じることの難しさが、改めて思われもした。

『婦系図』は、現在の新派として能うる限りの「古典」として、あれが精一杯というべきで、むしろその点を評価すべきだろう。古いファンが、自分の思いの中にある昔の舞台と比べてああだこうだと言ったところで、帰らぬ夢でしかない。『鹿鳴館』は、團十郎が景山伯爵を演じることによって、新劇として書かれた『鹿鳴館』が「新派歌舞伎」として鑑賞される対象となった。新劇として見る限り、團十郎はミスキャストといわざるを得ないが、新派歌舞伎として見るなら、壮大なグランド歌舞伎として愉しいものであった。しかしそれは、新派としては、今回かぎりの一期の夢であることも免れない。

そこへいくと、今度の『紙屋治兵衛』は新しい可能性を感じさせる。治兵衛役は、愛之助という助っ人であっても、おさんの鴫原桂、小春の瀬戸摩純ともども、この路線はこれからの新派にとって開拓するに値する。作者は『女将』と同じ北条秀司で、小春のキャラクターなどあきらかに戦後のアプレゲールを意識して作られているが、昭和×年という限定のない時代劇であることが、かえって時代の制約から自由になる根拠となっている。現に、小春役の瀬戸摩純など、『女将』のアプレ娘のときより遥かに、役に共感をもって演じていることがあきらかにわかる。そうしてそういう観点から見れば、小春に限らずこの戯曲自体が、かつての錚々たる大物俳優たちによって演じられていたときよりも、今度の若い人たちによって、はじめて、その骨組みをくっきりとあらわしたとも言えるのだ。名優たちの芸によって蔽われていた作品そのものが、はじめて見えたと思った。

治兵衛は、これまで長谷川一夫と扇雀時代の坂田藤十郎の役だった。当然、身についた上方和事の芸を、いかに現代の感覚に生かすかというところが生命になる。愛之助にしてもそのことでは変わりはないが、「芸」を見せるという要素が大きく後退して、「戯曲」本位に役を生きることが前面に出てくる。一度歌舞伎座の本興行で、扇雀の治兵衛に雀右衛門のおさん、我童の小春という配役で歌舞伎としてやったことがあって、このときの我童など、その山猫芸者ぶりは三十年後のいまも目に鮮やかな面白さだったが、しかしこの戯曲の小春という意味からいうなら、今度の瀬戸摩純のアプレ芸者の方が、本当に違いない。

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