随談第262回 観劇偶談(その122) 今月の一押し、併せて、納涼歌舞伎あれこれ

オリンピックにかまけている間に、うっかり証文を出し遅れるところだった。

恒例の一押しは、亀蔵の駱駝である。いままで見た駱駝で一番うまかったと思う。今度の『らくだ』がよかったのには、筋書のインタビュウで三津五郎が言っているように、手斧目の半次の役作りにひと工夫あって、あまり粋な江戸っ子にせず、いままでよりも野太い感触の男にしたこととか、いくつか理由があるが、掛け値なしに笑えたのは、何といっても亀蔵の馬の手柄である。芝居心であり、機知の賜物だが、もうひとつ、勘三郎・三津五郎に位負けせず、いい意味で遠慮なくやっているところがいい。とかく、偉い役者が久六で、弟子に駱駝をさせたりすると、何となく遠慮してしまったりして、笑いがもうひとつ不発になることがある。そういえば亀蔵には、『野田版・研辰』でも、「からくり人形」という怪演があったっけ。兄の市蔵もこのところぐんと腕を上げたし、冥界通信の無線電話で亡きお父さんの片市さんに知らせてやりたいような、兄弟の活躍ぶりだ。

もうひとつ冥界通信の電話をしたい相手がある。故・坂東吉弥である。第二部の『つばくろは帰る』に、作者の川口松太郎が自分の少年時代の思いを反映させたような孤児の役をやっている小吉が、なかなかいい。まず素直なところ。併せて、それでいて芝居ッ気があること。かつての松太郎少年がそうであったであろう如く、小吉演じる孤児の少年も、純で、素直でありながら、ちゃんと人を見、人の心を読み、如才ないところも持ち合わせている。可愛い生意気。その具合が、なかなかいい。

もうひとつ、この芝居で感じ入ったのは、言葉の美しさである。格別に凝ってなど、さらさらいない。ごく平明な、普通の言葉でいながら、芝居のなかで、含みのある言葉として生きている。おそらく、川口さんにしてみれば、こんなのはさらさらっと、何の苦労もなく書いたのにちがいないが、それからざっと四十年経ったいま、こういう言葉で脚本を書ける人は多分いないだろう。

それにしても、昭和四十六年の初演のとき、主役の松緑と淡島千景のほか、小吉のやっている安之助という孤児の役はいまの清元延寿太夫、勘太郎と巳之助の大工の弟子の、兄弟子の方が先代辰之助、弟弟子の方が何と高橋英樹である。そういえばその頃、松緑はこの人を可愛がっていて、高橋の方も松緑を崇拝している様子だった。つい最近も大河ドラマで島津斉彬をやっていたが、殿様ぶりが、新劇俳優などがやっているのと、ひと味どころでなく違う。歌舞伎は、こういう形でも貢献もし、歌舞伎の外へまでも裾野を広げているのだ。つまり、歌舞伎をまったく見ないような視聴者にも、どういう演技をいいと思うか、歌舞伎的な感性・感受性を植えつけていることになる。かつては、歌舞伎出身の映画俳優たちが、その役目を果たしていた。おのずとそれが、一般庶民の間に、歌舞伎の感性を植えつけていたのだ。あまりいわれないが、こういうことも、実は馬鹿にならないのだ。

その他では、勘太郎が『紅葉狩』をよくやっていた。更科姫をあれだけたおやかに踊れたというだけでも、たいしたものだ。巳之助の山神は、歌舞伎古典のれっきとした役として、これがはじめての役だったかも知れない。出来は、まず無難というところ。

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