随談第585回 舞台随想(その1)

(むしろ「つなぎ」のようなつもりで書いた前回分だったが、予想外に長い掲載になってしまった。標題を「今月の舞台から」を「舞台随想」と改めます。)

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今月は、歌舞伎座の新芝翫も結構だが、国立劇場がお徳用である。何しろ、菊五郎の勘平と吉右衛門の大星が見られて、料金も歌舞伎座の3分の2ですむのだ。

菊五郎の勘平はこれで何度目だろう。またか、と思ったりした時期もあったが、その頃だって別に手を抜いていたわけではない。このクラスが顔を揃えて通しで出せば、判官と勘平は菊五郎と判で押したようになるからで、かつて父の梅幸も判官とおかると決まっていたのとよく似ている。そうしてよく、マンネリなどと陰口も聞かれたものだった。一面、それもそうには違いないが、しかしいま振り返れば、判官もおかるも、やっぱり梅幸のが一番懐かしく思い出されるのだから面白い。菊五郎の勘平もそれと同じようだが、今度のを見て、ちょいとこれは、今までとは別物だぞという気がする。することなすこと、無駄というものがない。無駄な力が入っていない。一段奥の境地に入ったのだ、と思わされる。

たまたまこの夏、尾上右近が自主公演「研の会」で五・六段目の勘平をしたのを連想する。まったく同じ型でつとめながら、片方は克明も克明、一挙手一投足に気を配り水も漏らすまい、という意識に満ち溢れていて、そこが秀才ならではの魅力でもあり面白いところでもあり、将来の展望へ夢を膨らませたくなるところでもあり、一方同時に、息も抜けない息苦しさに見ているこちらもへとへとになった理由でもある。菊五郎のはそれと対照的といえば手っ取り早い。菊五郎三傑の一と見て間違いない。(後の二傑は? とりあえず思いつくのは,一に『吉野山』の忠信、二に『幡随長兵衛』の水野、というのはどうだろう?)

歌舞伎座の『御浜御殿』で仁左衛門がこれも何度目とも知れぬ綱豊卿を、玲瓏玉の如き、余計なものの抜け切った境地で、呼吸している。呼吸している、というのも舞台評として妙なようだが、名演だの絶妙だの、技芸神に入るだの、よく使う劇評用語ではどれもピンとこない。

このところ、とりわけ肩の故障から再起して以降の仁左衛門というものは、ちょっと大仰に言えば一種仙境に入ったような感じで、透明感たるや只事ではない。ときとして、あまりにもこうなり過ぎては逆に影が薄くなってしまうような気がすることもないでもないが、いつぞやの菅丞相とか今度の綱豊卿のような役では、過去の誰彼に照らしても、ちょっと思い出せない独自の境地を思わせる。

「七段目」の大星というと、十三代目仁左衛門のを見てから、それも30年前の国立劇場20周年の時より、それより約10年前、公文協の地方公演を小田原まで追いかけて見たときに、それまで知っていた白鸚や松緑等東京の諸優の大星とはまるで別物なのを知った驚きが、あれから40年近くたった今なお、深く私の中に残っている。まさに祇園で遊ぶ由良大尽、「はんなり」というのはこういうことなのかと知った。無論、当代のも結構だが、何といっても戦前の祇園を知っている十三代目のようなわけには行かないのは是非もない。ああいう由良大尽は、おそらく見ることは叶わないであろう。

まあ、そういうことは置いておくなら、また国立劇場に戻って吉右衛門の大星が、東京風の大星としてまず言うところない。こころなしか、前段の遊蕩に韜晦しているときのセリフがやや小音なのが気にならなくもないが、最後の九太夫折檻の懸河の弁で帳消しにする。遊蕩に韜晦するさまと、九太夫折檻の懸河の弁絶の落差の大を自然に覆いくるめてしまう懐ろの大きさが、吉右衛門の吉右衛門たるところであろう。

この他にも東京勢の大星には、幸四郎もいるし、亡くなった團十郎もいたが、そうしたあずまおとこの大星たちの「ますらをぶり」とひと味ふた味違った、菊五郎の由良大尽というのを一度見てみたいものと、かねて私は思い続けている。祇園ではなく銀座だろう、などという減らず口は置いておいて、あれだけの勘平を見せてくれたいま、こういう大星もあるぞというのを「おねだり」しておきたい。

さて新・芝翫の盛綱がなかなか結構である。芸の上では、先月の『熊谷陣屋』よりいいのは生締の捌き役という「仁」に関わることでもあろうが、芝翫型を演じるにあたってのやや手探りの感や、團十郎型への未練も感じられなくもなかったのに比べ、迷うことなく取り組んでいる感じがいい。とかく難渋になりがちなこの芝居が、明快で、それでいて、丸本時代物の量感や奥行きを感じさせるのが値打ちである。とにかく、熊谷・盛綱と、二つの陣屋物をこれだけ見せたのだから、自信を持って然るべきである。

義兄の十八代目勘三郎が襲名の時、『盛綱陣屋』を出して驚かせたことがあった。襲名興行は三カ月にも及んだからいろいろな試みをする余地やゆとりがあったからでもあるが、盛綱とは、とそれまでの「勘九郎」から見て意表を突かれた。ところが本人の話によると、盛綱という役には前々から興味があって、何故かというと、長男坊の気持ちがよく書けているからだという。「だって、次男坊ってのは自分勝手だし、ずるいでしょ?」というのが勘三郎の意見だった。自分の都合だけでなくあれこれ気を配って勝手なふるまいはできないのが長男坊というものだ、と勘三郎は言った。なるほど『盛綱陣屋』というのは、弟の四郎高綱の勝手なふるまいを兄の三郎盛綱が全部自分の責任で引き受けて後始末をしてやるという芝居である。目の付け所のユニークさ面白さはさすが勘三郎だと思ったが、しかしそれなら、むしろ高綱の方が普通皆が思っている勘三郎のイメージに近いであろう筈ではないか? へーえ、と思った。この人はこの人なりにいろいろに気を配ったり、長男坊としての自分を盛綱に重ね合わせていたのだ。勘三郎という人を知る上でもこの「盛綱論」のユニークさは興味深いが、もっともこの長男盛綱に対する弟高綱は、まさか義理の弟の新・芝翫のことではないだろう。

ところでその勘三郎の盛綱は、いろいろ面白いところ、巧味を見せたところ、勘三郎一代の芸を見る上ではなかなか興味深いものだったが、しかし盛綱らしさという一点で、新・芝翫の方が私としては戴ける。当代の盛綱役者としてリストに加えられるものと言っていい。それはもちろん、見たさまだけのことではない。

(勘三郎と言えば、父の17代目も、後半生は兄の初代吉右衛門十八番へ次々と食指を動かすようになって、盛綱も二度にわたって手掛けたが、細部には処々に巧味を見せながら成功と呼ぶにはためらわれる、という体のものであったのを思い出す。)

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随談第584回 十月のさまざま(訂正版)

(お詫びと訂正)冒頭の『箱根霊験記』についての記事の中で、過去の上演の年月の記載に誤りが2か所ありましたので、その個所を訂正したものを掲載します。)

役目柄の劇場巡りの範囲が大幅に広がったのに加え、種々の原稿締切、法事の準備手配等々、身辺何かと小忙しく、このブログも差し替えが間遠な状態が続いている。各座、疾うに楽日も過ぎ、打ち上げてしまった芝居の評判をするのも、出そびれた幽霊みたいで気が利かないから、今月のさまざまと題して、事件やら訃報やらさまざま取り交ぜて一席伺うこととしよう。

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10月末、片や国立演芸場、片や紀尾井ホールという小さな劇場で、素敵な演奏会を二晩続けて聞いた。国立演芸場は女義太夫の会で竹本駒之助・鶴沢津賀寿の『箱根霊験記』、紀尾井ホールは京都在住の常磐津都喜蔵師(本当はトキゾウの「キ」の字は「七十七」を一字として書く、あの字だが、実はこれは「喜」と同じ意味を表す本字なのだが、コンピュータには採録されていないと見えて変換できない。一般に略字と考えられがちなので、WINDOWS 10を作った技師もそう考え、IMEパッドにも載せなかったのであろう)が10余年来続けている常磐津の会で語った『仮名手本忠臣蔵』八段目と『本蔵下屋敷』である。駒之助は今や、文楽の太夫を含めても今聴いておくべき数少ない一人、まして今回の上演稀な貴重な曲(になってしまった)、今回聞き損ねたらチャンスはあるまいという逸品だった。冒頭不慣れが耳についた津賀寿も後段はよく弾いた。都喜蔵師また、その撥捌きのやわらかさ、少しの力みもない妙音を聞かせてくれる。名人と呼んで然るべきであろう。

(『箱根霊験記』は本来『箱根権現躄仇討』というのが本名題だが、「躄」の字を憚って、近頃はこういう呼び方をするらしい。歌舞伎での最近演は十年ほど前我當が南座で『箱根権現誉仇討』という外題で出した由だが私は見ていない。東京では昭和53年に十七代目勘三郎、歌右衛門、白鸚という大顔合わせで出したのが最後だが、実はこれはやや期待外れで、こういう小芝居種めいた狂言にはこの大家たちはあまり適任ではなかったようだ。昭和46年1月、これが東横歌舞伎最後の公演となった興行で、現・田之助の勝五郎、玉三郎の初花、孝夫の滝口上野というのと、昭和40年2月、猿之助の勝五郎、雀右衛門の初花、延若の滝口上野、竹之丞つまり富十郎の折助で出したのが、私の頭の中ではちゃんぽんになって、田之助・雀右衛門・延若・富十郎というベスト配役として記憶されている。母親役が骨の髄から大阪の役者のような中村霞仙だったのを、今回たまたま坐り合わせた神山彰氏のお陰で思い出した。)

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訃報と言えばやんごとなき際(きわ)から忘れかけていた名前までとりどりあるが、誰もが言う平凡な感想ながら、昭和の終わりということを、ビッグネームからマイナーネームまで、それぞれについて思わされた「死」がこのところ相次いだ。

前天皇の弟宮の死は、誰もが言うこととはいえ、これを以て「昭和」は完全に終止符を打たれたことを改めて痛感したという意味で、単なるニュースではなく「私事」に関わってくる死だった。亡くなるまではとりわけて関心事でもなかったにも関わらず、その報と共に、強くそれを意識することになったのは、我ながら意外だった。昭和天皇の戦後に関する事績を民間での行為を通じてほぼ完ぺきに補完した上、先ごろの当近の「玉音放送」まで、見るべきほどのことを見切った上での死であったように思われる。

岩波ホールで「木下順二没後10年」という案内を、あまり直接的な関わりを生前持たなかった私であるにも関わらず頂戴したので出かけたが、なかなか興味深い話を聞くことが出来た。1914年の生まれという。前日逝去された三笠宮が1915年生まれとの由だから、一歳違いだったわけだ。それぞれ立場は違え、本当の「戦中派」というのはこの人たちのことを言うのであろう。言うことすること、すべてが「戦争」と関わっている。

平幹さんについては、私の出る幕はいくらもない。テレビの『三匹の侍』で全国区デビューする前、初代錦之助の『親鸞』など、東映時代劇が新機軸を求めて、岩崎加根子とか河原崎長一郎とか、まだあまり手垢のついていない新劇の若手に目をつけて登用し始めた中にその顔を見つけた、というのが、せめて、語る人も比較的少ないかと思われる、数少ない私の出る幕と言えるだろう。誰しもそうであるように、全国区デビューする前の、痩せて、やや暗いイメージは、平幹氏の場合も例外ではなかったが、それも含めてイメージとしては終生、これほど変わらなかった人も珍しいとも言える。あの声、あの物の言い様、当時からああだった。そこに、この人のシャイネスがあるような気がして、そのために私は、最後まで好印象を持ち続けることが出来たと言っても過言ではない。声音と物の言い様に独特の知性が漂っていたという点、先年逝った三国連太郎と双璧であったろう。

野球界から、法政から広島に行った山本一義、慶應から巨人、さらに東映に行った渡海昇二と、しばらく耳から遠ざかっていた名前の訃報を相次いで聞いた。どちらも、私が大学に入学した時の、六大学野球でそれぞれのチームの主将だった。入学して最初に見に行った試合が慶法戦で、山本も渡海も、実物をそのとき初めて見たのだった。山本の方は、約十年後輩の山本浩二も同じ進路を辿ったもう一人の山本として、首位打者のタイトルは取らなくとも常に打撃十傑には入っていたように、地味だが実力派としてプロ球界名選手列伝の一隅に座を確保するほどの存在として全うしたが、渡海の方は、パッとした成績を残すことなくわずか4年でプロ球界から名前が消え、それから無慮半世紀余、稀に彼が主将を勤めていた秋のシーズンに繰り広げられた早慶6連戦のことが話題になる折に、ちらりと名前が出るという程度だった。渡海の名が六大学野球で知られ出したとき、野球好きでかなりの母校愛の持ち主と察しられる戸板康二さんが喜んで、「慶應に渡海屋銀平が現れた」と書いたことがあったが、肝心の銀平クンの活躍がせめて歌舞伎ファンにまで広く知られるに至らなかったために、折角の戸板さん一流のウィットもちょっといい話のネタになりそこなったのは残念だった。

同じ学年には早稲田の主将で国鉄スワローズに入ってまずまずの成績を残した徳武定之とか(はるか後年、郷ひろみの岳父として名前を聞くことになったのは思わざることだったが)、スター選手がかなりいた。のちに工学部の教授になったという東大のエース岡村が、9回裏満塁から投じた一球がデッドボールになって押し出し、負け試合になってしまったのを目の前で見たこともあった。次の学年で、大洋ホエールズに入って東大からはじめてプロ野球の投手となった新治よりも、岡村の方が名投手だったと思う。それにつけても、この年代から訃報が相次いだのには物思わずにはいられない。因みにそれは、60年安保の年である。

元羽黒岩の戸田が死んで、大鵬戦での世紀の大誤審のことが新聞の片隅にちょっとした記事になったが、確かに、あの頃の大鵬だったら、戸田とのあの一番がなかったら70連勝ぐらい行っていたかもしれない。

行司の軍配は大鵬に上がりながら物言いがついて負け、40何連勝だったかでストップとなったところが、翌日の新聞に載った写真から検査役の誤診が明らかとなり、それが元でビデオ判定が実施されるようになったという話はよく知られているが、それよりも、あの場所後大鵬は気晴らしのつもりかオーストラリアに遊びに行き、ビアホ-ルで豪快にジョッキを空けていると、その様子を見たオーストラリア人の客からビールの飲み比べの挑戦を受け、受けて立った大鵬の圧勝に終わった、という話なら、ここに紹介しておく価値があるかも知れない。ところでこの記事を受けて、朝日の「素粒子」欄だったか、カンガルー焉んぞ大鵬の志を知らんや、と書いたのは天晴れだった。こういう記事、イマドキの朝日の記者に書けるだろうか?

日本シリーズは近来稀に見る面白さだった。それぞれのリーグで、形は違うがそれぞれに劇的な形で優勝を遂げ、今年はクライマックスシリーズを蛇足と思わせたチーム同士だったのもその一因だろう。初戦二連敗して広島に歯が立たないかと思った日ハムが、一気に雪崩を打つように4連勝してしまったのが、いずれも接戦ばかりというところに、一戦一戦の機微が窺われ、素人受けも玄人好みもする、面白いゲームばかりだった。結果的には、広島は相撲で言う喜び負けの形になってしまったわけだが、目の前で日ハムの優勝が決まってもぞろぞろ帰ってしまったりしないカープファンも、敬意を表するに値するだろう。

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随談第583回 芝翫型の『熊谷陣屋』

橋之助から襲名した八代目芝翫が、襲名披露に芝翫型の『熊谷陣屋』を披露して上出来である。新芝翫にとっての成果、芝翫型上演の意義、舞台成績等々、様々な意味で極めて刺激的だ。舞台の出来もいいが、芝翫型そのものが実に面白い。見ながらいろいろなことを思わされた。これほど刺激的な舞台は滅多にない。

まず確実に言えるのは、芝翫型は團十郎型に乗り越えられてしまったマイナーな型では断じてない、ということである。むしろ、今度の芝翫型上演によって、團十郎型というものが、是非長短共に、くっきりと見えてきた。何よりもそのことが刺激的である。いうなら、團十郎型は熊谷ひとりの心境劇であり、熊谷の出家に至る心情に焦点を絞り込んだ近代劇であることが、改めてわかった。そこに、近代歌舞伎としての価値も意義もあるのだ、ということである。芝翫型は、それに対する、いうなれば「本行」であり、歴とした浄瑠璃に基づく丸本時代物狂言である。

芝翫型だと、小次郎の首を受け取るとき、相模は自分から階段を上がって夫熊谷手ずから受け取る。(團十郎型として首の渡し方については仁左衛門が独自の工夫を見せたり、ということはあるが。)相模だけでなく、藤の方も弥陀六も、熊谷との関係がくっきりと見える。熊谷は相模を置き去りにして飄然と去るのではなく、義経を頂点にして、上手の藤の方・弥陀六主従と下手の熊谷夫婦がシンメトリーを作って絵面になって幕を切るのが、単に團十郎型との型の違い、などという表面上のことに留まらない意味を持っていることが明確に分かる。(團十郎型の熊谷が相模を置き去りにしてしまうことを指摘する声は以前からあるが、それは小声で囁かれるだけだった。)

弥陀六も、ありがちのような、世捨て人然とした老人ではなく、「心の還俗」を常に意識している現役感覚旺盛な人物であることを、歌六が実に面白く見せたし、魁春の相模も菊之助の藤の方も、実に生き生きと見えた。(これが、もし芝翫型で演じることによってもたらされた効果であったとすれば、事はますます面白くなる。)

吉右衛門が義経を付き合ったが、そのセリフの見事なこと。ひとり吉右衛門名演リストの筆頭に書き留められるだけでなく、大仰のようだが、現代歌舞伎における絶唱と呼びたくなる。

後回しになったが、新芝翫も非常に結構だった。あれだけの役者ぶりというものは、当代稀なものだと予て思っているが、芝翫型のあの大時代な扮装がよく似合う。花道の出で、七三で大きくぐいっと桜を見やるところなど、冒頭からいきなり、團十郎型の内向芝居とは一線を画すことを宣言するかのような豪宕さがいい。襲名の二カ月に熊谷と盛綱と、陣屋物を二つ出すのは異例だが、時代物役者としての志の表われ、大いに我が意を得たが、まずは第一打席の熊谷で右中間を大きく破る二塁打というところか。

二塁打? あんなに褒めたくせに本塁打ではないのか? そう、それには訳がある。十三年前、はじめて芝翫型の熊谷をつとめるに際し、松緑から二代目が昭和三十年に演じた際の書き抜きを借りたと語っているように、調べる手は尽しているであろうことは充分察しが付くが、それでもなお、團十郎型の残滓が随所に残っていて、それが、敢えて厳しく言えば、「有意義な未成品」の域に留まらせていると見るからである。

その最大なるものは、せっかく有髪の僧の姿になりながら、雲水姿になるところに象徴的にあらわれる。十三年前に新橋演舞場で初演の折は白装束であったはずだが、何故、團十郎型のシンボルのような雲水姿に戻したのだろう? そもそも赤面の有髪で雲水姿では見た様がよくない、というのは決して表面的な外観だけのことを言うのではない。写実な雲水姿というリアリズムは、團十郎型の写実志向が生み出したもので、赤面に黒ビロードの着付け、赤地錦の裃袴という芝翫型の様式とは水と油であり、劇としての様式に混乱を生じている。橋之助時代に、芝翫型で幕外の引っ込みをしたことがあるそうだが、(気持ちはわからないではないが)、雲水姿で幕外の引っ込みを演じたいなら、そのときは團十郎型で演じるべきで、それを芝翫型の中でするのは様式の混乱であり、ひいては性根や型の意味にも混乱・矛盾を引き起こすことになる。

煩雑になるから一々は挙げないが、こうした改善点が幾つかあったようだ。思うに、型として表われた点は二代目松緑の書抜きなどでカバーできるだろうが、メモとして書き残されていない部分をどう造形し表現するか、一朝一夕ではなし得ないところだろう。今後、機会あるごとに、いや、機会を積極的に作ってでも、芝翫型のより良き完成を目指して、研鑽を重ねてもらいたい。芝翫型にはそれだけの価値がある。単に、家の型だからというだけに留まるものではないからだ。敢えて、本塁打と言わず、二塁打と言った所以である。

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随談第582回 今月の舞台から

秀山祭の歌舞伎座は、吉右衛門王国の弥栄を祝うがごとくいまや爛熟の境。大蔵卿で正面を切ったまま階段を何度か上り下りする折など、実は内心ひやひやする。高齢者の仲間入りした肉体は否応なく盛時の勢いを奪われつつあることは否みようがないが、舞台の上に立ち現れる人間像はいよいよ鮮明に、作り阿呆に韜晦する、その奥の心境を眼前させる。こういう大蔵卿は見たことがないと言ってもいい。「いのち長成気も長成、ただ楽しみは狂言舞」の後、下に降りて「暁の明星が西にちらり東にちらり、ちらりちらり」と空を指すところが圧巻。その分厚い感触は、他の誰の大蔵卿にも覚えたことのないものである。

魁春の常盤が、かつて加賀屋橋之助時代のこの優に、義父歌右衛門がその教育方針を問われて、行儀のよい品格ある役者にと答えたという、その通りの姿となっていまそこにいる。この人の定高を見たいと思う。政岡ももう一度見たいと思う。戸無瀬や萩の方やを見たいと思う。<BR>私は歌右衛門を信者として神の如くに拝跪した体験を持たない者だが、しかしこの種の役を演じる歌右衛門をその盛りの時代に(正直、時としてやや辟易しながらも)見たことを貴重な体験であったと信じる者でもある。魁春は、義父のそうした役々を、間近にあって熟知するどころか、雛鳥や小浪や初花姫等々で四つに組んで芝居をした人である。そうした体験を、この人ほど数多く持つ優は他にない。(12月の国立劇場では戸無瀬を務める由、期待したい。)

『吉野川』を吉右衛門・染五郎の大判事・久我之助、玉三郎の定高・菊之助の雛鳥という配役は、今日での大顔合わせであることに間違いないであろう。たしかに、当代の歌舞伎としてある水準を行く舞台であった。吉右衛門の大判事は、その芸容の丈高さに於いて文句ない立派さであり、「倅清舟承れ」の眼目のセリフは、その含蓄と量感の点で、父白鸚や叔父二世松緑に勝るものと思う。(それとは別に、白鸚の無骨さが、いま思えば恋しくもあるのだが。)

玉三郎の定高は新聞評にスマートで素敵なおばさまぶりと書いたが、内容芸容とも玉三郎歌舞伎として見る分にはそれ自体完結した世界を構築している。玉三郎が引き受ける以上、こうした定高像を作り上げることになるのは、これはこれとして認めるしかないわけだが、丸本時代物『吉野川』の一役としてこう演じられれば、雛鳥役の菊之助としては行きどころを封じられた形にならざるを得ない。またそれとは別に、菊之助は久我之助がむしろ本役であろう、ということも改めて知れる。祖父梅幸以来の、音羽屋の人たちの芸質であり体質と考える他はない。(今回は今回としてふと思いついたのは、菊五郎に定高を奮発してもらって、吉右衛門と文字通り「あいやけ同士」として、菊之助の久我之助に雛鳥は右近、というのは如何であろう。)

染五郎が、久我之助のすぐあとに『らくだ』で屑屋の久六になって出る。これは染五郎流の役者心として認めて然るべきであろう。昼の部開幕に『碁盤忠信』を再演したのは曾祖父七代目幸四郎に因んだ演目だが、実は母方の曽祖父初代吉右衛門が子供芝居時代に演じたという隠し味も利かせている。アイデアマン染五郎のプロデュース力というのはなかなかのものである。

『らくだ』には実はいろいろなバージョンがあるが、今度のは岡鬼太郎作の『眠駱駝(ねむるがらくだ)物語』だから、半次の妹おやすなどというなくもがなの役(とはいえ小米がじつに可愛らしい)が登場したり、座付作者としての鬼太郎の配慮が今となっては却って邪魔臭いが、このバージョンの初演が昭和3年3月の本郷座、初代吉右衛門の久六に13代目勘弥の半次というのだから、じつはこれも、叔父吉右衛門の蔭で染五郎も秀山祭をひそかに営むという隠し味になっているわけだ。(小米のやっている妹役の初演者しうかとは、後の14代目勘弥の少年時代である。)

新橋演舞場に新派が、但し半月興行だが久々に掛かり、二代目喜多村緑郎襲名公演を出したのは、新派としては一種の賭け、将来掛けての試金石というものだろう。新・喜多村緑郎になる月之助は大変な荷物を背負うことになるが、そういう問題はちょっと脇に置いていうなら、俳優月之助としてはよき道を選んだと言える。ひと頃、毎年7月の旧歌舞伎座を、猿翁の後を玉三郎が引き受けて鏡花劇をしきりに出していた頃、当時段治郎だった月之助がなかなかの実力を見せていたのが相当に強い印象となって記憶に残っている。先頃は若獅子の連中の応援を借りて新派公演として『国定忠治』を出したりしたが、新派本来のものも含めて、女性路線に傾きっ放しだった新派の間口を広げられる可能性がある。

それにしても川口松太郎『振袖纏』、北条秀司『振袖年増』と、昼の部に並べた戦後新派の佳作たちを見ても、昭和20~40年代頃の新派というのは、何という大人の世界を当たり前のような顔をして毎月のように舞台に乗せていたのかということがよくわかる。(もっとも、『振袖纏』を今回時代物にしたのは松也の出し物としての特例であろう。これでは、物語は同じでも松太郎物の味は出ない。)

いつも言うことだが、昔に比べれば、など言い出せばともかく、脇役のしっかりしていることも、痩せても枯れても新派の財産である。柳田豊、佐堂克実辺りが最古参だろうが、中堅どころの女優たちの粒の揃っていること。市川猿琉が喜多村一郎と名乗って新派俳優となって新・緑<BR>郎に文字通り影の如くに付き従ったのにも、健闘を祈らずにはいられない。

文楽が国立劇場開場50周年記念に『一谷嫩軍記』を昼夜で通すという頑張りようだが、逆に言うと、良きにつけ悪しきにつけ、そこから文楽の現状が如実に窺えるというものだ。文雀も亡くなり、昔、というのは国立開場以前からの人といえば、人形では簑助、三味線の寛治、團七、清治、太夫の咲太夫ぐらいのものか。團七が「陣屋」の後半を弾いてさすが年功という処を見せたが、この人がこんな大きい場を弾かせてもらったのも久しぶりだろう。(なにしろかつては津太夫を弾いていたのだ。)そういう意味では、単に手薄になったということばかり言うより、場が与えられればちゃんと出来るのだという人は、まだ他にもいる筈だ。腐っても鯛、と言ったら言った方が失礼だが、可惜鯛を腐らせておくのは、文楽の側の不見識であろう。

咲太夫がチャリ場の「脇ケ浜宝引」語って巧いものだが、何となく、やや細って元気がなかったのが、この際だけにちょっと気になる。大事にしてもらいたい。

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随談第581回 8月の日記

8月×日 もともとの夏好き、37度だの8度だのというのは格別、33~4度ぐらいまでなら、盛夏の午後を、クーラーなしで風通しのいい場所で読んだり書いたりは嫌いではない。まして仕事から離れた読書なり、音楽を聴くなりして過ごすいっときは、むしろ至福の時と言っていい。

盛夏が好きなのは子供の時からだが、まず、この季節には自然が身近にまでやって来る。我が家の周囲の庭ともいえない空間に植えた草木にまで、カナブンブンだのカマキリだのダンゴムシだの、下等な虫どもがいつ湧いてきたのか棲みついている。ヤモリが貼りついていたりミミズが這っていたりする。今どき都内に住んで、他の季節にはこんな連中にはまずお目に掛からない。郷愁が甦る。私は東京23区から旅行以外には外に出たことのない人間だが、言うところの高度経済成長が始まる以前の東京は、都に鄙あり、結構、田舎が混じり合っていたものだ。空襲で焼け野が原になったりしたために、街中にも自然が甦っていたということもある。本当の田舎育ちの人から見たらチャチなものかもしれないが、こういうのが私にとっての日々の暮らしの原風景なのである。盛夏の暑気は、ほんのつかの間、そうした原風景のかすかな匂いを、肌近くもたらしてくれる。

今日は、午後のいっとき、パソコンの電源をスリープにしたままベッドにひっくり返って、アリシア・デ・ラローチャの弾く、グラナドスだのファリャだの、スペインの作曲家のピアノ曲を集めたCDを聴いた。こういう一世代前の演奏家のCDを1枚1000円ぐらいで安売りしているのを、ほんの時たま、銀座の山野辺りで見つけてくる。昔はLPをいろいろ買い集めたり演奏会を梯子したりしたものだが、ラ・ローチャも、そんな頃に一度、聴いたことがある。こんもりとした体格の、度量のありそうなおばさんだったが、演奏も豊かで心地よかった。音盤というのは、どんな名曲のどんな名演奏でも、繰り返し聴いていると鼻につくものだが、一年前に買ってきたこの一枚は、まだ飽きが来ない。今日の東京の気温は、後で聞くと37度を超えていたそうだが、ラ・ローチャおばさんの弾くグラナドスのお陰で、快適に夢とうつつの間を行き来することが出来た。

 

8月×日 歌舞伎座の三部興行の一等席の料金が1万4500円だというのが話題になっているらしい。6月の3部制の時より500円だけベンキョウ致しておりますということか。

橋之助が三部すべてに顔を見せてこの名前でのお名残りをするというのがひとつ、扇雀が連名の首座に立って開幕劇に『媼山姥』という出し物を持つ、というようなこともあるが、まあ、こう見渡したところ、エース格が染五郎、猿之助が西の横綱に座って二人で『弥次喜多』をするというのが、今月のミソなのだろう。(第一部の『権三と助十』で権三を獅童にゆずって自分は助十に回る、という味なスタンスの取り方は染五郎流全方位外交の度量の表われ、石子伴作ではないが、ヤルジャアネエカと褒めていい。)第三部に至って、橋之助の『土蜘』も含めて故勘三郎党の面々で締め括る、というのが大きな流れのように見受けられる。(その中に、間狂言の番卒役で猿之助が出ているのがちょっと乙だ。)

見回したところ、『権三と助十』が上等だ。前代の大家たちが、綺堂の書いた世話狂言というので黙阿弥などよりも素に近く、というところに足を取られて、悪く言うと、軽くこなすといった傾向があったが、当代の若い俳優たちには、黙阿弥よりもこのあたりが一番身に沿った芝居がし易いのかもしれない、みな溌剌として張りがあるところを買う。井戸替えに駆り出された長屋中の面々が、みなノリがいい。幸雀、笑野、喜昇などという、当節の脇の女形としてちょいとしたところが、平素の美女ぶり?と変わったところを楽しんでやっている。

この芝居の大正15年7月歌舞伎座の初演というのは大変な大顔合わせで、権三が15代羽左衛門に助十が二代目左團次(という顔合わせが、すでに通念を破っている)の上に、助八が初代猿翁、家主が初代吉右衛門というのだ。それと比べられてはかなわないとして、今回の獅童、染五郎、七之助、巳之助、弥十郎等々、先に言ったように心持よくやっているのが気持ちいい。強いて言うなら、もっとよかるべきはずの亀蔵の佐官屋勘太郎が、なにがなし、役に入りにくそうにしているかに見えたのがちょいと気になったぐらいか。

「弥次喜多」は過去のさまざまな「弥次喜多」の出来具合に照らしてまずまずというところ。ラスベガスへ行ったり、目先の替え具合とテンポのよさで飽かさないというのがまずまずの理由、一方、ラスベガスの場以外は案外新味がないのは、金太郎と団子の少年武士の主従の絡ませ具合がやや平凡だからで、目立った失点はないが大きな得点になったわけでもない。もっとも、二人ともしばらく見ぬ間に大きくなったなあ、と健気な成長ぶりを見せたのが大きな得点ではないか、と言われればその通りともいえる。(団子がなかなか練りのあるいい声をしているのに感心した。)

弥次喜多といえば思い出すのが、昭和38年7月、このときも納涼歌舞伎と謳っていたと思うが、夜の部全部を弥次喜多道中の通しで(今と違って10時ごろまでかかったが当時はそれが当たり前だった)、十七代目勘三郎と二代目松緑の弥次郎兵衛喜多八で、日本橋から京の三条まで、原作の主要場面をうまくつまんだ上に、偽の(しかし本物より若くてモテモテの)弥次喜多を絡めたり、盛りだくさんで見せたのが私の見た弥次喜多中の最大作。現坂田藤十郎の当時扇雀と、前々月に三代目猿之助を襲名したばかりの現猿翁が偽の弥次喜多、後の富十郎の坂東鶴之助が原作通りのゴマの灰(そのきびきびしたセリフと取り回しは今も鮮やかに耳朶と目に残っている)、梅幸や後の芝翫の当時福助も三島女郎や何かの役でつき合ったり、勘弥とまだ友右衛門だった先の雀右衛門が十辺舎一九夫妻で登場、借金取り立てに詰まって「膝栗毛」を書くこととなり、取り敢えず書いた分が第一幕となって舞台に乗り、その間に書いた続きの分が第二幕となり、更に書き足して何とか三条大橋まで辿り着くという趣向で、これは作者の中野実の実体験だろうというゴシップが流れたが、この勘弥の一九がまるで本物の一九を見るような傑作だったり、弥次喜多が田舎芝居の一座に紛れ込んで『宮城野信夫』を演じたり(松緑の信夫である!)、いま思えばとんでもない贅沢とも無駄遣いともいえる。当時これを褒めた劇評は見なかったような気がするが、むかしから、「弥次喜多」の芝居というのはそんなものだったともいえる。(思えばこの時の昼の部に、梅幸が『有馬の猫』を出したり、昼の切りに、現・雀右衛門の駄右衛門、10代目三津五郎の弁天、現・又五郎の忠信、現・時蔵の赤星、18代目勘三郎の南郷という、かの「ちびっ子五人男」が出たのだった。)

第3部の鶴瓶の新作落語を勘九郎が願って新作したという『廓噂山名屋浦里』は、他愛ない話をうまくまとめて悪くないが、浦里といえば相手は時次郎、『明烏』かと思うと、内容はむしろ紺屋高尾の話のようなのが気になるが、マ、いいか。それよりも、鶴瓶の倅という駿河太郎(この芸名の由来は何だろう? 伊勢五郎だの亀井イチローだのという兄弟分でもいるのだろうか?)が特別参加で出演するのはちっとも構わないが、そのことを、筋書その他で説明がないのは何としたことであろう。巻末の出演俳優の顔写真にも、仕切りをつけるとか何かしないと、アマチュアの大関を本場所の土俵に幕の内力士として乗せるようなものだ。

蛇足として、橋之助の『土蜘』について、A氏B氏C氏のやりとりを小耳にはさんだのがちょいと面白かったので、お三方には無断だがその一部を紹介しておこう。

A:橋之助の役者ぶりの立派さというものはもっと評価されていいと思うんだけどね。

B:それはわかるけど、呼吸や間がひとつしかないから芸の妙味というものがないのが面白くないなあ。

C:橋之助みたいな役者って、大正時代頃だったらよくいたんじゃないかという気がする。こまかい心理だのなんだのより、押し出しとか役者ぶりとかで売るような。

A:そのころなら名優で通ったかも知れないね。いっそこのまま押し通して長生きすると、古風な役者として珍重されるようになるかも知れない。

C:なまじ器用に上手くならない方がいいんじゃないかなあ。

B:そうですかねえ。

というのだが、穿ったような、一部頷けるような・・・

 

8月×日 元西鉄ライオンズの豊田泰光氏が亡くなった。81歳というお歳の上は、稲尾・中西と共に西鉄黄金時代の強打の遊撃手豊田としては不足はないかも知れないが、後半生の評論家としての豊田氏のファンとしては,今少し続けていてほしかったという思いが残る。たまたま同じ日経新聞という土俵を、しばらくの期間ひとつにしたというご縁は、こちらが一方的に思っていることで、あちらはご存じないことだったろうが、毎週木曜日の朝刊につい先ごろまで続けていたコラムは、いわゆる元野球人の文章とは類を異にしていた。つまり、野球ということを抜きにして愛読するに充分だった。野球以外のことも俺は知ってるぞ、などということは見せないが、豊田氏の目は、野球以外というか、野球の背後にあるものに届いていた。その遠近感覚が見事だった。遠近法の中に野球が捕らえられていた。そこを読むのが楽しみだったし、その呼吸をひそかにパクってきたつもりだが・・・

 

8月×日 去年の第一回に引き続き、尾上右近の「研の會」第二回を見る。今年は『忠臣蔵』五・六段目に『船弁慶』と意欲満々の音羽屋路線だが、踊りだと年齢を忘れさせる芸の大人びた右近も、勘平となると、俊秀であることに変わりはなくとも、やはり若手であることが見えて、こちらとしては実は少しホッともする。米吉のおかるもそうだが、少しうるさく感じるのは、学んだことをすべて出そうとするからだろう。それは、秀才・優等生であることの証しでもあるわけだが、厳しく言えば、ある意味で、芝居よりも仕事の方が優先してしまうからとも言える。

染五郎が定九郎と不破をつき合ってここでも如才がないところを見せる。種之助の千崎は父ゆずり、菊十郎与市兵衛はいかにも菊五郎劇団、菊三呂のおかやはどうしても理が勝つことを咎めるより、神妙につとめたことを言うべきであろう。吉弥のお才が我童よろしく京都弁を遣うのは異論もあろうが、我童を思い出させたというだけでも大したことには違いない。同様に、橘太郎の源六が鯉三郎を思い出させたと言ったら、褒めすぎかもしれないが、ご本人の目にある仕事をした結果に違いない。

ところで、六段目が終わってロビーへ出ると途端に「ありがとうございます。今日初めてのお買い上げです」という元気な声が聞こえた。見ると米吉が、右近のサイン入りのTシャツを売っているのだった。ついさっき祇園へ売られていった筈のお軽がグッズの売り子になっていたのだった。

『船弁慶』は、(こういうことは若手の勉強会に言うべきではないかも知れないが)現在すでに第一線級であることは間違いない。静に一段の嫋々たる風情とか、知盛に疾風の如く来たって迅雷の如く去る幽玄味とか、言わなくともやがて一層、磨かれるに違いない。

自身の『翔の会』を翌日に控えた鷹之資が義経をつとめ、父ゆずりの見事な声を聴かせる。天性でもあろうし、日ごろの精進の賜物でもあろう。体もすっかり大人になって、これも父そっくり。ここまでくれば、そろそろ展望が開けてくる。

8月×日 その鷹之資の『翔の会』を翌々日に見る。こちらは既に第3回、国立能楽堂でするのは、もっぱら、歌舞伎よりその基礎となる修行として、片山九郎右衛門師等の教えを受けているからだ。これぞ亡父の遺してくれたまさに七光り。今回も、『杜若』を仕舞として舞い、『助六』を素踊りで踊る。妹の愛子が(中学生だそうだ)『汐汲』を素踊りで踊る。顔は妹の方が目元パッチリして父そっくり。

8月某日 歌昇・種之助兄弟の「翔の会」第二回。「研の会」にも種之助が千崎で、米吉がおかるで出ていたように、相和しながら進んでゆくという関係と見える。昨年から始まった二つの会は世代交代の大波の、一番新しい波濤であろう。今回は『菅原』から「車引」と「寺子屋」。この『車引』がまさにフレッシュという英語を使った評がぴったり。目いっぱい、きっかりとやる。そうでなければこういうものをする意味がない。二重丸を進ぜよう。『寺子屋』だって体操競技のような採点法でいけば同じぐらいの点数がつくわけだが、地芸が物を言う「芝居」となるとどうしても点が辛めがちになるのは「研の会」の五・六段目の場合と同じこと。それにしても、兄と弟、力量一杯隠しも何もなく、真正直に出るところまでお父さんにそっくりだ。

8月某日 国立劇場の歌舞伎音楽研修発表会の「音(ね)の会」と、おなじみ「稚魚の会・歌舞伎界合同公演」に、今年は劇場開場50周年というので、修了生中の大ベテラン、鴈之助、京蔵、京妙が「音の会」では『合邦』、「合同公演」では『女車引』を出したのが、どうして皆さんもっと見に来ないのだろうと思う見ものであった。前者は鴈之助の玉手に京蔵の俊徳丸、京妙の浅香姫に新蔵の合邦、後者は鴈の春、妙の八重、京蔵の千代。もう一つ『寿式三番叟』で蔦之助の三番叟が舌を巻かせた。気合と躍動感は息の良さがあればこそ。「いい顔」をして見せる役者ぶりのよさは猿之助を思わせ、猿之助よりいい男である。左字郎と言ったころから目につく存在ではあったがこれは収穫であった。

このほか升一の権太、春希のお里、桂太郎の維盛等々で『すしや』とか、建て前で言うのではなく、御社席など、もう少しか顔ぶれが揃ってもいいのではあるまいか。

 

8月某日 帝劇で『王家の紋章』なる連載40周年という超大大作漫画のミュージカル化第一作を見る。近々新橋演舞場でやる『ガラスの仮面』もそうだが、こういう超大作が漫画という形式で延々と書き継がれているという事実には、ただただ驚かされる。筋の結構、人物の配置、人情・心理のつかまえ方、史実の渉猟や取捨の仕方等々、かつて『大菩薩峠』だの『南国太平記』だの『富士に立つ影』だの『照る日曇る日』だの『宮本武蔵』だの、といった錚々たる大衆文学の大作が書かれていた、大正から昭和初期という時代を連想させる。(もっというなら『里見八犬伝』だって『巌窟王』だってそうなわけだが。)違うのは、あちらの読者は男だったのが、こちらは少女(だった人も40年読み続けてアラ何とかになっているわけだが)という点だけで、上に挙げたような数々の特質はどれも、かつて、たとえば谷崎潤一郎が直木三十五に対して言ったようなことがそのまま当てはまる。まあ、かの『ベルばら』だって同じことだが。

さてそのミュージカル版だが、ごく発端部分だけらしいが、それでも正味2時間半程度にまとめるにはかなりの手際を要したであろうことがよくわかる。かつての大衆文学は、折から新時代の大衆娯楽として時流に乗った時代劇映画や、日本演劇史上ほとんど唯一の例外として男性客を基盤に成立した劇団である新国劇に豊富な題材を提供したが、大歴史劇としての少女漫画もこれからの試みとして、演劇界が当然開拓して然るべき沃野であろう。

出演者ではファラオの姉アイシスという悪女になる濱田めぐみのキャラの立ち方が抜群であった。やはり舞台で鍛えた俳優ならではのもので、シアタークリエで見た井上ひさしの『頭痛肩こり樋口一葉』に起用されたテレビ育ちの女優の、ムキになって懸命に力演するのが気の毒になったのと対照的である。(テレビではなかなか達者な女優と見えていたが、それとこれとは別の話である。)

 

8月×日 オリンピックが終わってようやく静かな(というほどでもないが)日常が戻ってきたのは何よりである。オリンピック自体が嫌いなわけではない。まあそれなりにテレビ観戦もしたし、それなりに楽しみもした。ただ、レポーターやアナウンサーのけたたましい歓声(嬌声)やら絶叫やら、放送が始まるたびにキミダケエーノーというテーマ曲が耳に飛び込んでくるたびに、生理的な疲労を覚えたのは確かだ。

前にも書いたことがあるが、私の考えではオリンピックとは要するに世界大運動会であって、いろいろな種目のある中で煎じ詰めたところ、駆けっこに尽きる。スポルト=遊び、というものの最も原初的で、最も帰一的なものは駆けっこだろうし、結局、それが一番面白い。もっとも、ゲームとしては単純すぎるから、普段、金を払って陸上競技を見に行こうとはあまり思わないが、オリンピックという名の世界大運動会では、原初的にして帰一的な本質がむき出しになって見えてくるから、実に面白い。小学校の運動会でもハイライトは紅白リレーであるように、世界大運動会でも精華は400㍍リレーということになる。

というわけで、始まる前から一番期待し、予期以上の成果をあげたのだから、400㍍リレーの銀メダルに、私にとっての今回のオリンピックは尽きることになる。日本の陸上短距離での銀メダルは並みの金メダル100個分ぐらいに相当するという私の暴言的持論はともかくとして(そもそも104年前、日本が初めてオリンピックに参加したとき、選手はマラソンと100㍍と二人だけだったのだ)、4人の選手の走りには充分に満足した。

駆けっこだけに特化するのは偏狭だというなら、オリンピックは世界大運動会より寛永御前試合の現代的国際版であるとも考えられる。千代田城吹上御殿の徳川家光将軍の御前で、全国から雲霞の如く集まり来たった豪傑たちが、剣術やら棒術やら鎖鎌やら、さまざまな得物を取って秘術を尽くすのが寛永御前試合なら、将軍に相当するのは世界中の名もなき観客たちであり、その前で世界中から集まった豪傑あり、美女あり、さまざまな選手たちが、水中にもぐって統一行動(シンクロ)をしたり、リボンを放り投げては受け止めたり、こんな種目があったのかと驚くような、奇々怪々な(と言ったら失礼だが)超越技巧の限りを尽くした技や演技を繰り広げて競い合うというわけだ。

(蛇足をひとつ)女子ピンポンの中学生の天才少女には驚かされたが、「美誠」と書いてミマと読むキラキラネームにも驚かされる。おそらく、彼女にあやかって「誠」と書いて「マ」と読ませる女の子が続出するに相違ない。まあ、名前の読みに関しては、国語はとっくに破壊されているのだから、今更でもないわけだろうが・・・

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随談第580回 BC級映画名鑑・第2章「BC級名画の中の大女優」第2回(通算10回)高峰秀子『朝の波紋』

(BC級映画名鑑第2章の第一回として原節子の『東京の恋人』を載せたのは3月2日付の随談第569回だった。月一回程度の割りで連載するつもりでいたのが、心ならずも随分間が開いてしまった。これがホントの間抜けというところだが、遅ればせながら再開することにしたい。)

(1)

『朝の波紋』は前回にも書いたように、昭和27年5月1日封切りの新東宝映画だが、この日は、戦後史に刻される惨事の一つとして知られるメーデー事件の当日である。つい三日前の4月28日に講和条約が発効して日本がGHQの占領状態から解除されたことをシンボリックに示すマイナス札のような出来事だが、高峰秀子の笑顔が明るい『朝の波紋』にも、終戦から七年という時点での東京の街の様子が丹念に映し出されている。それは同時に、この映画の人物たちがそれぞれに戦後七年という歳月を生きてきた背後を暗示するかのように彩っている。

高峰の役は英語が堪能なのを生かして中堅どころの貿易商社に勤務、社長秘書として重用され、当時のキャリアウーマン(など言う言葉は、当然、まだなかったが)として恵まれた立場にあるが、伯父の家に下宿住まいをしている。彼女の身寄りについて映画は詳しい説明もなく、深入りもしないが、親兄弟はなく、恋人や婚約者もいない孤独の身であることが戦争の後遺症として暗示される。

伯父の家にはもう一人、彼女には甥に当る居候の少年がいて、父親は戦死、三宅邦子演じる母親は、箱根の旅館で、子供の手前は事務の仕事をしていると繕いながら実際は女中をしている。元はれっきとした中流家庭の主婦だった様子が、三宅邦子のたたずまいを見ればおのずと知れる。(『麦秋』をはじめ小津安二郎に重用された三宅だが、戦前以来の東京の中流家庭の匂いを彼女ほど自然に身に着けている女優はいないだろう。その雰囲気とたたずまいは、この『朝の波紋』でも生かされている。女中をしていても元は「いいとこの奥さん」なのだ。昭和20年代というのは、戦後の混乱と全くと言っていいほど等価に、戦前が生き続けていた時代であり、それは社会のさまざまな面について言えることだが、当時小学生だった私などでも、三宅邦子の漂わせるのと同様な雰囲気をもった中年女性の幾人かを、身近な懐かしさと共に思い出すことが出来る。)

少年は母の言葉を信じつつ、寂しさを紛らわせるために、なついてきた野良犬を飼おうとするが、伯母にきつく叱られる。この伯母の役の滝花久子も、中流の上という家庭の主婦がぴたりとはまる雰囲気をもった女優である。少年の飼う野良犬が、近所から靴を銜えてきたり、小トラブルを次々と起こすことがきっかけとなって、通勤の行き帰りに付近を通る青年と親しくなる、という形で池部良が登場し、高峰と接点ができる。住所を当てに訪ねると、近くの、かつては広大なお屋敷が爆撃で廃墟となった一隅にわび住まいをしていることが分かる・・・といった経路をたどって、この人物の風貌、ひととなりが次第に姿を現してくる。元は著名な富豪の御曹司の身でありながら、いまは貿易会社の一介の社員をしながら泰然としてわが道を行く、知的なハンサムでありながらヌーボーとした趣きの男を演じて池部良を置いて他には求められない。(単に茫漠としたヌーボー男なら珍しくないが、育ちの良さと知性という二点がカギとなると、候補者はたちまち激減する。)『青い山脈』では旧制中学生、それよりはやや屈折はあるが『山の彼方に』では中学教師と、石坂洋次郎原作の青春映画で見せたのより、もう一味ふた味、懐の深さのある人物で、この辺りが日本映画の二枚目俳優中にあって他に真似手のない池部の真骨頂というべきであろう。(後年、任侠映画のインテリやくざとして効いてくる下地でもある。)

高峰をめぐるライバルとして、同じ会社に勤める岡田英二扮する自信家の青年がいる。年配は池部の役と同じぐらいだが戦争体験についてはわからない。父親が有力な人物で、古臭く卑小な日本を捨てて海外へ進出することを目指しており、ついては、英語も堪能で外人バイヤーとも渡りあえる有能な女性として高峰を伴侶にふさわしいと考えている。この種の男は、現代にも、いつの時代にもいるが、やがて「もはや戦後ではな」くなる日をいち早く視野の内に入れようとしているという意味で、昭和27年という時代を映している。

木村功と共に劇団「青俳」を代表する俳優として、この時代の日本映画にあっての一存在であった岡田だが、『また逢う日まで』とか『ここに泉あり』とか、憂いに沈んだ良心的インテリか、それを反転させた悪役めいた人物か、いずれにせよ影のある人物というのが役どころとしてイメージとなっている。ひとつ例外的なのは、『朝の波紋』と同じ年の作品で成瀬巳喜男監督の佳作として知られた『おかあさん』で、気のいいパン屋の倅をしているのをもう一方の側に置くと、『朝の波紋』の少々バタ臭い欧米指向の裕福な家庭に育った青年という役どころにいかにもふさわしいことが分かる。岡田青年は、知的な自負をちらつかせながら高峰に接近を試みる。ある米人バイヤーをめぐるいきさつから、同業の他社の社員である池部と敵対する形で関わりが出来ると、仕事一途というより、少々投げやりですらあったり、応召中に戦地で感染した難病を抱えている冴えない同僚のためにひと肌脱ごうとしたりする、業績や出世を度外視したような池部の行動に冷笑的な目を向ける。

映画は、そういう二人の男に挟まれて、才知ある聡明な女性が、戦後という時代を如何に生きてゆくかに、次第に焦点が絞り込まれる。一種のビルドゥングス・ロマンとしての側面を女性を主人公としたこの時代の映画は強く持っており、つまりこの『朝の波紋』での高峰秀子は、新しい時代の若い女性の生き方を切り開く、一つのシンボル像を描いたことになる。このころから、高峰に限らず、彼女の後に続く形で戦後デビューした当時の代表的な若い女優たちは、それぞれにこうした作品で、時代を先取りするような形で若い女性観客の共感を得ていくことになる。それもまた、昭和20年代という時代の匂いなのだが、戦前に子役として活躍し戦中戦後に適齢に達した高峰は、この時期、他の戦後派女優たちの先頭に立つ形になっていたことが分かる。この後、『二十四の瞳』を大きな転換点として後続の女優たちと一線を画す道を歩くようになる、その分岐点としての意味も、この『朝の波紋』は持っているように見える。

原作は高見順が前年に朝日新聞に連載した小説で、新聞連載小説全盛のこの当時、各紙は当時第一線の作家に執筆を依頼し、各映画会社は連載が終わるのを待ちかねるように映画化した、これもその一つだった。スター女優にとっては、こうした作品で評判を取ることが更なるステップともなる。前回、原節子の主演作として挙げた『風ふたたび』も『白魚』も、前者は永井龍男、後者は真船豊の新聞連載小説から、同じ昭和27年に映画化されたものだった。(前年の、原の出演作中でも屈指の名画として知られる『めし』も、林芙美子が朝日に連載中に急死、中絶した新聞小説の映画化だった。)

池部の人となりを更に知るよすがとして、ボートレースの場面が、やや典型的なきらいはあるものの(戦前以来、映画に登場する大学スポーツといえば、ラグビーか、でなければボートレースと相場が決まっていた)、五所平之助監督らしいすがすがしいリリシズムがそれを上回って快い。

ある日曜日、池部は出身大学のOBとして、当時は隅田川で行われていたボートレースに選手として参加するのに高峰を誘う。ボート部の先輩として上原謙が特別出演風に登場するが、むしろ自分の主演作よりもこういうときの上原はちょっと乙である。終了後浅草の泥鰌屋で打ち上げをするシーンがあるが、戦後7年経ってもまだ戦災で焼け野ケ原になった後遺症をあからさまに見せているのを知らされる。(選手仲間で泥鰌屋の息子という好青年を演じる沼田曜一も、その後も新東宝に所属したためもあって遂に地味な存在のままで終わってしまったが、清潔感のある好俳優だった。後には、ときにアラカン主演の新東宝時代劇でひと癖ある役をしたりすることもあったが。)

一方、高峰は商社に勤める仕事を通じても、海外向けに輸出される日本の製品が作られている現場の実態を出張先で見て、それまで知らなかった社会の現実を知り、そのことによって、岡田が思い描いている展望がエリート意識の限界内に留まり、如何に現実を見ようとしていないかを知る。どんなに卑小でみみっちくとも、それが日本の現実なのであり、岡田のような人間はそこに目を向けようとしない。

映画の後半部は、学校の遠足で行った箱根で会った母親の現実を知り衝撃を受け、さらに飼っている野良犬を捨ててくることを伯母に強く命じられた少年が家出をし、行方が知れなくなるのを、池部の協力を得て尋ね回るのを通じて、互いに相手を知ってゆく。同時に、池部は少年の母親が自分の勤める会社に事務職として採用してもらえるよう、上司に働きかける。

原作の高見順としては、新聞に連載する、当時の言葉で言う中間小説(純文学と大衆文学の中間という意味であろう)としての佳作だが、その清々しさと、前に言った五所監督の大人の瑞々しさ、それに若き高峰秀子の明るい清潔感とがマッチした、好もしい佳品というのが、この作品の映画史上での位置づけということになるだろう。

この後高峰は、『二十四の瞳』というやがて伝説的存在となる「名画」を境に、大女優として別格的存在になってゆく。それと軌を一にするように、新任間もないころの大石先生の笑顔を最後にして、高峰の顔から笑顔がなくなって、やりきれないわ、とでもいうような憂い顔、うんざり顔のオンパレードになってゆく。後半生の大女優高峰秀子はうんざり顔の名優といっても過言ではない。 名女優高峰秀子にケチをつける気持ちは全くないが、私にとっては、それは一つの大きな喪失でもある。『銀座カンカン娘』のあの明るい笑顔こそが、私にとっての高峰の原点である。(そういう意味で、最近知ったことなのだが、あの『サザエさん』を、高峰秀子でという企画が、江利チエミの『サザエさん』よりはるかに前にあったというが、惜しいことをしたものである。江利チエミ版は江利チエミ版として、もっと原作の4コマ漫画のエスプリを生かした『サザエさん』が高峰バージョンとして実現していた可能性がある。)

『朝の波紋』は、高峰秀子のそうしたさまざまな面を万華鏡のように見せる、彼女の女優人生の岐路に立つ、興味の尽きぬ佳作なのだ。

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随談第579回 7月の話題あれこれ

●昭和8年生まれの天皇が生前退位の御意向というニュースが話題を呼ぶ中、永六輔だ大橋巨泉だと、昭和8年、9年生まれという世代が相次いで世を去ってゆく。こういう名前と絡みついている記憶はもちろん数々あるが、方々で書かれ語られている上に今更私がしゃしゃり出てここに書き並べる必要もあるまい。(こういう人たちの事績についてなら、現役テレビ人新聞人に任せておいても遺漏はない。私がなすべきは、もしかしたら他に拾う人がいないかもしれない落穂を拾うことである)。わが身と重ね合わせての個人としての思いに過ぎないものが、ほぼ悉く社会史・世相史的な意味合いを持ってしまう、というところにこの御両人のような存在の特性がある。その意味で、永六輔はラジオ三分のテレビ七分、巨泉は100パーセントテレビ、という違いが、私の個人史の中で彼らの持つ意味にもニュアンスの違いをもたらしている。ラジオはイニシエーションの季節に私の中に種子を撒いたものであり、テレビはその後に襲ってきた大津波のようなものだからだ。

二人の蔭に、ザ・ピーナッツの残る片方がひっそりと逝ったというのも、昭和30~40年代というテレビの時代の縮図のようだ。

●という波がやや静まった所へ中村紘子の訃報が入ってきた。時期的には、私が大学に入ったころ、中学生だった彼女が華々しく話題の人となったのだったから、ザ・ピーナッツと世間的デビューはほぼ同じころ、というタイミングになる。別に熱心な聴き手であったわけでもないが、やはり相前後して鮮烈デビューした小澤征爾と言い、あのころからクラシック音楽の世代と人種が変わった、そのシンボルとして何となく懐かしさと親しみを覚える。それにつけてもだが、同じヒロコでも他のヒロコさんたちとひと味違って、「紘子」というのは昭和10年代生まれのシンボルのような名前で、むかしチョイ惚れしていた同級生にもこの名前の女性がいたっけ。典拠はもちろん、八紘一宇である。

●大相撲の名古屋場所が終わって、まあ、荒れ場所らしい面白さはあったが(とはいえ、終盤の日馬富士はその真骨頂を示すものだった。あれは高く評価されて然るべきである)、一に安美錦、二に豊ノ島という私にとっては一番面白い二人が二人とも、同じアキレス腱断裂という不祥事で全休というオソロシイ事態になってしまった。来場所もおそらく休場だろうから、さ来場所には十両はおろか幕下陥落まで覚悟しなければなるまい。年齢で力が衰えてのことなら十両陥落となる前に引退するところだろうが(格から言って十両に落ちてまで取る力士ではない)、事情が事情だから、幕下からでも再起することになるのだろう。(宝富士が金星・銀星を挙げてインタビューを受けるたびに安美錦の情報を漏らすのがなかなかよかった。お陰で、わずかながらも怪我の様子を知ることが出来た。)

それにつけても、照の富士が先場所わずか2勝という惨状の後、今場所は膝の具合も多少よくなったかと思わせる面もあったが、結局は辛うじて勝ち越しという惨状に終わった。何故、手術をして完治の上、再起するという道を選ばないのだろう。仮に二場所連休して大関陥落しても、三場所目に10勝すれば復帰できるのだし、もっとかかったとしても、完治しさえすれば照の富士の実力なら早晩、大関復帰は難しいことではなかろうに、中途半端な出場を続けているのは、本人の意思なのか親方の意向なのか、いずれにしても不可解なことである。膝の怪我のために大関横綱を断念したり(安美錦でも、このほど引退した若の里でもそうだろうが)、仮になっても凡庸な成績で終わってしまった先例はゴマンといる。あれだけの逸材を無下に終わらせてはならない。

●相撲の話題ではもうひとつ、新方針となった春場所以来、立会いのやり直しがあまりにも多すぎるのは感興を殺ぐこと甚だしい。さしものNHKさえ、千秋楽の放送でこの問題を取り上げて、アナウンサーが、個人の意見ですがと断った上だが、呼吸が合ったら立会い成立と認めていいのではないかと言っていたのは、ちょいとした勇気ある発言と言っていい。まったく同感である。今場所の白鵬=稀勢の里戦など、立会いやり直しが明らかに勝負の帰趨を左右したし、先場所だったかその前の場所だったか、一旦勝敗が決した後にやり直しとなって、さっき勝った方が負けになってしまった。しかもやり直しの理由が、相手がキチンと手を付かなかったからというのでは、本人は元よりだろうが見ているこちらも釈然としない。北の富士氏も言っていたように、行司によって、また審判員によってばらつきがあるし、そのくせ、二度やり直して三度目となると、さっきよりひどいと思うようなのでも認めてしまうケ-スも多々ある。手を付く立合いを励行させるのはいいが、呼吸が合っていれば認めるようにしないと、それもすぐに止めるのならまだしも、取り進んでから、更には勝負がついてからやり直しというのは、感興を殺ぐだけでなくそもそもぶざまである。運んできた料理を、客が箸をつけてから、ア、間違いでしたと引っ込めるようなもので、度を越せば、良心的なつもりが逆に非礼ともなりかねないことに、協会は思いを致すべきである。

●都知事選の候補者が21人もいるのにビッグな3人のことしか報道しないのはおかしい、という声がようやく高まったと見え、選挙戦もお終い頃になってから、申し訳のように「泡沫候補扱い」の中からめぼしい幾人かの選挙戦の様子が報道されるようになった。選挙公報なるものを、先日、じっくり読んでみたが、なるほどなかなか面白い。広報に書いてあることに限るなら、「ビッグ3」も他の18人に抜きん出るほどのことは言っていないこともわかった。

かつては泡沫候補のなかに面白いヒトがいろいろいたものだが、衆院選が小選挙区制になってからとんとレベルが低下してしまい、残念に思っていたところが、今度は相当盛り返したのは結構である。前知事の辞任騒ぎの過程で、コントを見ているような問答を大真面目でやっていたのが、反面教師的に刺激を与えたのかもしれない。(かの号泣県議の仕草・表情に前都知事のセリフをつけたら、絶妙のコントになったであろう。)

若い世代の投票率が低いのが話題となっているが、選挙を身近に感じさせる上で泡沫候補のレベルが如何に影響を与えるか、私は自分の子供のころの実感に照らして断言できる。小学生だった私が、選挙に、ひいては大人たちの作っている社会に興味を持つようになったのは、面白い泡沫候補がそれこそ多士済々、保守と革新とを問わず、ヘンなおじさんから憂国の士に至るまで、多種多様にいたからであると言っても過言ではない。(かのノンキ節の石田一松が選挙カーの上で演説をしている姿を見たのは、いまなおよき思い出である。もっとも石田一松は実際に当選もしたから、泡沫候補の域を抜いていたとも言えるが。)

昭和20~30年代、何故面白い泡沫候補がたくさんいたのか? 曲がりなりにもせよ、民主主義というものを誰もが実感できていたからだと、今にして思う。自民党の長期安定政権が確立するとともに、泡沫中の名物男たちは老化し、新陳代謝も行われなくなってしまった。代って、いわゆる70年代の過激派学生たちの時代になるのだ。(当時の巨泉の大当たり番組に『ゲバゲバ90分』というのがあった。)とどめを刺したのが、先にも言ったように、衆議院が小選挙区制になって、「無用の用」を容認するゆとりが失われたことである。

それにつけても、過日の参院選の開票速報の放送開始の冒頭、NHKが如何にも得意げに、出口調査に基づき開票前でも当確を出しますと喧伝していたのにウっとなった。これまでは、いくら何でも開票が始まるまでは遠慮していた筈だが、遂にここまで来たかという思いである。あれでは、お前が投票しなくたって選挙の大勢に関係ないぞと言っているようなものではないか。その一方で、若い世代の投票率がどうのと議論する矛盾の滑稽さを思わないのだろうか。そもそも、一秒の何分の一でも早く結果を知ることを、候補者とその関係者以外、誰が必要としているのだろう。

●こんどはNHKをほめる話。都知事選の前日に放送のあったドラマ『百合子さんの絵本-陸軍武官小野寺夫婦の戦争』というのが思いがけない収穫だった。有能な諜報員だったが軍部主流派から疎んじられてストックホルム駐在というやや閑職に置かれながら、ドイツの対ソ戦への動きや、ヤルタ会談で連合国間に交わされた密約など、日本の敗戦を決定づける上で重要な意味をもつ情報を入手、日本に情報を送るが無視されたという陸軍武官夫妻を描いた作だが、毎年終戦記念日が近づくとこの手のドラマが作られるのが恒例で、さほど期待もせずに、むしろ夫の役を市川中車、じゃなかった香川照之がするという興味に引かれて片手間気分で見ていたのだが、途中から仕事の手を止めて画面に見入ることになった。善良なメイドも親しい友人もスパイとして警戒しなければならない日常の中、夫婦の対話も立聞きされないようにレコードの音量を最大にして交わす。ベートーベンの第9シンフォニーというのは、こういう時に絶好の曲であり、同時にそれが、時代を語り、ドラマのテーマ曲として音楽自体が癒しともなるという、二重三重の効果が秀逸だった。

面白かったのは、戦後30年経った頃、どこかの雑誌の企画で、かつての同僚武官たちの座談会が行われ、出席したものの、まるで同窓会みたいな雰囲気でそれぞれ勝手な法螺を愉し気に吹き合っているのを見、違和感を覚えるという場面で、ものの5分もあるかないかだが、出席者の元武官の役を演じる面々がなかなか上手い。苦心して送ったヤルタ会談密約の報も、出席者のひとりが、そういえばそんな話も聞いたことがあると取り繕うような感じで証言してくれたのが関の山、それ以上の関心を示す者もない。よくいわれる日本の組織の、組織人の無責任体制、無責任心情の、これもその一例というわけだ。

こういう善良な人物を演じるときの中車、ならぬ香川照之というのは、なんとなくもったりとして、これは案外にも猿翁とよく似ている。スーツ、というより背広の着こなしといい、誠実に過去を引きずったがために時代に置いて行かれた男の感じがよく出ている。薬師丸ひろ子の、のちに『ムーミン』の翻訳で知られることになる夫人役も、あの時代の誠実で聡明なアッパーミドルの女性の(こういう場合は「婦人」というべきか)感じを、かなりよく出している努力にも感心した。

●ぐずぐずしている間に都知事選は終わり、千代の富士が死んでしまった。前者の経過と結果を一言で言えば、女は度胸、男は姑根性、でなければ据え膳食った律義者の父さん、でもなければお人よしの暢気なパパ。当世社会の縮図と言うところか。小池氏の真価はこれからのお手並み次第、鳥越氏は晩節にべたりと味噌だれのシミをつけてクリーニング代を無駄づかいし(あれなら石田純一の方がマシだった?)、増田氏は少しは有名になった分、得をしたからご本人の±はゼロだが、普段の会見ではにこりともしない官房長官があんなにべったりくっついて、愛嬌を振り撒いていたのが真の敗因と悟るべきであろう。

●千代の富士についてはいずれゆっくり書きたいが、投げの切れ味と豪快さは初代若乃花以来、立ち合いの踏み込みと神速華麗な早業は栃錦以来。見て面白く、小よく大を制す痛快感も両者以来。いまのところ、以後はなし。(朝青龍に一面を偲ばせるものがあったが、残念なことに彼はヒールになりすぎた。)千代の富士がぐいぐいのし上がって行くのと共に、街を歩いていてもテレビの前に足を止める人の数がぐんぐん増え、人気の上昇が空気となって実感されたのをまざまざと思い出す。

 

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随談第578回 7月の舞台(訂正版)

歌舞伎学会の機関誌『歌舞伎-研究と批評』に今年2016年下半期の評を書く約束になったので、新聞評とこの随談と、三通りに書き分けなければならず、それはちょいと難儀な話になる。そこでこれから12月までの向こう半年間は、歌舞伎のことは落穂を拾うに留まることになるかもしれない。と、まずはそれをお断りしておいて…

●帝劇『エリザベート』

花總まりのエリザベートが興味深い。わずかな体の構えひとつで役の位を表す「位取り」の巧さ確かさ、歌舞伎の赤姫を連想させる。序幕の小娘から皇太子妃・王妃・国母・老皇太后となる各段階を年配と共に的確に見せる。大仰のようだが日本ミュージカル史上最高の「赤姫」と言って差し支えない。仕草の手先指先の重み、ぎりぎりいっぱいに身を保ちながら、同時にそれが威厳となる微妙な均衡、ちょっぴり歌右衛門を思い出させる。幼い王女を失う哀しみは政岡を、ゾフィー皇太后の圧迫に堪えるあたりは尾上というところか。

涼風真世のゾフィー皇太后にも位取りの確かさ面白さに芝居っ気が加わり、花總と二人で岩藤と尾上をしたら面白かろう。井上芳雄のトートの時に女性かと見紛うような色気、成河のルキーニの曲者ぶりもそれぞれ上手い。

ダブルキャストのもう一方、蘭乃はなのエリザベート、城田優のトート、香寿たつきの皇太后、山崎育三郎のルキーニも適役でありそれはそれで悪くないが、花總が尾上や政岡をさせてみたいと思わせるような意味での面白みを感じることはない。もっともこれは、花總が特別なのであって、それがないからといって悪いわけではない。

前年以来の新演出は、ミュージカルとしては限界近くまで歴史劇に近づいた骨格を持つようになった。トートとエリザベートの二人の芝居にして、歴史をメロドラマの蔭に埋もれさせてしまっていた従来の演出より、ドラマの骨格が明確になったのは手柄である。一般論として私は照明の暗い舞台は好きではないが、この演出に限っては是認しよう。

エリザベートが輿入れする1853年(即ち嘉永6年、黒船来航の年だ!)、ルキーニの銃弾に倒れる1998年(明治31年である)まで45年間を休憩25分を入れて3時間10分に収めてしまう脚本は相当の力技である。ハンガリーの自治独立を求める民主運動が、半面、20世紀のナチズムにつながってゆくことを示す演出も巧い。ハーケンクロイツの旗の使い方は、帝劇ミュージカルとしては相当「過激」と言える。ダブルキャストのために二回見たが、二度ともこの場面では満場しんとなった。見たのがたまたま、難民問題でイギリスがEU離脱を決めたすぐ後だった、という現実がそうさせた一面もあるが。

というわけで、従来この作品にもうひとつ興味を感じなかった私が、これだけ字数を費やして書くこととなった。

●OSK

今年もOSKの東京公演が新橋演舞場で4日間だが実現した。ダンス一本やりの純粋なレビューはいまやOSKだけ、その存在はますます貴重である。

前にも書いたが、なまじな物語や芝居の要素のない、ひたすら踊り踊り踊り、というレビューの哀歓が何とも言えない。舞台はただただ華やかに、踊り手たちはひたすら闊達に、舞台面も(物語のために、あるいは演技のために)渋滞することなく、次から次へと変転する。簡単な筋のようなものはあってもあくまで踊りの展開のための、いわば扇の骨みたいなもので、それが前面に出てくることはない。ここが肝心なところで、物語が前に出て「ドラマ」になってしまっては、もうそれはレビューではない。(宝塚はその道を歩んだわけだが。)

ラインダンスというのはその極致であって、今度もロケットガールズが飛び出してきてずらりと並んで脚を上げ下げするのを見ているだけで「感動」する。乙女の姿しばし留めむ、と僧正遍照ならずとも歌に詠みたくなる。「無常」ということをこれ以上実感する機会は、我々の日常の中にそうめったにあるものではない。かつてのラインダンス全盛のころは、SKDや日劇ダンシングチームなど、東京にもいずれ劣らぬチームが覇を競っていたものだが、いまや年に一度のOSK公演でしか見ることが叶わなくなってしまった。

(昭和32年7月封切りの松竹映画『抱かれた花嫁』という浅草を舞台にした映画は、この年始まったシネマスコープと称する横長のワイドスクリーンに全盛期のSKDのラインダンスが何度も映るのが壮観だった。松竹蒲田以来の珍名優日守新一が、田谷力三を思わせる往年の浅草オペラの名歌手の役で余人を以て代えがたい存在感を見せるなど、いまは語る人もない知られざる傑作で、いずれBC級映画名鑑に登場させるつもりでいる。)

●東宝現代劇とは、かつて菊田一夫が創設した日比谷の芸術座で数々の舞台を、脇役として支えてきたいわば座付きの俳優たちの集団である。この人たちがいなければ、『がめつい奴』も『放浪記』も、その他の数々の名舞台もなかったのだ。だが芸術座がシアター・クリエに「転生」して以来、この人たちが腕を振るうべき場は失われ、年に一度、地道に続けているこの公演が、その存在を示すほとんど唯一の場となってしまった。こういう芝居、こういう芸が、ついこの間までは当たり前のようにあったのだということを、その舞台を見れば今更のように思わされる。

今回は座のメンバーであり作者としても実績を持つ横澤祐一作の『坂のない街』。三遊亭圓朝の不肖の子として知る人ぞ知る出淵朝太郎の妻と、関東大震災の折56歳で消息を絶ったとされる朝太郎の先妻の子が、昭和30年代の東京に生きていた、という「ありうべき話」を時代の変転の中に展開する「現代の人情話」としてよく仕上がっていて、東宝現代劇健在をアピールするに足る出来と言っていい。冒頭、横澤みずから圓朝役で語って見せるのがなかなか堂に入っている。加藤武亡き今、こういう芸当ができるのは、それだけでも貴重な存在というべきだろう。

●毎夏楽しみにしている新橋演舞場の松竹新喜劇は藤山寛美27回忌追善。と言っても、藤山直美の出演はなく、当代渋谷天外と藤山扇治郎の二人で持ち切るという新喜劇水入らずに水谷八重子が客演するという体勢である。開幕劇の茂林寺文福作の『愛の設計図』など、毎度ながらこの作者のお笑い人情喜劇には感服させられるが、『宝の入船』とか『夜明けのスモッグ』となると、扇治郎がまだ少々荷が重いということもあるが、作そのものの賞味期限も気にならなくもない。『夜明けのスモッグ』は新喜劇十八番の内でもあり、もう少し期待していたのだが、時代との齟齬がひっかかる。昭和26年作の『愛の設計図』が、脚本に手を入れて現代に設定を変えてもびくともしないのを思えば、十八番という角書に捉われず改修手術が必要である。

館直志の傑作『はるかなり道頓堀』で満足を得るが、『愛の設計図』で、女子事務員の醸し出す雰囲気や江口直弥の幹部社員の背広の着こなし(ちょっと手が短い感じ)など、もうそれだけで大阪人種以外の何物でもない空気が漂う。これこそが新喜劇を支える財産なのだ。小島慶四郎が出てきて随分歳を取ったのにびっくりするが、セリフが危ういようでちゃんと辻褄を合わせる芸など、腕に歳を取らせてはいない。

●その他、サンシャイン劇場の『グレート・ギャッツビー』(脚本がよくできている)、シアター・クリエの『ジャージー・ボーイズ』(なかなか見せた。ビートルズのことばかり今どきのマスコミは言うが、その前にこうしたアメリカ産の音楽が流れ込んできて日本人の感性を「洗脳」?していたことを知るべきである)、それぞれ悪くなかった。

『マイファレディ』のダブルキャストは、演技の巧拙はともかく、貴婦人イライザ・ドゥーリトル実&amp;#12789;花売り娘イライザ、という転身の要諦をよりよく踏まえていた分、霧矢大夢の方が私としては好みである。

●新国立の別役実作『月・こうこう、風・そうそう』はカーテンコール一回だけで失礼させてもらった。通路に近い席だったので幸いだった。「サッサと逃げるはロシアの兵、死んでも尽すは日本の兵」というお手玉の数え唄が昔あったが、この場合私はロシアの兵隊式だった。近年私は、このカーテンコールなるものがだんだん、いや、ますます、苦手になってきた。せいぜい三回まででお終いにしてもらいたいと思う。歌舞伎にはカーテンコールのないのが実によき習慣である。(往年の名ヴァイオリニストのヨーゼフ・シゲティは狷介な皮肉屋で、日本の聴衆は常に一日のプログラムの最後の曲が一番気に入るらしい、と言ったそうだと太宰治が書いていたのを思い出す。)

●歌舞伎座は、海老蔵・猿之助という二枚看板でそれぞれの心意気が感じられる具合がよかった。『荒川の佐吉』の海老蔵が成川郷右衛門で出たのなど、その好例である。

海老蔵・猿之助に加えてもう一枚の注目の駒、中車が、『柳影澤螢火』の将軍綱吉役でアル中の中年めいた感じが、なるほどこういうやり方もあるかと思わせたが、筋書の出演者の弁を読むと「若く純粋で世間知らずゆえ常に誰かに頼っている、という方向で演じさせていただければと思っています」と言っている。おやおやと思った。そうだとすれば、あの演技は何なのだろう。新聞にも書いたが、初演のとき先代中車(まだ健在だったのだ)がやった飲んだくれの変なおじさん曽根権太夫を当代で見たかった。あれなら、現代劇俳優香川照之として培ってきた性格俳優ぶりを新歌舞伎の演技として仕活かすことも可能だったろう。それにつけても、歌舞伎俳優市川中車として既に3年、いつも安全運転ばかりでなく、そろそろ、歌舞伎役者としてより大きくなるための冒険をしていいのではあるまいか。昨夏だったか、海老蔵の与三郎に多左衛門を付き合ったが、何故蝙蝠安に挑戦しなかったのだろう。失敗したって恥ではない。お付き合いに多左衛門をして無難につとめたところで、血肉とはならない。あれは海千山千、いろんな役をつとめたベテランがさらりとやって貫録を見せる役だ。今月の相政にしてもそうだ。配役の都合もあろうがいまの中車がする役ではない。少年老いやすし、中年ならなおのこと、一寸の光陰も無駄にできない。うかうかしていると、やがて、中車という変わった経歴の歌舞伎役者がいたっけ、などということにもなりかねませんぞ。

ところでこれも新聞にも書いたが、尾上右近の『柳影』のおさめ、米吉の『荒川の佐吉』のお八重が、すっかり芸が大人になってオッと思わせる。

●国立鑑賞教室の『卅三間堂棟由来』はやっただけの甲斐も価値もあった。魁春はその実力を示したし、どうかと思った平太郎の弥十郎も、やはり大和屋の家には和事の血が流れているのを思わせる好演だった。いかつい体だからといって、決して役違いではない。秀調の進ノ蔵人はまさにその大和屋の和事の味を見せる。この人、もう少し、自分の値打ちを知ってよいのだ。歌女之丞、橘太郎と実力者が揃い、地味だが質実な実のある舞台で、少なくとも私の見た日、高校生の団体もじっと舞台に見入っていたのが印象的だった。

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随談第577回 6月の舞台、その他あれこれ

何かと隙取っている内に既に月末である。早稲田から毎日オリオンズで投げたアンダースロー投手の末吉俊信とか、タイガースの選手だが熊さんというあだ名だった後藤次男とか、ちょうどプロ野球が二リーグになった前後、つまりこちらはまだ小学生のころに全盛だった年代の人たちの訃報が、新聞の片隅に小さく載っているのを横目に見ながら、ゆとりもないままに日が過ぎてしまった。(私は末吉が早稲田のエースだった当時の試合を見た記憶がある。早明戦で、末吉は途中一旦外野を守ったのち、再びマウンドに上がったりした。私は小学校二年生だったが、まだ旧式の電灯による夜間照明がついていた時代の、私にとっては神宮球場で観戦した最も古い思い出である。プロ野球でナイターが始まってカクテル光線の明るい照明設備が後楽園球場に出来るまでには、まだ3,4年待たねばならない。)

象のはな子の死は大きく報じられたが、人の背より小さい子象としてやってきて、名前がガチャ子、これはタイ語で花子という意味だからというのではな子と呼ばれるようになった…と、当時聞かされて、そうとばかり思っていたら、今度の訃報によると、戦時中に殺処分された先代の名を継いだのだという。そうでもあったのだろうが、ガチャ子という、日本人には面白い響きを持ったタイ語の名前は、その後かなりの間お馴染みだったはずだが、そういうことは記事の上におくびにも出されないのはどういうわけだろう。ガチャ子からひと足遅れて、インドから、ネール首相の令嬢の名前を取ったインディラがやってきて、はな子と姉妹のようになったのだが、このインディラのこともひと言も触れられなかったのも、往時を知る者としては物足りない。(当時の情況を知らず、調べて報道する現役記者には無理な注文なのだろうか?)インディラは深夜竹芝埠頭に到着、腹帯をクレーンで吊って桟橋に降ろされるとそのまま、夜の東京の街を上野まで歩いて動物園に到着したという印象的な映像をニュース映画で見た覚えがある。

BC級映画伝も、気になりながら3月に載せてから休載状態を続けているし、『キース・へリング』『パーマ屋スミレ』『熱海五郎一座』、更には『ローエングリン』,鶴沢津賀寿の会等々、書くつもりでいたのが時期を逸して旧聞となってしまったものも多々出来てしまった。以前のように、もう少し小まめに書くようにした方がいいかも知れない。

と、ここまでがマクラ、今月の、といってももうじき7月、ややこしいから「6月の」と謳って、今月の各座のお噂をやや足早に伺うことにしよう。

        ***

6月の歌舞伎座について早くから話題になっていたのは、三部制にして、しかも一等の料金が従来1万8000円なら1万2000円となるべき理屈のところを1万5000円にしか割り引かれないので、これでは事実上の値上げではないか、豆腐屋が値上げをしない代わりに豆腐1丁の切り身を小さくするのと同じであると、非難する者ぼやく者、さていよいよ蓋を開けてみれば客席の模様はどうであったか、さまざまな現況報告が飛び交った幾つかは、私の耳にも届いたが…。

今では当然のようになった昼夜二部制も、元はと言えば戦時中に始まり戦後そのまま固定化されたものだが、戦後の混乱も納まった昭和30年代当時、批評家・ジャーナリスト等々のいわゆる識者で、二部制こそ諸悪の根源と非難しない者はないといってよかった。役者に過重労働を強い、ひいては芸の水準の低下につながるというのが理由だったが、昭和41年10月と11月に相次いで開場した帝劇と国立劇場が、帝劇は&#26478;落し公演を万之助改め当代の吉右衛門襲名公演を松竹と同じく二部制で行い、以後も歌舞伎公演の場合に限り二部制を取り続けたのに対し、松竹歌舞伎に対する批判の意を内在させ、理想主義を建前に掲げた国立劇場が一部制を実施したのは、象徴的だった。一日中のんべんだらりと芝居見物とはけしからんという戦時体制として始まった二部制が、戦後定着したについてはそれ相応の理由があったに相違ない。当世の若者には長すぎるというので三部制に踏み切ったのが1990年以来の納涼歌舞伎、その成功の実績が今度の試みにつながるわけだろうが、筋書巻末の出演俳優の顔写真にローマ字書きのキャプションを添えたり、外国人観客向けの「おもてなし」の、これが第一歩ということか。

         *

さてその三部制のテストケースに『千本桜』の通しというのは、対社会的知名度、三つの物語からなる内容、なるほど三部制のためにあるような狂言だ。染五郎と猿之助が三部出づっぱりで大奮闘という企画もいい。第一部が「碇知盛」、第二部が「いがみの権太」、第三部が「狐忠信」という立て方は、何のことはない、かつて現・猿翁が「知盛編」「権太編」「忠信編」として出したのと同じ発想だが、染・猿コンビがそれぞれ、知盛に典侍局、維盛弥助にお里、静に忠信と取り組み合うという配役も結構である。8月には二人で「弥次喜多」をするらしいが、菊五郎劇団の菊・海老・松トリオに対して染・猿コンビを売り出すというのは、いろいろ面白そうな可能性を秘めている。< 染五郎は第一部では渡海屋銀平実は知盛、第二部では弥助実は維盛、第三部では「吉野山」の静を加役でつとめ、更に所作事「時鳥花有里」にも出る。知盛が予期以上によかったのは、先年、『勧進帳』の弁慶を無理からにでも立派にやってのけた経験が下地になっているのかもしれない。こうした力と大きさが求められる役を手の中に入れたのだ。 一方、適役の筈の弥助と維盛が、悪いわけではないが、もっと良くていい筈、というところに留まるのはここらが難しいところ、和事味が身についていないと、ひと通り、という評の範囲に留まることになる。却って静は悪くなかった。加役でつとめる女形の美しさと面白さがあるのは、かつて色気皆無ながら桜姫など女形を手掛けた体験が無駄ではなかったか。もっともこれは『吉野山』という踊りだからであって、芝居だったらこうは行くまい。 一方猿之助が、お柳・典侍局にお里と女形に取り組むのは、若き日を知る者には昔馴染みに巡り合うような気分にさせる。亀治郎として売り出した昔は女形だったことを知らない人も多くなったいま、こういう形でのアピールは二重三重の意味合いを持つことになる。染五郎の静があくまで加役の女形であるのとはさすがに違うのが値打ちと言っていい。 三役の中ではお里が一番しっくりするのは、柄の問題もあるが娘方として昔取った杵柄でもあるだろう。いかにも権太に向かってビビビビビーとやりそうなオチャッピーのコケティシズムは、当節の女形の中に似合う人がいないから、猿之助を以て当代随一としていい。 お柳と典侍局、いずれもしっかりしているのは褒めていいが、お柳の方がベターなのは、お里がいいのと共通する、世話物に向いた柄の問題でもあるが、芸格の問題でもある。幸雀、京妙、京蔵…と居並ぶ局たちが皆立派なので、典侍局との落差が僅少になるのは、今度の局連中に限らず当節の歌舞伎で一番粒が揃っているのがこのクラスの女形たちであることが理由の一方にある。残る問題は、猿之助自身の今後の精進にかかることになる。 第三部の忠信は、新・歌舞伎座初の「四の切」とあって大張り切り、大車輪でもちろん結構だが、しかしまたぞろケチをつけるようだが、猿翁のあのぐらいの年齢の時、もっと役者ぶりが大きかったのではないだろうか? 『道行』で、定番ではカットされる件を出すなど(染五郎もよく付き合ったわけだが)意欲は満々、昨夏、尾上右近の「翔の会」に付き合って出したのを早速、この機会に活かしたのは猿之助らしい気働きで、本興行ではかつて現猿翁が先の雀右衛門と出して以来ということになる。         *  そうした染・猿大奮闘に、御大幸四郎が第二部で権太をつとめ、梅玉のために第一部「渡海屋・大物浦」の次に「時鳥花有里」なる長唄の所作事がつく、というふたつの「瘤」がついている。というと「瘤取り爺さん」みたいで一見、おじゃまみたいに思われそうだが、 ところがこの二つの「瘤」がさすが永年取った杵柄、なかなか結構、なかなか乙である。幸四郎の権太が登場すると役者ぶりのデッケエこと、それまでの各幕が子供芝居だったように思えてくる。することも無駄な力が抜けて、幸四郎ぶりもここまでくると、この人なりにひとつの境地が拓けつつあるやに思えてくる。 第一部の最後に『時鳥花有里』なる、このたび新作された長唄による所作事でも、梅玉の義経の風情がまさしく年功というほかはない立派さで、ただ立っているだけで憂愁の御大将義経になっている。二枚目役者として、この人もここまで来たのである。ところでこの所作事、物知りに教わったところによると寛政年間の絵本番付を粉本に、それから逆算して作ったという、正直、そう面白いというわけでもない一幕だが、なるほど、東蔵の鷲尾三郎だの魁春の龍田の神女だのを揃えて、知らずに見ればだまされそうな古びた趣きがあるのが一徳。染五郎がここにも現れて四ツ面の踊りを見せるという、はりきり男ぶりを見せる。          * 「すし屋」で彦三郎の梶原、秀太郎の小せん、錦吾と右之助の弥左衛門夫婦等々を見ていると、みなそれぞれに無駄に歳を取っていなかったのだなあと、改めて思わないわけにいかない。(彦三郎の体調はどうなのだろう? かつての東横ホールの若手「忠臣蔵」でこの人のつとめた若狭助や平右衛門がなつかしく思い出される)。高麗蔵の若葉の内侍にしても、これまで何回努めてきたろう。「四の切」で門之助の義経のそこにいるだけで紛れもない義経になっている見事さ。この人たちに通じて言えるのは、皆、本物の仁の持ち主だということである。         * 忘れるところだった。安徳天皇役で初目見得の武田タケル(頭韻を踏むなど、凝っていていい名前だ)が、声よくセリフは明確、品よく可愛く、体の大きさも程よく、ほぼ理想的な幼帝ぶりである。あの役は、セリフがすべて重要で、とりわけ、御製の歌をしっかり言ってくれないと見物は泣くことが出来ず、画竜点睛を欠くことになる。幼すぎては無理、と言って大きすぎては可愛げもなく、そもそも典侍局が抱くのが難しくなるからこれもダメ、なかなか程のいい子役がいない役なのだ。         * 国立の鑑賞教室で橋之助が『魚屋惣五郎』を出しているのが20年ぶりだという。あっけなく時が経つのにも呆れるが、秋の襲名の演目が決まって盛綱と熊谷を出すのだという。この二つを眼目に立てたというのは、時代物役者としての自覚を天下に表明したということか。いよいよこの人の役者ぶりの見事さを思わないわけには行かない。先頃『逆櫓』の樋口をした時の評を『演劇界』に書いて、橋之助を稀勢の里になぞらえたら、なかなか横綱になれない大関に例えるのはどうでしょうと編集の人が心配した。もちろん、そういう意味ではなく、大器ぶりを重ね合わせたのだ。 梅枝がおはまをやっていて、年齢なりキャリアなりにその役になっていることに、改めて驚く。橘太郎が太兵衛を当り前のようにつとめているのにも、意味合いは違うが、ある感慨を抱かざるを得ない。 宗生が体育会系のような三吉だが、これが大人の役者としての第一歩ということか。         * コクーン歌舞伎の『四谷怪談』については新聞にも書いたしまもなく出る『演劇界』にも書いたから、そちらを見ていただくことにしたいが、勘三郎がいなくなったコクーン歌舞伎ということを、しきりに考えながら見た。         * 三越劇場の新派公演が、『深川の鈴』と『国定忠治』の二本立てという、新派の近未来を予告するようなメニューを出した。 『深川の鈴』は川口松太郎の人情馬鹿シリーズ別巻のような作で、いまやこういうものをさせたら波乃久里子は、人間国宝にさせたいようなものだ。ある時代にある土地に生きていた人間の生き様を舞台の上にさながらに生きて見せるのが芸だとするなら、少なくとも、かつての名優とか名人と言われた人たちの舞台や高座に覚えたものと同種類のものを、久里子の舞台に覚えるのは確かである。上手い人は今だって各ジャンルにたくさんいるが、こういう確かな手触りを感じさせるような芸の持ち主という意味で、絶滅危惧種のようなものだ。 それと、いつも同じことを言うようだが、立松昭二の円玉、伊藤みどりのお辰等々、痩せても枯れても芝居の内容が要求するものをちゃんと舞台の上に作り出して見せる新派の脇役たちの見事さ。月之助が新派の二枚目としての仁を備えているのを見ても、その新派加入は、ただに彼一人のためだけでなく、大正解であったと言っても早計ではないだろう。正月以来、新派の人となって、目下、毎試合連続安打を放っている。 その月之助が新国劇十八番の『国定忠治』を新派公演の演目として出すというのは、いろいろな想像を掻き立てるが、忠治ならぬ新国劇の残党ともいえる劇団若獅子の笠原章ほか、れっきとした旧新国劇の面々が脇を固めて、さながら歌舞伎の型物のごとくに「再現芸術」として演じて見せる。老いたる者には在りし日の思い出を、若人には新たなる夢を、とは、かつてコロンビア・トップが懐メロ番組の司会で聴かせた名文句のもじりだが、思えば新派も新国劇も歌舞伎の周辺演劇として発生・発展したもの、それがいまこうして、歌舞伎で育った月之助が新派の舞台で新国劇の十八番を演じるというのも、巡り巡っての歴史の必然ともいえる。少々、肩に力が入っていたのは否めないが、まずは立派なものだ。(辰巳柳太郎の訛りの癖までコピーしているのはおかしいが、いまは目をつぶろう。)こういう役も守備範囲の内に入れられるなら、月之助、いや二代目喜多村録郎によって新派そのものの守備領域が広がることになる。笠原章が川田屋惣次役で、老け役の巧いのにも感心した。『荒川の佐吉』の鍾馗の仁兵衛をさせてみたくなった。 その新派が6月19日の日曜に一日だけ、三越劇場で水上滝太郎の『銀座復興』を上演という思いがけない企画があって、なかなか結構だったことも、最後に書いておこう。終戦直後の昭和20年10月に、六代目菊五郎が一座を率いて帝劇で上演、劇の背景の関東大震災と米軍の爆撃による戦災という現実とが重ね合わされて感動を呼んだという、音に聞えた話で知るばかりだった芝居を初めて見る興味と、いざ見てみると正直なところ、こういうものか、という思いと、両面あるのが率直な感想だが、それはそれとして、よき企画であり、よき舞台であったことは間違いない。かつて菊五郎のやった「はち巻」の主人を田口守、多賀之丞のやった女房を瀬戸摩純など、みなよかったが、ここでも参加の笠原章がかつて尾上鯉三郎のした稲村老人の役で、老けの巧さを見せた。

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随談第576回 今月の舞台から

今年の團菊祭は目玉が二つの、鵺ならぬ双頭の鷹のごとき様相だが、この鷹は、片方は雛鳥、片方はすでに雛を子に持つ親鳥たちである。菊吉両首脳が目に入れても痛くない二歳半の坊やの観客吸引力は、気が付くと真後ろの席に小泉純一郎氏の姿があったり、孫に引かれて團菊祭29年ぶり出演の播磨屋の五右衛門に菊五郎の久吉という大ご馳走の『楼門』が出たりしたのだから、当節の歌舞伎の「陽」の面をシンボライズしたようなものだが、双頭のもう一方の親鳥たちの方はと言えば、陰陽こもごも木漏れ日のごときまだら模様を呈している。

そもそも今回の團菊祭は、寺嶋和史クン初御目見得という慶事を表にしながら、じつは菊之助・海老蔵・松緑三人体制を明確に打ち出したところが眼目であって、昼夜7演目中4演目、それも中心部分に彼等の演目が置いてある。これが軌道に乗れば、菊五郎劇団も11代目團十郎・梅幸・二代目松緑以来の三代がめでたく揃い踏み、團十郎亡き後、菊五郎が背負ってきた重荷も次代へ受け渡す体制が整うことになるわけだ。いや、歳月人を待たず、そうのんびりもしていられない。

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三人顔合わせによる当月の眼目といえば、海老・菊の松王夫婦、松緑に梅枝の源蔵夫婦という『寺子屋』で、幕が切れロビーに溢れ出た途端、とかくを云々する声も耳にしたが私はむしろ、ほっとした、というのが第一の感想であった。まずは神妙につとめているのと、4人の均衡が取れてそれがおのずから、この狂言の骨組みを明確にしていることを良しとする。但し、各人それぞれが役の心理やら情やらを心を籠めて演じ出そうとするために芝居が伸びて劇全体の結構が歪みがちになるのがよろしくないが、もっともこれは、この『寺子屋』という芝居自体が,近代主義的に演じ尽され末端肥大的に心理芝居と化して久しいためで、今回の4人だけの話でもなく、責任とも言い難い。次の機会には、親世代よりもっと前世代の名だたる演者たちの映像なり、音盤なりを、皆で研究してみることだ。

それにしても、アラサーからアラフォー世代の、役の人物たちとほぼ同年輩の彼らが発散するオーラというものには、なかなかのものがあるのは確かだ。海老蔵が首実検で刀を抜いて源蔵夫婦に突きつける團十郎型を見せるのがよく似合う。菊之助の千代がときどきはっとするほど梅幸に似ている。松緑も手堅いマッチョぶりに祖父や父のますらおぶりを彷彿させる。梅枝の戸浪は曾祖父三代目時蔵の若き日はかくもあらむかと思わせるオーソドクシイを感じさせる。というわけで、まずはこれが現時点での彼等の平均値と見る。

もうひとつの三人勢揃いの『三人吉三』大川端となると、疑問がぞろぞろ出てくる。3人とも祖父以来の仁を伝来しているからその点では結構なのだが、まず海老蔵のお坊がすべてのセリフをツラネであるかのように謳うと、菊之助のお嬢もそれに応じるから、二人のやりとりが掛け合いのアリアの如くになる。如何にこの場は様式美を愉しむ場だとはいえ、あれでは、あるいは謳いあるいは世話のセリフになって虚々実々の応酬をする緩急の妙というものが生まれてこない。

お坊とお嬢はあそこで初めて出会って、互いの手の内や人物としての器量の程度を探り合っているのではないのか? その上で、ヤアこいつはなかなかの奴だと互いに認め合うに至るのだ。そこのところを、七五調のセリフの様式を踏まえながらも「芝居」として見せてくれなければ、黙阿弥劇の醍醐味は生まれてこない。謳い上げるだけが様式美ではない。

中では松緑の和尚が、世話の芝居の緩急を一応なりと押さえている。和尚のセリフがそのように出来ているから、ということもあるし、おそらく祖父先々代のテープでも聴いたか、ということもあるが、ともあれ、まずは和尚らしいセリフになっている。口跡の固さはあるにせよ、だ。

菊之助のお嬢が、おとせを川に突き落とし木っ端どもを抜き身で追い払って、棒杭へ片足をかけ、ひと呼吸、いやふた呼吸ぐらい間を取って(声がかかるのを待つかのように)、「月もおぼろに白魚の」と厄落しのアリアにかかる。このことについては前にも(このブログにも、以前に出した『21世紀の歌舞伎俳優たち』という著書にも)書いたことがあり、このやり方にもそれなりの理由はあるとは認めるが、祖父梅幸が晩年に久々にお嬢を演じた時、アッと思ったことがある。つまり、抜き身で追い払い棒杭に片足を掛けるとすぐ、そのままひと流れの呼吸で「月もおぼろに」と始めたのだ。そのことを書いた私の文章を読んだのかどうか知らないが、それから程なく、まだ勘九郎だった当時の勘三郎が、梅幸のおじさんに教わったやり方だと言って、つと立ち上がって、目の前で、このくだりの一連の仕草を一筆書きのようにやって見せてくれたことがある。やり終わって、ネ、という風に頷くと、今、もう誰もやらないんだと言った。私にとっては貴重な体験だったが、なるほど、と深く感じるところがあったのは確かである。(この時点での勘三郎は、やがて梅幸譲りのお嬢吉三を演じる秋(とき)を待つつもりであったと思われるが、その後コクーン歌舞伎で和尚吉三を演じたが、ついにお嬢吉三を演じて見せてくれることなく終わってしまったのは、返す返すも残念なことと言わねばならない。)

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菊之助が『十六夜清心』で清心をつとめてこれはなかなかのものである。何といっても、和事のかかった二枚目という仁と芸質が絶対のものを言う。それとセリフの平仄が整っているので、松也の求女との割り台詞など、黙阿弥の韻律が心地よく耳に響いて狂言の皮膜の間へ引き入れられる。現今の菊之助としてやや優等生に過ぎるきらいはありはするものの、一脈それが、心中を図って死に切れず、しかし待てよ、と悪心が兆すまでの清心の在り様に通じるところが一徳である。凄みがないとの評もあるようだが、それは後に鬼薊の清吉になるまで取っておいていいのだと思う。

松也の求女も、菊之助と並んで立つと背の高さが目につくが、それを別にすれば、よく体を殺して若衆になっているのは偉い。白蓮に左團次、十六夜に時蔵が控えている安定感も、ここでは大いに物を言っている。というわけで、この一幕は、この世代の歌舞伎として一級品と言っていい。

松緑が『時今也桔梗旗揚』と真正面から取り組んで訥々、詰屈、外連味のまったくない舞台ぶりで、これを見たら斜に構えた戯評などできるものではない。この人は、家康ではないが重い荷を背負って長い道を歩き続ける人になるのかもしれない。團蔵が春永でこのところの好調をキープ。役者は六十からか?

松緑の光秀が三宝を踏み破って謀反の意を顕わして高笑いするまで蓄積された疲労を、海老蔵・菊之助の『男女道成寺』が按摩する。二人のもっている役者として花がここで物を言う。

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團菊祭に梅玉と魁春が出るのは、祝い事の『勢獅子』にお付き合いのためだろうが、せっかくのことだからというように『鵺退治』という珍物が二人のために開幕劇として用意された。54年前に勘弥がした時の上演時間は19分だったのを、今度は清涼殿屋根上の立回りを増補して30分に仕上げたという。したが顔は猿、胴体は狸、手足は虎、尾は蛇という怪物の着ぐるみが登場しても、やれクマモンだつば九郎だ、可愛らしい着ぐるみ隆盛の当節、あまりこわくないからせっかくの源三位頼政の武勇も却って引き立たない。「鵺」という字は「夜」扁に「鳥」と書くように、夜な夜な屋上で奇怪な鳴き声を立てる怪鳥であるところに肝があり、だからこそ頼政も矢で射殺すのだ。とすると、折角の今井豊茂苦心の補綴ながら、立回りはすっかり裏に廻してしまった54年前の勘弥所演の方が賢かったということになりはしまいか?

(それにつけても、当時の勘弥は、『鵺退治』の翌年には『凧の為朝』を出し、その秋には『治承の旗揚』を出すなど、珍品堂主人よろしく蘊蓄を傾けてくれたのが懐かしい。

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今年は前進座創立85周年というので、国立劇場公演に『東海道四谷怪談』を気張って出したのが、「前進座のいま」を語り尽すかのようななかなかの出来だ。「地獄宿」は端折って「宅悦内」になったが「三角屋敷」をきちんと(と言ってよいだけにまとめて)出し、「又之丞住処」は食ったが小仏小平の立場は明確にするとか、奥田庄三郎のスパイ活動は端折っても与茂七と衣類を交換する件は見せるなど、今日可能な上演時間の中で物語を成立させる端々をきちんと見せるなど、前進座らしい几帳面なテキストである。折から6月にはコクーン歌舞伎版の『四谷怪談』が出るが、いまや今度の前進座版が、今日最もオーソドクシイを保ったバージョンとも見える。教科書になり得るだろう。

演じる側も、先代国太郎のお岩のような突出した存在がない代わり、主要などの役もバランスよく納まるべきところに納まりつつ、それぞれ存在を明らかにしている。つまり、脚本の在り様にぴったり見合った、それもまた「前進座のいま」を具現している。そこが物足りないという向きもあるだろうが、求めるところが違うのだから、それはないものねだりというものだである。

お岩の國太郎、芳三郎の伊右衛門、矢之輔の直助と芸の背丈が揃う中で、与茂七に菊之丞を招いたのが今回の配役の最大のヒットである。詳しい事情は敢えて知らずに、舞台の上だけのことに限って言うのだが、座への復帰を切に望みたい。仁のよさでは芳三郎の伊右衛門がそれにつぐが、この伊右衛門なら、またこの脚本でなら、「隠亡堀」で「首が飛んでも動いて見せるわ」というセリフはなくもがなだ。(あのセリフをやたらに強調し、重要視するのは、今から見れば60年代70年代というひとつの時代の「風景」であって、それから早や半世紀を隔てた今日、伊右衛門像として却って古めかしい。)

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