随談第576回 今月の舞台から

今年の團菊祭は目玉が二つの、鵺ならぬ双頭の鷹のごとき様相だが、この鷹は、片方は雛鳥、片方はすでに雛を子に持つ親鳥たちである。菊吉両首脳が目に入れても痛くない二歳半の坊やの観客吸引力は、気が付くと真後ろの席に小泉純一郎氏の姿があったり、孫に引かれて團菊祭29年ぶり出演の播磨屋の五右衛門に菊五郎の久吉という大ご馳走の『楼門』が出たりしたのだから、当節の歌舞伎の「陽」の面をシンボライズしたようなものだが、双頭のもう一方の親鳥たちの方はと言えば、陰陽こもごも木漏れ日のごときまだら模様を呈している。

そもそも今回の團菊祭は、寺嶋和史クン初御目見得という慶事を表にしながら、じつは菊之助・海老蔵・松緑三人体制を明確に打ち出したところが眼目であって、昼夜7演目中4演目、それも中心部分に彼等の演目が置いてある。これが軌道に乗れば、菊五郎劇団も11代目團十郎・梅幸・二代目松緑以来の三代がめでたく揃い踏み、團十郎亡き後、菊五郎が背負ってきた重荷も次代へ受け渡す体制が整うことになるわけだ。いや、歳月人を待たず、そうのんびりもしていられない。

        *

三人顔合わせによる当月の眼目といえば、海老・菊の松王夫婦、松緑に梅枝の源蔵夫婦という『寺子屋』で、幕が切れロビーに溢れ出た途端、とかくを云々する声も耳にしたが私はむしろ、ほっとした、というのが第一の感想であった。まずは神妙につとめているのと、4人の均衡が取れてそれがおのずから、この狂言の骨組みを明確にしていることを良しとする。但し、各人それぞれが役の心理やら情やらを心を籠めて演じ出そうとするために芝居が伸びて劇全体の結構が歪みがちになるのがよろしくないが、もっともこれは、この『寺子屋』という芝居自体が,近代主義的に演じ尽され末端肥大的に心理芝居と化して久しいためで、今回の4人だけの話でもなく、責任とも言い難い。次の機会には、親世代よりもっと前世代の名だたる演者たちの映像なり、音盤なりを、皆で研究してみることだ。

それにしても、アラサーからアラフォー世代の、役の人物たちとほぼ同年輩の彼らが発散するオーラというものには、なかなかのものがあるのは確かだ。海老蔵が首実検で刀を抜いて源蔵夫婦に突きつける團十郎型を見せるのがよく似合う。菊之助の千代がときどきはっとするほど梅幸に似ている。松緑も手堅いマッチョぶりに祖父や父のますらおぶりを彷彿させる。梅枝の戸浪は曾祖父三代目時蔵の若き日はかくもあらむかと思わせるオーソドクシイを感じさせる。というわけで、まずはこれが現時点での彼等の平均値と見る。

もうひとつの三人勢揃いの『三人吉三』大川端となると、疑問がぞろぞろ出てくる。3人とも祖父以来の仁を伝来しているからその点では結構なのだが、まず海老蔵のお坊がすべてのセリフをツラネであるかのように謳うと、菊之助のお嬢もそれに応じるから、二人のやりとりが掛け合いのアリアの如くになる。如何にこの場は様式美を愉しむ場だとはいえ、あれでは、あるいは謳いあるいは世話のセリフになって虚々実々の応酬をする緩急の妙というものが生まれてこない。

お坊とお嬢はあそこで初めて出会って、互いの手の内や人物としての器量の程度を探り合っているのではないのか? その上で、ヤアこいつはなかなかの奴だと互いに認め合うに至るのだ。そこのところを、七五調のセリフの様式を踏まえながらも「芝居」として見せてくれなければ、黙阿弥劇の醍醐味は生まれてこない。謳い上げるだけが様式美ではない。

中では松緑の和尚が、世話の芝居の緩急を一応なりと押さえている。和尚のセリフがそのように出来ているから、ということもあるし、おそらく祖父先々代のテープでも聴いたか、ということもあるが、ともあれ、まずは和尚らしいセリフになっている。口跡の固さはあるにせよ、だ。

菊之助のお嬢が、おとせを川に突き落とし木っ端どもを抜き身で追い払って、棒杭へ片足をかけ、ひと呼吸、いやふた呼吸ぐらい間を取って(声がかかるのを待つかのように)、「月もおぼろに白魚の」と厄落しのアリアにかかる。このことについては前にも(このブログにも、以前に出した『21世紀の歌舞伎俳優たち』という著書にも)書いたことがあり、このやり方にもそれなりの理由はあるとは認めるが、祖父梅幸が晩年に久々にお嬢を演じた時、アッと思ったことがある。つまり、抜き身で追い払い棒杭に片足を掛けるとすぐ、そのままひと流れの呼吸で「月もおぼろに」と始めたのだ。そのことを書いた私の文章を読んだのかどうか知らないが、それから程なく、まだ勘九郎だった当時の勘三郎が、梅幸のおじさんに教わったやり方だと言って、つと立ち上がって、目の前で、このくだりの一連の仕草を一筆書きのようにやって見せてくれたことがある。やり終わって、ネ、という風に頷くと、今、もう誰もやらないんだと言った。私にとっては貴重な体験だったが、なるほど、と深く感じるところがあったのは確かである。(この時点での勘三郎は、やがて梅幸譲りのお嬢吉三を演じる秋(とき)を待つつもりであったと思われるが、その後コクーン歌舞伎で和尚吉三を演じたが、ついにお嬢吉三を演じて見せてくれることなく終わってしまったのは、返す返すも残念なことと言わねばならない。)

       *

菊之助が『十六夜清心』で清心をつとめてこれはなかなかのものである。何といっても、和事のかかった二枚目という仁と芸質が絶対のものを言う。それとセリフの平仄が整っているので、松也の求女との割り台詞など、黙阿弥の韻律が心地よく耳に響いて狂言の皮膜の間へ引き入れられる。現今の菊之助としてやや優等生に過ぎるきらいはありはするものの、一脈それが、心中を図って死に切れず、しかし待てよ、と悪心が兆すまでの清心の在り様に通じるところが一徳である。凄みがないとの評もあるようだが、それは後に鬼薊の清吉になるまで取っておいていいのだと思う。

松也の求女も、菊之助と並んで立つと背の高さが目につくが、それを別にすれば、よく体を殺して若衆になっているのは偉い。白蓮に左團次、十六夜に時蔵が控えている安定感も、ここでは大いに物を言っている。というわけで、この一幕は、この世代の歌舞伎として一級品と言っていい。

松緑が『時今也桔梗旗揚』と真正面から取り組んで訥々、詰屈、外連味のまったくない舞台ぶりで、これを見たら斜に構えた戯評などできるものではない。この人は、家康ではないが重い荷を背負って長い道を歩き続ける人になるのかもしれない。團蔵が春永でこのところの好調をキープ。役者は六十からか?

松緑の光秀が三宝を踏み破って謀反の意を顕わして高笑いするまで蓄積された疲労を、海老蔵・菊之助の『男女道成寺』が按摩する。二人のもっている役者として花がここで物を言う。

       *

團菊祭に梅玉と魁春が出るのは、祝い事の『勢獅子』にお付き合いのためだろうが、せっかくのことだからというように『鵺退治』という珍物が二人のために開幕劇として用意された。54年前に勘弥がした時の上演時間は19分だったのを、今度は清涼殿屋根上の立回りを増補して30分に仕上げたという。したが顔は猿、胴体は狸、手足は虎、尾は蛇という怪物の着ぐるみが登場しても、やれクマモンだつば九郎だ、可愛らしい着ぐるみ隆盛の当節、あまりこわくないからせっかくの源三位頼政の武勇も却って引き立たない。「鵺」という字は「夜」扁に「鳥」と書くように、夜な夜な屋上で奇怪な鳴き声を立てる怪鳥であるところに肝があり、だからこそ頼政も矢で射殺すのだ。とすると、折角の今井豊茂苦心の補綴ながら、立回りはすっかり裏に廻してしまった54年前の勘弥所演の方が賢かったということになりはしまいか?

(それにつけても、当時の勘弥は、『鵺退治』の翌年には『凧の為朝』を出し、その秋には『治承の旗揚』を出すなど、珍品堂主人よろしく蘊蓄を傾けてくれたのが懐かしい。

        ***

今年は前進座創立85周年というので、国立劇場公演に『東海道四谷怪談』を気張って出したのが、「前進座のいま」を語り尽すかのようななかなかの出来だ。「地獄宿」は端折って「宅悦内」になったが「三角屋敷」をきちんと(と言ってよいだけにまとめて)出し、「又之丞住処」は食ったが小仏小平の立場は明確にするとか、奥田庄三郎のスパイ活動は端折っても与茂七と衣類を交換する件は見せるなど、今日可能な上演時間の中で物語を成立させる端々をきちんと見せるなど、前進座らしい几帳面なテキストである。折から6月にはコクーン歌舞伎版の『四谷怪談』が出るが、いまや今度の前進座版が、今日最もオーソドクシイを保ったバージョンとも見える。教科書になり得るだろう。

演じる側も、先代国太郎のお岩のような突出した存在がない代わり、主要などの役もバランスよく納まるべきところに納まりつつ、それぞれ存在を明らかにしている。つまり、脚本の在り様にぴったり見合った、それもまた「前進座のいま」を具現している。そこが物足りないという向きもあるだろうが、求めるところが違うのだから、それはないものねだりというものだである。

お岩の國太郎、芳三郎の伊右衛門、矢之輔の直助と芸の背丈が揃う中で、与茂七に菊之丞を招いたのが今回の配役の最大のヒットである。詳しい事情は敢えて知らずに、舞台の上だけのことに限って言うのだが、座への復帰を切に望みたい。仁のよさでは芳三郎の伊右衛門がそれにつぐが、この伊右衛門なら、またこの脚本でなら、「隠亡堀」で「首が飛んでも動いて見せるわ」というセリフはなくもがなだ。(あのセリフをやたらに強調し、重要視するのは、今から見れば60年代70年代というひとつの時代の「風景」であって、それから早や半世紀を隔てた今日、伊右衛門像として却って古めかしい。)

随談第575回 訃報あれこれ

加賀屋歌江が死んだ。小山三という別格的な存在は別とすれば、ひと足先に逝った吉之亟とともに、「昭和歌舞伎」を知る最後の女形だった。歌右衛門が八ッ橋をするのがテレビ中継されれば、画面のフレームの中、歌右衛門の斜め後ろ辺りに歌江の顔がある。遠近感が失われる画像の中では、身を殺していても大柄な姿はすぐに目についた。実を言うと少し目立ちすぎたのかもしれない。

それは、歌江にとっては決して喜ばしいことではなかった筈である。芯の役の役者の邪魔になってはいけない並び腰元や並び傾城の役を務める女形として、目立ちすぎることは慎まなければならない、という建前のもと、しかし実を言うと、これという女形は、みなそれぞれの個性をもって自分の贔屓を持っている。傾城や腰元たちの中に心に留まった顔を見つけて、あれは誰だ? というのが、観客の側の楽しみでもある。

歌右衛門の踊りに後見として影身の如く付きしたがって、引き抜きを行う名手としても知られたが、歌江の前に同じ役をつとめていた加賀屋鶴助がひと際の小柄だったのと、ここでも対照的だった。踊りの後見を表芸とすれば、形態模写という隠し芸があって、永い時期、俳優祭の名物になっていたことは、私がここに書くまでもないだろう。

昭和の末期から平成の初年にかけて、例年八月に国立劇場で続けていた葉月会で、珍しい狂言をいろいろ見せてくれたことが最も評価されるべきことだろうが(特に幸右衛門と組んで見せた『敷島物語』をはじめとする諸作は正に隠れた名作だった)、ああした形で一歌舞伎俳優として気を吐いたことと、歌右衛門の影法師として女形人生を全うしたことと、歌江自身、どちらを本望としていたかは、本人以外には窺い知れないことである。

上野の酒屋の倅で、昭和30年前後に新東宝の二枚目スターとして宇津井健の次ぐらいの位置にいた中山昭二が兄だという、かつては歌江のことを人に教えるときによくした説明は、今となっては、ヘエ―と言ってわかる人も稀になった。

       *

ダーク・ダックスのバリトン喜早哲氏が亡くなって、それなりの話題にはなったが、新聞の扱いは必ずしも大きくなかった。中には顔写真も何もないベタ記事の扱いのところもあったらしい。新聞を読まない若者世代が増えたというので東大総長が入学式の訓示に新聞を読みましょうと言う時代、紙面構成の中での扱い様でニュースの重大性が相対的に知れるのが新聞ならでは、インターネットではそうはいかない、と新聞人がアピールに努める昨今、喜早哲氏の死亡記事のこの扱いはその言を自ら裏切るものと言わねばなるまい。

確かに、イマドキノワカイモンはダークダックスなどといってもピンと来ないかも知れないが、しかし相前後して訃報が伝えられた秋山ちえ子、戸川昌子といった名前とともに、昭和30年代という時代の匂いを伝えるという意味で欠くことのできない名前である。もっとも戸川昌子が第一回の江戸川乱歩賞を取って作家デビューしたのは既に高度成長期に入ってからだから、実は少し遅れる。ラジオでデビューして最盛期をテレビで迎えたという意味で、ダークダックスも秋山ちえ子も、他の同業の人々とは一線を画す、戦後世相史年表を作るとしたら、独特の時代の匂いを持っているが故に逸することのできない名前なのだ。

ダークダックスよりデュ-クエイセスの方が上手いだの何だのということを言い出せば、いろいろな評価があり得るだろう。しかし4人コーラスというあの形で戦後社会に登場したのはダークダックスが先駆者であり、そのこと自体が、戦後世相を語るひとつの「事件」であったのだ、という意味で、他の、ダークダックス以上に音楽的に優れ、より以上にヒットナンバーを持ち、人気の上で上位に立ったどのコーラスグループにもまさって、喜早哲氏の死は、新聞紙面に然るべき扱いをされるべきなのだ。(つい先日、日本映画チャンネルで江利チエミの東宝映画『サザエさん』を放映したので70年ぶりの再会をしたが、初めと終わりに、ダークダックスが近所の酒屋の御用聞きの役で出てきたのを見て、アア、そうだったっけ、と古い古い記憶が甦った。つまり、あの映画は江利チエミだけでなくダークダックスが出演したことによってミュージカル映画となったのである。(もちろん、当節のミュージカルとは全然違うが、当時の製作意図としては、あれでもミュージカルなのだ。)

秋山ちえ子氏については、訃を伝えるどこの局でも流していた、戦時中殺された上野動物園の象の物語の語り部としてよりも、そのいわばデビューとなったラジオでの、声によるニュース解説のような番組が、子供心にも新鮮な感じが印象的だったのを覚えている。ダークダックスにしても秋山氏にしても、格別ファンであったわけでも愛読者・愛聴者であったわけでもないが、ラジオからテレビに移り変わって行った時代の感覚を鮮やかに思い出させてくれるという意味で、欠かせない名前であり懐かしい名前なのだ。

    *

ここまで書き継いできたところで、蜷川幸雄氏の訃報が入った。もっとも私は、決して氏のよき観客ではなかったし、あちらとこちらの活動を線で表すなら二つの線分が交わることはほとんどかった。

唯一接近したのは、既に10年も前になるか、菊之助が働きかけてシェイクスピアの『十二夜』を蜷川演出による歌舞伎仕立てで、まだ建て替え前の元の歌舞伎座で上演、大評判になったとき、旧体制時代の『演劇界』に私が書いた劇評を、氏が気に入っているらしいと教えてくれた人があった。と言ってもそれだけのことで、あちらからもこちらからも別に何をしたわけでもなく、交差しかけた2本の線は、またそれなりにてんでんに放物線を描きながら相遠ざかるようになった。

氏がまだ役者だったごく若いころ、大佛次郎の『三姉妹』という、国立劇場で新歌舞伎にもなった維新物の大河ドラマで、ほんのチョイ役だが(たしか二回ほど出てすぐ殺されてしまったと思う)、開港場になった横浜で虚無的な通弁の役をしていたのが、妙に気になってそれ一作でその存在ははっきりと認識することになる。やがてその後、灰皿を投げつける演出家、などと面白がられながら評判を高めていくのを、時にはその演出した舞台を見たりしながら、遠くから眺めていた。というのがそれからほぼ半世紀間の、わが蜷川像ということになる。

というわけで、私などが口を挟むようなことは何もない。一言で言うなら、主演俳優や、ときにはタイトルよりも、演出家の名前が大きく語られ、大きな文字で宣伝されるような時代状況を切り拓いき、現出させた人、ということだろう。料理はシェフ次第、芝居は演出家次第、ということを、時代の常識にした人、と言い換えてもいい。

随談第574回 ニコニコ超会議2016で獅童を見る

台風並みの烈風吹きすさぶ旧天皇誕生日の4月29日午後、乗り継ぐ電車3路線の内、2路線が大幅遅延という悪条件もものかわ、乗りかかった舟と肚を決めて、幕張メッセに辿り着いた。二時間半の余もかかってようやくプレス受付に着いたのは14時開演に遅れること既に5分余、教えられた会場へ行く途中で、ふと魔がさして他の催し物の会場へ紛れ込み、その、何というか、妖しうこと物狂おしき中をさまよいさすらい、ようやく心づいて脱出、カタログ番号E-112、超歌舞伎『今昔饗宴千本桜』の行われているイヴェントホールまで漕ぎつけたのは、察するところ狂言も佳境に入ったと思しき頃合いであった。

今回のニコニコ超会議2016のメインイベントである超歌舞伎の主役を獅童がつとめるについて、案内があったので出席の返事をしたのは、ニコニコ超会議なるものが如何なるものか、実際を見ないことには見当もつきかねる。「社会勉強」にもなることだし、その中で演じられる「超歌舞伎」なるものが如何なるものか、この機会にひとつ見ておこうかと、むらむらと興味が湧いてきたのである。酔狂・物好きと言わば言え、同日同時刻、紀尾井ホールでは竹本駒之助が『媼山姥』の「廓噺の段」を語るのを、ニコニコ超会議の獅童に乗り換えたのだから、愚挙と断ずる人がいたって不思議はない。

超歌舞伎『今昔饗宴千本桜』はかの松岡亮の脚本にして大正百年という超未来が現実、初音美玖(登場人物の役名である)の脳内で大過去に遡ったところが『義経千本桜』の時代という設定、獅童は『千本桜・鳥居前』の仁王襷を付けた忠信の扮装で、初音ミク扮する(と言っていいのか)美玖姫のために奮戦する。「鳥居前」あり「花矢倉」あり、その他観衆の歌舞伎イメージを満足させるような立回りの手を惜し気もなく見せて、青龍の精なる悪を倒すために獅童が大奮闘する。カラミ、鳴物その他、歌舞伎側は藤間勘十郎演出・振付によるすべて本物が出演しての初音ミク側とのコラボレーションである。この日が超歌舞伎公演の一日目で三公演、翌日が二公演、各ほぼ一時間という上演時間を獅童が初音ミク嬢と共演する。大変な運動量(!)と言わねばなるまい。

大団円には、特性舞台を駆け回っては、サアサアサアというように場内を煽っていやが上にも盛り立てようとするサービスも堂に入っている。5千人と聞いたが大観衆の場内から「萬屋!」と、結構悪くないタイミングで掛け声も掛かる。この場にいる観衆にとって、獅童は歌舞伎の世界からやってきた使者であり、(「月よりの使者」という映画が昔あったっけ!)何よりもまず、獅童はそのイメージによく似合っている。おそらく現在の歌舞伎界の誰よりも、獅童はこの役割にふさわしいに違いない。そもそも、この空間、醸し出されるこの空気、知名度、どれをとっても、獅童以上に程よくマッチングできる歌舞伎俳優がいようとは思われない。私としても、こういう獅童の姿を見ていれば、少なくとも好感を抱かざるを得なくなる。見終わって、滔々たる大河の流れのような人の波に流されながら、「凄い迫力だなあ、びっくりした」といった声を幾つか耳にした。これを最大公約数の感想と考えてよいとするなら、獅童は、歌舞伎伝道師という自分に課せられた責務を十分に果たしたことになる。

それにしても、と少々の負け惜しみを交えながら蛇足を加えると、前半を見はぐっても、会場へ向かう途中で他の超会議の催し会場に紛れ込んであの異空間の洗礼を受けておいたのは、結果としてよかったと思う。ロックの大音響が鳴り響く中、イマドキの若い人々の興味を引きそうなありとあらゆるものがごった煮状態で、差別なく並列されて行われている。「自民党」だの「民進党」だのという、いかにも場違いそうなコーナーまであって、たまたま通りかかったときには、自民党の代議士と思われる人物が黒スーツ姿の街頭演説と寸分たがわぬスタイルでアベノミクスが何とやらという演説をしていた。まるで地獄極楽巡りをしているみたいなもので、これで頭がおかしくならなかったらどうかしている、ようなものだが、こういう洗礼を受けた後に見た「わが獅童」は、間違いなくちょいとしたものであった。

随談第573回 今月の舞台

何とか無事手術が終わり、両目が開いて娑婆へ釈放された翌日から各座へ巡礼ということとなった。目明きになって見る最初の舞台、歌舞伎座昼の部『操り三番叟』の幕が開くと、雛壇に長唄囃子連中が居並んでいるひとりひとりの目鼻立ちまでくっきり見える。視力1.2というのはこういうことなのか。(小学校6年生の時以来の視力ということになる!)とはいえ、当面は一日に6回、3種類の目薬を忘れずに点さなければならず、となると当然だが、6回の内何回かは出先でしなければならないのが厄介である。

ま、それはともかく。

歌舞伎座に空席が目立つということが、其処此処で囁かれている。昼夜とも新作が出し物のメインでなじみが薄いことや、菊之助、勘九郎、七之助と揃う明治座の方が活気があって面白そうだということなどが、差し当たって思いつく理由ということらしい。確かに、四日、五日と二日続けて両座を見ると、明治座の方が華やいでいる。入りの良し悪しもだが、ロビーに溢れた人波の色彩の鮮やかさが違う。

歌舞伎座には仁左衛門も出ていて、『身替座禅』『毛谷村』ともっぱら古典の演目を引き受けているが、何となく影が薄い。ちっとも悪いわけではなく、特に『毛谷村』など、「杉坂墓所」から出したり、冒頭の剣術試合に立会いの侍の衣装を違えたり、随所に独自の見識を窺わせる仕方を見せるなど、丁寧な仕事ぶりで、なすべきことはちゃんと果たしている。お園の孝太郎も精一杯の努力を見せて悪くないし、お幸に東蔵、京極内匠に歌六とくれば当節これ以上はないという配役であり、このところの仁左衛門は、透明感というのか、余計な力みが一切なく、これもひとつの境地なのであろうし、見る人が見ればそこが素敵だということにもなるに違いない。『身替座禅』も、この狂言の妙趣は朝帰りの陶然たる風情を踊りとして見せるところが肝だから、踊りが得手とはいえない仁左衛門ならではというものではないのは確かだが、何といっても品の良さが生きるし、左團次の奥方も、少なくとも我々の見た日は悪ふざけなどなく、一種古風な趣さえあって、左團次もここまで来たかと思わせる。

というわけで、両演目とも、褒めこそすれ悪く言う筋合いは少しもないのだが、昼の部の最後と夜の部のはじめに納まって、今月の一座の中で何となくお客さんのような気味がある。また幸四郎が、『不知火検校』がこの人近来の傑作と言ってよく、『幻想神空海』にも終幕に特別出演といった趣で登場する唐の皇帝がこの人ならではの異国の偉い人らしい風が素敵で、つまり今月は高麗屋大当たりなのだが、それはそれとして、昼夜を通して眺めると、今月は染五郎の月なのだなという感が強くする。もう少し正確に言えば、偉い人たちを立てながら染五郎がこまねずみのように抜かりなく気を配りながら取り仕切っている、という感じである。

『不知火検校』は、元々、十七代目勘三郎に当てて書かれた江戸のピカレスクを、幸四郎が再演、3年前の初演の折には、中村屋風の世話の小味を高麗屋風の時代の大味に力づくで変えようとしてギクシャクしたが、今回はそこらが自然体のように程よく落ち着いている。着丈を自身の寸法に仕立て直し、柄や生地も幸四郎色に染め変えて、ちょっぴりバタ臭さも隠し味程度に効かせながら見せる具合が、なかなかうまくいっていて、ここ数年来、道玄だの新三だの、黙阿弥ものの小悪党にトライしても柄にも仁にもピッタリ来ず、叶わなかった会心の幸四郎振りを見せている。近来の傑作と言った所以である。先月の『金閣寺』の大膳などを見ても、幸四郎こそ悪党の蒼白な美を見せるピカレスクを演じておそらくは当代での第一人者であろう。同じ宇野信夫作品で染五郎時代に帝劇で初演した『花の御所始末』など、もう一度手掛けて然るべきである。

そうした中で、染五郎が生首の次郎という、いうなら、しがない按摩の富の市を二代目不知火検校へと成り上がらせるプロデューサーのような人物を演じて、じつにいきいきと立ち回るその取り回しが小気味よく、悪党というには凄みだの悪の強さだのが薄味なところを突く評もあり得るだろうが、私が興味を覚えたのは、むしろこの種の役どころでこそ、染五郎という役者は生き生きと精彩を放つのだということである。

転じて、『幻想神空海』で空海を演じても、染五郎はじつに溌剌と、若き留学僧空海として舞台の上の唐の街々を歩き回る。その自負に満ちた屈託のなさは、若き明治の代に伯林はウンテル・デン・リンデンを逍遥する太田豊太郎ならぬ森林太郎青年でもあるかのようだ。二年という限られた留学期間に「密」を学び取る(学び盗る?)という難行など、口では大変そうに言いながらその実まるで意に介していないかのように、健康的である。留学仲間の橘逸勢ともども、赴く先々でさまざまな人物や妖異と出会い、会話を交わして愉しむさまは、前回の同じ作者の『陰陽師』の安倍清明の、勘九郎の源博雅のコンビとそっくりそのまま重なり合う。当事者でありながら、当事者ではない。ストーリーの真の当事者は、歌六演じる丹翁であり又五郎演じる白龍であり、空海はシャーロック・ホームズとして、逸勢ワトソンと共に謎解きに腐心はしても、いうなら主役であって主役ではなく、むしろ狂言回しであると言った方がふさわしい。そういう立場で、程良く立ち回る染五郎は、なかなかに魅力的である。染五郎空海のそのスタンスは、不知火検校に於ける生首の次郎にも類似してくる。

誤解されると困るが、私はそういう染五郎の演技を難じているのではない。夢枕獏原作のこの芝居は、畢竟、そういう芝居なのであり(筋書の演出者の言にもあるように、玩具箱をひっくり返す愉しみである)、登場人物としての苦悩やら何やらは歌六や又五郎の演じるところに任せておけばいいのだ。(もっともその分、歌六と又五郎のセリフ術というものは大変なものであり、その労は大いに報われるべきである。)膨大な原作小説から要所をつまみ上げて、2時間20分、休憩なしで一気呵成に見せるという設定も、染五郎のこの行き方でこそ可能なのであり、さもなかったら、つまりあの迷路のようなストーリーにまともに付き合っていたなら、見る側は疲労困憊したであろう。

その意味では、脚本も出演者一同も、よく頑張ったと言っていい。中程の、話が50年昔に遡って事の因縁を説明する場面を幻想劇として浄瑠璃仕立てにして、京蔵やしのぶがチャイニーズ風女義のような姿で登場したりするのは、している方もだろうが見ているこちらもちょっぴり照れくさいが、脚色者としては苦心のアイデアに違いない。新・雀右衛門が、かつての父先代の演じた妲己みたいな扮装で楊貴妃になるのもミソであろう。橘逸勢やら白楽天やら、歴史上の偉人たちを松也や歌昇がつとめてずいぶんかわいらしい様子で登場するのはご愛敬というところか。米吉や児太郎が唐代のホステス役で平素の彼らからはヘエーというほど大人っぽく(おねえさんぽく)見えるのも妙だ。

        *

言い忘れるところだった。『不知火検校』で、第一幕で富の市にまんまと手籠めにされる旗本の奥方の魁春と、妻を寝取られながら一向にそれと気づかないのほほん亭主役の友右衛門が、共に前回以来の持ち役だが、これがなかなかの秀逸である。(富の市が舞台の上で実際にやってのける悪行のうち、一番鮮やかで印象的なのがこの場面でもある。)魁春は、立ち居から声音から、さながら歌右衛門を彷彿させる。歌右衛門がした筈もないこういう役で、唸るほど似ているというのが面白い。(但し、零落して検校を恨んで返り討ちになる、前回から書き足された(宇野信夫の原作にはない)場面は、やや蛇足の感もある。)

それにつけても、この場が春雷の鳴る江戸の旗本屋敷、次の場が中仙道は熊谷宿近くの、向こうに夏山が迫り草いきれが匂うような街道筋、というように、流れるように場面を転換させながら話を佳境へと導いてゆく宇野信夫脚本の巧さに、今更ながら感服した。その前の浜町河岸の場から、短い時間でテンポよく運んで、富の市の悪行ぶりが増してゆく過程が手に取るように見える。

       *

染五郎はもう一幕、開幕に『操り三番叟』を器用に踊るが、かつての延若のことを、河内屋のおじさんの三番叟は意思のない人形の空虚感が切なかった、と筋書の「今月の役々」でうまいことを言っている。ワカッテイルんだよなあ。それにしても、毎日違う隈取でつとめたいと言っているが、どういうことなんだろう?

ところでここでも、松也が後見をつとめる。今月の松也は昼夜三役が三役、染五郎の弟分の格である。

       ***

明治座は菊之助、勘九郎、七之助が全部で五演目からそれぞれ三役をどれも初役でつとめる。皆々、優等生の好青年らしい清々しさだが、その一方、興行のタイトルは「花形歌舞伎」でももはや単なる花形ではない、中堅俳優としての道を歩み始めているわけで、彼らが現在歩んでいる道程のそれぞれの地点で、それぞれに難しい時期に差し掛かっている。その苦しい時期を如何に乗り切るか? 極論すれば、いちいちの演目や役の芸評で褒められるか否かよりも、彼らにとって肝心なのはそちらにある。われらにとっても、むしろ見どころはそこにある。

中では七之助が、葛の葉にせよ、あるいはお吉にせよ、芸も役者ぶりも上げ潮に乗っている最中なので、成長の様子を実感させる。役者として大人になったと思わせる。葛の葉と葛葉姫の早変わりが効果的に見えるのも、人外のものにすんなりなれる七之助の仁が物を言っているが、『油殺し』のお吉となるとその正反対の質実感が不可欠になる。こちらはどうにか無難に持ち切ったというところ。葛の葉も、人間と契った女房なり母なりの質実感より、メルヘンのヒロインとしての感覚のほうが優先する。これは半ばは芸質の問題であり、半ばは女形としての芸の若さの問題であろう。(裏返せば、現在の七之助にふさわしい演目を選んだということでもある。)

ところで、それはそれとしてだが、七之助に限らず、最近の若い葛の葉たちの、「恋しくば」の歌を障子に書く曲書きの文字の何という情けないことよ。先の雀右衛門や現・坂田藤十郎あたりを最後に、墨黒々と見事に書いて見せる葛の葉が後を絶ってしまったかのようなのは、小学校から習字をきちんと教えない現代の学校教育の問題が歌舞伎の芸にもろに現れた例ともいえる。日常筆を持ちつけない悲しさは、この狂言最大の眼目の場面で画竜点睛を欠くことになる。七之助は、口に筆を咥えて書いた「葛」の字が一番ましだったのは、皮肉というべきか。

>一方勘九郎が、父の遺作『浮かれ心中』を父そっくりに演じると、その声音、その息の間の良さ、父に学ぼうとするサービス精神、この間までであったなら、「おとっつぁんそっくり」とこちらも無邪気に驚き喜んでいられたものが、却って、いろいろな矛盾やら疑問やらを感じさせられてしまう。つくづく思ったのは、もうこの狂言は賞味期限が来ているということである。なまじ勘九郎が十八代目そっくりに演じれば演じるほど、客席の笑いのボルテージがかつてのようでなくなっていることが見えてくる。これは勘九郎の演技が拙いからではない。既にこの作に、10年前のような喚起力がなくなっているからで、勘九郎(と彼を取り巻く人々)はそれに気づき、思いを致すべきなのだ。

この作が駄作だと言っているのではない。かつて父が小幡欣治の脚色で歌舞伎に仕立て、演じた1990年代には、この作は、歌舞伎ブームを巻き起こした当時の先代勘九郎の存在をアピールし、歌舞伎など縁遠いものと思い込んでいた人々を吸引し、認識を改めさせる上で大いなる役目を果たした。つまり、「期限限定の名作」だったのだ。何も百年、二百年後まで生命を保つものだけが名作ではない。すべての新作が『仮名手本忠臣蔵』や『義経千本桜』である必要はない。野球に一人一殺、ワンポイント・リリーフの名投手があるように、いっときの観客をワッと沸かせる期限限定の名作だって、あって然るべきである。勘九郎のなすべきなのは、この作をお父つぁんそっくりに(即ち「十八代目の型」で)演じ続けることではないことに、深く思いを致すべきである。今回の勘九郎としては、父の遺作を復活した『末広がり』の方が、小品ながら可能性があると言える。

『末広がり』といえば、勘九郎の太郎冠者に傘を売りつけるよろず商人になる国生が、オヤと思わせるなかなかの役者ぶりを見せる。去年あたりから大分大人びてしっかりしてきたなとは思わせていたが、今度は、これはちょっといけるぞという感じ。大化けとまではいかないが、中化けぐらいには優になる。

菊之助が『女殺油地獄』に取り組んだのは相当の意欲と自負をもってのことだろう。万端遺漏のない研究と準備を思わせる周到な演技だが、さてこの芝居、こんなにも難しくしなければならないのだろうか? 父親に対し母親に対しひいては世間の者どもに対し、さらにはお吉に対し、与兵衛が抱いているアンビバレントな心情の裏も表も、そのすべてを漏れなく表現し尽そうとすれば、説明演技に陥らなければならない。何だか、尾上菊之助ならぬ寺島和康氏のものした学術論文『女殺油地獄論』の絵解きを読んでいるような気がしてこないでもない。

(しかも、これは菊之助の責任ではないが、父親役の橘三郎も母親役の上村吉弥も、理知的で堅実な演技の持ち主だから、こんなにしっかりした両親をもったこんなに賢い青年が揃っている家庭ならそもそもあんなことにはなりそうもない、などと、つい冗談の一つも言いたくなる。)

      *

この狂言について、前々から気になっている二点。その一、序幕「徳庵堤」に登場する小栗八弥なる小姓頭、偉そうな口を利くのは代参だからいいとして、その方の鞘の鯉口、詰めようが甘そうな、などと剣術の達人でもあるかのような口を利いたり、必要以上に物々しい人物に見える。何故か?

その二。お吉の娘の、序幕ではあのおませな口を利く女の子が、油屋の殺し場では奥で赤子笛でピーピー泣くだけだ。店先であの惨劇が行われている間、あのおませな娘は何をしていたのだろう?

『油地獄』を論じる人は多いが、誰もこのことには触れないのはなぜだろう?

随談第572回 両目が開いた

今回はちょっと近況報告。先々週と今週と二回に分けて白内障の手術をしました。一年あまり前から眼科に通い出し、緑内障だと言われて、しかしまだ点滴治療で抑えられる段階だからというので、三月ごとに通院するぐらいですんでいたのだったが、昨秋ごろから頓に視力低下、とりわけ左眼がカスミがかかったようになりこのままでいくと丹下左膳状態になる。素人考えで思うに、昨年末に出した『東横歌舞伎の時代』という一本の、とりわけ巻末の上演記録をこしらえるのに視神経を酷使した故ではないかという気がする。大元は、往時の『演劇界』巻末の月々ごとの各劇場の記録を下敷きにしたのだが、『演劇界』に限らず昔の雑誌というのは、いまのように体裁などは二の次だから(それだけ、ジャーナリスティックな感覚が強いわけだ)、たとえば、号によって、雀右衛門(雪姫)と書いてあったり、雪姫(雀右衛門)となっていたりする。『雪暮夜入谷畦道』となっているかと思うと、『蕎麦屋』となっていたりする。こちらは、本文を書き進めながら取り敢えずそのまま引き写すわけだが、さて本文が完成して、付録の上演記録を整備しようと手を付け始めて、ほとんど途方に暮れた。これを一定の方式に直すのに、相当に、視神経を酷使し、神経をイラつかせたことは間違いない。

もっとも医師の言うところでは、にわかに白内障が進行したからでそちらの治療が先決だということになり、幸いなことに我が家から徒歩10分という間近に順天堂の分院がしばらく前に出来たのでそこへ紹介状を書いてもらったという次第だが、さて、まず進行の度合いの進んでいる左目から取り掛かって、こちらはまあ、一手二手、ちょっと手古摺った程度で無事終了、視力1.0を回復し、新聞というものがこんなにもインクの跡も黒々としていたのか、ということを思い出した。

次の入院までに原稿を二本ばかり、それにこのブログの前回分を書いて、今度の右目はもっと簡単に行くであろうと割に気軽に入院、手術に及んだところ、これが意想外の難手術となった。推定だが普通の3倍は時間がかかったと思われる。局部麻酔だから医師や看護師の緊張している様子が皆わかる。頑張ってくださいという声も三度はかかったが、想定外の事態になったのでその処置をしていますのでしばらく辛抱してくださいと、医師が明確に言ってくれたのがよかった。それならそうと、覚悟を決めるしかないわけだし、どんな事態になっているのかは、凡そ想像もつく。で、まあ、何とか事態は収拾されて手術は終わり、翌日の検診で、あゝ、うまくいってますね、と医師の方も嬉しそうに言ったところで、ほぼ一件落着か、というところに無事着陸、以後の経過もまずまずで、予定の日程通りに退院とは相成った。

と、いうわけだが、いまどき白内障の手術なんて簡単らしいよ、などという話はよく聞くが、何事もそうだが、そうとばかりは限らないこともあるよ、という教訓にしていただければ、少しは世のため人のためになれるかも知れない。

どういう風に見えるようになったのか、とよく聞かれるが、一言で言えばくっきりはっきり、とはいえ所詮視力1.0だから、もっと目のいい人は幾らもいるわけだ。舞台がどれだけはっきり見えるかがお楽しみ、というところ。大相撲で、初日が開いて何日もたつのに黒星続きの相撲取りが、ようやく一勝を挙げると「片目が開いた」と言い、二勝するとようやく「両目が開いた」と言うそうな。どうにか一人前、という意味合いらしい。

ともあれ、まあなんとか、両目が開きました。これからもお愛読の程。

随談第571回 春場所騒動

大相撲の春場所は、想定外の事態がめまぐるしく変転した挙句、白鵬優勝をめぐる椿事となって終わった。千秋楽の是より三役の三番が三番とも、意味内容はそれぞれ違いつつそれぞれの意味で期待外れの一番だったわけで、この三番が今場所のすべてを象徴していたようにも見える。

琴奨菊は元の木阿弥となり、稀勢の里はやっぱりいつもの稀勢の里で終わり、豪栄道は所詮、今日の夢は大阪の夢、浪速のことは夢のまた夢でしかなく、そうした中で鬼と化した白鵬が三人の木阿弥に掛かっていた夢をすべて、浚って行ってしまった。問題の日馬富士戦への不満の根源は、その夢と消えた夢への欲求不満が沸騰した結果の表れと、私には見える。

琴奨菊の横綱昇進への夢というのは、元々、冷静に見れば期待と危惧が半々、むしろ四分六ぐらいに見積もるのが穏当なところであったにもかかわらず、マスコミに煽られるように、横綱昇進なるか、いやなるに違いない、という一点に絞り込んで今場所が始まった。初日までもうは幾日もないという頃になって、地元で優勝パレードなどやっているのをニュースで見て、アリャリャと思った。こういう贔屓の引き倒し方というのは昔からあることで、善意からしてくれることだから無下にも断れない。初日の放送で北の富士氏が、昇進の可能性にについて厳しい見方を示したら、新聞の投書欄に、あの解説者はまるで琴奨菊を嫌っているみたいでアナウンサーも戸惑っていた、公平性を欠く解説であるといった趣旨の投書が載っていたが、何事によらず、ムードに流される世の動向というものを絵に描いたように示す、面白いと言えば面白い投書だった。鉄アレイを持ち上げたりハンマーを振り回したりするトレーニングはしていたろうが、土俵の土を踏んでいなければ、果たして脇は甘い、出足は不足という、元の琴奨菊に戻って、終盤戦は連日、土俵の砂にまみれて終わった。せっかくの琴バウアーのルーティーンが五郎丸の拝みポーズに追いつくぐらいに知られかけたのに、惜しいことだ。本当に元の木阿弥になってしまうかどうかは、来場所以降の問題だが、ともあれ、これが今場所のポシャリの第一。

稀勢の里は、どなたかも指摘していたように、目を臆病な小動物のようにキョトキョト動かす癖が影を潜めたのは結構なことであった。あれはおそらく、精神力の充実の反映であろう。13勝2敗という戦績は、来場所への橋頭保を築いたといってよいかなりの戦果であったわけだが、中日以降、それまでは稀勢の里のことなど話題にもしなかったような向きまでが、琴奨菊がダメならこっち、と期待が俄かに倍増してかかってきたのはやむを得ないところでもあり、むしろそれをも力にして、この機に乗じて優勝を浚ってしまう、という離れ業ができないところが稀勢の里流なのだともいえる。

逆に、これは浚えるぞと見極めをつけたかのように、5日目、6日目頃から以降の白鵬の形相の凄まじさは、今場所は白鵬だなと思わせた。勝ち残りで控えに戻ってからも、次の一番が終わってもなお、物凄い形相は消えなかった。(アナウンサーたちは、そういうところに気付いているのかいないのか、気づいていても予定にないことだから知らぬふりをして触れないようにしているのか、相も変わらず、自分たちの立てた放送スケジュールに従って型にはまったことしか放送しようとしない。)十四日目だったか、対鶴竜戦のとき、時ならぬ鶴竜コールが沸き起こった。「白鵬負けろ」とはまさか言えないから、鶴竜コールとなったのだろう。

日馬富士戦の立ち合いの変化について、あれで決まるとは思っていなかったというのは、本当だろう。(当然ながら)追撃の体勢を取っているのが何よりの証拠で、相手が土俵際で踏みとどまり,体勢を立て直すところへ次の攻撃をしようとしたのに違いない。日馬富士の方も、あそこまで猪突猛進しなくとも、とは思うものの、そのぐらいにしなければ一気に押し込むことはできないだろう。要するに、立ち合いの張り差しだの、八双飛びだの、昔からある技とはいえ、これほど常態化している時代はないだろうが、普段がそうだから、急にこういうときだけ、やるなと言っても無理な話なのだ。別に擁護をしているわけではないが、急に、横綱たるものは、などと勿体をつけるのも空々しい。ただ北の富士氏が言っていたように、曽ての横綱たちと当世とでは、考え方・観念がおのずから違ってきているのは確かだろう。

「荒れる春場所」ということを、場所中、アナウンサー諸氏がしきりに口にしていたが、今場所は、関脇小結が皆、大敗したことでも知れるように、番狂わせが少なかった場所に属する。別な意味での「荒れる春場所」であったわけだが、この言葉は、元来、3月に大阪での本場所が定着して以来、上位陣が総崩れになって、よく言えば予測がつかない展開になる面白さ、悪く言えばハチャメチャ状態になりかねないことがよくあったので、昭和30年前後から言われ出したのだった。関脇以下の優勝や、12勝で優勝などということも他の場所より多いのがその表れだが、昭和30年代前半、雄大な体躯と風貌、眉毛と胸毛の濃さで、神代の昔の力士を思わせた先々代朝潮が(事実、東宝映画『日本誕生』に手力男の命(タヂカラオノミコト)の役で特別出演、原節子演じる天照大神を天の岩戸から引きずり出す場面を演じた)、本来の力を発揮したら栃若以上の筈と期待されながら取りこぼしが多く、他の場所では期待を裏切り続けながら、大阪場所になると優勝するので朝潮太郎ならぬ「大阪太郎」と呼ばれた時代があった。「荒れる春場所」のシンボルでもあったわけだ。

随談第570回 今月の舞台から

まずは雀右衛門襲名の歌舞伎座から。菊吉仁幸に長老坂田藤十郎まで顔を揃える大一座で襲名興行を開けるというのは、新・雀右衛門にとってはもちろん名誉だが、歌舞伎界としてもそれだけの展望をもってのことであろうか。『鎌倉三代記』が吉右衛門の高綱に菊五郎の三浦之助、『金閣寺』が幸四郎の大膳に仁左衛門の藤吉の上に藤十郎の慶寿院までお出ましとなれば、これ以上の待遇はないわけで、これは襲名のご祝儀だけでなく、歌舞伎界の立女形としての待遇とも見える。雀右衛門は夙に吉右衛門を中心とする一座での実質上の立女形としての働きを示して来たが、思えば亡き四代目も、永らく、実に永らく、常に三番手四番手のような位置に置かれて来たのだった。もしあれで、90余歳という長寿に恵まれていなかったなら、と考えれば、おそろしいような、気が遠くなるような感慨に襲われる。

夙に打率・出塁率の高さでは累年の実績を重ねている新・雀右衛門、このたびの時姫、雪姫二役、クリーンに放った二塁打と見る。まぐれか実力か分らないような場外ホームランなど打たないところが新・雀右衛門たるところだが、「口上」で東蔵が、これからはもっと芸の上で自己主張をされるとよろしからむ、といった趣旨のことを言ったのが、ヘエエと唸らされた。

(「口上」といえば今回は、たとえば菊之助は出ない。菊五郎が出る以上、一家の長でない者は列座しないという、やや古風な行き方で、これは近頃結構なことである。人気があるからといって若い者を並ばせても、「この席へ連ならせていただきましたことを喜びおる次第にござりまする」ぐらいのことしか言わないのでは列座する甲斐がない。それにつけても、立者連にしても、これもプログラムの一演目として見せる以上、何も左団次流を真似る必要はないが、もっと内容のあることをしゃべるべきだ。ところで、我當が『口上』のためだけに出演している。その心意気やよし。)

『三代記』では菊五郎が休演で三浦之助を菊之助が代わったが、代役などとは微塵も思わせない水も漏らさぬ出来。フィギュアスケートの採点よろしく点数を付けたなら、菊五郎より高得点になるに違いない。しかも立派な本役である。たぶんこれは菊之助終生の当たり役になるだろう。

襲名の二狂言の次に位置付ける狂言として『対面』と『双蝶々』の「角力場」でどちらも橋之助が工藤に濡髪と座頭役をつとめる。当然ながらこれが、彼の座るべき場所であることが、こういう大一座の中に置かれてみると改めて見えてくる。秋の芝翫襲名、期待してますぞ!

『対面』では勘九郎の十郎に、中村屋三代に通底する和事味があるのを嬉しく見た。この祖父から孫へつながる和事味こそが、勘三郎三代の芸の根源であり故郷なのだ。但し目下のところ、まだそれが勘九郎自身の芸の味として発酵するところまで行っていないから、やんやと受けることはないのは仕方がない。

『角力場』は菊之助が与五郎と長吉を替わって、ここでも完璧主義者らしい歌舞伎界の金妍児(キムヨナ)ぶりを発揮するが、そうなると今度は、長吉という役はこんなに目から鼻に抜けるようなアンちゃんなのだろうか?という疑問も沸いてくるのが歌舞伎の難しいところ。もうちょっと鼻の下に生意気をぶらさげているような、アサハカサが見えていた方がオモシロイのではあるまいか? 濡髪の八百長がらみの恩着せ行為への怒りが、正義感の発露だけになってしまうと、話が割り切れすぎてしまって芝居のコクが薄くなる。

中幕だの追出しだのの格付けで小品の踊りが四つも並ぶのも今回の一特色だが、昼の部の第二に『女戻駕』と『俄獅子』が二段返しのように出るのがちょいと気が利いている。とりわけ、時蔵に菊之助に錦之助の奴という『女戻駕』が近ごろ出色だが、ところがせっかく俄の踊りを上下(と謳ってこそいないが)にして出すのだから、暗転にしてつなぐのは、野暮というよりせっかくの興趣を殺がれる。『俄獅子』の場面が吉原仲ノ町だから、『籠釣瓶』の序幕よろしく、いわゆるチョン・パにしたのだろうが、単独で出すならそれもよかろうが、ここは明るいまま背景を折り返して居所変わりにしなくては! チョン・パというのは電気照明が生み出した近代の産物で、アッと驚かせるにはいいが、「俄」のようななんどりとした小品をふたつつなぐのにはふさわしくない。先の雀右衛門が革ジャンにジーンズでオートバイで楽屋入りして、時姫や雪姫を演じたのとは似て非なるミスマッチである。

『団子売』は仁左衛門がますます玲瓏。『金閣寺』の藤吉にしても、こんなに透き通ってしまっていいのだろうかという気も、一方ではしないでもないが、病気回復以来、これもこの人の到達したひとつの境地でもあるのだろうか?

久々の『関三奴』。踊りとしては勘九郎が一番うまいが、こういう古風なものだと、鴈治郎の鷹揚な役者ぶりがちょいと味がある。松緑は少し顔を描きすぎではないか?

         ***

何年ぶりかという新派の国立劇場出演に選ばれたのが(『婦系図』でも『鶴八鶴次郎』でも『天守物語』でもなく)『遊女夕霧』に『寺田屋お登勢』というのはなかなかよく考えた演目選定であろう。「花柳十種」と「八重子十種」から選ぶという、戦後の新派の高峰の頂上部分を選び取り、それが波乃久里子と当代八重子に受け継がれた、「新派のいま」の極上部分を見せようという狙いは成功だった。入りも、少なくとも私の見た日は一階席に空席がほとんど見当たらないという、相当のもののようだったのは、ある種の新鮮な印象を与えた結果かもしれない。

とりわけ『遊女夕霧』に感心した。『人情馬鹿物語』はそもそも、原作である小説も、自ら脚色した芝居も、川口松太郎の最高傑作だろうが、いま改めて見ると、なんという「大人」の芝居であろうか。「人情馬鹿」という、人間通としての作者のつかまえどころといい、コトバコトバコトバで成り立っている芝居造りといい、それを演じ、それを見て泣いて笑って心洗われて帰って行ったかつての新派の役者たちも、その観客たちも、なんという「大人」たちであったことか。多分そのかなりの部分は、今日の観客の半分程度の学歴も知識も持ち合わせていなかった筈だが、それにもかかわらず、こういう芝居を見事に受け止め、愉しんだのである。

夕霧の久里子も、円玉の柳田豊も、その他の誰彼もよくやった。与之助の月之助も健闘した。かつての誰それは…とは言うまい。少なくとも今、これ以上に出来る者は他にあるまい、今日能うる限りの布陣である。

今月の新派は、国立の舞台に背水の陣を敷いた。その気迫が伝わってくる。そこに感動がある。

随談第569回 BC級映画名鑑・第2章「BC級名画の中の大女優」第1回(通算第9回)原節子『東京の恋人』と高峰秀子『朝の波紋』

(1)

前回、といっても昨年末のことだが、第565回の末尾に「BC級映画名鑑」の第2章として新年から「大女優のBC級名画」(大女優以前の大女優)を開始と予告しておいたが、表題を少々変更、「BC級名画の中の大女優」としてその第一回を始めよう。まずは原節子、昭和27年7月15日封切りの東宝作品千葉泰樹監督の『東京の恋人』と、高峰秀子主演昭和27年5月1日封切りの新東宝作品『朝の波紋』である。

じつはこの作品については、このブログの第442回に「映像再会」というタイトルで紹介したことがある。私にとっては、同じ年の5月封切りの新東宝、五所平之助監督高峰秀子主演の『朝の波紋』と並んで、こよなくなつかしい映画なのだ。『朝の波紋』については次回に詳しく語るとしても、内容的にも、両者は切り離すわけに行かない。つまり昭和27年春から夏にかけて作られたというそのことが、戦後史と深く関わっているからだ。

昭和27年、1952年という年は日本の戦後史を語る際にひとつのメルクマールとなる年であって、即ちこの年の4月28日、前年9月に調印されたサンフランシスコ講和条約が発効し、日本はGHQによる占領状態から解放され進駐軍が帰って行くことになる。吉田茂首相がマッカーサーに向ってGHQとは何の略語だと訊ね、怪訝な顔をされると、Go Home Quicklyという意味かと思っていたと言ったという、(いや、Quietlyと言ったのだという説もあった)どこかに誰か作者がいそうな話が伝わっているが、私はこのとき小学校6年生で、しかも、もちろん偶然だがこの講和条約発効の日に、中野区の鷺ノ宮から豊島区の西巣鴨に引っ越し、転校をするという、子供にとっては重大事を体験したので、この前後のことはひと際、記憶に強く焼き付けられることになった。米軍独特のいぶしたようなグリーンに塗った進駐軍専用バスだとか、国電の車両に白だすきをかけたような進駐軍専用車(かの小津安二郎の『晩春』で原節子と笠智衆の父子が北鎌倉の駅から東京へ横須賀線に乗って出かける場面が何度かあるのが、その実例を見る、今となっては最も簡単な方法であろう)などが、この日以降見かけなくなってゆくのを、子供心に何がしかの変化のシンボルのように眺めたのを思い出す。

西巣鴨と言っても、現在は上池袋一丁目と言っている、山手線の大塚と池袋の中間点にあって、一面の焼け野ケ原だったところに街が再興しつつある、といった感じで、地面を掘ると、意地悪爺さん宅の裏の畑みたいに瓦礫が続々出てきてたちまち山になった。つまり(後で知ると昭和20年4月のことであったらしい)この地域一帯、相当の広範囲にわたって大規模な空襲にあった土地なのだった。郊外の住宅地であった前の家と違い、焼け跡に俄かにできた町場なので隣近所の物音が近い。ワッショイワッショイ、ソーレソレソレお祭りだー、と美空ひばりの『お祭りマンボ』が向かいの家のラジオからにぎやかに聞こえてきたのが、切り離すことのできない原風景となって焼き付いている。戦後丸七年経ってなお、傷跡は生々しかった。

中でもひと際目立つのが、皆が「癌研」と呼んでいた、築地の癌研究所の分院が戦前からこの土地にあったのが爆撃に逢って鉄筋コンクリートの外壁だけを残して中が丸焼けになった巨大な建造物の残骸で、急坂の斜面に立っていたので、高架線になっている大塚駅のプラットホームからでもそそり立つ姿が遠望できた。建物自体が印象的な形態を成しており、中央に円柱形の塔があるのが残骸とはいえ優美で、やがて子供たちは「癌研大和」と呼び始める。講和条約発効とともに様子見しつつ始まった「復古調」(という言葉が当時出来た)の流れに乗って、翌28年になると『戦艦大和』などといった映画が作られるようになったからだが、確かに、その姿は軍艦の一種壮麗な美を思わせるものがあった。同じクラスのTさんというなかなか勉強のよくできる女子生徒は、その「癌研」の廃墟の一隅に住まいがあって、そこから通学してくるのだった。

脱線を重ねることになるが、私の転校前に通っていた学校は中野区立の「大和(やまと)小学校」といったが、(当時は持ち物に氏名だけでなく学校名から書くのが習慣だった)転校先の級友から「これ、ダイワ小学校っていうの?」と訊かれたのをはっきり覚えている。即ち、昭和28年6月15日封切の新東宝作品『戦艦大和』が世に出るまでは、当時大方の小学生は「大和」と書いて「やまと」と読むことを知らなかったのである。その転校先の小学校では、校庭の片隅にある鉄棒のひとつが、ぐんにゃりと曲ったままだった。空襲の際の業火で曲ってしまったのが、七年経ってもそのままになっていたのだ。校舎も、廃材で作ったと思しい粗末な木造校舎で、空襲に会わずに済んだ転校前の学校がクリーム色のモルタル造りに赤いスレート瓦を乗せたスマートで明るい校舎だったのに比べ、子供心にも鬱陶しく感じられ、馴染むのに時間がかかった。

『朝の波紋』と『東京の恋人』は、まさにそういう年に制作されたプログラム・ピクチャー中の佳作である。片や5月1日、片や7月15日に封切られている。『朝の波紋』の封切りがメーデー事件の当日、『東京の恋人』の封切りの四日後に、日本が戦後初参加するヘルシンキ・オリンピックが開幕する。戦後史年表に太字で書かれるような出来事を引き合いに出すのに、ネタには事欠かない。

『朝の波紋』を見たのは、池袋日勝といった、池袋駅東口の明治通りのつけ根辺り、現在家電量販店の巨大な店舗が立ち並んでいる一隅に当たる位置にあった映画館で、引っ越してまだ数日後、初の日曜日であったかもしれない。すぐ前の空き地に、今度ここに三越が建つらしいよという会話を交わしたのを覚えている。(その通り、やがて三越池袋店が建つことになる。)道路を渡った駅側に木造二階建てで、切妻屋根にスレート瓦を乗せたのが西武デパートだった。今に続く西武百貨店の原型である。線路の下をくぐって西口側に出るには、長身のアメリカ兵なら頭がつかえてしまいそうな、粉塵濛々としたトンネルを通らなければならなかった。

(2)

『朝の波紋』も『東京の恋人』も、いわゆる名画列伝に記録されて誰もが知るというものではないが、前者は高峰秀子に池部良、後者は原節子に三船敏郎という、当時すでに人気絶頂だったスター同士の共演で、五所平之助に千葉泰樹というベテラン監督の手で当時のファンを十分に満足させた作品である。音に聞こえた巨匠監督の名画もさることながら、当時当り前のように作られ当り前のように受け入れられていたこうした作品の方が、今の私には興味深くも面白い。そこに映し出されるスターから脇役端役に至るまでの俳優たちの誰彼れ、さまざまな風景や情景の語りかけてくるものが、記憶の底を浚い出してくれる。前者では隅田川のボートレースとか、後者では勝鬨橋の開閉とか、それだけでも時代を語る場面が重要なモチーフとして使われているが、共通するのは、どちらにも東京の旧市内の、それもかなり高級な住宅地と知れる焼け跡が丹念に描き出されることで、古き良き東京の旧市街の、終戦七年後の廃墟と化した現状を今に伝えてくれている。

戦災に会うまでは山の手のお屋敷町だったと思われる旧市内に、掘立小屋のような仮普請の家を建てて、池部良や三船敏郎扮する好青年が住まっている。戦後七年が経ち進駐軍が立ち去った時点での東京の光景には、まだこれだけの焼跡が歴然と存在していたという事実である。いかなる記録を読むよりも、その数秒間の映像にまさる雄弁はない。

それからまた、この映画『東京の恋人』に写し取られている銀座の光景。それはまさしく、親に連れられて小学生だった私も見た記憶のなかにある銀座に間違いない。そう、こんなだったのだ。いま見ると、自動車の通りが何と少ないのだろう。十朱久雄(幸代の父親である)と沢村貞子の夫婦の経営する宝石店や、森繁久弥の経営するパチンコ玉製造で成金になった会社(パチンコはこの二、三年前から隆盛になりはじめたのだった)の何と素朴なこと。多分私はこの映画で、森繁を、飲み屋のマダム役の藤間紫を、はじめて見たのだったが、それにもかかわらず、小学六年生にして私はもうすでにその時、ああこれが森繁久弥か、これが藤間紫か、と思いながら見ていたのだった。(但しここでの森繁は、のちに東宝の名物シリーズになった社長ものに於ける森繁社長と違い、いかにもインチキ臭い。当時この「名優」はもっぱらペテン師役で売り出していたのだった。)

三船敏郎は、お屋敷町の焼跡に掘立小屋に住みながら、バリッとした麻の背広に蝶ネクタイ、パナマのソフトをかぶって銀座を歩いている。かの『羅生門』がこの前年だから名声はすでに鳴り響いているが、こういう、都会派紳士でも池部良の軟派に対する硬派といった役も、おなじみの役どころの内だった。私には、むしろこういう三船の方が好もしくも懐かしい。黒沢映画だけで三船を論じたりする人たちは、こういうジェントルマンライクの三船をどう見ているのだろうか?(三船は当時、丹頂チックと丹頂ポマードのモデルとして雑誌の裏表紙を飾る一人だった。)

三船の役は宝石のイミテーションを作る技師で、十朱久雄と沢村貞子の夫婦の経営する宝石店に品物を納めるために始終銀座へ出てくる。(ウインドウには本物は飾らないのだ。)原節子は宝石店のすぐ脇の街角にキャンバスを立てて道行く人のスケッチを描いて渡世する似顔絵かきで、チェックの柄のシャツに胸当てのついたズボン、ベレー帽というスタイルである。やがて二人は偽ダイヤを巡る騒動から引っ掛かりができる。イミテーションの指輪造りという、ちょっと怪しげな仕事を業としている三船が、デウス・エクス・マキーナの如くに現れては危難を救ったりするうちに、次第にその人となりを顕わしてくる。その質朴な素顔を知ることになるのが、先に言った焼け跡に粗末な小屋を建てて住まっている暮らしを見る場面となる。

ストーリー自体は、真贋二つのダイヤの指輪を巡って、そのころ頓に需要を増して有卦に入っているパチンコ玉製造で俄か成金になった森繁久彌と清川虹子のその妻、藤間紫の演じるその二号等を狂言回しに、原と同じアパ-トに住む、杉葉子演じる気の毒な夜の女の更生をめぐる話などをからませて軽快なタッチで進行する。他愛もないといえばそれまでの都会派風俗喜劇で、この辺のドタバタをどう受け止めるかで評価は分かれるだろう。

千葉泰樹監督は、戦前から戦後もかなり後まで息長く活躍し、数多くのプログラム・ピクチャーを作った手練れのベテランだが、この前々年の昭和25年、新東宝『山の彼方に』などと一連の、戦後の風俗を明るいタッチで描いた、東宝や新東宝で作った作品が私にはこよなく懐かしい。言ってしまえば、『山の彼方に』がまさしくそうであるように,かの『青い山脈』の亜流ということになるわけだが、そうしたものの言い方は映画史家に任せておけばいいのであって、亜流とか二番煎じと言って切り捨てられてしまうようなB級作品の中に、往時を語り、往時のファンたちに(時には亜流ならぬ「本流」の作品以上に)愛され喜ばれ、一人一人の胸に忘れがたい記憶となって残されながら、その人々の死とともに、永遠に忘れ去られてしまう運命にある作品がどれほどあることだろう。私はそれが愛おしいのだ。

井上大助、高山スズ子など、とうの昔に時代の波間に消えていった年少の俳優たちは、『山の彼方に』で獲得した人気の延長としての出演であり、当時のこの手の映画に欠かせない常連出演者だった。(特に井上大助はいっとき名物少年俳優として、当時の映画を見るとあちこちに出演している。)イミテーションのつもりで森繁社長がくれた実は本物の指輪が、都電に乗って窓辺に手を置いたスズ子の指から抜け落ちて、ちょうど差し掛かった勝鬨橋の左右に分かれる境目のくぼみにはまり込む。橋を渡り切った所にある停車場で飛び降り、取りに行こうとする刹那、ちょうど橋を開脚する時刻となり、小旗を手にした係員の笛が鳴って交通が遮断され、人も車も橋の両端に待機させられる。(ああ、こういう風に橋が開くのだったっけ!)橋が開き、衆目の見守る中、指輪は水中に没する。銀座から築地へ、日に数回、開閉する勝鬨橋はまさに土地のシンボルであり、メルクマールであったればこその、B級映画ならではの設定である。(小津や黒沢がこんなあざとい場面を作ったら批評家に冷笑で報われるだけだろう。)

(3)

昭和27年の原節子といえば、前年の『麦秋』『めし』、翌年の『東京物語』という原節子フィルモグラフィの頂点を形づくる傑作群にはさまれた、美しさの極みにあった季節ということになる。輝くばかりの微笑というのはこういうものかということは、子供心にもわかった。ベレー帽をかぶったりズボンをはいたりといった、都会の女性の「半男装」を思わせるモダニズムは、『兄の花嫁』など夙に戦前から彼女の得意とするところで、体格の小作りな、当時の映画女優の中でむしろ異色の存在であったといえる。原節子は決して「日本的」というタイプではなかったとする指摘を、近年見かけることが多くなったが、その通りであろう。体形といい顔立ちといい、田中絹代とか山根寿子のようなのが、往時の日本女性の典型美であったとすれば、原節子はむしろバタ臭い女優だったというべきである。『晩春』の冒頭、生け花を習いにやや遅刻気味にやってきた原節子扮する紀子が和服に腕時計をしたまま挨拶をする場面など(つまり彼女は「職業婦人」なのだ)、いま見ると、デケエナア、と正直なところ思ってしまうのも事実である。原の和服姿の美しさは、たとえば『秋日和』などの、むしろやや年齢を感じさせる年配に至って頂点に達するのだというのが、私の意見である。

『東京の恋人』は、原節子のモダニズムの魅力を見る上で恰好な作品と言っていいわけだが、彼女をもって日本女性の理想美とするような見方が定着してしまったために、やや損の卦に回ってしまったとも言える。しかし原節子のモダニズムという意味から、改めて再評価を訴えても門違いではないだろう。少なくとも、『白魚』『風ふたたび』といった同時期に前後して作られた失敗作(前者は豊田四郎、後者は熊谷久虎監督の、少なくとも当時の通念では『東京の恋人』より上位に置かれた作である)よりはるかに、原節子の美を語る上でも意味を持つものであることは確かだ。

随談第569回 今月の舞台から

歌舞伎座はまず昼の部全部を使って菊五郎が新作物を出したということにちょいと驚く。七十翁?が膨大なセリフを覚える労を厭わないというだけでも大したもの、なかなかの意欲と言って然るべきである。

まずは敬意を表することとして、木下藤吉郎売り出し時代の長短槍試合から浅野寧々との結婚、清州城三日普請、ちょいと出世して竹中半兵衛への三顧の礼、羽柴秀吉へと出世して叡山焼討ちから中国大返し、清州会議と、出世太閤記の有名エピソードのいいとこ取りをして全6幕、NET3時間余。近頃では珍しくなったこうした一本物の新作として、「いいとこ」のつまみ方がうまいのと足取りの良さ、それに幕が変わるごとに藤吉郎が出世してゆくのと共に、人物として大きく成長してゆく様子をうまく見せる菊五郎の芸とが、案配よく配合されている仕上がりの要領の良さに、菊五郎一流のバランス感覚がある。但し半面から言えば、エピソードの羅列であり、ドラマがないという批判も甘受せねばなるまい。

「太閤記」というものが昔から人気があるのは、底辺から頂点へと上り詰めた太閤秀吉という歴史上の英雄の出世譚としての面白さと同時に、もっと身近な、わが身とも重ね合わされそうな(気のする)、小気味の良いビルドゥングス・ロマンとしての側面をも持っているからで、そこらのツボをうまく押さえているのが今回成功の因であろう。(かつての東宝映画の森繁の社長物シリーズの一篇として『サラリーマン出世太閤記』なる一作があったが、一億総非正規労働者のような現代といえども、一身の知恵と才覚で世を渡ってゆく人物への共感と憧憬は消滅してしまったわけではない。)

吉川英治の『新書太閤記』は戦中に書き継がれた作で、秀吉が偉くなってからの後半は、時節柄皇国史観的な色彩が濃くなってあまり評判がよくないが、(発端、中国人の陶工が日本にわたってくる場面から始まるところを見ると、大陸遠征までが構想のうちにあったかと察せられるが、終戦とともに未完に終わっている)、初めの方は、出世太閤記ものの近代におけるオーソドクシイを作ったような感もあって面白い。(まさに『真書太閤記』に対する『新書太閤記』と称するに値する。)夙に戦前戦中に金子洋文脚色で六代目菊五郎、戦後30年代末に松山善三脚色で十七代目勘三郎が、それぞれシリーズ化している。十七代目版は、日吉丸の幼年時代を勘九郎坊や時代の後の十八代目、少年時代を中村賀津雄という配役が、それぞれグッドアイデアに応える好演と、評判だった。十七代目としても、おそらく最も幸せだった時代ではあるまいか。(賀津雄はまだ嘉葎雄などというややこしい字に改める前で、この時の好評から五代目時蔵襲名の話が持ち上ったりした。三代目未亡人である母堂が同席した記者会見の席上、そんなに時蔵の名前が大事ならお母さんが襲名すればいいじゃありませんかと言い放ったという話が伝わったものだが、今となっては、まさに往時茫々の伝説というべきであろう)。

閑話休題。今度の上演について菊五郎がこれは元々音羽屋のものだと言ったとか聞いたが、とはいえ金子洋文版ではなく新規に今井豊重脚色・演出としてこしらえたわけだ。ひとつ難を言えば、吉右衛門演じる明智光秀が、吉右衛門を煩わせる役としてはちと役不足の感があることで、信長というわけにいかなければ、徳川家康でも登場させて役を作るとか、ひと工夫あって然るべきだった。その信長の梅玉も、黒の着付けが「歌舞伎のお殿様」然として、松江候が出て来たみたいで気になったが、叡山焼討ちで西洋風の甲冑姿になってようやく安心する。だがそれより、梅玉はその知的でクールな持ち味といい、光秀ならぴたりであったろう。(もしかすると、配役はもともと逆であったのかもしれない。)

十七代目のときは信長が松緑、前田犬千代が勘弥、寧々がまだ友右衛門だった雀右衛門、竹中半兵衛が八代目三津五郎という、いかにもそれらしい錚々たる顔ぶれだったのを思い出すが、もっとも、歌六の利家、時蔵の寧々、左團次の半兵衛という今度の配役も悪くない。濃姫に菊之助、仲人役の名古屋因幡守の彦三郎等々、菊五郎劇団という手勢をうまく使った菊五郎得意の水入らずの芝居の良さでもある。團蔵の浅野又右衛門と安国寺恵瓊の二役などというのもなかなか乙で、團蔵もいい年配になって、味なところを見せるようになってきた。

      *

『太閤記』談義が思わず長くなったが、今月は昼は菊に吉が付き合い、夜は吉に菊が付き合うという、菊吉連合王国が皆々萬(ばん)歳(ぜい)を唱えるがごとき陣容なわけで、その意味では、吉右衛門の次郎左衛門、菊之助の八ッ橋に菊五郎が栄之丞を付き合うという『籠釣瓶』の方が一段とUNITED KINGDOMとしての実を挙げているともいえる。で、またこの栄之丞のスパイスがよく効いている。

吉右衛門は(筋書の上演資料によると、数え違いでなければ今度で12回目ということになる)すっかり草書風、菊之助は、世代からいっても芸統からいっても、例の見染めの謎の微笑ひとつを見ても、歌右衛門神話の呪縛から自由な地点に立っていることがわかる。『籠釣瓶』上演史の観点から見ればそこが面白いとも言え、菊之助論の観点からすれば、菊之助がこの役をどういう風に見ているかに興味が行くことになる。もっとも、目下のところは、決して尻尾を出さない「お利巧菊ちゃん」の埒から出ようとしないから、芸そのものの面白さとなって現れるというわけには行かない。そこが物足りないとも、それが菊之助なのだともいえる。即ちそれが、「菊之助のいま」なのだと考える他はない。今後、いろいろな次郎左衛門を相手にしながら(海老蔵の次郎左衛門などということもあるかしらん)、年齢芸歴を重ねつつ様々に八ッ橋を見せてくれる(であろう)のを楽しみにしよう。(まさか、八ッ橋より次郎左衛門の方がやりたい、などと言い出したりしないだろうね?)

歌六と魁春の立花屋夫婦がいい。立花屋には立花屋なりの打算もあれば商売気もある、というところを抑えつつもそれをあざとくは見せない、そのあたりの案配が大人の芝居である。この『籠釣瓶』という狂言は従来識者からは通俗歌舞伎と見做されてあまり高い評価を受けてこなかったような気がするが、同じ吉原を舞台にしながら、『助六』を裏焼きしたような、リアリズム歌舞伎としてじつはなかなかの傑作であると私は思っている。。

       *

その他では『源太勘当』で秀太郎の延寿が流石である。こういう作品ほど、義太夫物としてのツボをしっかり押さえてつとめないと何が面白いのかわからないようになってしまう。梅玉の源太も今ではこの人のものだろうが、菊之助がしてみるのも面白いかもしれない。時蔵と松緑の『浜松風恋歌』というのは、実は今度初めて見た。『須磨の写絵』の下の巻と同工異曲で、30分ですんでしまうから追出しとして便利とも言えるが、筋書の解説に『須磨の写絵』にまるで触れていないのは、ちと不親切ではあるまいか?

      ***

新橋演舞場は「喜劇名作公演」と題して新喜劇と新派の相乗り、それに梅雀、つまり前進座育ちの芸が加わるという一座。もちろん、互いに努めてもいるに違いないが、思えば、成立事情はさまざまにせよ、いずれも歌舞伎の縁辺に生まれ、育ったジャンルの芸であるという一点で重なり合う。親和力の根源がそこにあることを、いま改めて知るのも、歴史が巡り巡っての面白さとも言えようか。少なくとも、当節稀な、大人が安心して芝居を見る楽しみがここにある。(作者はというと館直志、茂林寺文福、花登筐ということになるが、こうして並ぶと花登筐の作風のあざとさが気になるのは、まあ、お里の違いで仕方がない。)

三越劇場では北条秀司の『おばこ』を渡辺えりがやる。例によっての体当たり的熱演でそれはそれで悪くはない、こういうのも「あり」だろうと思わせるが、かつて市川翠扇と柳永二郎で見たのと同じ芝居と思えないほどテイストが異なっている。つまり渡辺えり流もありだと思わせるのは北条秀司の作の懐の深さ故であって(ということを、改めて思った)、それを芸の上で繋ぎとめているのは筑前翠瑶だ三原邦男だといった新派の脇役の面々である。演舞場の喜劇名作公演にしても、新派、新喜劇の役者たちこそ、今日の演劇界にあってのまさしくプロフェッショナル集団だということを今更ながら思わないわけにいかない。

      *

明治座で梅沢富美男が『おトラさん』をやっている。『おトラさん』といっても、懐かしさとともに知る人は六十代以上だろうか。『サザエさん』だけが独り勝ちのように残った形だが(じつを言えばその『サザエさん』だって、今知られているのはテレビでアニメ化されたもので、新聞の4コマ漫画とは実は風味を異にしているのだが)、昭和2,30年代の新聞連載漫画というのは大変な黄金時代で、各紙こぞって大ヒット作を長期にわたって連載していたのだ。

映画化・テレビドラマ化されると、当然ながら、そのタレントの個性で見せることになるから原作の漫画とは味も狙いも異なるのは避けがたいところで、むしろ別物と考えた方がいいが、江利チエミの『サザエさん』、藤村有弘の『エプロンおばさん』、都知事になった青島幸男の『いじわるばあさん』等々といった系譜が成立する。柳家金語楼による『おトラさん』はその最も早い例になる。(因みに、『サザエさん』の初代ノリスケ役は売出し前の、というより、もっと正確に言えば、この役をもって売出しの第一歩としていた当時の仲代達矢である。)

今度の梅沢による舞台版も、原作のキャラとも設定とも大分違いがあるが、これはこれで大衆劇として悪いものではない。昭和36、7年ごろの人形町商店街という設定は、世態人情の移り変わる時代の潮目を捉える上で気が利いているし、毎夏の楽しみだった隅田川の花火も来年からは交通規制のために廃止になるという、幕切れのちょっぴり辛子を効かせる具合など、堤泰之の脚本も端倪すべからざるものがある。(職人たちのうわさ話に、長嶋はよく打つが王はさっぱりだ、あれでは三振王だと言わせるなど、「オヌシやるな」というところである。実際、この当時の王貞治氏はそんな程度だったのだ。昭和43年が初演の『おばこ』では、上州の山奥の温泉芸者が、王選手の一本足打法すごいねえ、と噂するセリフがある。まさしくこの数年のタイムラグの間に、「王選手」は草深い山奥にまで知らぬものない存在になったのである。)

      ***

今月の文楽は『信州川中島合戦』『桜鍔恨鮫鞘』『関取千両幟』とB級グルメのオンパレードの最後に、突如、『義経千本桜』のそれも「渡海屋・大物浦」という本膳が出るような、ふしぎな献立で、こうなると「大物浦」の、物語がすでに終わった後に延々と知盛の述懐と鎮魂のための件が続くのが、生理的苦痛のように感じられてしまう。歌舞伎の「大物浦」が、典侍局の件を少々犠牲にしてでも知盛入水を圧倒的な演出にして見せた知恵を改めて思わない訳には行かない。『靭猿』にしても、いたいけな子猿にしたところに歌舞伎の知恵があることに今度改めて気が付いた。文楽の猿は大猿であって、なるほど、あのぐらい大きい猿でなければ靭を作るには不足なわけだ(という理屈からどうしても離れられないのが、文楽と歌舞伎の違いの根本であろう。)

『川中島合戦』でも、歌舞伎で『輝虎配膳』を見ていると、この配膳はもう一膳足りないような気がするのだが、文楽でそのもう一膳の「直江屋敷」を見せられると、ああそういうことなのかと納得するものの、正直、いささか腹にもたれる感は否定しがたい。歌舞伎が「輝虎配膳」だけで切り上げてしまった理由もわからなくもない、ということになる。どちらにしても、痛しかゆしには違いない。

『桜鍔恨鮫鞘』を咲大夫が語るのが今月一番の大ご馳走だろうが、近代的知性というヴェールに包まれてしまった『天網島』だの『大和往来』だの以上に、こういうものこそ上方の町人社会を如実に映した作なのだろうと思わされる。歌舞伎での通称『鰻谷』という上方狂言の存在を知ったのは、昭和41年6月、東横ホールで十三代目仁左衛門と我童のおつま八郎兵衛で見た時だった。初めても何も、本興行での上演は今以てこのとき限り、その後もう一回、国立小劇場で大阪の芸能を集めた特別公演で、やはり十三代目と我童で見たのが私の『鰻谷』体験のすべてであり、もしかすると私の上方認識の最奥部を作っているかもしれない。菅丞相もさることながら、十三代目という人の芸に一番しっくりするのは八郎兵衛かもしれず(上方の辛抱立役というのはこういうものかと思わされた)、我童のおつまも、これこそが我童の真髄かと思うものだった。

嶋太夫が、人間国宝になったはいいがそれと引き換えのように引退という事態をめぐって、私などの耳にさえ、ホンマかいなと言いたくなるような、あまり愉快でない噂が聞えてきたりしたが、ここ数年、あれよという間に年配の大夫がいなくなってしまったことになる。もうこれで、昔ながらの風情・風格を持つ大夫は咲大夫だけといっていい。きちんと上手に語る大夫はこれからも出るだろうが、計算づくでは計れないような浄瑠璃を語る大夫は出ないだろう。嶋大夫の師の若太夫という人はまさにそういう人だった。嶋大夫は豪放な若太夫と芸は似ていないが、ある種、昔風の義太夫を語る最後の人であったとは言えるだろう。口調が何となくべちゃべちゃする感じが気になる処はあったが、演目によっては流石老巧と思わせるものがあった。七,八年前になろうか、『敵討襤褸錦』の「大晏寺堤」の前の場の「春藤次郎右衛門出立」を語ったとき、コトバのうまさに感じ入ったことがある。

      *

ところで今回、嶋大夫最後の床となった『関取千両幟』の「相撲場」で猪名川と鉄ケ嶽の取組みの仕切り直しの際、鉄ケ嶽に琴奨菊よろしく琴バウアー(と呼ぶことに一本化した由。菊バウアーの方がよかったのに。猪名川にさせたらイナバウアーになるところだった)をさせたのはご愛敬だったが、塩を四本柱の根方に置いてあったのは間違いである。あれは柱の程よき高さに塩を入れた笊をくくり付けるのだ。現在のような下に置くやり方は、昭和27年秋場所(栃錦が関脇で初優勝した場所である)、四本柱を廃止して吊屋根から房を下げるようにしたときからのことで、当初は、大きな体の力士が体をかがめて塩をとるのをおかしく思ったものだ。(ついでに言うと、「満員御禮」と書いた白い幕も、四本柱にくくり付けたのである。)

        ***

シアタークリエの大竹しのぶ三演目の『ピアフ』の大熱演。すっかり堂に入って「しのぶ十種」の内に入れてもいいほどだが、どうも歌が上手くねえなという声も、ロビーのそこここから聞こえてくる。私はパム・ジェムス作のこの狂言(!)は歌より芝居だと思っているので、一応ピアフらしく聞こえれば歌の巧拙はさほど気にしないが、いや歌があってのこの芝居であると考える向きも少なくないようで、そうなると、評価もがらりと変わってくることになる。

これとは別物だが、先に話に出した『おばこ』の後、「渡辺えり愛唱歌」と題するコーナーというか、もう一幕というかがついている。一丁のアコーディオン(だったりギターだったりピアノだったり、大塚雄一が弾き分ける)の伴奏で歌とトークで運ぶのだが、こちらでも、歌がどうも、ということになる。歌手の公演とは意味が違うとはいえ、わざわざ一演目として設ける以上、客を喜ばせてくれなければ、余計なおまけをもらって却って困るということになる。たぶん、歌う曲によってバラツキ(乱高下?)があるのだろうが、もっともこちらは最後の演目だったから、ロビーの噂を聞く暇もなかった。

随談第568回 一月の人物誌-梅之助・鶴蔵・春団治・前田祐吉・榎本喜八、一転して琴奨菊

梅之助逝去を伝えるのに、「遠山の金さん」などでおなじみの俳優中村梅之助さんが亡くなりました、という相変わらずのテレビ報道のスタンスには今更驚きもしないが、これはテレビとはそういうものであるとテレビ局自身が、ということはテレビ人種という人類が揺るぎなく考えていることの現われと見るべきであろう。しばらく昔になるが芥川也寸志逝去の折の報が「大河ドラマ『赤穂浪士』のテーマ曲でお馴染みの芥川也寸志さんが亡くなりました」であったから、仮にいまベートーベンが死んだとすると「『エリーゼのために』でお馴染みの作曲家ベートーベンさんが亡くなりました」というニュースになるわけだ。

それにしても、並のワイドショーならまだしも、TBSでも看板番組に相違ないかの『サンデーモーニング』でさえ、遠山の金さんから切り出したのはともかく、司会者の原稿の読み方が胡乱で、うっかりすると梅之助が前進座の創立者であるように聞いた人がいたかもしれないようだったのは、要するに知識も用意もまるでなしに読んだが故なのだろう。ほんの二、三秒の言い淀みの揚げ足を取るのではない。関口宏氏が名司会者(といっていいであろう)たる所以は、インテリぶりといい、世上の事どもに対する知識や見識、如才なさと骨っぽさの混じり具合等々、すべてが「中の上」という程のよいところでバランスよく整っているために、何事にもニュートラルな対応が出来るところにあると見ているが、つまり当節の中高年男性の質の良いところの備えている「常識」というものが如何なるものであるかを、この関口氏のヘマははしなくも物語っているかのようだ。前進座第二世代の代表として、芸の上でも座の運営の上でも、前進座の担い手であり顔であった中村梅之助も、要するに「遠山の金さん」の「これにて一件落着」というセリフで有名なあの人、であり、「前進座」とかいう劇団みたいなところの創立者だか何だか(?)でもあるらしい・・・といった辺りが、当節の中高年ジェントルメンの持ち合わせている「梅之助認識」であるということであろう。そもそも番組としての扱いもおざなり臭かった。要するに、知らない、のだ。ということは、「関心外」なのだ。かの「サンデー・モーニング」にしてなお、である。

(梅之助はそれでも「金さん」があったからまだいい。先年亡くなった安井昌二など、「新派の重鎮」だけでなく、かつては映画俳優として『ビルマの竪琴』という有名作の主役としての経歴もあるにもかかわらず、当節のマスコミ人には『ビルマの竪琴』といえば市川崑監督で石坂浩二のやったリメーク版であり、同じ頃に死んだ宇津井健なら知っているが、安井昌二などと言っても、ハア?といったとこなのだろう。)

         *

鶴蔵が死んだ。訃を聞いたのは暮れの内だったか。舞台に立たなくなってもう何年になるか、俳優協会で出している『かぶき手帖』の俳優名鑑の「市村鶴蔵」の項はもう十年來、私の書いたものが再録されていたが、それもこの一月発行の「2016年版」でお終いということになる。巧いという人ではなかったが、戦前からの歌舞伎を知る人ならではの「役者らしさ」があった。

何と言っても思い出すのは『三人吉三』の八百屋久兵衛だが(大詰に庚申丸と百両の金包みの二品を預かって花道を駆け込むところで、たまたま席を隣り合わせていた水落潔さんが「あんな人にあんな大事なものを預けて大丈夫なんでしょうかねえ」と笑いながら話しかけてきたのが如何にもむべなるかなという感じだった)、昭和46年5月、六代目菊五郎二十三回忌追善興行の歌舞伎座で鶴蔵になった時に、『道行旅路の花聟』に伴内をつとめて、はじめ三段目、つまり「進物場」「喧嘩場」と同じ裃袴で登場、花道付け根ではらりと衣裳が脱げ落ちていつもの湯文字姿になるという型を見せたのが忘れられない。つまり『旅路の花聟』と『仮名手本』三段目との脈絡をつけて見せるという、なかなか味な型なわけで、この型はのちに十代目三津五郎が見せたことがあったが、特に通しで出す場合など、今後も誰かが受け継いで然るべきであろう。ともあれこれで、大正生まれの歌舞伎俳優はいなくなったことになるわけか。

桂春団治についても書いておくべきだろうが、実をいうとこの人について私は語るべきことをあまり持っていない、というより、語るべき資格がないといった方が妥当かも知れない。つまり私が高座に何度か接した頃の春団治は、端正さが取り澄ました気取りと紙一重のような感じで、親しみをもって取りつく隙を与えてくれなかった。黒の羽織に朱色の紐といった一種の気障さと、一針のほころびも見せない完全主義の芸が、正直、まだ固かった。近年の、老熟を感じさせる風格から、いまならまた違う春団治に接しられるだろうと思いながら、落語を聞きに行くという習慣を失ってしまったという不精から、その真骨頂を窺う機会をついに得ないままになってしまった。米朝の上方言葉は東京の客にもわかるように按配した上方弁で、春団治のこそ本来の上方言葉だと教わりながら、そういうものかと思いつつ、遂にこれという機会を得ないままになってしまった。

       *

前田祐吉といっても、ハテ?と首をかしげる人の方が多いだろうが、1960年(つまり安保の年だ)の秋の六大学野球で早慶6連戦ということがあり、そのときの慶應の監督である。つい昨秋、その折の早稲田の監督だった石井連蔵氏が亡くなったときにもこのブログに書いたが、両校監督が相次いで逝ったことになる。こういうことは不思議なほどよくあるもので、よく、後を追うように亡くなった、という言い方をするが、あれから56年、月並みだが、時代が終わったと思わせられるような事態が次々と起る、これもそのひとつということになる。

しかしそういうこと以上に、あの年は、夏前に安保騒動があり、プロ野球では大洋ホエールズが三原監督になって万年最下位から優勝、日本シリーズでも大毎オリオンズに四タテを喰らわせて勝ってしまった年であり(巨人はこの年が水原監督の最後の年、翌年から川上監督になる端境期で、およそパッとしなかった)、大相撲はこの年5月場所で栃錦が引退し、その1月場所に大鵬が新入幕(3月場所で栃錦・大鵬戦というのが一回だけ行われている)、柏鵬の対戦が人気随一になった最初の年であり、という風に、何かにつけ、同じ「戦後」でも、昭和20年代以来の匂いがなくなって、「第二期戦後」とでもいうような時代の匂いが充満し始めた、分水嶺の年であったような気がする。私はちょうど大学に入学した年でもあったから、我が身と重ね合わせて、56年という歳月の果て、前田・石井の早慶両監督の死が相次いだことに感慨を覚えるのだろう。

          *

つい先頃、工藤公康、斎藤雅樹と言った面々が野球殿堂入りしたというニュースの中に、榎本喜八も殿堂入りというのがあってエーッと思った。まだ殿堂入りしていなかったのか、という驚きである。殿堂入りのための規定というのが、毎回、殿堂入りの記事に添えられているので凡そのことは知らないわけでもないのだが、何だかややこしいルールがあってびしっと頭に入っていない。とに角、榎本ほどの名選手がまだ殿堂に入っていなかったというのは不思議という他はない。ご当人はもう故人であって、直接その喜びを知ることはないままである。

変人だとかなんとか言われていたようだが、要するにそれはかつての剣豪小説の人物のような求道のため故の変人ぶりであって、いまのイチローだって相当の変人であるらしいのと同じことだ。人気のない時代のパ・リーグを代表する強打者として、南海ホークスの野村克也と双璧であろう。違うのは、大監督だの名監督などに間違ってもならない生き方にある。

三ノ輪に東京スタジアムが出来て阪急=大毎戦というのを見に行ったことがある。真夏のナイターで、歌右衛門と寿海でやった綺堂の『箕輪心中』を見て間もなくだったのをいま思い出したが、つまり地下鉄の日比谷線で南千住の手前の、そんなところにプロ野球の球場が出来たというのでちょいとした話題になった。当時はやりのコンクリート打ちっ放しのような殺風景な感じが、妙に似合っていた。試合経過などはもうまったく覚えていないが、阪急に、黒人選手第一号で人気のあったバルボンがまだ出ていた。その当時だって在日もう10年を越えていたろうから、かなり息長く活躍したわけだ。わが榎本は、パリスという白人選手の強打者と大毎の3,4番を打っていた。この試合でも、どちらかが一本、打ったのではなかったっけ。

      *

訃報がらみの人物誌の最後に琴奨菊のことを書くのは気が差すようだが、妙なつもりは全くない。今場所の相撲っぷりの見事さは既に言い尽くされている通りで,言い足すべきこともない。まさしく気は優しくて力持ち、「おすもうさん」というイメージ通りの人柄があまねく知れ渡ったらしいのも、我ひと共に喜ばしいことだ。

年末に載せた第565回の「BC級映画名鑑」の『名寄岩涙の敢闘賞』にちょいと名前を出しておいたが、栃錦などよりやや先輩だがひと足遅れて大関になった三根山という大関がいた。体つきと言い、がぶり寄りが得意の相撲ぶりといい、琴奨菊をその三根山と重ね合わせて見ることが多かった。あまり強いとは言えなかったが、真面目な土俵ぶりと「おすもうさん」らしい風格とで独特の人気があった。琴奨菊も、いうなら現代の三根山かと見ていたのだが、そういえば三根山も一度優勝している。もっともその場所は上位陣総崩れの乱戦混線模様の中で比較的傷の浅かった三根山が12勝3敗で勝ち残るように優勝したのであったから、今度の琴奨菊の優勝の内容充実とは比較にならない。今場所の「化け」ぶりがもし本物なら、先代の師匠の琴桜が、突如、押しとのど輪の威力がワンランク上がったかのような強さと風格となって二場所連覇して横綱になってしまった先例の再現もあるかもしれないと思わせる。(取りこぼしが多かったので連覇してなお疑問視する声も上がった時、現役の先輩横綱であった北の富士氏が「あんな強い奴を横綱にしないで誰を横綱にするんだ」と言い放ったのが実に痛快だったのを思い出す。)

日本人力士の優勝が10年ぶりというので、普段は大相撲など見向きもしないマスコミが大騒ぎをして、(案のごとく)ナショナリズム偏向と批判も出始めたようだが、私は今度のマスコミのフィーバーぶりは一度通らざるを得ない通過儀礼のようなものだと考えている。以前若貴ブーム前期の頃、貴乃花がまだ完熟に至らず、曙の方が先んじていた一時期があって、ある場所、ようやく貴乃花が曙との決戦に勝てば優勝というところまで行きながら負けてしまい、曙に名を成さしめたということがあったが、その時の表彰式はひどいものだった。テレビの画面に映る向う正面の客席がほとんど空になってしまったのだ。なんたる狭量かと、この時ばかりは、相撲ファンと称する人たちの心なさに唖然、憤然、曙のために義憤を覚えたものだったが、あれからざっと20余年、観客も随分大人になったのは、「小錦黒船説」などが起った頃を思い起こせば、「文明開化」もずいぶんと進んだことがわかる。日本人力士も時には優勝するようになってこそ、いうところの「大相撲国際化」も雨降って地固まるのだ。それにつけても、立役者となった琴奨菊の「おすもうさんぶり」は、さまざまな意味で「値千金」であったといえる。