随談第588回 歳末日記抄

一昨日辺りを境に、突如歳末となったという感じである。思えば、「押し詰まる」という語感を忘れかけて久しい。以前は12月に入ると徐々に歳末の感じが、世間にも職場にも、各家庭にも色濃くなってゆき(12月14日の討入の日辺りからそれが加速的になり出すのが実感された)、文字通り、暮が押し詰まってゆくのがひしひしと思われたものだったが、当今は、昨日までは何事もなく、今日から突如、遮断壁が下りるように歳末になる、という感じだ。そこで慌てて、歳末の日記からのよしなしごとの抜き書きで、今年のこのブログを締め括ることにしよう。

(その1・ふしぎな歌) 『べっぴんさん』という朝ドラの主題歌が、3カ月経った今なお、何を言っているのか歌詞が半分ぐらいしか聞き取れない。とんでもないところで言葉を切ったり、重要と思われる言葉をボソッと呟くかと思うと妙なところで声を張り上げたり。翻って思うに、歌詞、発声、フレーズの切り方、強弱の付け方等々、おそらく作詞・作曲・歌い手、更にこれを容認し採用したディレクターその他のスタッフ・番組関係者たちの日本語に対する感覚が、われわれのような旧時代人とは、おそらくまったく別種の言語感覚の上に成り立っているのだろうと考える他はない。

主題歌もだが、ドラマ自体も、題材への興味に引かされて、まあ、見続けてはいるものの、かなりかったるい進行である。神戸のハイカラ=ブルジョア家庭に育った仲良し3人組が、戦災にあったり夫が出征・復員、貧窮生活に陥ったりしながらもお嬢さん気質は微動だにせず、女学生気分そのままに小さなベビー用品店を始め、やがて大百貨店に店舗を出すようになり、この先には一代飛躍をするのであろうという(実は誰もが知る有名メーカーがモデルであるという)物語は、このところの朝ドラお得意のストーリーで、どうやら、ヒロインたちのお嬢さん流のやり方が男社会の通念・常識に勝ってしまうという筋書は結構愉快なドラマになりそうに思うのだが、脚本・演出とも、それなりのユーモアということを考えているらしい気配はあるものの、運びに起伏・緩急がないから、いらいらすることおびただしい。独善の匂いが充満している。

わけてもイライラを増幅させるのがヒロインの亭主で、この男がでてくるだけでうんざりする。マジメで誠実なだけが取り柄、小心、小胆、器の小ささ、男としての魅力のないことでは朝ドラの歴代のヒロイン亭主としてワースト幾つかに入るであろう。この男を含む仲良し3人組の夫たちは、要するに一種の三バカ大将なわけだろうが、それならいっそ三枚目にしてお笑い系の役者にでも配役した方が、多少は救われるかも知れない。

そんなにつまらなければ見るのをやめればよさそうなものだが、いまさらやめるのもイマイマシイ。と、そうやって釣るのも、演出者の手の内かも。

(その2・夜のニンマリ)朝ドラついでに大河ドラマ『真田丸』。まあ、面白い部類であった。あの作者、あの主人公役なら、ああなるであろう、うまいものだとも思い、こうとよりならないのだなあ、とも思う。通して見て、作者の意図を最後まで貫かせることを可能にした一番の功労者は長沢ますみであろう。最初、現代調丸出しの演技でオヤと思わせたが、実はそこに作者の(逃げも含めて)狙いがあるのだと分って見れば、彼女の存在感と演技は殊勲甲であったといってよかろう。だんだん歳を取ってゆく、それと共に女っぷりも上がってゆく感じなど、なかなか端倪すべからざるものがあった。

あの女の存在があって、秀吉だ、家康だ、景勝だ、三成だ、淀君だ、その他その他の歴史上の著名人たちを捌く三谷幸喜流の料理塩梅が、それぞれ、なるほどという形を取り、位置を占め、オモシレエジャネエカと思わせるところに落ち着くことになった。つまり、作者三谷幸喜の立ち位置を、長沢まさみが言わず語らずの裡に視聴者に知らしめ、ドラマの中に定めたということになる。(イヤに褒めるようだが、ここがあのドラマの勘所なのだから仕方がない。)そこを見外せば、新聞の読者評に、あの主人公は一人だけ現代人が混じっているようでイメージにある幸村と違っていた、というさる年配読者の感想が載っていたが、在来の歴史ドラマファンからすれば、そう思うのが当然であろう。

(その3.沖縄見聞)今年からつとめることになったさる委員の仕事の一環として、視察旅行という名目で沖縄へ一泊の旅をした。旅は嫌いではないが出不精の性分で、はじめての沖縄である。那覇空港へ着陸の途中、地上に見えた最初の文字が屋根の上に「ニトリ」と大書された広告で、次いで着陸直前、自衛隊の滑走路が右手に見え、戦闘機や輸送機が何機も目に飛び込んできた。「ニトリ」の広告という「本土並み」的光景と、自衛隊機というキナ臭さの併存。あゝ沖縄だと妙なところで実感した。

沖縄の国立劇場を視察し、いわば歌舞伎に相当する組踊の舞台を見、ややお楽しみとして首里城址を見物するのが旅行の主たるところだったが、その首里城址に復元された王宮がなかなか面白かった。正面の正殿の左側に清の冊封使の席があり、清王朝の使者に向かって仮設の舞台がしつらえられ組踊が演じられる。それと向かい合って、つまり舞台の裏手から薩摩側の席がある、という図が、往時の琉球国をめぐる日中両国の関係だったわけだ。

と、そこで思い出したのが昭和31年7月、かの市川右太衛門の『旗本退屈男・謎の幽霊船』なる一作である。琉球国の御家騒動に退屈男が乗り込んで解決するという筋で、私の見た限りの退屈男シリーズで一番出来の良い作だったと思うが、善玉が薩摩派、悪玉が清朝派という設定で、高千穂ひづる演じるお守り役が幼君を守り抜く。感服した退屈男が「大和撫子はここにもいた」と感に堪えて言う右太衛門独特のやや上方訛りの名調子と、山形勲演じる悪玉方の隊長役が「我らにはさる大国の後ろ盾がござる」と退屈男に向かって言い放つ、これまた独特の、一種棒読み調子が耳に残っている。OSKの名花だった勝浦千浪が琉球の踊り子役で出ていたっけ。

(その4・ファミリーヒストリー)秋に実の兄が死に、親から引き継いできた上村家の仏壇が我が家に移されることになった。昭和改元とほぼ同時期に、亡父が分家独立と大学進学とを一挙に行ったのを機に拵えたと推察される古い仏壇である。

この際でもあるし、と思い立って、姉・妹の記憶も合わせ、聞き伝えていたことに加え、戸籍を確認するなどして上村家の系図を拵えてみた。肝心の、明治維新で幕府瓦解と共に北海道へ移住、という処で具体的な人名が辿れなくなるのが残念だが(死後80年で謄本が破棄されるらしい)、大筋のところは案外古いところまで遡れるもので、なにより面白かったのは、処々に伝わっている逸話のごときものから、いわゆるDNAのような、一族一党に通底する性癖・傾向・生きざまのようなものが、長短ともに、結構浮かび上がってくるように思われることである。同時に、ふだん忘れているような古い記憶というものが、兄弟姉妹、撚り合わせてみると、かなり正確に思い出され、辿れるものだということだった。

一方残念なのは、生涯独身を通した兄が、癌と知って家を売り払って余生を外国で送ろうと企てたはいいが、想定外に病の進行が早く、事実上、到着するなり入院、一カ月病院で過ごして死去、その国へは事実上死にに行ったような結果になったのが、本人は本望だったとしても、その結果、家具調度から蔵書その他、客観的にはろくなものではなくとも、兄弟姉妹には思い出のあるもの共、わけてもアルバムだの手紙類だの、とりわけ戦中戦後の時期を語るものが永久に失われてしまったことだ。系図はそれなりにできたものの、肝心の近過去の記憶を裏付ける資料が失われたことになる。

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本年度は是きり。来年もよろしくご愛読ください。

随談第587回 舞台随想

今月の歌舞伎では、玉三郎の道成寺に心が留まった。並々ならぬ思いが察しられたからである。決意、と言ってもよいし、心意気と言ってもよい。『京鹿子娘五人道成寺』という外題を見た時は、『日本振袖始』ならぬ五岐大蛇みたいだと思ったりもしたが、舞台を見ている内にそんな軽口を叩く気持ちは消え失せた。これで玉三郎は『娘道成寺』を舞い納める覚悟かも知れない、そう思わせるだけの強い意志がそくそくと迫ってくるのを感じた。

体力から言っても、玉三郎が『娘道成寺』を一人で踊り抜くことは多分もうあるまい。菊之助と踊った『京鹿子娘二人道成寺』も、新しい歌舞伎座で踊った東京での三演目が見納めと思っている。今度の「娘五人」は娘を三人増やしてそれだけ体を楽にしようというだけのことではあるまい。勘九郎、七之助、梅枝に児太郎。これと見込んだ四人の後輩を率いて、道行は五人、三蓋笠は児太郎、鞨鼓は勘九郎・七之助、「ただ頼め」は梅枝に任せ、クドキその他、ここぞという処は自ら踊る。『京鹿子娘二人道成寺』のようなさまざまな含意が読み取れるような構成の妙があるわけではない。役名は五人ともが白拍子花子だから、五人一身ということなのだろうが、そのこと自体に格別の面白さがあるわけでもない。むしろ、全曲を一人で踊り抜くことの無理を悟り、受け入れた玉三郎が、四人の後輩を自ら率いることによって五体一身の心で、自身の『京鹿子娘道成寺』を踊り収めようとの意思を私は読み取ったと思った。そしてそのことに感動を覚えた。クドキへの心入れ、四人を従えて鐘の上に立ち、見得をするときの気迫には、玉三郎一代の『娘道成寺』を誇示するかのような格別な美しさがあった。

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これを見るまで気づかなかったが、児太郎は国立と掛け持ちである。『仮名手本忠臣蔵』第3部としての八段目と九段目の小浪という大抜擢の大役と、この顔ぶれでの『五人道成寺』の一人という大抜擢である。児太郎にとっては生涯忘れられない月になるだろう。またそれによく応えている。芸の未だしをあげつらうより、一心さを以て芸の不足を上回った「初一念」をこそ、認めるべきであろう。

梅枝については、私は夙に、講師を引き受けているカルチャー教室で、株を買うなら梅枝株を今のうちに買っておくことを勧めます。それもすぐに売らないで、財産として取ってお置きになるとよい、と話してある。曾祖父三代目時蔵の俤を見ているからだが、今月の花子と『寺子屋』の戸浪を見ながら、むしろ三代目左團次を思い出した。どちらに似たところで、今の世にあの顔の長さは、それだけでも希少品だが、もちろんそれだけが理由ではない。相撲で言えば、腰の備えがいい。とり越し苦労をひとつするなら、あまりああだと、人気の上で割を食ったりしないだろうかということだけだ。

七之助がすっかり大人になった。真女方として貴重な存在となった。これからを大切に歩んでもらいたい。中車、松也と三人芝居の『吹雪峠』でも、一番戯曲に肉薄していたのは七之助だった。(『吹雪峠』といえば、中車はこれから、自分をどういう方向へ持っていこうとしているのだろう? いまのところ中車の舞台には、不可もない代わりに優も秀もない。失敗を恐れ過ぎてはいないだろうか?)

四人の後輩女方といっても、勘九郎のはあくまでも立役が加役として踊る道成寺であり、もちろんそれでよいのだが、このところの勘九郎の舞台ぶりにやや行き暮れたような翳を感じるのは私だけだろうか。第二部の『寺子屋』で松王丸をしていて、おとっつあんそっくりと声がかかってもおかしくないだけの成績を示してはいるのだが、父親そっくりが、眉毛をぴくぴくさせるなど細部の模写に陥りかねない危惧を覚える。湊川で討ち死にした父正成を慕う楠木正行ではないが、父のようになりたい、なろうと思う一心に凝り固まっていはしまいか。親を尊敬するのはもちろんいい。だが、やがて来る十九代目勘三郎は、十八代目とはまた別な、独自の勘三郎でなければならない。

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12月の三部制が、それぞれ同一料金なのは、当然といえば当然だろうが、おかしいといえばおかしい。玉三郎が『二人椀久』と『五人娘道成寺』を踊る第三部と、獅童と松也の歌舞伎ミュージカル『あらしのよるに』が同じ料金で見られるという、この歌舞伎座風デモクラシイに幸いあれ、か?

『あらしのよるに』がいけないと言っているのではない。あれはあれで結構だと思う。4月末、幕張メッセで初音ミクと共演した獅童の獅子奮迅ぶりに一種感動を覚えたことは、その折にこの欄に書いた通りである。『あらしのよるに』もその延長線上に置いて見るとき、こうした路線における獅童の在り様というものが如何に稀有なものであるかがわかる。海老蔵、菊之助さらに勘九郎、七之助、さらにさらに染五郎・・・と指を折っても、獅童のこの働きに拮抗できる人材があろうとも思われない。

『あらしのよるに』を迎える客席の反応も好意と満足感に満ち満ちていた。成功だったのである。しかしそのことと、玉三郎の道成寺が同じ料金でよいのだろうか?という疑問とは矛盾することではない。玉三郎の第3部が1万2千円なら、第一部『あらしのよるに』は6千円でいいのではないか? むしろ、6千円で、大勢の若い人たちに見てもらうべきものではないか? 誤解のないために言うのだが、これは価値の上下をいっているのでも、儲け主義がどうのということを言っているのでもない。

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国立劇場開場50周年の『仮名手本忠臣蔵』三部作がどうにか無事舞い納めた。菊五郎の勘平という秀作を生み出しただけでも、しただけのことはあったと言ってよい。

国立劇場について、税金でまかなってもらえるから経営努力をしない、ということを言う向きがあるが、私はその手の「きびしい」声には必ずしも同調しない。少なくとも、「いま置かれている」状況の中で相当の努力を払っていることは間違いない。50年前の開場当時は、歌舞伎座が年間、ときには年に8回か9回しか歌舞伎の興行が出来なかった中で、1年12カ月、歌舞伎公演をしていたのが、どうして、歌舞伎教室を入れても年6回になってしまったのかは、おそらく国立劇場だけの責任ではあるまい。

それにつけてもだが、近頃、カルチャーなどで受講者の方々の話を聞いていてアッと思うのは、五十年配六十年配で比較的近年に歌舞伎に関心を持つようになったような人たちが、その念頭に国立劇場の存在がほとんど入っていないということである。歌舞伎座が改築されたことで歌舞伎に関心を持つようになったという人も少なくないのだろう。11月の「忠臣蔵シリーズ第二部など、菊五郎の勘平に吉右衛門の由良之助が揃って顔をそろえて、料金も歌舞伎座の3分の2ですむという「お徳用」であったにも拘らず、薦めてもピンとこないような顔で聞いている。旧歌舞伎座がいよいよ取り壊しというニュースが流れた時、まだ元気だった勘三郎がタクシーに乗ったら、「あんたたちも歌舞伎座がなくなったら仕事がなくて大変だね」と運転手から同情されたという笑い話は、実は決して笑い話ではない。

随談第586回 舞台随想(その2)

吉右衛門が「七段目」の大星一役、菊五郎が「五・六段目」の勘平一役、仁左衛門が『御浜御殿』の綱豊卿一役(『連獅子』の間狂言の慶雲阿闍梨というのもあるが、あれはまあ、今この際はノー・カウントとしよう)という中で、幸四郎一人、『加賀鳶』の道玄に、芝翫襲名の披露演目『盛綱陣屋』で和田兵衛を勤めるという元気さである。今月に限った話ではない。このところ、こうした「現象」をしばしば目にするが、心身共に健康且つ若いのであろう。やがてXデーが来ても高麗屋ばかりは超高齢者として矍鑠として舞台に立ち続けるのではあるまいか? 舞台ぶりも、同世代の大家たちの中でもひと際、万年青年的な若さを感じさせる。レジェンドとなるのは、案外この人であるかもしれない。

『加賀鳶』の道玄を初めて演じたのは、もう60歳を過ぎてからだった。他にも次々と黙阿弥物を手掛け出し、『筆屋幸兵衛』などは没落士族だから身体にある役といえようが、円転滑脱の趣きからは遠い幸四郎が何故、柄にもない芸質にもない(と思われる)黙阿弥物を?と、真意を測りかねるところも、正直あった。しかしご当人は案外喜劇好きとおぼしく、演じ重ねて道玄も今度で五演目となると、それはそれなりに身について来て、ようやく我が物としたなと認めてよいだけの流露感が感じられるようになった。菊五郎も二度ほどつとめているが正直、如何に当代の兼ねる役者といはいえ、やはり根にある二枚目役者としての体質が、こういう役となるとどこかで邪魔をすることになるからおそろしい。となると、いまや高麗屋を以て担い手と認めるのが現実というものであろう。少なくとも、道玄のオトコとしての強面ぶりは本物である。(勘三郎は遂に一度も手掛けないまま逝ってしまったが、もしやっていたとして、果たしてどうだったろう?)

松蔵の梅玉というものは、これもいまやこの人を以て適任者と認めてよく、あの細身に程の良い量感を蓄えた感じがなかなかいい。鳶の恰好で踵を揃えて束に立った姿が、現在一番風情があるのはこの人だろう。

おさすりお兼を秀太郎がやっていて、このところ頓に、じゃらじゃらした、どこまでが役でどこからが地だかわからないような世話のセリフがすっかり堂に入って、いまやお兼役者として揺るぎがないが(秀太郎がまさかこういう風になろうとは、50年前の国立劇場開場の折の苅屋姫などからは想像もつかなかった)、夜の部の『盛綱陣屋』では微妙をつとめるという変幻自在ぶりを見せるが、こちらは、情の厚さに於いては申し分ないが、セリフのじゃらじゃらがわざわいしてどうも世話っぽくなるのが気になる。先頃の『道明寺』での覚寿もそうだったが、かつての苅屋姫が、覚寿や微妙以上にお兼の方がピッタリになってしまおうとは、まさに有為転変の世の中である。

それにしても、昼の部と夜の部ではお客が入れ替わるからいいのかもしれないが、一日の内にお兼と微妙を同じ役者が勤めるという配役は、どうも感心したことではない。もちろんこれは、秀太郎が望んでしたことではあるまい。東蔵は国立劇場で六段目のおかやをしているし、余儀ないこととはいえ如何なものか。

『加賀鳶』と言えば(通しで出たのは、国立劇場で一度切り、見たことがない)、「木戸前」の勢揃いを序幕とするのが定例となっている。いつぞや赤川次郎氏が、後の場面と筋の上の関係のない「勢揃い」不要論を唱えていたが、なるほど、外題は『加賀鳶』と言いながら鳶は松蔵ひとりしか活躍しない、つまりこの場合も、脇筋である道玄の筋の方が庇を借りて母屋を奪っているわけだ。しかし「勢揃い」のない『加賀鳶』というのも、入場式のないオリンピックみたいなものだろう。

ところでその「勢揃い」を見るとき私がいつも気にかけていることがあって、それは、いざ引き上げと決まって舞台下手に二列に並んだ鳶たちがセリフを言いながら半纏を畳む時の、素早く脱いでビシッと四角く畳む、その手際である。これがなかなかうまく行かないことが多く、中には遂に間に合わず、レインコートみたいにぐしゃぐしゃに持ったまま引き上げる羽目になるのが、大概、一人二人出る。はじめに脱ぐときに袂が引っ掛ると後に響くことになるわけだが、要は気働きの有無であって、今月私の見た日に限って言うと、うまくいかなかった某君の名前は伏せるとして、断トツに手際が鮮やかだったのは右近だった。

この「勢揃い」で、冒頭、押し出して来た鳶たちが花道に並んでツラネを言うのがいわばセレモニーの入場行進みたいなものだが、先頭の春木町巳之助が一同の兄貴分、次の昼っ子尾之吉というのが、ひとりだけ前髪をつけた未成年なのが目につく、この二人がとりわけいい役ということになっている。今度は春木町巳之助が染五郎でこれは顔ぶれから言って順当、役者の格と役の格が重なって結構だが、昼っ子尾之吉に襲名三兄弟の末弟歌之助が、お兄ちゃん二人を差し置いて抜擢されているのがオッと言わせる。声変わりの真っ最中、意気の良さが身上というところだが。

その染五郎だが、自分でも『口上』で笑わせている通り昼夜5役の大奮闘だが、よかったのはこの春木町巳之助と『盛綱陣屋』の暴れの注進といった付合い役、『御浜御殿』の富森は健闘を認めてよいが、実はあの役、作者の指定によると、江戸勤番の都会人が国詰めの田舎侍を装っているのだ、とある。もっとも、そういう富森を演じたのは…などと言い出すと、八代目三津五郎に富十郎に、後は…ということになってしまうが、染五郎に限らず当今の富森は皆、その辺りの含みがどこかへ行ってしまっているような気がする。まあ、それは措いておくとすれば、当節の富森として好演と言ってよいだろうが、肝心の自身の出し物である『毛抜』の粂寺弾正が、思ったほどでなかったのが気になる。喉で発声する昔の癖が戻って、せっかく、懸案だった『勧進帳』で弁慶をあれだけにやってのけ、役者ぶりだけでなく、役どころ、つまり役者としてのフィールドを大きく開拓するゆとりを身に着けたかと期待した折だけに、おやおやというところなのが残念である。

ついでだが、『御浜御殿』で、綱豊に突き放されて富森が吉良を討とうと焦るのをお喜世が必死で止めようともみ合っているさなか、舞台奥の縁先を吉良とおぼしき老人が腰元に案内されて通るのが開いている障子の間から見える、という演出を、何故か今度は採っていない。これは染五郎の責任ではないと思うが、仁左衛門の意向だろうか?

11月の初日を目前に、彦三郎が楽善になり、長男の亀三郎が彦三郎に、次男の亀寿が亀蔵になるということが発表になった。楽善という名前は不勉強で知らなかったが、三代目が隠居名として名乗った名前の由。

彦三郎は、この月の時政でも目についた体の具合から察するとやむを得ないところなのかもしれないが、それでも、「口上」の席に連なってのいかにも渋い、風格ある役者ぶりは、キラキラ役者がもてはやされる当節、滋味のある風情でウムと唸らされる。それにしてもこの人、亀三郎に始まって薪水、亀蔵、彦三郎、そして今度の楽善と、私の見ている前で五つの名前を名乗ることになる。私としても、こんな例は初体験である。(光伸、八十助、簑助、(九代目)三津五郎というのがこれまでの最多改名記録だが、尤も私は光伸時代は見ていない。)

亀三郎といった子役時代に映画に出演している。昭和30年、山本有三の小説の映画化で原研吉監督の松竹映画『路傍の石』で、今も変わらない、生真面目でまっすぐな風貌・演技が主人公の吾一少年にぴったりだった。

亀三郎時代の思い出深い役といえばもう一つ、昭和ひと桁世代を中心に始まった東横ホールの若手歌舞伎が開場10周年を目前にした1964年10月(といえば東京オリンピックがまさに開催中である)、亀三郎等の当時の新世代を主力にした『仮名手本忠臣蔵』通し上演が行われ、現・菊五郎の丑之助の判官におかる、後の初代辰之助の左近の勘平、といった中で亀三郎の役は若狭助に平右衛門だった。とりわけ平右衛門は、その後に見た父親世代の大家たちを含めても、いかにも妹思いの実意のこもった、好もしいものとして今なお甦ってくる。

(蛇足ながら、24歳だった現・左團次の男女蔵が、このとき既に、52年前となる先月の国立劇場と全く同じ師直と石堂をつとめている! 尤も、吉田の兼好を吉田の松陰などと言い間違えたりはしなかったが。)

これを受けて翌40年五月、歌舞伎座で六代目菊五郎十七回忌という特大の興行が行われ(この時に『保名』を踊ったのが11代目團十郎の最後の舞台となったという因縁の公演だった。そのころ何かとトラブルメーカー的行動が続いていた團十郎は、この時も途中休演して物議を醸したりしたが、私の見た日は再出場してからだったのは幸いだった)、丑之助改め菊之助、左近改め辰之助、亀三郎改め薪水という、菊五郎劇団三巨頭の長男3人の同時襲名という晴れ舞台だった。華やかな人気では他の二人に一籌を輸しても、芸が一番しっかりしているのはむしろ薪水だ、という声も少なくなかった。つまりこの時点での亀三郎改め薪水は、菊之助・辰之助と同列に並んでいたのである。

(ついでながら、いわゆる「三之助」なるものは、この時点ではまだ存在していなかった。後の12代目團十郎の新之助は、先の東横ホールの花形揃いの『忠臣蔵』にも、三人同時襲名の公演にも、「学業優先」という理由で出ていなかった。)

好事魔多しという決まり文句が、まもなく薪水を襲った難病の場合ほど、身に染みて思われることはないだろう。東北巡業中の夜行列車の車中だった、と聞いたように覚えているが確かなことは知らない。ともあれ非運はこの時に始まった。身体的なハンディキャップが、それ以後この人の役者人生について回ることになったのだ。長らく病気・保養の時期が続き、やがて亀蔵と改名する。心機一転の心算であったのだろうが、亀蔵時代の舞台は正直、印象が薄い。また数年して彦三郎となって、役どころ・地位、今日に至る歩みを続けてきたが、芯になる役をつとめる機会はほぼなくなった。気の毒、という言い方は却って非礼かも知れないが、薪水襲名前後の、爽やかな舞台ぶりをいま改めて思い起こすとき、何とも言えぬ懐かしさと共に、胸が熱くなるのを覚えないわけには行かない。

彦三郎の名前の先代は、実父の十七代目羽左衛門の前名であり、事情があってのことではあったが、彦三郎という大名跡から羽左衛門という、座元名に由来するまた別な大名跡に変わったのは異例と言われたものだった。新・彦三郎になる亀三郎は、その爽やかで清潔感のある風姿が、父の薪水時代を彷彿させる。良き彦三郎として、父の果たせなかった域に達する「いい役者」になってもらいたい。

弟の亀寿が、薪水でなく亀蔵になるのは、父が病魔に侵されたのが薪水を名乗っていた時期だったのを嫌ったのだろうか? それも分らないではないが、しかし薪水という名は祖父十七世羽左衛門も若き日に名乗った名前でもあるのだし、この際蘇らせてほしいという思いが正直する。この亀蔵は彦三郎家の名前なので坂東亀蔵だが、片岡家にも、現に片岡亀蔵が活躍中だし、羽左衛門家の名跡として市村亀蔵という名前もある(戦前のことだが十五代目羽左衛門の養子に亀蔵という人がいた)。

昭和三十年代から四十年代、中村福助が二人いて、成駒屋福助と高砂屋福助と呼んで区別していたものだが(時には、東京福助と大阪福助と呼ぶこともあったが、これはいかにも艶消しだった。言うまでもないが、この「東京福助」が新・芝翫の父の七代目芝翫のことである)、同名が二人、同時に存在するという事態は、なるべくなら避けた方がよい。

 

随談第585回 舞台随想(その1)

(むしろ「つなぎ」のようなつもりで書いた前回分だったが、予想外に長い掲載になってしまった。標題を「今月の舞台から」を「舞台随想」と改めます。)

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今月は、歌舞伎座の新芝翫も結構だが、国立劇場がお徳用である。何しろ、菊五郎の勘平と吉右衛門の大星が見られて、料金も歌舞伎座の3分の2ですむのだ。

菊五郎の勘平はこれで何度目だろう。またか、と思ったりした時期もあったが、その頃だって別に手を抜いていたわけではない。このクラスが顔を揃えて通しで出せば、判官と勘平は菊五郎と判で押したようになるからで、かつて父の梅幸も判官とおかると決まっていたのとよく似ている。そうしてよく、マンネリなどと陰口も聞かれたものだった。一面、それもそうには違いないが、しかしいま振り返れば、判官もおかるも、やっぱり梅幸のが一番懐かしく思い出されるのだから面白い。菊五郎の勘平もそれと同じようだが、今度のを見て、ちょいとこれは、今までとは別物だぞという気がする。することなすこと、無駄というものがない。無駄な力が入っていない。一段奥の境地に入ったのだ、と思わされる。

たまたまこの夏、尾上右近が自主公演「研の会」で五・六段目の勘平をしたのを連想する。まったく同じ型でつとめながら、片方は克明も克明、一挙手一投足に気を配り水も漏らすまい、という意識に満ち溢れていて、そこが秀才ならではの魅力でもあり面白いところでもあり、将来の展望へ夢を膨らませたくなるところでもあり、一方同時に、息も抜けない息苦しさに見ているこちらもへとへとになった理由でもある。菊五郎のはそれと対照的といえば手っ取り早い。菊五郎三傑の一と見て間違いない。(後の二傑は? とりあえず思いつくのは,一に『吉野山』の忠信、二に『幡随長兵衛』の水野、というのはどうだろう?)

歌舞伎座の『御浜御殿』で仁左衛門がこれも何度目とも知れぬ綱豊卿を、玲瓏玉の如き、余計なものの抜け切った境地で、呼吸している。呼吸している、というのも舞台評として妙なようだが、名演だの絶妙だの、技芸神に入るだの、よく使う劇評用語ではどれもピンとこない。

このところ、とりわけ肩の故障から再起して以降の仁左衛門というものは、ちょっと大仰に言えば一種仙境に入ったような感じで、透明感たるや只事ではない。ときとして、あまりにもこうなり過ぎては逆に影が薄くなってしまうような気がすることもないでもないが、いつぞやの菅丞相とか今度の綱豊卿のような役では、過去の誰彼に照らしても、ちょっと思い出せない独自の境地を思わせる。

「七段目」の大星というと、十三代目仁左衛門のを見てから、それも30年前の国立劇場20周年の時より、それより約10年前、公文協の地方公演を小田原まで追いかけて見たときに、それまで知っていた白鸚や松緑等東京の諸優の大星とはまるで別物なのを知った驚きが、あれから40年近くたった今なお、深く私の中に残っている。まさに祇園で遊ぶ由良大尽、「はんなり」というのはこういうことなのかと知った。無論、当代のも結構だが、何といっても戦前の祇園を知っている十三代目のようなわけには行かないのは是非もない。ああいう由良大尽は、おそらく見ることは叶わないであろう。

まあ、そういうことは置いておくなら、また国立劇場に戻って吉右衛門の大星が、東京風の大星としてまず言うところない。こころなしか、前段の遊蕩に韜晦しているときのセリフがやや小音なのが気にならなくもないが、最後の九太夫折檻の懸河の弁で帳消しにする。遊蕩に韜晦するさまと、九太夫折檻の懸河の弁絶の落差の大を自然に覆いくるめてしまう懐ろの大きさが、吉右衛門の吉右衛門たるところであろう。

この他にも東京勢の大星には、幸四郎もいるし、亡くなった團十郎もいたが、そうしたあずまおとこの大星たちの「ますらをぶり」とひと味ふた味違った、菊五郎の由良大尽というのを一度見てみたいものと、かねて私は思い続けている。祇園ではなく銀座だろう、などという減らず口は置いておいて、あれだけの勘平を見せてくれたいま、こういう大星もあるぞというのを「おねだり」しておきたい。

さて新・芝翫の盛綱がなかなか結構である。芸の上では、先月の『熊谷陣屋』よりいいのは生締の捌き役という「仁」に関わることでもあろうが、芝翫型を演じるにあたってのやや手探りの感や、團十郎型への未練も感じられなくもなかったのに比べ、迷うことなく取り組んでいる感じがいい。とかく難渋になりがちなこの芝居が、明快で、それでいて、丸本時代物の量感や奥行きを感じさせるのが値打ちである。とにかく、熊谷・盛綱と、二つの陣屋物をこれだけ見せたのだから、自信を持って然るべきである。

義兄の十八代目勘三郎が襲名の時、『盛綱陣屋』を出して驚かせたことがあった。襲名興行は三カ月にも及んだからいろいろな試みをする余地やゆとりがあったからでもあるが、盛綱とは、とそれまでの「勘九郎」から見て意表を突かれた。ところが本人の話によると、盛綱という役には前々から興味があって、何故かというと、長男坊の気持ちがよく書けているからだという。「だって、次男坊ってのは自分勝手だし、ずるいでしょ?」というのが勘三郎の意見だった。自分の都合だけでなくあれこれ気を配って勝手なふるまいはできないのが長男坊というものだ、と勘三郎は言った。なるほど『盛綱陣屋』というのは、弟の四郎高綱の勝手なふるまいを兄の三郎盛綱が全部自分の責任で引き受けて後始末をしてやるという芝居である。目の付け所のユニークさ面白さはさすが勘三郎だと思ったが、しかしそれなら、むしろ高綱の方が普通皆が思っている勘三郎のイメージに近いであろう筈ではないか? へーえ、と思った。この人はこの人なりにいろいろに気を配ったり、長男坊としての自分を盛綱に重ね合わせていたのだ。勘三郎という人を知る上でもこの「盛綱論」のユニークさは興味深いが、もっともこの長男盛綱に対する弟高綱は、まさか義理の弟の新・芝翫のことではないだろう。

ところでその勘三郎の盛綱は、いろいろ面白いところ、巧味を見せたところ、勘三郎一代の芸を見る上ではなかなか興味深いものだったが、しかし盛綱らしさという一点で、新・芝翫の方が私としては戴ける。当代の盛綱役者としてリストに加えられるものと言っていい。それはもちろん、見たさまだけのことではない。

(勘三郎と言えば、父の17代目も、後半生は兄の初代吉右衛門十八番へ次々と食指を動かすようになって、盛綱も二度にわたって手掛けたが、細部には処々に巧味を見せながら成功と呼ぶにはためらわれる、という体のものであったのを思い出す。)

随談第584回 十月のさまざま(訂正版)

(お詫びと訂正)冒頭の『箱根霊験記』についての記事の中で、過去の上演の年月の記載に誤りが2か所ありましたので、その個所を訂正したものを掲載します。)

役目柄の劇場巡りの範囲が大幅に広がったのに加え、種々の原稿締切、法事の準備手配等々、身辺何かと小忙しく、このブログも差し替えが間遠な状態が続いている。各座、疾うに楽日も過ぎ、打ち上げてしまった芝居の評判をするのも、出そびれた幽霊みたいで気が利かないから、今月のさまざまと題して、事件やら訃報やらさまざま取り交ぜて一席伺うこととしよう。

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10月末、片や国立演芸場、片や紀尾井ホールという小さな劇場で、素敵な演奏会を二晩続けて聞いた。国立演芸場は女義太夫の会で竹本駒之助・鶴沢津賀寿の『箱根霊験記』、紀尾井ホールは京都在住の常磐津都喜蔵師(本当はトキゾウの「キ」の字は「七十七」を一字として書く、あの字だが、実はこれは「喜」と同じ意味を表す本字なのだが、コンピュータには採録されていないと見えて変換できない。一般に略字と考えられがちなので、WINDOWS 10を作った技師もそう考え、IMEパッドにも載せなかったのであろう)が10余年来続けている常磐津の会で語った『仮名手本忠臣蔵』八段目と『本蔵下屋敷』である。駒之助は今や、文楽の太夫を含めても今聴いておくべき数少ない一人、まして今回の上演稀な貴重な曲(になってしまった)、今回聞き損ねたらチャンスはあるまいという逸品だった。冒頭不慣れが耳についた津賀寿も後段はよく弾いた。都喜蔵師また、その撥捌きのやわらかさ、少しの力みもない妙音を聞かせてくれる。名人と呼んで然るべきであろう。

(『箱根霊験記』は本来『箱根権現躄仇討』というのが本名題だが、「躄」の字を憚って、近頃はこういう呼び方をするらしい。歌舞伎での最近演は十年ほど前我當が南座で『箱根権現誉仇討』という外題で出した由だが私は見ていない。東京では昭和53年に十七代目勘三郎、歌右衛門、白鸚という大顔合わせで出したのが最後だが、実はこれはやや期待外れで、こういう小芝居種めいた狂言にはこの大家たちはあまり適任ではなかったようだ。昭和46年1月、これが東横歌舞伎最後の公演となった興行で、現・田之助の勝五郎、玉三郎の初花、孝夫の滝口上野というのと、昭和40年2月、猿之助の勝五郎、雀右衛門の初花、延若の滝口上野、竹之丞つまり富十郎の折助で出したのが、私の頭の中ではちゃんぽんになって、田之助・雀右衛門・延若・富十郎というベスト配役として記憶されている。母親役が骨の髄から大阪の役者のような中村霞仙だったのを、今回たまたま坐り合わせた神山彰氏のお陰で思い出した。)

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訃報と言えばやんごとなき際(きわ)から忘れかけていた名前までとりどりあるが、誰もが言う平凡な感想ながら、昭和の終わりということを、ビッグネームからマイナーネームまで、それぞれについて思わされた「死」がこのところ相次いだ。

前天皇の弟宮の死は、誰もが言うこととはいえ、これを以て「昭和」は完全に終止符を打たれたことを改めて痛感したという意味で、単なるニュースではなく「私事」に関わってくる死だった。亡くなるまではとりわけて関心事でもなかったにも関わらず、その報と共に、強くそれを意識することになったのは、我ながら意外だった。昭和天皇の戦後に関する事績を民間での行為を通じてほぼ完ぺきに補完した上、先ごろの当近の「玉音放送」まで、見るべきほどのことを見切った上での死であったように思われる。

岩波ホールで「木下順二没後10年」という案内を、あまり直接的な関わりを生前持たなかった私であるにも関わらず頂戴したので出かけたが、なかなか興味深い話を聞くことが出来た。1914年の生まれという。前日逝去された三笠宮が1915年生まれとの由だから、一歳違いだったわけだ。それぞれ立場は違え、本当の「戦中派」というのはこの人たちのことを言うのであろう。言うことすること、すべてが「戦争」と関わっている。

平幹さんについては、私の出る幕はいくらもない。テレビの『三匹の侍』で全国区デビューする前、初代錦之助の『親鸞』など、東映時代劇が新機軸を求めて、岩崎加根子とか河原崎長一郎とか、まだあまり手垢のついていない新劇の若手に目をつけて登用し始めた中にその顔を見つけた、というのが、せめて、語る人も比較的少ないかと思われる、数少ない私の出る幕と言えるだろう。誰しもそうであるように、全国区デビューする前の、痩せて、やや暗いイメージは、平幹氏の場合も例外ではなかったが、それも含めてイメージとしては終生、これほど変わらなかった人も珍しいとも言える。あの声、あの物の言い様、当時からああだった。そこに、この人のシャイネスがあるような気がして、そのために私は、最後まで好印象を持ち続けることが出来たと言っても過言ではない。声音と物の言い様に独特の知性が漂っていたという点、先年逝った三国連太郎と双璧であったろう。

野球界から、法政から広島に行った山本一義、慶應から巨人、さらに東映に行った渡海昇二と、しばらく耳から遠ざかっていた名前の訃報を相次いで聞いた。どちらも、私が大学に入学した時の、六大学野球でそれぞれのチームの主将だった。入学して最初に見に行った試合が慶法戦で、山本も渡海も、実物をそのとき初めて見たのだった。山本の方は、約十年後輩の山本浩二も同じ進路を辿ったもう一人の山本として、首位打者のタイトルは取らなくとも常に打撃十傑には入っていたように、地味だが実力派としてプロ球界名選手列伝の一隅に座を確保するほどの存在として全うしたが、渡海の方は、パッとした成績を残すことなくわずか4年でプロ球界から名前が消え、それから無慮半世紀余、稀に彼が主将を勤めていた秋のシーズンに繰り広げられた早慶6連戦のことが話題になる折に、ちらりと名前が出るという程度だった。渡海の名が六大学野球で知られ出したとき、野球好きでかなりの母校愛の持ち主と察しられる戸板康二さんが喜んで、「慶應に渡海屋銀平が現れた」と書いたことがあったが、肝心の銀平クンの活躍がせめて歌舞伎ファンにまで広く知られるに至らなかったために、折角の戸板さん一流のウィットもちょっといい話のネタになりそこなったのは残念だった。

同じ学年には早稲田の主将で国鉄スワローズに入ってまずまずの成績を残した徳武定之とか(はるか後年、郷ひろみの岳父として名前を聞くことになったのは思わざることだったが)、スター選手がかなりいた。のちに工学部の教授になったという東大のエース岡村が、9回裏満塁から投じた一球がデッドボールになって押し出し、負け試合になってしまったのを目の前で見たこともあった。次の学年で、大洋ホエールズに入って東大からはじめてプロ野球の投手となった新治よりも、岡村の方が名投手だったと思う。それにつけても、この年代から訃報が相次いだのには物思わずにはいられない。因みにそれは、60年安保の年である。

元羽黒岩の戸田が死んで、大鵬戦での世紀の大誤審のことが新聞の片隅にちょっとした記事になったが、確かに、あの頃の大鵬だったら、戸田とのあの一番がなかったら70連勝ぐらい行っていたかもしれない。

行司の軍配は大鵬に上がりながら物言いがついて負け、40何連勝だったかでストップとなったところが、翌日の新聞に載った写真から検査役の誤診が明らかとなり、それが元でビデオ判定が実施されるようになったという話はよく知られているが、それよりも、あの場所後大鵬は気晴らしのつもりかオーストラリアに遊びに行き、ビアホ-ルで豪快にジョッキを空けていると、その様子を見たオーストラリア人の客からビールの飲み比べの挑戦を受け、受けて立った大鵬の圧勝に終わった、という話なら、ここに紹介しておく価値があるかも知れない。ところでこの記事を受けて、朝日の「素粒子」欄だったか、カンガルー焉んぞ大鵬の志を知らんや、と書いたのは天晴れだった。こういう記事、イマドキの朝日の記者に書けるだろうか?

日本シリーズは近来稀に見る面白さだった。それぞれのリーグで、形は違うがそれぞれに劇的な形で優勝を遂げ、今年はクライマックスシリーズを蛇足と思わせたチーム同士だったのもその一因だろう。初戦二連敗して広島に歯が立たないかと思った日ハムが、一気に雪崩を打つように4連勝してしまったのが、いずれも接戦ばかりというところに、一戦一戦の機微が窺われ、素人受けも玄人好みもする、面白いゲームばかりだった。結果的には、広島は相撲で言う喜び負けの形になってしまったわけだが、目の前で日ハムの優勝が決まってもぞろぞろ帰ってしまったりしないカープファンも、敬意を表するに値するだろう。

随談第583回 芝翫型の『熊谷陣屋』

橋之助から襲名した八代目芝翫が、襲名披露に芝翫型の『熊谷陣屋』を披露して上出来である。新芝翫にとっての成果、芝翫型上演の意義、舞台成績等々、様々な意味で極めて刺激的だ。舞台の出来もいいが、芝翫型そのものが実に面白い。見ながらいろいろなことを思わされた。これほど刺激的な舞台は滅多にない。

まず確実に言えるのは、芝翫型は團十郎型に乗り越えられてしまったマイナーな型では断じてない、ということである。むしろ、今度の芝翫型上演によって、團十郎型というものが、是非長短共に、くっきりと見えてきた。何よりもそのことが刺激的である。いうなら、團十郎型は熊谷ひとりの心境劇であり、熊谷の出家に至る心情に焦点を絞り込んだ近代劇であることが、改めてわかった。そこに、近代歌舞伎としての価値も意義もあるのだ、ということである。芝翫型は、それに対する、いうなれば「本行」であり、歴とした浄瑠璃に基づく丸本時代物狂言である。

芝翫型だと、小次郎の首を受け取るとき、相模は自分から階段を上がって夫熊谷手ずから受け取る。(團十郎型として首の渡し方については仁左衛門が独自の工夫を見せたり、ということはあるが。)相模だけでなく、藤の方も弥陀六も、熊谷との関係がくっきりと見える。熊谷は相模を置き去りにして飄然と去るのではなく、義経を頂点にして、上手の藤の方・弥陀六主従と下手の熊谷夫婦がシンメトリーを作って絵面になって幕を切るのが、単に團十郎型との型の違い、などという表面上のことに留まらない意味を持っていることが明確に分かる。(團十郎型の熊谷が相模を置き去りにしてしまうことを指摘する声は以前からあるが、それは小声で囁かれるだけだった。)

弥陀六も、ありがちのような、世捨て人然とした老人ではなく、「心の還俗」を常に意識している現役感覚旺盛な人物であることを、歌六が実に面白く見せたし、魁春の相模も菊之助の藤の方も、実に生き生きと見えた。(これが、もし芝翫型で演じることによってもたらされた効果であったとすれば、事はますます面白くなる。)

吉右衛門が義経を付き合ったが、そのセリフの見事なこと。ひとり吉右衛門名演リストの筆頭に書き留められるだけでなく、大仰のようだが、現代歌舞伎における絶唱と呼びたくなる。

後回しになったが、新芝翫も非常に結構だった。あれだけの役者ぶりというものは、当代稀なものだと予て思っているが、芝翫型のあの大時代な扮装がよく似合う。花道の出で、七三で大きくぐいっと桜を見やるところなど、冒頭からいきなり、團十郎型の内向芝居とは一線を画すことを宣言するかのような豪宕さがいい。襲名の二カ月に熊谷と盛綱と、陣屋物を二つ出すのは異例だが、時代物役者としての志の表われ、大いに我が意を得たが、まずは第一打席の熊谷で右中間を大きく破る二塁打というところか。

二塁打? あんなに褒めたくせに本塁打ではないのか? そう、それには訳がある。十三年前、はじめて芝翫型の熊谷をつとめるに際し、松緑から二代目が昭和三十年に演じた際の書き抜きを借りたと語っているように、調べる手は尽しているであろうことは充分察しが付くが、それでもなお、團十郎型の残滓が随所に残っていて、それが、敢えて厳しく言えば、「有意義な未成品」の域に留まらせていると見るからである。

その最大なるものは、せっかく有髪の僧の姿になりながら、雲水姿になるところに象徴的にあらわれる。十三年前に新橋演舞場で初演の折は白装束であったはずだが、何故、團十郎型のシンボルのような雲水姿に戻したのだろう? そもそも赤面の有髪で雲水姿では見た様がよくない、というのは決して表面的な外観だけのことを言うのではない。写実な雲水姿というリアリズムは、團十郎型の写実志向が生み出したもので、赤面に黒ビロードの着付け、赤地錦の裃袴という芝翫型の様式とは水と油であり、劇としての様式に混乱を生じている。橋之助時代に、芝翫型で幕外の引っ込みをしたことがあるそうだが、(気持ちはわからないではないが)、雲水姿で幕外の引っ込みを演じたいなら、そのときは團十郎型で演じるべきで、それを芝翫型の中でするのは様式の混乱であり、ひいては性根や型の意味にも混乱・矛盾を引き起こすことになる。

煩雑になるから一々は挙げないが、こうした改善点が幾つかあったようだ。思うに、型として表われた点は二代目松緑の書抜きなどでカバーできるだろうが、メモとして書き残されていない部分をどう造形し表現するか、一朝一夕ではなし得ないところだろう。今後、機会あるごとに、いや、機会を積極的に作ってでも、芝翫型のより良き完成を目指して、研鑽を重ねてもらいたい。芝翫型にはそれだけの価値がある。単に、家の型だからというだけに留まるものではないからだ。敢えて、本塁打と言わず、二塁打と言った所以である。

随談第582回 今月の舞台から

秀山祭の歌舞伎座は、吉右衛門王国の弥栄を祝うがごとくいまや爛熟の境。大蔵卿で正面を切ったまま階段を何度か上り下りする折など、実は内心ひやひやする。高齢者の仲間入りした肉体は否応なく盛時の勢いを奪われつつあることは否みようがないが、舞台の上に立ち現れる人間像はいよいよ鮮明に、作り阿呆に韜晦する、その奥の心境を眼前させる。こういう大蔵卿は見たことがないと言ってもいい。「いのち長成気も長成、ただ楽しみは狂言舞」の後、下に降りて「暁の明星が西にちらり東にちらり、ちらりちらり」と空を指すところが圧巻。その分厚い感触は、他の誰の大蔵卿にも覚えたことのないものである。

魁春の常盤が、かつて加賀屋橋之助時代のこの優に、義父歌右衛門がその教育方針を問われて、行儀のよい品格ある役者にと答えたという、その通りの姿となっていまそこにいる。この人の定高を見たいと思う。政岡ももう一度見たいと思う。戸無瀬や萩の方やを見たいと思う。<BR>私は歌右衛門を信者として神の如くに拝跪した体験を持たない者だが、しかしこの種の役を演じる歌右衛門をその盛りの時代に(正直、時としてやや辟易しながらも)見たことを貴重な体験であったと信じる者でもある。魁春は、義父のそうした役々を、間近にあって熟知するどころか、雛鳥や小浪や初花姫等々で四つに組んで芝居をした人である。そうした体験を、この人ほど数多く持つ優は他にない。(12月の国立劇場では戸無瀬を務める由、期待したい。)

『吉野川』を吉右衛門・染五郎の大判事・久我之助、玉三郎の定高・菊之助の雛鳥という配役は、今日での大顔合わせであることに間違いないであろう。たしかに、当代の歌舞伎としてある水準を行く舞台であった。吉右衛門の大判事は、その芸容の丈高さに於いて文句ない立派さであり、「倅清舟承れ」の眼目のセリフは、その含蓄と量感の点で、父白鸚や叔父二世松緑に勝るものと思う。(それとは別に、白鸚の無骨さが、いま思えば恋しくもあるのだが。)

玉三郎の定高は新聞評にスマートで素敵なおばさまぶりと書いたが、内容芸容とも玉三郎歌舞伎として見る分にはそれ自体完結した世界を構築している。玉三郎が引き受ける以上、こうした定高像を作り上げることになるのは、これはこれとして認めるしかないわけだが、丸本時代物『吉野川』の一役としてこう演じられれば、雛鳥役の菊之助としては行きどころを封じられた形にならざるを得ない。またそれとは別に、菊之助は久我之助がむしろ本役であろう、ということも改めて知れる。祖父梅幸以来の、音羽屋の人たちの芸質であり体質と考える他はない。(今回は今回としてふと思いついたのは、菊五郎に定高を奮発してもらって、吉右衛門と文字通り「あいやけ同士」として、菊之助の久我之助に雛鳥は右近、というのは如何であろう。)

染五郎が、久我之助のすぐあとに『らくだ』で屑屋の久六になって出る。これは染五郎流の役者心として認めて然るべきであろう。昼の部開幕に『碁盤忠信』を再演したのは曾祖父七代目幸四郎に因んだ演目だが、実は母方の曽祖父初代吉右衛門が子供芝居時代に演じたという隠し味も利かせている。アイデアマン染五郎のプロデュース力というのはなかなかのものである。

『らくだ』には実はいろいろなバージョンがあるが、今度のは岡鬼太郎作の『眠駱駝(ねむるがらくだ)物語』だから、半次の妹おやすなどというなくもがなの役(とはいえ小米がじつに可愛らしい)が登場したり、座付作者としての鬼太郎の配慮が今となっては却って邪魔臭いが、このバージョンの初演が昭和3年3月の本郷座、初代吉右衛門の久六に13代目勘弥の半次というのだから、じつはこれも、叔父吉右衛門の蔭で染五郎も秀山祭をひそかに営むという隠し味になっているわけだ。(小米のやっている妹役の初演者しうかとは、後の14代目勘弥の少年時代である。)

新橋演舞場に新派が、但し半月興行だが久々に掛かり、二代目喜多村緑郎襲名公演を出したのは、新派としては一種の賭け、将来掛けての試金石というものだろう。新・喜多村緑郎になる月之助は大変な荷物を背負うことになるが、そういう問題はちょっと脇に置いていうなら、俳優月之助としてはよき道を選んだと言える。ひと頃、毎年7月の旧歌舞伎座を、猿翁の後を玉三郎が引き受けて鏡花劇をしきりに出していた頃、当時段治郎だった月之助がなかなかの実力を見せていたのが相当に強い印象となって記憶に残っている。先頃は若獅子の連中の応援を借りて新派公演として『国定忠治』を出したりしたが、新派本来のものも含めて、女性路線に傾きっ放しだった新派の間口を広げられる可能性がある。

それにしても川口松太郎『振袖纏』、北条秀司『振袖年増』と、昼の部に並べた戦後新派の佳作たちを見ても、昭和20~40年代頃の新派というのは、何という大人の世界を当たり前のような顔をして毎月のように舞台に乗せていたのかということがよくわかる。(もっとも、『振袖纏』を今回時代物にしたのは松也の出し物としての特例であろう。これでは、物語は同じでも松太郎物の味は出ない。)

いつも言うことだが、昔に比べれば、など言い出せばともかく、脇役のしっかりしていることも、痩せても枯れても新派の財産である。柳田豊、佐堂克実辺りが最古参だろうが、中堅どころの女優たちの粒の揃っていること。市川猿琉が喜多村一郎と名乗って新派俳優となって新・緑<BR>郎に文字通り影の如くに付き従ったのにも、健闘を祈らずにはいられない。

文楽が国立劇場開場50周年記念に『一谷嫩軍記』を昼夜で通すという頑張りようだが、逆に言うと、良きにつけ悪しきにつけ、そこから文楽の現状が如実に窺えるというものだ。文雀も亡くなり、昔、というのは国立開場以前からの人といえば、人形では簑助、三味線の寛治、團七、清治、太夫の咲太夫ぐらいのものか。團七が「陣屋」の後半を弾いてさすが年功という処を見せたが、この人がこんな大きい場を弾かせてもらったのも久しぶりだろう。(なにしろかつては津太夫を弾いていたのだ。)そういう意味では、単に手薄になったということばかり言うより、場が与えられればちゃんと出来るのだという人は、まだ他にもいる筈だ。腐っても鯛、と言ったら言った方が失礼だが、可惜鯛を腐らせておくのは、文楽の側の不見識であろう。

咲太夫がチャリ場の「脇ケ浜宝引」語って巧いものだが、何となく、やや細って元気がなかったのが、この際だけにちょっと気になる。大事にしてもらいたい。

随談第581回 8月の日記

8月×日 もともとの夏好き、37度だの8度だのというのは格別、33~4度ぐらいまでなら、盛夏の午後を、クーラーなしで風通しのいい場所で読んだり書いたりは嫌いではない。まして仕事から離れた読書なり、音楽を聴くなりして過ごすいっときは、むしろ至福の時と言っていい。

盛夏が好きなのは子供の時からだが、まず、この季節には自然が身近にまでやって来る。我が家の周囲の庭ともいえない空間に植えた草木にまで、カナブンブンだのカマキリだのダンゴムシだの、下等な虫どもがいつ湧いてきたのか棲みついている。ヤモリが貼りついていたりミミズが這っていたりする。今どき都内に住んで、他の季節にはこんな連中にはまずお目に掛からない。郷愁が甦る。私は東京23区から旅行以外には外に出たことのない人間だが、言うところの高度経済成長が始まる以前の東京は、都に鄙あり、結構、田舎が混じり合っていたものだ。空襲で焼け野が原になったりしたために、街中にも自然が甦っていたということもある。本当の田舎育ちの人から見たらチャチなものかもしれないが、こういうのが私にとっての日々の暮らしの原風景なのである。盛夏の暑気は、ほんのつかの間、そうした原風景のかすかな匂いを、肌近くもたらしてくれる。

今日は、午後のいっとき、パソコンの電源をスリープにしたままベッドにひっくり返って、アリシア・デ・ラローチャの弾く、グラナドスだのファリャだの、スペインの作曲家のピアノ曲を集めたCDを聴いた。こういう一世代前の演奏家のCDを1枚1000円ぐらいで安売りしているのを、ほんの時たま、銀座の山野辺りで見つけてくる。昔はLPをいろいろ買い集めたり演奏会を梯子したりしたものだが、ラ・ローチャも、そんな頃に一度、聴いたことがある。こんもりとした体格の、度量のありそうなおばさんだったが、演奏も豊かで心地よかった。音盤というのは、どんな名曲のどんな名演奏でも、繰り返し聴いていると鼻につくものだが、一年前に買ってきたこの一枚は、まだ飽きが来ない。今日の東京の気温は、後で聞くと37度を超えていたそうだが、ラ・ローチャおばさんの弾くグラナドスのお陰で、快適に夢とうつつの間を行き来することが出来た。

 

8月×日 歌舞伎座の三部興行の一等席の料金が1万4500円だというのが話題になっているらしい。6月の3部制の時より500円だけベンキョウ致しておりますということか。

橋之助が三部すべてに顔を見せてこの名前でのお名残りをするというのがひとつ、扇雀が連名の首座に立って開幕劇に『媼山姥』という出し物を持つ、というようなこともあるが、まあ、こう見渡したところ、エース格が染五郎、猿之助が西の横綱に座って二人で『弥次喜多』をするというのが、今月のミソなのだろう。(第一部の『権三と助十』で権三を獅童にゆずって自分は助十に回る、という味なスタンスの取り方は染五郎流全方位外交の度量の表われ、石子伴作ではないが、ヤルジャアネエカと褒めていい。)第三部に至って、橋之助の『土蜘』も含めて故勘三郎党の面々で締め括る、というのが大きな流れのように見受けられる。(その中に、間狂言の番卒役で猿之助が出ているのがちょっと乙だ。)

見回したところ、『権三と助十』が上等だ。前代の大家たちが、綺堂の書いた世話狂言というので黙阿弥などよりも素に近く、というところに足を取られて、悪く言うと、軽くこなすといった傾向があったが、当代の若い俳優たちには、黙阿弥よりもこのあたりが一番身に沿った芝居がし易いのかもしれない、みな溌剌として張りがあるところを買う。井戸替えに駆り出された長屋中の面々が、みなノリがいい。幸雀、笑野、喜昇などという、当節の脇の女形としてちょいとしたところが、平素の美女ぶり?と変わったところを楽しんでやっている。

この芝居の大正15年7月歌舞伎座の初演というのは大変な大顔合わせで、権三が15代羽左衛門に助十が二代目左團次(という顔合わせが、すでに通念を破っている)の上に、助八が初代猿翁、家主が初代吉右衛門というのだ。それと比べられてはかなわないとして、今回の獅童、染五郎、七之助、巳之助、弥十郎等々、先に言ったように心持よくやっているのが気持ちいい。強いて言うなら、もっとよかるべきはずの亀蔵の佐官屋勘太郎が、なにがなし、役に入りにくそうにしているかに見えたのがちょいと気になったぐらいか。

「弥次喜多」は過去のさまざまな「弥次喜多」の出来具合に照らしてまずまずというところ。ラスベガスへ行ったり、目先の替え具合とテンポのよさで飽かさないというのがまずまずの理由、一方、ラスベガスの場以外は案外新味がないのは、金太郎と団子の少年武士の主従の絡ませ具合がやや平凡だからで、目立った失点はないが大きな得点になったわけでもない。もっとも、二人ともしばらく見ぬ間に大きくなったなあ、と健気な成長ぶりを見せたのが大きな得点ではないか、と言われればその通りともいえる。(団子がなかなか練りのあるいい声をしているのに感心した。)

弥次喜多といえば思い出すのが、昭和38年7月、このときも納涼歌舞伎と謳っていたと思うが、夜の部全部を弥次喜多道中の通しで(今と違って10時ごろまでかかったが当時はそれが当たり前だった)、十七代目勘三郎と二代目松緑の弥次郎兵衛喜多八で、日本橋から京の三条まで、原作の主要場面をうまくつまんだ上に、偽の(しかし本物より若くてモテモテの)弥次喜多を絡めたり、盛りだくさんで見せたのが私の見た弥次喜多中の最大作。現坂田藤十郎の当時扇雀と、前々月に三代目猿之助を襲名したばかりの現猿翁が偽の弥次喜多、後の富十郎の坂東鶴之助が原作通りのゴマの灰(そのきびきびしたセリフと取り回しは今も鮮やかに耳朶と目に残っている)、梅幸や後の芝翫の当時福助も三島女郎や何かの役でつき合ったり、勘弥とまだ友右衛門だった先の雀右衛門が十辺舎一九夫妻で登場、借金取り立てに詰まって「膝栗毛」を書くこととなり、取り敢えず書いた分が第一幕となって舞台に乗り、その間に書いた続きの分が第二幕となり、更に書き足して何とか三条大橋まで辿り着くという趣向で、これは作者の中野実の実体験だろうというゴシップが流れたが、この勘弥の一九がまるで本物の一九を見るような傑作だったり、弥次喜多が田舎芝居の一座に紛れ込んで『宮城野信夫』を演じたり(松緑の信夫である!)、いま思えばとんでもない贅沢とも無駄遣いともいえる。当時これを褒めた劇評は見なかったような気がするが、むかしから、「弥次喜多」の芝居というのはそんなものだったともいえる。(思えばこの時の昼の部に、梅幸が『有馬の猫』を出したり、昼の切りに、現・雀右衛門の駄右衛門、10代目三津五郎の弁天、現・又五郎の忠信、現・時蔵の赤星、18代目勘三郎の南郷という、かの「ちびっ子五人男」が出たのだった。)

第3部の鶴瓶の新作落語を勘九郎が願って新作したという『廓噂山名屋浦里』は、他愛ない話をうまくまとめて悪くないが、浦里といえば相手は時次郎、『明烏』かと思うと、内容はむしろ紺屋高尾の話のようなのが気になるが、マ、いいか。それよりも、鶴瓶の倅という駿河太郎(この芸名の由来は何だろう? 伊勢五郎だの亀井イチローだのという兄弟分でもいるのだろうか?)が特別参加で出演するのはちっとも構わないが、そのことを、筋書その他で説明がないのは何としたことであろう。巻末の出演俳優の顔写真にも、仕切りをつけるとか何かしないと、アマチュアの大関を本場所の土俵に幕の内力士として乗せるようなものだ。

蛇足として、橋之助の『土蜘』について、A氏B氏C氏のやりとりを小耳にはさんだのがちょいと面白かったので、お三方には無断だがその一部を紹介しておこう。

A:橋之助の役者ぶりの立派さというものはもっと評価されていいと思うんだけどね。

B:それはわかるけど、呼吸や間がひとつしかないから芸の妙味というものがないのが面白くないなあ。

C:橋之助みたいな役者って、大正時代頃だったらよくいたんじゃないかという気がする。こまかい心理だのなんだのより、押し出しとか役者ぶりとかで売るような。

A:そのころなら名優で通ったかも知れないね。いっそこのまま押し通して長生きすると、古風な役者として珍重されるようになるかも知れない。

C:なまじ器用に上手くならない方がいいんじゃないかなあ。

B:そうですかねえ。

というのだが、穿ったような、一部頷けるような・・・

 

8月×日 元西鉄ライオンズの豊田泰光氏が亡くなった。81歳というお歳の上は、稲尾・中西と共に西鉄黄金時代の強打の遊撃手豊田としては不足はないかも知れないが、後半生の評論家としての豊田氏のファンとしては,今少し続けていてほしかったという思いが残る。たまたま同じ日経新聞という土俵を、しばらくの期間ひとつにしたというご縁は、こちらが一方的に思っていることで、あちらはご存じないことだったろうが、毎週木曜日の朝刊につい先ごろまで続けていたコラムは、いわゆる元野球人の文章とは類を異にしていた。つまり、野球ということを抜きにして愛読するに充分だった。野球以外のことも俺は知ってるぞ、などということは見せないが、豊田氏の目は、野球以外というか、野球の背後にあるものに届いていた。その遠近感覚が見事だった。遠近法の中に野球が捕らえられていた。そこを読むのが楽しみだったし、その呼吸をひそかにパクってきたつもりだが・・・

 

8月×日 去年の第一回に引き続き、尾上右近の「研の會」第二回を見る。今年は『忠臣蔵』五・六段目に『船弁慶』と意欲満々の音羽屋路線だが、踊りだと年齢を忘れさせる芸の大人びた右近も、勘平となると、俊秀であることに変わりはなくとも、やはり若手であることが見えて、こちらとしては実は少しホッともする。米吉のおかるもそうだが、少しうるさく感じるのは、学んだことをすべて出そうとするからだろう。それは、秀才・優等生であることの証しでもあるわけだが、厳しく言えば、ある意味で、芝居よりも仕事の方が優先してしまうからとも言える。

染五郎が定九郎と不破をつき合ってここでも如才がないところを見せる。種之助の千崎は父ゆずり、菊十郎与市兵衛はいかにも菊五郎劇団、菊三呂のおかやはどうしても理が勝つことを咎めるより、神妙につとめたことを言うべきであろう。吉弥のお才が我童よろしく京都弁を遣うのは異論もあろうが、我童を思い出させたというだけでも大したことには違いない。同様に、橘太郎の源六が鯉三郎を思い出させたと言ったら、褒めすぎかもしれないが、ご本人の目にある仕事をした結果に違いない。

ところで、六段目が終わってロビーへ出ると途端に「ありがとうございます。今日初めてのお買い上げです」という元気な声が聞こえた。見ると米吉が、右近のサイン入りのTシャツを売っているのだった。ついさっき祇園へ売られていった筈のお軽がグッズの売り子になっていたのだった。

『船弁慶』は、(こういうことは若手の勉強会に言うべきではないかも知れないが)現在すでに第一線級であることは間違いない。静に一段の嫋々たる風情とか、知盛に疾風の如く来たって迅雷の如く去る幽玄味とか、言わなくともやがて一層、磨かれるに違いない。

自身の『翔の会』を翌日に控えた鷹之資が義経をつとめ、父ゆずりの見事な声を聴かせる。天性でもあろうし、日ごろの精進の賜物でもあろう。体もすっかり大人になって、これも父そっくり。ここまでくれば、そろそろ展望が開けてくる。

8月×日 その鷹之資の『翔の会』を翌々日に見る。こちらは既に第3回、国立能楽堂でするのは、もっぱら、歌舞伎よりその基礎となる修行として、片山九郎右衛門師等の教えを受けているからだ。これぞ亡父の遺してくれたまさに七光り。今回も、『杜若』を仕舞として舞い、『助六』を素踊りで踊る。妹の愛子が(中学生だそうだ)『汐汲』を素踊りで踊る。顔は妹の方が目元パッチリして父そっくり。

8月某日 歌昇・種之助兄弟の「翔の会」第二回。「研の会」にも種之助が千崎で、米吉がおかるで出ていたように、相和しながら進んでゆくという関係と見える。昨年から始まった二つの会は世代交代の大波の、一番新しい波濤であろう。今回は『菅原』から「車引」と「寺子屋」。この『車引』がまさにフレッシュという英語を使った評がぴったり。目いっぱい、きっかりとやる。そうでなければこういうものをする意味がない。二重丸を進ぜよう。『寺子屋』だって体操競技のような採点法でいけば同じぐらいの点数がつくわけだが、地芸が物を言う「芝居」となるとどうしても点が辛めがちになるのは「研の会」の五・六段目の場合と同じこと。それにしても、兄と弟、力量一杯隠しも何もなく、真正直に出るところまでお父さんにそっくりだ。

8月某日 国立劇場の歌舞伎音楽研修発表会の「音(ね)の会」と、おなじみ「稚魚の会・歌舞伎界合同公演」に、今年は劇場開場50周年というので、修了生中の大ベテラン、鴈之助、京蔵、京妙が「音の会」では『合邦』、「合同公演」では『女車引』を出したのが、どうして皆さんもっと見に来ないのだろうと思う見ものであった。前者は鴈之助の玉手に京蔵の俊徳丸、京妙の浅香姫に新蔵の合邦、後者は鴈の春、妙の八重、京蔵の千代。もう一つ『寿式三番叟』で蔦之助の三番叟が舌を巻かせた。気合と躍動感は息の良さがあればこそ。「いい顔」をして見せる役者ぶりのよさは猿之助を思わせ、猿之助よりいい男である。左字郎と言ったころから目につく存在ではあったがこれは収穫であった。

このほか升一の権太、春希のお里、桂太郎の維盛等々で『すしや』とか、建て前で言うのではなく、御社席など、もう少しか顔ぶれが揃ってもいいのではあるまいか。

 

8月某日 帝劇で『王家の紋章』なる連載40周年という超大大作漫画のミュージカル化第一作を見る。近々新橋演舞場でやる『ガラスの仮面』もそうだが、こういう超大作が漫画という形式で延々と書き継がれているという事実には、ただただ驚かされる。筋の結構、人物の配置、人情・心理のつかまえ方、史実の渉猟や取捨の仕方等々、かつて『大菩薩峠』だの『南国太平記』だの『富士に立つ影』だの『照る日曇る日』だの『宮本武蔵』だの、といった錚々たる大衆文学の大作が書かれていた、大正から昭和初期という時代を連想させる。(もっというなら『里見八犬伝』だって『巌窟王』だってそうなわけだが。)違うのは、あちらの読者は男だったのが、こちらは少女(だった人も40年読み続けてアラ何とかになっているわけだが)という点だけで、上に挙げたような数々の特質はどれも、かつて、たとえば谷崎潤一郎が直木三十五に対して言ったようなことがそのまま当てはまる。まあ、かの『ベルばら』だって同じことだが。

さてそのミュージカル版だが、ごく発端部分だけらしいが、それでも正味2時間半程度にまとめるにはかなりの手際を要したであろうことがよくわかる。かつての大衆文学は、折から新時代の大衆娯楽として時流に乗った時代劇映画や、日本演劇史上ほとんど唯一の例外として男性客を基盤に成立した劇団である新国劇に豊富な題材を提供したが、大歴史劇としての少女漫画もこれからの試みとして、演劇界が当然開拓して然るべき沃野であろう。

出演者ではファラオの姉アイシスという悪女になる濱田めぐみのキャラの立ち方が抜群であった。やはり舞台で鍛えた俳優ならではのもので、シアタークリエで見た井上ひさしの『頭痛肩こり樋口一葉』に起用されたテレビ育ちの女優の、ムキになって懸命に力演するのが気の毒になったのと対照的である。(テレビではなかなか達者な女優と見えていたが、それとこれとは別の話である。)

 

8月×日 オリンピックが終わってようやく静かな(というほどでもないが)日常が戻ってきたのは何よりである。オリンピック自体が嫌いなわけではない。まあそれなりにテレビ観戦もしたし、それなりに楽しみもした。ただ、レポーターやアナウンサーのけたたましい歓声(嬌声)やら絶叫やら、放送が始まるたびにキミダケエーノーというテーマ曲が耳に飛び込んでくるたびに、生理的な疲労を覚えたのは確かだ。

前にも書いたことがあるが、私の考えではオリンピックとは要するに世界大運動会であって、いろいろな種目のある中で煎じ詰めたところ、駆けっこに尽きる。スポルト=遊び、というものの最も原初的で、最も帰一的なものは駆けっこだろうし、結局、それが一番面白い。もっとも、ゲームとしては単純すぎるから、普段、金を払って陸上競技を見に行こうとはあまり思わないが、オリンピックという名の世界大運動会では、原初的にして帰一的な本質がむき出しになって見えてくるから、実に面白い。小学校の運動会でもハイライトは紅白リレーであるように、世界大運動会でも精華は400㍍リレーということになる。

というわけで、始まる前から一番期待し、予期以上の成果をあげたのだから、400㍍リレーの銀メダルに、私にとっての今回のオリンピックは尽きることになる。日本の陸上短距離での銀メダルは並みの金メダル100個分ぐらいに相当するという私の暴言的持論はともかくとして(そもそも104年前、日本が初めてオリンピックに参加したとき、選手はマラソンと100㍍と二人だけだったのだ)、4人の選手の走りには充分に満足した。

駆けっこだけに特化するのは偏狭だというなら、オリンピックは世界大運動会より寛永御前試合の現代的国際版であるとも考えられる。千代田城吹上御殿の徳川家光将軍の御前で、全国から雲霞の如く集まり来たった豪傑たちが、剣術やら棒術やら鎖鎌やら、さまざまな得物を取って秘術を尽くすのが寛永御前試合なら、将軍に相当するのは世界中の名もなき観客たちであり、その前で世界中から集まった豪傑あり、美女あり、さまざまな選手たちが、水中にもぐって統一行動(シンクロ)をしたり、リボンを放り投げては受け止めたり、こんな種目があったのかと驚くような、奇々怪々な(と言ったら失礼だが)超越技巧の限りを尽くした技や演技を繰り広げて競い合うというわけだ。

(蛇足をひとつ)女子ピンポンの中学生の天才少女には驚かされたが、「美誠」と書いてミマと読むキラキラネームにも驚かされる。おそらく、彼女にあやかって「誠」と書いて「マ」と読ませる女の子が続出するに相違ない。まあ、名前の読みに関しては、国語はとっくに破壊されているのだから、今更でもないわけだろうが・・・

随談第580回 BC級映画名鑑・第2章「BC級名画の中の大女優」第2回(通算10回)高峰秀子『朝の波紋』

(BC級映画名鑑第2章の第一回として原節子の『東京の恋人』を載せたのは3月2日付の随談第569回だった。月一回程度の割りで連載するつもりでいたのが、心ならずも随分間が開いてしまった。これがホントの間抜けというところだが、遅ればせながら再開することにしたい。)

(1)

『朝の波紋』は前回にも書いたように、昭和27年5月1日封切りの新東宝映画だが、この日は、戦後史に刻される惨事の一つとして知られるメーデー事件の当日である。つい三日前の4月28日に講和条約が発効して日本がGHQの占領状態から解除されたことをシンボリックに示すマイナス札のような出来事だが、高峰秀子の笑顔が明るい『朝の波紋』にも、終戦から七年という時点での東京の街の様子が丹念に映し出されている。それは同時に、この映画の人物たちがそれぞれに戦後七年という歳月を生きてきた背後を暗示するかのように彩っている。

高峰の役は英語が堪能なのを生かして中堅どころの貿易商社に勤務、社長秘書として重用され、当時のキャリアウーマン(など言う言葉は、当然、まだなかったが)として恵まれた立場にあるが、伯父の家に下宿住まいをしている。彼女の身寄りについて映画は詳しい説明もなく、深入りもしないが、親兄弟はなく、恋人や婚約者もいない孤独の身であることが戦争の後遺症として暗示される。

伯父の家にはもう一人、彼女には甥に当る居候の少年がいて、父親は戦死、三宅邦子演じる母親は、箱根の旅館で、子供の手前は事務の仕事をしていると繕いながら実際は女中をしている。元はれっきとした中流家庭の主婦だった様子が、三宅邦子のたたずまいを見ればおのずと知れる。(『麦秋』をはじめ小津安二郎に重用された三宅だが、戦前以来の東京の中流家庭の匂いを彼女ほど自然に身に着けている女優はいないだろう。その雰囲気とたたずまいは、この『朝の波紋』でも生かされている。女中をしていても元は「いいとこの奥さん」なのだ。昭和20年代というのは、戦後の混乱と全くと言っていいほど等価に、戦前が生き続けていた時代であり、それは社会のさまざまな面について言えることだが、当時小学生だった私などでも、三宅邦子の漂わせるのと同様な雰囲気をもった中年女性の幾人かを、身近な懐かしさと共に思い出すことが出来る。)

少年は母の言葉を信じつつ、寂しさを紛らわせるために、なついてきた野良犬を飼おうとするが、伯母にきつく叱られる。この伯母の役の滝花久子も、中流の上という家庭の主婦がぴたりとはまる雰囲気をもった女優である。少年の飼う野良犬が、近所から靴を銜えてきたり、小トラブルを次々と起こすことがきっかけとなって、通勤の行き帰りに付近を通る青年と親しくなる、という形で池部良が登場し、高峰と接点ができる。住所を当てに訪ねると、近くの、かつては広大なお屋敷が爆撃で廃墟となった一隅にわび住まいをしていることが分かる・・・といった経路をたどって、この人物の風貌、ひととなりが次第に姿を現してくる。元は著名な富豪の御曹司の身でありながら、いまは貿易会社の一介の社員をしながら泰然としてわが道を行く、知的なハンサムでありながらヌーボーとした趣きの男を演じて池部良を置いて他には求められない。(単に茫漠としたヌーボー男なら珍しくないが、育ちの良さと知性という二点がカギとなると、候補者はたちまち激減する。)『青い山脈』では旧制中学生、それよりはやや屈折はあるが『山の彼方に』では中学教師と、石坂洋次郎原作の青春映画で見せたのより、もう一味ふた味、懐の深さのある人物で、この辺りが日本映画の二枚目俳優中にあって他に真似手のない池部の真骨頂というべきであろう。(後年、任侠映画のインテリやくざとして効いてくる下地でもある。)

高峰をめぐるライバルとして、同じ会社に勤める岡田英二扮する自信家の青年がいる。年配は池部の役と同じぐらいだが戦争体験についてはわからない。父親が有力な人物で、古臭く卑小な日本を捨てて海外へ進出することを目指しており、ついては、英語も堪能で外人バイヤーとも渡りあえる有能な女性として高峰を伴侶にふさわしいと考えている。この種の男は、現代にも、いつの時代にもいるが、やがて「もはや戦後ではな」くなる日をいち早く視野の内に入れようとしているという意味で、昭和27年という時代を映している。

木村功と共に劇団「青俳」を代表する俳優として、この時代の日本映画にあっての一存在であった岡田だが、『また逢う日まで』とか『ここに泉あり』とか、憂いに沈んだ良心的インテリか、それを反転させた悪役めいた人物か、いずれにせよ影のある人物というのが役どころとしてイメージとなっている。ひとつ例外的なのは、『朝の波紋』と同じ年の作品で成瀬巳喜男監督の佳作として知られた『おかあさん』で、気のいいパン屋の倅をしているのをもう一方の側に置くと、『朝の波紋』の少々バタ臭い欧米指向の裕福な家庭に育った青年という役どころにいかにもふさわしいことが分かる。岡田青年は、知的な自負をちらつかせながら高峰に接近を試みる。ある米人バイヤーをめぐるいきさつから、同業の他社の社員である池部と敵対する形で関わりが出来ると、仕事一途というより、少々投げやりですらあったり、応召中に戦地で感染した難病を抱えている冴えない同僚のためにひと肌脱ごうとしたりする、業績や出世を度外視したような池部の行動に冷笑的な目を向ける。

映画は、そういう二人の男に挟まれて、才知ある聡明な女性が、戦後という時代を如何に生きてゆくかに、次第に焦点が絞り込まれる。一種のビルドゥングス・ロマンとしての側面を女性を主人公としたこの時代の映画は強く持っており、つまりこの『朝の波紋』での高峰秀子は、新しい時代の若い女性の生き方を切り開く、一つのシンボル像を描いたことになる。このころから、高峰に限らず、彼女の後に続く形で戦後デビューした当時の代表的な若い女優たちは、それぞれにこうした作品で、時代を先取りするような形で若い女性観客の共感を得ていくことになる。それもまた、昭和20年代という時代の匂いなのだが、戦前に子役として活躍し戦中戦後に適齢に達した高峰は、この時期、他の戦後派女優たちの先頭に立つ形になっていたことが分かる。この後、『二十四の瞳』を大きな転換点として後続の女優たちと一線を画す道を歩くようになる、その分岐点としての意味も、この『朝の波紋』は持っているように見える。

原作は高見順が前年に朝日新聞に連載した小説で、新聞連載小説全盛のこの当時、各紙は当時第一線の作家に執筆を依頼し、各映画会社は連載が終わるのを待ちかねるように映画化した、これもその一つだった。スター女優にとっては、こうした作品で評判を取ることが更なるステップともなる。前回、原節子の主演作として挙げた『風ふたたび』も『白魚』も、前者は永井龍男、後者は真船豊の新聞連載小説から、同じ昭和27年に映画化されたものだった。(前年の、原の出演作中でも屈指の名画として知られる『めし』も、林芙美子が朝日に連載中に急死、中絶した新聞小説の映画化だった。)

池部の人となりを更に知るよすがとして、ボートレースの場面が、やや典型的なきらいはあるものの(戦前以来、映画に登場する大学スポーツといえば、ラグビーか、でなければボートレースと相場が決まっていた)、五所平之助監督らしいすがすがしいリリシズムがそれを上回って快い。

ある日曜日、池部は出身大学のOBとして、当時は隅田川で行われていたボートレースに選手として参加するのに高峰を誘う。ボート部の先輩として上原謙が特別出演風に登場するが、むしろ自分の主演作よりもこういうときの上原はちょっと乙である。終了後浅草の泥鰌屋で打ち上げをするシーンがあるが、戦後7年経ってもまだ戦災で焼け野ケ原になった後遺症をあからさまに見せているのを知らされる。(選手仲間で泥鰌屋の息子という好青年を演じる沼田曜一も、その後も新東宝に所属したためもあって遂に地味な存在のままで終わってしまったが、清潔感のある好俳優だった。後には、ときにアラカン主演の新東宝時代劇でひと癖ある役をしたりすることもあったが。)

一方、高峰は商社に勤める仕事を通じても、海外向けに輸出される日本の製品が作られている現場の実態を出張先で見て、それまで知らなかった社会の現実を知り、そのことによって、岡田が思い描いている展望がエリート意識の限界内に留まり、如何に現実を見ようとしていないかを知る。どんなに卑小でみみっちくとも、それが日本の現実なのであり、岡田のような人間はそこに目を向けようとしない。

映画の後半部は、学校の遠足で行った箱根で会った母親の現実を知り衝撃を受け、さらに飼っている野良犬を捨ててくることを伯母に強く命じられた少年が家出をし、行方が知れなくなるのを、池部の協力を得て尋ね回るのを通じて、互いに相手を知ってゆく。同時に、池部は少年の母親が自分の勤める会社に事務職として採用してもらえるよう、上司に働きかける。

原作の高見順としては、新聞に連載する、当時の言葉で言う中間小説(純文学と大衆文学の中間という意味であろう)としての佳作だが、その清々しさと、前に言った五所監督の大人の瑞々しさ、それに若き高峰秀子の明るい清潔感とがマッチした、好もしい佳品というのが、この作品の映画史上での位置づけということになるだろう。

この後高峰は、『二十四の瞳』というやがて伝説的存在となる「名画」を境に、大女優として別格的存在になってゆく。それと軌を一にするように、新任間もないころの大石先生の笑顔を最後にして、高峰の顔から笑顔がなくなって、やりきれないわ、とでもいうような憂い顔、うんざり顔のオンパレードになってゆく。後半生の大女優高峰秀子はうんざり顔の名優といっても過言ではない。 名女優高峰秀子にケチをつける気持ちは全くないが、私にとっては、それは一つの大きな喪失でもある。『銀座カンカン娘』のあの明るい笑顔こそが、私にとっての高峰の原点である。(そういう意味で、最近知ったことなのだが、あの『サザエさん』を、高峰秀子でという企画が、江利チエミの『サザエさん』よりはるかに前にあったというが、惜しいことをしたものである。江利チエミ版は江利チエミ版として、もっと原作の4コマ漫画のエスプリを生かした『サザエさん』が高峰バージョンとして実現していた可能性がある。)

『朝の波紋』は、高峰秀子のそうしたさまざまな面を万華鏡のように見せる、彼女の女優人生の岐路に立つ、興味の尽きぬ佳作なのだ。