随談第592回 今月の舞台から

新国立劇場の新しく始まった昭和30年代シリーズの第一弾、三島由紀夫の『白蟻の巣』を見てきた。あまり芳しい出来とも思われないが、それなりに思うところもあった。昭和30年、青年座の第3回公演が初演というから、今は昔の作だが、三島としてはこの前後が、小説なら『潮騒』だの『金閣寺』だの、芝居なら『鹿鳴館』だの『黒蜥蜴』だの『近代能楽集』の諸作だの、歌舞伎でも『鰯売恋曳網』だの、それぞれの分野で一番瑞々しい作品を次々と書いた頃で、私には、三島という人は実際にお付き合いするのは御免蒙りたい人のような気がしながら、作家としてはいまだに好印象を持ち続けていられるのはこの時期に書いた作品群があればこそといって過言ではない。(率直に言って、この頃のものが一番面白いではないか。文章だって、この頃のものが一番実が詰んでいる。)

もっとも、『白蟻の巣』を見るのは今度が初めてだが、やや青臭さが気にかかる面もあり三島の戯曲としてさほどの作とは言えなさそうだ。他の受賞作を見ても相当の権威があったと思われる岸田演劇賞の第二回を取っているが、当時の三島の名声が取らせたという一面もあったかもしれない。もっとも、観念主義について回る一種の青臭さは三島に終生ついて離れなかったものだから、それにもかかわらず魅力と思えるか否かが、成功作か否かを分けるのだとも言える。平田満演じる元華族の農園主苅屋義郎の、妻妙子と運転手百島の心中未遂まで起こした不倫関係を黙認している「寛大さ」なるものの正体が、日本人論にも通じるし、この役のモデルとされる元東久邇宮の若宮という人物の出自を通して天皇論にも通じるわけだが、現代の若手の演出家による「かさなる視点」という、今回のシリーズのテーマに関する限りでは、一応、目的は達せられたことになるのだろう。だがそれだけでは、一杯道具の三幕物という古典主義的作劇と言い、三島dictionによる言葉・言葉・言葉で成り立つ脚本と言い、要するに三島の駆使する言葉の芸術としての面白さが発揮されなければ、「お芝居」としてのうま味は何にもない。X線写真のように骸骨や内臓を剥き出しにして見せて、ハイこの通り三島戯曲を裸にしてご覧に入れました、というだけのことである。

もっとも、これはもはや、言っても詮無いことなのかもしれない。はっきりしているのは、現代の俳優たち、とりわけ若い女優たちにとって、三島の戯曲の言葉をセリフとして言うのは困難、いやほとんど不可能なことだということである。無理もない。戦前から戦後、この戯曲の書かれた昭和三〇年ごろまでは確実にあった、upper middle以上の階層およびその縁辺の女性たちの言葉遣いと言外のニュアンスというものが、既に雲散霧消して久しいのだから。ちょっとした言葉の区切り方、アクセントとイントネーションから立ち現れる気品あるコケティシズム。苅屋妙子を演じる安蘭けいや百島啓子役の村川絵梨のセリフがそういうニュアンスをまったく伝えられないからと言って、彼女たちを責めるのは酷というものだろうと観念する他ないのだ。伝えられないのではなく、それがそこに潜んでいることに全く気付かずに、台本を自分たちなりの読み取り方で読み、自分たちなりの感情を籠めてセリフを言っているだけなのだから。まだ若い演出者も、おそらくそれを知らないのに違いない(と、考える他はない)。

三島の戯曲は、誇張して言うなら、ある時代までの日本の社会に確かに存在した「階級方言」を駆使して作られた「歌舞伎」なのだ。人物はだから、国崩しなら国崩し、辛抱役なら辛抱役、片外しなら片外し、その人物にふさわしい言葉、ものの言い様をセリフとして言わなければ面白くならない。ましてこの芝居、イヤこの戯曲は、昭和二〇年代の(おそらくは前半、まだサンフランシスコ講和条約締結以前の)ブラジルという、戦前以来の秩序というものが崩壊してしまった日本本土の現実から隔絶された「場」を舞台に、旧華族の家庭という、「空疎な遺物」の物語なのだ。それだけ、抽象性が高い。

安蘭けいの夫人妙子はどうしてあんなに現代的にグラマラスなのだろう、運転手役の石田佳央はどうしてあんなにスマートで知的ですらあるのだろう? 「匹夫下郎」という言葉がかつての階級制社会には現実としてあった筈だが、すでに自動車の時代ではあっても、この戯曲の人物たちの認識ではこの男は「車夫馬丁」であり、「おとこ」そのものの肉体を体現した匹夫下郎でなければ、主人義郎が彼ら彼女らに見せる「寛大さ」は意味も奥行きも、「面白さ」も持ち得なくなる。わずかに苅屋義郎役の平田満が序幕で見せていた態度物腰や仕草に、役の奥行への理解が窺われたのは、年の功というものかもしれない。そう言えば、ひ弱な肉体をもって生まれ育った三島がボディビルに凝り出したのも、ちょうどこの作を書いたこの頃ではなかったっけ。

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坂田藤十郎に菊五郎、幸四郎、仁左衛門、梅玉、女形も魁春に雀右衛門に時蔵と、これだけ顔見世並みに揃っていてタイトルが「三月大歌舞伎」なのだから、この月の歌舞伎座は随分と遠慮っぽい。『伊賀越』の「岡崎」を再演するのが眼目の国立から雀右衛門と歌六が掛け持ちだとは、夜の部の始まる前に、雀右衛門夫人から、いまこの時間まだ国立にいます、と聞いてアッと思った。迂闊なことだが、それはそれ、これはこれ、だったのだ。『岡崎』が切れるのが4時過ぎ、『助六』が始まるのが6時半、それも、お谷から揚巻になるのだから、こういう掛け持ちはそう滅多にはないことだろう。『お染の七役』や『伊達の十役』の早変わりとは意味が違う。揚巻からお谷、よりはまだしもか。歌六の、山田幸兵衛からかんぺら門兵衛にしてもだが、この二つの掛け持ちは、この際、余人を以て代えがたいが故の、名誉の掛け持ちというべきであろう。
『岡崎』が内容に見合った量感を失うことなく前回より一段と明晰になったのは、各役各優、それだけすることが的確になったからだろう。とりわけ歌六の役者ぶりが一段と大きく、奥行きが深まった。吉右衛門の政右衛門が、もう少し芝居っ気を見せても、と思うくらい辛抱役に徹したためでもあるが、幕切れのシンメトリーが幸兵衛を頂点とする構図がぴたりとはまって、少しも不足を感じさせない。…とは言うものの、元々この人は老けの脇役だけに納まる人ではない。『輝虎配膳』の直江山城という知る人ぞ知る傑作を見せたのは、今世紀になってからのことである。あれを最後に白塗りの役が巡ってこないのは、吉右衛門と行を共にするようになり、一座の中で脇の要衝を固めることが専らになったからで、それで名声ますます高まったのだから目出度いには違いないが、かつてこの人に勘弥の再来を期待したこともある私としては、半面残念に思う気持ちも捨て切れないのも事実である。

もう一つ、前回を遥かに超えて出色だったのは「藤川の新関」で、前回からわずかの間に米吉のお袖がすっかり一人前の娘方として開花したからで、黄八丈の衣装がぴたりとはまる娘ぶりが、菊之助の志津馬と相合傘の風情などまさに匂うがばかりの好一対。この場が単なる「岡崎」のための筋の上の前哨に留まらず、悲劇の間に欠かせない彩りであることを教えられる。
お袖という役は、『矢口渡』のお舟のようでもあり『鮨屋』のお里のようでもありしまいに尼になるところは『野崎村』のお光のようでもあり、要するに娘役のエッセンスでこねて丸めたような役で、米吉としてはお舟をした経験がよい勉強になっているに違いない。

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さっき吉右衛門の政右衛門がもう少し芝居っ気を見せても、と言ったが、それに付けて思い出すのは二代目鴈治郎の政右衛門だ。幸兵衛女房が糸を繰り政右衛門が門口のお谷に心を遣りながら莨を刻む「莨切り」では、吉右衛門はもっぱら肚で芝居をするから、おのずと顔もうつ向けがちになるが、鴈治郎は顔を上げ目は虚ろに宙をさ迷うといった風情だったし、門口に出てお谷を追いやるところのあっちこっちに気を遣う小心ぶりなど、そこだけ取ればとても剣豪とも思われないうろたえぶりだった。だがこれが、「古き良き上方」の芝居の仕方なのだろう、とも思わせる面白さだった。

関所破りをして取り手に囲まれ、大小を糸立にくるんで雪で覆って隠すところでは、これはたまたま私の見た日だけのアクシデントだろうが、どこへ隠そうかと爪先立ってウロチョロするうち、おこついたはずみに刀が鞘走ってしまったりした。三十六番斬りの剣豪にあるまじきことだが、これも、心逸るさまの形容としての上方流のお芝居だったのであろう。

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それにしても、今になって良いものを見ておいたと思うのは、昭和30年松竹映画『荒木又右衛門』と、32年新東宝『剣聖暁の三十六番斬り』という対照的な二本の映画である。片や後の白鸚八代目幸四郎主演の堀内真直監督、片や嵐寛寿郎主演の山田達雄監督、前者が長谷川伸の原作の映画化という史実の考証を踏まえ、後者は講談に語り伝え来った又右衛門伝説の典型の集大成ともいうべきシナリオという、好対照な内容であったことは、いま思えば天の配剤のようなものだ。昭和三十年代もまだ早い頃までは剣豪荒木又右衛門というものがまだ民間説話の英雄として「現役」であり得ていた(おそらく最後の時代)であったから、こういう映画が作られていたのである。(アラカンは何と、例の『明治天皇と日露大戦争』の明治天皇役と同時の公開である。)

面白いのは、こうした講談をベースにしたものと、史実に拠るものと、文楽・歌舞伎で見る『伊賀越』と、黙阿弥の『日本晴伊賀報讐』と、モチーフとなる物語やエピソードがそれぞれ絡まり合っていることで、荒唐無稽と思われがちな講釈の三十六番斬りだってあながち根拠のない絵空事とも言えまいし(つまり、今度歌昇のやっている近藤野守之助(あの『番隨長兵衛』で水野の朋輩の近藤登之助か?)をはじめとする又五郎を擁護する旗本連中が、三十六番斬りのモデルであろう)、『伊賀越道中双六』として演じられる「奉書試合」や「敵討ち」の場が実は黙阿弥であったりするのは、『仮名手本』十一段目と称して黙阿弥の実録物のアラカルトをはめ込んだりするのと同じことで、「忠臣蔵」にせよ「伊賀越」にせよ、寛永なり元禄なりに現実にあった事件がベースになっていることから離れられないからであろう。(昭和38年12月歌舞伎座で勘弥・延若・扇雀という顔ぶれで「試合」「沼津」「仇討」という出し方をしたことがある。おそらくこの時が、国立劇場は別にすれば、昔風のアラカルト式出し方の最後であったろう。「伊賀越」伝承が「みなさんご存知」であることを期待できなくなった、これが下限であったということか。)

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歌舞伎座の『千本桜』渡海屋・大物浦で仁左衛門が知盛を出し、松緑・延若と東西の型を綜合しての仁左衛門型として集大成して見せたのは敬服に値するが、ただ二つ、桓武天皇九代の後胤新中納言知盛としての名乗りのセリフに省略があったのと、手負いになった知盛が胸に刺さった矢を引き抜いて滴る血潮を呑むという、延若の見せた型を取り入れたのは大いに結構だが、細かいことを言うようだが矢に血汐をぼってりと肉厚に(小道具に注文をしたのだろう)つけてあったのは、やや生々しい感じがして違和感があったこと、この二点を、凝っては思案に能わぬ疑問点とする。あれだと知盛が串刺しのソーセージを齧っているみたいで、義太夫物のトーンとしては生々しさが障りになる。赤い血潮を塗るだけでよかったのではないか?
梅玉が『千本桜』で義経、『明君行状記』で池田光政と、殿様役者ぶりを発揮。いつもクールな梅玉があれだけ芝居っ気を見せるのはよほど入れ込んだのか。前回もよかったのを思い出すが、何時だったかを調べてみたら2001年9月、『明君行状記』が昼の部、夜の第一に山本有三の『米百俵』を出した時とわかって、あゝ、と思い出した。その春成立した小泉純一郎内閣が言い出して俄かに世人の知る処となり、歌舞伎座で早速、吉右衛門にさせたのを新首相自ら見物に来たので大騒ぎだった時だ。小泉首相はその前に、大相撲で貴乃花が大怪我をしながら優勝、自ら総理大臣杯を渡しに来て免状の文言を読まずに「痛みに耐えてよく頑張った、感動した!」と叫んで大評判を取った、その記憶がまだ褪せない時だったから、旧歌舞伎座の二階ロビーから二階席はわんわの騒ぎだった。

閑話休題として、今月の殊勲賞は巳之助の『どんつく』、ちゃんと三津五郎家の踊りを踊って見せたのを評価したい。技能賞は『引窓』のお幸の右之助。あの役は、鳥が餌をついばむようにして貯めた小粒を渡して与兵衛から濡髪の人相書を買おうとする貧に窮した婆と、「濡髪の長五郎を召し取った」と叫ぶ元郷代官の妻という格と、両方を見せなければならないところに人を選ぶ難しさがある。しょっちゅう出る芝居だが、じつはなかなか適任者がいない。右之助は品格あり、さりとて偉過ぎず、結構だった。(但し、布で口を被ってセリフを言うと聴き取りにくくなるのは一考すべしだ。)
今月注目随一の海老蔵の『助六』がまずまずであったのは結構だった。何と言っても助六役者として天成の仁と柄である。今のままだって当代の助六であるのは間違いないが、その割には褒める声がもう一つ大きくならないのは、海老蔵の助六はこんなものではないと思えばこそだと知ってもらいたい。

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新橋演舞場に山田洋二監督の『マリウス』が掛かった。マルセル・パニョルのこの作は、オールド新劇ファンには文学座の舞台で懐かしい思い出と共にある芝居だが、山田監督にとってはそれとは別に格別の思いのあるものという。学生時代に友人の大切にしていた翻訳本を借りて読んだのが知り染めた初め、かのフーテンの寅さん「男はつらいよ」シリーズも、これが原点なのだという。そういえば、寅さん以前に『愛の讃歌』という好篇を作っているのが山田版『マリウス』のいわば第一作で、マルセーユが瀬戸内海の小島の港町、ヒロインのファニーが倍賞千恵子、マリウスが中山仁、今度柄本明がやっているセザールが伴淳、林家正蔵のパニスが有島一郎その他その他という配役でやっている。今度の自ら脚本・演出の舞台版が、いうなら山田版『マリウス』の第二弾、かつての文学座の記憶にどれだけこだわるかで評価は分かれようが、それはそれとして見るなら、当節気持ちよく見られる好舞台と言っていいだろう。

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3月の新聞劇評掲載日予定

(1)歌舞伎座評 3月14日(火)

(2)国立劇場評 3月17日(金)

いずれも日経新聞夕刊。

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随談第591回 よもやまばなし

ここひと月ばかりの間に私のアンテナに引っ掛った訃報というと山中毅、神山繁、船村徹、鈴木清純、ミッシェル・モルガンといったところか。何と言っても感慨を呼ぶのは山中であるのは、時代の記憶と直結しているからだ。
メルボルン・オリンピックというのは、ヘルシンキに次いで日本が戦後二度目に参加した大会、つまり私にとって物心ついて以来二回目のオリンピックで、南半球だから12月に開催、ヘルシンキが夏休み中だったのにこちらは二学期の期末試験と重なっていたのを思い出す。その間にテレビの放送は始まっていたが海外からの実況中継などとてもとてもという段階だから、まだ専らラジオの時代である。
 ヘルシンキで負けて古橋が引退したのを引き継いで、メルボルンでまだ高校生だった山中が銀メダルを取った、というのがこの訃報を伝えるマスコミ流の定番であろう。その間4年間、人がいなかったわけではないが、皆、固くなって決勝まで進めない中で、彗星のように、という言葉通りに出てきた高校生が一人、メダリストになった。その時の金メダリストがマレー・ローズというオーストラリアの選手で、当時は日米選手権とか日米豪選手権とかいろいろあったから、通算すればそれなりに勝ったこともあったように思うが、その後も遂に、オリンピックではこの選手に勝てなかった。対戦成績は拮抗していたが優勝回数で大差がついた大鵬と柏戸の関係と相似形である。別にファンだったわけでもないし、小学生の頃のように無邪気に熱中したわけでもないが、今となれば、当時のさまざまな個人的な思い出と絡まり合って、訃報を目にして淡い感傷に襲われたのは不思議である。いま見ればさほどの作品でなくとも、古い映画を見る機会に巡り合えば、それだけで懐かしいのと同じようなことかも知れない。

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ミッシェル・モルガンというのも、我々(よりむしろもう一つ上の世代)にとって格別な思い出のある女優だが、マスコミの報道はそっけないものだった。今の人たちにとってそんな程度の評価なのか? かの『天井桟敷の人々』というのは、『風と共に去りぬ』などと(対照的でありつつ)並んで、昭和20年代に輸入された外国映画の中でも別格的な存在であった筈だが。もっとも私などの年配だと、公開当時は何せまだ子供だから見たって何がいいのかさっぱりわからない。なるほどこれは、と思うようになったのは、その後ほぼ10年置きぐらいの間隔で繰り返し公開されたのを見てからで、初めは、なんとも不気味な顔をした女優、というので強烈な印象を受けたものだった。大体、外国人が溢れ返っている中で育つ今どきの子供はどうか知らないが、西洋の女性、それも濃いメークをした女優というのは、我々世代の子供にとって、かなり不気味に思えたものだが、彼女はその中でもとび切りの、おそろしいような西洋女だった。『天井桟敷の人々』でも、主役のジャン・ルイ・バローなどよりはるかに印象的に思えたし、その記憶は今も変わらない。

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一月の国立劇場の『しらぬい譚』に亀蔵扮するピコ太郎もどきの人物が登場して大受けだったが、日によっては本物が登場したらしい。あの奇天烈な英語もどきとちょび髭、イマドキのお笑い芸人の中ではちょっぴり古風で違和感のある芸人ぶりが、往年のトニー・谷を思い出させる。と、思っていたら、このほどチャンネルNECOで、昭和29年の東宝映画、市川崑(が監督だったとは、迂闊にも今度はじめて知った)『わたしの凡てを』というのを見ていたら、そのトニー・谷が出てきたのには、感慨ひとしおであった。当時、ミス・ユニバースなる世界美女コンテストで堂々の三位入賞、身長と顔のサイズ配分が8対1なので八頭身という、当時の日本女性として破天荒なプロポーションで話題だった伊東絹子の映画初出演という話題作である。中学生だった私は、もちろん知ってはいたが、見なかったので実は今回が初見である。いま見ると、菊田一夫原作の『君の名は』の焼き直しに焼き直しを重ねたような陳腐なストーリイと言い、むしろそれが興味深い当時の東京や大阪の最先端の、なんとも安っぽい街の情景と言い、良くも悪くも一驚せざるを得ないが、池部良と上原謙が相手役とあきらめ男役、宝塚から映画へ転進してまもない有馬稲子が恋のライバル役という、それなりの豪華キャストが組んである。(だみ声の大阪弁で鳴らした三遊亭百生が有馬稲子の父親役で出てきたのには驚いた。まさしく余禄である。)物語が進んで、いよいよ伊東絹子扮するヒロインがミス・ユニバース日本代表を決める選考会に出場する会場(が東京会館なのは、おそらく実際にもそうだったのだろう)の場面で、司会者役としてトニー・谷が登場する。終戦から8年、GHQが帰ってから1年という、終戦直後の闇市全盛時代とは微妙に違う一つの時代を、ある意味でこれほどシンボライズしていた人物もいないだろう。とんがりのロイド眼鏡にちょび髭、奇怪な英語にソロバンというスタイルは、もちろん計算づくでしたことだったろう。ピコ太郎からトニー・谷を連想したのが間違いでなかったことも確かめられた。ここらが、巨匠監督の名画しか見ない人には解らない、BC級映画ならではの面白さである。

       *

国会中継を見ていると、大臣に代って答弁をする官僚たちがしきりに、「…と承知してございます」「…と考えてございます」「…と思ってございます」といった言葉遣いをするのが、近頃いやに耳に障る。「ござる」という動詞は「ある」「おる」「はべる」と同義だから、「…と承知しております」「…と考えています」などというのと同じであり、別に誤用ではなかろうが、最近やたらに耳につくようになったのは、官僚に独特の気取り方の流行現象なのだろう。
 それにしても、こういう処に登場する官僚たちの慇懃で馬鹿丁寧且つ取り付く島のないそっけない態度・物腰というものは、よくもこう、何十年経とうと、世の中がどう変わろうと、寸分たがわず、毫も変化しないのには驚かざるを得ない。彼等とて、年配から考えて昭和も末期、もしかすると平成生れさえいるかもしれないのだから、平素は、Tシャツにジーンズで出歩いたり、我が子の運動会には傍目も構わず撮りまくったり、当世風のこともしているのだろうが、一旦業務となると、官僚流の気取りの「型」をきっちり守り抜いているのにはいっそ感心したくなる。もしかするとあれにも、「外務省の型」とか「大蔵省の型」とか、「成駒屋の型
だの「音羽屋の型」だのと同じように、いろいろあるのかもしれないね。
 一方、安倍首相がよく、「…なんだろう」というのも耳に障る。「××法案を今国会で成立させることが是非とも必要なんだろう、と思うわけであります」という風に使う(のが首相の言葉癖らしい)のだが、それほどの大事なら、「なんだろう」というような他人事みたいな言い方は、言葉癖というにはいかにも無責仁じみて聞こえるから、おやめになった方がよろしかろうと思うのだが、如何なものなんだろう。
 もう一つ、この首相の言葉の癖で、文字に直せば句読点を打つようなところでいちいち、「これはですね」「あれはですね」と「ですね」をつけるのが耳に障るが、実はこの「ですね」の「ね」を「よ」に変えて、「これはですよ」「あれはですよ」とすると、尊敬する祖父の岸信介首相の言葉癖になるのだ、ということに、ご本人はお気づきであろうか?(ナニ、疾うに知っていて、お祖父さんの噛んで含めるような説教調を避けて、当世流のソフトタッチに変えている、つもりなのかもしれないが。)

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随談第590回 如月だより

まずは歌舞伎座のお噂から。

暗闇の押し問答の場面から開幕した正月に引き換え、江戸歌舞伎三九〇年と謳った今月は、猿若祭やら幼い坊やの初舞台やらと、場内は、賑わっている。まさか今年の歌舞伎座は春節、いやさ旧正月で春を迎えようというのでもあるまいが、見る前は、前日辺りからテレビ各局で持て囃したり、正直なところやや鼻白む感じもないでもなかった『二人桃太郎』に引き続いて、折から節分というので豆撒きでやんやの騒ぎ、ついこちらも、いつのまにやらおめでた気分になっているのだから、これが歌舞伎というものの何とも不思議なところと認めないわけには行かない。

豆撒きといえば、今度は菊五郎が「追儺」を行ないます、と挨拶をしたのでヘエと思ったが、以前、富十郎が座頭格として開口一番「昭和15年の立春を祝いまして豆撒きを行ないます」と挨拶したのを思い出す。つまり平成15年を言い間違えたのだから、もはや13年前の昔となるわけだ。富十郎らしいそそっかしさも懐かしいが、ついでに懐旧談に耽るなら、新桃太郎の祖父、つまり十八代目勘三郎が初舞台で桃太郎をしたのが昭和34年4月、すなわち現天皇皇后のご成婚の、まさにその月であったのだから、数えれば58年前、江戸歌舞伎390年の6分の1乃至7分の1は、それからこっちの話ということになるわけだ。

歌舞伎の歴史もさほど長くはないのである。

それにしても、勘太郎の三代目というのはいいが、長三郎という名前は知らなかった。何だかあまり可愛らしい坊やの名前という気がしない。無理して古い名前を引っ張り出さなくとも、もっと可愛らしい活気のある名前を初代として名乗らせる手もあったのではないか? 中村七三郎という、江戸和事の元祖とされるいい名前があるが、これは七之助の坊やの時に取っておくか? 

       *

『大商蛭子島』の開幕前に勘三郎のところの石橋さんが、この芝居、みんな何だかよくわからないって言ってるんですよ、と笑っていたが、その割には、皆、まずまず無難につとめていたように見える。たしかに、松緑のやっている手習いの師匠が実は源頼朝公、などというのは、一番目を抜きにして二番目の場面だけで見顕しをやって見せるのだから大変には違いない。かつて復活初演のときに祖父の二代目がした役だからというのが縁となっての配役だろうが、何とかし遂せたのは松緑もそれだけ幅が出来てきたからで、以前の松緑だったらお手上げだったろう。

この脚本は、国立劇場ができる前、歌舞伎審議会というのが出来て、学識者と舞台の実際家が手を携えて、天明歌舞伎の復活上演という机上の論を現実の舞台に上せるという仕事を実現した、ある意味で戦後歌舞伎の一つの記念碑といえる。こうした機運が、その5年後に開場した国立劇場の復活上演へと結実したのだともいえる。昭和30~40年代というのは、いま思えば、一種の啓蒙開化の時代だったのだ。昭和29年末に開場した東横ホールの第一回公演にいきなり、上方歌舞伎研究会という名で、碩学といわれるほどの学識者が関わって『心中万年草』を復活上演したりしているのも、一連の機運の中から生まれたことだったろう。歌舞伎鑑賞教室で解説役の若手俳優が、歌舞伎はエンターテインメントです、と高校生に向かって迷うことなく言い切る時代になった昨今からすると、時運の転変をつくづく思わないわけには行かない。

(ところでこの『心中万年草』だが、演じたのは岩井半四郎と市川松蔦、といっても、判る人はどのぐらいいるだろう? 半四郎は仁科明子のお父さん、松蔦は現門之助の父の先代門之助である。この時点での、若手花形の先頭にいた人たちだった。)

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『四千両』という芝居は、いかにも黙阿弥らしくありながら、黙阿弥の異色作ともいえる。「牢内」が有名で、もちろん私も面白いと思うが、序幕の「四谷見附」が黙阿弥的リアリズムとして『入谷畦道』の「蕎麦屋」と並んで双璧だと思う。ここの菊五郎の富蔵が流石である。もうこれだけの富蔵は、いま既にこの人だけ、今後もう出ないだろう。

ところで「四谷見附」と言えば現在の四ツ谷駅から上智大学のグラウンド当りだろうが、この場の背景に描かれた千代田城の遠景は、いまなら半蔵門の国立劇場辺りから見た景色のように見える。「牢内は、だんだんマスゲームじみて見えたのが気になった時期もあったが、久しぶりに見るとやはり面白い。しかしこの芝居、序幕の御金蔵破りの後、一転熊谷土手で改悛の情を見せたかと思うと、伝馬町での(牢仲間から見ての)模範囚ぶりと、いいとこ取りにつまんで見せるので、場ごとに随分飛躍があるのが難とされるが、しかし富蔵の転変ぶりなど、却ってこうして見た方が結構現実にいそうな人物像として貫かれているようにも思える。つまり盗賊としても、護送犯としても囚人としても、どこへ行ってもそれなりに「ひとかどの」男なのだ。

熊谷土手というのは、この『四千両』のほかに、『沓掛時次郎』でも『不知火検校』でも大事な場面として使われるが、江戸からの、あるいは江戸への距離が、遠くもなく近くもなく絶妙な位置にあるからだろう。(この場での彦三郎の八州同心が何ともいい。)

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襲名披露で熊谷をやり盛綱をやり、大阪では石切の梶原をした新・芝翫が、もう「新」の字が取れた今月は『絵本太功記』の光秀をやる。立て続けに丸本時代物の大役と取り組む意欲は見上げたものだが、それはそれとして、鴈治郎の十次郎と孝太郎の初菊の絡み合いを手数の多い上方式でやって見せたのが、芸の良し悪しは別にして、なかなかの見ものだった。東京流だと何だか取り澄ましていてとかく退屈に流れるのだが、なるほど、義太夫の本場のやり方は違ったものだ、義太夫物とはこういうものかと納得させられる。思わぬ収穫であった。

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ひところ玉三郎と勘三郎で当てた『梅ごよみ』を染五郎の丹次郎、菊之助の仇吉、勘九郎の米八という新メンバーでの初目見得。仁よし柄よし、もう一段、磨きをかければ新名物になり得るだろう。歌六の千葉藤兵衛の貫目の程の良さなど、つくづくいい役者になったものだ。夜の部の追出しにこれほど恰好な二番目狂言もない。それにしても、原作の為永春水の江戸言葉をこれほど有効に生かした塩梅といい、場面の切り取り方と言い、芝居の運びの快適さと言い、木村錦花という作者の万事を呑み込んだ手練というものは恐れ入る他はない。これこそ絶後というものだろう。

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それとも関連するが、新橋演舞場の喜劇名作公演の一番目『恋の免許皆伝』というのは一堺漁人、すなわち曾我廼家五郎作の『四海波』のことで、これがなかなか面白い。序幕では適齢期だった許嫁同士が、20年後の第二幕、40年後の第三幕と、老齢に至ってようやく結ばれるというストーリイは、まさしく、かの『ぢいさんばあさん』と同じであり、感動の質も変わることはない。違うのは、剣術指南の娘である女に、婿たる男は剣の腕前で勝らねばならないという枷を掛け、序幕で達人を以て自負する鼻をへし折られた男が、20年後、40年後、艱難辛苦の修業の末、またしてもあっさり負けてしまうという「喜劇」に仕立ててある点だけだ。今回の門前光三(という戯作者名である)による脚色がどの程度手を加えてあるのか、元の台本を知らない私には分からないが、明治43年が初演と聞けば、こういうものを長年月埋もれさせていた世の通念というもののおそろしさを思わないわけには行かない。人情の機微の押さえ方と、芝居とはいかなるものかを熟知した作劇と、それさえ揃っていれば後はいらないと、100年後の今なお立証しているかのようだ。(因みに明治43年は1910年、107年前である。)

二番目として渋谷天外・喜多村緑郎・河合雪之丞という顔合わせで『狐狸狐狸ばなし』が出るが、せっかく天外が伊之助をするなら、「江戸みやげ」でなく、元の大阪を舞台にした版にしたら如何なものであったろう? 実はこの芝居、面白いには違いないが、江戸土産というにはちと話がエグイのが気になりもする。そこが北条秀司と木村錦花の違うところ、『狐狸狐狸ばなし』と『梅ごよみ』の違う処ではあるまいか?

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随談第589回 あらたまのくさぐさ

新年初のタイトルとして「あらたまのくさぐさ」と書いたら、「新珠の九さ草」という文字が出てきた。コンピューターも時には洒落たことをする。なるほど、これも悪くないが、「九さ草」とすると9章、九つの話題を連ねなければならないので、惜しいがこのタイトルは不採用としよう。

新年は、毎年のことだが三日の浅草歌舞伎、四日の歌舞伎座に始まって、今年は新橋演舞場、国立劇場に三越劇場の新派と、新年第一週は国立以外は連日11時開演で、ゴングとともに5発、ボディブローを食らったような形となった。加えて中小、種々の劇評その他の原稿、仕事があるのが有難いとは言え、気が付けば早や月末ということになった。

もうひとつには、ご覧のようにこの欄も模様替え、何せ早や十年の余も続けてきたので、なにかと錆が付いたり、船底に藤壺の類が付着するのに似た症状が出たらしく(というのは、私はただ書くだけ、操作の一切はさる人のご厚意に任せているので)、年末以来故障つづき、新年を機にかく新バージョンとは相成った次第、これもまた、新年の挨拶が遅れた理由のひとつ、更にその他、身辺雑事さまざま重なった挙句・・・

というわけで、かく新装なった新バージョンにて本年もよろしくご愛読お願い申し上げます。

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歌舞伎座新年の昼の部が、いきなり暗闇の中、彰義隊と山岡の押し問答から始まることは新聞評にも書いたとおりだが、昭和50年代ごろだったか、新年の開幕と言えば筝曲の社中の出演で、100人もいるかと思うほど大勢のご婦人方が舞台に並んでの琴の合奏で、新年を言祝ぐ舞踊で始まったことが何年か、恒例のように続いた時期もあったのを思い出す。(思えばあのころ、歌舞伎座の経営は今よりはるかに苦難の時代だったはずだが。)

だが考えてみれば、いまこの文章を読んでくださっている皆さんの中で、元旦にお屠蘇を祝った人はどれぐらいあるだろう? 新年だからと言って、晴着、とまでいかなくとも、せめてセーター一枚なりと、新品でなくとも、前日まで着ていたのと取り換えて、新年を迎えた人はどれぐらいあるだろう? 富める者富まざる者それぞれなりの分に応じて、猿股一枚足袋一足なりと新しくして、新年を迎えるという習慣がなくなったのは、いつごろからだったろう?

少なくともそれは、やれバブルがはじけたの何ののせいではないことは確かだ。私の見るところ、むしろ、戦後の日本が格段に豊かになるのと比例して、こうした習慣は捨て去られ、忘れられていったのだったと思う。豊かになって逆に失ったのだ。

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歌舞伎座の幕間の玄関ロビーが、愛之助夫人のロビー初デビューというので、パンダの檻の前の如き人だかり。劇場側の計らいで我々にも「お引き合わせします」とのことだったが、考えてみればあちらは一人、こちらは複数、つまるところは一人一人、女王陛下の拝謁を賜わるような形になったのは余儀ないところであったろう。(国技館に御成りの際の天皇ご夫妻のように、協会幹部や横綱大関が玄関前にずらりと並ぶ前を挨拶を受けながらお通りになる、というわけにもまさか行くまい。) 

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その愛之助に染五郎の顔合わせ、というのが今月の歌舞伎座の売りなのだろうが、それより新橋演舞場の新・右團次の『雙生隅田川』が面白かった。たまたま『演劇界』に評を書いたから詳しくはそちらに譲るが、今後せめて「惣太内」と「道行」の二場だけでもいいから、現代歌舞伎のレパートリーの常連として定着させたい名作だと思う。近松といえば心中物、と決めてしまった思い込みの過誤から、もういい加減に抜け出して然るべきだろう。

松若丸と梅若丸の二役をする右團次の子の新・右近が秀抜の子役である。6歳だそうだが、あれだけ上手いととかく小憎らしくなるものだが、そういう嫌みがまるでないのが結構である。(お父つぁんが武田右近といって『天保遊侠録』の麟太郎をしたときは、張り飛ばしてやりたくなった!ものだが。)

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ところで、数年来海老蔵で開けていたこの新橋演舞場の正月、ことしは海老蔵がやや引いて、新・右團次の襲名を前面に立て、猿之助に中車も加わったというこの一座、ちょいとマッチョ軍団の趣きもあるが、そのことも含めて、当節なかなか面白そうな顔ぞろいだ。いろんなことが出来そうな顔ぶれだから、しばらく続けると、浅草の花形歌舞伎のお坊ちゃんたちがみんなあまりにも良い子ぶりなのがかえって気に掛かったりするだけに、この生きのいいにいさんたち(いや、オジサンか?)がひと暴れしてくれると、歌舞伎界全体によい刺激を波及する期待もできそうだ。

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稀勢の里の横綱昇進が決まって、マスコミとりわけテレビ各局の報道が予期以上の扱いなのは、何はともあれ結構なことだ。横綱が二人、大関が一人途中休場して対戦がなく、残る二人の大関もそれぞれカド番にかかわるような不調にも拘らず、今場所を低調と感じさせず、昇進を大甘の人気取り政策と見る意見も出てこないのは、それだけの勢いを見る者に納得させたからだ。白鵬との一戦など、追い込まれて窮余の逆転であったにも拘らず、むしろ「強い」と感じさせたのもそれだ。白鵬が小さく見えた。一気の寄り身に賭けるしかないと白鵬に思わせた、まさに「稀なる勢い」があった。

昇進を伝達に来た使者に、四文字熟語だの何だのとってつけたような妙な難語を言わなかったのもよかった。そもそもあの伝達式なるもの、妙にセレモニー化したのはテレビ報道の影響だろう。そもそも番付というものは次の場所前に発表するまでは極秘にする決まりであるのを、横綱と大関の場合に限って特別に(近年は、新入幕と新十両も公表するようになったが、つまり昇進すればそれ相当の準備が必要だからだろう)、来場所の番付編成の会議中に正副二名の使者が途中退席して伝達に来るというもので、大切なことには違いないが、もっと質素なものであったはずだ。初代若乃花の時の写真を見た覚えがあるが、使者と本人の間に火鉢が置いてあった。あの時も一月場所の後で寒中だったから、使者のために火鉢を用意したのだろう。その前の、誰だったかの時は、昇進できるかどうか本人も知らず、前夜どこかで飲んでいて慌てて帰って来た、などということもあった筈だ。

まして四文字熟語などというのは、かの若貴兄弟が始めたことで、あれを、こんどはどんな四文字熟語になるでしょうか、などと騒ぐのは明らかにテレビのワイドショー流の事大主義であって、言いたければ言っても構わないが、伝統でも何でもない。普通の言葉で挨拶して、それをマスコミも好意的に迎えたようなのは、今後のためにも、世間一般の相撲理解のためにも良いことだった。

土俵入りは雲竜型を選び、奉納の際、初代若乃花の化粧回しをつけたのは非常に良かった。仕草を教わった大乃国も、師匠の隆の里も、初代若乃花の弟子だから、孫弟子である稀勢の里のこの行為こそ、伝統を大切にする心情の表われである。

相撲の人気が高まるのは(切符を手に入れるのが難しくなったのは困ったことだが)喜ばしいが、やたらに伝統を振り回して、妙に事大主義的にならないようにマスコミにも願いたいものだ。それよりもつい先日、街中の遊園地で土俵に円を描いて相撲(らしきもの)を取っている男の子がいたのを、ホオという思いで見た。母親らしき女性もいたから兄弟なのかも知れない。もっとも、ろくに相撲の取り方を知らないらしく、相撲だか鬼ごっこだか分からないような代物だったが、それでも、絶えて久しく見なかった光景である。私などの小学生時分は、本場所が始まってラジオの中継放送が聞こえてくれば、校庭の隅に棒切れで円を描いた土俵で相撲を取って遊ぶのがごく当たり前の光景だった。当時はまだラジオの時代、テレビで映像を見ることなどなかったにもかかわらず、皆それなりに、相撲の取り方を知っていたのは、思えば不思議なようなものだ。

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宇良がたすき反りという65年ぶりという技を決めて評判を取ったが、相撲の取り方がすっかり変わって組み合うことが少なくなった昨今、反り技を売り物にする力士が出てこようとは、確かに話題を呼ぶだけのことはある。昭和26年夏場所の栃錦=不動岩、翌27年1月の常の山=大内山戦以来というが、どちらも、小兵力士が長身の力士に決めたものだった。常の山は主に幕内中軸にいた文字通りの手取り力士で、相手の大内山はのちの大関だが当時はまだ中軸から上位、6尺7寸といっていたが、後に大相撲も尺貫法をやめてメートル法に切り替わったとき、2メートル3センチと聞いて、皆々仰天したものだった。栃錦は当時小結だったか、24、5貫、80キロ級で相手の不動岩は6尺9寸5分と言っていたが実は7尺あったろうと言われていた。2メートル10数センチということになるから大内山よりさらに約10センチ高い。後の横綱鏡里と共に双葉山道場開設時の有望株で関脇まで行ったがそこでとまってしまった。

この栃錦=不動岩の一番の写真は、その後かなりの間、珍しい決まり手の例として、相撲雑誌はもとよりいろいろなところでお目に掛かったものだが、今度の宇良のときにNHKの相撲放送で全然触れなかったのは、当節の担当者はご存じなかったと見える。

        *

今年に入っての訃報といえば、新年早々、テニスの加茂公成という懐かしい名前を見た。こういう名前は、別にテニスに格別の関心があるわけではない私のような者にも、戦後の一つの季節をある彩を以て思い出させてくれる。1950~60年代、デヴィスカップの東洋ゾーンというのが、田園調布にあった田園コロシウムというテニス場で行われ、オーストラリアだのインドだのの見るからに強そうな強豪が立ちふさがっているために、華奢な日本選手は跳ね返されてしまうのが常だった。加茂公成だの宮城淳だの、皆戦前からのテニス一家の御曹司だった。

もう一つの訃報で、松方弘樹が各局からこぞって大名優扱いされるのにはびっくりするが、もっとも彼の俳優としての全貌を知っているわけではないから別に異を立てるつもりはない。親父さんの近衛十四郎は、主演スターとして復活してからより、松竹の時代劇映画で凄みのある悪役俳優だった頃がなかなかよかった。(大谷友右衛門と二枚看板で共演した『風雲日月草紙』というのがあった。いま一度巡り会って再見したいと願いながら未だ果たしていない。昭和30年、映画俳優大谷友右衛門としては末期の作ということになる。) 

その近衛十四郎の息子だというので売り出して間もない頃、テレビで『人形佐七捕物帳』をやっていたのをよく見ていたから、以来、ある種の好感を持ってはいた。なにしろ渥美清と克美しげる(この名前! まだ覚えている人は結構少なくないだろうが)が子分の役だったのだから、今は昔の話だが、そういえば岩井半四郎が八丁堀の同心の役で準レギュラーで出ていたっけ。(例の一件が起こるより前の話である。) 

もうひとつ、これは比較的近年だが、タイトルは覚えていないが大正から昭和初期の時代のストーリーで、詩人だか画家だったかの役をしてあの時代の文化人の雰囲気をよく出していたのに感心したことがある。むしろ時代劇をしているときより、セリフの癖がなくてはるかによかった。あの時代の雰囲気を体に持っている感性こそ、この俳優の得難い「仁」であったと思う。このブログに書き留めておこうと思う理由でもある。

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1月の新聞劇評掲載予定日

(1)歌舞伎座評 1月13日(金)

(2)国立劇場評 1月18日(水)

いずれも日経新聞夕刊。

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随談第588回 歳末日記抄

一昨日辺りを境に、突如歳末となったという感じである。思えば、「押し詰まる」という語感を忘れかけて久しい。以前は12月に入ると徐々に歳末の感じが、世間にも職場にも、各家庭にも色濃くなってゆき(12月14日の討入の日辺りからそれが加速的になり出すのが実感された)、文字通り、暮が押し詰まってゆくのがひしひしと思われたものだったが、当今は、昨日までは何事もなく、今日から突如、遮断壁が下りるように歳末になる、という感じだ。そこで慌てて、歳末の日記からのよしなしごとの抜き書きで、今年のこのブログを締め括ることにしよう。

(その1・ふしぎな歌) 『べっぴんさん』という朝ドラの主題歌が、3カ月経った今なお、何を言っているのか歌詞が半分ぐらいしか聞き取れない。とんでもないところで言葉を切ったり、重要と思われる言葉をボソッと呟くかと思うと妙なところで声を張り上げたり。翻って思うに、歌詞、発声、フレーズの切り方、強弱の付け方等々、おそらく作詞・作曲・歌い手、更にこれを容認し採用したディレクターその他のスタッフ・番組関係者たちの日本語に対する感覚が、われわれのような旧時代人とは、おそらくまったく別種の言語感覚の上に成り立っているのだろうと考える他はない。

主題歌もだが、ドラマ自体も、題材への興味に引かされて、まあ、見続けてはいるものの、かなりかったるい進行である。神戸のハイカラ=ブルジョア家庭に育った仲良し3人組が、戦災にあったり夫が出征・復員、貧窮生活に陥ったりしながらもお嬢さん気質は微動だにせず、女学生気分そのままに小さなベビー用品店を始め、やがて大百貨店に店舗を出すようになり、この先には一代飛躍をするのであろうという(実は誰もが知る有名メーカーがモデルであるという)物語は、このところの朝ドラお得意のストーリーで、どうやら、ヒロインたちのお嬢さん流のやり方が男社会の通念・常識に勝ってしまうという筋書は結構愉快なドラマになりそうに思うのだが、脚本・演出とも、それなりのユーモアということを考えているらしい気配はあるものの、運びに起伏・緩急がないから、いらいらすることおびただしい。独善の匂いが充満している。

わけてもイライラを増幅させるのがヒロインの亭主で、この男がでてくるだけでうんざりする。マジメで誠実なだけが取り柄、小心、小胆、器の小ささ、男としての魅力のないことでは朝ドラの歴代のヒロイン亭主としてワースト幾つかに入るであろう。この男を含む仲良し3人組の夫たちは、要するに一種の三バカ大将なわけだろうが、それならいっそ三枚目にしてお笑い系の役者にでも配役した方が、多少は救われるかも知れない。

そんなにつまらなければ見るのをやめればよさそうなものだが、いまさらやめるのもイマイマシイ。と、そうやって釣るのも、演出者の手の内かも。

(その2・夜のニンマリ)朝ドラついでに大河ドラマ『真田丸』。まあ、面白い部類であった。あの作者、あの主人公役なら、ああなるであろう、うまいものだとも思い、こうとよりならないのだなあ、とも思う。通して見て、作者の意図を最後まで貫かせることを可能にした一番の功労者は長沢ますみであろう。最初、現代調丸出しの演技でオヤと思わせたが、実はそこに作者の(逃げも含めて)狙いがあるのだと分って見れば、彼女の存在感と演技は殊勲甲であったといってよかろう。だんだん歳を取ってゆく、それと共に女っぷりも上がってゆく感じなど、なかなか端倪すべからざるものがあった。

あの女の存在があって、秀吉だ、家康だ、景勝だ、三成だ、淀君だ、その他その他の歴史上の著名人たちを捌く三谷幸喜流の料理塩梅が、それぞれ、なるほどという形を取り、位置を占め、オモシレエジャネエカと思わせるところに落ち着くことになった。つまり、作者三谷幸喜の立ち位置を、長沢まさみが言わず語らずの裡に視聴者に知らしめ、ドラマの中に定めたということになる。(イヤに褒めるようだが、ここがあのドラマの勘所なのだから仕方がない。)そこを見外せば、新聞の読者評に、あの主人公は一人だけ現代人が混じっているようでイメージにある幸村と違っていた、というさる年配読者の感想が載っていたが、在来の歴史ドラマファンからすれば、そう思うのが当然であろう。

(その3.沖縄見聞)今年からつとめることになったさる委員の仕事の一環として、視察旅行という名目で沖縄へ一泊の旅をした。旅は嫌いではないが出不精の性分で、はじめての沖縄である。那覇空港へ着陸の途中、地上に見えた最初の文字が屋根の上に「ニトリ」と大書された広告で、次いで着陸直前、自衛隊の滑走路が右手に見え、戦闘機や輸送機が何機も目に飛び込んできた。「ニトリ」の広告という「本土並み」的光景と、自衛隊機というキナ臭さの併存。あゝ沖縄だと妙なところで実感した。

沖縄の国立劇場を視察し、いわば歌舞伎に相当する組踊の舞台を見、ややお楽しみとして首里城址を見物するのが旅行の主たるところだったが、その首里城址に復元された王宮がなかなか面白かった。正面の正殿の左側に清の冊封使の席があり、清王朝の使者に向かって仮設の舞台がしつらえられ組踊が演じられる。それと向かい合って、つまり舞台の裏手から薩摩側の席がある、という図が、往時の琉球国をめぐる日中両国の関係だったわけだ。

と、そこで思い出したのが昭和31年7月、かの市川右太衛門の『旗本退屈男・謎の幽霊船』なる一作である。琉球国の御家騒動に退屈男が乗り込んで解決するという筋で、私の見た限りの退屈男シリーズで一番出来の良い作だったと思うが、善玉が薩摩派、悪玉が清朝派という設定で、高千穂ひづる演じるお守り役が幼君を守り抜く。感服した退屈男が「大和撫子はここにもいた」と感に堪えて言う右太衛門独特のやや上方訛りの名調子と、山形勲演じる悪玉方の隊長役が「我らにはさる大国の後ろ盾がござる」と退屈男に向かって言い放つ、これまた独特の、一種棒読み調子が耳に残っている。OSKの名花だった勝浦千浪が琉球の踊り子役で出ていたっけ。

(その4・ファミリーヒストリー)秋に実の兄が死に、親から引き継いできた上村家の仏壇が我が家に移されることになった。昭和改元とほぼ同時期に、亡父が分家独立と大学進学とを一挙に行ったのを機に拵えたと推察される古い仏壇である。

この際でもあるし、と思い立って、姉・妹の記憶も合わせ、聞き伝えていたことに加え、戸籍を確認するなどして上村家の系図を拵えてみた。肝心の、明治維新で幕府瓦解と共に北海道へ移住、という処で具体的な人名が辿れなくなるのが残念だが(死後80年で謄本が破棄されるらしい)、大筋のところは案外古いところまで遡れるもので、なにより面白かったのは、処々に伝わっている逸話のごときものから、いわゆるDNAのような、一族一党に通底する性癖・傾向・生きざまのようなものが、長短ともに、結構浮かび上がってくるように思われることである。同時に、ふだん忘れているような古い記憶というものが、兄弟姉妹、撚り合わせてみると、かなり正確に思い出され、辿れるものだということだった。

一方残念なのは、生涯独身を通した兄が、癌と知って家を売り払って余生を外国で送ろうと企てたはいいが、想定外に病の進行が早く、事実上、到着するなり入院、一カ月病院で過ごして死去、その国へは事実上死にに行ったような結果になったのが、本人は本望だったとしても、その結果、家具調度から蔵書その他、客観的にはろくなものではなくとも、兄弟姉妹には思い出のあるもの共、わけてもアルバムだの手紙類だの、とりわけ戦中戦後の時期を語るものが永久に失われてしまったことだ。系図はそれなりにできたものの、肝心の近過去の記憶を裏付ける資料が失われたことになる。

***

本年度は是きり。来年もよろしくご愛読ください。

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随談第587回 舞台随想

今月の歌舞伎では、玉三郎の道成寺に心が留まった。並々ならぬ思いが察しられたからである。決意、と言ってもよいし、心意気と言ってもよい。『京鹿子娘五人道成寺』という外題を見た時は、『日本振袖始』ならぬ五岐大蛇みたいだと思ったりもしたが、舞台を見ている内にそんな軽口を叩く気持ちは消え失せた。これで玉三郎は『娘道成寺』を舞い納める覚悟かも知れない、そう思わせるだけの強い意志がそくそくと迫ってくるのを感じた。

体力から言っても、玉三郎が『娘道成寺』を一人で踊り抜くことは多分もうあるまい。菊之助と踊った『京鹿子娘二人道成寺』も、新しい歌舞伎座で踊った東京での三演目が見納めと思っている。今度の「娘五人」は娘を三人増やしてそれだけ体を楽にしようというだけのことではあるまい。勘九郎、七之助、梅枝に児太郎。これと見込んだ四人の後輩を率いて、道行は五人、三蓋笠は児太郎、鞨鼓は勘九郎・七之助、「ただ頼め」は梅枝に任せ、クドキその他、ここぞという処は自ら踊る。『京鹿子娘二人道成寺』のようなさまざまな含意が読み取れるような構成の妙があるわけではない。役名は五人ともが白拍子花子だから、五人一身ということなのだろうが、そのこと自体に格別の面白さがあるわけでもない。むしろ、全曲を一人で踊り抜くことの無理を悟り、受け入れた玉三郎が、四人の後輩を自ら率いることによって五体一身の心で、自身の『京鹿子娘道成寺』を踊り収めようとの意思を私は読み取ったと思った。そしてそのことに感動を覚えた。クドキへの心入れ、四人を従えて鐘の上に立ち、見得をするときの気迫には、玉三郎一代の『娘道成寺』を誇示するかのような格別な美しさがあった。

***

これを見るまで気づかなかったが、児太郎は国立と掛け持ちである。『仮名手本忠臣蔵』第3部としての八段目と九段目の小浪という大抜擢の大役と、この顔ぶれでの『五人道成寺』の一人という大抜擢である。児太郎にとっては生涯忘れられない月になるだろう。またそれによく応えている。芸の未だしをあげつらうより、一心さを以て芸の不足を上回った「初一念」をこそ、認めるべきであろう。

梅枝については、私は夙に、講師を引き受けているカルチャー教室で、株を買うなら梅枝株を今のうちに買っておくことを勧めます。それもすぐに売らないで、財産として取ってお置きになるとよい、と話してある。曾祖父三代目時蔵の俤を見ているからだが、今月の花子と『寺子屋』の戸浪を見ながら、むしろ三代目左團次を思い出した。どちらに似たところで、今の世にあの顔の長さは、それだけでも希少品だが、もちろんそれだけが理由ではない。相撲で言えば、腰の備えがいい。とり越し苦労をひとつするなら、あまりああだと、人気の上で割を食ったりしないだろうかということだけだ。

七之助がすっかり大人になった。真女方として貴重な存在となった。これからを大切に歩んでもらいたい。中車、松也と三人芝居の『吹雪峠』でも、一番戯曲に肉薄していたのは七之助だった。(『吹雪峠』といえば、中車はこれから、自分をどういう方向へ持っていこうとしているのだろう? いまのところ中車の舞台には、不可もない代わりに優も秀もない。失敗を恐れ過ぎてはいないだろうか?)

四人の後輩女方といっても、勘九郎のはあくまでも立役が加役として踊る道成寺であり、もちろんそれでよいのだが、このところの勘九郎の舞台ぶりにやや行き暮れたような翳を感じるのは私だけだろうか。第二部の『寺子屋』で松王丸をしていて、おとっつあんそっくりと声がかかってもおかしくないだけの成績を示してはいるのだが、父親そっくりが、眉毛をぴくぴくさせるなど細部の模写に陥りかねない危惧を覚える。湊川で討ち死にした父正成を慕う楠木正行ではないが、父のようになりたい、なろうと思う一心に凝り固まっていはしまいか。親を尊敬するのはもちろんいい。だが、やがて来る十九代目勘三郎は、十八代目とはまた別な、独自の勘三郎でなければならない。

***

12月の三部制が、それぞれ同一料金なのは、当然といえば当然だろうが、おかしいといえばおかしい。玉三郎が『二人椀久』と『五人娘道成寺』を踊る第三部と、獅童と松也の歌舞伎ミュージカル『あらしのよるに』が同じ料金で見られるという、この歌舞伎座風デモクラシイに幸いあれ、か?

『あらしのよるに』がいけないと言っているのではない。あれはあれで結構だと思う。4月末、幕張メッセで初音ミクと共演した獅童の獅子奮迅ぶりに一種感動を覚えたことは、その折にこの欄に書いた通りである。『あらしのよるに』もその延長線上に置いて見るとき、こうした路線における獅童の在り様というものが如何に稀有なものであるかがわかる。海老蔵、菊之助さらに勘九郎、七之助、さらにさらに染五郎・・・と指を折っても、獅童のこの働きに拮抗できる人材があろうとも思われない。

『あらしのよるに』を迎える客席の反応も好意と満足感に満ち満ちていた。成功だったのである。しかしそのことと、玉三郎の道成寺が同じ料金でよいのだろうか?という疑問とは矛盾することではない。玉三郎の第3部が1万2千円なら、第一部『あらしのよるに』は6千円でいいのではないか? むしろ、6千円で、大勢の若い人たちに見てもらうべきものではないか? 誤解のないために言うのだが、これは価値の上下をいっているのでも、儲け主義がどうのということを言っているのでもない。

***

国立劇場開場50周年の『仮名手本忠臣蔵』三部作がどうにか無事舞い納めた。菊五郎の勘平という秀作を生み出しただけでも、しただけのことはあったと言ってよい。

国立劇場について、税金でまかなってもらえるから経営努力をしない、ということを言う向きがあるが、私はその手の「きびしい」声には必ずしも同調しない。少なくとも、「いま置かれている」状況の中で相当の努力を払っていることは間違いない。50年前の開場当時は、歌舞伎座が年間、ときには年に8回か9回しか歌舞伎の興行が出来なかった中で、1年12カ月、歌舞伎公演をしていたのが、どうして、歌舞伎教室を入れても年6回になってしまったのかは、おそらく国立劇場だけの責任ではあるまい。

それにつけてもだが、近頃、カルチャーなどで受講者の方々の話を聞いていてアッと思うのは、五十年配六十年配で比較的近年に歌舞伎に関心を持つようになったような人たちが、その念頭に国立劇場の存在がほとんど入っていないということである。歌舞伎座が改築されたことで歌舞伎に関心を持つようになったという人も少なくないのだろう。11月の「忠臣蔵シリーズ第二部など、菊五郎の勘平に吉右衛門の由良之助が揃って顔をそろえて、料金も歌舞伎座の3分の2ですむという「お徳用」であったにも拘らず、薦めてもピンとこないような顔で聞いている。旧歌舞伎座がいよいよ取り壊しというニュースが流れた時、まだ元気だった勘三郎がタクシーに乗ったら、「あんたたちも歌舞伎座がなくなったら仕事がなくて大変だね」と運転手から同情されたという笑い話は、実は決して笑い話ではない。

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随談第586回 舞台随想(その2)

吉右衛門が「七段目」の大星一役、菊五郎が「五・六段目」の勘平一役、仁左衛門が『御浜御殿』の綱豊卿一役(『連獅子』の間狂言の慶雲阿闍梨というのもあるが、あれはまあ、今この際はノー・カウントとしよう)という中で、幸四郎一人、『加賀鳶』の道玄に、芝翫襲名の披露演目『盛綱陣屋』で和田兵衛を勤めるという元気さである。今月に限った話ではない。このところ、こうした「現象」をしばしば目にするが、心身共に健康且つ若いのであろう。やがてXデーが来ても高麗屋ばかりは超高齢者として矍鑠として舞台に立ち続けるのではあるまいか? 舞台ぶりも、同世代の大家たちの中でもひと際、万年青年的な若さを感じさせる。レジェンドとなるのは、案外この人であるかもしれない。

『加賀鳶』の道玄を初めて演じたのは、もう60歳を過ぎてからだった。他にも次々と黙阿弥物を手掛け出し、『筆屋幸兵衛』などは没落士族だから身体にある役といえようが、円転滑脱の趣きからは遠い幸四郎が何故、柄にもない芸質にもない(と思われる)黙阿弥物を?と、真意を測りかねるところも、正直あった。しかしご当人は案外喜劇好きとおぼしく、演じ重ねて道玄も今度で五演目となると、それはそれなりに身について来て、ようやく我が物としたなと認めてよいだけの流露感が感じられるようになった。菊五郎も二度ほどつとめているが正直、如何に当代の兼ねる役者といはいえ、やはり根にある二枚目役者としての体質が、こういう役となるとどこかで邪魔をすることになるからおそろしい。となると、いまや高麗屋を以て担い手と認めるのが現実というものであろう。少なくとも、道玄のオトコとしての強面ぶりは本物である。(勘三郎は遂に一度も手掛けないまま逝ってしまったが、もしやっていたとして、果たしてどうだったろう?)

松蔵の梅玉というものは、これもいまやこの人を以て適任者と認めてよく、あの細身に程の良い量感を蓄えた感じがなかなかいい。鳶の恰好で踵を揃えて束に立った姿が、現在一番風情があるのはこの人だろう。

おさすりお兼を秀太郎がやっていて、このところ頓に、じゃらじゃらした、どこまでが役でどこからが地だかわからないような世話のセリフがすっかり堂に入って、いまやお兼役者として揺るぎがないが(秀太郎がまさかこういう風になろうとは、50年前の国立劇場開場の折の苅屋姫などからは想像もつかなかった)、夜の部の『盛綱陣屋』では微妙をつとめるという変幻自在ぶりを見せるが、こちらは、情の厚さに於いては申し分ないが、セリフのじゃらじゃらがわざわいしてどうも世話っぽくなるのが気になる。先頃の『道明寺』での覚寿もそうだったが、かつての苅屋姫が、覚寿や微妙以上にお兼の方がピッタリになってしまおうとは、まさに有為転変の世の中である。

それにしても、昼の部と夜の部ではお客が入れ替わるからいいのかもしれないが、一日の内にお兼と微妙を同じ役者が勤めるという配役は、どうも感心したことではない。もちろんこれは、秀太郎が望んでしたことではあるまい。東蔵は国立劇場で六段目のおかやをしているし、余儀ないこととはいえ如何なものか。

『加賀鳶』と言えば(通しで出たのは、国立劇場で一度切り、見たことがない)、「木戸前」の勢揃いを序幕とするのが定例となっている。いつぞや赤川次郎氏が、後の場面と筋の上の関係のない「勢揃い」不要論を唱えていたが、なるほど、外題は『加賀鳶』と言いながら鳶は松蔵ひとりしか活躍しない、つまりこの場合も、脇筋である道玄の筋の方が庇を借りて母屋を奪っているわけだ。しかし「勢揃い」のない『加賀鳶』というのも、入場式のないオリンピックみたいなものだろう。

ところでその「勢揃い」を見るとき私がいつも気にかけていることがあって、それは、いざ引き上げと決まって舞台下手に二列に並んだ鳶たちがセリフを言いながら半纏を畳む時の、素早く脱いでビシッと四角く畳む、その手際である。これがなかなかうまく行かないことが多く、中には遂に間に合わず、レインコートみたいにぐしゃぐしゃに持ったまま引き上げる羽目になるのが、大概、一人二人出る。はじめに脱ぐときに袂が引っ掛ると後に響くことになるわけだが、要は気働きの有無であって、今月私の見た日に限って言うと、うまくいかなかった某君の名前は伏せるとして、断トツに手際が鮮やかだったのは右近だった。

この「勢揃い」で、冒頭、押し出して来た鳶たちが花道に並んでツラネを言うのがいわばセレモニーの入場行進みたいなものだが、先頭の春木町巳之助が一同の兄貴分、次の昼っ子尾之吉というのが、ひとりだけ前髪をつけた未成年なのが目につく、この二人がとりわけいい役ということになっている。今度は春木町巳之助が染五郎でこれは顔ぶれから言って順当、役者の格と役の格が重なって結構だが、昼っ子尾之吉に襲名三兄弟の末弟歌之助が、お兄ちゃん二人を差し置いて抜擢されているのがオッと言わせる。声変わりの真っ最中、意気の良さが身上というところだが。

その染五郎だが、自分でも『口上』で笑わせている通り昼夜5役の大奮闘だが、よかったのはこの春木町巳之助と『盛綱陣屋』の暴れの注進といった付合い役、『御浜御殿』の富森は健闘を認めてよいが、実はあの役、作者の指定によると、江戸勤番の都会人が国詰めの田舎侍を装っているのだ、とある。もっとも、そういう富森を演じたのは…などと言い出すと、八代目三津五郎に富十郎に、後は…ということになってしまうが、染五郎に限らず当今の富森は皆、その辺りの含みがどこかへ行ってしまっているような気がする。まあ、それは措いておくとすれば、当節の富森として好演と言ってよいだろうが、肝心の自身の出し物である『毛抜』の粂寺弾正が、思ったほどでなかったのが気になる。喉で発声する昔の癖が戻って、せっかく、懸案だった『勧進帳』で弁慶をあれだけにやってのけ、役者ぶりだけでなく、役どころ、つまり役者としてのフィールドを大きく開拓するゆとりを身に着けたかと期待した折だけに、おやおやというところなのが残念である。

ついでだが、『御浜御殿』で、綱豊に突き放されて富森が吉良を討とうと焦るのをお喜世が必死で止めようともみ合っているさなか、舞台奥の縁先を吉良とおぼしき老人が腰元に案内されて通るのが開いている障子の間から見える、という演出を、何故か今度は採っていない。これは染五郎の責任ではないと思うが、仁左衛門の意向だろうか?

11月の初日を目前に、彦三郎が楽善になり、長男の亀三郎が彦三郎に、次男の亀寿が亀蔵になるということが発表になった。楽善という名前は不勉強で知らなかったが、三代目が隠居名として名乗った名前の由。

彦三郎は、この月の時政でも目についた体の具合から察するとやむを得ないところなのかもしれないが、それでも、「口上」の席に連なってのいかにも渋い、風格ある役者ぶりは、キラキラ役者がもてはやされる当節、滋味のある風情でウムと唸らされる。それにしてもこの人、亀三郎に始まって薪水、亀蔵、彦三郎、そして今度の楽善と、私の見ている前で五つの名前を名乗ることになる。私としても、こんな例は初体験である。(光伸、八十助、簑助、(九代目)三津五郎というのがこれまでの最多改名記録だが、尤も私は光伸時代は見ていない。)

亀三郎といった子役時代に映画に出演している。昭和30年、山本有三の小説の映画化で原研吉監督の松竹映画『路傍の石』で、今も変わらない、生真面目でまっすぐな風貌・演技が主人公の吾一少年にぴったりだった。

亀三郎時代の思い出深い役といえばもう一つ、昭和ひと桁世代を中心に始まった東横ホールの若手歌舞伎が開場10周年を目前にした1964年10月(といえば東京オリンピックがまさに開催中である)、亀三郎等の当時の新世代を主力にした『仮名手本忠臣蔵』通し上演が行われ、現・菊五郎の丑之助の判官におかる、後の初代辰之助の左近の勘平、といった中で亀三郎の役は若狭助に平右衛門だった。とりわけ平右衛門は、その後に見た父親世代の大家たちを含めても、いかにも妹思いの実意のこもった、好もしいものとして今なお甦ってくる。

(蛇足ながら、24歳だった現・左團次の男女蔵が、このとき既に、52年前となる先月の国立劇場と全く同じ師直と石堂をつとめている! 尤も、吉田の兼好を吉田の松陰などと言い間違えたりはしなかったが。)

これを受けて翌40年五月、歌舞伎座で六代目菊五郎十七回忌という特大の興行が行われ(この時に『保名』を踊ったのが11代目團十郎の最後の舞台となったという因縁の公演だった。そのころ何かとトラブルメーカー的行動が続いていた團十郎は、この時も途中休演して物議を醸したりしたが、私の見た日は再出場してからだったのは幸いだった)、丑之助改め菊之助、左近改め辰之助、亀三郎改め薪水という、菊五郎劇団三巨頭の長男3人の同時襲名という晴れ舞台だった。華やかな人気では他の二人に一籌を輸しても、芸が一番しっかりしているのはむしろ薪水だ、という声も少なくなかった。つまりこの時点での亀三郎改め薪水は、菊之助・辰之助と同列に並んでいたのである。

(ついでながら、いわゆる「三之助」なるものは、この時点ではまだ存在していなかった。後の12代目團十郎の新之助は、先の東横ホールの花形揃いの『忠臣蔵』にも、三人同時襲名の公演にも、「学業優先」という理由で出ていなかった。)

好事魔多しという決まり文句が、まもなく薪水を襲った難病の場合ほど、身に染みて思われることはないだろう。東北巡業中の夜行列車の車中だった、と聞いたように覚えているが確かなことは知らない。ともあれ非運はこの時に始まった。身体的なハンディキャップが、それ以後この人の役者人生について回ることになったのだ。長らく病気・保養の時期が続き、やがて亀蔵と改名する。心機一転の心算であったのだろうが、亀蔵時代の舞台は正直、印象が薄い。また数年して彦三郎となって、役どころ・地位、今日に至る歩みを続けてきたが、芯になる役をつとめる機会はほぼなくなった。気の毒、という言い方は却って非礼かも知れないが、薪水襲名前後の、爽やかな舞台ぶりをいま改めて思い起こすとき、何とも言えぬ懐かしさと共に、胸が熱くなるのを覚えないわけには行かない。

彦三郎の名前の先代は、実父の十七代目羽左衛門の前名であり、事情があってのことではあったが、彦三郎という大名跡から羽左衛門という、座元名に由来するまた別な大名跡に変わったのは異例と言われたものだった。新・彦三郎になる亀三郎は、その爽やかで清潔感のある風姿が、父の薪水時代を彷彿させる。良き彦三郎として、父の果たせなかった域に達する「いい役者」になってもらいたい。

弟の亀寿が、薪水でなく亀蔵になるのは、父が病魔に侵されたのが薪水を名乗っていた時期だったのを嫌ったのだろうか? それも分らないではないが、しかし薪水という名は祖父十七世羽左衛門も若き日に名乗った名前でもあるのだし、この際蘇らせてほしいという思いが正直する。この亀蔵は彦三郎家の名前なので坂東亀蔵だが、片岡家にも、現に片岡亀蔵が活躍中だし、羽左衛門家の名跡として市村亀蔵という名前もある(戦前のことだが十五代目羽左衛門の養子に亀蔵という人がいた)。

昭和三十年代から四十年代、中村福助が二人いて、成駒屋福助と高砂屋福助と呼んで区別していたものだが(時には、東京福助と大阪福助と呼ぶこともあったが、これはいかにも艶消しだった。言うまでもないが、この「東京福助」が新・芝翫の父の七代目芝翫のことである)、同名が二人、同時に存在するという事態は、なるべくなら避けた方がよい。

 

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