随談第486回 机上の妄論(その2)

連載物をしていると、つい小回りが利かなくなりがちで、折々の雑報だの感想だの、よしなしごとを書き留める機会が少なくなって、酸欠気味になる。そこで、そうした「雑談」を一束ね、束ねてみよう。

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プロ野球のオールスター戦というのは、民放のテレビ中継だとやたらにお祭り気分を演出しようとするのに白けるが、平素なかなか見る機会のない有名選手の誰かれをいちどきに見る愉しみというのは、なかなかいい気分である。神宮球場での第二戦を見る。今年は初出場の選手が多かったが、何と言っても、前日に投げたので今日は出場しない広島の前田だの楽天の田中だのが、コーチボックスに入れ替わり立ち代わり姿を見せる。そんな他愛もないことを嬉しがるというのもオールスター戦なればこそで、そもそも、歌舞伎でも大相撲でも、興行ものの喜びというのは、アヽあれが音に聞くエビゾウか、ホラあれが大砂嵐だよ、といった具合に、お上りさんの都見物よろしく他愛もなくウレシガルところに本質があるのだ。プロの興行というのは煎じ詰めれば見世物である。顔見世、とはよく言ったもので、オールスターの愉しみはそれに尽きる。

その内に、マエケンて意外に細身なのね、とか、田中の身体つきってプロ野球選手の理想だよな、とか、イデホのデカさというのは稀勢の里ばりだとか、いろいろなところに気が付き始める。評判記ではないが、「評判」「噂」こそ批評の根源なのだ。マートンだブランコだバレンティンだといったところを連続三振に打ち取った育成選手上りの千賀にも、はじめて目の当たりにする光栄に浴した。日ハムの大谷のスマートさというのはやはりただ者ではないし、阪神の藤浪もヤクルトの小川も既にオーラを纏っている。一年間浪人暮らしをしてまで巨人入団にこだわったクソ野郎と好感を持てずにいた菅野なんてのも、しかし実物を見るとやっぱり悪くない・・・といった私家版「野ボール」評判記を、夜風に吹かれビールをぐびりぐびりやりながら胸の内に書いていた。

パ側がやや貧打の気味だったので地味目の試合展開になったが、しかしそれも、セ側の花形投手連の好リレーと背中合わせのことで、まあ痛し痒しか。妙にお祭り気分に染め上げようとするのでもなく、オールスター戦といえども勝敗にこだわって勝ちに行く、などというのでもない。それにしても民放のオールスター戦の中継放送というものが、こうしてみると、いかにパターン化しているか、今更ながら知らされる。

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名古屋場所は稀勢の里の独り相撲で終始したが、千秋楽のNHKの解説で舞の海氏が言っていた、稀勢の里は相撲の取り方に主体性がない、というのが一番の適評であろう。余計なことを考えず思い切って行け、と新弟子のときに親方に言われたのを馬鹿正直に守っている内に横綱を狙う地位になっても、つい、頭を使わないで相撲を取る癖が身についてしまったのか。

胸毛の立派なので有名だった昔の(つまり、朝青龍の親方のもうひとつ前の)朝潮は、栃若よりも強い筈なのに、第一人者の地位につけず三番手の横綱で終った。年に一度、大阪場所というと優勝するので「大阪太郎」と仇名がつくほどだったが、成績にムラがあるために横綱になれたのは晩年で、まもなく若き柏鵬に追いつかれてしまった。あまりに人が好く、いろんな人の助言をハイハイと聞き過ぎたと言われた。柏戸も、右前みつを鷲づかみにしての豪快な寄り身で全盛期の大鵬を幾度か土俵下に吹っ飛ばす力を見せながら、こと優勝回数に話を限るならほんの四回に留まった。朝潮も柏戸も、雄大な体躯といい、豪快な相撲振りといい、(朝潮などは『日本誕生』という東宝映画に特別出演し、原節子の天照大神や乙羽信子のアメノウズメの命を相手に、天の岩戸をこじ開けた手力男ノ命(タヂカラオノミコト)の役をつとめたほどだ)これぞ「角力」と思わせる、それこそ記録よりも記憶に残るという意味では「大横綱」ではあったが、記録という実績からすると「並みの横綱」に終わった。名を成さしめた栃錦や大鵬の相撲に比べると、あまりにも相撲振りが素朴であり過ぎたのだ。

だがそうは言っても、朝潮も柏戸も立派に横綱となったが、稀勢の里は今のままでは横綱になれるかどうか、心もとない。ひとつ違うのは、朝潮は両肘を締めて相手のとび込むのを許さない「鶏を追い込むよう」と評されたような、柏戸には先に言った右前みつを取っての突進という、それぞれ「型」を持っていて、それがツボにはまったときは栃錦も若乃花も大鵬もかなわなかったが、稀勢の里にはそれがない。ないわけではないが(現に白鵬に真っ向から勝てるのは稀勢の里だけだ)それが「型」として確立していない。舞の海氏の言う「取り口に主体性がない」とは、つまり「型」として確立するためにはもっと「頭」を使わなきゃ、という意味に違いない。主体性とは「意志」であり、意志は頭を使わなければ成り立たない。

ところで、このところ不充分ながらも改善の様子が見えていたNHKの大相撲ダイジェストの放送時間が、今場所、また午前三時台に改悪された。前にもこの欄に書いたことがあるが、幕内の取組が午後四時から六時までというのが見られない者が、あの簡略なスポーツニュースでは知り得ない、一番一番の取組を見たいがために深夜を厭わずダイジェストを見るのだ。とは言え、出勤時間その他、翌日の仕事のことを考えればそうそう夜更かしをするわけにもいかない。見終わったら午前四時というのでは、まともな勤労者は相撲を見るなということではないか。これも前に書いたが、心あるファンというのは、優勝争いや話題の力士だけを見るのではないのだ。

実況放送でも、無理やりその日その日の話題を作るために、さほどでもない「今日の一番」なるものをこしらえて、他の取組の間に前場所のビデオを流したり、解説者に予想を言わせたりするので、それに当てられた取組は制限時間いっぱいになるまで映してもらえないということになる。よほどの大一番ならともかく、その犠牲になった取組、その力士を見たい者には実に腹立たしい。何時だったか北の富士さんが、さほどでもない「今日の一番」について何度も同じ話題を振られて、エッ、それさっきも言ったじゃないの、と応じたことがあったが、実に痛快であった。

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先日、歌舞伎学会の企画で、松尾昌出子さんの話を聞く催しがあったが実に面白かった。近来の好企画というべきである。千土地観光(ドリーム観光)など大阪の興行師として著名な松尾国三を父に、貴重な女役者として知られた市松延見子を母に持つ松尾さんだが、そこで思ったのは、このご両親の一代記を、それこそNHKの朝ドラにしたらぴったりであろうということだった。役者上りの海千山千の興行師に市川中車、大歌舞伎の役者からも実力と意識を認められていた女役者であり、きびしくもやさしい母でもあった延見子に寺島しのぶなら、極上のキャストであろう。女の生き方シリーズとして延見子をヒロインにすれば、大当り間違いなしと思われる。どなたか、このブログを読んで下さりNHKに顔の利く方があったなら、売り込んで下さらないだろうか。

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都議選に続き参院選の投票率が、ことに若年層で低かったのが話題となっているが、そうしてこれは絶対、NHK民放を問わず放送局では言いっこないことだが、午後八時に投票が終了すると一秒も経たないうちに当確が出る、というのは、百の理屈千の説明を聞いてもなお、有権者として馬鹿にされているような気がしてならない。出口調査なるものに出会ったら断固拒否してやろうと思っているのだが、残念ながら私の投票所はその対象になっていないらしく、出会ったことがない。

そりゃあ、統計学なるものはそういうもので、太平洋の水質調査をするのに太平洋の水を全部汲み出す必要がないように、サンプリングなるものの正確さというものはよく承知しているが、それはそれ、あれは実に感じがよくないことに変りはない。私がもっと若くて、自分の一票の軽さ、むなしさの方が、それでもこれ以外に方法がないのだから、と考えるより大きかったなら(その方が、実感として自然ではあるまいか?)、午後8時と同時に当確、というのを聞いたら、投票意欲を失っているかもしれない。そのむなしさは、統計学によるサンプリングの正確さを説明されればされるほど、一層大きくなるだろう。だってそうではないか? あなたの、私の一票が日本を、東京を変え得る、という選挙の建前・方法というのは、人の善意・良識というものを前提にした「虚構」の上に成立させているのだから。
    
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それにしても、代々の民主党党首の方々というのは、つくづく、政治家としてはアマチュアだったんだなあと思わざるを得ない。もっともあの方々って、私は必ずしも嫌いなわけではない。アマチュアが首相にまでなってしまえるというのは、民主主義として少なくとも間違ったことではないだろう。

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随談第485回 今月の舞台から

4カ月目に入って歌舞伎座の落し公演が花形中心に変わった。中心どころか、ほぼ全員が本当に若い。それはまあ、小山三も出て相変わらずおいろ役を元気でつとめているが、番付の連名の上段に名を連ねているような中では、錦吾と団蔵と萬次郎に市蔵が、たぶん『四谷怪談』が出るので四谷左門と伊藤喜兵衛と後家お槇と宅悦のために特に出演したと思しく、昼夜でそれ一役だけをつとめているのを例外とすれば、せいぜい権十郎あたりを年長者とするというのは、皆なんという若さだろう。こういう顔ぶれだけで『再岩藤』や『四谷怪談』が出来るのだ。今更ながら、ここまで時代は進行しているのだと痛感しないわけに行かない。

花形といっても、今回は染五郎、菊之助、松緑の三人で昼夜を持ち切る。『再岩藤』は愛之助も一枚噛んで望月弾正をつとめるが、それ以外は、『再岩藤』は染五郎が多賀大領に安田帯刀、菊之助が尾上にお柳の方、松緑が岩藤に鳥居又助と二役ずつ、『四谷怪談』では染五郎が伊右衛門に松緑が直助、菊之助がお岩・与茂七・小仏小平と、文字通り三人で持ち切る構えだ。とすると、昼の部は松緑が、昭和42年九月に開場まだ一年に満たない国立劇場で、当時として四十何年振りかで復活上演した時の配役でいえば十七代目勘三郎のつとめた二役を受け持つことになるわけだ。(ついでに言えば、染五郎の二役が勘彌、菊之助の二役が、ついその四月に襲名したばかりの芝翫だった。芝翫はこのときまだ40歳である!)

その後当代猿翁(と言わねばならぬとは、嗚呼! 何とも感じが出ないことおびただしい)がじつに十六回演じながら練り上げていったバージョンや、別に平成中村座で十八代目勘三郎が演じた串田和美バージョンでは、大領や弾正や帯刀までつとめて、多い時は七役早変わりなどということもあった。これらは別バージョンと考えるべきで、今度は音羽屋の型でやると松緑が言っているのは平成二年に菊五郎が国立劇場でやった時のことを言っているのだろうが、これは十七代目と同じ加賀山直三脚色版で、つまり岩藤の宙乗りが舞台を横切る式になる。それにしても『再岩藤』こそは、『桜姫東文章』と並んで、いやそれ以上に、国立劇場の復活上演以後、再認識されて現代歌舞伎のレパートリーに入った代表格というべく、それまでは骨寄せで知られていただけの「二流作」で、『四谷怪談』と互角に、昼夜一本建てで並べられるような「名作」とは思われていなかった。(その功績は、むしろ二代にわたる勘三郎以上に猿翁に帰せられるべきかもしれない。)

とまあ、こんな詮索は措いておいて、『再岩藤』ではまず松緑の進境に驚いた。まず口跡というか、滑舌がよくなって、ラリルレロがダヂヅデドに聞こえるような口捌きの難がほとんど気にならなくなり、同時にセリフばかりかすることがツボにはまって、寸法がぴしゃりとはまるようになったために、世話狂言らしい芝居全体のリズムと流れが出来て、芝居の内容がすんなりとこちらの胸に落ちてくる。もっともこれが『四谷怪談』の直助となると、捨て台詞風に言うセリフ尻が聞こえなくなる、腰高が気になる、いつもの癖が出てくるのが不思議だが、おそらく鳥居又助の方は、乞うた教えの(誰だろう?)薫陶著しかったのだろう。もっともその直助だって、こうしたいつもの癖は出るものの、全体の好調は維持されていて、後にも言うが青年歌舞伎版『四谷怪談』の主要メンバーの一員として立派に貢献している。要するに「役を生きている」のだ。

染五郎は『再岩藤』の多賀大領が、序幕は紫の帽子姿が子供っぽくて案外だったが、大詰の、暗君かと思ったら明君という変幻ぶりが、一条大蔵卿が御家狂言の殿様に生まれ変わったみたいで面白い。思うにこの人、こういう辺りに秘鍵があるのかも知れない。安田帯刀も、肚はしっかりわかって務めているから、『仮名手本』の大星では気になった貫目不足も、若き家老として通用するだけにはなっている。つまりここらが丸本の時代物と御家物の境い目で、大星ばかりでなく、今後盛綱だの実盛だのをつとめるとき果たしてどうか、という見極めどころとなるに違いない。

それにしても、帯刀より多賀大領の方が仁に合っているというのは、この人つくづく二枚目なのだなあと改めて思わせられるが、伊右衛門が予期以上によかったのは、そうしたおのれをよく知った上での頭脳プレイと見るべきか。現代的解釈はさまざまあり得る伊右衛門だが、直助との対照からいっても、歌舞伎の伊右衛門としては、やさおとこの二枚目の方がやはり座りがいい。例の「首が飛んでも動いてみせるわ」をせいぜい気張って言うものの、所詮肉食系ではないところが、却って伊右衛門という人物像に幅を持たせる結果になっているのが面白い。お岩を裏切ってお梅に乗り換えるのも、軽めにすいっと乗って、お父さんの伊右衛門ほど、良心の呵責にことさらに苛まれたりしないのも気に入った。ここでも、ある種大蔵卿風に、すいと、軽く、スマートに切り替わるのである。つまりそこが「現代的」であって、父や、更には祖父の世代の諸優のように、「近代的」であることに、こだわりや、腐心や、いろけや、その他もやもやしたものを持ち込んで、却って伊右衛門を、ひいては『四谷怪談』という狂言を、妙に重たくれたものにしないですんでいる。そこがいい、というか、気に入った。

同じことは菊之助にも言えて、お岩は、たとえば歌右衛門のように、貞淑な武家の妻が夫に裏切られたが故に(あまりにも過剰であるが故に自分を見失うまでに強靭な自我、という逆説を弄したくなるところが「歌右衛門的近代性」なわけだが)、存在の意義を失うまいがために狂気、いや幽霊になるのとも、勘三郎二代のように女としての執着のゆえに化けて出るのでもなく、美しく可憐な、いわば「乙女妻」が男を慕うことをやめずに霊魂となってつきまとう、というべきか。つまりは、こうした「印象批評」を物したくなるところに特質も魅力もあるわけで、今回久々に復活した「夢の場」がこれほど似つかわしいお岩もそうざらにない。染五郎伊右衛門ともども、「怨念」だの「おどろおどろしい」だのという常套句が似つかわしくないスマートさに、お父さんや小父さんたち、更にはお爺さんたちの時代の『四谷怪談』とは違う面白さがある。つまり、近代歌舞伎、でなく、コンテンポラリイ歌舞伎、か。

与茂七も、このところ着々と成果を挙げている立役にまたひとつ、新財産をこしらえたというところだが、ここでも、スッとした男ぶりのまま、夜になれば当然のように地獄宿に出掛けて行く、という感じが「利いて」いる。(『再岩藤』の二役について言い忘れるところだった。お初=二代目尾上はこのひと本来のホームグラウンド、一方お柳の方という御家狂言の類型悪女を類型を踏まえつつも、望月大膳ならずとも心を傾けたくもなりそうなチャームのある悪女にしたところなど、なかなかニクイ。)

先に言った松緑の直助にしても、筋書巻頭の扮装写真など、例の「穏亡堀」の鰻掻きのなりで拾い上げた櫛に見入っているというポーズだが、これがバンダナに短パンの青年が(お岩の櫛ならぬ)スマホを操作している、という見立をしたくなるような、これも一種のスマートさがある。肝心なのは、こうした見立が、もちろん冗談ではあっても決して皮肉や悪口でなく、あくまでも見立として成立することで、その当世感覚が役や狂言の色やテイストから遊離しての結果ではなく、当世の役者として、染五郎は染五郎の、菊之助は菊之助の、松緑は松緑の、それぞれの役を生きているところに意味がある。と、先ずは今回の花形歌舞伎、『再岩藤』は想定外の、『四谷怪談』は想定内の、共に80点というところ。想定外とは、予期を大きく上回ってという意味、想定内とは、このぐらいはやれるよな、やってくれなければ困るよな、という期待に応えてくれたという意味。どちらもめでたぢめでたし。

ところでこの与茂七・直助に加え、梅枝のお袖、市蔵の宅悦とそれぞれなりの大健闘ぶりを見て思ったのは、ぜひ次の機会に、このメンバーで「三角屋敷」を復活させたいということである。筋書巻末の上演記録を見れば明らかだが、シアターコクーンの折の「北版」はともかくとして、昭和54年9月を最後に既に30有余年、「三角屋敷」は上演を絶っている、ばかりか、それまでは出さないことの方がむしろ例外だったのだ。一の理由は上演時間だろうが、今度のように午後4時開演、8時20分終演という形なら、もうひとふんばりして短い幕間を入れてプラス一時間、終演9時20分で可能だろう。それほど長い幕ではないのだ。

第二の理由として、脇筋だから、というのがあるが、これは実は口実に過ぎまい。『仮名手本忠臣蔵』の六段目を見よ、『義経千本桜』の三段目「鮓屋」を見よ、『伊賀越道中双六』六段目「沼津」を見よ。脇筋というならどれも見事に脇筋ではないか。勘平も権太も平作も、皆、本筋から細糸一本で辛うじてぶらさがっているしがない存在でしかない。そういうしがない存在を一幕の、一段の主人公とするところに、浄瑠璃や歌舞伎の作者の工みがあるのではないか。それを脇筋というのは、西洋近代劇の発想に過ぎない。「三角屋敷」こそ、『四谷怪談』全編で最も芝居らしいコクのある場面なのだ。お父さんや小父さんたちの世代ではやらなかったけど、ボク達の手で是非やりたいよね、やろうよねと、染五郎や菊之助や松緑たちが語らい合ったりはしないだろうか? 少なくとも、そんな「空想」を愉しみたくなるところに、今度の花形連の気持ちのよさがあったとはいえる。

それにつけても、『四谷怪談』のお袖といい、『再岩藤』のおつゆといい、梅枝の質実ななかにも潤いのある若女形振りは、これまたもうひとつの推奨ものといっていい。

      ***

国立劇場の鑑賞教室で時蔵が『葛の葉』をするというので楽しみにしていたのだが、少しばかり当てがはずれた。悪い出来というわけではないが、何故かもうひとつ、迫るものが感じられない。客席を埋め尽くした高校生たちも、え? これで終り?といった気配だったのが、端的に語っているかに思われた。時蔵ほどの役者が初役というのも意外とはいえ、そういうことはままあることではある。おそらく「彼」は安全運転第一の慎重派なのであろう。しかし少なくとも、その日見に来た高校生の9割までは文字通り「一期一会」の歌舞伎体験となるに違いない鑑賞教室には、ふさわしいとは言い難い。

秀調の保名というのも、期待していたのだがこれも空振りだった。地味だが古典的な風貌といい、実は私はこの人の密かなファンなのだが、こういう折にこそ、ひとつアッと言わせてやろうというぐらいの気概を見せてほしいではないか。芯の役者の邪魔にならぬよう、という舞台の行儀も時と場合によりけりである。(秀調というと、今は昔、国立劇場に岡本綺堂のシリーズで『室町御所』に『東京の昔話』という二本立てが掛った時、大詰が総踊りになって、上手と下手の両端に売り出して間もない玉三郎と、当時慶三と言っていた秀調が芸者姿で踊っていると、私のすぐ後ろにいた女性が、「玉三郎さん、こっち向いてちょうだい」と、慶三に向かって声をかけたのだった。その頃の慶三は、そそっかしい観客が玉三郎にも見紛う美しい若女形だったのである。そういう頃もあったのだ。)

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新橋演舞場で『香華』を見て改めて思うのは、こういう芝居らしい芝居、いかにも芝居を見たという満足を得られる芝居は、もうこれからは見られなくなるだろうということである。脚本の作り、話の運び、舞台の装置・転換、主役脇役を問わない役者の芸。ついこの間まで当り前のように存在していたこうした芝居が、いつの間にか作られなくなってしまった。ばかりか、演じる役者さえ、もう後何年かするうちにいなくなってしまうだろう。

演技のことだけに限っても、辛うじていま現在、何とかこのレベルでこの舞台を成立させているのは、小泉まち子とか青柳喜伊子といった永年新派で、文字通りしこしこと腕を磨いてきた脇を支える面々であることは間違いない。先月の新派の『金色夜叉』は作品としては残念ながら空振りに終わったが、その中にあって辛うじて芝居を支え、成り立たせていたのは、これも、柳田豊、高橋よし子、田口守といった新派子飼いのベテランたちだった。この春の新喜劇の時にも思ったことだが、新派と新喜劇と、すこし色合いはことなるが東宝現代劇と、プロフェッショナルといえる演技者集団はこれだけになってしまったといっても過言ではない。前進座や、(少々奮発して)若獅子あたりまで加えるとして、「劇団」という、ひとつの色合いを持った演技者集団というものが持っていた意義を、いま改めて深く思わないわけに行かない。

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随談第484回 勘三郎随想(その18)

(承前)もうひとつ、思い出すのは昭和四十六年の三月、歌舞伎座の十七代目勘三郎と、国立劇場の尾上梅幸と、ふたりの踊る『京鹿子娘道成寺』が競演になったことがある。梅幸は、当時中村歌右衛門とともに歌舞伎界の立女形と目され、『娘道成寺』は何度も踊っていた。一方、十七代目は、若いころは女形を主にしていたが、中年以降立役が主体となるにしたがって、兼ねる形で女形をつとめることはあったが、『娘道成寺』のような大曲を踊るのは戦時の慰問公演で踊って以来、本当に久々のことだった。はたして、清流を小舟で流れ下るような快適なリズムをきざんで、差す手引く手、揺るぎのない踊りぶりの梅幸に比べ、十七代目は、随所に独特の面白さや味わいを見せながらも、こまかい技巧には、傷がないとはいえない踊りぶりだった。しかし思い出すのは、ふたりの踊りの優劣ではない。

『娘道成寺』の冒頭の「道行」は、花子という白拍子が紀州の道成寺まで訪ねてゆく旅の心象を踊る部分だが、そのなかで、「恋をする身は浜辺の千鳥、夜毎夜ごとに袖しぼる」という長唄の歌詞のところで、口にくわえて薄く紅のついた懐紙をまるめて、花道から目の前の客席に向けて軽く抛るところがある。梅幸は、そのくだりでも、正しい間を崩すことなく踊って、丸めた懐紙を、ぽんと、誰にともなく放ってそのまま踊り続ける。たまたま最寄りにいるのが不慣れな客だったりすると、床に落ちた懐紙をおずおずと、拾ってもいいのかしら、とでもいう風に拾い上げるということにもなる。

一方十七代目は、懐紙を丸めながら、客席に、もちろん演じている白拍子花子という役の心を離れはしないが、愛嬌を籠めた視線を送りながら、さあ誰にあげようかな、とでもいうような合図を送る。おのずと、客は自分に抛ってもらおうとわれがちに手を差し出す。勘三郎は、心持ちじらすような素振りを見せながら、ひょいと、ひとりを選んで手渡すかのように抛ると、いたずらっぽい表情のある目で笑いながら踊り続ける。受け取った客はもちろん、もらえなかった客も、心は既に勘三郎の虜になっている。

どちらをよしとするのではない。梅幸のを、屑籠に紙くずを抛るようだと評した批評家がいたが、心ない評というべきだろう。媚を見せずに、正しくリズムを刻んで踊りつづける梅幸の『娘道成寺』は、くりかえすが渓流を舟で流れ下るような快適さがあって、私は大好きだった。ときに歌舞伎に倦んだある時期、あるいはこころ弱くなったとき、梅幸の踊りに心を癒されるやすらぎを覚えたのを忘れられない。それが端正で鷹揚な梅幸の芸風であって、梅幸が勘三郎のようなことをしたら、それはすでに梅幸ではなくなってしまう。

しかしまた、こうしたところで見せる十七代目の、客の気を取る愛嬌も、いかにも勘三郎ならではの懐かしさをもって、四十余年をへだてたいまも、鮮やかに蘇える。そうして十七代目の中に抜きさしがたくあったそれこそが、父の歌六から受け継いだ血のなせるものであったに違いない、といまにして思うのだ。

十七代目勘三郎の平作で忘れがたいもうひとつの場面とは、平作のあばら家に一泊した重兵衛が早立ちをしたあと、わざと置き忘れた薬と、臍の緒書きの入った印籠を見つけ、真相を知った平作が、間道伝いに夜道を駆けて重兵衛を追いかけるところである。重兵衛こそがわが子であったことを知った驚き。同時に、志津馬が敵と追い求める沢井股五郎の所在を知る敵方の一人とわかれば、なんとしても重兵衛に追いついて敵の居場所を探り出さねばならない。「東海道は回り道、三枚橋の浜伝い、勝手知ったる抜け道を」と杖をついてよろぼい駆け出しながら、平作はお米に向かって、「われも後から、必ず来いよ」と声を掛ける。重兵衛とお米と、ふたりのわが子に対する親の思い、恩と義理の錯綜する人間関係、それらがいちどきに襲い掛かってきた悩乱。だが瞬時にそれらを引き受けた平作は、この一瞬に、それまでのみすぼらしい好々爺から、悲劇の主人公ともいうべき相貌を帯びることになる。

十七代目勘三郎の平作で、私が何よりも忘れがたいのは、この一瞬であり、耳朶に残るのは、われも後から必ず来いとお米に向かって言う、その声音である。はじめてその平作を見たとき、私はこの一瞬に、勘三郎の姿が、ぐいと、大きくなったように感じた。よく役者が大きいとか、大きな役者という言い方をするが、この場合は、衣裳や扮装が変わるわけでもなく、ことさらな見得や何かをするわけでもない。いうなら、ごくリアルな芝居の流れの中で、急所となる一瞬の、アクセントのつけ方にすぎない。十七代目を、巧い、と思うのは、だが実は、こういうところだった。

その前に、お米が盗みをしようとして発覚したとき、わが子の行為に驚き呆れた平作が、涙とともにお米を折檻するところが、この芝居の見せ場とされている。平作は極貧の中でかすかな暮らしを立てている雲助だが、正直者で、人としての気概を失ったことはない。一夜の客となった重兵衛が切り傷の妙薬を持っていると知ったお米が、病床にある恋人のために、夜中に盗もうとして気づかれる。驚き呆れた平作だが、瞬時に、お米の心根を察する。盗みをしたわが娘を折檻する平作は、同時にお米をいとおしんでいる。

舞台で人を叩くときの約束として、歌舞伎では、叩くふりをして陰で自分の手のひらを打つ、ということをする。当然ここでも、平作を演じる役者はそうするのだが、十七代目のを見ていると、演じる十七代目がというよりも、平作自身が、そうしているように見える。虚と実が重なり合い、一致する。同時に、義と情に引き裂かれた平作の心根の、この上ない表現ともなる。折檻をする平作の、言葉にすればいくつもの表現を重ねなければならない、幾重にも重なった矛盾する心情を、こうしてひと筋の真情として見せることになる。

十七代目は、とりわけ情の表出にすぐれていたとされている。このお米を折檻するところなど、まさしくその代表的な場面として挙げる人も多い。もちろん私もそれに異論はないのだが、しかしそれ以上に、重兵衛を追って駆け出す姿を忘れがたく思うのは、その情の涙の中から一跳躍して、お米、あとから来いよと駆け出す躍動感の中に、十七代目自身の心意気が役と重なり合うものを見ていたからだった。盗みをしたお米を哀れと思い、涙とともに折檻をするのも、たしかに平作の心意気だが、重兵衛をわが子と知って、親子の名乗りとひきかえに敵の在り処を訊き出そうと後を追う平作の心意気と、勘三郎自身とが重なり合うところに、余人にない心の躍動があった。十七代目は、本質的に「静」よりも「動」の役者だったと思う。

終幕の「千本松原」の場で、追いついた平作が、闇のなかで重兵衛の道中差で腹を切り、それと引き換えに敵股五郎の在り処を聞き出そうとする。親子の対面がそれと絡む。その心を察した重兵衛が、股五郎の落ち行く先は九州相良(さがら)、と教えるのを、あれを聞いたか、と藪陰にひそむお米へ声を張り上げる。さっきの、後から来い、と首尾一貫する一言だが、十七代目はここもよかった。重兵衛に礼を言って息をひきとるしんみりした長セリフの中、一箇所、破調となる一言でもある。その破調の中に、十七代目の「情」と「心意気」が重なり合う一瞬がある。十七代目は、「正」よりも「破」の役者でもあった。そうしてなにより、「心意気」の役者だった。

そう考えると、十七代目からさらには十八代目にまで流れている、人なつっこいあたたかさや庶民性、ときには権威にも恐れず立ち向かう不羈な精神、意気に感じればときには損得を超えても貫こうとする意気地、といった共通項は、まぎれもなく三世歌六から受け継いだ血液の中にある、波野の家の人たちに独特の気質であることがわかる。

いうまでもなく、『沼津』の平作は、十八代目も、一年九カ月にわたる襲名興行の中で披露の演目として、大阪中座その他で演じたし、最後の仕事となった平成中村座ロング公演の最初の月にも演じている。腹を切って仰のけにひっくり返ると、舞台がぐるぐる揺れて回っているようだったと、あとから述懐していたらしい。

13.「わ」の章  (談話・祖父三代目歌六について)

―――歌六のおじいさんのことといっても、家の親父が七つぐらいのとき死んでますからね。もちろん墓参りして手は合わしますけどね。非常に反骨精神の強い方だったらしいんで、そこはぼくと似てるかもしれませんね。もっとも六代目菊五郎のおじいさんも反骨精神が強いから、どっちにも似てるんだね。

―――あの、珊瑚の話、知ってます? あれ、うちのヒイ爺さん(=五代目菊五郎)とおじいさん(=三代目歌六)の話です。五代目菊五郎が、波野さん、それ何磨いてるのって訊いたら、珊瑚だって答える。それ本物かって菊五郎が言ったら、歌六のおじいさんが、失礼なっていうんで、いきなり煙管の雁首でがんと割った。中が渦巻いてるのが本物らしい。渦巻いてますから本物やろうなあって言うから、菊五郎は悪いことしたと思って、珊瑚を買って返した。そうしたらそれをまたぽんと割って、ああ本物だ、ありがとうって言ったんだって。こういう人ってのは、おそろしいやね。

―――上も下もない人だったらしい。物乞いの人をご飯に連れてったり。それはうちの親父もそういうとこありましたよ、ボクもありますね。そっちの、芝居というよりもそういう、人間としての共通するものがあるかもしれませんね。

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随談第483回 勘三郎随想(その17)

11.「る」の章

ところで明治四十二年生まれの十七代目が、三代目中村米吉を名乗って市村座で初舞台を踏んだのは大正五年、七歳のときだった。このときのことは、自伝でも述べているし、ラジオに出演してみずから話しているのを聞いた記憶もあるから、いろいろなところで語られているに違いない。私が聞いたのは、功成り名遂げてからのゆとりが言わせた笑い話としてだったが、その初舞台披露の口上の席で体験した思いは、幼い米吉少年にとっては文字通り終生忘れがたいものであったに相違ない。はっきりいえば、それは、七歳のいたいけな少年の心に、染みとなって残るものだった。

初舞台披露の口上は、長兄初代中村吉右衛門が幡髄長兵衛をつとめる『花川戸噂の俎板(まないた)』の狂言半ばに行なわれた。今日でもよく見かける、狂言半ば、つまり劇中にいったん芝居を中断して、出演中の主立った役者たちが扮装のまま、素に返って祝いのスピーチ、つまり口上を言う。終わればまた元に戻って芝居が進められる。まさに虚と実の皮膜の間に、祝い事が行なわれる、考えてみればこれほど歌舞伎という演劇の本質を露呈しているものはないともいえる。

さてその狂言半ばの初舞台披露で、口上を言ってくれたのは兄の吉右衛門だった。

  「口上を申し上げます」

  と吉右衛門が言って、

  「ここに控えおりまする私の、倅、ではない、弟の・・・」

と続けると、ここでお客がどっと笑う。なぜ笑うんだろうと、毎日毎日考えても、幼い私にはその理由がわかりませんでした。吉右衛門兄さんは、兄弟とはいっても二十二も年上で私のおっ母さんとおないどしでしたから、文字どおり親子ほど離れていたわけです。

        <自伝・やっぱり役者>

ゆるぎのない大立者になった十七代目の語る幼い日の思い出だが、七歳の子供が受けた心の傷が思いやられる文章である。吉右衛門にしてみれば、ちょっぴり複雑な家庭内の事情を背負って生まれた幼い弟を見物に引き合わせるのに、役者らしい愛嬌に包んでみせたわけだろうが、つまりのちの十七代目勘三郎の米吉少年は、父である三世中村歌六が老年になってから外に作った子供だったのである。

歌六は、本妻とのあいだに、初代中村吉右衛門、三代目中村時蔵という立派な後継者をもっていた。米吉は、歌六が六十一歳でつくった孫のような子である。戸籍は父の歌六の籍に入ったが、実際の暮らしは、十歳のときに歌六が死んでしばらくして引き取られるまで、兄たちと一緒の暮らしではなかった。いわゆる「めかけの子」としての哀しみを、十七代目は自伝でしみじみと語っている。父の歌六は想像されるように、米吉を猫ッ可愛がりに可愛がったが、それとこれとはまた別の話だったろう。

三世歌六は、のちに赫々たる覇者となった十七代目が五十回忌の追善興行を歌舞伎座で催したとき、『伊賀越道中双六』沼津を出して亡父の当たり役だった雲助の平作を演じ、大正八年に死んだ歌六を見覚えていた古い劇通から、あまりにもそっくりなのに驚嘆の声があがったといわれる。古い写真に残るその面影を見ても、明治元年に二十歳だったという人の、時代のへだたりから来る相違や、團菊に楯突いたという人らしい不羈な風貌のむこうに、十七代目や、さらには十八代目にもまぎれもなく伝わっている、波野の家のひとの面差しを読み取ることができる。

愛嬌たくさんの芸達者で、晩年は好々爺然として終わったというが、壮年期までは覇気満々、圭角が多いためにみずから不遇を招いたともいわれている。明治の歌舞伎界の王者だった九代目市川團十郎に楯突いたためという話が伝わっているが、しかしそれ以上に、芸風や芸に対する考え方が昔風で、近代歌舞伎の潮流に乗り切れなかったというのが、実情ではなかったかと思われる。『市川左團次芸談きき書』という本の中で三代目市川左團次が、「明治の中頃からこの三代目(歌六)が東京で大いに名をあげてね、東京でも大阪でも押しも押されもせぬ大立者になって、俗に大播磨。立役と女形、両方よかった。特に義太夫ものじゃあ、誰も敵わなかったって言いますね」と語っている。

つまり三世歌六は、名優と呼ばれてしかるべき実力の持主だった。だが忌憚なくいうなら、近代歌舞伎史をひもとくとき、その存在の扱われ方は決して大きいとはいえない。芸の実力と、もうひとつ、その芸を時代の趨勢と反りを合わせられるかどうかが、命運を決めるのだ。近代の歌舞伎を考えるとき、このことを抜きにしては見えるべきものが見えてこない。

歌六といえばよく引き合いに出される逸話がある。得意にしていた『奥州安達原』の安倍貞任を演じていて、花道で、敵にむかってキッと振り返り、「何やつの」と言った後、照明のランプに手を伸ばして、「ああ暗(くら)」といいながらランプの芯を出して明るくしてから、「仕わざなるや」とセリフをつづけたというひとつ話である。この逸話はふつう、歌六という役者が、いかにも昔風の、一風変わった気骨をそなえた人物であることを語る笑い話として語られるのだが、それと同時に、役の人物の心理や内面を分析する近代的な演劇であろうとする團十郎などの歌舞伎とは正反対の、客とともにひとつの空間のなかで、芝居の虚と実の間を自在に往来する、歌六の昔風の歌舞伎観をおのずから物語っているように、私には見える。

歌六の当たり役だった『沼津』の平作は、十八代目も受け継いですでに自分のものにしているが、十七代目の演じるそれは、役の愛嬌と気骨と、演じる役者の愛嬌と気骨が渾然と重なり合い、愛嬌で観客を無条件に喜ばせ、気骨で共感と感動を呼ぶという、勘三郎の芸のあり方をそのまま反映した、一代の芸としてもユニークな位置を占めるものだった。さっき引用した三代目左團次は、十七代目の『沼津』を見ないで亡くなっているが、「いまの勘三郎さんが、どことはいえないが何ンかのとき、びっくりするような歌六のにおいを見せるんだ」とも語っている。もしあの平作が、老劇評家の証言どおり歌六にそっくりだったとするなら、十七代目からさらには十八代目にまで疑いなく流れている、ひとなつっこい、なつかしさを感じさせるような、あたたかな愛嬌は、三世歌六に源泉があることは間違いない。

12.「を」の章

十七代目勘三郎の演じるこの平作について、忘れがたい場面がいくつかある。

ひとつは、幕開きの沼津の宿(しゅく)の、棒鼻といって、宿場のとっつきにある立場で、茶店の縁台に掛けて一服している重兵衛に、平作が頼んで荷物を持たせてもらうところ。もう日暮れも近いのにまだ一文も稼いでいないというのを憐れんで、では、と荷物を持たせてみると、足元はひょろひょろとおぼつかない上に、少し行くとすぐ荷物をおろして休んでしまう。おかしみの場面だから、誰が平作をやっても客席から笑いが湧くところだが、ここでの十七代目の愛嬌はまた格別だった。

旦那さん、あそこの店の泥鰌はまた格別でござりましてな、などと気を引くようなお愛想をいっては、おちょぼ口をして、オホホホホ、と笑う。このおちょぼ口のオホホホホが、十七代目ならではの愛嬌であると同時に、平作という老人の愛嬌と重なり合う。

一徹で、貧しくともその貧しさに負けない気概があり、だからこそ、決して物乞いをするのではなく、旅人の荷物持ちという労働をして、たとえわずかな額ではあってもその報酬を受け取って、生業(なりわい)を立てている。だが老齢の身には、重兵衛の荷物は重い。三歩歩いては肩の荷を下ろして息を入れる。もう荷物持ちの仕事はつとまらないことを悟られまいと、世辞を言ってはおちょぼ口でオホホホホと愛想笑いをする。

誰の平作でも、この老人の人となりを演じ表すことに変わりはないが、このオホホホホは十七代目勘三郎が独特であり、ほんのちょっぴりわざとらしく、しかしそれが故に人の心を引く。この年寄りの哀しみと、雲助はしていても気概を失わない、達観した老人ならではの明るさと、人なつっこい愛嬌とが、次々と襲ってきて見る者をとらえてしまう。

いま、ほんのちょっぴりわざとらしいと言ったが、オホホホホにかかる、その一瞬の間に、十七代目勘三郎の愛嬌と芸がある。ある種のずるさ、といってもいいが、これに似たものと言っては、藤山寛美が得意とする阿呆の役をするときに、敢えて一瞬、間をとって、決め手となる言葉をくりかえしてみせるということをやったのが思い浮かぶ。観客の「気を取る」ことのうまさである。

こうした、客の気を取る芸を、あざといと言って嫌う人もいる。たしかに、ひとつ間違えば、それは客への媚とつながっている。しかし芸とは、芝居とは、演じる者と見る者との交感の中にあると考えれば、急所急所でこうして客を巻き込んで芝居をすることは、芸というもの、芝居というものの本質に根ざした行為とも考えられる。十七代目は、一面では役になり切ることを大事にする俳優だった。だが同時に、客の気を取ることに長け、またそれを好む役者でもあった。矛盾といえば矛盾だが、その両面を抜きにして、十七代目勘三郎という役者も、その芸も考えることはできない。

それで思い出すのは、『俊寛』で、赦免の船が到着してまず下り立った瀬尾が声を掛けると成経と康頼が出てきて「これに候」と這いつくばる。と、ほんの一呼吸、間をおいて、「俊寛もこれに候」とよろぼい出る、その「間」の絶妙さだった。こう文字に書けば、誰が俊寛をやったってここの手順は同じことなのだが、十七代目のみにあって、他の誰にも、十八代目といえどもなかったのは、この、ほんのひと呼吸遅れて「俊寛もこれに候」と声をかけておいてよろぼい出る、十七代目の間の巧さだった。その、わずかな一瞬の「間」で、この後に待っている俊寛の運命が予感となって観客の胸に突き刺さる。いや、この後のストーリーなど、よほどの初心の観客でなければみんな知っているのだ。今更そこで「ハッ」となどしなくとも、俊寛のこの後の悲劇はみんな知った上で見ている(筈だ)。それにもかかわらず、何度見ても、いつ見ても、十七代目の「ここ」の間の巧さには、してやられたのだった。

もしかするとそれは「だまされた」のかもしれない。そもそも原作の浄瑠璃では瀬尾と丹左衛門は一緒に船から下りてきて、声を掛けると三人がわれ先にと使の前に進み出るのだから、歌舞伎のいまのやり方は、ひとつには丹左衛門の役をよくするために後から登場させるのと、もうひとつには、俊寛を際立たせるためなのだから、十七代目のこの「出」の巧さというのは、ある意味で、観客の「気を取る」巧さと、ひとつにつながっているものに違いない。劇場という空間の中で「演じる」という「芸」とは、必ずそうした「魔術」と表裏一体のものであって、観客はそれに「だまされる」ことによって快感を得るのだという一面を取り去ることはできない。十七代目の芸とは、そういう「芸」というものの本来的な魔力と魅力を、見る者に感じさせるところに根差していたのだと思う。

(十七代目の俊寛は、泣き過ぎるという批判があった。クーデターの首謀者でありながらあんなに女々しいのは同情しがたいと、変痴気論めいた批評をするものもあった。たしかに、あんなに涙(と鼻水)でぐしゃぐしゃになってしまう俊寛もなかったろう。しかしそれにもかかわらず、あれほど「泣かされて」しまう俊寛もなかったのも事実である。)

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随談第482回 勘三郎随想(その16)

9.「り」の章

もう少し、十七代目の芸の話を続けたいが、その前に、ここらで十七代目勘三郎という人の背負っていた背景について、語っておいた方がいいだろう。十七代目を知る上だけでなく、十八代目について語る上でも、おそらくそのあたりが、奥の院となってくるであろうと思うからである。 もっとも、十七代目についての伝記や評伝は、すでにいくつかの先達がある。だからここでは、私の知る十七代目のよって来たるところを確認し、それが十八代目にどういう風に伝わり、どういう風に影を落としているかを知るために必要なことだけを書くことにしよう。

十七代目の評伝を読んでいて、なにか一番なつかしいような、私の知る十七代目のこれが原点かと察しられるようなことといえば、子役として出演していた大正中頃の市村座の楽屋風景である。

当時の市村座といえば、はるか後に十七代目の岳父となる六代目尾上菊五郎と、十七代目の長兄の初代中村吉右衛門が、ともにまだ三十代の若さで覇を競い合っていた、世に言う二長町(にちょうまち)時代である。二長町というのは、現在のJR秋葉原駅から歩いて数分の、当時市村座のあった町の名だが、終生「菊吉」と呼ばれることになるライバル関係の、いわば水源であり、震源地である。

市村座といえば、世が世ならば江戸三座の一として中村座に次ぐ格式をもっていた劇場だが、維新このかたの世の変動とともに衰退し、下谷二長町という、芝居小屋として一等地とは言いかねる土地に退転していたのを、名興行師として知られた田村成義が買い取って、菊五郎吉右衛門をはじめ若手花形の生きのいいところを集めて競わせたのが評判を呼んで、新時代の歌舞伎のメッカと目されていた。つい数年前に松竹の手に落ちたばかりの、いわば保守本流である歌舞伎座、山の手の上・中流のハイカラ文化を反映する帝劇と並べて、伊原青々園が老巧の批評家らしく三国志の「蜀」になぞらえたが、活気と人気の点では随一だった。(松竹による歌舞伎王国は、まだこの時点では全国制覇の途上だったのだ。)

当時の市村座は、現在も同じ場所にある凸版印刷の工場と隣接していて(市村座跡地という碑が立っている)、昼休みと終業のときに鳴らすサイレンの音が芝居のさなかにも鳴り響く、という環境だった。だがそれでも、往時の舞台を知る人々は、まるで理想の劇場を語るように「市村座時代」をなつかしんだのである。

十七代目が中村米(よね)吉(きち)という芸名で子役として市村座に入ったころ、同じ年頃の子役としてひと足先にいたのが七代目坂東三津五郎の子の坂東八十助と、十三代目守田勘弥の子の坂東玉三郎という従兄弟同士だった。それぞれのちの名前でいえば、八代目坂東三津五郎と十四代目守田勘弥である。

ところでこのころ、年齢的にも若干年長だった玉三郎は、役の上でも米吉に優位に立っていた。『先代萩』なら玉三郎が千松で米吉が鶴千代、『盛綱陣屋』なら小四郎と小三郎という、それぞれ前者の方が、子役として大役なわけである。おまけに玉三郎は、いわゆる「おませ」だったらしく、生意気な玉三郎、略して「生(なま)玉(たま)」と呼ばれていた。のちの十四代目勘弥と十七代目勘三郎を少しでも知る者として、この対比は、いかにもさもありなんと微笑したくなる、あるおかしさをたたえている。俊敏さ、おませな頭脳の働きの点で、米吉は玉三郎の敵ではなかったのだ。少年時代の勘三郎にはどこかおっとりしたところがあったのだろう。この感じは、いまの十八代目にも、まぎれもなく(と敢えて言おう)通底している。

その代わり、米吉少年は、楽屋が三階にあるので俗に「三階」と呼ばれた、門閥外の役者の子供たちの支持を獲得していた。御曹司よりも三階の子役たちと仲良しになるという、この感覚は、十七代目の人となりや、さらには芸のあり方にまでつながる、勘三郎という役者を理解する上の、見落とせないキーポイントであるような気がする。その三階の子役たちの中に、のちに舞踊家として大きな存在となった西川鯉三郎や尾上菊之丞がいて、十七代目の終生の盟友となる。

ところでこの話の山場は、この「生玉」の玉三郎と三階派の加勢を得た米吉の対立に、六代目菊五郎が口を出して、玉三郎の奴に水をぶっ掛けてやれとけしかけたというところから始まる。楽屋風呂で、菊五郎に言われたとおり米吉が玉三郎に水をかけると、玉三郎が殴り返す。噂はたちまち三階の悪童たちに伝わって、バスタオルを肩にひっかけて乙に気取った風呂上りの玉三郎を待ち伏せて、ポカポカ殴りつける、という風に筋書きは展開する。

第二場はその翌日である。おでこに絆創膏を貼って現れた玉三郎は、『先代萩』の千松の舞台をすませると、楽屋で米吉に向かってこう言った。

「米(よん)ちゃん、もう喧嘩はよしにして、これからは芝居のうまくなりっこしようよ」

この「生玉」ぶり!

結局この結末は、菊五郎がその後毎日、双方へうなぎの弁当を出してくれるという形で幕になるのだが、本名波野聖司の米吉の「よんちゃん」と、本名守田好之の玉三郎の「よっちゃん」とは、こうして竹馬の友として始まった親交を終生つづけることになる。それにしても、「おませ」でちょっぴり気取り屋のよっちゃんや、「おくて」で情の厚いよんちゃんや、三階のその他大勢の悪童たちや、まだ三十代の若さだった菊五郎のちょいと大人げないともいえる悪戯と、同時に鮮やかな裁きのつけ方などを見るにつけ、良きにつけ悪しきにつけ、当時の子供がいかに子供らしく、大人がいかに大人らしくありえた時代であったかを、思わずにはいられない。

この「生玉退治」の物語を、いま私は十七代目の自伝にしたがって書いたのだが、後年、よっちゃんの勘弥を顕彰するテレビ番組で、ゲストとして出演したよんちゃんの十七代目がいかにもなつかしげに、この逸話を披露する姿を見たことがある。

「生意気でねえ、あのころのよっちゃんは・・・」

耳朶に残る十七代目の笑いを含んだ声音は、まさにみずからの「たけくらべ」の物語を語っていたかのようだった。(いかにも蛇足を承知でつけ加えるのだが、同じ番組にやはり終生の友として出演していた十三代目仁左衛門が、いえ、生意気などということはすこしもありませんでしたよ、とかばっていたのも、いかにも好人物の松島屋というべきで、思い出してもつい微笑を誘われる。)

10.「ぬ」の章 (談話・勘弥のおじさんのこと)

―――勘弥のおじさんはうちの親父と喧嘩友達でね。ある時、俺が何かのことで親父に猛烈に怒られたことがあるんです。歌舞伎座の楽屋の出入り口のタタキが、いまでも覚えてるけど、そのころ白い砂利みたいになってたの。そこへ正座させられてるんだけど、そこへ涙がぽたぽたぽたぽた落ちてくるんですよ、ぼくの。なんで叱られたんだっけなあ。とにかくものすごい剣幕で怒られてたら、勘弥のおじさんがやって来てねえ。うちの親父に向かって、オイ、よんちゃン、お前はねえ、そんなねえ、こんな小さいときにねえ、こんなにうまくなかったよ、って。ハハハハ。なんかすごく助けてくれた。

―――ええ、だって本当の悪友ですよ。それはねえ、子供ごころに見てても、やっぱり友達だなあって思いましたね。喧嘩も一番してたんじゃないかなあ。ああ、すぐ怒ってね。駄目だあんなことやって、なんてお互いにやってたらしいしね。

まあ、そんなようなことで、うちの親父と勘弥のおじさんは育った学校が一緒でしょ。そう、市村座。だから玉さん(=現・坂東玉三郎)とぼく、仲がいいのはね、やっぱり教え方の同じ学校で育ってるから、楽屋の礼儀とか、そういうことが同じなのね。芸に対する考え方が似てるんだね。

―――勘弥のおじさんといえば、『助六』の白酒売り。「抜けば玉散る天秤棒」って言って、本当に天秤棒抜くの。あれやるの、おじさんだけね。他の方の抜くの見たことない。で、ぼくが白酒売りやったとき、あれをちょっと真似さしていただきました。

―――とにかくね、おじさんにもいろんな思い出がありますね。白鸚のおじさんと一緒で、年始に行くと、飲めよって言ってね、酒出してくれる。きゅーっとやると、お、強いね、って言ってね、やってくれた。

でも、おじさん早くに亡くなっちゃったから、ある意味で。うーん、やっぱり、あの粋な様子がね、いいですよね。

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随談第481回 勘三郎随想(その15)

(承前)十七代目勘三郎の新三の話をしていたのだった。

十七代目の真にすぐれているのは、以上のような二重性の下に新三が隠しているもうひとつの顔までをも、おのずから見る者に察知させるところである。それは、いわゆる狂言の底を割るなどという体の、あざとい、底の浅い技巧とはまるで別種のものであって、強いていうなら、それはさっき言った眉宇の翳り、目遣いといったもので表現されるのだが、しかしそうした技巧よりも、勘三郎の持っている、さまざまに乱反射し、交錯し合う存在感が、そう感じさせるのだ。

新三が隠し持っているもうひとつの顔とは、上総無宿の前科者でばくち打ちという、ならず者の顔である。新三が実際にそういう「もうひとつの顔」を現わすのは、忠七をそそのかしてお熊を連れ出し、夕立のなか永代橋の袂で忠七を打ち据えるときだが、しかし現行の、本名題の『梅雨小袖昔八丈』よりも通称の『髪結新三』を前面に出し、「白子屋見世先」「永代橋川端」の序幕二場に、「新三内」と「家主長兵衛内」をいわゆる行って来いで交互に見せる二幕目、弥太五郎源七の仕返しをごくあっさり見せるだけの大詰「深川閻魔堂橋」の三幕仕立ての立て方だと、大詰でもうすっかりいっぱしの博徒になった姿を見せるほかには、家主の長兵衛に向かって「上総無宿の入墨新三」と凄んで見せたものの、逆に長兵衛からとっちめられて小さくなるという、むしろ間抜けな、喜劇的な場面ぐらいに点描されるだけだ。

もっとも、本名題『梅雨小袖昔八丈』として通し上演したとしても、新三の活躍する出番がこれ以上あるわけではない。「閻魔堂橋」の仕返しは、普通は新三がひと太刀斬られてダーッとなったところで幕にするが、通しでやれば、あのあと源七に殺され、それ以降は源七の芝居になる。つまり現行の『髪結新三』とは、大岡政談という枠組のもと、新三と源七のふたりのドラマで成立しているものを、新三ひとりの芝居として再構成したものだといっていい。こういう場立ての『髪結新三』は、十五代目羽左衛門や六代目菊五郎がくり返し演じるうちに慣行として定着していったのは間違いない。つまり、大正・昭和戦前の歌舞伎が、粋な江戸前の市井劇としてエッセンスを洗い上げたのが、いまわれわれの知る『髪結新三』なのだ。いうなら、六代目菊五郎らがそれを作り、観客がそれを支持した産物、つまりは、大正・昭和戦前の歌舞伎が作り上げた新三像である。

すると、どういうことになるか。そこには、意趣返しに新三を殺したものの罪に怯える、落剥した弥太五郎源七のみじめな姿も、大岡裁きというドラマ全体の枠組みも取り外されている。新三の出番に変りはないとしても、そうした全体の中で見るのと、新三の筋だけをとりはずして見るのとでは、長編小説のなかの一人物として読むのと短編小説の主人公として読むのとでまるで印象が違うように、新三の人物像も違って見えてくる。劇そのものの印象が、暗い翳の要素がなくなって、新三というちょいとワルな男の小英雄ぶりを楽しむ軽妙なドラマに変貌してしまう。上総無宿の入墨者、などという暗い翳はほとんど忘れられて、小粋な江戸っ子のように錯覚される。

事実、戦後の昭和二十年代に、十七代目や二代目松緑がはじめて新三を手がけたとき、批評家や見巧者の間の重要な関心事は、六代目菊五郎の名品と比べてどの程度のものかということであり、それは、たとえば「ひら清(せい)」の手拭を縫い合わせた浴衣がけという湯帰りの姿が「六代目」に比べて粋かどうか、といったことに向けられることになる。前の晩、忠七をそそのかして連れ出したお熊をわがものにして、そのほとぼりに酔いながら昼日中、きょうは仕事を休みにしてひと風呂浴びに行った戻り、という江戸っ子ぶりを見せる場面で、当時有名な料亭だった「ひら清」の手拭、というのがここで効いてくる。そこへ通りかかった魚屋から初鰹を、一両の四分の三である三分(ぶ)という大金をぽんと出して買う。その江戸っ子ぶりについて、同じ江戸前の味でも「六代目」が鮎の塩焼きとすれば松緑のはさんまだ、といった批評が、劇通らしい気の利いた批評の言葉だったのである。『髪結新三』とは、そういう芝居として理解されていたのだった。

その事情は、十七代目勘三郎の場合でも、違っていたわけではない。しかし、鮎とさんまの差はあるにしても、松緑の新三が明朗で粋な江戸の市井劇に終始したのに対し、勘三郎のそれは、そうでありつつも、新三のもうひとつの顔も透けて見えている新三だった、というところに、じつは真骨頂があったのだと思う。ひら清の手拭をはぎ合わせた浴衣をはおり、大金を投げ出して初鰹を買うというこの場の新三の行為の陰には、じつは気っぷのいい江戸っ子ぶりだけではないものがある筈である。

「六代目の生活には楽天的要素があったが、勘三郎には六代目にないニヒリズムがある。それが私をひきつける。五代目より数歩を進めた六代目の髪結新三より、また十五世羽左の新三よりさらに勘三郎の髪結新三がニヒリズムの点で、アルファをつけ加えることが出来たのは、彼の成功である」と舟橋聖一が書いたのも、私が見たのと同じ、昭和四十年五月のことである。舟橋は『筆屋幸兵衛』についても、花道七三で東を向いてきまるところ、その顔は六代目を超えて、ひとつ奥をのぞかせたと思う。そういう「部分」が出来たことでも、私は現代歌舞伎の存続にわずかでも安心する、と同じ文章の中で書いている。

この舟橋の書きぶりには、まだ満七歳にもならない明治四十四年に市村座ではじめて六代目菊五郎を見たのが歌舞伎初見参だったという時代の人らしい、適者生存の進化論と、その延長線上につらなる歌舞伎衰亡論とが結びついた、時の流れが一方向にしか進まない認識の仕方が口吻にほの見える。六代目菊五郎の時代を絶頂として、戦後の歌舞伎は衰亡への一途をたどるものと見るのが、舟橋に限らず、当時の識者の誰彼となく共有していた時代認識だったのだ。だから、六代目歌舞伎を継承するのはいまのところ勘三郎である、と書く舟橋聖一が、ほんの「部分」にせよ、その六代目にまさる「アルファ」を勘三郎が「つけ加えた」というのは、戦後の歌舞伎俳優に対する褒め言葉として最高のものだったと考えてもいい。

ところでその勘三郎がつけ加えた「アルファ」とは、舟橋聖一によればニヒリズムだということになるのだが、たしかに、大詰の「閻魔堂橋」で、それまでの髪結とはがらりと変わって、むしり、という月代を不精たらしく伸ばした鬘に、もうすっかりいっぱしのばくち打ちらしい風俗で登場すると、けだるいような虚無的な気配が、十七代目の身体から漂ってくる感じだった。ここは、前にも書いたように、十八代目も巧い。新三にしてみれば、弥太五郎源七の鼻を明かしたのをきっかけとして、念願通り、愛想を売って歩く廻りの髪結から足を洗って、ちょいとした顔役にのし上がった、得意の姿であるはずなのだが、十七代目にせよ十八代目にせよ、その虚無的な風情は一種ぞっとさせるものがある。わざわざ全編を通しで出すまでもなく、閻魔堂橋のこの姿を一瞬みせただけで、新三という男の行く末から、『梅雨小袖昔八丈』という狂言全体の裏側に潜んでいる闇の世界が暗示される。練達の画家が、ほんのひと刷毛で人物の外貌内面、人生までも描き出してしまうのに、それは似ている。むしろそれで、充分だとすらいえる。

おそらくここらが、十七代目勘三郎の真骨頂だったのだと私は思う。六代目菊五郎を私は見たことがないが、先人たちの書きのこしたものや、写真などから想像するその芸風からも、その新三にこういう感覚はたぶんなかったろうと思われる。ニヒリズムというアルファをつけ加えた、と近代小説家らしく舟橋聖一は言ったが、そう言うよりも、人物の秘めているさまざまな顔や人生が、色合いや翳りとなって交響するところに、余人にない魅力が溢れ出したのだというべきだろうか。

8.「ち」の章 (談話・父に教わった役)

―――髪結新三ね。あれはそういう意味ではさあ、劇的ですよ。親父の死んだ月にやってたんだもん。四月の十六日に。初役ですから。で、最後にベッドの中でやってくれた。

一番最後にベッドの中でやってくれたのは「四谷怪談」のお岩なんだけども、これは何時やるとも言わないで教わりに行った。だって四月ぐらいに危ないっていうんだから。実際にお岩をやるのは八月か七月の大阪の中座ですから、そんな役を今ごろ教えるなんて何でだ? なんて言われたらいやじゃないですか。だからいろんな話から持ってったの。そしたらやってくれました、親父。

―――新三は、それはまあ全部教わった。もっそう飯ってのは何か、とかね。そういう意味でも、親父が死んだときに初役でやらしてもらったってのが、そういうことで言えば因縁めいてるですわな。これからも大事にしていきたい役です。

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随談第480回 勘三郎随想(その14)

7.「と」の章

父の十七代目勘三郎のことを、もう少し話したい。そもそも、「勘三郎二代論」というのが、私が十八代目を語りたいと思うサブテーマでもある。

父十七代目があっての十八代目であると同時に、十八代目があっての十七代目でもあると前にも言ったが、もしほ時代の十七代目のことを、気障でいやみな役者だったと言っていた安藤鶴夫が、すばらしい役者が誕生したと書いたのがちょうど十八代目の初舞台のころ、という時間と前後関係の符合は、安藤鶴夫ひとりの証言を頼りにするまでもなく、当時を語るさまざまなひとたちの言からも立証できそうだ。ほぼ万人の見るところ、十七代目襲名を境に、それまでの翳りが見る見る拭い去られた勘三郎が、いよいよ第一級の大俳優として「勘三郎ぶり」を発揮し出したのが、十八代目誕生から初舞台の前後と見てよい。その意味からいうなら、「名優」十七代目勘三郎は、十八代目が生んだのだということになる。私が十七代目の舞台を実際に見るようになったのも、まさしくそのころだった。

そのころの、歌舞伎座の筋書巻頭に載る顔写真に見る勘三郎を、私はいまでも思い浮かべることができる。実にいい顔だった、というのは、それは見事なまでに、そのころの十七代目の役者ぶりを雄弁に語る写真だったという意味であって、大立者らしい、いわゆる立派な顔というのとは、ちょいと違う。

眉宇に不敵な翳があって、目に表情が生動している。それが同時に、かすかな笑いを含んでいるようにも見えるのが、悪戯っ子のようでもあれば、覇気満々、機知縦横、颯爽の気に満ち溢れているようでもある。普通ならさほどおもしろいものではないパンフレットの顔写真の中で、あれほど、いろいろなものを読み取りたくなる表情をしている顔を、いまだに私は他に知らない。あの写真は、いつごろから使われ出したのだろう? あの写真こそ、いま私が語ろうとしているこの時期の勘三郎の「顔」なのだ。

その顔から、当時の十七代目のどの役が思い浮かぶか? ベストワン、という意味でなら、まだ他にも候補はあるかも知れないが、その人を語るのにもっともふさわしい代表作、という意味でなら、十七代目の場合にも、私はやはり髪結新三をあげる。

ただし私が見た十七代目の新三は、もうすでに何度も演じてからのもので、その意味では安定の域に達していたのであったのかも知れない。一九六五年五月、「六代目菊五郎十七回忌追善」という肩書のついた興行だった。このときは、「菊吉」以後の戦後歌舞伎の先頭に立ってきたビッグ6(シックス)ともいうべき六人のうち、当時東宝に在籍していた八代目幸四郎(白鸚)を除いた十一代目團十郎、六代目歌右衛門、七代目梅幸、二代目松緑、それに十七代目勘三郎の五人が、「舞踊五段返し」として六代目菊五郎ゆかりの曲を一曲ずつ踊るのが呼び物だった。その一曲として『保名』を踊る團十郎が、何か不満があったかして初日から休演していたのが、急遽月半ばから出演するということがあり、しかも後から見れば、この『保名』を本興行での最後の舞台として間もなく入院、秋には癌のため死去するという波乱があったりして、なおさら忘れがたい思い出となっているのだが、因みに十七代目はこの五段返しの中では、『良寛と子守』を踊ったのだった。坪内逍遥の作になる新舞踊で、良寛にからむ子守娘が勘九郎である。「この子は本当に良寛の話に聞き入っている」と、長老批評家の濱村米蔵が、舌を巻いた、といった感じで劇評に書いていたのを覚えている。勘九郎、満十歳のはずだ。

ところでこのとき十七代目が演じた『髪結新三』は、昼の部に松緑が『魚屋宗五郎』を出したのと裏表のような形で夜の部に出た。六代目菊五郎の黙阿弥の世話物の傑作二編を、その衣鉢を継ぐと目された勘三郎・松緑のふたりがそれぞれ演じるというのが、眼目となっていた。松緑は松緑で、宗五郎は六代目から受け継いだ遺産の中でももっとも自負するところであったろう。勘三郎松緑、それぞれ期するところあったであろうことは、想像に難くない。(松緑は、舞踊五段返しでは『浮かれ坊主』を踊っている。ついでだが、この『魚宗』で、宗五郎の家に酒を届けに来る酒屋の小僧の役が、三年前に初舞台と同時に襲名した坂東八十助、つまり現三津五郎だった。)

いわゆる「型」というような、やり方としては、十八代目がよく写しているから、することにかわりはない。だから違いといっては、部分部分の演技の印象ということにならざるを得ないのだが、とりわけ、それは目遣いにあらわれる。十八代目も、こうした芝居での目の遣い方がうまかったが、十七代目のそれとは微妙に違う。技巧の差でも、写し方が不十分なのでもなく、おのずから質の違いとなってあらわれる。目の色でいうなら漆と墨、血液でいうなら濃と淡、気質でいうなら粘液質と多血質、複雑と明快、どう言っても切りがないが、こうした細部の違いは、見終わっての印象というトータルな人間像としての新三という男のイメージとなって、十七代目の新三と十八代目の新三とでは、別様なチャームをもった存在として、見た限りの者の脳裏に定着することになる。そうしてやはり、この違いの依って来たるところを考えてみれば、親子といえども個性の違い、その生きた時代の違いと同時に、十七代目という役者を成り立たせていた背景について、またしても考えないわけにはいかなくなってくるのだ。

そこで、あの、昭和三十年代当時のプログラム巻頭の写真である。不敵さの下に見え隠れする翳。一言にして、その魅力の意味を読み取っていうなら、それだろう。小冠者、という言葉を、私はその写真の十七代目の風貌から思い浮かべていた。年齢からいえば、当時すでに五十歳の前後に達していた筈だ。たまたま自分の母親が、十七代目と同じ明治四十二年の酉年生まれであることを私は知っていたから、十七代目が実際にはそれほど若いわけではないこともわかっていた。しかし、ほぼ同年配の八世松本幸四郎の重厚さなどに比べても、「小冠者」というその眉宇から直感したイメージは、わたしの十七代目観の根底を形づくっている。

そうは言っても、その頃、十七代目勘三郎はすでに赫々たる大家であったから、目に見るかぎりのその舞台姿は堂々たる貫録である。それにもかかわらず、その奥に、私は「小冠者」としての十七代目の在り様を感じ取っていたのだ。大家としての外面の奥に見て取れる、永遠に歳を取らぬかとすら思える悪戯小僧の面影といおうか。いま思えば、そのとき私は、未熟な観客なりの目で、そこに十七代目という役者の本質を感じ取っていたことになる。かすかな笑いを含んでいる、とパンフレットの十七代目の顔写真のことを言ったのを思い出していただきたい。悪戯っ子の目、といってしまったのではストレートすぎて本当は面白くないが、油断のならぬ小娘も巨(こ)袋坂(ぶくろざか)に身の破れ、と弁天小僧のセリフにある、ただ者ならず、と見る者の関心をひかずにはおかない、颯爽感である。

このときの『髪結新三』では、忠七役は十四代目守田勘弥、お熊はまだ当時は七代目大谷友右衛門だった中村雀右衛門だったが、この配役もまた、十七代目の新三に配するにこれ以上のものは思い当たらない、絶妙の配役であったといまでも思う。白子屋の財政が傾いたため、五百両という持参金つきの入婿を取るという話を母親から聞かされたお熊が、忠七に駆け落ちを迫っているところへ、道具箱を提げた新三がやってきて門口で様子を伺う。もうそれだけで、幾重もの波乱を予感させてぞくぞくする。

筋の上では、この段階では、忠七はまだ奉公第一、ご恩を受けた主筋へ迷惑はかけられぬと忠義一途の口を利いているのだが、勘弥を見ていると、そういう言葉の表よりも、肚の中がおのずから表にあらわれて、お熊とうじゃじゃけているような印象として、記憶のなかに定着している。その後だれの忠七を見ても、こういう、忠七という男の本音というか、本質というか、優柔不断がお店者(たなもの)のユニフォームである縞物の着物を着ているような、つまり役の本質が衣裳をまとっているような忠七というものを、ついぞ見たことがない。新三に駆け落ちを唆されてその気になる。永年、白ねずみのようにお店大事で働いてきたけれど、ここで一番肚を決めて「いたずら者になりましょうわえ」という、そのあたりの何とも言えぬ軽み。言うなら、人生の岐路に立っている筈なのだが、うじゃうじゃ感はこの男から抜けることがない、とでも言おうか。

勘弥の二枚目役というと、『籠釣瓶』の栄之丞のヒモぶりが有名だが、忠七にせよ栄之丞にせよ、この種の役をこういう感覚で捕らえ、演じるのが、二枚目というものなのだということを、私は勘弥を見ることが出来たお陰で知ったのだといえる。その意味でこの人も、存在するだけでその役になれる、絶対の仁をもった「最後の役者」のひとりだったのだ。

こうして勘弥と雀右衛門がうじゃじゃけているところへ、勘三郎の新三がやってきて立ち聞きをするという、もうそれだけでぞくぞくする面白さというのは、どう言ったらいいだろう。勘三郎の眉宇に漂う、なんとも言えない不敵な翳が、この新三という男の併せ持つ幾重もの人物の存在を映し出している。

表に見せているのは、愛嬌と愛想を売って得意先を廻って歩く、廻りの髪結である。しかしその愛嬌の下に、この男がなにやら野太いものを秘めていることは、その身体から発散する体臭のように、あきらかに読み取れる。自分の才覚ひとつを頼りに体を張って渡世をしている者の発散する、一種のオーラともいえる。(この項つづく)

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随談第479回 勘三郎随想(その13)

(前回、通算回数に間違いがあり、この回で修正します。)

6.「へ」の巻 

そろそろ勘三郎随想を再開しよう。中学生になった勘九郎が、父十七代目と『連獅子』を踊ることになったときの話だった。

あなたは歌舞伎と聞いて何をイメージしますか?とアンケート調査でもしたら上位入選はおそらく疑いない、白い毛の親獅子と赤い毛の子獅子が入り乱れるように毛を振る光景が、いかにも歌舞伎らしいイメージをかき立てる『連獅子』だが、じつはそれほど古い作品ではない。明治中期、初代市川猿之助(とこのほどの澤瀉屋一門の襲名を機にいわれるようになったのはご承知だろう。それまでは二代目市川段四郎といっていた)の踊ったのが最初といわれるが、その二世段四郎の子と孫に当る二世市川猿之助と三世市川段四郎という実の父子が踊って以来人気曲になった、いわば昭和の歌舞伎である。二世猿之助、すなわち初代猿翁と三世段四郎は、現在の二世猿翁と四世段四郎兄弟の祖父と父だが、体つきといい顔立ちといい瓜二つのようによく似ていた。父と子が入り乱れるように激しく動いて、跳躍したり、毛を振ったりする。気をつけていないと、どちらがどちらだかわからなくなってしまう。そこがまた面白いというのが人気の的だった。

しかしこの曲を実の親子で踊るというミソが、そうした見た目のさま以上に、この踊りの内容にあるのはいうまでもない。前段の狂言師の父と子が、後段の親獅子と子獅子に乗り移って、父がわが子を厳しく鍛え、育てるというテーマをはらんでいる。獅子がわが子を断崖から蹴落として力を試すという試練である。親獅子に蹴落とされた子獅子が、むっくりと起き上がって崖を這い上がってくるさまを、しばし花道に黙然と端座していた子獅子が、決然と起って本舞台まで片足立ちで戻ってくるのを親獅子が迎え入れるという形で表現するところが、この曲の眼目で、ふつうは先輩格の役者が親獅子をつとめるが、実の親子で親獅子と子獅子をつとめると、曲想がそのまま役の上と演者の上に重なって興趣は倍増する。人気曲だから、他の役者たちも踊ったが、猿之助・段四郎父子のがとびぬけて評判を得たのはそのためである。

十七代目は、勘九郎が子獅子を踊れるまで成長する日を待っていたのだった。親獅子の十七代目勘三郎六十歳。子獅子の勘九郎十四歳。中学生だった。実の親子といっても、猿之助と段四郎の場合は子獅子の方も成人だったが、こちらは、子獅子の年齢が、ようやく大人への第一歩を踏み出そうという、まさに曲想そのままである。親の勘三郎だけではない。観客もまた、瞼に残る「勘九郎坊や」の幼い姿を、すっかり成長した勘九郎少年の上に重ね合わせる。感動はひとしおにならざるを得ない。

それはまた、昭和四〇年代というその時点にあって、日本人が忘れかけていた、「少年」という言葉の持つイメージを、目の前にそのまま彷彿とさせるような姿だった。戦後の、社会のめまぐるしい変動が、新しい世代の登場とともに、つぎつぎと「新人種」を生み出してゆく。何々族、といった呼び方で、それらはマスコミを通じて喧伝され、ときに旧世代の神経を逆なでし、何とはなしに不安をかきたてる。勘九郎が少年らしい眉宇にひたむきな表情をうかべて、曲想の子獅子さながらに踊る姿は、まさしくその対極にあるものだった。

少年の凛々しさ、それは旧世代ばかりでなく、若い世代は世代なりに、新鮮なものとして迎え入れる。それは、少年が少しのてらいも不自然さもなく、少年らしい少年であり得た古き良き昔を知らない若い世代にとっても、ある懐かしさを感じさせるものだった。

成果は、期待以上のものだった。勘九郎の成長ぶりへの驚きもだが、その描き出すイメージが、この曲から思い描く子獅子の姿そのものであったからである。父に蹴落とされる振りがあって、花道七三まで行った子が、左右の腕を組むように胸の前に交差して、両脚を折り畳むように一跳躍してそのまま花道の上に胡座する。そのときの、勘九郎の呼吸(いき)のよさ。姿勢の正しさ。単に体が大きくなったというだけではない、その成長の内容を、見る者が実感した一刹那だった。

まっすぐに正面の一点を見据えて身じろぎもしない。決まった振りを忠実に守ってそうしているというより、勘九郎自身がみずから求めてそうしているかのように見える。じっとしているのに、役が、いや役を通じて演者である勘九郎自身が生動している。いざ動き出して、身体が描き出す描線は、父の勘三郎のそれよりも、むしろ明確で歯切れがよい。

これは、という感を抱いたのは、私だけではなかった。満場に高揚する気配が見る見る漂うのが感じられた。そのときのぞくぞくするような感覚を、私はいまでも呼び起こすことができる。その生動感。

思えば、いまに至るまで私の中にある十八代目勘三郎のイメージは、この瞬間に形となり、そのままはぐくまれてきたのであるともいえる。静と動というが、静の中にすでに動がある。静が動をはらんでいるといってもよい。

動が躍動するためには、じつは静の中に溜(た)めるものが前提となる。「溜める」、はすなわち「矯(た)める」と言い換えてもよい。静があっての動であると同時に、動をはらんでいればこその静でもある。じっと、身じろぎもせずにいても、生動するものを感じさせる。生動は、遠く離れた三階席に坐っている観客にも、優に伝わる。

勘三郎が見る者を動かす根本にあるのは、この、生動する感覚だと私は思っているが、いま思い出す限り、それを知った最初がこのときだった。それは、観客のひとりひとりを捕らえるだけでなく、見る者の間に波動して満場を高揚させる。その意味では開かれた芸なのだが、その根本にあるのは、静の中に矯(た)められた動という、凝縮された力である。

身体が描き出す描線が父よりも明確だというのも、少なくとも私の中では、このときの印象が元になっている。十七代目の挙措動作の魅力は、間や呼吸をずらしたり揺らしたりする微妙な高等技術にあったが、それはほとんど筆に捕らえるのを困難にする類いのもので、描き出す描線は、むしろまろやかで、はんなりとかまったりとかいった微妙な表現がふさわしいものだった。少なくとも、俊敏とか峻厳とかいう言葉で捕らえうる種類のものではなかったと思う。どちらをどうと、優劣をつけるわけにはいかないが、鮮烈という一点からいうなら、父より子の方が、より印象に鮮明である。

評判はたちまち広まって、父子『連獅子』はそれから短時日の内に再演、三演を重ねることになったが、ここでまた、かつての「勘九郎坊や」時代を思い出させるような「勘九郎語録」がマスコミによって伝えられたことから、ことは芸能欄からとびだして社会面でも扱われる内容をもつに至る。父の厳しい稽古に見事に耐えた勘九郎が、将来自分は絶対に勘三郎の名は継がないと言い出したという。自分は勘三郎の名前は継がず、息子に継がせる。そうすれば将来、わが子に稽古をつけてやるときに、「コラ、勘三郎」と呼び捨てにしてやれるからね、そうしたらなんと気持がいいだろう、と語ったというのである。

これはまた見事な「勘九郎語録」だった。父と子の厳しい稽古としつけ、父の厳しさもその厳しさの意味も完全に理解し、受け容れながらも、実の父、実の子であるかぎり逃れられない肉親同士の感情。それを、遠い未来のわが子に託して「コラ、勘三郎」と叱りつけたらどんなに気持ちがいいだろうと発想を転換させる、機知とユーモア。それを可能にする心のゆとり、広さ。

ここでも、かつての勘九郎坊やが見事に成長し、心豊かな少年になっている現実を知って、人々は微笑したが、この話題はさらに一転する。東京都の教育長や私立大学の学長をつとめ、マスコミにもしばしば登場する著名人であった教育界の大家が、勘九郎のこの発言をとりあげて、現代の最も理想的な親子関係の好例と評したのである。ちょうど世間では、親子の断絶がいわれはじめ、戦後教育のあり方を問うような声が高まろうとしている、ひとつの季節でもあったから、そういうときに、こういう立場の人物のこの発言は、芸能界という狭い枠をはるかに超えて、社会的な注目を惹く対象となったのだった。

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随談第498回 今月の舞台から

歌舞伎座の杮落し公演が早や三月目になる。「3」という数は多数を表わすというが、なるほど、何事も三回目となると、いつもの××、といった感覚が生まれ始める。たとえば玄関を入ったらまず右手へ折れて、地下一階へ階段を下りてロッカーに荷物を預け、それから手洗いに入って身を整える、という行動パターンが私の場合出来つつある。上手奥に出来た喫茶室で働く人たちも、四月のときはもう気の毒になるほどの不慣れの様子だったが、三月目ともなるとそれなりの習熟の気配を見せ始めている。注文がちゃんと通っているのだろうかと心配になったりすることも、やがては、しないですむようになるであろう。(そうでなくては大変だけどね。)

ロビーを歩くのが、まだ慣れない。どこがどう通じているか、おおよそ頭に入ってはいるのだが、まだまだ勝手知ったる我が家の庭のようなわけには行かない。三階席を覗いてみると、出入り口の付き方が大きく変わり、従来は三階のロビーの平面がそのまま三階席の最前列の床面につながっていたのが、今度は、ロビーから中に入ると三階席の中腹辺りに入ることになり、ちょいと面食らう。勾配が急になった分、舞台との距離感に微妙な差異があるような気がする。

三階についてもうひとつ。女性用の手洗いに行列が出来た時に、ちょっと人目にさらされるような感じになって具合が悪いという声を女性の知人から聞いた。ここらは、設計者が男性であるが故の盲点か。それと、これは全フロアに関わることだが、ロビーにベンチがないのは,座りたければ自分の席に戻るしかないわけで、これはやはり、ちょっと具合が悪い。エスカレーターを設けたためその分スペースが足りなくなった、一方を立てれば一方が立てられなくなった帰結なのだが・・・

音響についても、やはり席によっていろいろな意見が出ているようだ。一階席の座席の高さと舞台の高さのバランスも、席によって微妙に違うらしい。まあ、すべてに完璧ということは不可能なことで、ああだこうだ言い合うのも賑わいの内だともいえる。

        *

さて舞台だが、最初の月のような客席が固唾を飲んで開幕の瞬間を見守ったような雰囲気は大分薄れて、よく言えばそれこそが落着きでありゆとりであり、安定感というものだが、舞台にもそれは、おのずから反映しないわけにはいかない。

開幕劇は、もう鶴だの亀だのの出てくるような祝典曲ではなく、橋之助の不破に勘九郎の山三、それに魁春が留女という『鞘当』である。勘九郎がもうすっかり、自分というものを自分の手にしっかりと捉えた大人の役者に成長しているのに目を見張る。橋之助も立派なマスクが生きて結構だが、但しこの不破、顔が白過ぎないか。もっとベリッと猛々しくないと、それでなくともハンサムな橋之助だから、のっぺり伴左衛門になってしまう。二枚目役者だ、という意識が白粉の分量をつい多めにさせるのか?

三津五郎の『喜撰』が大結構。こういうものを見ると、大和屋四代ほど一貫した芸の風を感じさせる家も珍しいとつくづく思う。古格を守り、楷書で書いて、やがてそれが深まり、とろりと芳醇な味わいに熟成してゆき、やがて七代目のごとく自在の芸境に達する。そういうことを可能にするのは三津五郎代々だけであろう。当代は、襲名の時にまず楷書できちんと踊り、十三年後のいま、ようやく柔らかにほどけ始めている。十年後には更に深い味になっているに違いない。そういうことを、見るわれわれも共に年齢を重ねながら味わってゆくという楽しみ方。完塾した時だけが正しくて、それまでは未熟だというのではない。その時々を、われわれの方も熟してゆきながら、味わい、親しんでゆくのだ。こういう楽しみ方こそ、まさに人生そのものを楽しむことと重なり合う。時蔵のお梶がまた素敵である。独特の硬質の色気がこの役、この踊りにまことにつきづきしい。すなわちこの『喜撰』が今月の白眉であり、お奨めである。

吉右衛門の『俊寛』は、四月の熊谷、五月の梶原もそうであった如く、どこを突出させるのではない、円環のごとく全き芸になっている。だからどこを捉えてどう評するということが難しい。ただ先月先々月に比べ、こころなしか燃焼度がやや低い気がするのは、これもまた三カ月目ということのなせるわざか。この三カ月、團十郎に代ってつとめた役も含めると、吉右衛門が一番負担が多かったのではあるまいか。

それで思うのだが、吉右衛門に限らず、菊五郎にせよ幸四郎にせよあるいは仁左衛門にせよ、こけら落しの三カ月がすんだら、ひと月二た月、休ませてやりたい。ひと月二十八日間興行というのも、疲労を蓄積するだろう。勘三郎が亡くなった時、誰かが、これは過労死だと言ったが、猿翁の倒れたのにしても、自ら求めて働いたにせよ、身体を酷使したことは間違いないのだ。菊五郎の土蜘が四天王との立ち回りで、片足立ちで花道から本舞台へと跳んでくるという矍鑠たる処を見せたが(嗚呼、菊五郎に「矍鑠」などという言葉を使おうとは!)、まずこれは芸の意地ひとつでしたことだろう。

仁左衛門など、丹左衛門といい工藤といい、もちろんいいものに違いはないが、やはり疲れているのを感じる。くれぐれも大切にしてもらいたいと切に思う。『対面』の冒頭の部分、幕が落ちると工藤が二重の上に立ち身でいて、それから下に降りて「高座御免」を言ってから高座に座るという演出は、十三代目が晩年、身体をいとって工夫した仕方らしいが、ちょっと落ち着かない気がした。冒頭いきなり大薩摩が始まるのも違和感を拭えない。

『俊寛』は大顔合わせといっていいが、『対面』は海老蔵の五郎、菊之助の十郎以下、芝雀の虎はともかく、孝太郎の舞鶴、七之助の少将から大名たちに至るまで、配役が大幅に若くなっている。『土蜘』の四天王や間狂言の面々にしても、『助六』の並び傾城など壱太郎が先頭なのだからその若いこと若いこと。まさに近未来図だ。

もっとも、齢を取るのは悪いことばかりではない。左団次など、瀬尾にせよ意休にせよ、何度やったか知れない役だが、一種飄々とした趣きが現われて、する仕事に変りがあるわけではないが、なかなか風情があって素敵である。東蔵の満江にしても、あの小柄な人が、海老蔵と菊五郎の五郎十郎を従えたところの実に立派なこと。四月の『盛綱』の微妙にせよ、田之助が膝の故障で出ない今(東蔵がどうのこうのでなく、満江をこの人で見たいという思いも別にあるけれど)、こうした役はこの人のものになった。蓄積された実力を、いまこそ、十全に発揮できる時を迎えたのである。

さて海老蔵だが、『対面』といい『助六』といい、これはどうしたことなのだろう? どう言えば、どう考えればいいのだろう? これが、かつてのあの、輝いていた海老蔵だろうか? 痩せて頬がこけたということもあるかも知れないが、そんなことは本質的なことではない。セリフの難のどうのこうのも、もちろんあれでいいわけではないが、いま始まったことではない。あんなに、自らも暗く、且つ、暗い翳に包まれたような五郎や助六が、いや海老蔵が、あるだろうか? 剥き身に取った紅隈がどす黒く見える。あの五郎は、工藤への復讐の念に燃える怨念の虜なのだろうか?

たしかに、海老蔵は一種の凄みを秘めた役者である。父十二代目より祖父十一代目に近いと目されるのも、容姿や風貌以上に、その点に最も根源的な理由がある。(犬丸治氏はそれを「怒気」と言い当てた。)助六にせよ『暫』の権五郎にせよ、その凄みが現人神の怒りという、荒事の本質に通じ、われわれは海老蔵を通じて、助六や鎌倉権五郎が、いまわれわれの目の前に、手を伸ばせば届きそうな、まさに「そこ」にいるような実感を味わったのだった。セリフが浮き上がろうと、多少の難があろうと、これぞ荒事だと実感したのだった。それもこれも、あの輝きに包まれていたればこそである。

あの海老蔵はどこへ行ってしまったのだろうか。率直に言おう。助六の出端の約20分間、私は暗然たる思いで見つめていた。本舞台に行って「芝居」が始まってからは、少しずつ、生気を取り戻すかのように尻上がりに良くなっていったので、少し愁眉を開いたけれど。一方菊之助は十郎も福山のかつぎも共に、自分の成長してゆくペースを知る者の、すくすくと伸びてゆくすこやかさが感じられるのが快かった。しかし何と言っても、海老蔵と菊之助と二枚揃ってこそ、歌舞伎の将来の展望は大きく開けるのだ。海老蔵をいま惑わせているものの正体は何なのだろう? 海老蔵は私が将来を最も期待する花形役者である。このままでは困る。本当に困る。

        *

国立劇場の歌舞伎鑑賞教室で『紅葉狩』のような舞踊を演目に選んだのは初めてのことかもしれない。しかし考えてみれば、全山紅葉のキレイキレイの舞台面といい、お姫様が出てきたり、衣装がぶっ返ると隈取の妖怪だったり、毛ぶりがあったり、その他その他、初心の客が何とはなしに抱いている歌舞伎イメージが満載なわけで、ストーリーは見ていれば誰にだってわかるし、これほど初心者向けの演目も少ないかもしれない。問題は、姫の踊りが長いので、あそこで睡魔に襲わせないためにはどうするか、ということぐらいか。(惟茂も、右源太左源太も眠ってしまうのだから、高校生が眠るのも無理はない、か?)

解説が十九歳の隼人と十五歳の虎之介というのは、高校生の集団をどよめかせるには充分だった。内容もよく工夫されていた。むかし、菊蔵だの半四郎だのがやっていた頃とは隔世の感がある。菊蔵のは教頭先生がみずから丁寧に教えて下さるみたいだったが、半四郎は、騒がしい生徒がいると舞台の上から叱りつけたりしていたっけ。虎之介は山神もよく踊ったし、二人には敢闘賞をやっていい。

        *

このところ三越劇場を本拠のようにして着実に得点を重ねてきた新派が、今月は『金色夜叉』を出したので注目したが、今度ばかりはちと躓いた。考えてみれば、新派古典としての『金色夜叉』はもう疾うに、時代の流れの中で役目を果たし終わっている。せいぜい昭和30~40年代まで、と見るのがいいところだろう。(森雅之が新派に入って寛一をやったりしたのは、もう少し後だったか。吉右衛門の間寛一というのも見ている。昭和50年頃だったか。森雅之なり吉右衛門なりの演技としての興味は別として、芝居としては、時すでに遅しという感は否めなかった。)『婦系図』とはそこが違うのだ。そのことをどこまで見極めての、今度の公演だったろう?

今度の脚本は昭和56年に文学座が上演した宮本研による新版である。新派としても夙に昭和58年に国立劇場公演でトライしているとはいえ、宮本版『金色夜叉』は新劇の脚本であり、杉村春子に赤樫満枝をさせるのが新解釈で、「とり源」の場で新内をよそ事浄瑠璃として聞かせるような、杉村流新派芸を見せる遊びの要素もあるものの(今度もその場面は当代八重子の満枝で面白く見せている)、しかし本質は『美しきものの伝説』の姉妹編であり、「新劇」の脚本である。もちろん、新派が新劇の脚本をやったって悪いわけではない。しかしそれならそれで対応の仕方がある。

文学座の所演では二宮さよ子がお宮を演じた。お宮が何故、寛一ではなく富山を夫として選んだのか、が宮本研の解釈の急所だが、しかし脚本にはそのことは敢えて明確には書いていない。このお宮が富山のプロポーズを受けたのは、むかしの新派古典の脚本で間寛一からののしられたように「ダイヤモンドに目が眩んだ」からではない。では何か? お宮自身にもそれは答えられない。「夢を見ているようだった」と後になってから述懐するのが精一杯の、明治という時代の乙女の、人生に対する夢のなせるわざである。つまりこの脚本のこの役は、若手の女優がするべき役であって、ベテランの大女優が「芸」で見せるような役ではない。たしかに58年の国立劇場では久里子お宮をやっている。しかしそれから30年後の今度も久里子に、と考えたところに誤算があった。このお宮は、八十翁の名女形もつとめる八重垣姫とは違う。

今度なら、お宮は瀬戸摩純だろう。久里子はむしろ、お宮の母に回るべきだった。こんどの高橋よしこも悪くないが、久里子がこういう役で新境地を開いたら面白かったろう。それとも、やはり「劇団新派」として八重子・久里子の二枚看板で売ろうというのなら、新規に、ふたりの「芸で見せる」のにふさわしい脚本を作るべきだった。

        *

新橋演舞場に五年ぶりで舟木一夫公演がかかった。前にも書いたが、私はこの公演のひそかなファンである。何と言っても、ファンが次々と手渡す花束やプレゼントを受け取りながらヒットナンバーを歌うのが見ものであり聞きものだが、芝居でも、野口雨情だの竹久夢二だの、大正の文化人の役をさせると、現在の各ジャンルを見渡してもちょっとない、いい持ち味を見せるのだ。(若い頃、川口松太郎や先代八重子から新派に入るよう勧められたという話さえあった筈だ。)

今度は里見浩太朗をゲストに『花の生涯』の長野主膳というやや物々しい時代劇だったが、それでも、セリフの緩急や身のこなしなどに、昔の時代劇俳優が身につけていた「時代と世話」の使い分けを心得た演技をするので、気持ちがいい。長谷川一夫でも千恵蔵・右太衛門でも、萬屋錦之介でも大川橋蔵でも、つまりそれが、歌舞伎で修行をした役者としての「教養」だったのだ。ちょっと大風呂敷を広げて演劇史的に見るなら、いま急速に終りを告げようとしている商業演劇としての時代劇という観点から見ても、間接的にせよそうした時代劇俳優の演技伝承の流れを汲んだ舟木あたりが、時代劇の俳優としての「教養」を身につけている最後の役者ともいえるわけだ。(演技の味付けに、いわゆる歌手芝居独特の調味料が加えられているのは是非ないとしても。)

もうひとつ、筋書に水落潔さんが書いている文章に、昭和28年に初代猿翁が演じて以来の『花の生涯』の劇化上演とテレビドラマについて簡単に触れられているが、映画のことが触れていないので蛇足を加えさせてもらうと、劇化と同じ昭和28年秋に、松竹で映画化されている。当時として、かなり力を入れた大作だった。八代目幸四郎の直弼、淡島千景の山村たか、高田浩吉の長野主膳という配役だったが、のちの白鸚にとってはこれが最初の映画出演だったということもあるので、忘れられないために書き留めておきたい。

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随談第497回 机上の妄論

勘三郎随想を一旦お休みということにして、近頃ちと気になる話題について、ひぐらしパソコンに向かう内に怪しうこそ物狂おしくなってきたことを、書き留めておきたくなった。

        *

オリンピック種目からはずされそうになったレスリングが、このほどのIOCの審査でどうにか予選通過したというニュースで、日本中が沸き立っている。直前に委員へのアピ-ルのために現地に乗り込んだ吉田選手がこれまでに取った金メダルを何枚も首にぶら下げて、コングラチュレーション、などと言われている情景が画面に映ったりするのを見ていると、ナンジャコリャ、と思わず呟きたくなった。

そもそも、IOCの委員というのは何様だ、ということもある。この前、東京が開催地に立候補し(て落選し)たときにも、いろんな委員がやってきて何となく雰囲気を察したが、すべてはあの人たちの胸先三寸にあるわけで、生殺与奪の権を彼らは持っている。単に、どの種目が選ばれるか、だけでなく、レスリングなり野球ソフトボールなりスカッシュなりその他その他の、どの種目の何がよくて何がいけないかまでのすべてを彼らに支配されることになるから、野球みたいに、7イニング制に致しますから何とかお認めくださいまし、などと言いだす羽目になる。運営の仕方を改善すべしということだった筈が、その意を迎えようとするあまり、自分から自分の身を切って見せようとすることになるわけだ。陛下は何もおっしゃったわけではないが、その意を体したのである。阿部一族ではないが、腹を切れと言われたわけではなくとも切腹しないわけにはいかなくなったのだ。

それにしても、取ったメダルを首に下げて陳情に行く、というのはどういう意味なのだろう。こんなに私は強いのよ、という示威なのか。こんなに実績があるのだから認めろ、という意味なのか。そんな私がこんなにレスリングと熱心に取り組んでいるのだから、ということなのか。でもそれなら、どの種目にもそういう人はいるだろう。私がIOCの委員だったら、さあ、そう言われても困りますなあと答えるしかないだろう。メダルを見せられたあの委員も、せいぜいコングラチュレーションとお世辞を言ってお茶を濁したのだろう。以前モスクワ五輪の際、ソ連のアフガニスタン侵攻で日本は直前で不参加ということになった時(やはりレスリングの選手だったか)自分は何のためにこの四年間やってきたのか、と泣き出した人がいたが、気の毒だとは思ったが、正直なところちょっと滑稽を感じたのも事実だった。(今度も、関係者の大騒ぎに滑稽を感じている人も、決して少なくないに違いない。当然あるべき筈のものがなくなったら、もちろん、ショックだろう。しかし、それは何故、当然あるべき筈なのだろう? あるべき筈と思い込んでいるのは、突き詰めれば、傲慢に似て来はしないだろうか?)

もちろん私も、レスリングは正式種目であるべきだと思っている。古代オリンピックの昔からある、西欧起源の格闘技の原点であって、すなわち他の種目の範となる由緒正しいスポーツだと思うからだ。もっとも、そういう「大物」が落選しかかって懸命に選挙運動を始めたとなると、他のもっとマイナーな種目としては、自分の選挙区に突如大物候補が舞い降りてきて派手な選挙活動をやり出すのを横目で見るような気分になるだろう。あの人がシャシャリ出なければ私にだってもうちょっとは当選の可能性があったかもしれないのに、とぼやきたくなるだろう。それもこれも、みんなIOCへの心中立て、オオ口惜し、オオ恨めし、というわけだ。

前にも書いたことがあるが、私は、極論をすれば、オリンピックは陸上競技だけでいいと思っている。より早く走り、より高くより遠くへ飛び、投げる。それから、より重たいものを持ち上げる重量挙げ。つまりこれらが、「競争」というものを「遊び」に転化するという人類最大の叡智から生まれた「スポルト」の根源である。オリンピックとは、つまるところ世界大運動会である。江戸城吹上御殿へ天下無双の豪傑たちが集まってきて技を競い合う「寛永御前試合」のように、それはなるがたけ、簡潔明快なものがいい。「競争」の粋は「競走」である。小学校の運動会の精華が駆けっこ、わけても紅白リレーであるように、世界大運動会たるオリンピックの精髄もまた駆けっこ、イヤサ陸上競技であり、わけても400㍍リレーに尽きる。(私がこれまで見たオリンピックで最も感動したのは、前々回のときだったっけ、男子400㍍リレーで銅メダルを獲得した時だった。日本チームが陸上短距離で取った銅メダルの値打ちは、他の種目の金メダル何個分でも利かないだろう。)

そもそも球技というのは、人間の文化文明が高度に複雑に発展してから始まったもので、簡素簡潔を生命とするオリンピックに馴染まない。そもそも時間がかかりすぎる。野球が7イニング制などと言い出したのもそのためだろうし、サッカーなど、一年も前から世界中で予選が行われ、いざ本番には、開会式の前からトーナメント戦を始めている。入学式の前から卒業試験を始めるようなものでおかしな話である。体操みたいな、やたらに採点が煩雑で判定が左右されるような種目もふさわしくない。同じ理由で、冬季大会でもフィギュアスケートはオリンピックにはいらない。

こう言ったからと言って、私はこうした種目を嫌っているのではない。現に私は大の野球好きで、プロ野球は王・長嶋どころか川上・大下の時代からのファンである。大谷選手の二刀流と聞くとすぐ野口二郎選手を連想した人間である。つまり、野球もサッカーも、オリンピックなどを無暗に有難がらなくとも立派にやっていけるスポルトなのだから、IOCの方から是非参加してくれと言って来たら考えてやってもいいかもしれないが、こちらからペコペコ頭を下げて、ましてルールを変えたり姑息なことをしてまで「混ぜて」もらうことはないのだ。フィギュアスケートに至っては、(私は見るのは大好きだが)もうスポーツというより芸術に近い。以前は「規定」と「自由」の2種目で、規定というのは図形を正確に滑るとか、技の正確さを測るもので素人が見てもちっとも面白くなかったが、いまの「芸術点」などというのは何を以って点数にするのだろう。しかし選手たちの「芸」はたいしたものだから見ては面白い。入場料を取って興行する方が似つかわしい。

もっとも、ソフトボールなどは参加させてやりたいよね。そもそも野球と抱き合わせにするようなメジャーな存在ではないのに、一緒にしようと言ったのがIOCから評価されたというのを見ても、IOCの委員が如何に野球に認識がないかがわかろうというものだ。サッカーもラグビーもアメフトも元は同じフットボールなのだから一緒になれ、というようなものではないか。

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ニュースを聞いていたら、野球の側からIOCに請願する代表に松井が加わるらしい。松井は、先日の国民栄誉賞授賞式のスピーチで男を挙げたが、なるほど、自分がいまいる立場、自分という存在の在り方、果ては今度の受賞に関してどんなことが言われているかに至るまで、彼は実によく認識している。つまりそれだけ、己を知り、己を見る他者を知り、洞察するセンシビリティを持っている。またそれを、みずから卑屈にならず、また他を貶めずに、己の言うべきことを述べる表現力を持っている。実に、人物として賢明な人間であるというべきだろう。

もうアメリカには用というものはない筈だと思われるが、このままアメリカに居続ける気配なのは、クラシックの音楽家とか洋画家とかには従来から珍しくなかった「メトロポリタン」という生き方を選ぼうとしているのかもしれない。しかし日本を捨てたわけでも愛していないわけでもないから、日本のためにお役に立てることがあればお役に立ちましょう、ということでIOCへの陳情の役を引き受けた、というわけだろう。用が済めば、またニューヨークの自宅へ帰るだけである。

日本に戻ってくることはもうないのか? そんなことまで考えてやる義理も付き合いもないが、読売巨人軍の監督、というポストが用意されたときどうするか、ということは、野次馬として多少の興味はないでもない。

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