随談第509回 勘三郎随想(その34)

43.「ゑ」の章

まるで犯罪者のような気分だった、と野田秀樹は言う。

「歌舞伎国」のなかで、僕はまったくもって異邦人だった、と串田和美は言う。

野田秀樹を、はじめて歌舞伎座の舞台に立たせたときの興奮のことは、すでに勘三郎自身が多くの機会に語っている。串田和美は、勘三郎と関わることによって歌舞伎の演出をするようになった体験を、みずから『串田戯場』という一書に、赤裸々に且つ暢達に語っている。野田との出会いから、ついに歌舞伎に深く関わらせるに至るまでの、勘三郎と野田と、双方の高揚と、その陰にある小心と細心についても、すでに小松成美によってその著『さらば勘九郎』のなかにあざやかに切り取られている。

串田和美にせよ、野田秀樹にせよ、勘三郎によって歌舞伎と関わるようになったふたりのことを考えるとき、私が何よりおもしろいと思うのは、あるいは異邦人といいあるいは犯罪者という、その歌舞伎に対する「異物」としての意識である。その意識の明確さであり、鋭さである。そのことが、彼らふたりを、これまで歌舞伎と関わりを持ってきた演劇人や文人たちと、鋭く分けていることに、私は興味をそそられる。

そうなのだ。作者や脚色者として、あるいは演出者として、その他さまざまな形で歌舞伎と関わり、歌舞伎を作る場に入ってきた者は、じつはこれまでにも数知れず存在する。坪内逍遥や岡本綺堂以来の、新歌舞伎と呼ばれる近代歌舞伎の新作品を書いてきた、玉石混交、無数の作者たち。あるいは脚色者たち。演出者という役割も、座付きの「狂言作者」の書いた作品が古典と見做され、それに代わって「劇作家」と称する作者たちが近代劇の手法で新作品を書くようになって以来、上演の現場に関わるようになって久しい。それらの人びとが、どういう態度どういうスタンスで歌舞伎と関わったかは、文字通り千差万別だろうが、ひとつあきらかなのは、その足跡を何らかの意味で歌舞伎に強烈に残すような仕事をしたのは、自分の中に、歌舞伎に対する「異物」意識を明確に持っていた人たちであったということである。仮に話を戦後に限ったとして、武智鉄二がそうであったろうし、近くは梅原猛にしてもそうだろう。歌舞伎に向かい合う角度は正反対であったとしても。歌舞伎になずむ者より、歌舞伎に違和を見いだす者の方が、歌舞伎をよりよく見る者であるともいえる。

野田秀樹が勘三郎に慫慂されて、ついに歌舞伎の現実に関わるようになるまでの、畏れと不敵さは、言い換えれば、自分と歌舞伎との間の距離をつねに測定している者の「異物」意識の故だろうが、その間の事情を簡明にあぶりだした小松成美の著書を通じて何よりも興味深いのは、勘三郎が自他に問おうとしている「問い」である。一言でいうなら、歌舞伎とは何か、という問い。勘三郎の言葉を小松の著書から借りる。「歌舞伎役者だけが集まっていれば、歌舞伎の定義なんて必要ないでしょう。でも、外の人から見れば、歌舞伎が歌舞伎であるための分かりやすい定義が必要なんだよね。」

その勘三郎の言を受けて、野田は、演出家の不在、ということを言ったというが、このやり取りを通じて勘三郎に感じるのは、(そうして、もしかすると世人が勘三郎を最も理解していない側面は)、歌舞伎に対する冷徹なまでの客観的な眼差しである。もちろん、勘三郎が歌舞伎に冷徹なのではない。事をなそうとするに当って、現代という時代のなかで歌舞伎が置かれている状況、現代の社会のなかで歌舞伎に投げかけられている人びとの視線、眼差しといったものへ、勘三郎がどれだけ冷徹に意識を働かせ、見切っているか、ということである。

歌舞伎とは何か? この問いは、これまでにも、何か事をなそうとする者へ、いつも投げかけられてきた問いであり、同時に、事をなそうとする者が、つねに自身に問い、他へ投げ返してきた問いである。小松によれば、懐疑し逡巡する野田へむかって勘三郎はこう言ったという。「歌舞伎役者が演じれば、それはもう歌舞伎だし、その歌舞伎に出演すれば役者はみんな歌舞伎役者なんだ」と。

この勘三郎の言を読んだとき、まず思い浮かべたのは、この時点からほぼ四十年余前、一家一門を率いて松竹を脱退、東宝へ移籍してセンセーションを巻き起こした当時の八代目松本幸四郎、のちの松本白鸚が、ほとんど同じ趣旨のことを言って、話題になったときのことである。それは、歌舞伎界の現状に飽き足らず東宝に移籍したものの思うほどの活動の機会に恵まれず、女優と共演するような舞台が多くなった白鸚へなされた、少々ぶしつけな問いに対する、やや憤然とした語調の発言であったと思う。それだけに、当時としては、むしろ放言めいたニュアンスで受けとめられたのだったが、しかしそれ以来、私はこの言葉が、もう少し深く、もう少し重い意味をもって、いつも忘れられずにいる。

歌舞伎役者がすればどんな芝居だろうと歌舞伎なのだ、ともう少し正確に言えば白鸚は言ったのだが、歌舞伎の芸を蓄積した役者の身体なり、あるいは逆に、役者の身体に蓄積された歌舞伎の芸なりへの揺るぎのない自負が、この言葉からたちのぼってくる。前々章の末尾に引用した串田の言が思い合わされる。「歌舞伎の型を何十年も追及してきた役者が、その身についた型からすーっと解放されるときの凄み」と串田は言ったのだった。『三人吉三』の「巣鴨吉祥院」の場で、現行普通の歌舞伎の常識とはかけ離れた演技を求められたときの勘三郎のことをいったのだったが、ひるがえって考えれば、つまりはこれも、何をどう演じようと歌舞伎役者が演じればそれも見事に歌舞伎であることの、ひとつの証例であるともいえる。

しかしそれは、当然ながら、昔の白鸚にせよ今の勘三郎にせよ、歌舞伎役者としての揺るぎのない芸と身体を持つ者にして言えることで、野田秀樹の側から言えることではない。演出家の不在ということを、「異邦人」である野田が言ったのは、これも当然のことだったろう。そもそも「演出家」という存在が演劇の世界に登場し、「演出」という営為を始めたときが、「近代演劇」というものの誕生したときであって、野田にせよ串田にせよ、その近代演劇という世界で生きてきた者にしてみれば、「演出家」の存在しない演劇というものが、すでに不可解な得体の知れないものとしか思えないとしても、不思議はない。ここで演劇人としての野田秀樹についての説明を始める必要はないだろうが、その作り出す舞台が、演出という営為に対して最も先鋭な意識を持った演劇人であることは、少なくとも間違いないだろう。

昔から、というのは、歌舞伎が近代劇と競合するようになったときから、歌舞伎にも演出家が必要だという考え方が、識者の間で生まれ、いまも根強く底流している。国立劇場が設立されるに当っても、そのことが強く言われ、「演出」とか「監修」とかいう文字が制作スタッフの中に連なるようになった。現実にそこで行なわれている「演出」が、野田や串田の言う演出とは、むしろ同名異語に近いかもしれないとしてもである。

また一方で、「武智歌舞伎」のような形で、歌舞伎の演出ということがクローズアップされることもあった。武智の場合は、原理主義的ともいえる古典主義の理論・方法論が過激なピューリタニズムのゆえに、戦後という時代の空気のなかで熱烈な信奉者を生んだが、その古典主義的方法と前衛とを円環のように結びつけようとする武智の真意は、その割には、あまり理解されなかったような気がする。武智歌舞伎はいいが、わけのわからない前衛劇みたいなのは困る、という声をよく聞いたものだ。しかしそれでは、武智はおそらく満たされなかったに違いない。ともあれ、その武智にしても、理念や方法論の違いはあっても、歌舞伎を、役者や興行資本の恣意にまかせず、古典としてあるべき形として実現しようということを目指すところから始まっていたという一点では、共通していたのだ。

松本白鸚の場合には、福田恆存という存在が関わっていたが、福田の場合は、歌舞伎そのものの演出に関わるのではなく、むしろ白鸚の方から歌舞伎の埒の外に出て、福田の書いた作品を福田の演出で演じるということに、目指すところがあったように思われる。それは客観的には、歴史劇というものを日本の演劇のなかに確立しようということであったと私は理解しているが、福田の側からすれば、そのときに是非とも欲しかったのが、歌舞伎俳優松本白鸚の持つ芸と身体であったろうことは間違いないだろう。歌舞伎役者がやればどんな芝居をやろと歌舞伎だ、という白鸚の言と、まさしくその一点で両者は重なり合い、折り合ったのだ。それと相似形の図式が、勘三郎と野田秀樹の場合にも描けると考えるのは、自然なことだろう。

随談第508回 勘三郎随想(その33)

41.「み」の章(つづき)

勘三郎は、最近、三人の若手俳優のトリオで上演された『大川端庚申塚』の一幕を見て、愕然としたという。「和尚吉三はお嬢とお坊が斬り合っているところへズバッと飛び込んでいって、待て、と留めるんでしょ。ところが留めないんだもの。ただ形。留める格好をするだけ。予定調和でやってるから、何の真実味もない。お客に拍手するなって言いたかった。おじさんたちが見たら怒るよ。批評家の人達ももっとびしびし書くべきですよ。あんなことをやってたんじゃあ、もう歌舞伎は滅びるよ。」

前にも書いたように、勘三郎は、かつて梅幸からこの「大川端庚申塚」のお嬢吉三を教わっている。それは「月も朧に白魚の篝火も霞む春の空」という、様式の極とも見られるようなセリフにも実はリアリズムを踏まえた演技があるのだということを、身をもって示すような行き方だった。勘三郎はもちろんそのやり方に愛着をもっている。だが、『三人吉三』全編を読み直し、串田の演出で演じたいまとなっては、通し上演としても現行のやり方で演じる気持はないという。

何故なら、ドラマとしての『三人吉三』を通しで演じるなら、お嬢吉三は女形の演じるべき役であって、自分がかつて梅幸から教わったお嬢吉三を演じるとすれば、むしろ「大川端」の場だけの方がふさわしい。勘三郎は気づいていたのだ。梅幸に教わった「伝統的」な演出は、大正・昭和の歌舞伎の正統的な演じ方としての意義をもつが、それは十五世羽左衛門や六代目菊五郎が加役として演じた「伝統」が作ったものであって、串田の言う「社会からはじき出されたちっぽけな悪党」として演じるには必ずしもふさわしくない。

「生理」という言葉を、談話を取材している間に、勘三郎は何度か使ったが、その一度が、串田の演出で演じた和尚吉三についてだった。通しとして『三人吉三』のドラマを演じるなら、すでに自分のなかに出来ているのは和尚を演じる「生理」であって、お嬢を演じる生理は自分の中にはない、という意味である。

それで思うのは、もともと、安政七年の初演のときお嬢吉三を演じたのは、真女形の八代目岩井半四郎だったということである。半四郎は、日常の暮らしから女形に徹していたといい、その自宅の居間を訪れた者が、まるでお嬢様の部屋のようだったという証言を残している。大正・昭和前期の歌舞伎界の頂点に立った大立者の五代目中村歌右衛門は、はじめ半四郎のところに入門する話があったが、女みたいなので断ったという逸話が伝わっているが、この歌右衛門こそ、のちに近代歌舞伎の大御所となった人であることを考え合わせると、この話は、前近代の歌舞伎と近代以降の歌舞伎の裂け目を覗く狭間のような感じもする。

八世半四郎の演じたお嬢吉三がどういうものだったか、いまとなっては想像のほかでしかないが、串田演出による『三人吉三』を経験したことを通じて、勘三郎が、お嬢吉三は女形がやる方がふさわしいということを、「生理」として体感したのは事実だろう。このあたりは、当の串田の想像を超えた、歌舞伎役者勘三郎ならではの感性のなせる業であるのかもしれない。だが少なくとも言えるのは、串田の試みたことが、勘三郎にそれだけのことを感じさせ、考えさせるだけの深みにまで達していた、ということである。

もちろん、通常の慣行となった演出による『三人吉三』を見ていても、そうしたことは感じ取れないわけでは必ずしもない。劇場の椅子からの私の率直な意見をいうなら、黙阿弥の脚本の中に眠っていたさまざまな意味や仕掛けを赤裸々に提示して見せた串田演出のラディカリズムの功績を認める一方で、在来の演出のコンヴェンショナルであるが故の頽廃の美学も捨てがたい。そもそも、いまさら現代の女形俳優がお嬢を演じたところで、幕末明治の八代目半四郎のように演じることは、まず不可能であろう。コクーンでお嬢を演じた福助が、福助一代と言ってもいいほどの好演だったのは確かだが、いまにして思えば、あのお嬢は、福助にとって栄光と危険が裏表になった分水嶺であったかもしれない。その後の福助のさ迷いこんだ、迷路のような苦闘の道を思うとき、ときに痛々しいような思いで福助を見ている自分に気が付くことがある。が、いまはこれ以上、福助のことに触れるのは慎もう。話を『三人吉三』に戻すなら、むしろ新旧ふたつのバージョンが両立することがそれだけ歌舞伎を豊かにすることにも通じると思うのだが、演技者として実際に和尚吉三を生きてしまった「生理」が、勘三郎にそう言わせたのであろうことは、充分に想像がつく。

それにしても考えさせられるのは、自分の「仁」から考えて桜丸をこそと思っていた若き日に、無理矢理にも「松緑のおじさん」から梅王丸を教わって荒事の骨法を叩き込まれたことが、いま和尚吉三を演じることを可能にしているのだという勘三郎の言である。和尚吉三はもちろん荒事の役ではないが、骨太の強い感触の役、というほどの意味と考えればわかりやすい。一方串田は、勘三郎の和尚吉三について、大詰前の「駒込吉祥院の場」の終局、兄妹相姦という畜生道に堕ちた妹のおとせと弟の十三郎を、お嬢吉三とお坊吉三の身替りにする場面での勘三郎の演技の凄さを、もう何かを演じているという次元ではなかったと述べた後につづけて、こう書く。「歌舞伎の型というものを何十年も追及してきた役者が、その身についた型から、スーッと解放される時のすごみのようなものを、僕は(演出者という)立場を忘れて見ていた。」

この串田の言の美しさは、否定するわけにいかないと私は思う。

 
42.「し」の章  (談話・串田、野田との仕事について1)

―――まあこれは、あれこれ言うよりも、やってることを見ていただくことなんでね。ですけれども、たとえば自分がね、まあいつか死ぬと。死ぬときにね、いろいろ考えると思うんですよ。もちろん歌舞伎役者として生まれてきたんだから、おじさんたちに教わったこととか、自分の解釈で、当っているか当っていないかは別として、盛綱なら盛綱をこうしたい、とかいうようなことが一方にある。また一方、それじゃなくてね、創るっていうこと。俺がはじめて創るんだ、っていうこと。それがこっちだと思うんだね。

―――だからたとえば、賞をいただいたとしましょうか。『鏡獅子』で賞をいただいたときがありますよね。ありがとうございます、勉強さしていただいて、というコメントが本当に言えますけど、たとえばこっちの『研辰』でもらったときはね、やったぜ、ですよ。だから全然違う。スポーツマンが優勝したとかなんとかってシャンパンかける、あの感じ。あっちの、『鏡獅子』で賞をいただいてシャンパンかけたりしたら、あいつ気が狂ったか、何だ、あんなものぐらいでって言われちゃう。あっちはもっともっと、死ぬまで勉強っていう世界。本当の意味でね。あっちがなければ、こっちもないですよ。だけども、こっちのこれは、お前、考えつかなかっただろうよって言えますよね。

―――ね、やっぱりやるべきだよ、生きてるんだから。せっかく、昭和三十年に生まれて、死ぬのは平成だか、その次の何かになるかわからないけど、とにかく何十年生きた中でね、これやったの俺だけだよ、俺が一番最初にやったんだよっていうことは、子供たちにも自慢できるかな、っていうこと。あっちは自慢はできないよ、すごい先輩がいっぱいいるから。けど、こっちのばかりは、ニューヨークで英語で『法界坊』やったら、ざまあ見ろ、やれるもんならやってみろっていう風なね。うん、それが生きてるっていうことじゃないかなって思うんだよね。

―――それからもうひとつ。野田秀樹って、現代(いま)の作家だよね。野田秀樹って俺の友達だけど、あれ才能あるよっていう、そういう二人で握手して始めた仕事だっていうことですね。彼の、あれちょっといい文だから見てください。今度の『研辰』の映画のパンフレットに彼が書いたの。すごくいいこと書いてるんです。自分でこわかったって。犯罪者のような心境だって。それ、すごくわかる。やっていいものか悪いのか。あっちはさあ、おこられないですよ。どれだけ掘り下げたかってわかってくれるでしょ? 歌舞伎が好きな人ならば。けど、こっちをやる初日は、もう吉と出るか凶と出るか。しないでじらしてされるがじらしい、ってやるんだもん、歌舞伎座の舞台で。犯罪者の共犯ですよ。でもそういう人が、同世代にいたってことがラッキーですよね。それから串田さんも。同世代にいた。どうせだったら生きてる間に、いま出来ることをやりたいじゃない。この間のあんな、(渡辺)えり子の『舌きり雀』。あれだって何十年かたったら馬鹿馬鹿しくて笑って見られる日が来る。やらないよりやった方がいいだろう、っていう、それなんですね。

―――両方やるっていうこと。まあ、つっ込んでいったらそういうことですね。こんなこと、あまり言ってないですからね、どこにも。外国人がよくやるでしょ、イエーイっていう世界。あれあっちでやったらみんなに総スカンだよ、そんなことやったら。でもこっち側だったら、それも許してもらえるんじゃないか。許されなかったら、それならいいよ、っていう風なことですね。だって俺たちだけでやったんだもん、しょうがないよ、これからだよっていうこと。それにね、若手の、菊之助だとかが、こういう動きを利用するんじゃないけど、こういうのもあるんだよっていう、いろんな動きになってきたことは、ある意味、いいことだと思います。ただ、子供たちにもよく言うんだけど、あっちを忘れちゃあ絶対駄目だよと。こっちだけに走っちゃ、歌舞伎はもうただ駄目になっちゃうよっていうことですね。

―――だからこれからも、そういう作品もあって、中幕にちゃんとした踊りがあって、古典があるっていうのを作っていきますよ。歌舞伎ってなんだい、いろんな歌舞伎があるんだなっていう風なことを、身をもってやっていきたいですねえ。だからこの前の襲名で『研辰』をやったときも、玉三郎さんに『鷺娘』を踊ってほしいって言ったの。『鷺娘』を見る人にも『研辰』を見せたいし。最初に菊五郎さんの『四の切』の狐があって、ちょっと重たかったけどね、でもああいうものがあって『鷺娘』があって『研辰』があるっていうと、オイ、歌舞伎ってなんだい、いろんなのがあるんだねっていう風にしたいのよ。歌舞伎ってやっぱりいいものですからね。わけのわかんないもんだなんて言われると悔しくてしょうがないのよ。『研辰』を見てわけわかんないなんていったら、日本人じゃないよって言えるじゃない。

―――歌舞伎を変えたいなんて死んでも思いません。罰が当たります、そんなことは。変えません。このままでいいです。けれどそこにひとつ、こういうのが出来るとね。黙らせたいんだよ、歌舞伎をつまんないなんて言ったり、わけわからないとか言う人種を。それならこういうのがありますよっていうのをやる。だってわけわかんないのが一杯あるんだから。それは勉強すりゃあいいんだから。でもそればっかり言ってるとね、歌舞伎って長いんだろって言われた時に、ううん、違うのもあるよって言って、鼠の上に乗って宙乗りするわけよ。それだけじゃあ駄目だから、ということね。それなんですよ。

―――だから狂言立てにもこだわるし、こないだの『ふるあめりかに袖はぬらさじ』も、玉さんがお礼を言ってくれた。あんたが出るように言ってくれたからみんな出たって。当り前だよって言ったの。あれをやるかやらないかということにも論議があった。けどね、いいじゃないですか。そんなもの歌舞伎にしちゃえばいいんだと。それで全員出た方がいいって言ったの。そういうことをするとお客さんは喜んでくれるんですよ。と、思うなあ。こういうことが、これから先もずーっと思い続けていきたいことかなあ。

随談第507回 勘三郎随想(その32)修正版

41.「み」の章

さっきもちょっと言ったが、勘三郎と仕事をする上での串田和美の姿勢は、歌舞伎をも普通一般の演劇と同等のスタンスで取り扱おうという一点にあったように、私には見える。もちろん、良識家である串田が、歌舞伎への配慮を持たないわけではないし、歌舞伎のもつある種の特殊性を思わないわけでもない。むしろそうであればこそ、他ならぬ勘三郎の側から接近して来ての提携であるならば、新劇人としてこれまで歩んできたそのスタンスで歌舞伎にも対しようとすることは、当然の判断であるともいえる。そうでなければ、自分が歌舞伎に関わる意味がないし、そもそも勘三郎の方から求めてくる理由もない。その一点以外に串田が歌舞伎に関わる方法も意義もないといってもいい。その一点をはずせば、それは門外漢のお道楽と異なるところはなくなってしまうに違いないし、そもそも串田にそんな趣味も興味もないだろう。

歌舞伎を敢えて特別視せず、普通一般の演劇と同等のスタンスで扱おうとするとき、串田が何よりも拠って立つところは、脚本の読み以外にはないだろう。脚本を独立したひとつの作品として白紙の状態で読もうとするとき、おそらく串田を一番苛立たせるのは、「仁」とか「役柄」とか「型」とかいう、歌舞伎独特のコンヴェンションが介在してくることであるのは、容易に想像がつく。

和尚吉三でも薩摩源五兵衛でも直助権兵衛でも、また団七九郎兵衛でも、まず脚本があって、それと向かい合う演出家なり役者なりがいる。演出家と役者は、立場も役割も違うが、脚本と直接に向かい合うべきものであることに変わりはない。それが、新劇人串田にとっての常識であるだろう。だが歌舞伎を相手にすると、仁とか役柄とか型とかいう「不純物」がその中間に介在してくる。中にはそれを絶対視して、それなくして歌舞伎は成立せず、それを無視した演出は認めがたいという論者も出てくる。

「歌舞伎というものは、そういう過激に思える筋立てでも、いいの、いいの、歌舞伎なんだからこういうものなの!と、なんだか強引に思わせてしまう力があるんだね。変な疑問を持つほうが間違っているような。ストーリーを知っている観客は、なおさらそんな疑問を持とうとしない。これはかなりもったいないことだと思う。芝居にとっても、観客にとっても。僕のこの場の演出意図としては、出来るだけそういう素直な疑問を誘発することだったと思う」と串田が書いているのは、『三人吉三』の大川端庚申塚の場、お嬢・お坊・和尚の三人の吉三郎が出会う場面の演出についての文章の一節だが、もちろん、串田のこのスタンスの取り方は『三人吉三』だけに限ったことではない。というより、結局はこの一点にあるといっても、決して強引な要約ではないだろう。ストーリーとここで串田が言うのは、もちろん直接的には話の筋のことであり、ここの件の文脈に沿って言っていることだが、文脈をもっと大きく取れば、「仁」や「型」や「役柄」という歌舞伎のコンヴェンションとしての、いわゆる「約束事」のことだと考えて差し支えない。

「かなりもったいないこと」と串田が言う意味は、歌舞伎に興味はあるが深くは馴染んでいない、現代の普通の、知的興味も知識教養も持ち合わせている人々に取っては、非常にわかりやすい言い方であるに違いない。歌舞伎に興味を感じて歌舞伎座の舞台を覗いてみると、それなりに面白くも興味をそそられもするが、それ以上に、何だかよく分からないいろいろなことに遭遇する。「いいの、いいの、歌舞伎なんだからこういうものなの!となんだか強引に思わせてしまう力」を受け容れてそれなりに納得できた者は、歌舞伎ファンとしての「狭き門」を潜り抜けることができるが、受け容れられなかった者は、「狭き門」に阻まれた縁なき衆生としてさ迷うこととなる。

歌舞伎に対するこの串田のスタンスの取り方は、かつて夏目漱石が自分の小説の読者を、「文壇の路地裏を覗いたことのない尋常普通の教養のある人士」と言ったスタンスの取り方を思い出させる。つまり漱石は、文壇の事情通になる気はないが、尋常普通の人間としての興味を満足させてくれる文学には関心のある読者に向けて、小説を書いたのである。漱石のいう「文壇」を「歌舞伎」と置きかえてみれば、スタンスの取り方という一点においては、漱石も串田和美も変わりはないことがわかる。

歌舞伎に通じている者が、中村勘三郎とか尾上菊五郎と姓名で呼ばずに、勘三郎とか菊五郎というふうに名だけで呼んだり、中村屋とか音羽屋と「屋号」を代名詞のようにして呼ぶことすら、「歌舞伎界の路地裏を覗いたことのない尋常普通」の現代人から見れば、内々の者同士だけで通じる合言葉のように聞こえる。まして、「六代目」だの「十七代目」だのということになれば、ほとんど暗号も同然だろう。そういった、歌舞伎の「外郭」に属する事柄からはじまって、ストーリーの展開や登場人物のキャラクターの有り様といった芝居そのものに関することまで、「強引な力」を受け容れて狭き門をくぐることは、フリーメーソンの結社に入会することにも似た「秘儀」のようにも見える。(実はこれに類する現象は、どこの社会、どこの業界にもある筈なのだが、「梨園」とか「相撲界」とかいった世界のこととなると、ことさらに「特殊」なものとして見るという構図が出来上がっているのも、本当は考えてみるべき問題に違いない。)

いま書店の棚には歌舞伎の入門書や解説書が呆れるばかりにあふれているが、その秘儀を通過すればいかにすばらしい世界が開けているかを説いたかに見えて、ではどうすればそこへ行き着けるのかを説くことに成功したものはない。なぜなら、世のすべての入門書や解説書がそうであるごとく、その著者は既に秘儀を通過した者ばかりであるからで、狭き門の内側のことは巧みに説明してあるが、肝心の、如何にすれば狭き門を通り抜けられるかについては書いていない。曰く言いがたいことは書きようがないからである。こうして、世にあるかぎりの歌舞伎解説書や入門書は、神父・牧師や信者の説く宗教の入門書に似てくる。すでに神を信じている者が、信じていない者に向かって、いかに神の栄光を説いても無効なのと同じである。

串田の言う「かなりもったいないこと」とは、歌舞伎という狭き門の中を覗いてはみたが、中に入ろうという誘惑には捕われなかった者の視点で見た、門の中の様子を評した言である。歌舞伎を約束事というコンヴェンションから解体して、尋常一般の戯曲として見た者の言といってもいい。これまで串田が幾多の戯曲を読み、俳優としても演じ、演出者として演出してきた、そういう視点で歌舞伎を見るとき、歌舞伎のコンヴェンションが捉えていない、あるいは取り落としたりはじめから目を向けていない、いろいろなことが目に映る。

なぜ歌舞伎では、こうは演じず、ああ演じるのか? なぜ、ああ演じれば歌舞伎で、こう演じれば歌舞伎でないのか? なぜ、こう演じればおもしろいと自分は思うのに、ああ演じないと歌舞伎好きはいいと認めないのか? それにもかかわらず、ああ演じる歌舞伎をわからないと言う者も世の中にはたくさんいるではないか? それはなぜか?

串田は言う。三人吉三のような、本来なら、社会からはじき出されたちっぽけな悪党でしかない、愚かしくも切ない、そのままでは見ていられないような存在でも、歌舞伎という様式で演じられると、深く受け入れられる。興味深く鑑賞することが出来る。カッコいいと感じる。この場合カッコいいとは、何か心に響くものがある、いま生きている自分にとって無関係でない、心を揺さぶられる何ものかを感じるということである。そういう意味で、歌舞伎はこの世の醜悪なものやグロテスクなもの、奇怪なもの、見るに堪えないほど惨めなもの、みっともないものを、カッコよく見せてしまう力を持っている、と。だから歌舞伎とはつくづく凄い芸能だなと思う、とも言う。

『三人吉三』の序幕「大川端庚申塚」の場は、通常、三人のスター役者が動く錦絵のように見せる黙阿弥様式美の華と考えられている。百両包みを奪ったお嬢吉三が「月も朧に白魚の篝火(かがり)も霞む春の空」と謳いあげる七五調の名セリフは、いまでも歌舞伎好きが宴会の余興に声色でやってみせる、おそらく歌舞伎のセリフのなかでも最もよく知られたものだろうし、まったくの初心の観客がこれを見せられれば、なるほど歌舞伎を見たと実感して満足するに違いない。つまり不特定多数が抱く歌舞伎イメージの典型といってもいい。本来は、長丁場の世話狂言の発端の場面であるにもかかわらず、今日でも、この場だけを短い一幕物のように上演することも絶えないのは、そのためであるだろう。

実際には、作者の黙阿弥から数えて四代目に当る河竹家当主の河竹登志夫氏が、後に展開する陰惨なドラマの序章としての極彩色の口絵にたとえたように、観客は様式美の中にあとに続くドラマを予感しながら見ているわけで、決して単なる様式美だけを鑑賞しているのではない。その様式にしても、お嬢吉三は女形、お坊吉三は二枚目、和尚吉三は実事の座頭役者と、それぞれの役柄にはまった仁の中にも、それぞれの役の背負った宿命的な人生や性格を反映して、ひと筋縄ではいかない複雑微妙なニュアンスが掛け合わされることになる。そういう感覚のおもしろさは、歌舞伎に通暁している観客でなければわからないというものでもないだろう。

だがその一方で、こういうこともある。現行の「大川端庚申塚」の場が、独立した一幕物の人気狂言のように頻繁に上演されるようになったのは、おそらく、大正以降、十五世市村羽左衛門という天性の二枚目役者が加役で演じたお嬢吉三が極めつけの名物のように見做されるようになって以後、慣行となったことで、それとともに、現在「型」となっている演出が固定されたものと考えられる。その演出は、少なくとも、幕末の安政七年正月に(つまり、それから間もない雛の節句の日に井伊大老が桜田門外で暗殺されたあの年の正月である)初演されたときとは、かなり違うものになっているはずで、簡単に言えば、下座を多用し、様式化が進んだに相違ないことは容易に想像がつく。すなわち、現行の歌舞伎で普通に演じられている『三人吉三』大川端庚申塚の場は、大正・昭和以降の近代の歌舞伎が作り変えたものなのだ。もちろんそれは、大正・昭和の観客に愛され、支持されたからこそ、そうなったのであり、その意味で、現行の演出は大正・昭和の観客が作ったのだともいえる。

だが、時の経過とともに、はじめは、この場がじつは以後に続く長いドラマの発端の一幕であることを役者も観客も周知であることを前提として演じられたものが、やがて、後のドラマを知らない者が多数を占める客席の前で演じられるようになる、という事態が生じてくる。そうした客席から舞台に投げかけられる眼差しの変化は、いきおい、演じる側にもある変化を及ぼさずにはおかなくなる。万人が共有していたひとつの仕草、ひとつの行為の持つ意味は、リアルな実感を失い始めるのとともに、様式として受けとめられるようになる。見る者だけでなく、演じる者にでさえも。様式化が進めば、やがて仕草の一挙手一投足は踊りの所作に近づいてゆく。そこには、歌舞伎の様式というものを考えるとき、見落とすべきではない鍵がひそんでいる。絶対普遍のように思われがちな様式も、じつは、その時どきの観客との関係のなかで作られ、変容しているのだということである。(この項つづく)

随談第506回 勘三郎随想(その31)

(勘三郎随想を再開します)

39.「ゆ」の章

十八代目を襲名する一年十カ月に及ぶ興行のなかで、勘三郎は、『髪結新三』や『娘道成寺』のような勘三郎の現在の頂点を示すいわば代表作から、『野田版・研辰の討たれ』まで、勘三郎はさまざまな演目、さまざまな役を演じたが、そこにひと筋、読み取れるのは、安定よりも実験や挑戦といった意志的な姿勢だった。『研辰』のような、物議を醸しそうなものを敢えて襲名披露の作品として掛けるというのももちろんその表れだが、代表作の『娘道成寺』のようなものでも、単に自信のある当り役を披露するというより、いまこの時の『道成寺』を、という果敢な姿勢で貫かれていた。そうした中でわたしがオヤと思ったのは、初役の『盛綱陣屋』の佐々木盛綱を、それも最初の月に演じたことである。

『盛綱陣屋』は、勘三郎自身、超弩級といっているように、いわゆる丸本時代物のなかでも長大で、ともすると難解になりがちな大作である。勘三郎としても、以前一日だけの「勘九郎の会」で試演をしただけで、本興行では演じたことがない。盛綱は、類型としては白塗りで生締の鬘の捌き役のようだが、そうした役の代表である『実盛物語』の斉藤実盛などと違って、もっと深刻で重々しい役のように演じられることが多い。父の十七代目も、二度、演じているが、正直なところ、かなり悪戦苦闘していたような記憶として残っている。もちろん、六代目菊五郎の系統の役ではなく、兄の初代吉右衛門の当り役であり、十七代目としてもかなり後年になってから取り組んだのだった。

盛綱というと、首実検の場面で長い時間をかけていろいろな思い入れをするのが、普通、眼目とされている。総大将の北条時政の前で、兄弟敵味方に分かれて戦っている弟の佐々木高綱の生首を実検するのだが、それが偽首なので、その意味を読み解こうとする。その推理の過程とそれに伴って刻々に変転する心境を、思い入れとして演じるのだが、そこで、誰それの演じる盛綱は七分かかった、誰それはもっと長かった、などということが話題になったりする。現に私も、たまたま近い席にいたさる高名な批評家が、その場面になると時計を出して計っているのを目撃したことがある。

たしかに、推理小説のように込み入ったストーリイが背後にあるには違いない。高綱は、作者が大坂の陣の折の豊臣方の参謀真田幸村にひそかに擬して書いた敵方の智将である。どんな謀(はかりごと)をめぐらしているかわからない。討死をしたという高綱の首というのは、ひと目で偽と分かる粗末な首だし、生け捕りにしたその子の、盛綱にとっては甥の小四郎の様子も曰くありげに見える。一方で、当然、肉親としての感情もある。兄弟にとっての老いた母、捕らわれたわが子の様子を窺いに来た弟の嫁もいる。といった、錯綜したドラマの綾を、見えすいた偽首の謎を解く一点にしぼりこんだ場面だから、誰の盛綱もここに力を入れて演じるのは当然だ。だがその結果、ともすると、首実検の所要時間が話題になるような、必要以上に物々しい演技になったりすることにもなりがちである。

私は、勘三郎が自分の会で一度試みたのは知っていたが、盛綱に大いなる関心をもっていたことには、迂闊にもつい気がつかずにいた。『熊谷陣屋』の熊谷とか『逆艪』の樋口といった典型的な丸本時代物の線の太い役は、いかに兼ねる役者勘三郎といっても、それこそ柄や仁からいって、なかなか手をつけにくいのはわかる。(父の十七代目も、こうした役は、盛綱もそうだが、手を染めたのは六十歳を過ぎてからだった。)それでも、『寺子屋』の松王丸や『義経千本桜』の知盛などは試みて、相当の成果を収めている。白塗りで生締の鬘という二枚目らしい扮装をする盛綱なら、勘三郎の領域に入っても不思議はないともいえる。

こうした役の中でも、とりわけ印象に強いのは知盛である。平成中村座の二回目の公演で、『千本桜』の三役を一挙に演じたときだったが、この月は国立劇場でも團十郎がやはり『千本桜』で三役をつとめるのと競演になるということがあって、話題を呼んだのだった。

勘三郎としては、三役のなかでは、忠信が白塗りの二枚目の役でもあり、すでに何度もつとめている。私は以前に、現代の第一線の十六人を論じた『21世紀の歌舞伎俳優たち』という著書のなかで、勘三郎の忠信を、父の十七代目がかつて演じた「四の切」の忠信と重ね合わせるように、その古風な役者としての資質について書いたことがあった。

十七代目は、何故かそれほど数多くは勤めなかったが、その忠信は、いかにも、狐という人外の者が人間の情に訴えかけることによって、人外の者の世界と人間の世界とが交錯する、民俗の記憶の奥深くに眠っている古い夢でも見ているような忠信だった。それは、『千本桜』という芝居のさらに奥につながっている世界を垣間見させる、幻覚のようでもあった。十八代目には、父のような古風さはない。それは、父と子の、生まれ育った時代の違いであって、如何とも仕方がない。だがそれにもかかわらず、静の打つ鼓の音に誘われて、階段の上にふわりと姿をあらわしただけで、人外という異形の者の実感を漂わせている。こんな忠信は、年長の世代をも含めて、現代という世に他にはいない。すでに何度も他の例にふれて言った、二代にわたる勘三郎の血のなせるわざとしか言い様がない。

同時に、その終局、化かされのくだりを僧兵を出さずにひとりでやってしまい、「飛ぶが如く」に花道を駆け入るまでの一瀉千里の働きは、ほとんど息の継ぎ目というものを感じさせない。その、芸そのもののすさまじいほどの卓抜さと、狐は鼓の子でもあると同時に、巣に待っている子のところへ帰る親でもあるのだという、役の根元にある二重性に勘三郎が見出した役への共感と。忠信は、襲名公演の掉尾を飾る京都南座でも演じたが、細部の演出にはまだ異同の余地は残していたとしても、芸として揺るぎのない段階にまで到達したのは、平成中村座の折だったと思う。

もうひと役の権太は、すでに言ったように、納涼歌舞伎が始まってまもなくに『千本桜』を通しで上演したときに初演している。こうした、一種の敵役から「もどり」になるような、手強さの求められる役は、むしろこの権太などが契機となってわがものとしたものだった。このときの三役のなかでも最も完成度が高かったのもこの役であり、その後、襲名の地方巡演でも演じている。つまりここまでは、勘三郎の役としてすでに不安のないものだったが、知盛は、常識的には、英雄役者と呼ばれるようなタイプの役者のつとめる役と思われていたから、勘三郎にはどうかと危ぶむ声が上がっても不思議はなかった。だがそれは、見事な知盛であった。単に演技の良し悪しではない。忠信もそうであったように、勘三郎は定式にとらわれず、独自の読み、独自の工夫を試みていた。

「渡海屋」で登場する時、傘をさして出るのが現在での通例になっているが、勘三郎はそれを破って、碇をかついで出るという、錦絵に見える古い型を試みた。この場面では渡海屋銀平という町人に身をやつしていた知盛は、やがて「大物浦」で碇綱を体に巻きつけて断崖から身を投げ、壮絶な死を遂げる。碇という小道具の果たしているシンボリックな意味と役割を考え抜いたこの「型」によって、登場と終局が見事に呼応し、知盛の悲劇は首尾一貫する。古い型の復活は、単なる珍しい試みではなく、実験がすなわち発見に通じたのだ。

渡海屋の銀平が、真(ま)綱(づな)の銀平という異名で呼ばれている意味も、これであきらかになる。傘をさして登場する現在の通例は、それなりの意味も効果もあったればこそ、誰かが始め、踏襲されてきたのだろうが、こうしてみると、碇にこめられていた意味を、半ばあいまいにしていたのだということもわかる。それより何より、大詰の知盛入水の悲劇は、こうすることによって一層凄まじくなった。

この成功は、また同時に、知盛という役が、柄の大きな英雄タイプの役者でなければならないという固定観念も、破ったことになる。平成中村座という空間も、成功のひとつの理由として挙げられるかもしれない。そうだとすれば、それこそ、勘三郎がこの新しい空間を作ってそこで新しい活動を始めた、「劇場論」そのものが意味を問うたことになるはずである。

こうして、平成中村座で試みた『義経千本桜』三役完演は、とりわけ知盛の成功によって、勘三郎個人の芸の上のことだけでなく、さまざまな意味を問いかけることになった。ただ惜しむべきは、平成中村座というと、『法界坊』の串田和美の演出による破天荒な演出や、『夏祭浪花鑑』のニューヨーク公演のような目覚しい活動とばかり結びつけて語られがちで、『千本桜』のことは忘れられがちなことである。それはさておいていま勘三郎個人の芸のことだけに話を限っても、この知盛の成功が、のちの襲名公演の盛綱につながるもののように、私には見えるのだ。

襲名披露での勘三郎の盛綱は、これまで見慣れた、いわゆる英雄役者風なイメージからすると、少々違和感を覚えた人もあったらしい。そういった観点から、役違いというような批評の声も耳にした。しかし勘三郎は、そういう風には盛綱という役を考えていないのではないかというのが、実際に舞台を見て、私のまず思ったことだった。戯曲『盛綱陣屋』はたしかに丸本時代物のなかでも有数の大曲だが、だからといって主人公佐々木盛綱という役まで、重々しい英雄風に演じなければならないといういわれはない。勘三郎の演じ出した盛綱は、一貫して情の表出にたけた「情の人」だった。

いったい、盛綱という人は、優柔なまでにあれを思い、これを思い、つねに心中が揺れている。はじめの方で、母親の微妙を説得するのに母の膝にて手を掛けて訴えかけるところがある。ここは、子供に帰って母にせがむ、と昔から役の心得として説かれているところだが、勘三郎が本当にそのとおりに情感を流露させているのを見て、わたしはアッと思った。こういうところは、いわゆる英雄役者風の俳優ほど、とかく照れて内輪にすませようとするのだが、勘三郎を見ていると、子供の心に返るという口伝は決して単なる比喩ではない。その心に返って、盛綱という難役の鍵ははじめて開くのだ。

首実検で一番印象的だったのは、まず偽首を見てオヤと目を見やり、同時に腹を切った甥の小四郎が必死の目でこちらを見ているのに気づいて、ム、と思いを深める、その心の綾が手に取るように見えたことである。そこではじめて、勘三郎の盛綱は笑う。それも、思わず笑ってしまったという感じ。つまりこのときに、盛綱はすべてを察したのだ。弟の高綱が、ひと目で偽とわかるような首をわが首といって討たせ、幼い倅の小四郎にその首を見て「父上」と叫ばせるばかりか腹まで切らせるという、手の込んだたくらみを兄の自分に仕掛けてきた意味を。おそるべき策略家でありながら、すべてを兄である盛綱に預けてしまう弟という存在のぬけぬけとした態度。そうしたすべてを読み取って、いわば高綱がこちらのコートに打ち込んできた球を、盛綱は、自分の一身を賭けて、主君である北条時政を裏切り、高綱の思う壺のとおりに相手のコートへ打ち返してやる。知的でヒューマンな盛綱だが、勘三郎だと、首実検は知的な推理というより、情の急所を感じ取ってすべてを受け取ったという感が深くなる。場面には登場しない高綱の、凄惨でややグロテスクなイメージが、むしろ、ジェントルマンである兄に対する、幾分目かの甘えをも含んだ、弟の「いけずさ」という人間味を帯びて感じられてくる。

首実検がすんで時政が帰ったあと、しばし黙然としているのは、誰の盛綱でもすることだが、勘三郎の盛綱は、しばらくまだ心が揺れているかのようにも見える。極限状況にあってなお、やわらかな心の働きを失わない人、その人柄のなつかしさ、とその折の劇評にわたしは書いたのだったが、そのとき改めて思ったのは、生締の鬘に白塗りという扮装の、「和実」という、実事に和事味を掛け合わせた役としてこの盛綱という役を造形した古人の知恵の深さだった。同時に、襲名披露という大事のときに盛綱を演じようと考えた勘三郎の気持が、なにがなし、わかったような気がした。

同時に、もうひとつ思ったのは、同じ生締に白塗りの捌き役でも、柄が優先する実盛などよりむしろ、盛綱の方が、勘三郎にふさわしい役だったということである。思えば当然のことだが、私が勘三郎を理解していた以上に、勘三郎は自分をよく知っていたわけである。

若き日の、前髪のついた若衆の役からはじまって、幹を伸ばし、枝を張り、葉を繁らせてきた勘三郎は、歌舞伎俳優として役柄の領域を大きく、多彩に広げたことになる。だがじつは、多彩にさまざまな役をやっているように見えて、勘三郎には、まだ手掛けていない役がいろいろある。

役の上のことばかりではない。勘三郎はまだまだ戦い半ばであって、むしろ、これまでになしてきたことよりも、これからすべきこと、しなければならないことの方を、より多く持っているのである。

それにしても、勘三郎の盛綱を平成中村座で見たかったと、いま、痛切に思うことである。

 
40.「め」の章 (談話・「盛綱陣屋」について)

―――盛綱という役について? いや、特別な思い入れみたいなものは別にないです。ただ襲名の演目として出したのは、いろんな役が出てくるからいろんな方に出ていただけるということと、やっぱりああいう超弩級の軍艦みたいな大曲をやらしていただきたかったということはありました。

―――それと、盛綱って好きなんですよね、あれ。盛綱って長男のいい人だなあっていう気がするの。ぼくの解釈ですよ。二男てさあ、ずるいじゃない。だから佐々木高綱は、あんなもう悪い奴で・・・。あの長男の感じ。勘三郎にならしてもらって、それ、やっときたいなって、ふと思ったんです。

―――首実検でふっと首を見たときに、普通はね、やりゃあがったなって笑えっていうんだけど、それがいまの普通のやり方で、いまもいろんな方がそうやるけど、そうじゃないと思う。あれ、間違いだと思うんですよ。やりゃあがったな、じゃないですよ。長男ってそんなこと思わないですもの。

―――なあんでだ?ってことでしょ。ええっ?って、盛綱は思ったんだ。これ、この首、ひと目見たら偽だってわかるよ。なら、なんでこんなことしたんだろ? え? 待てよ。何でそれなのに、この子は腹切って死んでんだ? で、見るとその子が、おじさん、言わないでって顔してる。そこで笑えるんですよ、はじめて。やりゃあがったなーっ、て。

―――だって、絶対そうだと思いません? やりゃあがったなって笑うじゃない、みんな。で、何分かかったとか。かかってもいいんですよ。それが、何故それだけかかんのか、わかんないんだもの。盛綱っていい人だから、あの人の中にはないもんね、そんなこと。なーんで? こんなこと嘘だって、俺、言っちゃうよ。ちょっとやめてくれよ。こんなことまでするのかよぉ、ばっか野郎、しょうがねえ嘘ついてやろう、って考える。いい人なんですよ、盛綱って。

―――しょうがない。どうしよう。あとはもう、時政に首は本物だって言って、その代わり俺も死のう、っていう瞬間がね、大好きなの。この心理。これをね、やらない盛綱は、ぼくは本当は打ち殺してやりたいんだよ。これからこの役、何回もぼくはやります。これから先。

―――だって、むかし歌右衛門のおじさんに『鳴神』の絶間おそわったとき、(声色で)「不思議なことなあ」と言えと、心がなければ駄目だと言われてきたのに。何が古典だと言いたい。心よりも、貫録とか、セリフ廻しとか、それでごまかされるっていう気がする。いやなの。そこにドラマがなければ。

―――ぼくはどんなことがあっても、これから先、勉強していくのは、ドラマ性を古典の大曲には持ってゆきたい。それから世話物は、日常の感じをどこに持っていくか。いわゆるリアル、であり歌舞伎である。逆に言うと、時代物は世話にやれっていうのはね、そこだと思うんですよ。世話は時代にやれってのもそこなんですよ。そこがね、これからの課題だなあ。かといって理屈っぽく、神経質にやっちゃいけないんですよ。肚だからね。肚でやりたい。その第一歩だったんだ、この盛綱はね。

随談第505回 今月の舞台から

歌舞伎座が再開場して以来の当代の第一線級諸優の気の入れようは見事なものと言っていいが、今月の『忠臣蔵』の通しでも、判官と勘平の菊五郎にせよ、三・七段目の大星の吉右衛門にせよ、充実した舞台ぶりは大したものだ。どれも、これまで何度見たか知れないほどだが、今度ほど、びしりとした質感と量感でこちらの胸に迫ってきたことはない。

今月に限らない。別に縁起でもないことを言うのではなく、先月の『千本桜』にせよ、こういう顔ぶれを揃えての通し上演というのは、もう二度と叶わないかも知れないという思いは、言わず語らず、誰の胸にもあるだろう。当然、それは次代の歌舞伎に向けての思いにも通じているわけで、四月以来、そうした舞台がずっと続いているのは偉とするに値する。

仁左衛門の休演はそうした意味から言っても残念だが、そのあおりの配役変更で吉右衛門の師直が見られないことになったのは残念至極というほかはない。これは近い内に是非見ておきたい。次の機会を心から待つ。同じく、かなり前から折に触れ言ってきたことだが、菊五郎の七段目の由良之助というものを見てみたいものと、私は前から念願している。この二人二役、何卒、実現されむことを祈るものだ。

梅玉にしても、先月の『千本桜』の義経についても言ったことだが、この人がいまの歌舞伎界に占めているポジションと、それを踏まえてのこの人の在り方というものは絶妙なところにある。若狭之助、「道行」の勘平、平右衛門という今月の三役にしても、まさしくそのスタンスが有効に働いている。個々に言うなら、たとえば若狭助は、本来この人は判官役者であろうから、もうちょっとべりべりしてもいいのではないか、とか、言い出せばないわけではないが、しかし平右衛門など、通常のイメージにある平右衛門とは別の、しかし情味があって、ユニークなよきものだった。七段目の情趣を醸成する上からも、これあるかなと思わせる。本来なら平右衛門は仁左衛門のピンチヒッターだが、それはそれとして、この平右衛門を私は興味深く見た。

大序の左団次の師直の人形身でいる時の風格というものはなかなかのものである。思えば東京オリンピックのさなか、東横ホールで二十歳を過ぎたばかりの菊五郎の判官を相手につとめて以来、幾度つとめたかもしれない師直だが、男も錆びたり、という感慨なきを得ない。もっとも、今回は本来代役だから、四段目になって石堂で出てくると、さっきまで判官をいじめていたのがまたすぐ、別の役とはいえまた判官の前に出てくるのは、妙な感じは避けられない。いまでこそ石堂で納まっているが、かつては薬師寺で鳴らした左団次だけになおさらだ。

その薬師寺を歌六がやっていて、顔も思い切って赤く塗って、仕草もセリフも赤っ面のイキでべりべりやっていいのだが、しかし当節の四段目の中でだと、ちょっと浮いているように受け取る向きもありはしまいかという危惧も覚える。この辺が難しいところ。それと、アア、この人の石堂を見たいなと、出てきた瞬間、正直、思った。前に『輝虎配膳』の直江兼続を見て以来、実は私は、この人に勘彌の再来を期待しているのである。

芝雀の顔世は立派である。立派といっても大々しくなく、慎み深くありながら、すべてはこの人に始まるという人物の格を備えている。何度も言うように、打者なら打撃ベストテンの常連、投手なら防御率で首位を常に争っているといった人である。先っ走りをするつもりはないが、いまが芸の上での旬、雀右衛門襲名を実現すべきだと思う。それこそ、するなら今でしょ、だ。

六段目が時蔵のおかる、東蔵のおかや、魁春のお才に團蔵の源六、又五郎の千崎に左団次の数右衛門と揃ったチームワークが、菊五郎の気持ちを一層昂揚させたと見ることも出来る。とにかく、所見日の菊五郎の集中力とその持続力は大変なものだった。同じことは七段目についても、梅玉の平右衛門と福助のおかるがよき兄と妹であったことが、吉右衛門のやる気を奮い立たせたともいえる。七段目というのは、上手く行った場合は私が『仮名手本』で一番好きな場面で、秋も闌けた夜長、見る側も快い疲労を覚えながら、廓の風情のなかで展開してゆく芝居の運びに心を委ねながら見る快さは、他に変え難い。『仮名手本』という芝居は女形連中が四段目の腰元か七段目の仲居で出るしかないのが珠に瑕だが、どちらもなかなか悪くない。いちいち名前は挙げないが、いまこのクラスの女形連中は、相当、粒が揃っているのではあるまいか。姉さん株ばかりでなく、新しい顔もかなり増えたようだ。

ここに鷹之資が力弥で登場する。まるまるとして、富十郎のかつてのそのままであるかのようだ。橘三郎と松之助が幹部昇進で九太夫と伴内で出るが、とりわけこの場の九太夫というのも七段目の雰囲気醸成のためには大切な役で、大星と出会って「差しおれ飲むわ」「飲みおれ差すわ」という辺りのやりとりで、大星役者にひどく位負けしてしまうような九太夫ではつまらない。橘三郎はやや硬質だが、品のありそうなのが悪くない。

伴内といえば「道行」の伴内を團蔵がやっているが、ずいぶんと軽みが出てきて、これも年の功というものだろう。対照的に、大序の七之助の直義のやや硬質の感覚が、大序で第一声を放つというこの役の本来に適っていて、なかなかよかった。

          ***

国立劇場は劇場として三度目の『伊賀越道中双六』の通しだが、坂田藤十郎のための企画となれば、「沼津」を芯にした今度のような立て方にするより仕方あるまい。それにしても息子の翫雀と親子逆転の平作と十兵衛というのも前代未聞だろうし、扇雀のお米も合わせ親子三人水入らずの「沼津」というのもたぶん前例がないだろう。(できそうな一家といえば、三代目歌六、初代吉右衛門、三代目時蔵というファミリーがあるが、どうだろう? 国立劇場の上演資料集をざっと当ってみた限りでは、やっていなさそうだが。いずれにせよ、古い話だ。)

それぞれに健闘して相当の「沼津」だったが、元々の癖に加え、年の功で融通無碍になったせいか、藤十郎のウッとかウォッとかいう間投詞があまりたくさんで、間投詞の海に漂うかのように、どこまでが捨て台詞でどこからが本当のセリフなのかわからないほどなのは、関西役者の常とはいえ、ちと考え物ではあるまいか。

「沼津」をサンドイッチにしての「行家殺し」「饅頭娘」「奉書試合」から「敵討」の、つまり唐木政右衛門の部分はあっさりというか簡にして要を得たというか。もっともこういう立て方というのは、以前はまま見られたもので、昭和三八年暮の歌舞伎座で、勘彌が政右衛門に十兵衛、延若が平作と股五郎、雀右衛門がお米、当時扇雀の藤十郎が大内記、門之助が志津馬といった配役で「奉書試合」と「仇討」を「沼津」の前後につけたのなど、腕達者が寄り集まっての小体で気の利いた上演だったと、いま思い出しても懐かしい。

その伝から言えば橋之助が勘彌張りに政右衛門と十兵衛をやることになるわけだが、いずれそういうことがあってもいい筈である。それはともかく、こういう橋之助を見ていると、柄はよし役者ぶりはよし、とりわけ時代物役者としてこれほど条件の揃った役者というのはそうざらにはいないと、つくづく思わされる。あと、何が足りないか。考えるべきはそこだろう。

ここでも、宇佐美五右衛門をやる彦三郎がなかなかいい味を見せる。これも年の功か。お父さんも年を取ってから重い鎧を脱いだかのように滋味ある芝居を見せるようになったが、彦三郎もそうなってくれると嬉しいことだ。万次郎はいまや自在の境に入った如くだし、孝太郎のお谷も、ああこれは「岡崎」につなげたいなと思わせるだけのものがあった。亀鶴の孫八にしても、唯一、「沼津」と両方に出る役としての存在感があったし、市蔵にせよ亀蔵にせよ、国立劇場の芝居として、派手さはなくともそれなりの実質はあったということができよう。

とさて、国立劇場として後なすべきことは、昭和45年以来すでに43年間、上演を絶っている「岡崎」上演を実現することだ。團十郎が関心を示していたそうだが、いまならまだ吉右衛門の幸兵衛と仁左衛門の政右衛門で出来る筈である。45年の上演の時、仁左衛門は股五郎で、我当と秀太郎も志津馬と幸兵衛娘お袖で出演している。経験者はまだ健在なのだ。

          ***

明治座が年に二回、歌舞伎を掛けようというので、五月の染五郎・愛之助・勘九郎・七之助という花形歌舞伎に続いて、今度もタイトルは同じ花形歌舞伎だが、獅童に松也、それに市川右近、笑也、笑三郎、春猿等々と一座を組んでの興行だ。企画としては人気と知名度の高い獅童を中心に、松也を売出し、猿翁一門で固めようという陣容だろう。獅童が自分の出し物として『瞼の母』に『毛抜』、右近が『鳴神』に『連獅子』、その上で『権三と助十』で大同団結という構えだが、一日見終わってみると、右近が座頭で獅童が客分という感じに受け取れる。つまり、右近は確実に自分のなすべきことをし、確実に成果を挙げ、確実に点を稼いだが、獅童の方は、一日懸命の働きをしたが、その割には実のある成果を挙げたかどうか? 獅童には少々厳しい言い方になるが、ここは敢えて率直に言っておこう。

今月の獅童の役で私が一番注目したのは『毛抜』だが、これはちょっとウームという感じだ。『毛抜』を選んだのは理解できる。古典とは言っても、十八番物でも明治出来の新しいものだから、取りつきやすいだろうし、あの扮装といい、役柄といい、獅童には合っているかと思われた。しかし、ひとつの仕草から次の仕草へ移る間隙を埋めるのは身についた歌舞伎役者としての素養であり、味であり、感覚であり、といった曰く言い難いものであることが、獅童を見ていると明らかに透けて見えてしまう。これはおそらく、『毛抜』なら『毛抜』だけを猛練習してもどうなるものではなく、いろいろな役に取り組んでこなしていく内に、おのずから身についてゆく、といった性質のものであるはずだ。やはり場数を踏む、ということは伊達ではない。

セリフが、亡くなった團十郎の声色みたいに聞こえるところが随所にあるのは、映像なりテープなりを見て稽古をした影響だろうが、少々お生なのが気になる。教えを受けたり尊敬していたりする先輩に自ずから似るのは自然のことだし、時にはむしろ微笑ましいことでもあるが、要はどれだけ自分のものになっているかであって、そこまで行かなければ、獅童なら獅童自身の魅力となって発酵してこない。

もちろん、よいところもないのではない。スケールの大きさを感じさせる闊達さは、ゆくゆく、演者である獅童自身と役の上の粂寺弾正とがひとつに重なり合って舞台の上に躍動するようになった時、輝きはじめるに違いない。繰り返すが『毛抜』をこのたびの座頭芝居の演目に選んだのは、その意味では決して間違いであったわけではない。

『瞼の母』は、『毛抜』に比べれば、まずまずと言えるだろう。勘三郎の声色みたいに聞こえるセリフが随所にあるのはここでも一緒だが、芝居が芝居だけに、『毛抜』の場合よりはこなれている。役も、勘三郎なり、かつての萬屋錦之介なりを学んで自分と重ねやすいし、仁にも合っている。『権三と助十』の権三も、その意味では、獅童がすでに身に付けているもので、ある程度こなすことが出来る。獅童自身も、ここではかなり自分を取り戻して演じているように見える。私も、くつろぎを取り戻して楽しむことが出来た。

(秀太郎が特別出演のような形で、水熊の女将の役一役で出演しているが、もちろん芸は結構にしても、先の坂田藤十郎ではないがこのひとも、どこからがセリフでどこまでがお喋りなのか判定がつきかねるところがある。上方の役者にはまあることというが、よく言えば自在の境地、悪く言えば芝居が水っぽくなる。

右近が主役として大きな役に取り組むのを見るのは久しぶりのような気がする。それだけに、随分しっかりして大人の役者になったなという印象を強くしながら見た。笑也との『鳴神』は、これを持って各地を巡演してきたというが、なるほど、二人とも充分に自分のものにしている。笑也も、こういう新しい芝居だと、丸本物などだと弱点とされる、女優っぽくなる点だとか、仕草やセリフが固いなどと、とかく指摘されるものが、逆に新鮮な感覚で生きてくる一面がある。右近も、セリフの言い方などあまり大時代にせずテンポも速く進むのが、肥大した感じが無くて快い。かつての大俳優たちで見てきた『鳴神』よりもスケールはひと回り小さいが、かえってそれはそれで、ヘビー級とはまた違った良さが生きている。この『鳴神』を、私は快く見た。

松也を売り出そうというのが、この興行のもうひとつの眼目であったろう。『供奴』を一幕として踊るという破格の厚遇である。素直な踊りで好感が持てるが、『権三と助十』では助十をつとめる。獅童にしても松也にしても、自分たちの責任芝居だという意識と意欲でつとめているのがよくわかる。それがまた、芝居を弾ませている。しかしここでも一番のヒットは右近の家主で、これはちょっと右近に対する認識を改めさせる面白さがある。(瓢げた感じが、何だか加藤武さんみたいな愛嬌がある。)長屋一同に至るまで、出演者全員が力を合わせている感じが気持いい。そうした中で笑三郎の役者ぶりがひと際、大人である。

しかし今度の明治座公演の白眉は、右近が弘太郎と踊る『連獅子』である。踊りの巧い拙いではない。もちろん二人とも良く踊っているのだが、それよりも、アヽ澤瀉屋の『連獅子』というのはこういうものなんだな、ということが、見ていてつくづくと分かった気がした。かつての、初代猿翁と先代段四郎の盛んなころの『連獅子』というものを私は見ていないが、ふたりが闊達に踊る姿に、何故かそれが彷彿されるように思われた。これは、じつは三代目猿之助にも当代猿之助にも、なかったことである。

それにつけても、せっかく年二回の明治座歌舞伎を何とか定着させたいものだ。一回を今春のような花形歌舞伎、もう一回を、猿之助や中車も加わっての澤瀉屋歌舞伎とするのも手かもしれない。かつて現・猿翁が毎年4月の明治座を根城に数々の復活ものを手がけたように、猿之助や中車や右近たちが、明治座を意欲の実現や修行の場にできるなら、歌舞伎全体の将来にとっても意義ある場となる筈だ、と思うのだが・・・

          ***

新橋演舞場で勘太郎がやっている鄭義信脚本・山田洋二演出『さらば八月の大地』をなかなか面白く見た。昭和一九年から二〇年の戦争終結をはさんでの国策映画会社満映の現場スタッフの動向と人間模様に焦点を絞った構成がよく、演出も、この頃多いドタバタ走り回っては絶叫するようなのと違って、さすがに大人の仕事ぶりで、セリフのひとつひとつが利いている。木場勝巳演じる甘粕大尉をモデルにしたと思われる理事長の人物像に、脚本の、ものを洞察する遠近法の奥行が窺える。

それにしても勘九郎という役者の、ちょっと見には気がつかない懐の深さというものを、こういうものを見ていると思わざるを得ない。少なくとも、父にもなかったものを、子が持っていることは確かだ。中村いてうが、映画スターの付き人役で、ちょいと目に立つ働きをしている。

随談第504回 人生いろいろ(修正版)

岩谷時子、川上哲治、島倉千代子と、さまざまな訃を伝える報が聞えてくる。どれも、永きに亘って親しんだ名前だが、何と言っても感慨が深いのは川上のそれである。

九十三歳という生涯の、どの時代に最も親しく接したかで、世代論もできれば野球論もできれば、その他さまざまな「私と川上」論が成り立つだろう。マスコミがまず「巨人軍V9監督」と見出しに掲げたのは、現代のマスコミとしては、まあ、当然のことだろう。次いで「打撃の神様」というのが来る。これもまあ、当然というべきだろう。九十三年という時間は、既にその生涯を歴史の中に位置づけて揺るぎないものにしてしまってあったとも言える。おそらくどこの新聞も放送局も、見出しの文句をどうしようかと迷うということはなかったに違いない。つまり、野球人川上の歴史的評価は、第一に巨人軍V9監督であり、第二に打撃の神様と既に定まっているのだ。わずかに、「亡くなっていたことがわかった」という第一報のされ方に、息を引き取ってからマスコミがそれを知るまでに約一日のタイムラグがあった分だけ、この人の晩年にはマスコミに常時監視されていない「私人」としての日常があったのだということを察することが出来る。

だが、一野球ファンとして見るとき、そうした出来合いの歴史的評価とは別の、さまざまな「私の川上」があり得るのもまた当然というべきである。紙面を大きく割いて載った数々の記事の中で、私が最も心を打たれたのは、投稿欄の一番下に載っていた、79歳という女性の投書である。私なりに要旨をパラフレーズさせてもらうと、

私は(とその女性は言う)大下選手のファンだったので川上選手は敵でした。憎らしいほどよく打っていました。でも大下選手が亡くなったとき、赤バットの川上と青バットの大下と、この二人が、戦争が終わって新しい時代の野球を作ったのだという記事を読んで、本当にそうだと思いました。私にとって、川上選手はV9の監督ではなく、「四番ファースト川上」であり「赤バットの川上」なのです。

というのである。これなるかな、と私は感動してその小さな記事を切り抜いた。79歳といえば私から見れば姉世代の方だが、戦後のまだ1リーグ時代のプロ野球の記憶を持っておいでに相違ない。そう、私にとっての川上も、V9監督などでなく、赤バットの川上、四番ファースト川上、なのだ。川上は戦前すでに一流の強打者だったが、その全盛時代はちょうど私の小・中学生時代に重なる。実働21年という息の長い現役生活だったから、引退したとき私は高校の最上級生だった。

私にとってのプロ野球は、まだ1リーグ時代の、ジャイアンツの四番赤バットの川上と、セネタースからフライヤーズと名を変えたチームの紺のユニフォームを着た、スマートな青バットの大下の記憶を原点とする。戦前のホームラン記録が九本だったというのが、大下がポンポン打って一挙に二〇本を超えた。紺のユニフォームに青く塗ったバットの大下の打撃フォームは子供心にも優雅で美しかった。その大下を抜いて、赤バットの川上が、青田昇と並んで25本という新記録でホームラン王となると、当時「ベースボールマガジン」と競合していた「ホームラン」誌の表紙を、川上と青田と2人、バットを肩にかついだポーズで飾ったのは、そのまん中にエノケンをはさんで左右に立てばそのまま『エノケンのホームラン王』という映画の宣伝ポスターさながらだった。笠置シツ子が「ホームラン・ヴギ」を歌った。

世はたちまちホームラン時代となって、野球連盟はラビット・ボールというよく飛ぶボールに切り替えたため(思えば、野球連盟のすることは当時もいまも変わらないネ)、翌年、ホームランは一気に量産されるようになって、物干し竿と仇名された長いバットを振り回して、阪神の4番打者藤村が前年の倍近くの46本も打ってホームラン王になる。その年の暮れ、親に買ってもらった「野球いろはカルタ」の「い」は、一打よく川上満塁ホームラン、「ほ」は、ホームラン別当藤村ともに打ち、というのだった。タイガースの3番と4番を打っていた別当と藤村が競い合ってホームランを量産したのを詠んだのだが、川上のは、その年の4月、対南海戦で、5対2で負けていた巨人が9回裏に川上の満塁ホームランで逆転勝ちしたのを読み札にしたのだった。しかしこの年、川上は本塁打を24本しか打てず、以後、長距離砲をめざすことを諦めて、戦前以来の「弾丸ライナー」に徹する打法を追及することになり、この辺りから、ボールが止まって見えただのという「御託宣」を垂れて「打撃の神様」へと、遠ざかって行ってしまったのだった。

そもそも、あの頃私たちは皆、「彼」の名を、カワカミテツジであって、本当はカワカミテツハルと読むのだなどとは知らなかった。だから、赤バットの4番ファーストのカワカミテツジ選手に親しんだ者にとっては、読売巨人軍監督のカワカミテツハル氏は、同一人にしてちょっと別人格のような気がしてならないところがある。

それにしても、ファン・サービスということを一切しなかった川上が、それにもかかわらず子供の人気者になった(なれた)のは何故だったろう。打った瞬間、踵から頭のてっぺんまで定規を当てたように一直線になる打撃フォームは迫力があったし、打席に入ると微動だにせず相手投手の投球を待つ姿は、貫録があった。しかし、ライバルと目されたタイガースの藤村が、ラジオに出演すれば気さくに歌を歌ったり、試合前の肩慣らしやトスバッテイングの時、イチローの背面キャッチではないがわざと背中向きで取ったり、投げ返すと見せて隣の選手に背中から球をトスしたり、観衆を喜ばすということを常に心掛けていたのに対し、川上ときたら、藤村が一曲歌った後、アナに川上さん、如何ですかと水を向けられても、イヤー、私は、などと口ごもるばかりだった。(ファン・サービスといえば藤村ともうひとり、スタルヒンもそうだった。当時は、いまでいう変則ダブルヘッダーが普通だったから、一試合終ると今度は別の2チームの選手たちが飛び出してきて、グラウンドを一周した後、こうした肩慣らしをするのを見るのが楽しみだったのだ。) 

もう監督も引退して大分たってからだった。テレビの番組で、ヨーヨーのことがテーマになっていて、あの川上さんが少年時代ヨーヨーの達人だったそうです、というようなコメントがあって、久しぶりに見るすっかり白髪になった川上が、映像だけの出演だったが、ヨーヨーを鮮やかに操って見せる姿が画面に映った。たしかに見事な腕前で、少年時代に戻ったようないい笑顔だった。「神様」をもう卒業したのちの姿を伝える「ちょっといい光景」だった。

訃報が入った晩の日本シリーズの試合中、巨人のベンチの壁に背番号16を付けたユニフォームを飾ってあったが、してみると、いまの巨人の選手たちにとっても、川上は背番号77の川上監督である以上に、背番号16の川上選手であるのだろうか? そうだとすれば、ちょっとばかりほっとするというか、嬉しい話である。

          *

島倉千代子の熱心なファンであったということは遂になかった。しかし、他の歌手には感じたことのないある種の親しみのようなものを覚えるのは、そのデビューから最後までを、ごくひと通りにせよ、ずっと見てきた、ほとんど唯一の歌手だからだろうか。もう一人、美空ひばりもそれに近いが、流石に、デビュー当初のことはこちらが幼すぎて、たしかに覚えているとは言い難い。もっとも島倉の場合だって、見てきたと言ってもコンサートに通ったわけではない。ただ、よくヒットした曲や、実人生にいろいろあったらしい曲折をマスコミが報じるのを見ていただけに過ぎないが、そうした中から見えてくる、人としての好ましさに、いつのまにか関心をもつようになっていたからである。

はじめは、ごくごくか細い声で、歌い方も素人くさく、それほど大した歌手になるとは思えなかった。しかしある頃から、なかなか上手いなと思うようになってきて、紅白歌合戦に興味がなくなってからも、彼女の出番のときだけはテレビを覗きに行ったりするようになった。誰しもご存じの「人生いろいろ」なんてのは、声も艶があって、ほとんど自在の境地のごとくに見える。

天才でもなく、知性派とかなんとかでもなく、終生、歌謡曲の一歌手であったところに、偉大ならざる偉大があるといえる。美空ひばりの代表作は、私は、「川の流れのように」でも「哀しい酒」でもなく、つまるところ「東京キッド」に勝るものはないと信じているが、島倉の場合は、「人生いろいろ」という歌手として後半生に歌った歌で残ることになる。これはつまり、彼女が美空ひばりのような、始めにすべてがあるような天才ではなかったために、成熟という、凡人の道を歩み続けた果実を手にすることが出来た、ということであろう。

「非凡なる凡人」というのは国木田独歩(だったっけ?)の小説の題名だが、小説の内容よりも、このタイトルの方を時々思い出す。島倉千代子は、むしろ、平凡なる非凡人というべきかもしれない。

          *

これは訃報とは別の話。三日目の大相撲中継を見ていたら、今場所限りで定年退職する元増位山の三保ヶ関親方がゲストで出ていて、退職後は相撲界から離れて別の仕事をするというから何かと思ったら、歌手になるのだそうだ。道理で、つい先達ても、CDの広告に増位山大志郎全集なんてのが出ていたのを見たばかりだった。現役時代、次々と新曲を出すので、「歌謡界で一番相撲の強い男」などという陰口もあったほどの玄人はだしだった。それにしても、65歳にして本職の歌手になるとは、まさしく人生いろいろに違いない。

随談第503回 勘三郎随想(その30)

37.「さ」の章 (談話・役について)

―――勘三郎さんの中心になる役というと、やはり梅幸さんに教わったような役になりますか?

―――まあそれは、いままではね。前髪や二枚目の役が多かったっていうのは、若いからってこともあったでしょうし。でも、これから先どうなっていくか。この間やった『先代萩』の仁木なんかも大好きになっちゃったしね。串田さんの演出の『三人吉三』で和尚吉三をやったけど、普通ならぼくの役はお嬢ですよ。お坊ねえ。あれはまたむずかしいね。串田さんの『四谷怪談』では直助もやった。そのことについては、この先輩の話から避けて通れないね。というのは、紀尾井町(=二世尾上松緑)にね、『車引』の梅王と『対面』の五郎を習ったんですよ。ああいうものを、がーっと、本当に教えてくれましたんで。そういうものが根本にあるから、和尚や直助ができるんだと思うんです。

―――それについてだけど、うちの親父にね、一ヶ月口聞いてもらえなかった事件があるんですよ。何かというと、国立劇場で、わたしが梅王やらしてもらったことがあったの。団十郎さんが松王ですよ、桜丸が菊五郎さんか、大変なメンバーだよ。まだ若いころだしさ。相手はひとまわり以上違うんだもの。ところが、ぼくがそれをありがたがらなかったのね。なぜかというと桜丸がやりたかったのよ。常識からいきゃあそうでしょ? それで桜丸やりたいって言ったら、「生意気なこと言うんじゃねえ!」って怒られたの、うちの親父に。そりゃそうだよ、そんな若いうちにさ、桜丸の方が合ってるなんて、自分で先に決めちゃ駄目なんだってことをね、教わったね。

―――それで紀尾井町に習ったんだけど、今になったらあの時やらしてもらっておいてよかったと思う。もう、ぼくは梅王やらないかもしれないし。それより、あれをやってんのとやってないんじゃ、役者としての幅が違うんですよ。仁木なんかできなかったよ。あのときに梅王をやってなくちゃ。骨法っていうんですか。だって三津五郎に、ぼく、梅王教えたんですから。信じられないでしょ? ちがうよ、お前、あれ違うよって。そんなことだって、あの時おじさんに習ってなきゃ出来ないですよ。そういう意味で、役を最初に自分で決めちゃいけないんだよ。

―――ぼく、いまだに『車引』の桜丸やってないんです。松王に梅王ですよ、ぼくやってんの。常識と反対ですよ。まあこれからやるかもしれないけれどもね。そういうところが、あさはかだったね。なんであの時、あんなこと言ったんだろう。そりゃ、やらせていただくと決まってからはやりましたけどね。

 
38.「き」の章

勘三郎が『東海道四谷怪談』のお岩をはじめて手掛けたのは、大阪中座の公演が恒例になって二年目に当たる昭和六十三年七月の中座のことだが、その五年前の昭和五十八年六月、歌舞伎座で佐藤与茂七を演じている。勘三郎にとってはじめての『四谷怪談』である。

歌舞伎ファンなら周知のことだが、『四谷怪談』でお岩をつとめる役者は、佐藤与茂七と小仏小平を併せて三役をつとめるのが、文政年間に初演した三代目菊五郎以来の通例になっており、勘三郎ものちにお岩を演じるようになってからはずっと、この三役をつとめているが、この昭和五十八年のときは、お岩が真女形の坂東玉三郎であったために、与茂七まで兼ねるのは無理なので、このとき二十八歳の勘九郎が与茂七をつとめたのだった。そうしてこの与茂七が素晴らしかったのである。

与茂七もまた、父十七代目の傑作だった。和事を踏まえた二枚目という芸質が、じつは塩冶浪人でありながら敵情探索のために小間物屋に身をやつしているという、『仮名手本忠臣蔵』と裏表の趣向で作られたこの芝居のこの役に、見事にはまるのだ。与茂七という役の演技の良し悪しだけでなく、「忠臣蔵」と「四谷怪談」とふたつの世界をつなぐ鎹(かすがい)のような位置にいるこの役の二重性を、あざやかに炙り出す。単色でない、色合いがまるで紫陽花のように変化する十七代目独特の芸の色が、他の追随を許さなかった。

そうしてそれが、十七代目一代のものではなく、まぎれもなく十八代目の勘三郎にも受け継がれていることを実証して見せたのが、このときだった。序幕の「浅草観音堂」で敵方の伊藤喜兵衛に咎められた同志の奥田庄三郎を救うところの、武士と町人を使い分ける鮮やかさ、「地獄宿」に女を買いに行ってじつはわが女房のお袖と知るところの和事風の味、「隠亡堀」のだんまりで水門を開けて登場するときの身のこなしの、切れ味がありながらやわらかみのある和事味などなど、改めて、中村屋二代の血の伝える役者の体質を痛感しないわけにはいかないものだった。これこそが歌舞伎なのだ、と万人に納得させてしまう、ある雰囲気。それが、わずかの身のこなし、セリフまわしからも溢れてくる。到底、並みの二十八歳の若手俳優が、当然のように身につけられるものではない。

天分もあるだろう。しかし同時に、それは子が親を敬愛し、真似ぼうとしなければ、身に添うものではないだろう。その上での、役者の血。学ぶ、という言葉が、真似ぶ、という言葉に由来するという語源説を、このときほど素直に信じられると思ったことはない。同時に、『連獅子』の子獅子以来の、若さ清新さというイメージばかりで見ていた「勘九郎」に、ある種の老成した巧さを感じ取った最初でもあった。

巧さとは、単に技能が巧いというだけのことではない。巧さそのものの楽しさで見る者を魅了し、喜ばせる。それこそは、父十七代目に誰しもが覚えた楽しさであり、同時に畏れでもあった。同時代の大立者たちの中で、十七代目勘三郎ほど、観客を楽しませた役者もないが、何かおそろしいものを潜ませていた役者もなかったというのが、私の十七代目観である。そのおそろしさとは何かということを考えると、誰よりも役者としての血の古さを思わせるものを、その芸質に感じさせたからである。歌舞伎界で実際に一番古い血筋をもっているのが誰か、私は知らない。だが私が勘三郎に感じ取ったのは、その芸質の中にひそんでいる、ある種の歌舞伎の魔性のようなもの、と言えばいいだろうか。底知れぬ深い沼の水を覗くときの畏れ、といってもいい。

そして、ほどなく勘三郎はお岩を演じる。初役でつとめたのは昭和六十三年七月、大阪の中座でのことだったが、私はこれは見ていない。私がはじめて見たのは四年後の平成四年六月、歌舞伎座での再演のときだった。もちろんお岩だけでなく、すでに中座のときから、与茂七、小仏小平と三役を兼ねている。

このお岩が素晴らしいものだった。ある意味で、勘三郎が真に大人の役者として、干支でひと回りも年齢に開きのある先輩諸優に伍する者として見られるようになったのは、このあたりからではなかったろうか。現に、このときの伊右衛門は現在の幸四郎であり、直助権兵衛は現・十五代目仁左衛門であり、宅悦は現・市川左團次である。それらの、ひと回り以上も年齢の違う諸優に伍して、勘三郎は演技だけでなく演者の格としても、まったく遜色がなかった。むしろ、誰よりも古風であり、大人の芸であった。

思わずはっとするほどに、私がそれを感じたのは、不義を仕掛けるよう、伊右衛門に脅しとともに言い含められた宅悦が言い寄ってくるのを、無礼者何をしやる、と言って身仕舞いを正し、武家の妻であることを相手に示すところだった。背筋を伸ばし、手にした団扇でさも汚らわしいものをはたくように、ぴしりぴしりと宅悦を牽制して寄せ付けない。このときの権高な身仕舞いの形容が、武士の妻という、すでに空洞になってしまった権威にすがる女の哀れと二重写しになって見える。到底、三十代の若い女形に求められない味がそこにあった。このあとお岩は、鉄漿(おはぐろ)をつけ髪を梳く。私のこれまで見たどの女形役者のお岩よりも、勘三郎のお岩は、これらのくだりで女臭い。女形の俳優よりも女臭い。これこそ、加役として演じる女形の役なればこその味であり、面白さである。

いうまでもないが、勘三郎の女形は加役である。十代で『馬盥』の桔梗、二十歳過ぎで『野崎村』のお光という傑作を見せたりしたとはいっても、あるいは『鏡獅子』や『娘道成寺』といった舞踊の大曲で女形を見せているとはいっても、勘三郎の本領はすでに見てきたとおり若衆方から出て二枚目役にある。現に、与茂七という傑作を夙に見せている。加役、つまり立役を本領とする者が女形を勤めるとき、そこには男の影をヴェールとして纏っている分、幾分老けた女の複雑な味わいが現れる。それが、女臭さに通じるのだ。

前に父十七代目の踊った『鏡獅子』の弥生について言ったことを思い出してくれてもいい。清純な乙女というより、むしろ男を知った女のぼってりした味わいがあるということを言ったのだった。処女であるべき弥生にそれが現われたということ自体はほめられることではないが、それが、父十七代目の弥生の面白さであったことは否定できない。十八代目の踊る弥生にしても、白拍子花子にしても、父に比べれば清純な乙女だが、父から体質的に受け継いだある古風さが、現在これらの役をつとめる先輩・同輩の誰に比べても濃厚にあるのは否定できないだろう。「男知らぬ筈に書かれた娘でもみな男臭く、女臭い、女臭くない女というのが、歌舞伎の女形の範疇になかった」のだと折口信夫は言っているが、つまり六代目菊五郎が弥生で演じて見せた清純な乙女というものは、近代歌舞伎が生み出したものなのである。三世歌六から出て二代の勘三郎に色濃く流れている、反近代ともいえる古風な女形の感触は、加役で演じる女形の役の場合に、他に求められない魅力となって発揮されるのだ。

誰もが知るとおり、このあと勘三郎は、お岩をシアター・コクーンで演じることになる。一九九四年の第一回のコクーン歌舞伎の折は、もちろんお岩・与茂七・小平を、各地を巡演する襲名披露公演がまだ途上の二〇〇六年三月のコクーン歌舞伎では、南版と北版と二様の版を交互に演じ、第一回のときと基本的には同じ脚本によった南版ではお岩・与茂七・小平を、串田和美の演出を大々的に受け入れた北版ではお岩の他に直助権兵衛を初役で演じている。その間、八月の納涼歌舞伎や博多座では在来の演じ方でも演じていて、ここにも勘三郎のスタンスの取り方が見て取れるが、北版のような在来の演出に大胆な新機軸を試みた場合でも、勘三郎のお岩のこうした感覚は揺るぐことがない。むしろそれに対する全幅の信頼があって、串田の演出も可能であったともいえる。

ここで注目すべきなのは、本来の仁からいって持ち役である筈の与茂七を他にゆずって、直助権兵衛をつとめたことの方にある。演出の串田和美の求めに応じたからだが、これにも、勘三郎はすでにみずから先例を作っていた。『盟三五大切』でも、ふたつのバージョンを作って源五兵衛と三五郎という、だましだまされる対照的な役を、橋之助とダブルキャストで演じたのだ。在来の歌舞伎の常識からいけば、勘三郎の役どころは三五郎である筈で、また事実、すでに演じているが、そうした常識の根拠を問う形で、串田はダブルキャストを勧めたのだという。『三人吉三』でも、やはり串田の意見を容れて勘三郎は和尚吉三をつとめたのだった。本来の自分の役はお嬢吉三だと勘三郎はいう。お坊吉三も面白いのではないかと私は思っているが、いずれにしても、それは、在来の「仁」という考え方から割り出した考えであって、串田の案はその常識を敢えて問うてくつがえそうというところにある。そうしてここから、ふたつのことが読み取れる。

ひとつは、歌舞伎の脚本を普通の演劇の脚本と同じ態度で読もうとする串田の姿勢である。その場合、「仁」とか「役柄」といった、本来舞台という現実の中から生まれ、長い歳月の間に確立したと思われる歌舞伎としての慣習(コンヴェンション)を、根本から疑ってかかることになる。歌舞伎を特別なものとして見ない態度といってもいい。

もうひとつは、そうした串田の要求に対して、能うる限り受け容れようとする勘三郎の側の姿勢である。それは、歌舞伎の常識をどれだけ解体できるかという実験を自らに課しているかのようでもある。ただし、勘三郎がそうした串田の考え方に全面的に同調しているわけではないことは、『四谷怪談』ひとつにしても、在来普通の演出で演じることもやめたわけではないという一事を見ても明らかだが、一方こうして串田の意見を取り入れて直助権兵衛やの和尚吉三を演じることによって、少なくともこの二役についていえば、新しい領域を拡大する結果になったことも明らかだろう。

それまでにも、『怪談乳房榎』で故実川延若から受け継いだ三役早替りで演じる演出上の必要から、絵師の菱川重信・正直者の下男正助といういわば自家の薬籠の中にあった役に加え、蝮の三次という線の太い敵役を演じるというような経験があった。この場合はむしろ、三次を演じることに意欲を覚えたに違いない。事実、納涼歌舞伎の初期の時点で、「兼ねる」役者としての勘三郎を印象づけたひとつの契機は、三次を見事に演じることによって成功させた、このときの『乳房榎』であったことは間違いない。しかし見ようによっては、この種の世話狂言の小悪党の役は、父の十七代目が得意にしていた役どころであり、十八代目自身も、たとえば『髪結新三』の終幕ですっかりばくち打ちに変貌した新三などで経験ずみであったから、見るわれわれも、三次の巧さに満足しながらも、むしろ当然のことのように思っていたのだった。

この路線は、その後、たとえば『義経千本桜』のいがみの権太、『裏表先代萩』の小助を薬籠中のものとし、さらには、串田和美の演出バージョンによる『三人吉三』の和尚吉三を可能にしたともいえる。むしろいま思えば、十七代目のイメージをごく当然のように被せられながら、さも当たり前のようにそれを引き受けていた当時の「勘九郎」の若さを知って、いまさらながら改めて驚くのだ。もしかしたら、そのころすでにわれわれは「勘九郎」が兼ねる役者であることを、予知していたのであったのかも知れない。

こうして、演技者としての版図を見る見る拡大してゆくのと比例して、勘三郎の行動の範囲も飛躍的に拡大し、多彩になってゆく。南海の硫黄島の自然の中で『俊寛』を演じたり、新世紀の初日の出を背景に、九十九里浜で、成長した二人の息子と『三人連獅子』を踊ったりといった活動も目立つようになる。そうした活動を含め、シアター・コクーンにせよ平成中村座にせよ、一貫しているのは、歌舞伎を演じる場についての一種の実験意識であるだろう。もちろんこうした活動は、勘三郎ひとりが始めたわけではないし、「劇場論」ということが識者の間で論じられるのが一種の流行現象のようになっていたのが、背景にあるのも確かだろう。(「劇空間」という言葉が、プロ野球中継の番組名になったのもこの時期である。政治家の行動や犯罪の方法を「劇場型」とマスコミが呼んだりする現象も、一連の流れに乗ってのことだろう。)

そうした背景を考えるとき、シアター・コクーンや平成中村座ではじめた勘三郎の活動は、演者の側から仕掛けた劇場論であるように、私には見える。それは、襲名公演の一貫として行なわれた公文協による地方巡演を、出来る限り、各地に残る古い芝居小屋を使って行なったり、いっぽう、勘三郎の屋号「中村屋」の発祥の地とされる名古屋の中村での公演は、地元の高校の体育館に名古屋平成中村座を仮設して高校生を相手に行なうといった発想にもつながるわけだが、こうした活動を通じて見えてくるのは、歌舞伎とは何かという問いを、自身にも、また観客にも、問おうとする勘三郎の姿勢である。

上村以和於、自著を語る・2005年

(1)『歌舞伎の情景』 *クリックするとamazonの詳細ページへ飛びます。

歌舞伎に関しての本としては最初の本。(共著は別として。)それまでに「演劇界」に書いたいろんな文章からアレンジした上に書き足してまとめた。解説風あり、ミニミニ歌舞伎論あり、随筆風あり。まったくの偶然だけれど、このとき「演劇界」に書くようになってちょうど20年たっていた。ボクにとってのひとつのけじめ、同時に出発点。
「演劇界」についていろいろ言うけれども、少なくとも我々世代にとっては、あそこに書けるようになるのはアコガレだった。詳しくは「まえがき」と「あとがき」を見てください。

 

(2)『演劇の季節』 お薦め!!

たまたまひと月遅れというタイミングで出した。「関西文学」という雑誌に1年間連載したもの。版元の関西書院というところで主催していた関西文学賞の評論部門で受賞したあと、連載の話があって書いた。第1回の原稿をFAXで送ったたしか翌日があの阪神大震災だった。もっとも出版社は大阪だから無事だったけど。
本当はもっと文学随想風に書くつもりだったのだけど、同じ頃、のちに『時のなかの歌舞伎』になる「近代かぶき批評家論」を学会誌に書き始めていたので、ゆっくり書いている暇がなくなってしまい、題材もダブるところもあるので、書き分けるのに苦労しました。
当時『歌舞伎の情景』の第1章の作品論も3ヶ月のズレで連載していたから、まあ3本かかえていたわけです。もう一回、もっと文学文学したのを買いてみたいね。そうそう、新聞に劇評を書き出したのも同じ頃だったんだ。

 

(3)『21世紀の歌舞伎俳優たち』

ちょっととんで3年後の出版です。前の二冊を出した翌年、これも「演劇界」に連載したのです。第1回が仁左衛門なのはちょうど襲名に宛てて連載が始まったから。という風に、どの本にもその時々の時代の反映がある。
「演劇界」の連載は、仁左衛門の襲名を機に、現在第1線バリバリの12人(ただし人選は編集部の立案を了承)について、1号一人づつ俳優論を書くというもの。1998年3月号から1年の予定で、事情で1年半かかりましたが、編集部としても、取り上げた人をその号の表紙にする(もちろん売れ行きに関わります)という張り切りようで、楽しい仕事でした。
連載が終わって、できれば本にしたいとは思っていましたが、何人もの未知の読者から、本にはならないのかという声を聞き、「有難い」という言葉の文字通りの意味をつくづくと感じました。やがて三月書房の吉川志都子さんの姿が目の前に現れました。企業としては超ミニ出版社だけれど、出版目録を見ればすごい名前の著者がならんでいる。忘れもしない1999年の12月30日でした。吉川さんと初対面のその場で、出しましょう、と決断してくれました。4人加えて16人とすることにして、その4人の分は明けて正月の三が日に書いて送りました。
さてそれからが大変なことになった。出版記念会をやろう、それも、16人の俳優たちに発起人になってもらって、というのです。そうはいったって、今をときめくそうそうたる16人が、しかもそろって引き受けてくれるとはちょっと考えられない。
ところが、みな引き受けてくれたのです。その前に、本にするについて、ひとりひとりに手紙を書き、承諾をもとめました。これもみなOKをくれましたが、そのくれかたが、それぞれ個性があって面白い。自ら直接電話をくれた人、奥さんから電話という人、手紙をくれた人、その手紙も、自身か奥さんか、また長短さまざま、OKのくれ方もさまざまでした。
さて出版記念会はぶじ開きました。当日の模様は、「演劇界」にちいさな記事になりましたから、興味のある方はご覧ください。本もお陰で好評で、完売しました。まあ、とにかく、私の本としてはいろいろ目立った本でした。

 

(4)『新世紀の歌舞伎俳優たち』

(3)の好評の勢いに乗っての姉妹編。ただし今度は書き下ろしです。人選も当然ですが自分で決めました。若手花形と、前作に入れられなかった第1線の人たち、合わせて22人。
ただし、執筆中に亡くなった澤村宗十郎については、「演劇界」に書いた追悼文を転載させてもらいました。それと、難病に倒れ、リハビリに励んでいる澤村藤十郎から、話をしたいからという電話を貰い、闘病から現在に至る心境などいろいろな話を聞けたのと、この二つがとりわけての思い出です。
若手について書くのがいかに難しいか。たとえば、ここに書いた新之助と、現在の海老蔵とでは、もうずいぶん違ってしまっている。しかしだからこそ、その時その時のことを書いておく意味があるのであって、もう過去のことだから読んでも仕様がない、ということではない筈だと思います。

 

(5)『歌舞伎―Kabuki Today』

順番からいうと(3)の次になります。出版社からのお名指しで書きました。もっとも、売りは大倉舜二氏の写真、箔付けはドナルド・キーン氏の序文ですが、ともあれこの著名なお二人と並んで名前が出ました。なるほど、写真はすばらしい。本来、海外向けの本ですので、英語版がメインですが、国内向けにバイリンガル版も作りました。
私が英文で書いたと早合点した人もいるようですが、「そこの角を右に曲がるとポストがあります」なんていう英作文ならともかく、まさかまさか・・・。私が日本文を書き、あちらの人が英訳したのです。なまじに歌舞伎を知らなくてもいいから、質のいい英語を書ける人を、と注文をつけたのですが、果たして、ちょっと難しいけれど、品格のあるいい英語ですね。たしかオーストラリア人の女性と聞きましたが、歌舞伎もきちんとわかっている上に、何よりもセンスがいい。
ところでアメリカ版の売り出し予定が2001年9月、すなわちあの同時多発テロと重なりました。売れ行きに響いたかどうか。

 

(6)『時代(とき)のなかの歌舞伎―近代歌舞伎批評家論』

歌舞伎学会の機関誌「歌舞伎ー研究と批評」に約10年にわたって連載したものに、書き足したり、書き直したりした。ざっとこの100年間の批評のあとをたどれば、近代という激動の時代に、日本人が歌舞伎をどう受けとめ(愛し、反発し、あるいは無視し)てきたかが判る。それはそのまま、近代日本の知の振幅を反映している。だから私としては、いままで書いたどの本よりも一般性、普遍性がある(やさしいか難しいかは別として)、つまり、歌舞伎は知らなくとも、知的な幅広い関心を持った読書人といわれるような人にも読んでもらえる本だと思っているのだが、どうやら、歌舞伎という特殊な分野のそのまた批評という二重に特殊な分野の本という風に受け止められてしまったらしい、と目下少しヒガンデいる。(分類という思考法にどっぷり浸った現代人の抜きがたいセクショナリズム!早い話が、表紙に歌舞伎と書いてあるだけで、書店では演劇書コーナーに押し込められてしまうノダ。)もちろん中には、数学者の森毅さんが溜飲の下がるような書評をしてくれたり、きちんと受け止めてくれた人もあるけれど。

 


共著

 

『カブキ・ハンドブック (ハンドブック・シリーズ)』

 

『カブキ101物語 (ハンドブック・シリーズ)』

 

どちらも1993 新書館

 


翻訳(代表作)

 

1. 『悪霊に魅入られた女』 1974 平安書店 ホラー映画流行にのった際物。わりに売れました。

2. 『青い空カレンは走った』 1976 主婦の友社 脳性マヒの少女の愛と感動の実話。点字版や吹き込み版もあるはずです。

3. 『ホイッスラー』 1977 ライフ巨匠の世界 タイトル、版元を見ればお分りと思います。

4. 『中国・インド・ビルマ戦線』 1979 ライフ第2次世界大戦

5. 『ヨーロッパ第2戦線』 1979 同上

6. 『キテイホークへの道』 1981 ライフ大空への挑戦

7. 『エアライン草分時代』 同上

8. 『800号を打ったもう一人の男、黒いベーブルース ジョシュ・ギブソン』 1979 講談社 アフリカ系アメリカ人がメジャーリーグから締め出されていた時代の大選手。王選手の800号に引っ掛けて出した。一番話題になり、一番面白かった仕事。

9. 『裸のローレンス、アラビアのローレンスの虚像と実像』 1980 講談社文庫 一番売れ、ほかの著者の引用や参考文献などにも載った。

10. 『サタンタッチ』 文春サスペンスシリーズの最初の5冊の1冊。5万部も出したがさっぱり。シリーズのちの隆盛の人柱といわれた。

11. 『100億ドルのスキャット」 同上

12. 『地中海戦争勃発す』 創元ノヴェルズの1冊。このシリ-ズにはまだあったはずですが、手元に見当たらない。

13. 『クロスファイヤ』 サントリイ・ミステリー大賞海外応募作。佳作入賞で本になった。このほかにも、訳したけど(お金ももらったけど)落選したので日の目を見なかったのもありましたっけ。

まだあるはずです。ハーレクイン・ノベルズに女性名前で(名前だけの女形?)何冊かだしたこともあります。名前は企業秘密かも知れないから内緒。一応、当時の人名事典に名前が載っていました。

・・・というわけで、なんでもありの専門なしの翻訳家でした。でも長いのは1000枚を超えるのもあり、よい文章修行にはなりました。

 

 

上村以和於 平成17年3月