随談第515回 勘三郎随想(その36)

45.「も」の章 

再び再開、続けることにする。

歌舞伎とは何か、という問いは、歌舞伎の根元を問いつつ、ひとびとに常識や通念の変更を迫っている。およそ、歌舞伎を一度も見たこともない者が漠然と抱いている想像としての「歌舞伎」から、型とか約束事とか呼ばれるものの細部まで通暁している歌舞伎通の考える「歌舞伎」まで、さまざまな「歌舞伎」が、社会のなかに乱立し瀰漫する形で存在している。初心者に歌舞伎とは何かを教える解説書や入門書は、「歌舞伎的」とか「歌舞伎らしい」とおぼしい特徴的な事象を取り上げて説明・解説するが、それは、両刃の剣のように、著者の意図とは裏腹に、歌舞伎を特殊なもの、解説がないと理解しがたいもの、と読者に思い込ませることにもつながってしまいかねない。

花道、女形、隈取・・・という風に、歌舞伎のさまざまな事象を取り上げて初心者に向けて歌舞伎を語る、という方法は、題名も『歌舞伎への招待』という本で、著者の戸板康二がはじめて試みたことだった。それは一九五〇年という終戦後間もない新時代に、それまでの歌舞伎通とはまったく異なる戦後(アプレ)世代(ゲール)の読者に向かって、歌舞伎を客観的に分析して見せるという斬新で、知的で、機知に富んだ、おしゃれな方法だった。『歌舞伎への招待』という題名も、ウェーバーの『舞踏への勧誘』という、クラシック音楽のファンにおなじみの曲名から思いついたものだった。「戦後」という新時代の観客たちは、歌舞伎に対する常識は、従来の歌舞伎通に比すべくもなかった代わり、旧世代の持ち合わせなかったような知識や趣味を、はるかに広範囲な分野にまたがって持っていた。そういう読者を想定できたところに、戸板の卓抜なセンスと独創があったのだ。

だが実は、これには先達があって、戦争前の一九三八年に、その当時最も多数の読者を持つ批評家だった三宅周太郎が、外国人に歌舞伎を紹介するために英文で出版した『KABUKI DRAMA』という本で試みた方法を、さらに洗練された形で進化させたものだった。三宅も戸板も、それまでの歌舞伎通の狭い世界から、歌舞伎を、もっと広い世界へ向けて発信して、幅広い読者を獲得した批評家である。(話が脱線するが、前に述べた六代目菊五郎の『鏡獅子』を小津安二郎が撮影した映画も、元来は、海外へ日本の文化の象徴としての歌舞伎を紹介するのが目的で作られたものである。その制作が一九三五年。三宅周太郎の『KABUKI DRAMA』とほぼ同時代である。日中戦争が、十五年戦争という長いスパンで見た場合すでに始まっている時点でのことなのにも驚くが、歌舞伎はこうした形でも、時代と微妙な関わり方をしていたことがわかる。が、いまは閑話休題だ。)

戸板康二がはじめた(開発した、という方がふさわしいかもしれない)こうした方法は、現在もつぎつぎに刊行される歌舞伎の解説書・入門書にも踏襲されている。歌舞伎という現象を目に見える形で具体的に呈示して見せるには、いまなお、これにまさる名案を、まだ誰も思いついていない証拠かも知れない。

一方、歌舞伎をいかにして「保存」すべきか、ということを考えた人々もいた。一九二〇年といえば大正九年だが、当時新進の批評家だった浜村米蔵は、歌舞伎を「正しく保存」するための研究所を設けることを提案している。浜村の説くところによると、この研究所はあくまでも理想的な演劇を実践するためのものだから、まず絶対に必要なのは舞台監督である。舞台監督は光線・大道具・小道具・衣裳・音楽・戯曲・俳優などすべてを支配し、指揮するすぐれた技術家であると同時に思想家でなければならない。劇場は過去の戯曲の住家であり、興行方法は、鑑賞力をもたない観客は一人も内部へ侵入させない一方、あくまでも観客に対して親切であるようにする。劇場は周囲の雑踏から守るために郊外か近県のさびしいところに建て、開場時間を正確にして遅刻した者はいかなる理由があっても入場させず、一切のアルコールを禁ずる。一日の興行時間は三時間ないし四時間とし、長い戯曲を演出する場合は幾日にも分節して上場する。劇場の経済は国家の補助と、富豪が人生になしうる唯一の光栄ある事業としての寄付、それに作者・批評家・選ばれた観客・劇場内部の者などの関係者が応分の努力をしてまかなう。拍手と雑談を厳禁した「深林のような日本戯曲の住家」で、歌舞伎劇の科学的演出をする厳粛な思索研究の場とする・・・・というのだが、これが決して冗談として言っているのではないことは、今日でも、歌舞伎は古典であるべきだという意見の人の話をよく聞いてみると、つまるところは、浜村米蔵が九十余年前に考えたこの「ユートピア劇場」と大差ないところに行き着くのに気がつく。いまの国立劇場にしても、こうした「思想」をどことなく反映しているような気もするし、舞台監督のあり方などは、(一見しての印象とは裏腹に)他ならぬ野田秀樹や串田和美がそれなりに実現・実践しているようにも見える。それもそのはずで、浜村のこうした発想の根底には、前にも言った、「演出」というヨーロッパの近代劇とともに生まれた思想が横たわっているからで、その意味で、国立劇場という形に結実したユートピア劇場と、野田や串田の演劇世界とは、遠く祖先を共通にする間柄ともいえるのだ。(兄弟、というほどではなくとも、孫同士かひ孫同士ぐらいとは言えるだろう。)

だがそれにしても、浜村の唱道するこのユートピア劇場で実際に歌舞伎を見てみたいと思う人は、どのぐらいいるだろう? そもそもこの劇場で、たとえば『助六』の股くぐりなど、どうやって演じ、どういう空気のなかで「鑑賞」されるのだろう?

もっとも浜村米蔵にしても、「保存」といっても、歌舞伎をそのまま冷凍保存してしまおうといっているわけではない。理想の劇場で過去の歌舞伎の本来あるべき姿を研究した上で「保存」し、一方で、つねに流動して止まない歌舞伎を「進行形歌舞伎」として、時代とともに進化させるべきだというのが、その主張するところだった。歌舞伎は興行として大々的にやるよりも、むしろ小規模に、本来のあるべき姿を追求して見せる場であるべきだ、という意見の人もいる。それもたしかに、ひとつの考えではあるだろう。金丸座を知って、これこそが歌舞伎を盛る理想的な器であると考えた識者も少なくない。

しかし、十九歳だった勘九郎青年が、唐十郎のテント芝居を見て、これが歌舞伎だと思ったという時、それは取りも直さず、これこそ歌舞伎が本来あるべき姿、という意味であった筈である。だがその、言葉にすれば同じそれぞれの「歌舞伎が本来あるべき姿」には、なんという隔たりがあることだろう。少なくとも、十九歳の勘九郎青年の胸にともった火は、熱く燃え上がるものであったに違いない。いまも(と言っても、その「いま」はそのまま永遠に冷凍保存されてしまったわけだが)、勘三郎は言う。歌舞伎をつまらない、わからないという奴を黙らせたいのだ、黙らせるような歌舞伎をやりたいのだ、と。こういう演者の思いを、それは間違いだと言えるだろうか? 勘三郎が、自分の考える歌舞伎を盛る器として作った平成中村座もまた、金丸座に発想の原点があることは、勘三郎自身が語っているところである。

歌舞伎とは何か。歌舞伎はどうあるべきなのか。歌舞伎をどうすればいいのか。つまりはいまなお、誰も正解など持っていないのだ。それはおそらく、近代以降の歌舞伎が背負い込んだ、永遠の問いであるに違いない。

「異邦人」であるはずの、串田は言う。「この芝居がどうなったら歌舞伎になるんだろう。どうすれば成り立つのだろう。そもそも歌舞伎らしくする必要があるのか? 歌舞伎らしくってどういうこと? 歌舞伎らしくない歌舞伎ってどういうもの? ・・・もちろん演劇人としての僕個人は、何だってやって良いと思っている。やったほうが良いと思っている・・・・だけど歌舞伎となると、なぜか慎重になる自分がいて、その自分にちょっと戸惑う。そういう自分と折り合いをつけるのに手間取る。なぜかというと、そもそも歌舞伎というものの定義が自分の中で明確でないんだ。」

この、何とナイーヴな正直さ! そうしてその問いは、野田秀樹に尋ねても、おそらく似たような返事が返ってくるのではあるまいか?

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随談第514回 吉之丞追悼

勘三郎随想を一回休みにして書く。

このところ顔を見ないからどうしたかと案じていた中村吉之丞が死んだ。八十一歳という享年はともかく、もうしばらく、見ておきたかった。名手と呼んでよかったと思う。長身で、背を盗むためだったろうが少し猫背になった姿態といい、声音や、少しうねうねする感じのセリフの言い様といい、品格の中に愛嬌をにじませた具合といい、ちょっと歌右衛門に似ていたが、もちろん、立場から言ってもあれほど強烈に主張したりはしなかったから、こちらは微笑ましくも懐かしく、歌右衛門を偲ぶのを隠し味として吉之丞ぶりを、その自在な舞台ぶりを愉しむことが出来た。

昭和一桁世代というのは、いまや最長老クラスだが、身分から言って加賀屋歌江と、御神酒徳利というのとも違うが、よくペアになった。何の芝居だったか、二人が芸者だか何だかの形(なり)で、ただ舞台を歩いて横切っただけで、芝居の味がぐいと濃くなって、大人の芝居になったのに驚いたのも、今となってはいい思い出である。

柄からいっても、芸の質(たち)から言っても、もちろん世話物だってよかったが、時代物の方がドンピシャリと他の追随を許さなかった。芸に遊びが感じられるようになってから、銀器のような鈍い光を放って照り返るようになった。代表作を一つ挙げろと言われれば、『毛谷村』のお幸を挙げよう。もっとも、この役はしばしば入込みをカットされてしまうから、もちろんそれでも、白の鬘が似合って、品格あり、由緒ある武家の妻としての貫目と、狂言の中での役の重みのバランスといい、立派なものであったには違いないが、しかし吉之丞の真骨頂を知るには、入込みから見ないとわからない。六助と虚々実々の探り合いをするうち、小柄をヒョウと投げるのをハッシと受けて、ヒョウと投げ返す辺りの面白さというものは、ちょいと真似手のないものだったと思う。さっき、「品格の中に愛嬌をにじませた具合」と言ったのはここらのことである。何だろう?あのお婆さん?と、初心の観客でも惹きつけられたに違いない。(果たして、場内からウームと唸り、ホッと笑いさざめくようなジワが来た。)

いまスクラップを確かめてみたら2009年の四月とあるが(もう、そんなに経ってしまったのか!)、旧歌舞伎座で吉右衛門の六助で『毛谷村』を出したときのお幸に私はいたく感じ入って、その年の年末に恒例の「今年の回顧」のベストスリーに挙げたことがある。

それにしても吉之丞があれほど自在の境に入った舞台ぶりを見せるようになったのは、いつごろからだったろう。迂闊にも明確に、あの時、と指し示すことが出来ないのが残念だが、吉之丞という、播磨屋の一門に由緒ある名前を貰うことになって、ああよかったなと思うと同時に、でもそれも当然だよなと、内心思ったことは覚えている。彼のような地位や立場にある場合、大きな名前を名乗らせるとか、扱いのランクを上げてやるように上の者が配慮してやることが是非とも大切である。

前名の万之丞といった当初のころは、それほどとは実は思っていなかった。白鸚が一家一門を率いて東宝に移籍した後、いろいろ改革を試みたひとつとして、万之丞を立女形格に抜擢しようとしたことがあった。新天地でまず手掛けた『桑名屋徳蔵』で傾城桧垣という大役につけたのだったが、評価はいまひとつだった。高麗屋の一門にはこれといった女形がいなかったから、絶好のチャンスであったわけだが、まあ、ものにし損なったわけである。一門にはほかに幸雀とか吉之助といった同年輩の女形がいて、当時の染五郎・万之助兄弟がやっていた木の芽会という勉強会や、国立劇場が「青年歌舞伎祭」と称して毎夏開いていた若手の研究会などでは、それぞれにかなりいい役をさせてもらっている。それを思うにつけても、歌舞伎を演じる機会の少なかった東宝時代が、修行段階の役者にとって一番大切な時期だったろうが、よくもあれだけの名手になったものだと思わずにいられない。

吉之丞世代の女形はもう歌江ぐらいになってしまったが、昨秋の歌舞伎座での二ヵ月続きの『仮名手本』の通しで何が愉しかったかと言えば、「七段目」の一力の仲居達の熟女ぶりだった。11月と12月でメンバーが入れ替わっていたが、時蝶・扇禄辺りを姉さん株として歌女之丞だ芝喜松だ京蔵だ、芝のぶだだ京紫だ、その他その他、(小山三はこの際、別格中の別格だから別座に座ってもらう)更にもっと若い妹たちに至るまで、なかなかの壮観であった。目下のところ、現在の歌舞伎で一番層の厚いのは「彼女たち」であるかもしれない。雀右衛門女子大とか芝翫女子大とか、学校はいろいろだが、世情を反映するかのように歌舞伎界も女性上位の世の中である。この上は、万之丞を吉之丞にしてやったような配慮や待遇がどれだけなされるかということも、育てた仏に魂を入れるという上からも、肝心なことであろう。

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随談第513回 勘三郎随想(その35)

暮から中断していた勘三郎随想を再開します。あと数回で終了のつもりです。

43.「ゑ」の章 (その34から続く) 

野田秀樹と勘三郎の場合も、作者野田という存在が、まず勘三郎の中にあったに違いない。当然、演出者野田と作者野田とは切っても切り離せない以上、それは、野田に歌舞伎を作らせ野田の演出でそれを演じる、ということとイコールになる。だが、最初に勘三郎が野田に与えたのは、極めて慎重な「作戦」だった。既存の歌舞伎の作品を野田秀樹の芝居として再生するという方法である。シアター・コクーンや平成中村座で串田和美に託したのは、名作、もしくは人気作として著名な歌舞伎の古典に、演出という近代劇の発想と方法で手を入れさせ、それによって現代の観客の感性にストレートにアピールする芝居として再生することだったが、野田に託したのは、はじめが『研(とぎ)辰(たつ)の討たれ』という、大正の末に作られた新作歌舞伎の作品であり、次に託したのが、黙阿弥の『鼠小僧』という、名は知られていても、実際には上演されることが稀な、上演しても成功させることが難しい作品だった。勘三郎の、作者野田への配慮と、事を起こすに当っての熟慮を窺うに足る選択といえる。

『研辰』は、大正の末に初演された新作物の佳作として、いまも通常の歌舞伎のレパートリーのなかに入っている作品である。勘三郎自身も既に何度も演じて手に入っている、いわば安定銘柄だった。作者の木村錦花は松竹の要職にあった幕内の人間としていわば玄人中の玄人であり、作者としても、たとえば昭和初年の数年にわたって、毎夏の人気シリーズとして『弥次喜多道中記』を連作して、家族連れで歌舞伎を楽しむという新しいファン拡大に貢献した手だれであり、また一方では『近世劇壇史』のような著書もある知識人でもあった。さらに言うなら、近代演劇の狼煙を上げたというので名高いあの二代目左團次と小山内薫の「自由劇場」にも、そのはじめから終わりまで関わっている。その時点での、申し分なくハイカラな近代人である。

ところでその『弥次喜多』が、当時宝塚少女歌劇で大ヒットした『モンパリ』をヒントに生まれたように、『研辰』の初演された大正十四年といえば、都会的な新感覚が風靡したモダニズムの時代であり、武士道だの仇討だのを批判し、軽妙に茶化してみせるというナンセンスは、当時の流行でもあって、歌舞伎ばかりでなく、そのころ新興の大衆娯楽として隆盛を迎えていた映画でも、仇討批判の作が無数に作られている。有名なバンツマ、阪東妻三郎の若き日の大ヒット作『雄呂血』などというのもそのワン・オブ・ゼムであって、その種のものを「傾向映画」と言った。つまり時代の「傾向」だったわけで、歌舞伎でも、いまでもちょくちょく出る、かの谷崎の『お国と五平』だって、菊池寛の『恩讐の彼方に』だって、仇討批判劇という「傾向」を借りた上に作られた、そのワン・オブ・ゼムだったわけで、要するに『研辰』は近代作家による近代俳優のための近代的新作物なのである。

つまり、ここで野田のなすべき仕事は、仇討芝居に託した社会批判や諷刺を、いまとなっては古色の漂う大正・昭和初年のモダニズムのハイカラ・ムードから、現代の寵児としての野田の芝居の世界に組み替え、再創造してみせることにあった。それなら、野田秀樹の世界そのものであって、野田自身が臆せず取り組みさえすれば、成功は疑いない。第一作を成功裡に収めたいとする、勘三郎の慎重な配慮が窺われる。

第二作の『鼠小僧』は、黙阿弥の名作といわれながら、その実、実際に上演しても成功させることはむずかしい、すでに賞味期限が切れたも同然の作である。現にそれより数年前、国立劇場が復活上演をして、どう見ても成功だったとは言いかねる結果に終っている。しかし鼠小僧という近世の庶民社会が生んだ伝説的な存在は、いまなお、現代の社会にも充分有効性を持っている。黙阿弥の作をそのまま、国立劇場がやったような方法で復活上演しても成功率は低いが、黙阿弥の作に借りて野田に新たに作らせるなら、現代にアピールする鼠小僧の芝居を創造することは充分に可能だろう。勘三郎の思考がこの通りの筋道を辿ったかどうかは別として、私なりにその意図を読みほぐせば、こういうことになる。いうまでもなく、鼠小僧の「義賊」というモチーフを梃子にすることによって、野田は新しい鼠小僧の芝居を作って見せたのだったが、そこに「野田版」という文字を添えて、黙阿弥の野田的再創造というスタンスを明示することも忘れなかった。ここにも、勘三郎の頭脳プレイがある。

歌舞伎から外に出て、野田と組んで芝居をするのなら、何もむずかしいことではない。だが勘三郎の求めたのは、歌舞伎座で歌舞伎として野田の作品を演じることだった。この発想のなかには、歌舞伎とは何かという問いが、強烈に問いかけられている。歌舞伎とは、何をもって歌舞伎と呼ぶのか? 何をどうすれば歌舞伎であり、何をどうすれば歌舞伎でなくなるのか?

歌舞伎座にこだわったのは、「歌舞伎の大本営みたいなイメージ」と串田がいうように、まさに歌舞伎のシンボルとしての殿堂だからだが、そのシンボルとは、勘三郎にとっては単なる抽象的な意味でのシンボルではない。たとえば初役で『仮名手本忠臣蔵』の塩冶判官をつとめたとき、かつて判官の役を何度も演じ、教えてもくれた「梅幸のおじさん」が、その判官の役で、いま自分が立っている同じ舞台の同じ場所で、いま自分のしているのと同じことをしていたのだと思うと感極まって涙がこぼれてきた、というような、何十年経とうと失われることのない記憶と、そこに籠められた実在感に裏打ちされた、それは「歌舞伎の殿堂」なのだ。

その歌舞伎座で、野田と組んで新作の歌舞伎をする。そんなことをしていいのだろうか? 犯罪者のような気持に襲われたと野田が言い、その犯罪の共犯者のような気持と勘三郎が言うとき、その言を疑ったり、揶揄したりするのは、よほどの遠距離から遠望する者にしか不可能だろう。

一方、その歌舞伎座で、歌舞伎役者がやればそれはすでに歌舞伎なのだと言いながら、勘三郎は、野田の作品『カノン』を串田の演出で上演するための具体的な準備に取り掛かりながら、これは歌舞伎にならないといって破棄している。歌舞伎とは何か、ふつう想像しがちな域を遥かに超えて、緻密に、勘三郎が考えて抜いていたことがわかる。

44.「ひ」の章 (談話。串田、野田との仕事について2)

―――串田さんは、ぼくは演出家として頼んでますから、彼が何か意見を出してきたときには彼に従います。ただ、これは従えないなっていうようなのが来たときは頼みません、はじめから。だから、いつも笑うんですけど、あなたに絶対『鏡獅子』は触らせませんと。するとかれは「ソーオ」って言うんだけど、ハハ。『仮名手本忠臣蔵』も普通のまんまやりたい。串田さんでやったらやれるよ。けど、それはいいですよ、まだ。

―――これは彼に頼んだ方がいい、という判断ですか。それが『法界坊』であり

『夏祭』であったと。

―――そうそうそう。たとえばね、もっと言うと、あれも串田さんでやってみたいんですよ。どういう風に変わるか。『筆屋幸兵衛』。ちょっと興味がある。やるかもしれません、いつか。

―――そういう場合、普通バージョンと串田バージョンと、ふたつ出来たわけだ

けど。たとえば『夏祭』なんかは?

―――もう普通バージョンはやりたくないですね。『法界坊』もやりたくない。『法界坊』は普通のはつまんないよね。あれをやって、何を見るのかと思う。そう思いません? 見るものないですよ、あれ。ただ役者の愛嬌だけでしょ? 

『夏祭』はねえ、もう一回、歌舞伎座でどうかなあ。『四谷怪談』は普通のもやります。『夏祭』は、暗闇の快感を覚えちゃったからねえ。普通のは、あんなところで舅殺しをやるのはねえ。嘘くさいですよね、なんか。どうです? しかも「長町裏」でチョンでしょ、いつも。あれ、やっぱり最後までやると面白いですよ。でも、普通のあのやり方で最後までやっても駄目なんですよ。だってバカみたいなもんですよ。あれはほんとに串田さんの傑作だと思うよ。楽しませるわ。よく考えてる。あの街を小さくしたり、暗いところからバーンと移るところね。串田でかした、と思うなあ。あそこまでやっちゃったら、もう普通のはやりにくいってことですわね。

でも、そんなこと言ってても、またやるかもしれません。そのときにまたお話したいですね。どういう風になるかね。うちの親父もやってたしね。

―――『三人吉三』もね、普通のつまんないですよ。普通の人が見たら、あのやり方だと駄目だと思うよ。だってさあ、役者の貫録がどうのこうのいう話ばっかりになるし、「大川端」だけ出したりするようになるでしょ? ああいうことするからね。やっぱりドラマとして見ると、串田さんのあれ、よく出来た『三人吉三』だと思うんですよね。

まあ、お嬢はね。でも、お嬢だけやってもねえ。いや通しだったら、ぼくはやりたくないです、逆に。なぜかって、女形がやった方がおもしろいですよ、お嬢は。だから玉さんにすすめたんだから。やったらいいって。アレは『弁天小僧』とは違うから。もっというと、『弁天小僧』はやりたくないですから、串田さんでは。やったらだめですよ。やったら失敗しますよ。

―――『封印切』なんかは、串田さんでやっても面白いかなと思ってるんです。ただ、『近松心中物語』みたいなのをもうやられてるからね。その色がついちゃうのがいやなんでね。それだったら充分ですからね、あれで。ただ、最後の裸馬に乗っていくところ。堀川弘通監督の映画よかったですからね。あんなのもやりたいなあ。

―――串田さんだったらあそこまでやらないと。

―――そりゃ、やらないと駄目駄目。

―――普通のやり方だと最後までできませんからね。『三人吉三』でも普通のやり方だと、三人が巴になって死ぬところまでできないってことはありますね。

 ―――そうなんですよ。こんど『夏祭』をベルリンへ持っていくんですけど、五月に。「道具屋」の場を出そうかっていってるんですよ。それをまた凱旋公演でやれたらね、どうなるか。

―――野田、串田の違い? あのね、野田秀樹はね、大人ですね。逆に見えるでしょ。串田さんの方が子供。野田は世の中のことをわかってますね。やっぱり作家なんだね。だから、ここはやめといたほうがいい、ここは、っていうのが、とっても、わかってる。やはりね。串田さんは、なんか生まれっぱなしみたいな、駄々っ子みたいなところがある。そこがまたあの人のおもしろいとこ。年上の人にこんなこといっちゃ失礼なんだけど。だけど両方とも少年みたいなとこあるわなあ。その中での、どっちかっていやあっていうことよ。両方とも、演劇少年だね。

―――勘三郎さんの方から、二人を仕分けるというか、野田さんのときはこう、串田さんならこういということはありますか?

―――大きな違いは、野田秀樹は書けますからね。串田さんは書けないですから、その違いがありますね。だから野田さんとも・・・野田さんなんて言っちゃった。野田とも今年また新作をやるんですけども、作品に対して意見を言って、参加しながら、作っていく。こっちは、掘り起こす。既にあるものをどうやろうかっていうことですね。来年ちょっと面白いことを二人でやるんですけどね。

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随談第512回 新春おせち料理(増補改訂版)

例年通り三日の浅草歌舞伎が仕事始めだが、新年早々、有楽町駅近隣の火事騒ぎで山手線が止まったため地下鉄を乗り継ぐのに大汗をかく。接続に大江戸線など都営地下鉄が混じると接続の具合がどうにもよろしくなくなる。猪瀬都知事の遺した最大の善政が九段下駅の都営線と営団線を仕切っていた壁を取り払った一件に尽きることが、こういうことがあってみるとよくわかる。まあ、どうにか開演には間に合った。

猿之助と愛之助が二枚看板。猿之助にとっては襲名公演を終えての初仕事。愛之助にとっては半沢直樹人気で知名度何層倍かしての初芝居。手応えを感じ取っての自信はオーラとなり、それは見る者にも伝播する。実はこれまで、愛之助の実力は認めても、手応えがコチンと優等生風に小さいのが気になっていた。関西では大変な人気と聞いても、もひとつピンと来なかったのだが、『義賢最期』はイキ良し、口跡よし、クールな二枚目の愛之助にとっては、実力魅力兼備のさまを見せるには最適の役かもしれない。甲冑を着ずに討手を迎えるダンディズムにも適っている。もう一役の『新口村』の忠兵衛の方は、これに比べると、適役であるという以上の印象はまだない。もっともこの芝居は孫右衛門の芝居であって、梅川はともかく忠兵衛はたいした為どころもないから無理はないが。

九郎助と孫右衛門をやった嵐橘三郎は、富十郎の門下から自立して幹部になったばかりだが、先月の『弥作の鎌腹』の代官といい、きちんとした仕事をするなかなかの実力の持ち主と見た。こうした経歴の人といえば近年では吉之亟とか幸右衛門あたりが思い当るが、もう一世代前に八百蔵という人がいた。八代目中車が中車になる時にその前名を襲うという栄誉を担ったわけだが、門閥外から出て何でもござれの達者な人で、東横ホールのようなマイナーな劇場でなら『太功記』の光秀など主役もやっている。橘三郎にも頑張ってもらいたい。上村吉弥が葵御前と『新口村』のしゃべりの女房をやっているが、この人もなかなかの腕っこきである。

壱太郎が小万と梅川をやっていて、前者では俊敏、後者では姿のよさに情を乗せる才気のよさを見せる。ただの鼠ではなさそうである。

猿之助は『上州土産百両首』に『博奕十王』と、今回は腕よりも企画力で小手調べというところか。『百両首』は脚本に手を入れ下座をふんだんに使うなど、擬古典調を強化している。それに乗って男女蔵がしきりにセリフを時代に言うのはいいが、世話に戻す緩急がないから妙な具合になる。亀鶴という人はもう十年もしたら歌六の後に行けるかもしれない。門之助が、こういう中に入ると、一日、どころか二日ぐらいの長があることがよくわかる。尻を端折ってスッと束に立った姿の良さなど、ちょっぴりだが勘彌ばりである。この人の子役時代の『め組の喧嘩』だの『幡随長兵衛』だのを見ている私としては、長い間の鳴かず飛ばずが不思議でならなかったが、ようやく地に足がついてきたか。

一番のヒットは巳之助で、準主役ともいうべき大役(20年前には勘三郎がやった役だ)を立派にやってのけた。巧いとは言えまいが、自分の足で立った芝居をしているのが偉い。

         *

三日に浅草、四日に歌舞伎座というのは二十年来変わらぬ恒例だが(もっとも再建中の三年間は控え櫓の演舞場だったが)、その歌舞伎座の初芝居のお薦めは一に『松浦の太鼓』、二に『時平の七笑い』、三に現在ただ一人の立女形の芸という意味で『九段目』の藤十郎である。第四に橋之助の大庭に錦之助の俣野という『石切梶原』の敵役兄弟。如何にも時代物役者らしくて大立派。とくに錦之助にとってはこれが最高傑作ではあるまいか。

『松浦の太鼓』はもう何度もやっているが、今度が播磨屋が一番の大乗り気、上機嫌、こういう芝居はこういう風にやるものだという手本のよう。これを愚劇だと決めつけるのはやさしいことだろうが、しかしWELL MADE という言葉を文字通りに受け取るなら

これほど「うまくこしらえられた」芝居もない。愚劇と決めつける賢人よりも笑って愉しむ愚者の方が却って賢明であるという逆説も成り立つかもしれない。米吉のお縫いがまさしくお米がそこにいるよう。こういう役はエライ人がするより、若い人がした方がいい。

『時平の七笑い』は我当という人の気概に打たれる。器用な人ではない。道真を見送って、もはや辺りに人がいなくなって思わずプット吹き出すところなど不器用そのもので、つまりそういう巧さを期待しても駄目なのであって、それにもかかわらず感動があるのは、一にも二にも、片岡家に伝わるこの芝居この役を、片岡家の長子として演じるのだという気概の他にはない。よしそれが、若干時代錯誤であろうとも、その孤高さは感動に値する。

『松浦の太鼓』で其角だった歌六が今度は道真と文化人の役を一手引受け。歌六自身が文化人であるか否かは別として、文化人の役が良く映る役者というものはあるものだ。

『九段目』は、これが立女形の芸であるという藤十郎を見ておくということに尽きるが、併せて、梅玉の力弥というものをわれわれはどれだけ見てきただろうという感慨が湧く。かつては小浪を共にしてきた魁春が今度はお石をしている。『松浦の太鼓』の源吾にしてもだが、この人の二枚目としての風情の深まりというものはいまやただならぬものがある。

戸無瀬を迎える下女のりんを扇之丞がしている。浅草の『新口村』の喋りの女房をやっている吉弥のことは先に言ったが、こうした役どころに人がいるということの意味を、時代の潮目の変わろうとしている今、大切に考えたい。

話題の新作『東慶寺花だより』は、題材も世界もまるで違うが連作小説の劇化という意味では昨秋の『陰陽師』と同じ、劇化の難しさという意味でも共通するものがある。よくいえば随筆歌舞伎、ずばりいえばお茶漬け歌舞伎。ドラマと思ってみると肩透かしを喰ったような感じになるが、こういう行き方の新作歌舞伎もこれからの傾向になるのかも知れない。しかし孝太郎にせよ翫雀にせよ、更には秀太郎にせよ、芝喜松、幸雀エトセトラエトセトラまで、出演者一同みな大乗でやっているから、個人芸の競演と見れば、これはこれで面白くはある。

         *

新橋演舞場の海老蔵新作『寿三升景清』はよかった。この際絶賛しよう。海老蔵はやはり、神に愛された男、か? 詳しくは『演劇界』三月号に書いたからそちらを見ていただくことにして、書かなかったことをちょっぴり。

津軽三味線を大歌舞伎の舞台に乗せるなど、昔なら考えられなかったろうが、それをあっさりやってのけてしまうところが海老蔵流。いまや津軽三味線こそ、三味線のあらゆるジャンルで最もよく知られている三味線音楽である。何でも取り込むのがむかしから歌舞伎の歌舞伎たるところ、結構なことである。

大詰で舞台上に観客席出現。ナントカも山の賑わい、なんて言ったら叱れるかな?

         *

国立劇場『三千両初春駒曳』。松平長七郎の馬切りとか、宇都宮釣天井とか、徳川三代・四代といったPAX TOKUGAWANA揺籃期を彩る様々な物語伝説は、かつては万民共通の雑学知識だったが、いまでは、番隨長兵衛と水野十郎左衛門、一心太助と大久保彦左衛門ぐらいがせいぜいで、由井正雪などでさえ、イマドキノワカイモンへの知名度はどの程度なのだろう? 辰岡万作の作を原作とするというこの作について、そうした興味を除けば私は知るところいくばくもない。世界を小田の跡目相続の物語に変えて、菊五郎演ずる松平長七郎ならぬ三七信孝の馬切りと、松禄つとめる本多正純ならぬ柴田勝重の釣天井と、要はこの二つが見どころになるわけだが、芝居としては勝重こそが座頭役だろう。菊五郎は大蔵卿的自由人信孝役で仁よし風情よしで儲けるが、一日の演目としての重心は松禄の双肩に掛ることになる。そう考えると、今回この芝居をともかくも持ちこたえた松禄の努力と、これまで苦労の末積み上げてきた役者としての力量を認めなければならないだろう。かつて祖父の先々代松禄がこの劇団で担っていた役割を、当代がともかくも支えて見せたのである。この月の国立劇場について、言うべきことはほとんどそれに尽きているようなものだ。

それにしても、釣天井の場面が終わった後、これが猿翁だったらどういう風に見せただろうという声が私の周辺で上がったのは面白かった。澤瀉屋流のこれでもかこれでもかと香辛料を振りかけた、激辛だか激甘だかの濃い味、音羽屋流の超さっぱりの薄味、お好み次第と言ってしまえばそれまでだが・・・

         *

三越劇場の新派は、今年は松竹大船映画路線はお休みで、『明治一代女』を久里子のお梅、八重子の秀吉、春猿の澤村仙糸という顔ぶれで出したが、問題は、というか面白いのは、己之吉を佐藤B作という配役である。なるほど、名案のようではある。適役と言ってもいいだろう。但し、新派狂言『明治一代女』としてではなく、川口松太郎作の脚本をいただいた一演劇としてならば、である。久里子は、徹頭徹尾先代八重子にまねび、学んだお梅を演じる。何のと言って、当節これだけ出来る者はないだろう。B作も、懸命につとめて、その限りではよくやっている。が、やればやるほど、久里子とは、あるいは新派名狂言の『明治一代女』からは離れて行く。B作を責めているのではない。昔風にいうなら、学校が違う、というやつである。己之吉の設定を江州の篤農家の二男坊でなく、現にB作自身がそうであるように東北人にでもして、別な一座別の顔ぶれでだったら、立派に成立するだろう。ということはつまり、新派の原点の壮士芝居に戻ればいいのだ、ということか? つまりは本卦返りというわけか。

それで思い出した。中学生だった昔、伊藤大輔監督の新東宝映画『明治一代女』というのがあったっけ。お梅が木暮実千代、己之吉は田崎潤だった。

         *

映画と言えば、新年早々、淡路恵子が死んだ。最後まで現役感覚を失わず、イマドキノワカイモンでも知っている存在であり続けたのだから天晴れである。訃報を聞いたその日も、電車の車内広告でどこやらの女性探偵社の所長とおぼしき風情で、あやしげな雰囲気を漂わせているのを見たばかりだった。

デビュー作の『野良犬』は、こちらがまだ子供だったからリアルタイムでは見ていない。見知ったのは松竹時代で、髪をふり乱したいかれたような役をよくやっていた。と思うと、『この世の花』(つまり、その主題歌を歌ったのがこの間亡くなった島倉千代子というわけだ)などといった、『君の名は』の二番煎じ三番煎じのようなすれ違いメロドラマのヒロインをやったり、つまり岸恵子だ有馬稲子だといったところに比べると、ややランクの劣る位置にいた。若くしてデビューした割には遅咲きだったともいえる。フィリピン人の歌手と結婚など云う経歴も、その当時の感覚からすると、かなり「異端」的に見えた。

それが、錦之助の『丹下左膳』で櫛巻お藤をしてあれよという間に結婚したころには、もうすっかり、水際立った女ぶりを見せるようになっていた。『若い季節』といったっけ、NHKのテレビで、その頃の人気タレントが社員の役で続々出てくるなかなか気の利いた連続ドラマがあって、そこで女性社長の役でスーツを鮮やかに着こなした姿が、何とも鮮やかなものだった。同年輩にはいい女優がいろいろ輩出しているが、「いい女」という表現が一番ぴったりくるのは淡路恵子であったろう。

訃を伝えるテレビが当時の映像を流していたが、錦之介も、やっぱりいいなあと思わずにいられない男ぶりで写っている。三人の錦之介夫人のなかで一番長く、その座にいたのだろうか? こういうときに「往時茫々」という言葉を使うのは何とも安直のようだが、訃を聞いてその言葉がまっ先に浮かんだのは、彼女の波乱の人生がそう思わせるためだろう。

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随談第511回 新年あれこれ

あけましておめでとうございます。本年もよろしく。

      *

ここ数年来、年賀状を大晦日に書くようになっている。もろもろの事情からそうするのが目下のところ一番好適なのでそうしているに過ぎないが、古いCDを引っ張り出して聴きながらの作業が何とも気持ちがいいので、しばらくはこのやり方を続けることになるだろう。

歳末の雑用を何とか始末をつけて、午後になると、気のせいか街から聞こえてくる騒音もそれなりにひっそりとして、年越しを迎える気持ちもそれなりに定まってくる。まず、今年の新年に戴いた賀状の束を解いて、それから取りかかるのだが、この時に聴くCDをどれにしようか、咄嗟の判断で決める。すべからく、こうした選択は直感的に決めるに限る。いろいろ迷ったりあれこれ考え出すと、妙な儀式めいたものが出来上がってしまい、結局は自分で決めた儀式に自分で縛られるという馬鹿げたことになる。

とはいえ、例年のことだから、今度はあれを聴きたいなといった「おたのしみ」みたいなものは自ずと浮かんでくる。クラシックも落語もシャンソンも、どれもLP時代に愛聴した版をCD化したものばかりで、完全に菊吉爺イや歌團婆アの世界である。アルチュール・グリュミオーの弾くバッハの無伴奏パルティータだのヴァイオリン弾きのメニューインがリードするブラームスの弦楽六重奏曲といったたぐいで、録音の年月日を見ると大概は1960年代のもので、うっかりすると50年代なんていうのもある。こういうものは銀座の山野楽器あたりで廉く売っているのを、ふいと気が向いた時に買っておいたもので、新しい演奏家のコンサートを追いかけて聴くということをしなくなって絶えて久しいから、そもそも今どんな人が活躍していて今年はどんな演奏が評判だったかなどということは、たまたま何かの拍子に耳に入るか目に触れるかしたものしか、知らない。今を時めく海老蔵のことを昔の海老様とごっちゃにしているようなものだ。しかし、これがじつにいい、のである。

ひとしきり聴いて倦んでくると、今度は落語のCDだがこれも歌團爺イの世界で、まず馬生の「柳田格之進」を聴く。今聴いても涙がこぼれる。いや今だからこそ、むかし気がつかなかったところにふと心づいて、目が涙で潤んでくるのだ。このCDの録音はまた別の時のものだが、まだ改築前の新橋演舞場の古い畳敷きの稽古場で馬生が独演会をした時に聴いたのを今更のように思い出す。方々の落語会でちょいちょい顔を見かけて顔は見覚えているがが縁もゆかりもないままの、ちょっと齢の行きかけたOLといった風情の女性が、「あたし、落語を聴いて初めて泣いたわ」と連れの友達と話しているのが耳に入った。同感だった。あのころの馬生は本当によかった。ちょうど芝翫が、もう歌右衛門だ梅幸だと言っていられなくなるのではないかと思わせた時期と、ちょうど重なり合っていたこともあって、われわれも馬生にそれに似た期待を抱いたものだった。

つぎに文楽の「富久」と「愛宕山」を聴き圓生の「三十石」を聴き、彦六の正蔵の「淀五郎」と「年枝の怪談」を聴く。こういう世界があるのだ、いや、あったのだなあ、とつくづく思わないわけに行かない。

途中、年越しそばを食べ家族につき合って紅白歌合戦の終いの処をちょいと覗き、「行く年来る年」の最初の十五分、各地の除夜の鐘をしめやかに聞かせてくれるまで聴いてから、また取りかかる。今度は気分を変えてシャンソンにするが、これも歌團爺イの世界だから、コラ・ヴォケールだのイヴェット・ジローだのという、むかし中高生の頃、こういう世界もあるのだなあと知り染めた頃の、典型的な曲ばかりだ。だいぶ草臥れてきているのであまり刺激の強くない方がいいから、ジローの歌う「シャンソン・ベスト・コレクション」というのを聴く。ジローという人は強烈な個性を打ち出さず、典型を高いレベルで典型として聴かせてくれるところに値打ちがある。昔、ときどき、もう歌舞伎なんか見るのをよそうと思い決めて、しばらく見に行くのをやめたりしたことが何度かあるが、そういうときでも、ふっとなつかしさに襲われて見に行きたくなることがある。そういうときに見た梅幸の「娘道成寺」に心現われる思いがしたことを、いまも時々思い出す。梅幸という人も、そういう人だった。ピアフは死んでからドラマになるが、ジローのドラマなど誰も作ったりしない。しかしそれはそれで、立派な価値があるのだ。梅幸もきっと・・・

同じときに『乗合船』で三代目左団次の通人を見たのも、ああいうものはあの時でなければ見られまいと思う眼福だった。通人というものはまさにあゝいうものだという他はない。十七代目勘三郎だの、九代目宗十郎だの、その後にも、こういう通人は二度とは見られまいというような通人を見たが、左団次のは、それらとも更に次元を異にしたものだった。見ておいてよかった、とつくづく思う。『乗合船』の通人のような役にでも、そういうことはあるのだ。

話がどこやら菊吉爺めいてきたので、この一夕話はこのぐらいにしよう。ついでながら賀状は無事、元日の昼前には投函した。

と、まずは賀状代わりの雑文から、今年の第一報と行くことにしよう。

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随談第510回 歳末貼り混ぜ帖

先月末以来、何かと慌ただしくて落ち着く時間がなかった。同時に、「勘三郎随想」を先に進めなくてはという気持が、時間があればそちらを優先させた。(それでも年内に終えるところまで行かず、三年越しになってしまった。)気がつけば既に数え日である。

このところ毎月載せていた「今月の舞台から」も、各劇場すでに楽日を迎えてしまった今となっては、効かぬ芥子か出そびれた幽霊のようなものだから、代りに、昔やっていた若手花形の野球各賞見立てを、今月の忠臣蔵をネタにほんのサワリだけ、やっつけてみよう。

          *

本塁打王=海老蔵(但し、本数ではなく飛距離による)

師直は三塁打か。元の広島球場のような狭い球場ならぎりぎりスタンド入りしたかも知れないが、そんなチンケな本塁打より、球は転々外野の塀、野手がクッションボールにもたついている間に二塁キャンバスを蹴って三塁に滑り込む、といった光景の方が海老蔵に似つかわしい。いや、意外にもよかった。人形身でいる間がいい顔だったので、これは、と期待した。大序の格と則を守りつつも自ずから生気溢れる感になるところが海老蔵たるところで、襲名の折に演じた『暫』で、嗚呼、鎌倉権五郎って本当に若いんだなァとはじめて実感させられたのを思い出しながら見た。荒事は七つ八つの子供の心でつとめるものです、といくら解説書で諭されても、白鸚さんのを見ても、昔の松緑さんのを見ても、もちろん羽左衛門さんのを見ても、皆さん小山の揺らぐように立派ではあっても堂々たる偉丈夫としか見えなかったが、海老蔵を見て、七つ八つとは言えないがまだ若い鎌倉権五郎が今、そこにいる、と実感させられた。ある意味であれは、私にとっての荒事開眼であったと言っても過言ではない。今度は師直だから、事情は違うが、これほど生気横溢した大序は初めて見た、とは言えるだろう。もっとも三段目は、地芸が必要になるから、決して悪くはないが、若手芝居の域に納まる。

というわけで、本塁打王の対象となるのは平右衛門である。玉三郎のおかるのリードの巧さもあるにせよ、こんなに興奮させる平右衛門というものはあるものではない。ともあれ球は場外へ飛んで行った。もしかするとファウルであったかも知れないが、ポールの上はるか上空を飛んで行ったから、かつての阪急上田監督のように延々一時間の余も抗議をしても始まらない。仮にファウルであったとしても、場外へ消え去る大飛球を見るだけでも壮観であったことは間違いない。
 

防御率1位=菊之助

またしても判官一役とは!(染五郎など三役もやっている。若狭之助で引っ込んだと思ったらすぐ石堂になって出てきた。同じ白塗りの染五郎だから、さっき師直にいびられていたあの人が判官に同病相哀れむ心から、今度は上使になってやってきたのだと早とちりした観客がいても不思議はない。)
ところで菊之助だが、慎重なのはいいが度が過ぎるのは如何なものか。もっとも、三段目も四段目も昂然と顔を上げて、意志的というか、強いタッチで演じようとしているかに見えたのは、オッと思わせたが。いずれにせよこうガードが固くては師直もいじめるのに骨が折れたろう。判官ともう一役、お父さんのように勘平をやるのも悪くないが、私としては、御祖父さんのようにお軽を是非、見てみたい。
 

新人王=米吉

一日だけ、それも討入り当日の十四日夜、国立劇場で開かれた「伝統歌舞伎保存会研修発表会」でやった「七段目」のお軽である。歌昇の由良之助、種之助の平右衛門もなかなかよくやったから三人受賞としてもいい。米吉の、まだ何の色にも染まっていない生まれたままのような無垢さこそ貴重である。「知られざる忠臣蔵」の『主税と右衛門七』で右衛門七を慕うあの少女もよかったが、初日に見ていいと思った伸びやかさが、二度目に見た日には、妙に強い地声のような声でセリフを言っていたのが気になった。と、ことほど左様に、いじればどうとでも色がつきかねない。その危うさも魅力といえば魅力なのだが。
           

OG賞=七段目一力仲居一同(但し、11月&12月併せて)

もちろん、野球界にOG賞などという賞はない。そもそもOGとは何の略か? 女形の役の少ないマッチョ劇忠臣蔵では、女形諸姉は四段目の腰元か七段目の仲居ぐらいしか出番がない。(討入り場面できゃあきゃあ言って逃げ回る吉良邸の女中というのもあるにはあるが。)だがそれだけに、11月、12月と顔ぶれは入れ替わっていたが、一力の仲居たちを見ているだけでなかなかの壮観であった。芝翫女子大、雀右衛門女子大の同窓生はじめ、まさに多士済済といって過言でない。

         *

(番外)ようやくに休日を得てひぐらしパソコンに向かうに、怪しうこそ物狂おしくなるままについうとうとまどろむ内、奇怪なる夢を見た。忘れないうちにと書きつけたのが以下のようなことである。

 

仮想芝居『忠臣蔵悪夢配役』(ちゅうしんぐらあくむのはいやく)役人替名(澤瀉屋一座の出演による。)

口上人形=猿翁(特別出演)

師直=中車

大星由良之助×早野勘平、実ハ半沢直之丞=猿之助(由良之助×勘平二役早変わりで即ち倍返しをすること)

平右衛門=愛之助(友情出演。但し、セリフはおネエ言葉で言うこと)

伴内=右近

顔世・おかる・お才=笑也・笑三郎・春猿(一日替わり。これは真っ当か。)

          *

ジョーン・フォンティンが亡くなったり(96歳とは!)、今年の点鬼簿を作ったり、浮世の動向など、いろいろ書こうと思う材料はあるのだが、歌舞伎座もまだ杮落し公演を続行中でもあることだし、積み残し分はいずれ清算させていただくこととして、まず本年はこれ切りとさせていただくことにする。それにしても、筆者幼少の砌は、十二月に入ると何やら気配ただならずなりはじめ、とりわけ14日の討入りの日を過ぎる頃おいからは歳末の気分が一段といや増して、各紙夕刊に、たとえば出羽の海部屋の餅つき風景などといって千代の山が杵を揮い栃錦がこねる、といった風の写真が載るのが師走風景の恒例の記事であったり、こちらもそれを見ながら、次第に年の瀬を迎える気分になったりしたものだが、この頃は、テレビは毎日が正月番組の如くにタレントがはしゃぎ合い、ハレとケが年がら年中同居していて、あと一週間となって俄かに、今年もあと何日です、ということになる。ま、これも浮世か。

来年もご愛読の程、願い上げます

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随談第509回 勘三郎随想(その34)

43.「ゑ」の章

まるで犯罪者のような気分だった、と野田秀樹は言う。

「歌舞伎国」のなかで、僕はまったくもって異邦人だった、と串田和美は言う。

野田秀樹を、はじめて歌舞伎座の舞台に立たせたときの興奮のことは、すでに勘三郎自身が多くの機会に語っている。串田和美は、勘三郎と関わることによって歌舞伎の演出をするようになった体験を、みずから『串田戯場』という一書に、赤裸々に且つ暢達に語っている。野田との出会いから、ついに歌舞伎に深く関わらせるに至るまでの、勘三郎と野田と、双方の高揚と、その陰にある小心と細心についても、すでに小松成美によってその著『さらば勘九郎』のなかにあざやかに切り取られている。

串田和美にせよ、野田秀樹にせよ、勘三郎によって歌舞伎と関わるようになったふたりのことを考えるとき、私が何よりおもしろいと思うのは、あるいは異邦人といいあるいは犯罪者という、その歌舞伎に対する「異物」としての意識である。その意識の明確さであり、鋭さである。そのことが、彼らふたりを、これまで歌舞伎と関わりを持ってきた演劇人や文人たちと、鋭く分けていることに、私は興味をそそられる。

そうなのだ。作者や脚色者として、あるいは演出者として、その他さまざまな形で歌舞伎と関わり、歌舞伎を作る場に入ってきた者は、じつはこれまでにも数知れず存在する。坪内逍遥や岡本綺堂以来の、新歌舞伎と呼ばれる近代歌舞伎の新作品を書いてきた、玉石混交、無数の作者たち。あるいは脚色者たち。演出者という役割も、座付きの「狂言作者」の書いた作品が古典と見做され、それに代わって「劇作家」と称する作者たちが近代劇の手法で新作品を書くようになって以来、上演の現場に関わるようになって久しい。それらの人びとが、どういう態度どういうスタンスで歌舞伎と関わったかは、文字通り千差万別だろうが、ひとつあきらかなのは、その足跡を何らかの意味で歌舞伎に強烈に残すような仕事をしたのは、自分の中に、歌舞伎に対する「異物」意識を明確に持っていた人たちであったということである。仮に話を戦後に限ったとして、武智鉄二がそうであったろうし、近くは梅原猛にしてもそうだろう。歌舞伎に向かい合う角度は正反対であったとしても。歌舞伎になずむ者より、歌舞伎に違和を見いだす者の方が、歌舞伎をよりよく見る者であるともいえる。

野田秀樹が勘三郎に慫慂されて、ついに歌舞伎の現実に関わるようになるまでの、畏れと不敵さは、言い換えれば、自分と歌舞伎との間の距離をつねに測定している者の「異物」意識の故だろうが、その間の事情を簡明にあぶりだした小松成美の著書を通じて何よりも興味深いのは、勘三郎が自他に問おうとしている「問い」である。一言でいうなら、歌舞伎とは何か、という問い。勘三郎の言葉を小松の著書から借りる。「歌舞伎役者だけが集まっていれば、歌舞伎の定義なんて必要ないでしょう。でも、外の人から見れば、歌舞伎が歌舞伎であるための分かりやすい定義が必要なんだよね。」

その勘三郎の言を受けて、野田は、演出家の不在、ということを言ったというが、このやり取りを通じて勘三郎に感じるのは、(そうして、もしかすると世人が勘三郎を最も理解していない側面は)、歌舞伎に対する冷徹なまでの客観的な眼差しである。もちろん、勘三郎が歌舞伎に冷徹なのではない。事をなそうとするに当って、現代という時代のなかで歌舞伎が置かれている状況、現代の社会のなかで歌舞伎に投げかけられている人びとの視線、眼差しといったものへ、勘三郎がどれだけ冷徹に意識を働かせ、見切っているか、ということである。

歌舞伎とは何か? この問いは、これまでにも、何か事をなそうとする者へ、いつも投げかけられてきた問いであり、同時に、事をなそうとする者が、つねに自身に問い、他へ投げ返してきた問いである。小松によれば、懐疑し逡巡する野田へむかって勘三郎はこう言ったという。「歌舞伎役者が演じれば、それはもう歌舞伎だし、その歌舞伎に出演すれば役者はみんな歌舞伎役者なんだ」と。

この勘三郎の言を読んだとき、まず思い浮かべたのは、この時点からほぼ四十年余前、一家一門を率いて松竹を脱退、東宝へ移籍してセンセーションを巻き起こした当時の八代目松本幸四郎、のちの松本白鸚が、ほとんど同じ趣旨のことを言って、話題になったときのことである。それは、歌舞伎界の現状に飽き足らず東宝に移籍したものの思うほどの活動の機会に恵まれず、女優と共演するような舞台が多くなった白鸚へなされた、少々ぶしつけな問いに対する、やや憤然とした語調の発言であったと思う。それだけに、当時としては、むしろ放言めいたニュアンスで受けとめられたのだったが、しかしそれ以来、私はこの言葉が、もう少し深く、もう少し重い意味をもって、いつも忘れられずにいる。

歌舞伎役者がすればどんな芝居だろうと歌舞伎なのだ、ともう少し正確に言えば白鸚は言ったのだが、歌舞伎の芸を蓄積した役者の身体なり、あるいは逆に、役者の身体に蓄積された歌舞伎の芸なりへの揺るぎのない自負が、この言葉からたちのぼってくる。前々章の末尾に引用した串田の言が思い合わされる。「歌舞伎の型を何十年も追及してきた役者が、その身についた型からすーっと解放されるときの凄み」と串田は言ったのだった。『三人吉三』の「巣鴨吉祥院」の場で、現行普通の歌舞伎の常識とはかけ離れた演技を求められたときの勘三郎のことをいったのだったが、ひるがえって考えれば、つまりはこれも、何をどう演じようと歌舞伎役者が演じればそれも見事に歌舞伎であることの、ひとつの証例であるともいえる。

しかしそれは、当然ながら、昔の白鸚にせよ今の勘三郎にせよ、歌舞伎役者としての揺るぎのない芸と身体を持つ者にして言えることで、野田秀樹の側から言えることではない。演出家の不在ということを、「異邦人」である野田が言ったのは、これも当然のことだったろう。そもそも「演出家」という存在が演劇の世界に登場し、「演出」という営為を始めたときが、「近代演劇」というものの誕生したときであって、野田にせよ串田にせよ、その近代演劇という世界で生きてきた者にしてみれば、「演出家」の存在しない演劇というものが、すでに不可解な得体の知れないものとしか思えないとしても、不思議はない。ここで演劇人としての野田秀樹についての説明を始める必要はないだろうが、その作り出す舞台が、演出という営為に対して最も先鋭な意識を持った演劇人であることは、少なくとも間違いないだろう。

昔から、というのは、歌舞伎が近代劇と競合するようになったときから、歌舞伎にも演出家が必要だという考え方が、識者の間で生まれ、いまも根強く底流している。国立劇場が設立されるに当っても、そのことが強く言われ、「演出」とか「監修」とかいう文字が制作スタッフの中に連なるようになった。現実にそこで行なわれている「演出」が、野田や串田の言う演出とは、むしろ同名異語に近いかもしれないとしてもである。

また一方で、「武智歌舞伎」のような形で、歌舞伎の演出ということがクローズアップされることもあった。武智の場合は、原理主義的ともいえる古典主義の理論・方法論が過激なピューリタニズムのゆえに、戦後という時代の空気のなかで熱烈な信奉者を生んだが、その古典主義的方法と前衛とを円環のように結びつけようとする武智の真意は、その割には、あまり理解されなかったような気がする。武智歌舞伎はいいが、わけのわからない前衛劇みたいなのは困る、という声をよく聞いたものだ。しかしそれでは、武智はおそらく満たされなかったに違いない。ともあれ、その武智にしても、理念や方法論の違いはあっても、歌舞伎を、役者や興行資本の恣意にまかせず、古典としてあるべき形として実現しようということを目指すところから始まっていたという一点では、共通していたのだ。

松本白鸚の場合には、福田恆存という存在が関わっていたが、福田の場合は、歌舞伎そのものの演出に関わるのではなく、むしろ白鸚の方から歌舞伎の埒の外に出て、福田の書いた作品を福田の演出で演じるということに、目指すところがあったように思われる。それは客観的には、歴史劇というものを日本の演劇のなかに確立しようということであったと私は理解しているが、福田の側からすれば、そのときに是非とも欲しかったのが、歌舞伎俳優松本白鸚の持つ芸と身体であったろうことは間違いないだろう。歌舞伎役者がやればどんな芝居をやろと歌舞伎だ、という白鸚の言と、まさしくその一点で両者は重なり合い、折り合ったのだ。それと相似形の図式が、勘三郎と野田秀樹の場合にも描けると考えるのは、自然なことだろう。

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随談第508回 勘三郎随想(その33)

41.「み」の章(つづき)

勘三郎は、最近、三人の若手俳優のトリオで上演された『大川端庚申塚』の一幕を見て、愕然としたという。「和尚吉三はお嬢とお坊が斬り合っているところへズバッと飛び込んでいって、待て、と留めるんでしょ。ところが留めないんだもの。ただ形。留める格好をするだけ。予定調和でやってるから、何の真実味もない。お客に拍手するなって言いたかった。おじさんたちが見たら怒るよ。批評家の人達ももっとびしびし書くべきですよ。あんなことをやってたんじゃあ、もう歌舞伎は滅びるよ。」

前にも書いたように、勘三郎は、かつて梅幸からこの「大川端庚申塚」のお嬢吉三を教わっている。それは「月も朧に白魚の篝火も霞む春の空」という、様式の極とも見られるようなセリフにも実はリアリズムを踏まえた演技があるのだということを、身をもって示すような行き方だった。勘三郎はもちろんそのやり方に愛着をもっている。だが、『三人吉三』全編を読み直し、串田の演出で演じたいまとなっては、通し上演としても現行のやり方で演じる気持はないという。

何故なら、ドラマとしての『三人吉三』を通しで演じるなら、お嬢吉三は女形の演じるべき役であって、自分がかつて梅幸から教わったお嬢吉三を演じるとすれば、むしろ「大川端」の場だけの方がふさわしい。勘三郎は気づいていたのだ。梅幸に教わった「伝統的」な演出は、大正・昭和の歌舞伎の正統的な演じ方としての意義をもつが、それは十五世羽左衛門や六代目菊五郎が加役として演じた「伝統」が作ったものであって、串田の言う「社会からはじき出されたちっぽけな悪党」として演じるには必ずしもふさわしくない。

「生理」という言葉を、談話を取材している間に、勘三郎は何度か使ったが、その一度が、串田の演出で演じた和尚吉三についてだった。通しとして『三人吉三』のドラマを演じるなら、すでに自分のなかに出来ているのは和尚を演じる「生理」であって、お嬢を演じる生理は自分の中にはない、という意味である。

それで思うのは、もともと、安政七年の初演のときお嬢吉三を演じたのは、真女形の八代目岩井半四郎だったということである。半四郎は、日常の暮らしから女形に徹していたといい、その自宅の居間を訪れた者が、まるでお嬢様の部屋のようだったという証言を残している。大正・昭和前期の歌舞伎界の頂点に立った大立者の五代目中村歌右衛門は、はじめ半四郎のところに入門する話があったが、女みたいなので断ったという逸話が伝わっているが、この歌右衛門こそ、のちに近代歌舞伎の大御所となった人であることを考え合わせると、この話は、前近代の歌舞伎と近代以降の歌舞伎の裂け目を覗く狭間のような感じもする。

八世半四郎の演じたお嬢吉三がどういうものだったか、いまとなっては想像のほかでしかないが、串田演出による『三人吉三』を経験したことを通じて、勘三郎が、お嬢吉三は女形がやる方がふさわしいということを、「生理」として体感したのは事実だろう。このあたりは、当の串田の想像を超えた、歌舞伎役者勘三郎ならではの感性のなせる業であるのかもしれない。だが少なくとも言えるのは、串田の試みたことが、勘三郎にそれだけのことを感じさせ、考えさせるだけの深みにまで達していた、ということである。

もちろん、通常の慣行となった演出による『三人吉三』を見ていても、そうしたことは感じ取れないわけでは必ずしもない。劇場の椅子からの私の率直な意見をいうなら、黙阿弥の脚本の中に眠っていたさまざまな意味や仕掛けを赤裸々に提示して見せた串田演出のラディカリズムの功績を認める一方で、在来の演出のコンヴェンショナルであるが故の頽廃の美学も捨てがたい。そもそも、いまさら現代の女形俳優がお嬢を演じたところで、幕末明治の八代目半四郎のように演じることは、まず不可能であろう。コクーンでお嬢を演じた福助が、福助一代と言ってもいいほどの好演だったのは確かだが、いまにして思えば、あのお嬢は、福助にとって栄光と危険が裏表になった分水嶺であったかもしれない。その後の福助のさ迷いこんだ、迷路のような苦闘の道を思うとき、ときに痛々しいような思いで福助を見ている自分に気が付くことがある。が、いまはこれ以上、福助のことに触れるのは慎もう。話を『三人吉三』に戻すなら、むしろ新旧ふたつのバージョンが両立することがそれだけ歌舞伎を豊かにすることにも通じると思うのだが、演技者として実際に和尚吉三を生きてしまった「生理」が、勘三郎にそう言わせたのであろうことは、充分に想像がつく。

それにしても考えさせられるのは、自分の「仁」から考えて桜丸をこそと思っていた若き日に、無理矢理にも「松緑のおじさん」から梅王丸を教わって荒事の骨法を叩き込まれたことが、いま和尚吉三を演じることを可能にしているのだという勘三郎の言である。和尚吉三はもちろん荒事の役ではないが、骨太の強い感触の役、というほどの意味と考えればわかりやすい。一方串田は、勘三郎の和尚吉三について、大詰前の「駒込吉祥院の場」の終局、兄妹相姦という畜生道に堕ちた妹のおとせと弟の十三郎を、お嬢吉三とお坊吉三の身替りにする場面での勘三郎の演技の凄さを、もう何かを演じているという次元ではなかったと述べた後につづけて、こう書く。「歌舞伎の型というものを何十年も追及してきた役者が、その身についた型から、スーッと解放される時のすごみのようなものを、僕は(演出者という)立場を忘れて見ていた。」

この串田の言の美しさは、否定するわけにいかないと私は思う。

 
42.「し」の章  (談話・串田、野田との仕事について1)

―――まあこれは、あれこれ言うよりも、やってることを見ていただくことなんでね。ですけれども、たとえば自分がね、まあいつか死ぬと。死ぬときにね、いろいろ考えると思うんですよ。もちろん歌舞伎役者として生まれてきたんだから、おじさんたちに教わったこととか、自分の解釈で、当っているか当っていないかは別として、盛綱なら盛綱をこうしたい、とかいうようなことが一方にある。また一方、それじゃなくてね、創るっていうこと。俺がはじめて創るんだ、っていうこと。それがこっちだと思うんだね。

―――だからたとえば、賞をいただいたとしましょうか。『鏡獅子』で賞をいただいたときがありますよね。ありがとうございます、勉強さしていただいて、というコメントが本当に言えますけど、たとえばこっちの『研辰』でもらったときはね、やったぜ、ですよ。だから全然違う。スポーツマンが優勝したとかなんとかってシャンパンかける、あの感じ。あっちの、『鏡獅子』で賞をいただいてシャンパンかけたりしたら、あいつ気が狂ったか、何だ、あんなものぐらいでって言われちゃう。あっちはもっともっと、死ぬまで勉強っていう世界。本当の意味でね。あっちがなければ、こっちもないですよ。だけども、こっちのこれは、お前、考えつかなかっただろうよって言えますよね。

―――ね、やっぱりやるべきだよ、生きてるんだから。せっかく、昭和三十年に生まれて、死ぬのは平成だか、その次の何かになるかわからないけど、とにかく何十年生きた中でね、これやったの俺だけだよ、俺が一番最初にやったんだよっていうことは、子供たちにも自慢できるかな、っていうこと。あっちは自慢はできないよ、すごい先輩がいっぱいいるから。けど、こっちのばかりは、ニューヨークで英語で『法界坊』やったら、ざまあ見ろ、やれるもんならやってみろっていう風なね。うん、それが生きてるっていうことじゃないかなって思うんだよね。

―――それからもうひとつ。野田秀樹って、現代(いま)の作家だよね。野田秀樹って俺の友達だけど、あれ才能あるよっていう、そういう二人で握手して始めた仕事だっていうことですね。彼の、あれちょっといい文だから見てください。今度の『研辰』の映画のパンフレットに彼が書いたの。すごくいいこと書いてるんです。自分でこわかったって。犯罪者のような心境だって。それ、すごくわかる。やっていいものか悪いのか。あっちはさあ、おこられないですよ。どれだけ掘り下げたかってわかってくれるでしょ? 歌舞伎が好きな人ならば。けど、こっちをやる初日は、もう吉と出るか凶と出るか。しないでじらしてされるがじらしい、ってやるんだもん、歌舞伎座の舞台で。犯罪者の共犯ですよ。でもそういう人が、同世代にいたってことがラッキーですよね。それから串田さんも。同世代にいた。どうせだったら生きてる間に、いま出来ることをやりたいじゃない。この間のあんな、(渡辺)えり子の『舌きり雀』。あれだって何十年かたったら馬鹿馬鹿しくて笑って見られる日が来る。やらないよりやった方がいいだろう、っていう、それなんですね。

―――両方やるっていうこと。まあ、つっ込んでいったらそういうことですね。こんなこと、あまり言ってないですからね、どこにも。外国人がよくやるでしょ、イエーイっていう世界。あれあっちでやったらみんなに総スカンだよ、そんなことやったら。でもこっち側だったら、それも許してもらえるんじゃないか。許されなかったら、それならいいよ、っていう風なことですね。だって俺たちだけでやったんだもん、しょうがないよ、これからだよっていうこと。それにね、若手の、菊之助だとかが、こういう動きを利用するんじゃないけど、こういうのもあるんだよっていう、いろんな動きになってきたことは、ある意味、いいことだと思います。ただ、子供たちにもよく言うんだけど、あっちを忘れちゃあ絶対駄目だよと。こっちだけに走っちゃ、歌舞伎はもうただ駄目になっちゃうよっていうことですね。

―――だからこれからも、そういう作品もあって、中幕にちゃんとした踊りがあって、古典があるっていうのを作っていきますよ。歌舞伎ってなんだい、いろんな歌舞伎があるんだなっていう風なことを、身をもってやっていきたいですねえ。だからこの前の襲名で『研辰』をやったときも、玉三郎さんに『鷺娘』を踊ってほしいって言ったの。『鷺娘』を見る人にも『研辰』を見せたいし。最初に菊五郎さんの『四の切』の狐があって、ちょっと重たかったけどね、でもああいうものがあって『鷺娘』があって『研辰』があるっていうと、オイ、歌舞伎ってなんだい、いろんなのがあるんだねっていう風にしたいのよ。歌舞伎ってやっぱりいいものですからね。わけのわかんないもんだなんて言われると悔しくてしょうがないのよ。『研辰』を見てわけわかんないなんていったら、日本人じゃないよって言えるじゃない。

―――歌舞伎を変えたいなんて死んでも思いません。罰が当たります、そんなことは。変えません。このままでいいです。けれどそこにひとつ、こういうのが出来るとね。黙らせたいんだよ、歌舞伎をつまんないなんて言ったり、わけわからないとか言う人種を。それならこういうのがありますよっていうのをやる。だってわけわかんないのが一杯あるんだから。それは勉強すりゃあいいんだから。でもそればっかり言ってるとね、歌舞伎って長いんだろって言われた時に、ううん、違うのもあるよって言って、鼠の上に乗って宙乗りするわけよ。それだけじゃあ駄目だから、ということね。それなんですよ。

―――だから狂言立てにもこだわるし、こないだの『ふるあめりかに袖はぬらさじ』も、玉さんがお礼を言ってくれた。あんたが出るように言ってくれたからみんな出たって。当り前だよって言ったの。あれをやるかやらないかということにも論議があった。けどね、いいじゃないですか。そんなもの歌舞伎にしちゃえばいいんだと。それで全員出た方がいいって言ったの。そういうことをするとお客さんは喜んでくれるんですよ。と、思うなあ。こういうことが、これから先もずーっと思い続けていきたいことかなあ。

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随談第507回 勘三郎随想(その32)修正版

41.「み」の章

さっきもちょっと言ったが、勘三郎と仕事をする上での串田和美の姿勢は、歌舞伎をも普通一般の演劇と同等のスタンスで取り扱おうという一点にあったように、私には見える。もちろん、良識家である串田が、歌舞伎への配慮を持たないわけではないし、歌舞伎のもつある種の特殊性を思わないわけでもない。むしろそうであればこそ、他ならぬ勘三郎の側から接近して来ての提携であるならば、新劇人としてこれまで歩んできたそのスタンスで歌舞伎にも対しようとすることは、当然の判断であるともいえる。そうでなければ、自分が歌舞伎に関わる意味がないし、そもそも勘三郎の方から求めてくる理由もない。その一点以外に串田が歌舞伎に関わる方法も意義もないといってもいい。その一点をはずせば、それは門外漢のお道楽と異なるところはなくなってしまうに違いないし、そもそも串田にそんな趣味も興味もないだろう。

歌舞伎を敢えて特別視せず、普通一般の演劇と同等のスタンスで扱おうとするとき、串田が何よりも拠って立つところは、脚本の読み以外にはないだろう。脚本を独立したひとつの作品として白紙の状態で読もうとするとき、おそらく串田を一番苛立たせるのは、「仁」とか「役柄」とか「型」とかいう、歌舞伎独特のコンヴェンションが介在してくることであるのは、容易に想像がつく。

和尚吉三でも薩摩源五兵衛でも直助権兵衛でも、また団七九郎兵衛でも、まず脚本があって、それと向かい合う演出家なり役者なりがいる。演出家と役者は、立場も役割も違うが、脚本と直接に向かい合うべきものであることに変わりはない。それが、新劇人串田にとっての常識であるだろう。だが歌舞伎を相手にすると、仁とか役柄とか型とかいう「不純物」がその中間に介在してくる。中にはそれを絶対視して、それなくして歌舞伎は成立せず、それを無視した演出は認めがたいという論者も出てくる。

「歌舞伎というものは、そういう過激に思える筋立てでも、いいの、いいの、歌舞伎なんだからこういうものなの!と、なんだか強引に思わせてしまう力があるんだね。変な疑問を持つほうが間違っているような。ストーリーを知っている観客は、なおさらそんな疑問を持とうとしない。これはかなりもったいないことだと思う。芝居にとっても、観客にとっても。僕のこの場の演出意図としては、出来るだけそういう素直な疑問を誘発することだったと思う」と串田が書いているのは、『三人吉三』の大川端庚申塚の場、お嬢・お坊・和尚の三人の吉三郎が出会う場面の演出についての文章の一節だが、もちろん、串田のこのスタンスの取り方は『三人吉三』だけに限ったことではない。というより、結局はこの一点にあるといっても、決して強引な要約ではないだろう。ストーリーとここで串田が言うのは、もちろん直接的には話の筋のことであり、ここの件の文脈に沿って言っていることだが、文脈をもっと大きく取れば、「仁」や「型」や「役柄」という歌舞伎のコンヴェンションとしての、いわゆる「約束事」のことだと考えて差し支えない。

「かなりもったいないこと」と串田が言う意味は、歌舞伎に興味はあるが深くは馴染んでいない、現代の普通の、知的興味も知識教養も持ち合わせている人々に取っては、非常にわかりやすい言い方であるに違いない。歌舞伎に興味を感じて歌舞伎座の舞台を覗いてみると、それなりに面白くも興味をそそられもするが、それ以上に、何だかよく分からないいろいろなことに遭遇する。「いいの、いいの、歌舞伎なんだからこういうものなの!となんだか強引に思わせてしまう力」を受け容れてそれなりに納得できた者は、歌舞伎ファンとしての「狭き門」を潜り抜けることができるが、受け容れられなかった者は、「狭き門」に阻まれた縁なき衆生としてさ迷うこととなる。

歌舞伎に対するこの串田のスタンスの取り方は、かつて夏目漱石が自分の小説の読者を、「文壇の路地裏を覗いたことのない尋常普通の教養のある人士」と言ったスタンスの取り方を思い出させる。つまり漱石は、文壇の事情通になる気はないが、尋常普通の人間としての興味を満足させてくれる文学には関心のある読者に向けて、小説を書いたのである。漱石のいう「文壇」を「歌舞伎」と置きかえてみれば、スタンスの取り方という一点においては、漱石も串田和美も変わりはないことがわかる。

歌舞伎に通じている者が、中村勘三郎とか尾上菊五郎と姓名で呼ばずに、勘三郎とか菊五郎というふうに名だけで呼んだり、中村屋とか音羽屋と「屋号」を代名詞のようにして呼ぶことすら、「歌舞伎界の路地裏を覗いたことのない尋常普通」の現代人から見れば、内々の者同士だけで通じる合言葉のように聞こえる。まして、「六代目」だの「十七代目」だのということになれば、ほとんど暗号も同然だろう。そういった、歌舞伎の「外郭」に属する事柄からはじまって、ストーリーの展開や登場人物のキャラクターの有り様といった芝居そのものに関することまで、「強引な力」を受け容れて狭き門をくぐることは、フリーメーソンの結社に入会することにも似た「秘儀」のようにも見える。(実はこれに類する現象は、どこの社会、どこの業界にもある筈なのだが、「梨園」とか「相撲界」とかいった世界のこととなると、ことさらに「特殊」なものとして見るという構図が出来上がっているのも、本当は考えてみるべき問題に違いない。)

いま書店の棚には歌舞伎の入門書や解説書が呆れるばかりにあふれているが、その秘儀を通過すればいかにすばらしい世界が開けているかを説いたかに見えて、ではどうすればそこへ行き着けるのかを説くことに成功したものはない。なぜなら、世のすべての入門書や解説書がそうであるごとく、その著者は既に秘儀を通過した者ばかりであるからで、狭き門の内側のことは巧みに説明してあるが、肝心の、如何にすれば狭き門を通り抜けられるかについては書いていない。曰く言いがたいことは書きようがないからである。こうして、世にあるかぎりの歌舞伎解説書や入門書は、神父・牧師や信者の説く宗教の入門書に似てくる。すでに神を信じている者が、信じていない者に向かって、いかに神の栄光を説いても無効なのと同じである。

串田の言う「かなりもったいないこと」とは、歌舞伎という狭き門の中を覗いてはみたが、中に入ろうという誘惑には捕われなかった者の視点で見た、門の中の様子を評した言である。歌舞伎を約束事というコンヴェンションから解体して、尋常一般の戯曲として見た者の言といってもいい。これまで串田が幾多の戯曲を読み、俳優としても演じ、演出者として演出してきた、そういう視点で歌舞伎を見るとき、歌舞伎のコンヴェンションが捉えていない、あるいは取り落としたりはじめから目を向けていない、いろいろなことが目に映る。

なぜ歌舞伎では、こうは演じず、ああ演じるのか? なぜ、ああ演じれば歌舞伎で、こう演じれば歌舞伎でないのか? なぜ、こう演じればおもしろいと自分は思うのに、ああ演じないと歌舞伎好きはいいと認めないのか? それにもかかわらず、ああ演じる歌舞伎をわからないと言う者も世の中にはたくさんいるではないか? それはなぜか?

串田は言う。三人吉三のような、本来なら、社会からはじき出されたちっぽけな悪党でしかない、愚かしくも切ない、そのままでは見ていられないような存在でも、歌舞伎という様式で演じられると、深く受け入れられる。興味深く鑑賞することが出来る。カッコいいと感じる。この場合カッコいいとは、何か心に響くものがある、いま生きている自分にとって無関係でない、心を揺さぶられる何ものかを感じるということである。そういう意味で、歌舞伎はこの世の醜悪なものやグロテスクなもの、奇怪なもの、見るに堪えないほど惨めなもの、みっともないものを、カッコよく見せてしまう力を持っている、と。だから歌舞伎とはつくづく凄い芸能だなと思う、とも言う。

『三人吉三』の序幕「大川端庚申塚」の場は、通常、三人のスター役者が動く錦絵のように見せる黙阿弥様式美の華と考えられている。百両包みを奪ったお嬢吉三が「月も朧に白魚の篝火(かがり)も霞む春の空」と謳いあげる七五調の名セリフは、いまでも歌舞伎好きが宴会の余興に声色でやってみせる、おそらく歌舞伎のセリフのなかでも最もよく知られたものだろうし、まったくの初心の観客がこれを見せられれば、なるほど歌舞伎を見たと実感して満足するに違いない。つまり不特定多数が抱く歌舞伎イメージの典型といってもいい。本来は、長丁場の世話狂言の発端の場面であるにもかかわらず、今日でも、この場だけを短い一幕物のように上演することも絶えないのは、そのためであるだろう。

実際には、作者の黙阿弥から数えて四代目に当る河竹家当主の河竹登志夫氏が、後に展開する陰惨なドラマの序章としての極彩色の口絵にたとえたように、観客は様式美の中にあとに続くドラマを予感しながら見ているわけで、決して単なる様式美だけを鑑賞しているのではない。その様式にしても、お嬢吉三は女形、お坊吉三は二枚目、和尚吉三は実事の座頭役者と、それぞれの役柄にはまった仁の中にも、それぞれの役の背負った宿命的な人生や性格を反映して、ひと筋縄ではいかない複雑微妙なニュアンスが掛け合わされることになる。そういう感覚のおもしろさは、歌舞伎に通暁している観客でなければわからないというものでもないだろう。

だがその一方で、こういうこともある。現行の「大川端庚申塚」の場が、独立した一幕物の人気狂言のように頻繁に上演されるようになったのは、おそらく、大正以降、十五世市村羽左衛門という天性の二枚目役者が加役で演じたお嬢吉三が極めつけの名物のように見做されるようになって以後、慣行となったことで、それとともに、現在「型」となっている演出が固定されたものと考えられる。その演出は、少なくとも、幕末の安政七年正月に(つまり、それから間もない雛の節句の日に井伊大老が桜田門外で暗殺されたあの年の正月である)初演されたときとは、かなり違うものになっているはずで、簡単に言えば、下座を多用し、様式化が進んだに相違ないことは容易に想像がつく。すなわち、現行の歌舞伎で普通に演じられている『三人吉三』大川端庚申塚の場は、大正・昭和以降の近代の歌舞伎が作り変えたものなのだ。もちろんそれは、大正・昭和の観客に愛され、支持されたからこそ、そうなったのであり、その意味で、現行の演出は大正・昭和の観客が作ったのだともいえる。

だが、時の経過とともに、はじめは、この場がじつは以後に続く長いドラマの発端の一幕であることを役者も観客も周知であることを前提として演じられたものが、やがて、後のドラマを知らない者が多数を占める客席の前で演じられるようになる、という事態が生じてくる。そうした客席から舞台に投げかけられる眼差しの変化は、いきおい、演じる側にもある変化を及ぼさずにはおかなくなる。万人が共有していたひとつの仕草、ひとつの行為の持つ意味は、リアルな実感を失い始めるのとともに、様式として受けとめられるようになる。見る者だけでなく、演じる者にでさえも。様式化が進めば、やがて仕草の一挙手一投足は踊りの所作に近づいてゆく。そこには、歌舞伎の様式というものを考えるとき、見落とすべきではない鍵がひそんでいる。絶対普遍のように思われがちな様式も、じつは、その時どきの観客との関係のなかで作られ、変容しているのだということである。(この項つづく)

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随談第506回 勘三郎随想(その31)

(勘三郎随想を再開します)

39.「ゆ」の章

十八代目を襲名する一年十カ月に及ぶ興行のなかで、勘三郎は、『髪結新三』や『娘道成寺』のような勘三郎の現在の頂点を示すいわば代表作から、『野田版・研辰の討たれ』まで、勘三郎はさまざまな演目、さまざまな役を演じたが、そこにひと筋、読み取れるのは、安定よりも実験や挑戦といった意志的な姿勢だった。『研辰』のような、物議を醸しそうなものを敢えて襲名披露の作品として掛けるというのももちろんその表れだが、代表作の『娘道成寺』のようなものでも、単に自信のある当り役を披露するというより、いまこの時の『道成寺』を、という果敢な姿勢で貫かれていた。そうした中でわたしがオヤと思ったのは、初役の『盛綱陣屋』の佐々木盛綱を、それも最初の月に演じたことである。

『盛綱陣屋』は、勘三郎自身、超弩級といっているように、いわゆる丸本時代物のなかでも長大で、ともすると難解になりがちな大作である。勘三郎としても、以前一日だけの「勘九郎の会」で試演をしただけで、本興行では演じたことがない。盛綱は、類型としては白塗りで生締の鬘の捌き役のようだが、そうした役の代表である『実盛物語』の斉藤実盛などと違って、もっと深刻で重々しい役のように演じられることが多い。父の十七代目も、二度、演じているが、正直なところ、かなり悪戦苦闘していたような記憶として残っている。もちろん、六代目菊五郎の系統の役ではなく、兄の初代吉右衛門の当り役であり、十七代目としてもかなり後年になってから取り組んだのだった。

盛綱というと、首実検の場面で長い時間をかけていろいろな思い入れをするのが、普通、眼目とされている。総大将の北条時政の前で、兄弟敵味方に分かれて戦っている弟の佐々木高綱の生首を実検するのだが、それが偽首なので、その意味を読み解こうとする。その推理の過程とそれに伴って刻々に変転する心境を、思い入れとして演じるのだが、そこで、誰それの演じる盛綱は七分かかった、誰それはもっと長かった、などということが話題になったりする。現に私も、たまたま近い席にいたさる高名な批評家が、その場面になると時計を出して計っているのを目撃したことがある。

たしかに、推理小説のように込み入ったストーリイが背後にあるには違いない。高綱は、作者が大坂の陣の折の豊臣方の参謀真田幸村にひそかに擬して書いた敵方の智将である。どんな謀(はかりごと)をめぐらしているかわからない。討死をしたという高綱の首というのは、ひと目で偽と分かる粗末な首だし、生け捕りにしたその子の、盛綱にとっては甥の小四郎の様子も曰くありげに見える。一方で、当然、肉親としての感情もある。兄弟にとっての老いた母、捕らわれたわが子の様子を窺いに来た弟の嫁もいる。といった、錯綜したドラマの綾を、見えすいた偽首の謎を解く一点にしぼりこんだ場面だから、誰の盛綱もここに力を入れて演じるのは当然だ。だがその結果、ともすると、首実検の所要時間が話題になるような、必要以上に物々しい演技になったりすることにもなりがちである。

私は、勘三郎が自分の会で一度試みたのは知っていたが、盛綱に大いなる関心をもっていたことには、迂闊にもつい気がつかずにいた。『熊谷陣屋』の熊谷とか『逆艪』の樋口といった典型的な丸本時代物の線の太い役は、いかに兼ねる役者勘三郎といっても、それこそ柄や仁からいって、なかなか手をつけにくいのはわかる。(父の十七代目も、こうした役は、盛綱もそうだが、手を染めたのは六十歳を過ぎてからだった。)それでも、『寺子屋』の松王丸や『義経千本桜』の知盛などは試みて、相当の成果を収めている。白塗りで生締の鬘という二枚目らしい扮装をする盛綱なら、勘三郎の領域に入っても不思議はないともいえる。

こうした役の中でも、とりわけ印象に強いのは知盛である。平成中村座の二回目の公演で、『千本桜』の三役を一挙に演じたときだったが、この月は国立劇場でも團十郎がやはり『千本桜』で三役をつとめるのと競演になるということがあって、話題を呼んだのだった。

勘三郎としては、三役のなかでは、忠信が白塗りの二枚目の役でもあり、すでに何度もつとめている。私は以前に、現代の第一線の十六人を論じた『21世紀の歌舞伎俳優たち』という著書のなかで、勘三郎の忠信を、父の十七代目がかつて演じた「四の切」の忠信と重ね合わせるように、その古風な役者としての資質について書いたことがあった。

十七代目は、何故かそれほど数多くは勤めなかったが、その忠信は、いかにも、狐という人外の者が人間の情に訴えかけることによって、人外の者の世界と人間の世界とが交錯する、民俗の記憶の奥深くに眠っている古い夢でも見ているような忠信だった。それは、『千本桜』という芝居のさらに奥につながっている世界を垣間見させる、幻覚のようでもあった。十八代目には、父のような古風さはない。それは、父と子の、生まれ育った時代の違いであって、如何とも仕方がない。だがそれにもかかわらず、静の打つ鼓の音に誘われて、階段の上にふわりと姿をあらわしただけで、人外という異形の者の実感を漂わせている。こんな忠信は、年長の世代をも含めて、現代という世に他にはいない。すでに何度も他の例にふれて言った、二代にわたる勘三郎の血のなせるわざとしか言い様がない。

同時に、その終局、化かされのくだりを僧兵を出さずにひとりでやってしまい、「飛ぶが如く」に花道を駆け入るまでの一瀉千里の働きは、ほとんど息の継ぎ目というものを感じさせない。その、芸そのもののすさまじいほどの卓抜さと、狐は鼓の子でもあると同時に、巣に待っている子のところへ帰る親でもあるのだという、役の根元にある二重性に勘三郎が見出した役への共感と。忠信は、襲名公演の掉尾を飾る京都南座でも演じたが、細部の演出にはまだ異同の余地は残していたとしても、芸として揺るぎのない段階にまで到達したのは、平成中村座の折だったと思う。

もうひと役の権太は、すでに言ったように、納涼歌舞伎が始まってまもなくに『千本桜』を通しで上演したときに初演している。こうした、一種の敵役から「もどり」になるような、手強さの求められる役は、むしろこの権太などが契機となってわがものとしたものだった。このときの三役のなかでも最も完成度が高かったのもこの役であり、その後、襲名の地方巡演でも演じている。つまりここまでは、勘三郎の役としてすでに不安のないものだったが、知盛は、常識的には、英雄役者と呼ばれるようなタイプの役者のつとめる役と思われていたから、勘三郎にはどうかと危ぶむ声が上がっても不思議はなかった。だがそれは、見事な知盛であった。単に演技の良し悪しではない。忠信もそうであったように、勘三郎は定式にとらわれず、独自の読み、独自の工夫を試みていた。

「渡海屋」で登場する時、傘をさして出るのが現在での通例になっているが、勘三郎はそれを破って、碇をかついで出るという、錦絵に見える古い型を試みた。この場面では渡海屋銀平という町人に身をやつしていた知盛は、やがて「大物浦」で碇綱を体に巻きつけて断崖から身を投げ、壮絶な死を遂げる。碇という小道具の果たしているシンボリックな意味と役割を考え抜いたこの「型」によって、登場と終局が見事に呼応し、知盛の悲劇は首尾一貫する。古い型の復活は、単なる珍しい試みではなく、実験がすなわち発見に通じたのだ。

渡海屋の銀平が、真(ま)綱(づな)の銀平という異名で呼ばれている意味も、これであきらかになる。傘をさして登場する現在の通例は、それなりの意味も効果もあったればこそ、誰かが始め、踏襲されてきたのだろうが、こうしてみると、碇にこめられていた意味を、半ばあいまいにしていたのだということもわかる。それより何より、大詰の知盛入水の悲劇は、こうすることによって一層凄まじくなった。

この成功は、また同時に、知盛という役が、柄の大きな英雄タイプの役者でなければならないという固定観念も、破ったことになる。平成中村座という空間も、成功のひとつの理由として挙げられるかもしれない。そうだとすれば、それこそ、勘三郎がこの新しい空間を作ってそこで新しい活動を始めた、「劇場論」そのものが意味を問うたことになるはずである。

こうして、平成中村座で試みた『義経千本桜』三役完演は、とりわけ知盛の成功によって、勘三郎個人の芸の上のことだけでなく、さまざまな意味を問いかけることになった。ただ惜しむべきは、平成中村座というと、『法界坊』の串田和美の演出による破天荒な演出や、『夏祭浪花鑑』のニューヨーク公演のような目覚しい活動とばかり結びつけて語られがちで、『千本桜』のことは忘れられがちなことである。それはさておいていま勘三郎個人の芸のことだけに話を限っても、この知盛の成功が、のちの襲名公演の盛綱につながるもののように、私には見えるのだ。

襲名披露での勘三郎の盛綱は、これまで見慣れた、いわゆる英雄役者風なイメージからすると、少々違和感を覚えた人もあったらしい。そういった観点から、役違いというような批評の声も耳にした。しかし勘三郎は、そういう風には盛綱という役を考えていないのではないかというのが、実際に舞台を見て、私のまず思ったことだった。戯曲『盛綱陣屋』はたしかに丸本時代物のなかでも有数の大曲だが、だからといって主人公佐々木盛綱という役まで、重々しい英雄風に演じなければならないといういわれはない。勘三郎の演じ出した盛綱は、一貫して情の表出にたけた「情の人」だった。

いったい、盛綱という人は、優柔なまでにあれを思い、これを思い、つねに心中が揺れている。はじめの方で、母親の微妙を説得するのに母の膝にて手を掛けて訴えかけるところがある。ここは、子供に帰って母にせがむ、と昔から役の心得として説かれているところだが、勘三郎が本当にそのとおりに情感を流露させているのを見て、わたしはアッと思った。こういうところは、いわゆる英雄役者風の俳優ほど、とかく照れて内輪にすませようとするのだが、勘三郎を見ていると、子供の心に返るという口伝は決して単なる比喩ではない。その心に返って、盛綱という難役の鍵ははじめて開くのだ。

首実検で一番印象的だったのは、まず偽首を見てオヤと目を見やり、同時に腹を切った甥の小四郎が必死の目でこちらを見ているのに気づいて、ム、と思いを深める、その心の綾が手に取るように見えたことである。そこではじめて、勘三郎の盛綱は笑う。それも、思わず笑ってしまったという感じ。つまりこのときに、盛綱はすべてを察したのだ。弟の高綱が、ひと目で偽とわかるような首をわが首といって討たせ、幼い倅の小四郎にその首を見て「父上」と叫ばせるばかりか腹まで切らせるという、手の込んだたくらみを兄の自分に仕掛けてきた意味を。おそるべき策略家でありながら、すべてを兄である盛綱に預けてしまう弟という存在のぬけぬけとした態度。そうしたすべてを読み取って、いわば高綱がこちらのコートに打ち込んできた球を、盛綱は、自分の一身を賭けて、主君である北条時政を裏切り、高綱の思う壺のとおりに相手のコートへ打ち返してやる。知的でヒューマンな盛綱だが、勘三郎だと、首実検は知的な推理というより、情の急所を感じ取ってすべてを受け取ったという感が深くなる。場面には登場しない高綱の、凄惨でややグロテスクなイメージが、むしろ、ジェントルマンである兄に対する、幾分目かの甘えをも含んだ、弟の「いけずさ」という人間味を帯びて感じられてくる。

首実検がすんで時政が帰ったあと、しばし黙然としているのは、誰の盛綱でもすることだが、勘三郎の盛綱は、しばらくまだ心が揺れているかのようにも見える。極限状況にあってなお、やわらかな心の働きを失わない人、その人柄のなつかしさ、とその折の劇評にわたしは書いたのだったが、そのとき改めて思ったのは、生締の鬘に白塗りという扮装の、「和実」という、実事に和事味を掛け合わせた役としてこの盛綱という役を造形した古人の知恵の深さだった。同時に、襲名披露という大事のときに盛綱を演じようと考えた勘三郎の気持が、なにがなし、わかったような気がした。

同時に、もうひとつ思ったのは、同じ生締に白塗りの捌き役でも、柄が優先する実盛などよりむしろ、盛綱の方が、勘三郎にふさわしい役だったということである。思えば当然のことだが、私が勘三郎を理解していた以上に、勘三郎は自分をよく知っていたわけである。

若き日の、前髪のついた若衆の役からはじまって、幹を伸ばし、枝を張り、葉を繁らせてきた勘三郎は、歌舞伎俳優として役柄の領域を大きく、多彩に広げたことになる。だがじつは、多彩にさまざまな役をやっているように見えて、勘三郎には、まだ手掛けていない役がいろいろある。

役の上のことばかりではない。勘三郎はまだまだ戦い半ばであって、むしろ、これまでになしてきたことよりも、これからすべきこと、しなければならないことの方を、より多く持っているのである。

それにしても、勘三郎の盛綱を平成中村座で見たかったと、いま、痛切に思うことである。

 
40.「め」の章 (談話・「盛綱陣屋」について)

―――盛綱という役について? いや、特別な思い入れみたいなものは別にないです。ただ襲名の演目として出したのは、いろんな役が出てくるからいろんな方に出ていただけるということと、やっぱりああいう超弩級の軍艦みたいな大曲をやらしていただきたかったということはありました。

―――それと、盛綱って好きなんですよね、あれ。盛綱って長男のいい人だなあっていう気がするの。ぼくの解釈ですよ。二男てさあ、ずるいじゃない。だから佐々木高綱は、あんなもう悪い奴で・・・。あの長男の感じ。勘三郎にならしてもらって、それ、やっときたいなって、ふと思ったんです。

―――首実検でふっと首を見たときに、普通はね、やりゃあがったなって笑えっていうんだけど、それがいまの普通のやり方で、いまもいろんな方がそうやるけど、そうじゃないと思う。あれ、間違いだと思うんですよ。やりゃあがったな、じゃないですよ。長男ってそんなこと思わないですもの。

―――なあんでだ?ってことでしょ。ええっ?って、盛綱は思ったんだ。これ、この首、ひと目見たら偽だってわかるよ。なら、なんでこんなことしたんだろ? え? 待てよ。何でそれなのに、この子は腹切って死んでんだ? で、見るとその子が、おじさん、言わないでって顔してる。そこで笑えるんですよ、はじめて。やりゃあがったなーっ、て。

―――だって、絶対そうだと思いません? やりゃあがったなって笑うじゃない、みんな。で、何分かかったとか。かかってもいいんですよ。それが、何故それだけかかんのか、わかんないんだもの。盛綱っていい人だから、あの人の中にはないもんね、そんなこと。なーんで? こんなこと嘘だって、俺、言っちゃうよ。ちょっとやめてくれよ。こんなことまでするのかよぉ、ばっか野郎、しょうがねえ嘘ついてやろう、って考える。いい人なんですよ、盛綱って。

―――しょうがない。どうしよう。あとはもう、時政に首は本物だって言って、その代わり俺も死のう、っていう瞬間がね、大好きなの。この心理。これをね、やらない盛綱は、ぼくは本当は打ち殺してやりたいんだよ。これからこの役、何回もぼくはやります。これから先。

―――だって、むかし歌右衛門のおじさんに『鳴神』の絶間おそわったとき、(声色で)「不思議なことなあ」と言えと、心がなければ駄目だと言われてきたのに。何が古典だと言いたい。心よりも、貫録とか、セリフ廻しとか、それでごまかされるっていう気がする。いやなの。そこにドラマがなければ。

―――ぼくはどんなことがあっても、これから先、勉強していくのは、ドラマ性を古典の大曲には持ってゆきたい。それから世話物は、日常の感じをどこに持っていくか。いわゆるリアル、であり歌舞伎である。逆に言うと、時代物は世話にやれっていうのはね、そこだと思うんですよ。世話は時代にやれってのもそこなんですよ。そこがね、これからの課題だなあ。かといって理屈っぽく、神経質にやっちゃいけないんですよ。肚だからね。肚でやりたい。その第一歩だったんだ、この盛綱はね。

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