随談第524回 今月の舞台から・團十郎のいない團菊祭と染五郎汗の十二役

新しい歌舞伎座ではじめての、というよりも、團十郎がいなくなって初めての、という形容辞をつけた方が本当はふさわしい團菊祭である。團十郎がいて、菊五郎がいる――そういうことを、われわれは余りにも当然のこととして思っていた。そのことを、改めてしみじみと思った、というのが今回の團菊祭を見ての一番の感慨である。

團十郎が欠けた分、舞台に穴が開いた・・・といった話ではない。そこに当り前のようにいたものが、いるべきものがいないということ。喪失感は、ラディカルな形でよりも、むしろしみじみとした思いとして、深く感じられた。もちろんこれまでだって、團菊そろわない團菊祭は時にあったが、そういう話ではこれはない。

菊五郎の孤独というものを、私は今度の團菊祭を見ながら絶えず思っていた。目の前で海老蔵が目をぎろぎろさせながら弁慶を演じるのを、しかしこれはこれで本人は本人なりにちゃんと考えてやっていることなのだな、などと得心したり、なるほど子供があんなに小さいのだから幡隨長兵衛という男は本当は海老蔵ぐらいの若い男だったのだなと頷いたり、菊之助の富樫や弥生や獅子を見ながらどうして彼はこんなに隙のない芝居をしようとするのだろう、などと考えたりしながらも、私は常に、その奥に菊五郎の存在を思い遣っていた。やがて菊五郎自身が舞台に現われて水野を演じ、魚屋宗五郎を演じる。海老蔵や菊之助を見た目には、まさに大人の芸であり、揺るぐことのない安定感が私を包み込んでくれる。この安堵感! これぞ、歌舞伎であるという満足感。

吉右衛門と二人で『身替座禅』を演じ『勧進帳』を演じたのは早くも先々月になるが、あの時にも同じものを感じた。しかしあの時は、一方に吉右衛門がいたから、何と言うか、もう少し張り詰めたというか、理解し合った者同士で演じる喜びの中にも、一種、昂揚感とでもいうべきオーラが前に出ていたが、今度は、いま言った安堵や満足の奥に、菊五郎の孤独を思わずにいられなかった。團十郎がいない。そのことを、菊五郎は舞台の上で、改めて思い、噛みしめていたのではないだろうか。それは、むしろ宗五郎以上に、水野に於いて印象的だった。水野という男の孤独と、菊五郎の孤独とは、理由も性質もまるで違うものであるはずだが、まわりに大勢人がいながら実は孤独であるという一点で重なり合うものが、見ている私にそう思わせたのに違いない。

もちろんこんなことは、客席から眺めている私の心の中で起ったよしなしごとであって、当の菊五郎が何を思いながら水野や宗五郎を勤めていたか、私の知るところではない。しかし間違いなく言えるのは、このところの菊五郎の舞台の、何とも言えぬ豊かさであり気力の充実である。不遜な言い方になるかも知れないが、それは私に、菊五郎というものへの認識を改めることを迫るものであった、と、正確に言おうとすれば、いうことになる。

團十郎効果といったら非礼に当るだろうが、團十郎の死が、菊五郎の心境に与えたものが、こうした形で顕われたのであるように、私には思えてならない。

          *

少しすっきりし過ぎたきらいはあるが、悪くない團菊祭ではあった。親たちの時代なら、海老蔵でも菊之助でももう一役二役、持ったり付き合ったりして、てんこ盛りにしたところだろうが、血気の筈の若者であっても腹八分でやめておき、スリムな体型を維持する冷静さを失わないのが現代というものかも知れない。

海老蔵は弁慶よりもむしろ長兵衛で、男伊達として人に立てられる者の骨柄を実感させたのを面白いと思った。弁慶はつい二ヵ月前に吉右衛門のを見ている。それはまさしく、当代の歌舞伎における弁慶というものを、あらゆる意味において具現するものだった。長兵衛も、いまや吉右衛門のイメージが圧倒的である。だがそうした圧倒的ともいえる吉右衛門のイメージの下にありながら、海老蔵の弁慶は、長兵衛は、決して自分の光を失うことはない。海老蔵は海老蔵の弁慶、長兵衛として、そこに生きて光を放っている。そこに海老蔵の海老蔵たる所以がある。

弁慶は、さっきも言ったように、しきりに引目を引いて目をぎらつかせるが、この前みたいに無意味に目を剥くのではなく、それなりに理に適っている。目を剥くことの是非ではない。一事が万事、すべて海老蔵なりに考え、合理性があり、何故そこでそうするのかということを、海老蔵なりに考え尽くした上で演じている。そこが海老蔵の海老蔵たるところ、というべきであろう。海老蔵はあれで、なかなか「考える人」なのだ。

その考えたところが、うまくはまる場合とはまらない場合があるのは当然だが、少なくとも今度の弁慶は、なるほど、そういうことなのかと私は得心した。これが2014年のいま、海老蔵の演じる弁慶なのだという意味で。

長兵衛は、序幕の山村座はいまの海老蔵ではどうにもならない。いくら腰を低く、慇懃に振る舞ったところで、腹の中の顕示意識が見え見えである。が、まあ、それも含めての話だが、長兵衛内の、長兵衛が実は若きパパであることの実感に海老蔵ならではの真実味があって、それから水野邸へかけて、こういう、焼けばブルーだのグリーンだのパープルだの、さまざまな色の煙が立ちのぼりそうな、生木のような長兵衛の方が、むしろ本来の長兵衛であるのかもしれない、などと思わせられたりする。黙阿弥の書いた長兵衛としてどうかという話ではない。「異能の役者」たる所以がそこにある。

菊之助というものを、どう考えればいいのだろう? 普通の形での劇評としてなら、今度の富樫にせよ。『鏡獅子』の弥生にせよ獅子にせよ、まず文句なしにほめて差支えないだろう。清新の気溢れる富樫、清楚にして凛然たる『鏡獅子』と書いてしまえば、もうそれで足りる。その限りで少しの嘘もない。だが、富樫にせよ、弥生にせよ獅子にせよ、お前は充分に満足したか? もし私の中のメフィストテレスにそう問われたなら、私というへっぽこファウストは、充分に満足した、時よ止まれと答えることができるだろうか? 

充分の中の不足、と言おうか。満足の中の不満足、と言おうか。おそらくこの吹っ切れなさは、菊之助が何を考え、何をしようとして演じているのかを、私が捉え切れていないからに違いない。「非の打ちどころない」という言葉を字義通りに取ると、菊之助の「現在」を表すことになるかも知れない。

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左團次が、弁慶ではないが一期の思い出のような『毛抜』をやっている。30年の余も昔の襲名の時にやり、その後、かれこれ20年ばかり前にやったことがあったが、それ以来だろう。元々、左團次という名前の手前と、大まかでマッチョな仁や芸風にふさわしいという処から襲名の演目に選んだのだったろうが、爾来30有余年、器用さや含みというものがない芸風は相変わらずながら、そこはそれ、何とも言えないとぼけたヒューモアが漂ってこの狂言に似つかわしいムードに通じたところが年の功というべきである。

松禄が『矢の根』の五郎というのは、こういう時の松禄の現在でのポジションというものだろうが、この人に甲の声が出るようになれば、松禄の荒事というのもひとつの存在になれるだろう。田之助が十郎で出て、これが新しい歌舞伎座初出演。舞台の上にいる所要時間こそ短いが、紫の似合う風情と言い憂いの利いたセリフと言い、さすがに本格の芸を見せる。

(これでまだ歌舞伎座に出ていないのは〇之助だけだ、という声をロビーで聞いたが・・・)

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明治座で染五郎が10役+2役=12役という奮闘公演。とにかく先ず、その意気やよく、『伊達の十役』の冒頭、例の十役のパネルを掛け並べた前で、やや気負った早口で十人の人物を解説する裃姿でする口上が、私が女性だったらカワイイと表現したくなるような好もしさで、言うならこの姿が、今回の『伊達の十役』全体を、更には今度の明治座公演全体をシンボライズしているかのようだ。

十役では与右衛門が何と言っても本役である。あれでやつしなりにもう少し色気と陰影が深くなったら、和事風の二枚目として江戸歌舞伎の伝統に連なることになるであろう。はじめはちょっとデカイなあと思った累が、殺しのくだりになって与右衛門とめまぐるしく早変わりを繰り返しているうちに、与右衛門のムードがうまく累にも相乗効果したかのように、しっくりしてきて、この場が全篇で一番の出来、即ち与右衛門が、今回の十役の核となった。

勝元はもちろんいい。(これが駄目なら染五郎はないようなものだが。)仁木も努力してつとめているから悪い出来ではないが、染五郎は染五郎であって海老蔵ではないのだから、ひと睨みしてワッと浚ってしまうような仁木ではないのは是非もないことで、従って恥じたりがっかりしたりする必要はない。(宙乗りはなかなかよく頑張った。)同じく仁になくとも、努力によって早変わりの一役としてなら充分にアクセント役として勤まったのが道哲であり、全幕中の長丁場で早変わりで逃げるわけに行かない政岡を敢闘賞ものの成績で乗り切ったのが、今度の『伊達の十役』をともかくも成功の部に押し上げる根拠となった。

ひと頃、桜姫だの何だの、女形に色気を見せた時期があって、色気不足が致命傷かと言ったり書いたりしたものだが、それ専門でやるのは無理でも、こうして十役の一つ二つとしてする上でなら、女形体験は決して無駄ではなかったことになる。若い時には何でも経験しておくものである。

もっとも、以上は十役から染五郎の仁を探りながら見た結果で、別な観点から、たとえばフィギュアスケートの採点みたいに、ア、いまのトリプルナントカはちょっと回転不足でしたね、審判が微妙なところをどう採点するでしょうか、などという具合にやったら話はまた違ってくるだろう。もしかすると、どの役も多少の増減はあってもみな百点満点の七十点台に納まってしまいそうな気もする。それを、うまく取り収めたと見るか、もっと振幅がないとツマラナイと見るか。私としては、そういう風に物差しで測定するように見るよりも、染五郎が十役をどういう風に演じるかに興味があったというわけだ。

もう二役、『釣女』と『艪清の夢』も初役だから、染五郎としては汗の十役どころか十二役だったわけだが、この『艪清の夢』がちょっとした拾い物である。もともと上方にあった狂言を亡き宗十郎が復活したものだが、こういう芝居こういう役は体に和事味がないと出来ない相談で、これをこれだけ出来るというのは、なかなか頼もしいと言うべきである。宗十郎路線の後継者とまで言っては、まだ早計だとしても。

「御殿」の場は、秀太郎が栄御前、歌六が八汐と揃って、ちょっとしたものだったが、とくに秀太郎は、このところ世話狂言のおばさん役でじゃらじゃら、じゃらじゃら、どこまでがセリフでどこからが捨て台詞かわからないような芝居ばかりが続いたが、こういうお家狂言でちょっと皮肉な肚のある役だと、やっぱり大した地力である。

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文楽の住大夫の引退興行で、国立小劇場が大変な入りだが、ロビーの一画に贈り物の花が飾られている以外、格別なことは一切していない。口上もなし、普通に一段を語り終えると、盆が回って静かに消えてゆく。やれ『鮓屋』だ『寺子屋』だといった大曲でなく、

『恋女房染分手綱』の「沓掛村」というややマイナーな出し物を引退の演目に選んだいきさつについて、事情通の裏話も耳にしたが、こういう味な作を味わい深く語ってお仕舞いにするというのも、なかなか洒落ていて悪くない。「滋味」という言葉にふさわしい語り口だった。思い出深いものになるに違いない。

それにしても今回は、この『沓掛村』もだが、『本蔵下屋敷』だの『丗三間堂』だの、マイナー作品集みたいな演目が揃ったのは、偶然なのかどうか知らないが、これはこれで面白い。『丗三間堂』はマイナーといっても有名作・人気作だが、愚作の見本みたいに言われる『本蔵下屋敷』などというのも、たしかに感心した作ではないが、それでも、夜の部の切りに出ている『鳴響安宅新関』などが、曲もなく歌舞伎の『勧進帳』をなぞっただけのようなのに比べると、『仮名手本』の二段目・九段目の裏話としての綾、詞章の凝り方、伴内をもじったと思しい伴左衛門というチャリの悪侍のバカバカしさ、文楽以外の何ものでもない作品になっている。明治出来の「忠臣蔵外伝」の匂いの芬々とする、忠義忠義で凝り固めたような内容は閉口するが、おそらくこの作の作者は、知性は大したことはないが、文藻といい、作者として大変な教養の持主であったに違いない。

(かの橋本大阪府知事が視察に来て生まれて初めて文楽を見たのが、たしか『鳴響安宅新関』だったのではなかったかしらん。よりによってどうしてこんなものを見せたのか知らないが、私だって、もし生まれて初めてみた文楽がこれだったら、文楽ナンテツマラナイと思ったかもしれない。でもそれにしては、時々上演されるところを見ると、結構人気があるのだろうか?)

夜の部で咲大夫が『女殺油地獄』の「油店の段」を語る。この作も、世評と違って実は私はあまり有難くないのだが、咲大夫の語りはそんなことを忘れさせる見事なものだった。母親と父親の、煩雑ともいえる気の配りようやらおもんぱかりやらの一々が、言葉が立って、耳に、胸に届いてくる。なるほど、こういう風に語られれば、やはり名作には違いない。

(但し殺しの場で、競技中に転倒したスピードスケートの選手よろしく、ツーッとお吉と与兵衛の人形を滑らせるのを何度もやるのは、考え物ではあるまいか。せめて、一、二度に留めておかないと、あの大騒ぎに何故子供が目を覚まして起きてこないのかと、変痴気論みたいなことを言いたくなってしまう。十歳というあの姉娘、なかなか利発でオマセではないか。)

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前進座が恒例の国立劇場公演で国太郎の『お染の七役』を出している。祖父や親の代からの歌舞伎の出身といえば国太郎、圭史、矢之輔、芳三郎ぐらいのもので、かなりのベテランといえども座の養成所出身者という世代だが、とにかく一生懸命、「歌舞伎をやっている」のが、ほほえましくもあり、時に感心もする。これはこれで、以前とはまたちょっと違った意味で「前進座歌舞伎」と言っていいのではあるまいか。

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随談第523回 近頃人間模様-カワチノカミ事件と小保方騒動-

ボクチャンみたいな政治家がトップの座に坐って、尊敬するお祖父チャンみたいなテンカビトになりたいなー、と支持率の高い今のうちに、オタク式勉強で習い覚えた「趣味の政策」を実現しようと躍起になっている(オヤ? どこの国の話をしているのだっけ?)のと関係があるのやらないのやら、このところ、ひとつがすめばまた一つ、この世のタガが外れたかのように、ケッタイな出来事が次々と浮かんでは消えてゆく。まあその中でも、ケッタイさに於いて、浮世を映す鏡とも、面白うてやがて哀しき人間模様が透けて見える出来事といえば、差当りこの二件だろう。

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柳生但馬守と書いてヤギウ・タジマノカミと読み、柳沢出羽守と書けばヤナギサワ・デワノカミと読む。だから佐村河内守とあればサムラ・カワチノカミと、おのずから読んだ。

それにしてもこの現代に河内守って何だ、というのが、あの「現代のベートーベン」なる難聴の作曲家を知って最初に思ったことだった。知って、といっても、あの荘重なるNHKの特集番組で見た「現代のベートーベン」以外のことは全く知らない。だから問題の、彼が作曲したことになっていた音楽そのものについては、あの番組に流れていた断片以外、聞いたこともない。(あ、それから高橋大輔選手のフィギュアの演技の時と。)

やがて、なんとも風采のあがらない、胃弱で胆力の乏しそうな人物が現われて、あれは自分の作曲した曲だと名乗り出ると、今度は強面風のスタイルをやめて長髪を切り落し、サングラスを取ったカワチノカミ自身が出てきて、謝罪だか反論だかどちらともつかないようなことを言い出すに及んで、興味は一気にしぼんだ。話が見え透いてしまったからである。

そもそも、ゴーストライターによる代作などというものは、どこまでが代作でどこからがそうでないか、わかったものではない。世の有名人の自伝めいた文章の多くは代作というなら代作であるに違いない。書いた者と書かせた者、あるいは書いてもらった者、当事者の間で納得し合っているか否かがすべてを決める。カワチノカミ氏の場合も、ほどほどのところで留めておいて、然るべき報酬をゴースト氏にきちんと納得ずくで渡していれば問題はなかったのだろうが、「現代のベートーベン」となってクラシック界の鬼才として社会に認知されようと欲を起したために、ゴースト氏からすれば、そりゃアないよということになったのだろう。

作曲業だの文筆業だのというのは、世間に認められるようにならない間は、これという社会的なポジションも、確かな収入もあるわけではない。かのゴースト氏も、初めは、まあ悪くないアルバイトとしてやっていたのに違いない。(私なども昔は、著名な翻訳家の下訳を散々やったものだ。親会社と下請け業者の関係とまったく同じである。)

残る問題があるとすれば、作曲家サムラゴウチ・マモルなる者が作曲したとされる曲は、どういうことになるのだろう?ということだが、名作説、駄作説、とりどりあるようだが、それもこれも、くだんの曲の世評がどれだけ高くなるか、それ次第というわけか。万が一、百年後にも残る曲があったなら、かのゴースト氏は大作曲家として後世に名を留めることとなり、カワチノカミの一件は、名曲にまつわる珍エピソードとしてクイズ問題のネタか何かとして、これも後世に伝わらないとも限らないが、そもそもそれだけの曲なのかどうか、私には何とも言えない。

         *

カワチノカミの一件と小保方女史の騒動とは、本来、同日に語るべき種類のものではない筈だが、世間の耳目を惹く現象としては共通するものがある。

1. 耳の聞こえない作曲家の名曲と、割烹着を着た女性理学博士の大発見。片方はそれで自ら売ろうとし、片方は理研という権威が組織のPRのタレントとして使おうとした。(スンナリいけば、理研も小保方女史も、双方メデタシメデタシ、ウィンウィンの形で落着するはずだった。割烹着はちょっと悪ノリがすぎたとしても。)

2. 売出しに成功したかと見えたところで、どちらにも、なんともケッタイな謎が露呈した。侃々諤々、甲論乙駁をやらかすのにこれほど格好の題材は、そう滅多にあるものではい。まず理研のエライ人たちが尻尾を切り捨て、イクラナンデモソレハナイデショとご本人が登場し、いつまでも頬かむりをしていられなくなって、彼女を担いだセンセイが登場する。しかしその彼女が頼りにしていた筈の秀才教授は、案の定、3時間半に及ぶ記者会見を、要するにワタクシは手を汚していませんと、考え抜いた台本で弁舌さわやかに切り抜けると、ミソギをすませたかのように逃げてしまった。げに頼み難きは人ごころ、である。

3. カワチノカミ氏の一件の方は既に勝負あっただが、小保方女史の一件の方は、STAP細胞という錦の御旗が掲げられている以上、無碍にはできないから、その真偽をめぐって、まだ当分は、ジャンヌダルクか女天一坊か、ドタバタはまだ当分、続くことになる。未熟な研究者のお粗末なやり方と冷笑していたエライ人が同じ墓穴を掘っていたことが分ったり、「悲喜劇・理研村騒動記」のようなドダバタ劇の様相も呈してきたが、理研をやめさせられてハーヴァードの研究所なりどこかへ流れて行ってから、一発大逆転、やっぱりありました、などということに万が一にでもなったら、現実は芝居などよりはるかにオモシロイということになるだろう。

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芝居といえば、つい先夜、入谷の入口にある小劇場でミハイル・ブルガーコフの『犬の心臓』という芝居を見た。1925年、ロシアに社会主義政権が出来て数年後という時代に書かれたこの劇は、常識的には、ソヴィエト革命後の社会の風刺劇ということになっているが、この際そういうことはどうでもよい。核となるのは、ソ連政権下のある医師が、飲んだくれて野垂れ死にしたどうしようもないダメ男から、脳下垂体と睾丸を摘出して、一匹の野良犬に移植すると、やがて犬が人間と化して、革命思想を叫び出したり、とんでもない言動を取り始め、生みの親の医師と助手が振り回されるというグロテスクな物語である。同じ犬が人間になる話でも、落語の『元犬』なら笑っていられるが、こちらのロシア版『元犬』は、うっかりすると夢にでも見てうなされそうなコワイ話になっている。

最後には、医師と助手が、再び男に手術を施して犬に戻してしまうのだが、これで本当にヤレヤレメダタシということになるのか、芝居はここで終りになるが、この元犬男は、一旦はちゃんと(医師の私生児として)戸籍に登録され、ナントカ委員会のちょっとした幹部にまで成り上がったりもしたのだから、そういう人物?が急にいなくなったとして、医師の弁明がどこまで社会的に通用するか、実は知れたものではない。現に医師は、犬に戻るための施術の記録は失われてしまったという、やや苦しい弁明もするのだ。(ア、オボカタだ、とまことに申し訳ないことだが、医師のこのセリフを聞きながら思い出してしまった。)

そうなのだ。小保方女史はすこしも嘘などついていないのに違いない。犬からヒトを作り、また犬に戻してしまった医師のプレオプラジェンスキー教授が「嘘」をついていないように。だがそれを、どうやって社会に信じてもらえばいいのだろう?

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随談第522回 今月の舞台から

またしても大分、間遠になってしまった。それと、今月の歌舞伎座評を来月早々発行の「演劇界」6月号に書いたので、発売前にあまり書くのは遠慮したい。そこで、今月のお薦めは三津五郎の『靫猿』ということだけを言っておこう。

それにしても、これは本当によかった。古典芸術でなければ味わえない喜びというものが、ここにある。現代における歌舞伎の在り方をめぐって、あゝあるべき、こうするべき、さまざまあるわけだが、少なくとも、歌舞伎は何を以って歌舞伎であり得るのか、何を以って歌舞伎と呼び得るのか、ということを問う時の、これがひとつの欠かすことの出来ない答えであるのは間違いないであろう。

それにつけても、三津五郎健在をこうした形で示してくれたことは、何よりという他はない。亡き九代目が猿曳、当代がまだ八十助で女大名、奴は梅玉だったが小猿を現已之助がつとめて親子三代による『靫猿』と話題にもなり、また素敵な出来でいまなお印象深い舞台だったのが、もう19年前になっていたのだ。

        *

いままでミュージカルのことを書いたことはあまりなかったが、今月は、帝劇で初演の『レディ・ベス』を見ながらあれこれ思ったことがあるのでそれを書いてみよう。

まあ、面白かったと言っていい。主役がダブルキャストなので、中三日おいて(今どきのプロ野球の投手の登板よりも間隔が狭い)二度見て、二度とも面白いと思ったのだから、というより、二度目を見ながらはじめ気が付かなかったいろいろなことに気が付く面白さがあったのだから、よく出来た作であるのは間違いない。それにしても、まず思うのは、こういう、いわば西洋史を題材にした作品が日本主導で欧米の作者・作曲者によって作られ本邦初演が世界初演になるというようなことが、(もちろん当事者の苦労や苦心は多々あるにせよ)いうなら当り前のような顔をして実際に行われる時代になったのだということである。何をいまさら、と言われるかも知れないが、しかしこれは改めて驚く(ことを忘れてはいけない)ことである筈だ。これは、制作、演技・演出、観客の受容、さまざまな位相・レベルで言えることである。

西洋史を背景・題材にした作品を日本人が作り、大ヒットしたといえば、例の『ベルばら』がすぐ思い当るわけだが、事実あの辺りから、ジャンルとして「こういうのもあり」ということになったのだったと思う。まあそれには、宝塚歌劇というものが久しい以前から種を蒔いてあったわけだが、(「ホフマン物語」だの、タイトルは忘れたが例の「エリザベート」と同じテーマのものだのが、春日野八千代といった人たちの時代からやっていたのは覚えている)、どうしても「疑似西洋」めいたものを志向する感が強かったのを、そういう遠慮を取り払ってグイと日本人の好みに引きつけたという意味で、『ベルばら』の存在・作り方というのが画期的だったのは間違いない。だがここへきて、ミヒャエル・クンツェの作、シルヴェスター・リーヴァイの曲と結んでの一連の作が出来るようになって、『ベルばら』レベルの「日本人臭」をひとつ抜けた作品群が出来、馴染まれるようになった。この辺は、日本人の日常と西欧の距離の作り出す微妙な感覚の変化が背景にあるのだと思うが、まあ、すっ飛ばして言えば、遂にこういうところまで来たか、という感慨を抱かないわけには行かない。

とはいうものの、正直なところ、これまでの『エリザベート』『モーツァルト!』その他その他の諸作は、(私の胃の腑には、という意味だが)ちとこなれの悪い部分があって世評ほどには乗れなかったのだが、今度の『レデイ・ベス』を見て、ああここまで(あるいは、あゝ、こんなにも)こなれのいい西洋種芝居が出来てしまったのだ(作れちゃったのだ)という思いを抱かざるを得なかった、というわけなのだ。

この作を、今までの諸作に勝る名作だというのではない。評価は人さまざまにあるであろう。しかし16世紀50~60年代前後の、イギリス・チューダー王朝時代の(せめて高校の世界史程度のことをある程度真面目に勉強していないと、まず馴染みのない時代だ)、宗教と外交と王権と王族相互の婚姻関係といった事情が王位継承の問題と複雑に絡まりあってのもろもろを、あるいはすっ飛ばし、あるいは短絡させるなどして、3時間程度のミュージカル・ドラマに仕立てた手際というもの大したものだ。当然、英国史の知識のある人から見れば、気になる部分はいろいろあるわけだが、(たとえばイギリスの国教会=アングリカンというのは信仰上の理由からローマ法王庁と断絶したわけではないから、他の欧州諸国の旧教と新教の対立・確執とは様相が違うはずだとか、何だかんだといった事ども)煩雑に入り組んだそれらの事象を、枝を落し葉を刈り込む、その大鉈・小鉈の使い分けがなかなかうまい。現女王のメアリ・チューダーがカトリックに復帰させるために宗教的圧政をし、市民が反発してベス、つまりエリザベス一世を担ごうとするという、ドラマの展開の主軸になる経緯など、日本の観客にとってはあれぐらいが、少なくとも頭が痛くならずに済むぎりぎり一杯だろう。もっとも、舞台の本場であるイギリスの観客が見たらどう思うだろう?とか、他人の疝気を気に病むようなことを始めれば、切りがないことになる。

日本人から見たって、ロンドン市民がメアリ女王に反発して自由を叫ぶところなど、『レ・ミゼラブル』のパリ市民蜂起の場面と瓜二つだったり(16世紀のロンドン市民ってあんなにデモクラチックだったのだろうか?)、ベスと惹かれ合うロビンなる青年がロック・ミュージシャン風だったり、こうした割り切り方が「東宝ミュージカル」のテイストということでもある。ロビンとの恋がエリザベス一世が終生独身で通した理由の種明かしになっているのがミソであり、この種のドラマの作劇術の黄金律とも言える。

それにしても、こういう風に、歴史を娯楽ドラマに仕立てる手際は、向こうの人たちにとってはシェイクスピアの歴史劇以来、作る側・見る側双方に自ずからなるノウハウがDNAに擦り込まれているかのようである。ベスとロビンがロミオとジュリエットみたに忍び逢ったり、その現場からロンドン塔に連行されたり、といった大胆不敵に枝葉を払ってドラマを展開させる手際は天晴れというべきである。ついこの間新橋演舞場の滝澤歌舞伎をしばらくぶりに見たが、第二部で毎回趣向を変えてやる「義経」の物語が、やたらに心情的だったり、かと思うと妙に歴史新解釈みたいだったり、どうも面白くない。もっと、昔から伝わっている義経伝説の正統を、現代のテイストも加味しながら(つまり、ロビンである)、面白く運んでゆく方法がありそうなものだと思う。テレビの韓流時代劇を見ても、人物の造形と筋立ての組み合わせがうまいので、興味を次々と引っ張ってゆく。典型的人物でありながら、そこに端倪すべからざる人間洞察が窺われる。そこが面白い。歴史ドラマのおもしろさは、つまるところ、史実と絡みながら人間模様が如何に描かれるれているかに掛かっている。

ダブルキャストのベス役は、舞台俳優としてのキャリアからいって花總まりの方にはるかに安定感がある、つまり舞台の演技としてサマになっているのは当然というべきだろうが、平野綾にはその代わりに役と等身大の初々しさと実感があるのと、もうひとつ、ロビンと抱き合っているところへメアリ女王崩御の報が届き、ベスがあれよという間にエリザベス一世として奉られてしまうところで、『千本桜』の弥助が「たちまち変わる御装い」というわずか数秒の竹本の語りの間に、平維盛になってしまうみたいに、見事に女王になって見せたのに感心した。わずかな身のこなし、仕草ひとつ、つまり「位取り」という技法だが、舞台俳優として、ちょいとお見それ申し上げたと言っていい。

姥桜のメアリ女王と国際的政略結婚をするスペイン皇太子のフェリペというのが、端倪すべからざる遊び人という儲け役で、こういうキャラクターの掴まえ方にも脚本の巧さがあるが、海老蔵がやったら面白かろうと思った。(今度の平方元基や古川雄大もそれなりに良くやっているが。)そういう、舞台俳優としての演技という意味では、大司教ガ-ディナーになる石川禅がなかなか巧者である。花總まりにせよ、石川禅にせよ、石丸幹二にせよ、この前見た『モンテ・クリスト伯』にも出ていたのにたいして印象に残っていないのは、彼等の演技よりも、作品の出来により多くの理由があるだろう。つまりみんな、今度の方がいい役者に見えるのである。

        *

新国立劇場では、この春以降、『アルトナの幽閉者』『マニラ瑞穂記』といった、かねて音に聞こえていながら見る機会のなかった問題作に接することが出来た。そのこと自体は新国立劇場に感謝すべきだが、それと、実際に見ての思いというものはまた別と言わなければない。どちらについても今更ながら思うのは、こういう劇はあくまでも時代と共にあるべきもので、そうした「時」が過ぎ去った今、どうしてこれがあれほどまでに当時の人の心を捉えたのかということを、まず思わないわけに行かない。サルトルなどは、ちょうど私などの学生時代が「サルトルに非ずんば哲学に非ず」、だれそれさん曰く「猫も杓子もサルトル佐助」の時代だったわけで、そういうのを横目に見ながらほとんど無縁に過してきた私などは、往時熱心に実存主義に「かぶれた」人たちがいまこの作を見て抱くであろう感慨とはまた一種別の感慨をもつことになる。

『マニラ瑞穂記』の方は、ひとつの「日本人の記録」という意味で、『アルトナ』に比べれば、ある種の迫真的なものを今なお、まったく感じないというわけには行かない。秋岡伝次郎と高崎碌郎というドラマの芯になる二人の人物の設定がこの戯曲の肝で、今の日本では忘れ去られてしまったに等しいフィリピン独立戦争の周辺に係わった日本人の在り様が、今もまったく無縁になってしまったわけではないことを現代の観客に訴えるだけの力を失っていない。ただ、いわゆる「からゆきさん」に係わる筋はいまなお普遍性を失わないのに比べ、にほんじん義勇兵士と革命軍との関係など今となっては分かりにくいことが、過去の名作の鑑賞、という以上にはなりにくくしていることは否めない。

とはいえ私などには、個々の作品の評価は別にして、『アルトナの幽閉者』にせよ『マニラ瑞穂記』にせよ、このシリーズのようなものが、新国立劇場の仕事として一番ありがたいことは間違いない。

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随談第521回 話題吹寄せ

またまた、掛け流し状態が永らく続いてしまった。3月は遂に更新が一回に留まった。書こうと思うことがあっても時期を失してしまったり、といったことが重なるときは重なるもの。そこで今回は、やや旧聞に属する話題が混じってもご容赦願うこととして、各種の話題吹寄せということにしよう。

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春場所は、鶴竜がめでたく横綱になって(鶴竜が白鵬を破った一番の気迫のこもり方を見ただけで、甲斐はあったといえる。琴奨菊が奮起して両横綱に勝った相撲もいい相撲だった)土俵入りは雲竜型だそうで、不知火型と両方見られるようになるのは結構なことだ。ひと頃は、不知火型というと、両手を広げるのは攻めだけで守りの姿勢がないから異端だの、短命に終わるから縁起が良くないだのと、妙なことが言われたこともあったのが、このところは形勢逆転、二人横綱が二人とも不知火型という珍しい「時代」であったわけだ。

不知火型短命説というのは吉葉山以降、たまたま、老齢で横綱になったために在位期間が短かった例がつづいたからの俗説で、その前は太刀山とか羽黒山とか、40歳近くまで取った大横綱が不知火型だった。太刀山はもちろん知る由もないが、羽黒山のは実に見事なものだったのを子供心に忘れない。ついでだが、日馬富士の土俵入りはリズム感と流れがあってなかなかいいが、白鵬のは、ひとつの所作ごとに間が途切れるのが気になる。双葉山の映像を見て研究したのだそうだから何か本人なりの理由があってしているのだろうが、何だか次の動作を忘れて、思い出しながらやっているみたいに見えることがある。

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話題の遠藤を白鵬が退けた一番で、立会いに白鵬が張り手を喰らわせて相手の出足を挫いた取り口へ、新聞の投書などでも非難が続出している。そもそも、近年では張り手という技に対する暗黙の禁忌という感覚が忘れ去られて久しいから、おそらく白鵬にしてみれば、初顔合わせの遠藤に対して横綱の厳しさを遠慮会釈なく示してやることが大切だと考えてしたことなのだろう。新人相手でも容赦なく張り手を使うことが、横綱としての権威保持につながっているわけだ。しかし張り手に対する禁忌は、むしろ相撲界あるいは力士たちの間でよりむしろ一般の間に今も伏流水の如くに伝承されていることが、はしなくも今度の白鵬-遠藤の一戦を機に、表に現れたと言える。もっとも、白鵬-遠藤戦当日の放送でも解説の舞の海氏が、横綱らしくきちんと受けて立ってもらいたかったと明言したが、大砂嵐と安美錦の取組でも、大砂嵐の張り手の連発に北の富士氏が強い口調で注意を促していた。つまり彼等の世代までは、(既に日本人の横綱でも立会いに張り手をかます取り口は珍しくなくなってはいたが)張り手への禁忌は生きていたことが分る。

張り手というと、かつて、前田山という大関が、同じ場所で双葉山と羽黒山を張り手まじりの突きで連破したというのが、それから終戦を距て何年も経った我々の少年時代までも語り伝えられていたものだった。前田山は後に横綱になり、本場所を途中休場中に日米野球(戦後初めて来日したサンフランシスコ・シールズという3Aのチームだった)を見物して問題となり詰腹を切らされて引退したが、高砂親方として、二代の朝潮だの高見山だの異色の力士を育てた。高砂部屋というのは近年の朝青龍に至るまで、波乱含みの力士が多いのも、その淵源は前田山の張り手にあるような気もする。

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波乱といえば、まったくの他人事ながら、今回の小保方騒動というものの気色の悪さというものはない。大発見をした割烹着の理学博士で売り出したのも、形勢芳しからずと見るや「体を成していない論文」を書いた未熟な研究者とこきおろしたのも、不正と捏造の単独犯と決めつけたのも、すべては理研の理研による理研のためのPRであり保身のためであったことは、既に誰の目にも明らかだが、いわゆるオトナ社会のおぞましさというものをこれほど赤裸々に見せてしまったところが、学者集団ならではのある種の「バカ正直さ」というものだろう。つまりは、組織というものの論理と構造というものが如何なるものか、というオハナシなわけだが、「大発見」も、おもしろうてやがて哀しき一場の夢ということか。

ところで中山千夏といえば、昭和30~40年代に芸術座の東宝現代劇の芝居で名子役として売り出したかと思うと、70年代のいわゆる政治の季節にあっという間に政治運動にのめり込み、運動家に転身、その後永いこと、私などの耳には音沙汰もなかったのが、つい最近、東京新聞の連載コラムの執筆者の一人になって、なかなか読ませる文章を書いている。その中山氏が、今度の小保方一件に関して書いていたコラムが、一番、機微をついているかに思われて面白かった。

かつてまだ20代だった彼女(当時、誰もが知る人気タレントだった)を政治集団のリーダーに担いだ男たちがいたように、今度の一件にも「彼女」を担いだ男たちがいるわけで、中山氏が幸いだったのは、氏を担いだ男たちが、形成どんなに不利になった時も少なくとも自分たちが担いだ神輿である中山氏を放り出すことだけはしなかったことである、どうか小保方氏を担いだ男たちもそうであることを願う、という趣旨であった(と私は読んだ)。「侠気(おとこぎ)」というタイトルだった。肝心要は、「彼女」を担いだ面々が、科学研究の厳しさなるものを楯にとり隠れ蓑にして、口を拭ってしまわないことであろう。つまり、あの方々に「おとこ気」がどれだけあるか、ということであろう。

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チャンネルNECOも日本映画チャンネルも、ここしばらくゆっくり見ている暇もなかったが、このところようやくひと息ついたのを幸い、60年ぶりの珍作品の数々にめぐり会うことが出来た。若き日の岡田茉利子主演の『芸者小夏』だの、香川京子が感化院の先生になり、売出し前の池内淳子や三ツ矢歌子が生徒になる『何故彼女らはそうなったか』だの、どれも昭和30年前後の作品だが、浪花千栄子や沢村貞子や、まだ純然たる脇役者だった森繁久弥が映画的演技としてやたらに巧いのに思わず笑ってしまう。ところでその中で、昭和32年の日活映画『川上哲治物語・背番号16』というのにめぐり会えた。

監督滝澤英輔といえば、前進座の『戦国群島伝』だの硬派の問題映画もたくさん撮った名監督列伝中のひとりだが、昭和32年の正月映画としてこの作が封切られた時、長嶋茂雄はまだ立教大学の3年生だったことになる。つまり二年後に巨人の4番打者の地位を長嶋に譲る前の、まだ川上が球界最大のスターであった最後の日々に作られた作品なわけで、前にも書いたが、この時点での「背番号16」は日本野球界最大のシンボルであり、川上は「カワカミテツハル」などではなく「カワカミテツジ」だった。(現に、映画の中でもナレーションがはっきりと「テツジ」と言っている。)川上自身も出演してセリフも多少あるが、出演場面のほとんどは、戦後のラビットボール(つまりよく飛ぶボールである)使用の生み出したホームラン量産時代に「弾丸ライナー」を身上とする川上は乗り遅れ、長期の不振にあえぐ中で黙々とバットの素振りに打ち込む、それを妻役の新珠三千代がはらはらしながらもじっと見守る、というもので、やがて球界最初の二千本安打を達成、というのが大団円となる。

じつは川上の出演場面は戦後以降の場面で、映画としては、熊本工業から巨人軍の新人時代の前半の方が真っ当な場面ということになる。若き日の哲治青年を牧真介(などという俳優がいたっけ!)、親友の名捕手吉原を若き日の宍戸錠(まだ豊頬手術など施していないいかにも純粋な青年らしかった頃の、何とも懐かしい細面の顔で出てくる)、藤本監督が二本柳寛、両親を河野秋武と高野由美等々、やや渋いがまずまずの出演者を揃えている。(高野由美は民芸の新劇女優だが、かつての六代目菊五郎の作った俳優学校の出身である。)

しかし何と言っても、今となってみると圧巻なのは、映像として何度も写される往年の後楽園球場のたたずまいである。グラウンドも狭く、いろいろ難点はあったものの、日本のプロ野球の球場としてあれほど似つかわしくも雰囲気のあった球場はなかったといまでも思う。もっともこれは、東京ドームになってからしか知らない方々には、言っても詮無いことには違いない。神宮休場を私はこよなく愛するが、しかしあの球場はやはり本来学生野球のために作られた球場であることは、良し悪しとは別に、否定し切れないものがあると思う。

その後楽園球場のスコアボードに、二千本安打を達成寸前の巨人のラインアップが何度も画面に映し出される。といっても、四番の川上を中心に、二番の坂崎、三番の宮本、五番の岩本、六番の藤尾とだけしか出てこないのだが。(そういえば、坂崎はつい先ごろ、訃報を聞いたのだったっけ。)

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随談第520回 今月の舞台から

種々の原稿の締切や確定申告のことなどが重なって、随分間遠になってしまった。もっともその割には、憎まれ口まじりのオリンピック談義のアクセス数が案外目減りしないのを、ヘエーと思いながら横目に睨んでいたのだったが・・・

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さて今月は何と言っても歌舞伎座の「菊吉」共演にとどめを刺す。散々見慣れている筈の狂言が、こんなにも面白い芝居だったのかと、認識を改めることを迫られるようなことがあったりしたら、それは大変なことに違いない。『身替座禅』がまさしくそれだった。

『身替座禅』といえば、つい、あゝ、またあれね、などということになりやすいのだが、幕が開いて菊五郎の山蔭右京が出てきて名乗りの座についただけで、もう、いつもの『身替座禅』、いつもの菊五郎と違う。別に似ているわけではないが、先の十七代目の勘三郎に感じたような大きさと、それを大きく包んでいるような空気がある。

続いて吉右衛門の玉ノ井が出て、二人並ぶ。その舞台の大きさ。その、二人を包むオーラ。オッ、いいですね、と覚えず隣席の利根川裕さんに小声で言った。ウン、これはいい、と利根川さんも応じた。普通、こんなことはあまりしない。覚えず言い、思わず応じた、というのが実際だ。

芝居というのはこういうものなのだ。何が、どこがどういいのか、などということは、何をどう言ったところで、所詮は後から付けた理屈に過ぎない。そう言ってしまったら劇評などというものは成り立たなくなってしまうようなものだが、こういうことも、時にはあるのである。新聞に書いたことを繰り返しても仕様がないが、二人とも、あざといことをいっさいしない。先の勘三郎の凄かったのは、なんといっても朝帰りのところで、歌舞伎座の場内が花子の色香に包まれた右京の一身に蔽い尽くされるかのようだった。そういう凄さは、十七代目独特のもので、今度の菊五郎がそれにまさったというわけではない。しかし十七代目は、後段の玉ノ井とのやり取りのところになると、どうしても、持ち前のサービス精神がむくむくと湧いてきて、観客の反応を求めてしまう。ときにそれが、過剰に奔ることにもなりがちだった。もちろん、それを求める人もあるが、笑って許しながらも、さっきの陶酔との落差に少し、心が覚めるという人もあったろう。玉ノ井役者がことさらに怖い顔をしたりするのも、ありがちなことだった。

こんどの菊五郎も吉右衛門も、そういうことがない。また殊更に狂言めかしたようなセリフ回しにしたりすることもない。ただ尋常に、歌舞伎の狂言舞踊、つまり、狂言に材を取った、松羽目舞台で演じる歌舞伎狂言としての則を守って演じるだけだ。それで、充分に面白い。これは、二人がそれぞれの永い芸歴の中で、互いに認め合い、許しあう境地にあればこそ、あり得ることに違いない。そのことに、私は心打たれるものを覚える。偉とすべきは、はじめに二人を包んでいたオーラが、最後までそのまま、二人を包み続けていたことである。

『身替座禅』とは、こんなにいい作品だったのか、とつくづく思った。その思いが私自身を驚かせた。知っているつもりでいつもつい聞き流してしまう常磐津の文句にも、知らず知らず耳を傾け、その詞章のエスプリに改めて感じ入ったりもした。配役もよかった。又五郎の太郎冠者の程の良さはドンピシャリだし、壱太郎と尾上右近の千枝と小枝も、清楚にして可愛らしく、ほぼ理想的といっていい。

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こんな調子で続けていると長々し夜をひとりかも寝ることになってしまいそうだから、足を速めることにしよう。

菊吉共演のもう一作『勧進帳』についても、同じことが言える。もっともこちらは、『身替座禅』と違って忘れがたい思い出が人さまざま、私個人としてもいろいろあることだから、これによって『勧進帳』感が変ったというようなことは軽々に言えないにしても、なるほどな、と目を洗われるようなところは随所にあった。全体として心づいたのは、歌舞伎としての正統性ということである。荒事がどうの、能ガカリがどうの、芝居の弁慶か踊りの弁慶か、等々、議論はさまざまに尽きなかろうし、富樫の名乗りが舞台中央であったとか、花道の出で弁慶が義経の前に坐るとか、型の記録のような点からもいろいろ論ずべきことはあるだろうが、菊吉両優が心掛けたのは、ザ・歌舞伎「勧進帳」ということであるように、私には見えた。祖父七代目幸四郎を研究したというようなことを、果たして吉右衛門も語っているらしい。(團菊爺の代表といわれた遠藤為春のような人に言わせると、九代目團十郎の創ったのを七代目幸四郎が駄目にしたのだということになるのだが。)

ここでも、富樫の名乗りにせよ、花道での弁慶の諫言にせよ、勧進帳の読上げにせよ山伏問答にせよ、物々しかったり勿体ぶったり、逆に素読みのようだったり、といったことがなく、歌舞伎の正調にのっとりながら実に明晰である。劇としての流れも、殊更なところが少しもなく、それでいて、というより、それによって、両者の心情がくっきりと見えてくる。レベルの高い、正統的なよき『勧進帳』であったというべきであろう。

坂田藤十郎の義経が、花道の出などはやや不安も思わせたが、「判官御手」のしどころでは流石というところを見せて安心させてくれたのはめでたい。歌六が四天王の筆頭の亀井六郎で音調音程整った声で第一声を発するので、以下の四天王のセリフがきれいに揃う。

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義経ではオヤと思われた藤十郎も、『封印切』では流石という他はない。たまたま、元気な盛りの頃の忠兵衛のVTRを先頃見る機会があったばかりだが、八十歳超のいまなお少しも変わるところがないのは驚異的である。とはいうものの、もうこれだけの『封印切』を見られるのはこれが最後かもしれないという思いが、一入の感を抱かせる。成駒屋松島屋、上方勢で揃えたとはいうものの、翫雀扇雀に覚えさせようという配役であって、八右衛門に我当が元気だったら、などと言い出せば切りがない。それにしても、我当の足の不自由はかなりのものであるらしい。

玉三郎が勘三郎の遺児(という言葉は勘九郎・七之助にはもはやそぐわないが)二人を、おとうさまに代って小母様がお相手致しましょう、という感じで、うまく引き立てつつ玉三郎ワールドに見る者を誘ってうっとりさせたり、、幸四郎が数年来執心を見せて取り組んでいる黙阿弥物を幸四郎ぶりで見せたり、それぞれに当代歌舞伎の華というべきであろう。

どうかと思った『二人藤娘』だが、体形風貌が同型の七之助だと、どちらがどうと見分けがつかなくなる瞬間があって、予期以上に面白かった。ふたりで差しつ差されつするところなど、なかなか刺激的である。しかしまた同時に、玉三郎という人の孤独を思わずにはいられなかったのも事実だ。両作品を見ながらつくづく思ったのは、玉三郎の、若い人を引き立てる巧さと、同時に、それにもかかわらずこの人の世界は、結局のところ、ひとりで完結してしまうのだということである。

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国立劇場の『切られお富』については、新聞評に書いたことで尽きている。決して不成績の舞台なぞではない。しかし演目、顔ぶれ、あの陣容で大劇場一カ月公演のボリュームをもたせることには無理がある。あの空席の多さは、時蔵の切られお富の値打ちがわかる観客が払底しているからでは必ずしもない。一カ月の公演に見合ったボリュームに欠ける公演であることを、皆が察知しているからである。『切られお富』はどう見たってやや軽めの二番目狂言、若手に『車引』をさせるなら、もう一本、然るべき顔ぶれで『佐太村』を出すなりしてようやくつっかうところだろう。もともと三月の公演は小劇場での若手の勉強会の含みだったのだ。もう一度、その路線に戻すなり、時蔵クラスが出るにしても、希少価値のある演目を(『切られお富』などまさにそれだ)、むしろ希少価値を売りにして小劇場で見せるという公演があってもいいだろう。

かの先代河原崎国太郎がはじめて『切られお富』を見せたのは、まだ前進座劇場が建つ前、あの場所にあった木造の稽古場だった。みんな、脱いだ靴を手に持って板敷の上に坐って見た。だからこそ面白かったのだともいえるので、後に改築前の新橋演舞場で再演した時よりはるかに刺激的だったのは間違いない。やはり野に置け蓮華草、ということであろう。この昔話、国立劇場たるもの、もって他山の石とする価値はある筈だ。

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猿之助の「スーパー歌舞伎Ⅱ」が大賑わいだが、ひと落着きしたところでどういう声が観客の間から聞こえてくるか、興味がある。

なんだかややこしい理屈が多くて、禅問答みたい、という声も聞かれたが、仏とは何か、仏を刻む仏師とは何かといった議論をかなり念入りに繰り返す。一面としては、「コクーン歌舞伎Ⅱ」の趣きとも言える。芝居を見に行ったら説教をされたという声も聞こえた『オグリ』だの『カグヤ』だのの頃のスーパー歌舞伎に先祖がえりした感じとも言える。こうした作調になることは、前川知大を作者に選んだときに分かっていたことでもある筈だ。とすれば、猿之助たるもの、いわば確信犯として承知の上でしたことか、とも言えよう。

しかし少なくとも私は、このマジメさには好感を持った。どうでした?と問われるたびに、まあ第一作なので少し肩に力が入ったのでしょうね、と答えることにしている。

もっとも、仏とは、仏師とはという議論を、観客の胸にしみじみと通るだけに聞かせた右近の好演が無かったら、印象はかなり違っていたかも知れない、とは言える。右近があって、ようやく芝居になったのだとも言える。あれでこそ歌舞伎役者であって、その一方に佐々木蔵之介ら現代劇俳優たちがいる。

佐々木蔵之介の起用は、ひとまずは成功だったと私は見たい。蔵之介演じる一馬が、だんだん官僚の世界に染まり官僚の論理をもてあそぶようになる、それをセリフとして言えるところに、現代劇俳優としての長所があったことは間違いない。第三幕で宙乗りになったりスーパー歌舞伎的演出で大わらわの場面になってからは、美声だがあの腰のないセリフではどうにもならないこともまた、初めから分かっていた筈のことで、あれを以って歌舞伎俳優のセリフ術と比較して云々するのは佐々木に対して気の毒というものだ。

浅野和之がはじめから小劇場演劇の風で終始したのは、利口なやり方とも、すこしずるいとも言えるが、ドラマと観客を仲介するという役どころから考え出したものだろう。ひとつの正解として認めよう。すくなくとも、観客席からあれだけの共感の笑い声を貰ったのだ。福士誠治は、前に亀治郎の会でやった『上州土産百両首』で、ついこないだ已之助がやった役をやった、あの伝で通す。こちらはまずまず無難というところ。

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安井昌二が死んだ。新派がこのところ連作風に上演した、『麦秋』とか『お嬢さん乾杯』といった、小津安二郎や木下恵介の旧大船調映画を焼き直した一連の作で、なかなかいい味を見せていた。「昭和」を、ごく自然に演じていたのはこのひとだけだった。それの、おそらく延長線上に置かれるべきものとして、森本薫の『女の一生』では、出演者中ただひとり、大正と戦前を、ごく自然に演じていた。戦後の昭和二十年代の映画からスタートして、やがて新派の人となったが、同じような経路を辿って先に逝った菅原謙次とともに、見事に現代新派の俳優になり遂せて終わったのだと言っていい。

もっとも、この人の本当のスタートは、長谷川一夫の新演技座であって、長谷川の吹き替えなどもやっていたらしく、もう大分昔だが、長谷川がまだ盛んだった頃、長谷川をゲストにしたテレビ番組で、長谷川の銭形平次のそっくりをほんのちょっと、やって見せたことがあって、あまり器用な人とも思っていなかっただけに、ヘーエ、役者というものは大したものだと感心したことがあった。(こういう器用さは、だが遂に、本業としては発揮することがなかったのは不思議である。)それから映画に入って、もちろん一番知られたのは『ビルマの竪琴』だが(あのときの隊長の役が三国連太郎だったっけ)、個人的な懐かしさとしては、小津安二郎が脚本を書いて田中絹代が監督をした『月は上りぬ』とか、伊藤整の新聞小説を中平康が監督した『化粧』などというのが思い出深い。

といったところへ宇津井健が死んで、マスコミの扱いが安井の時とはまるで違う大名優逝去のような扱いである。宇津井健は宇津井健でもちろん結構であって、好感を持っていこそすれ悪くいう気は毛頭ないが、ただ、宇津井にこれだけの扱いをするなら安井昌二にだってもう少し、扱い方があって然るべきではないかとの思いは避けられない。もっとも理由はわかっている。活躍の場がテレビにあったか否か、それだけなのだが、それにしても・・・

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随談第519回 嗚呼、オリムピックよ!

ソチ・オリンピックもようやく終わった。嫌いでも関心がないわけでもないから(思えばヘルシンキ大会からずっと、熱心不熱心の波はあったにせよ、見てきたのだ)私なりにテレビも見、目配りもしていたつもりだが、いま、マスコミから「オリンピック」が消えて見ると、この清々しさはどうだろう? 喧噪と人いきれと安酒の悪酔いにふらつきながら酒場から一歩、表に出て外気を吸ったときの気分である。

思うにこれは、オリンピックそのもの以上に、マスコミ、とりわけテレビの喧噪がなくなって知った静けさであり、NHKを主体としたオリンピック報道の、単に喧噪というだけではすまない、「感動をありがとう」の押付け演出に辟易した後の清爽感あることは確かである。

もちろん、選手たちの成功や失敗、歓喜や無念、誇りや屈辱、さまざまな姿に心打たれることはある。それを「感動」と呼ぶなら呼んでもいいだろう。だが、頭から尻尾まで、「感動をありがとう」というテーマだかメッセージだか、切り口だか演出だか、縦横・上下・左右・天地、どこを切っても金太郎飴のように押し付けてくる「善意の厚かましさ」にはうんざりする。(おそらくこの裏には、メダル獲得数ばかりを騒ぎ立てることへの批判に対する「つもり」もあるのだろうとは察するが、ともあれこの「べったり感」の気色悪さはたまらない。)

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浅田真央そのものは少しも嫌いではないが、世の金メダル・コールをはじめとする、他に人無きがごとき浅田浅田の一点張りにはいささかならずヘソを曲げたくなった。(むかし聞いた桂米丸の新作落語で、「オイ浅田、起きろ。朝だ、朝だ」というのがあったっけ、などと茶々を入れたくもなる。)真央ちゃん、感動をありがとう、みたいな感動大好きおばさんたちの大合唱はともかくとして、キム・ヨナ選手の演技をほめた解説者のブログが炎上したなどという噂を聞くと、ウームと唸らざるを得ない。もっともらしい顔をしたテレビのおじさんキャスターが、日本中が真央ちゃんの笑顔を見たいと願っているんですよ、などとしたり顔で言っているのを見ると、ウヘーと嘆声を上げたくなる。

そうした反発が半分と、これは本当に彼女のスケーターぶりがいいと思うのが半分とで、しばらく前から、浅田選手以上に鈴木明子選手を応援するようになっていた。前回のオリンピック前後のことだったが、ある国際大会で、1日目に浅田が5位か何かで鈴木が2位だったかにつけていたら、どこかの局のベテランらしい女性アナが、浅田選手に是非逆転して優勝してもらいたいですねとやっていたのに呆れ、義憤を覚えたのがきっかけだった。私が勝ってはいけないんでしょうか、と、もし鈴木選手が聞いたら言いたいだろうと思った。一寸の虫にも五分の魂ではないか。

くだんの女性アナはおそらく何の悪気もなしに口走ったのだろうが、こうした無神経がまかり通ってしまうというのも、過剰が当り前になって社会一般に瀰漫してしまっているからで、こういう異常な状況は、今なお少しも変わっていない。煽るだけ煽っておいて、さあとなると、オリンピックには魔物が棲む、とくる。その魔物に餌をやって太らせたのは誰なのだ?

真央ちゃんには気の毒だが、本番ですっ転んでしまったら面白いだろうな、などといった気持も、正直、なかったわけでもない。もちろん、浅田選手個人に対してではなく、あまりにも真央ちゃん一辺倒の大合唱に対してのことだが、真逆(マサカと読みます。マギャクではなく)、本当にその通りの光景を目前に見ようとは、神ならぬ身のもちろん思わなかったのは当り前である。

で、24時間後にはああいう次第で一件落着したわけだが、この一昼夜の間に社会のあちこちで起ったさまざまな反応は、なかなか興味深いものがあった。浅田選手自身にとってのことはさておいて、この急転直下の、一日の内に二度、天地がひっくり返ったような事態を、世間がどう受け止め、どう折り合いをつけたか、である。

すぐに思ったのは、これで浅田真央は伝説を作った、あるいは、伝説の存在となった、ということである。いまのところは、やっぱり金メダルが欲しかった、という方向へも振り子はかなり振れているようだが、いずれは、メダルよりも感動、即ち、「記録よりも記憶」という、あの黄金律のもとに集約されて行くに違いない。レジェンドの女、か!

その意味では、あの1日目の失敗と2日目の大逆転によって、なまじすんなりと金メダリストになり遂せるよりも、永遠に語り継がれる「ヒロイン伝説」として絶妙の筋書が作られたわけだが、もちろんそれは、浅田選手本人の意思とはまったく別の話である。

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これはもちろん、浅田選手の場合だけのことではない。マスコミはどうしてこうも偶像を特定し、事前に勝手にシナリオを作って、その想定通りに結果が現われてくることばかりを期待するのだろうか。

またフィギュアスケートの話になるが、競技直前まで、浅田の強敵はキム・ヨナと、もうひとり15歳のロシアの少女と二人しかいないかのような報道ぶりだったが、ナニ始まってみたら、一騎当千のツワモノがわんさといるではないか。あの激戦の中では入賞するだけだって容易なことではないだろう。

引退した安藤美姫さんがどこやらの局に解説者となって出てきて、浅田とキム・ヨナとリプニツカヤの他に選手はいないかのような司会者の口ぶりに、他にも素晴らしい選手が沢山いますから見てください、と言っていたのは天晴れである。(現役時代の彼女は、スポーツ選手というよりモデルかタレントみたいな感覚が少々気になったものだったが、解説者として出演したのを一、二度見て、ちょっと見直していたところだった。)リプニツカヤの陰に追いやられて事前には話題にしてもらえなかったのを見事、ストニコワは女でござると見返してのけたのにしても、3位になった、瀬川詠子さんのイタリア人の親戚みたいなコストナー選手にしても、真っ赤な口紅も赤々といかにも天真爛漫なアメリカ娘らしいゴールド選手にしても、間際になって浅田と鈴木の間の7位という順位に割り込んできたのはちと癪だったがこれもアメリカ的善良さに溢れたワグナー選手にしても、みな素晴らしいではないか。真央ちゃんが金メダルを取るかどうかだけに興味を特化してしまえば、こうした(日本の鈴木や村上も含めて)各国から選ばれてきた世界一流の名手たちの演技を愉しむという、それこそオリンピックならではの意義は無化されてしまう。

それにしても、結果的にああした破天荒なドラマがあっての6位だったからよかったようなものの、あんな派手な大失敗でなくもう少し平凡な形で「浅田選手、健闘しましたが6位でした」という結果だったら、どういうことになっただろう?

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ジャンプのあの高梨沙羅ちゃんの場合にしても、カナダに「もうひとりのサラ」という強敵がいるがこれは怪我をしているから目下敵なし、みたいな話だったが、実際始まってみるとやっぱり他にも凄い選手が何人もいた。二位になった何とかいうベテラン選手など、女子ジャンプ界の草分けで女王的存在だったということを、私などが知ったのは、本番直前になってからだった。あれだけ散々、事前に沙羅ちゃん沙羅ちゃんの大合唱をいやというほど聞かせる暇があったのなら、もう少しはそういう実のある情報を、われわれ素人の目や耳に入るように伝えてくれれば、ただ無暗に「感動をありがとう」の極まり文句を言うために画面を見るのでなく、素人なりに競技そのものを鑑賞したり、多少は通ぶった気分になったり、もっといろいろな楽しみ方が出来るというものではないか。(長野で英雄になったジャンプの船木選手が、「サンデーモーニング」なる番組にゲストで出演して、マスコミの報道に「喝」とやっていたのは、なかなかよかった。)

おしまい頃になって、スノーボードの種目で女子選手が二人ほど、健闘よくメダルを取ったが、彼女たちのことなど、よほどその道のオタクでないと知らなかった人がほとんどだろう。一人はもう4度目の出場というベテランだそうだが、上村愛子の顔はこの10年来いやというほど見せられたのに比べ、このあまりの違いは一体何なのだろう? スキーやスノーボードの日本選手といえば(もちろん種目の違いなど知る由もないままに)、上村愛子しかいないのかと思っていた人があっても少しも不思議はない。

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それにしても、沙羅ちゃんも、この間までのあどけない童顔に比べると、もうすっかり大人の顔になって、怖いものを知ってしまったのだね、きっと。ロシアのあの15歳のフィギュア少女選手だって、はじめの団体戦の時と個人戦の時とではまるで別人だったのは、わずか一週間でオソロシイものを知って大人になってしまったのに違いない。芝居でも、どんな名優も子供と動物には勝てないというが、こわいものを知らない無心ほど強いものはない。

むかし、夏の大会の体操の選手で、ルーマニアだかどこだったか、コマネチという少女選手がメダルを独占してしまったことがあって、あまりの小憎らしさに、あれではまるで角兵衛獅子だという声が上がったことがあった。親方に仕込まれた通り、ただひたすらに芸をすればよいわけだ。沙羅ちゃんも、オリンピックが一年早かったら、無心に飛んで金メダルを貰っていたかも知れない。団体戦では小憎らしいまでに、ミスをする姿など想像も出来なかったリプニツカヤも、個人戦ではもはや角兵衛獅子状態でいられなくなってしまったのだろう。

大人になるとは、怖いものを知るということである。浅田真央が一日にして別人(の如く)になれたのは、もちろん角兵衛獅子の無心とは違う。落ちるところまで落ちて得た無心の境、平たく言えば捨て身ゆえの開き直りだろうが、帰国してから外人の特派員クラブに招かれて質問に答えていたのをニュースで見たがなかなか面白かった。(それにつけても外人の記者の質問の率直さ、切れの良さというものはどうだろう。日本の記者やアナウンサーというのは、どうしてああ決り切った質問しかしないのだろう?)

それにしても、日本のフィギュアスケートといえば、ごく例外的な選手がやっとこさ、5位だの6位だのに食い込むのが精一杯だった昔を思えば、まさに隔世の感というものだ。欧米の選手を囲むコーチや監督が豪華な毛皮のコートを着ているのを見るだけで、彼我の違いを思わずにいられなかったものだが、まして日本男子選手がフィギュアスケートでメダルを取る日が来るなど、到底考えもしなかった。それだけ、日本人の体形やサイズが如何に変わったかということに尽きるとも言える。(歌舞伎でも最近はフィギュアスケートに転向できそうな、小顔の10頭身役者を見かけるが、先の鴈治郎みたいな体形でフィギュアの選手になったらなんて、想像するだにキモチワルイものね。)それやこれやを思えば、羽生選手などというのは、鶴が天から舞い降りたようなものだが、ちょうど今は心技体整った充実の盛り、上り坂の、当たるべからざる勢いの時期にあるのだろう。おそらく、同じ横綱でも大鵬とか白鵬とかのような、特急品になるべき素材に違いない。フィギュアスケートに限らない。むかしの冬季大会といえば、スキーのアルペン種目など、日本選手では○○選手が35位、××選手が38位でした、なんていうのがほとんどだった。

ジャンプで41歳という葛西選手が銀メダルを取って「感動をありがとう」の対象の随一になったが、どうしても金メダルをとこれからも執念を燃やし続けようという気持は、ご当人にしかわからないことだろう。それよりも私には、ジャンプの飛形を普通より心もち開いて飛ぶスタイルが、モモンガの飛ぶ姿から思いついたという話が気に入った。これこそまさに、ベテラン選手ならではの「芸談」である。

モモンガといえば、おたんこなすのこんこんちきみたいに気の利かない奴に向かって、このモモンガ野郎、というのが江戸以来の罵詈だが、こういうことを伝えるテレビ番組もなかったわけではない。テレビ局もモモンガ野郎ばかりではないわけだ。

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随談第518回 勘三郎随想(その38・最終回)

47.「す」の巻

勘三郎の談話を取材していて何よりも痛切に感じるのは、先輩の俳優たちへの思いの深さである。それは、いわゆる身分の高下を問わない。実父の十七代目と時代を共にした俳優たち、十八代目自身が舞台を共に出来た役者たち。そうした人びとの思い出を語るとき、勘三郎は一番楽しげだった。私もまた、その話を聞くときが、ひと際愉快だった。勘三郎が私のために割いてくれた限られた時間のなかでも、さらに限られたいっときだったが、それは、格別な稠密さをもった、取って置きのいっときだった。

中村歌右衛門は、何といっても、十七代目と時代をともにした最大の存在である。「歌右衛門のおじさん」に言われたこと、教わったこと。勘三郎の語る歌右衛門は、言われた教訓や教わった内容以上に、その存在感、そのときの在り様が、印象的である。『鳴神』の雲の絶間姫で、龍神を滝壷に封じ込めた注連縄を切ると雨が降り出すという、絶間姫にとっての最大の性根どころのセリフの言い方を、噛んで含めるように移してくれる歌右衛門の有様を、勘三郎は、歌右衛門の声色によって一瞬にして描き出す。遠い昔に見た歌右衛門の絶間姫が彷彿とするかのようでもあり、すぐれた画家が、たったひと筆でその人物の全貌を描き出すのにも似た面白さに、思わず笑い出さずにはいられない。

歌右衛門の芸談というものを、活字になったものを読んだり、テレビなどで聞いたことは何度もあるが、そういう時、歌右衛門は必ずのように「お役の性根」ということを繰り返し強調し、具体的なことを例を挙げて述べるということをほとんどしなかったように思う。芸談というと、大概は、自分の当たり役などのおなじみのセリフなり仕草なりを例にとって芸を語るということをするものだが、歌右衛門はそれをしない。曰く言いがたいということなのだろうと忖度するものの、正直なところ、素人には面白みは薄い。

だが、勘三郎の語る歌右衛門は、それとは別な横顔を見せている。歌右衛門が、口写しのように絶間姫のセリフを教えるように、勘三郎もまた、口写しのように、歌右衛門の口真似をして語る。「写す」は同時に「移す」でもあって、まさしく「真似ぶ」ことが「学ぶ」ことなのだ。それはまさに言葉による一筆書きだが、一筆描きというものが、本質的に一種の批評にならざるを得ない以上、それは同時にカリカチュアでもある。歌右衛門だけではない。勘三郎が一筆で描いてみせた片岡我童の姿は、いかなる我童論にもはるかにまさってあざやかであった。

役の上で、勘三郎が一番多くの教えを受けたのは尾上梅幸だった。若衆方から和事味のある二枚目という、勘三郎が若いときにつとめた多くの役が、梅幸の役どころと重なっていたからでもあるだろうが、それだけに、勘三郎の梅幸への思いの深さが、言外からも伝わってくる。梅幸という人は、ことに二枚目の役を演じるときの舞台ぶりでも、素顔を見せるときの印象でも、おっとりと悠揚迫らぬ温厚な紳士というイメージで知られていたが、勘三郎の語る、『忠臣蔵』の塩冶判官をはじめてつとめたときの舞台稽古の模様は、そのイメージを裏切ることなく、同時に、われわれの知らないある一面を見せた梅幸像として、貴重な卓抜さをもっている。聞きながら私は、梅幸という人を改めて、蘇えるなつかしさとともに、好きになったことを告白しなければならない。

吉右衛門劇団で父十七代目と盟友だった松本白鸚にも、勘三郎はひときわの親密感を抱いているようだった。年始まわりに白鸚宅を訪れると必ず、時間が倍はかかる。酒を出してくれるからだが、ただそれだけのことを語るだけで、勘三郎の白鸚への思いは言外のうちに伝わってくる。

勘三郎がとりわけての思いをこめて語った故人をもうひとり挙げるなら、父十七代目の文字通りの竹馬の友であり、終生の心許した友であった守田勘弥だろう。幼かった勘三郎に、子供心にも格別な美しさで映ったふたりの友情の在り方は、ひるがえって、その子である十八代目と玉三郎の関係にまで影響を及ぼしているという。近代歌舞伎の温床としての市村座については多くの証言によって語られているが、父親同士が幼い日々を共にした市村座で培われたものが、形を変えて、勘三郎と玉三郎という、子の代である現代にまで生き続けていることを、勘三郎によって私ははじめて知った。勘弥といい、もうひとりの父十七代目の盟友として忘れがたい松本白鸚といい、ふたりとも、比較的早くに世を去っただけに、それを語る勘三郎にも、ひとしおの思いが感じられる。

こうした大立者ばかりではない。それぞれに独自の芸の味を持った脇役者たちを、私の求めに応じてひと口評のように、そのユニークな特徴をヴィヴィッドに描き出しながら、追憶はフラッシュバックのように次々と蘇る。とりわけ、父の代からの門人だった中村助五郎を語るとき、その死がまだごく近い過去のことであっただけに、哀切さが思いやられた。

勘三郎にとって、こうしたなつかしい先達たちのひとりひとりが、歌舞伎の命そのものなのである。

48.「ん」の章

いま一般の社会が歌舞伎に対して抱いている誤解の最大なのは、現在歌舞伎座などで演じられている歌舞伎が、江戸の昔から少しも変わらず、そのまま演じ続けられていると、「何となく」思い込んでいることであるかも知れない。一方で「伝統歌舞伎」ということが盛んに言われ、また一方で、新しい試みをする者があるとマスコミなどが大きく取り上げるのが、ふだん歌舞伎に関心のない人たちの耳目に触れやすい、ということもそうした錯覚を醸成する上でひと役買っているかもしれない。まさしく勘三郎も、そうした話題でマスコミに登場することの最も多かったひとりであり、果敢に新しい試みにチャレンジする歌舞伎界の旗手というのが、マスコミの話題だけで歌舞伎を見ている者の目に映る勘三郎像であったに違いない。両極端ばかりが伝わって、その割には実態が知られていないということが、いま、社会一般に向かって歌舞伎を語ることを、非常に難しくしている。

伝統歌舞伎といっても、その伝統を実際に演じるのは、現代という時代に生きている生身の役者であり、誰に向かって演じているかといえば、現代人である生身の観客である。この、少し考えてみれば当り前のことが、意外なほど、当り前として通用しない。そういう、不思議な常識や通念のなかに、歌舞伎は、もうずいぶん永いこと置かれている。今年二〇一四年は明治一四七年だが、その近代日本百四十年余の間に日本の社会が、日本人そのものが、どれだけ変わったか? その過激なまでの変化と変貌の中で、歌舞伎だけが変わらずにいるなどということが、あり得るだろうか? 

変わらないと思うが故に、歌舞伎を買いかぶる者がいる。変わらないと思うが故に、歌舞伎に見向きもしない者がいる。どちらも、思い込みの上に立っている点で変わりはない。だが、歌舞伎の伝統とは、歌舞伎の進化とは、そのいずれにあるのでもない。歌舞伎とは何か? 勘三郎がしようとしていることの根底に常にあるのは、自他に向かって放つ、この問いかけであるように、私には見える。

勘三郎がいまなお強く憧憬と敬意を抱き続けている、父十七代目勘三郎や、父と同時代に活躍していた六代目歌右衛門や七代目梅幸たちの歌舞伎もまた、そうした近代歌舞伎の中の、戦後というひとつの時代の歌舞伎である。彼らは彼らで、そのまた父の世代である六代目菊五郎や初代吉右衛門等に代表される歌舞伎の芸を規範としていたが、それもまた、大正から昭和前期というひとつの時代の歌舞伎であることに変わりはない。戦後といい、大正・昭和前期といい、それぞれの時代をよく生きたからこそ、歌舞伎はそれぞれの時代にかけがえのない喜びを同時代の観客に与えることが出来たのであり、それはその時代にあってこその喜びであり、意味を持つものであった筈である。伝統だから時代を超えるのではなく、それぞれの時代をよく生きたからこそ、伝統に連なることができたのだ。人はまず、いまを生きるのであって、いまを抜きにして歴史に生きることはできない。歌舞伎もまた、同じだろう。

「規範」という考え方のなかには、指標とするべきものを求める意志が感じられるが、意志によって選び取られてはじめて、規範は学ばれるべきものとしての意味を持つ。かくのごときものでありたい、あろうとする意志をどれだけ明確に持つか。高校生だった勘三郎が、祖父である六代目菊五郎の踊る『鏡獅子』の映画を見るために日参して、首の振り方を写し取ったというとき、そこにあるのは、かくありたいという意志であり、憧憬と尊敬がそれを支えている。獅子の首の振り方を写すのと、革新を恐れずし遂げたその生き方にまねぶのとは、勘三郎にあっては少しも矛盾することではない。

コクーン歌舞伎や、野田歌舞伎といった活動によって、勘三郎が何を、どういうことをしようとしていたのか、実を言うと私には充分に分かり切れずにいるものがある。懼れずに言えば、勘三郎自身にも、充分に分かり切らずにいた部分があるのではないかという気が、実はしてならない。少なくとも猿翁と比べる時、猿翁ほど明確に見えているものがなかったのではあるまいかという気がする。だがこれは、決して勘三郎を貶める意味でも、猿翁と比べて優劣を云々することでもない。むしろそれ故に、俳優勘三郎の、人間勘三郎の魅力も真価もあるのだという気が、私はしているのだ。ただ何かが、勘三郎を突き動かしていたのだ、と私は思う。

両方をやるのだ、あっちがあってこそこっちがある、と勘三郎自身、明快に語っているように、先人の教えを尊重する念と、我こそ、誰もしなかったことをしているのだという気概とが、勘三郎の中に同時にあるのであって、勘三郎の歌舞伎を双頭の鷲のごとくに先導している。それを、どうして否定できるだろうか?

        ***

一昨年末に勘三郎の訃を聞いたのをきっかけにはじめた『勘三郎随想』でしたが、この回をもって終了します。その時どきの話題や問題に関わるのが生命ともいえるこうした場では、連載は断続的にならざるを得ず、遂に足掛け3年という長きに亘ってしまう結果となりました。ご愛読くださった方々に御礼申し上げます。

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随談第517回 勘三郎随想(その37)

46.「せ」の章

(談話・歌右衛門の教え、思い出の先輩たち)

―――このごろテレビの歌舞伎チャンネルっていうので昔の方の芝居をやってますけど、みんな大したもんだなと思いますねえ。こないだも『忠臣蔵』の「九段目」を見ましてね。歌右衛門のおじさんの戸無瀬でねえ、鴈治郎のおじさんが本蔵やってんですよ。よかったなあ。大星が寿海さん。これがまたいいのよ。それで神谷町のお義父さん(=中村芝翫)が、まだ若いときなんだろうね、お石。それから山城屋坂田藤十郎さんの小浪。いまと全然違う、若くてこんなに太ってんだけどさ。それで延若のおじさんの力弥。古風で、やっぱり凄いなと思いますね。

―――で、歌右衛門のおじさんの思い出というと、ひとつ挙げろと言われりゃあ、見て凄いとかいうよりも、教わったことの凄さだね。いろいろ教わってますけども、『鳴神』の絶間姫を教わったんですよ。おじさん、絶間なんてもうその頃はあんまりなさってなかったんだけど。で、そのときに、ボクが「アノ雨が降るかえ。雨が、テモマア不思議なことのお」ってセリフを言ったら、「あんた駄目だよ。全然不思議じゃないわ」って。あの歌右衛門のおじさんて人はね、ああこんな人なんだなあって、しみじみ思わせられるように、(声色で)「雨が降っ、てもまあ、ふしぎな、ことォ、のおお」って言わなきゃいけないって言うの。ほんとに不思議じゃなきゃいけないって。これ、うちの親父と一緒なんですね。古典であろうと、何であろうと、そういう気持がなきゃ駄目なんだっていうことを教えてくれたんです。

―――それから、まだボク、やってませんけど、玉手。(声色で)「干割れに洩れる細き声」っていうんだよ。ここのね、柱からひびが入ってる。そこからコウ、中へ、おかあさんのところへ、(声色で)「かかさん」っていう風に言わなければ、って。それから、三つおこついてこうやるところね、ビデオ見たって教えてくれないからねって。二日間、ほんとによく教えてくれました。(声色で)「寅の年、寅の日、寅の刻」。ぜんぶ音(おん)を変えなさい、って。とにかく怒られたんだ。

―――それでね、ものすごく怒られて、で、一週間か十日たったら、電話があって、ある役者さんに教えるから、それを見とくのも勉強になるからって呼ばれて、で、行ったんです。その方は、俺が怒られてるのと同じこと全部やってんだよ。ところが、おじさん何にもいわないの。(声色で)「いいよ、あんたいいよ」って。俺ねえ、これだけいまだに謎。なんでそれをいいよって言ったのかなあって、いまだにわかんない。だって俺がいつも怒られてたところを、その人も間違えてんですよ。それをほめてんだもん。よくやったよ、って。ずーっと、いまだにわかんない。これはわからない、いまだに謎。

―――やっぱり、厳しく教わったのが、いまになると、ありがたいと思いますね。だって怒られなかったらわからないもん。怒られたからこそ、わかるわけですよ、違いが。怒れられたときはこわいなとかいろいろ思うけど、やっぱりありがたいなと思いますよね。そういうの見ると、おじさん、あれほんとにうまいと思ってるの? いやそんなことないだろう、と。訊けないしねそれは。ほんとにあれがいいんですか、なんて訊いたら、ウルサイッなんて言われたらおしまいだからさ。それがなんというか、歌右衛門のミステリイというか、でしたねえ。

―――最後に言われたことは、舞台を大事にしてちょうだいねって。二人っきりのとき。ノリアキちゃん。ボクのこと、ノリアキちゃんて言ってたんですけどね。ほんとにね、舞台を大事にしてちょうだいよ、これからも、って。これは守ってる。ふざけない。ともすると家の親父なんか、投げたりなんかしたっていうけど、それはうまいから投げたんで、ボクはおじさんの、舞台を大事にしなさいっていうのはね、これは守っていますね。そりゃ、巧い拙いはわかりませんよ。けど、やっぱり、そりゃ疲れてるときだってある熱のあるときだってあるけれど、でも、大事にしろっていうことは、子供たちにも、ぼくがそれをやらなければ言えないですから。これはおじさんのあの歌舞伎座のあの大きな部屋で、二人っきりで。駒助さん(歌右衛門の門弟)がわざわざ呼びに来て、あれはもう、忘れられないですねえ。

           *

―――それから白鸚のおじさん。高麗屋。よく可愛がってくれた。大好きだった、小さいころ。こないだも染五郎が来たとき言いましたけど、年始回りが一時間半早くなりました。おじさん死んじゃったら。ま、一時間半はオーバー、一時間早くなった。おじさんのところ行くとね、オイオイ上がれっていうので、で、カティ・サークどぶどぶついじゃって。でもおじさんあんまり飲めないんですよ。そんなのがねえ、俺が行くとね、いろんな話を聞いてくれるの。いいおじさんでした。だから、今度のおじさんの(二十七回忌の)追善にボク出られないんで、それじゃあてんで、染五郎が教えてくれっていうんで、本当に一生懸命で、それで『鏡獅子』を教えようってことになったんです。

―――白鸚のおじさんの役のなかからひと役挙げるとしたら、やっぱり『関の扉』の関兵衛はいいねえ。あの博多人形みたいなの。

―――あのね、白鸚のおじさんに、ぼく、弁慶習ってるんですよ。ねえ、弁慶ですよ。『勧進帳』の弁慶。一日だけやったの。歌舞伎座で。あのね、子供歌舞伎教室ってのがございまして、富樫が歌六、義経が家橘、で私が弁慶。おじさんに手取り足取り教わりました。高校生のとき、いやもっとですよ、十七、八ぐらいだったかな。

―――いや、それ知ってたら朝早いのなんか構わず見に行ったのに。

―――ハハハ。いや、教わりましたよ。数珠の扱い方とか、いろいろこまかくね。

           *

―――それから鴈治郎のおじさん(=二代目)だねえ。いや、この万野なんてものはねえ。十兵衛、万野、『封印切』、『河庄』ももちろんだけど、あと、『桜時雨』じゃなくて『桜吹雪』という、何か、芝居が大阪で出たんですよ。何だかわかんない、こういう二つ折りの帽子かぶってね、瓢箪叩きながら出てくるだけの役。桜の花の中から。あんなの誰も出来ない。ハハハ。もっといやあ、俳優祭でやった『白雪姫』の七人の小人のねえ、小人。

           *

―――あの人のこの役、というようなの、ありますか?

―――ああ、浅尾奥山さんの義平次って、よかったですね。あれは家の親父が、女形なのに義平次させたんだろうけど。壮絶な感じでね。

それから、好きだったのは幸雀さん。松本幸雀。あの人がね、『刺青(いれずみ)奇遇(ちょうはん)』で、お仲がもう危ないって言うことをいうために、こう引っ張っていくんですよ、半次さん、半次さん、そんなに長くかかんのかっていうとね、小さい声で「・・・」ていうだけなんだけどね、それで全部わかるわけ。それから『瞼の母』の歳とった娼婦。よかったなあ。

―――それから(助高屋)小伝次さんの『一本刀土俵入』の老船頭。それから斧九太夫ね。『忠臣蔵』の。(声色で)「バカバカシイワエ」って、真似したもんなあ。

それから(坂東)弥五郎さん。番頭長九郎。『法界坊』の。ぼくが、やって下さいって言ったら、「じゃあ早く、あなたねえ、早く法界坊やって下さい」って。「秒を急ぎます」って言われた。もう、駕籠を持てないでしょ。駕籠なんか持てなくていいって。秒を急ぎますって言ってました。よかったなあ。

―――助五郎も惜しいねえ。こないだの山田洋二さんの演出の『文七元結』。彼を撮ってもらいたかったのもあるんだけど、間に合わなかったねえ。藤助さん、よかったんですよ。角海老から迎えに来る、藤助さん。いかにも吉原から来た人だったんだよねえ。芝居なんかしないんですよ。ガラガラって開けて、オッと入ってきて、「イヤどうもすみませんねえ」なんて。もう、なんか、一緒にやっててとっても楽しかった。若いのとやるとこっちがくたびれちゃうけど。

藤助は子団次さんのも、よかったねえ。

―――アッ(手を叩いて)、我童のおじさん。好きだったなあ。『封印切』のおえんとかね、一文字屋お才とか。それから夕霧、南座でやった。これはもう、絶品でしたよね。上等の、いいお人形。わかるでしょ? (声色で)「なんや知らんけども、あちらへ三歩、こちらへ三歩、うろうろしてたら、そのうち幕や」って。ははは。

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随談第516回 今月の舞台から

新橋演舞場の花形歌舞伎『心謎解色糸』がなかなかよかった。大当り、とまでは敢えて言わずにおくが、将来への期待と見通しという観点からだったら、後日、その原点となったという意味で、大当りだったと言われるようになるかもしれない。少なくともこの狂言のこれまでの上演史の上で、今度の上演がひとつのエポックになる可能性は充分ある。

41年前の国立劇場上演版による白鸚・梅幸所演よりはるかに面白いことは間違いない。こういうものは、なまじエライ人たちがやるより、先入観に縛られていない若い連中でやった方がいいという、まさにその典型的な例といえる。70年代に起った南北ブームの中で『桜姫東文章』や『盟三五大切』が現代のレパートリーに甦った、というより、新たに参入した(と言った方が正しいだろう)が、その只中であわよくばこれも、と狙っ(たかどうかわからないが、けっきょく空振りに終わっ)た『心謎解色糸』が、それから四〇年、孫世代の手で新世代歌舞伎のレパートリーとして参入することになったなら、めでたしめでたしというものである。七〇年代と違うのは、『三五大切』にせよ『桜姫』にせよ、七〇年代という時代と関わるものを有していたが、平成の世の『心謎』にはそうしたメッセージ性は持っていない点だが、そこがまた、当世らしいと言えば言える。七〇年代には玉三郎の登場ということがあったが、現代の花形連には、時代と何らかの形で切り結べるキャラの持主は海老蔵ぐらいしか見当たらない。染五郎も、菊之助も、勘九郎も七之助も、皆、才能としては素晴らしいが、皆、オーソドックスな優等生の顔をしている。彼等の中ではやや異色な松緑も、今この文脈からするなら、該当しない。が、この話はいまは閑話休題としよう。

41年前と違うのは、白鸚にせよ梅幸にせよ、南北らしい、ということに対して、身構えたり、ちょっと引いたり、とにかくかなり神経質にな(らざるを得なくな)っていたが、そうしたコンプレックスから、当代の花形連は少なくとも自由らしく見えることである。七〇年代が遺したものでいまも続く最大のものは、「正統」という権威が崩壊し何でもアリという状態が瀰漫的に継続していることで(それで新劇は壊滅したが、歌舞伎には姿や実態は変わりつつもともかくも理念の上では「正統」は存在している。歌舞伎が腐っても鯛であり得ているのはそれ故である)、前代の大物たちの持っていなかったその自由さを、現代の花形たちは初めからそこにあったものの如くに、自由に、別に殊更な反逆も何もする必要もなく、享受出来ることである。前代の大物たちがあれほど苦労し、批評家たちから南北らしくないといった批判を散々された障碍を、現代の彼等はやすやすと乗り越えられる。

今度の一座には海老蔵も勘九郎も(猿之助も)入っていない。もし海老蔵がいたら、染五郎がお祭り佐七と半時九郎兵衛を二役兼ねるという配役はなかっただろう。そういう配役を空想するのも、それはそれでもちろん楽しいが、今度の一座でする以上、染五郎の九郎兵衛は本役ではないと言っても染五郎は困惑するだけだろう。むしろ、そんなことは承知の上で、自分の柄を考え、もう一役の佐七といかに演じ分けるかを工夫した上での染五郎の努力を、私は興味深く見た。(ついでに言うなら夜の部の『青砥稿』でも、日本駄右衛門は染五郎の仁ではあるまいが、たとえば「神輿ケ嶽」のだんまりで大きく見せる工夫と努力を、私は面白く見た。)それで思い出すのは、いまの仁左衛門が『お染の七役』の鬼門の喜兵衛を初めてした時、自分の役ではないと思ったが、勘彌のおじさんから恥をかくつもりでやれと言われてやったお蔭で、あゝいう強い役が出来るようになったと語っていたことである。もちろん仁左衛門と染五郎では個性はまた違うが、他山の石として聞いてもよいことではあるだろう。

松緑の本庄綱五郎と役を入替えたら、というのも、当然、誰しも考えるところだろうが、それはそれとして、私は松禄が、先月の釣天井の柴田勝重といい、実事系の役でじっくり実力を蓄えてきたのを興味深く見ているところなので、この綱五郎も(染五郎の九郎兵衛と補完し合うという意味も含めて)かなりの点を入れたくなっている。ただこの人の何とかすべきなのは、夜の南郷でもそうだが、七・五で切れるセリフの尻が全部同じ調子で同じ音程のところへ落ちてゆくことで、同じ調子が何度も繰り返されることになり、単調で妙味というものがないことだ。

菊之助の小糸ももちろんいいが、今の菊之助の力からすればこのぐらいよくて当たり前というべきだろう。41年前の祖父梅幸の敵討ちをしたようなものだ。

七之助がお房とお時の二役で、得難い素質を見せたのも、新世代歌舞伎の今後を考える上からも頼もしい。玉三郎と感触を違えながら、引き受ける役はほぼ同じところを引き受けてゆくことになるのだろうか。

(それにしても、いまこの文脈からは外れることになるが、歌六の安野屋重兵衛を見ながら私はほとほと感服した。することなすこと、常間常間でことごとく寸法正しく、すぱりすぱりとツボに入ってゆく。この種の役の仕事としてほぼ理想的といってよい。こういう役でのこういう本寸法の芸というのは、勘彌以来だろう。)

        *

『青砥稿』もなかなかよかった。新世代版五人男、みなそれぞれによかったが、何といっても菊之助の弁天というのは天性この人に嵌めて作られたようなものだ(と感じさせるところが、絶対の強味というべきである。)極楽寺山門の立ち回りの飛燕のごとき具合など、私がこれまで見た限り、誰のよりも素敵に素晴らしい。三年前、自ら企画した東北地震被災者救援の舞踊会で踊った『浮かれ坊主』を思い出す。白く塗った素足の筋肉がまるで陸上競技の選手のようだった。

後は(いまのままでも充分、一級品ではあるが)、後ろにいる駄右衛門や浜松屋等の存在を意識しながらの南郷とのやりとりなどで、時代と世話、硬軟取り混ぜてた運びの面白さを見せてくれるようになったら、泉下の黙阿弥翁も目を細めるに違いない。

今度の、久しぶりの、そうして新世代に面々にとっては初めての全段通しで、ひとつ言うとすれば、胡蝶の香合とか、信田小太郎と千寿姫の関係とか、それにからむ赤星十三郎との関係とか、浜松屋が小山家の臣であったといった因果の糸を、客席の万人にもっとわかりやすく、明確に見せるべきだというである。繰り返すうちに、段々、いつの間にか刈り込まれ(以前は十三郎の伯父さんというのが出てきたはずだ)、前菜扱いみたいになってきたような気がする。前段の時代、後段の世話と、二つの世界が大詰で渾然となって大団円を迎えるというのが、作者黙阿弥のこしらえた構想なのではあるまいか。

        *

今月の文楽がなかなか面白い。三部制で十一時開演の夜九時終演という盛り沢山で少々草臥れるが、それだけのことはあるから見て損はない。第一部の『近頃河原の建引』、第二部の『染模様妹背門松』と、大坂の町人世界のさまざまな人情の模様がねっとりと語られて、これこそ文楽ならではという思いで、堪能した。歌舞伎では到底、こうは行かない。大作のいわゆる名作よりも、こういうものにこそ、文楽の真骨頂が発揮される。

『河原建引』の猿回しの件など、歌舞伎だと、猿回しの猿のおかしみも、ほろりとさせる味付け以上にはならないが、文楽だと、本物のお俊伝兵衛も人形、猿のお俊伝兵衛も人形だから、人間と猿の二組のお俊伝兵衛が重なり合って見えてくる。作者の卓抜な趣向、卓抜な人間観が浮かび上がってくる。かつて、あの若太夫の語りで見た時の圧倒的な感動を、ちょっぴりだが偲ぶことが出来た。(それにしても、当代寛治が、風貌風格、先代にそっくりになってきたのに驚く。)

何と言っても堪能したのは『妹背門松』で咲太夫の語った「油店の段」である。今が盛りの咲太夫がたっぷりと語って、文楽でなければ味わえない面白さを心ゆくまで愉しんだ。文楽を聴いてこういう満足感というのは、いつ以来だったろう? 「蔵前の段」も、文字久がお染の親の太郎兵衛をじっくりと語る。人の世の情理を尽くし、お染がそれをじっと受け止めつつそれでも心中に至る具合が、語られる世界は古めかしい町人倫理でありながら、それを超えてもっと普遍的な、大人の良識と若者の情熱の相関関係へと、聴く者の思念を昇華させることになる。こうして初めて、菅専助作の一見古めかしい浄瑠璃が、広く高い普遍性を獲得することになる・・・などと、つい青臭いような理屈を捏ねてしまったが、そういう気にさせてくれるだけのものだったといえる。

ずい分前に見た歌舞伎の『ちょいのせ』はこの作の「質店」と「蔵前」を、番頭の善六をチャリ敵にして喜劇化したものだが、文楽でのこの醍醐味とはまったく異質のものだが、それはそれで、別種の面白さがある捨てがたいものだ。二代目鴈治郎も十三代目仁左衛門も亡き今、誰もやらなければ消滅してしまう絶滅危惧狂言のひとつである。私は実は、当代の、つまり十五代目仁左衛門に、このチャリ敵の善六をやってもらえまいものかと期待しているのだが。あの仁左衛門が善六をやって、女性ファンたちが、上辺では「いやあね」と苦笑しながら、実は腹の中で「仁左衛門さん、カワイー」と喜ぶ様子が目に見えるような気がするのだ。仁左衛門としても、いつもいつも格好いい役ばかりでなく、善六などをやってアッと言わせてみるのも、また役者冥利に尽きるのではないだろうか?

第三部の『廿四孝』は蓑助と文雀が八重垣姫と濡衣を遣う眼福を愉しむものだろう。

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随談第515回 勘三郎随想(その36)

45.「も」の章 

再び再開、続けることにする。

歌舞伎とは何か、という問いは、歌舞伎の根元を問いつつ、ひとびとに常識や通念の変更を迫っている。およそ、歌舞伎を一度も見たこともない者が漠然と抱いている想像としての「歌舞伎」から、型とか約束事とか呼ばれるものの細部まで通暁している歌舞伎通の考える「歌舞伎」まで、さまざまな「歌舞伎」が、社会のなかに乱立し瀰漫する形で存在している。初心者に歌舞伎とは何かを教える解説書や入門書は、「歌舞伎的」とか「歌舞伎らしい」とおぼしい特徴的な事象を取り上げて説明・解説するが、それは、両刃の剣のように、著者の意図とは裏腹に、歌舞伎を特殊なもの、解説がないと理解しがたいもの、と読者に思い込ませることにもつながってしまいかねない。

花道、女形、隈取・・・という風に、歌舞伎のさまざまな事象を取り上げて初心者に向けて歌舞伎を語る、という方法は、題名も『歌舞伎への招待』という本で、著者の戸板康二がはじめて試みたことだった。それは一九五〇年という終戦後間もない新時代に、それまでの歌舞伎通とはまったく異なる戦後(アプレ)世代(ゲール)の読者に向かって、歌舞伎を客観的に分析して見せるという斬新で、知的で、機知に富んだ、おしゃれな方法だった。『歌舞伎への招待』という題名も、ウェーバーの『舞踏への勧誘』という、クラシック音楽のファンにおなじみの曲名から思いついたものだった。「戦後」という新時代の観客たちは、歌舞伎に対する常識は、従来の歌舞伎通に比すべくもなかった代わり、旧世代の持ち合わせなかったような知識や趣味を、はるかに広範囲な分野にまたがって持っていた。そういう読者を想定できたところに、戸板の卓抜なセンスと独創があったのだ。

だが実は、これには先達があって、戦争前の一九三八年に、その当時最も多数の読者を持つ批評家だった三宅周太郎が、外国人に歌舞伎を紹介するために英文で出版した『KABUKI DRAMA』という本で試みた方法を、さらに洗練された形で進化させたものだった。三宅も戸板も、それまでの歌舞伎通の狭い世界から、歌舞伎を、もっと広い世界へ向けて発信して、幅広い読者を獲得した批評家である。(話が脱線するが、前に述べた六代目菊五郎の『鏡獅子』を小津安二郎が撮影した映画も、元来は、海外へ日本の文化の象徴としての歌舞伎を紹介するのが目的で作られたものである。その制作が一九三五年。三宅周太郎の『KABUKI DRAMA』とほぼ同時代である。日中戦争が、十五年戦争という長いスパンで見た場合すでに始まっている時点でのことなのにも驚くが、歌舞伎はこうした形でも、時代と微妙な関わり方をしていたことがわかる。が、いまは閑話休題だ。)

戸板康二がはじめた(開発した、という方がふさわしいかもしれない)こうした方法は、現在もつぎつぎに刊行される歌舞伎の解説書・入門書にも踏襲されている。歌舞伎という現象を目に見える形で具体的に呈示して見せるには、いまなお、これにまさる名案を、まだ誰も思いついていない証拠かも知れない。

一方、歌舞伎をいかにして「保存」すべきか、ということを考えた人々もいた。一九二〇年といえば大正九年だが、当時新進の批評家だった浜村米蔵は、歌舞伎を「正しく保存」するための研究所を設けることを提案している。浜村の説くところによると、この研究所はあくまでも理想的な演劇を実践するためのものだから、まず絶対に必要なのは舞台監督である。舞台監督は光線・大道具・小道具・衣裳・音楽・戯曲・俳優などすべてを支配し、指揮するすぐれた技術家であると同時に思想家でなければならない。劇場は過去の戯曲の住家であり、興行方法は、鑑賞力をもたない観客は一人も内部へ侵入させない一方、あくまでも観客に対して親切であるようにする。劇場は周囲の雑踏から守るために郊外か近県のさびしいところに建て、開場時間を正確にして遅刻した者はいかなる理由があっても入場させず、一切のアルコールを禁ずる。一日の興行時間は三時間ないし四時間とし、長い戯曲を演出する場合は幾日にも分節して上場する。劇場の経済は国家の補助と、富豪が人生になしうる唯一の光栄ある事業としての寄付、それに作者・批評家・選ばれた観客・劇場内部の者などの関係者が応分の努力をしてまかなう。拍手と雑談を厳禁した「深林のような日本戯曲の住家」で、歌舞伎劇の科学的演出をする厳粛な思索研究の場とする・・・・というのだが、これが決して冗談として言っているのではないことは、今日でも、歌舞伎は古典であるべきだという意見の人の話をよく聞いてみると、つまるところは、浜村米蔵が九十余年前に考えたこの「ユートピア劇場」と大差ないところに行き着くのに気がつく。いまの国立劇場にしても、こうした「思想」をどことなく反映しているような気もするし、舞台監督のあり方などは、(一見しての印象とは裏腹に)他ならぬ野田秀樹や串田和美がそれなりに実現・実践しているようにも見える。それもそのはずで、浜村のこうした発想の根底には、前にも言った、「演出」というヨーロッパの近代劇とともに生まれた思想が横たわっているからで、その意味で、国立劇場という形に結実したユートピア劇場と、野田や串田の演劇世界とは、遠く祖先を共通にする間柄ともいえるのだ。(兄弟、というほどではなくとも、孫同士かひ孫同士ぐらいとは言えるだろう。)

だがそれにしても、浜村の唱道するこのユートピア劇場で実際に歌舞伎を見てみたいと思う人は、どのぐらいいるだろう? そもそもこの劇場で、たとえば『助六』の股くぐりなど、どうやって演じ、どういう空気のなかで「鑑賞」されるのだろう?

もっとも浜村米蔵にしても、「保存」といっても、歌舞伎をそのまま冷凍保存してしまおうといっているわけではない。理想の劇場で過去の歌舞伎の本来あるべき姿を研究した上で「保存」し、一方で、つねに流動して止まない歌舞伎を「進行形歌舞伎」として、時代とともに進化させるべきだというのが、その主張するところだった。歌舞伎は興行として大々的にやるよりも、むしろ小規模に、本来のあるべき姿を追求して見せる場であるべきだ、という意見の人もいる。それもたしかに、ひとつの考えではあるだろう。金丸座を知って、これこそが歌舞伎を盛る理想的な器であると考えた識者も少なくない。

しかし、十九歳だった勘九郎青年が、唐十郎のテント芝居を見て、これが歌舞伎だと思ったという時、それは取りも直さず、これこそ歌舞伎が本来あるべき姿、という意味であった筈である。だがその、言葉にすれば同じそれぞれの「歌舞伎が本来あるべき姿」には、なんという隔たりがあることだろう。少なくとも、十九歳の勘九郎青年の胸にともった火は、熱く燃え上がるものであったに違いない。いまも(と言っても、その「いま」はそのまま永遠に冷凍保存されてしまったわけだが)、勘三郎は言う。歌舞伎をつまらない、わからないという奴を黙らせたいのだ、黙らせるような歌舞伎をやりたいのだ、と。こういう演者の思いを、それは間違いだと言えるだろうか? 勘三郎が、自分の考える歌舞伎を盛る器として作った平成中村座もまた、金丸座に発想の原点があることは、勘三郎自身が語っているところである。

歌舞伎とは何か。歌舞伎はどうあるべきなのか。歌舞伎をどうすればいいのか。つまりはいまなお、誰も正解など持っていないのだ。それはおそらく、近代以降の歌舞伎が背負い込んだ、永遠の問いであるに違いない。

「異邦人」であるはずの、串田は言う。「この芝居がどうなったら歌舞伎になるんだろう。どうすれば成り立つのだろう。そもそも歌舞伎らしくする必要があるのか? 歌舞伎らしくってどういうこと? 歌舞伎らしくない歌舞伎ってどういうもの? ・・・もちろん演劇人としての僕個人は、何だってやって良いと思っている。やったほうが良いと思っている・・・・だけど歌舞伎となると、なぜか慎重になる自分がいて、その自分にちょっと戸惑う。そういう自分と折り合いをつけるのに手間取る。なぜかというと、そもそも歌舞伎というものの定義が自分の中で明確でないんだ。」

この、何とナイーヴな正直さ! そうしてその問いは、野田秀樹に尋ねても、おそらく似たような返事が返ってくるのではあるまいか?

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