随談第596回 五月のいろいろ

各種の締め切りが次々と行く手に立ち現れて更新が随分間遠になってしまった。舞台のことは新聞評でお許し願うこととして、訃報やら世上の噂から、いつもの二、三回分をまとめた簡略版でお許し願うことにしたい。

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とは言え、舞台のことにまったくのノー・コメントというわけにも行くまいから、新聞評に言い残したことを幾つか。

まず坂東家の三代4人の襲名だが、これだけ余分なデコレーションのない襲名というのも、何だかずいぶん久しぶりだったような気がする。新・楽善はこれで五つ目の名前を名乗ることとなったわけで、私としてもその五つの名前のそれぞれの時の思い出を持つことになる。やはり、亀三郎から薪水になった頃のことが一番なつかしいが、今更、病気のことを言うのも却って失礼だろうから、ただ、それ以来のこの人の越し方を見てきた一人として、さまざまな思い無きを得ないとだけ、書いておこう。大庭と朝比奈と、襲名の二役では取り分け、朝比奈に深く熟したものがあったのが一入の感慨だった。これだけの朝比奈は、当節、他に求めことは出来まい。熟成度に於いて、父の十七世羽左衛門を抜いていると思う。

新・彦三郎については、規矩整った挙措、高く伸びやかな声、わけても後者は坂東家の芸風に新たな境地を拓くもの、と新聞に書いた通りである。今後この人を、周りがどういう風に遇してゆくかにも、どれだけ大きな花を咲かせることが出来るかが関わっている。同時に、彦三郎自身にも、祖父もおそらくそうであったであろうように、立場上脇の役をつとめることも多かろうが、単なる脇役者ではない、高い志を持ち続けてほしいと思う。

新亀蔵は俣野に近江、それに四変化の神功皇后に善玉、通人に『石橋』の獅子の4役で、俣野の荒若衆がベリベリした中にも行儀のよい芸であるところに、祖父以来三代につながる坂東の家の家風が偲ばれる。ただ一つの意外な疑問は、これだけの俣野でありながら、目が(うまい表現が見つからないが)な、言うなら俣野でなく亀蔵の目のままであるように思われたのだが、どうだろうか?

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菊五郎の魚宗に感服した。先頃の『四千両』と言い、昨秋の勘平と言い、何度もやった役を今までと違えたわけでもないのに、この冴えは、作って作らず、自ずから神に入る境地と考える他はない。この人の越し方も、新・楽善と同じくらい見てきたわけだが、先の辰之助と三人、同時襲名した昭和40年5月の六代目十七回忌の折の歌舞伎座を挟んで、前年10月、東京オリンピックのさなか東横ホールでの若手だけの『忠臣蔵』通しと、同時襲名の翌月の東横ホールの、薪水の『石切梶原』、菊之助の弁天小僧、辰之助の『土蜘』というのが、夢のまた夢のように、しかし確かな手ごたえを以て、三者それぞれの原質を見た記憶として私の中で像を結んでいる。

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新彦三郎の坊やが六代目亀三郎として立派な初舞台ぶりを見せた一方で、同時に初目見得の寺島真秀(まほろ、と読むのだそうな)坊やの方にテレビの報道が集中してしまう。マスコミ、とりわけテレビというもののオソロシサ、残酷さを思わない訳に行かない。

もっとも、『魚宗』にお使い物の酒樽を届けに来る酒屋の小僧を勤めた真秀少年があっぱれの舞台ぶりであったことは、もちろんそれとは別の話である。先に言った昭和40年5月の六代目菊五郎十七回忌に二代目松緑がやはり『魚宗』を出して、この酒屋の小僧の役をしたのが八十助、つまり十代目三津五郎だったのだから、今は昔の夢には違いない。

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5月中に聞いた訃報といえば、月丘夢路に日下武史ということになるが、昭和29年6月に日活が映画製作を再開して、各社からスター、非スターを問わず俳優が移籍した中で、松竹からは北原三枝とか三橋達也とか大坂志郎とか相当の顔ぶれが揃った中で、月丘夢路がトップスターだった。井上靖の新聞小説の映画化『あした来る人』とか『銀座二十四帖』とか、川島雄三監督のものがなかなか悪くなかった。(川島監督の方も、日活に移ってからの方が、今なお傑作の誉れ高い『幕末太陽伝』とか『洲崎パラダイス』とか、このころが一番瑞々しかったが、これには月丘は出ていない。)そうこうしている内に石原裕次郎が出現して、『鷲と鷹』という発端の数分を除いては全場面船の上という一風変わった映画で、(ついでだが、裕次郎のアクション物ではこの作を以て私は最上とする。主題歌が実にいい)父親の仇を討つために貨物船に乗り込んだ裕次郎を追って密航者としてもぐり込んだあばずれ役をしたのが、当時の月丘としては変った役だったのと、『素晴しき男性』というミュージカル仕立ての作で姉の役で出たのがあった。どちらも井上梅次監督で、この後『嵐を呼ぶ男』だの何だの、裕次郎ものの定番が確立するその前夜の作で、『鷲と鷹』では月丘が愛人役だが、『素晴しき男性』では北原三枝が恋人役になる。つまりこの辺に、分水嶺があったわけだろう。

松竹時代は、誰でも知っているのは小津作品『晩春』の原節子の友人役だが、昭和28年から年に一作づつ、秋の大作として後の白鸚の八代目幸四郎を迎えて時代劇の大作を撮ることになった、その第一作の『花の生涯』でも儲け役を演じ、第二作の『忠臣蔵』では幸四郎の内蔵助に瑶泉院をつとめたり(映画の瑶泉院として、私の見た中で最上位としたい)、高田浩吉の『伝七捕物帳』シリーズで女房お俊というのも懐かしい。むしろこれが一番よかったかもしれない。この役は、三作撮ったところで日活に移籍したので、草笛光子が二代目お俊をつとめることになるが、月丘の方は日活に移ってから『おしゅん捕物帳』という、当時の娯楽時代劇としては珍しい女優が主演の捕物帳を撮っている。以て、いかに人気があったか分かるであろう。晩年、もう画面からも舞台からも遠ざかって大分たってから、一度だけ、演目は覚えていないが、帝劇だったか芸術座だったかに姿を見せたことがあったが、あれは忘れてしまった方がよかったかもしれない。それにしても、死亡の報は新聞でもまずまずの扱いをしてくれたのは何よりだった。妹に、月丘千秋という、整っているという意味では姉よりもオーソドックスな美人だった女優がいて、随分いろいろな作品に出ていた筈だが、遂にこれという決定打を放つことなく終わってしまった。ある意味では姉よりこちらの方が、いまとなっては懐かしい感じもする。(まだ健在だろうか? いや、大分前に訃報を聞いたような気もするが・・・)

マスコミの扱いというなら、日下武史の訃報の記事には、しばらく現役から離れているとこういうことになるのか、という典型を見る思いである。あれだけ、いわゆるマスコミ露出度も高かった往時を知る者はまだまだ少なくない筈だが、マスコミの現場の第一線にはもういないということか。私にとっては、昭和38年に日生劇場が出来て、劇団「四季」と、文学座から脱退組が結成した「雲」とが、自分たちの公演を交互に行なったり、十七代目勘三郎が『リチャード三世』をした時は、四季・雲双方から出演したり、といった頃が懐かしい。藤野節子がアヌイの『ひばり』でジャンヌダルクをした時に、けん玉を発明したというフランス王の役で、けん玉をしながらセリフを言うのだが一向に上手くいかない。『どんつく』の太神楽とは違うのだからけん玉が下手でもいいようなものだが、あゝやっぱり新劇だなあ、と妙なところで思ったのを思い出す。

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東京場所であるにもかかわらず、夏場所は遂に国技館に足を運ぶことがなかった。前売り1時間半で全席完売になり、窓口を開く前に販売打ち切りとなったからだ。相撲人気が上げ潮のところへ稀勢の里人気が加速させたからだが、今後は窓口での前売りはしないという。不祥事続きで人気低迷の時にも変わらぬ熱心さで窓口に並んだのは誰だと思う、などとボヤいても、今後はネット販売を全国展開します、という大義名分の前には聞く耳など持って貰えそうにない。

歌舞伎座でも、かつては、前売り発売日に行列の中に並んで、窓口に辿り着くと、香盤といって、厚さ数ミリはあろうかというボードに座席表を書いたものが、25日分、高々と積み上げてある。たとえば何日の昼の部の三階A席、という具合に注文すると、積み上げた山の中からその日の分を抜き出して見せてくれる。ここ、と指さすと、前売り係のオネエサンが色鉛筆で一席一席、売れた席を消して行く。前売りというと、ついこういう光景が思い浮かんでしまう。

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稀勢の里の途中休場というのは、こういうことになりゃしないかな、というかねがね抱いていた危惧が、やっぱり、という現実となって現れたというのが率直な印象である。だって、先場所13日目の、怪我をしたときのあの様子を見れば、ただごとではないことは素人目にもわかる。いや、こういうことは素人の直感の方がえてして当たっているものなのだ。こうなったら、かつての千代の富士がそうであったように、まずきちんと治すべきものは治すべし。それ以外はない。

しかし、弟弟子の高安の活躍が兄弟弟子の美談を生み、大関昇進という快挙を生んだのだから、相撲界の上げ潮ぶりは、弱り目に祟り目だった数年前のマイナス札が全部プラス札にひっくり返ったようなものだ。高安の新大関ぶりもなかなかいいし、結構なことである。切符が簡単に手に入り難くなってしまったことを除いては。

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アキレス腱断絶で十両に下がって、今場所も六日目に2勝4敗になったときにはどうなることかと思った安美錦が、その後挽回してなんと千秋楽に優勝を争うことになった。一度は行司の軍配をもらったのが、物言い取り直しになって負けとなり、フイになったのは余儀ないこととは言え、最高齢十両優勝というレジェンドになりそこなったのは、逃した魚は思いの外に大きかったかもしれない。白鵬復活優勝の陰のちょいとしたグッドニュースとして、社会的にも良き話題になり得たであろうに。

やはりアキレス腱断絶で再起後もはかばかしい成績をあげられず幕下中軸にまで下がってしまった豊ノ島の方は、放送を気を付けて聞いていても戦績を報道してもらえない。特別扱いをしないという方針があるのかもしれないが、あれだけの力士の戦績や現況を知りたいと気にかけている相撲愛好者は少なくない筈だ。時には話題にかけて然るべきではないか。 

テレビの中継放送が始まるのは十両の取組みの中程からで、それまではBSの中継を見るわけだが、十両の取組みは前日に発表になり新聞にも載るから出番の時刻の見当もつき、対応ができるが、幕下以下のこととなると普通には分からない。それにそんなに早い時間からテレビに噛り付いているわけにもいかない。

もうひとつ、BSから地上波に切り替わるとき、あと30秒で地上波の放送に変わります、などと画面に予告は出るのだが、時刻になると取組み中でも構わず、機械的に切り替えてしまうのは、いかにも心無いわざではなかろうか。
       

随談第595回 訃報たち

ペギー葉山という人の名声は昭和30年代半ば以降、『南国土佐を後にして』と『ドレミの唄』の二曲で、国民的な規模で決定づけられたわけで、それに異議を唱える気は少しもないが、私にとってはそれより前の、洋物の歌を歌えば、シャンソン歌手以外は一律にジャズ歌手と呼ばれていた頃のペギーの方が懐かしい。ペギー葉山とかナンシー梅木とか、「二世」という言葉も今となっては古めかしいが、当世流に従えば「ハーフ」でもないのに、姓名の「名」の方を片仮名の異人風にした芸名が、いかにも昭和20年代の匂いを芬々とさせる。この間死んだかまやつひろしの父親はティーブ釜萢だし、トニー谷、フランキー堺、フランク永井等々、歌手と限らず、記憶をたどって数え出せば陸続と続くだろう。プロ野球の選手も、これは本当に日系の「二世」だが、与那嶺要はウォーリー与那嶺だし、西田亨はビル西田だし、日米二つの名前を持っていた。外人選手流入時代の前に、日系二世の選手の時代があったのだ。(因みに長嶋茂雄の前に巨人の三塁を守っていたのは、柏枝という二世選手だった。川上が4番打者の座を下りて長嶋に定まるまで、巨人の4番を打ったのもエンディ宮本だった。)
ところでペギー葉山だが、晩年といっては失礼だが、老いて未だ威風を放つその姿を見かけたことがある。いまの猿之助がまだ亀治郎の名で脚光を浴び出して間もない頃、京都の大学内の劇場で毎夏「亀治郎の会」を開催して注目を集めていたその開演前のロビーの雑踏の中でだった。つまり、彼女は亀治郎を京都まで見に来たのだろう。ごった返すロビーで、強度の近視の私の友人が鉢合わせしそうになってハッとした一瞬、さりげない身のこなしで擦れ違うと、あでやかに人ごみの中に消えていった。見事な光景だった。

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三遊亭円歌の訃報を知らせるニュース番組で、アナウンサーが「演歌さん」「演歌さん」と初めから終いまで、頭にアクセントを置いて呼んで(読んで)いた。若いとは言ってもそれほど駆け出しとも思われない年配と見受けたが、つまりこのアナ氏は、円歌という噺家の存在を、自分の関心の中に一度も容れた(入れた)ことがないのだろう。知らないということほど、ナサケナイことはない。

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金森和子さんと言っても、このブログを読んでくださる人の中にも知る人はそうは多くないかも知れない。『歌舞伎座百年史』などの大部の労作の編集に携わった人といえば、少しは分かってもらえるだろうか。私が新聞評を書き出して間もない頃、たまたま席が近くだった時、あちらから名乗りを上げてくれたのが最初だった。まだぽっと出のころに、そういう接し方をしてくれる人というのは、何とも有難いものなのである。

最近しばらく顔を見ないと思っていたら、ついこの正月だったか、歌舞伎座のロビーで立ち話をしていたら通りすがりに挨拶をされ、一瞬だが、金森さんと気が付くのに暇が掛かった。重い病気に罹って、久しぶりの歌舞伎座なのだということだった。たとえそんない方でも会い方でも、亡くなる前に言葉を交わすことが出来て良かった。

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そして、最後に佐田の山である。

この人が登場した時、既に世は柏鵬、すなわち大鵬・柏戸の時代が始まっていた。栃錦が引退したのは60年安保闘争がいよいよ大詰めに差し掛かろうという五月場所で、その年の一月場所に新入幕した大鵬が、まだ上位との対戦のない位置ながら11日目まで連戦連勝、あわや平幕優勝をさらうかと注目が集まったとき、既に関脇に昇進していた柏戸と普通なら顔の合わない位置ながら対戦が組まれ(こういうことは現在でもちょいちょいあるが、まず真っ先に柏戸を当てたところに、ただの「止め男」ではない期待が籠められていた)、押し合いの末、柏戸が引き落として勝った。

結果としては栃錦がすんなり優勝、場所後にエールフランス航空から優勝力士への報償としてパリ旅行招待という、この年から始まった椿事があった。当時、パンアメリカン航空が、千秋楽の表彰式というと、ナントカさんといったっけ、米国人の日本駐在員が紋付き袴でたどたどしい日本語で賞状を読み上げるのが名物になっていたのへの対抗策として、後発のエールフランスが「パリ旅行」という「記念品」を考え出したのだった。一般人の海外渡航が解禁になる前夜というこの時期を物語る、これも戦後世相史の一ページとして優に書き留められて然るべきことであろう。初場所優勝力士に対するこの「ご褒美」はその後数年続いて終わったが、第一回のこの時は優勝した栃錦に柏戸もお供をするということになって、羽織袴姿でベルサイユ宮殿を見物中の写真とともに、栃錦が柏戸の女房と間違えられて「マダーム」と呼びかけられたというゴシップが添えられてきた。このパリ旅行には、すぐ三月に春場所が始まるという慌ただしい中に一航空会社の宣伝にのっての外国旅行など稽古不足の基であり百害あって一利なし、という声もあったりしたが、さてその翌三月の大阪春場所が、いまでもちょいちょい当時の映像を目にする若乃花との横綱同士の全勝対決で、この一戦に敗れた栃錦は、次の五月場所に初日・二日目と連敗するとそのまま引退したのだったが(大鵬は、だから、一躍上位に昇進した三月場所で、たった一度だけ栃錦と対戦している。ほとんどいわゆる「電車道」で、あっという間に押し出されてしまったが)、当分は、一人天下になった若乃花の時代が続くものと思われたにも拘らず、しばらくは第一人者の地位は保ったものの予想外に早く衰えを見せ(好敵手の引退で目標を失ったと言われた)、大鵬は入幕一年目には大関として柏戸に並びかけ、二年目の秋に横綱に同時昇進した時には既にやや優位に立っていた。まだ青味は残しながらも、時代の趨勢は既に柏鵬にあった。

佐田の山が台頭したのはそういう流れの中だった。体格は見るからに二人より貧弱で、年齢もやや上だった。いいところなしのようだが、しかし突っ張りを武器に果敢に柏鵬に挑み、何度かに一度は牙城を突き崩す相撲ぶりはなかなかよかったし、あまり当世風でない風貌もあって古格すら感じさせた。やや遅れて、当時は珍しかった大学相撲から鳴り物入りで角界入りし、見る見る台頭してきた豊山にはとりわけ激しい闘志を見せたのも、偏狭というより、気っぷのいい、古き良き相撲取り気質と受け止められた。柏鵬より後から横綱になり、柏鵬より先に引退したが、決して単なるB級横綱ではなかった。しばらく優勝から遠ざかった後、二連覇した次の場所、初日・二日目と連敗すると引退を発表したのは栃錦の引退に倣ったのだと言われた。佐田の山に続いて、栃の海、北の富士と、同じ出羽の海一門から横綱が出て、このころまでが名門出羽の海一門の面目が実質をもって保たれていた時代だった。正直に言って、私としては柏鵬にもまさってなつかしい力士である。

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と、ここまで書いて一晩寝かせて置いたら、今朝の朝刊に元NHKのスポーツ・アナの土門正夫さんの訃報を見つけてしまった。東京五輪の際、例の女子バレーボールの決勝戦のラジオの放送を担当したというのが記事の中心である。なるほど、あくまで堅実なよき意味での女子バレーの決勝戦をテレビで放送したのは鈴木文弥アナで、大詰の日本のサーブの時、「金メダルポイント」と繰り返し絶叫して、批判を浴びながらもしばらく一世を風靡したが、「文弥」などという名前も、このアナ氏を人気者にする上で一役買っていたのは間違いない。(正夫と文弥ではインパクトが違う。)同じころNHKの相撲放送で鳴らした北出アナは名前が「清五郎」だったが、こういう名前がまだこの世代にはちょいちょいあり得たのだ。そういえば昭和30年頃、十両に大瀬川半五郎という力士がいたし、もっと前の横綱前田山は英五郎だった。さながら次郎長三国志だが、何と今年になって、プロ野球で「栄五郎」という名前の新人が活躍している。キラキラネーム隆盛の当節、結構なことである?

随談第594回 今月の舞台

まず歌舞伎座の「お噂」から取り掛かろう。

染五郎の貢がなかなかいい。染五郎としてはもしかするとこれが一番の適役かもしれない、とすら思いながらロビーに出て、聞こえてくる評判を聞いていると、案外にも、褒める声が多くない。どうも感じが、いま一つ違う、ということらしい。私としては、ピントコナといわれるこの役の感覚に、久しぶりでぴしゃりと適った貢に出会ったと手応えを感じたのだったが・・・。もっともこういう感覚というものは、自分が実際に出会った舞台をベースに蓄積され、発酵を繰り返しながら育っていくものだから、当節の見巧者たちにとっては、貢と言えばたとえば仁左衛門なのであろう。現に今度の染五郎も仁左衛門に教示を受けたのだそうだから、まずそこのところに関心が集まるのも尤もなところだ。私とて、仁左衛門を当代での貢役者と見ることに異論はない。染五郎が仁左衛門のやり方をよく学んで演じていることもよくわかる。

だからそれはそれとしての話だが、今度の染五郎を見ながら、角々のきまりやちょっとした間合い、その時の目の使い方、顎の使い方、後頭部から肩や背中の線などに、勘弥の貢を彷彿させるような箇所が幾つもあり、それが私にちょっとした驚きをもたらした。こういう、柔らか味のある、とろっとした感触のある貢を、ずいぶん久しぶりに見たと思った。ピントコナという、どこか滑稽味をはらんだ感覚が、この言葉の語感のなかに宿っている意味を解くカギだと思うのだが、勘弥の芸の中にあったある種の軽みと共にあるおかしみが、私が見た限りの貢たちの中で最も、あゝ、これがピントコナだと直感させるものであったと思うのだ。今度の染五郎は、比べればやや薄味ながらそれを思い出させた、というわけである。

現・仁左衛門は、この人らしく、父十三代目のものに自身の柄や工夫を掛け算して独自のものを作り上げたものと思われる。十三代目は、衣裳も東京の貢たちのように白の上布を着たこともあったが、上方歌舞伎と謳った公演では、浅葱の衣裳を着たと思う。昭和40年6月、東横ホールに上方歌舞伎の公演が掛かって、そのときに十三代目の貢を初めて見たのだった。(『鰻谷』の八郎兵衛を見たのもこの時だった。ワンフロア下の百貨店の食堂と別に劇場の中にも小さな食堂があって、気が付くと隣のテーブルに、自身はこの公演に出演していなかった鴈治郎(もちろん二代目である)が焼きそばなんぞを食べていたり、他の劇場では体験できないようなことが、この劇場ではあり得た。)

筋書巻末の上演記録を見ると、勘弥が貢を演じたのは戦前は知らず戦後ではただ一度きりらしい。(初代吉右衛門が最晩年の昭和27年7月、貢をつとめた時に勘弥が型を教えているのは、当然、経験があったればこそであろう。) 昭和42年7月、八代目三津五郎が父七代目の七回忌追善興行をした時で、追善の演目は『関の扉』に『勧進帳』という、踊りの神様七代目のイメージからすると異色なものだったが、八代目としては思うところあってのことだったようで、たとえば弁慶は、七代目はもちろん本興行で出したことはないが、八代目としてはいろいろ教わる処があったのでそれを世に示したい、という趣意だった。後の九代目の簑助の縁でか、菊五郎劇団から三代目左團次と梅幸、それについその三カ月前に七代目を襲名したばかりの芝翫(つまり、あの芝翫である)が客演したお陰で、左團次の宗貞という、今にして思えば貴重な眼福を得たり、後の十代目三津五郎がまだ11歳の八十助少年で、父の蘭平で『蘭平物狂』の繁蔵をつとめて、祖父八代目をして、これで歌舞伎は30年生き延びたと言わしめたとか、いろいろミソがあった公演だったが、当時の歌舞伎界を蔽っていた状況からすると、傍流に掉さす人たちによるやや異色な公演で、ご常連からは、今月はパスかな、などと見られがちであったことは確かだろう。そうした中で、勘弥としては従兄弟の八代目三津五郎の弁慶に富樫をつき合い、自身の出し物として『伊勢音頭』を出したというわけだった。こういう機会に、という自負があってのことと想像できる。(つまりこういう折でもないと、歌舞伎座で貢をつとめられるような機会はあまりなかったわけだ。)他の配役は梅幸のお紺、三津五郎の喜助、簑助のお鹿、菊之助(つまり現・菊五郎である)の万次郎、売出し間もない玉三郎のお岸に、さて万野が多賀之丞で、これは本当に見ておいてよかったと、私の観劇歴中でも幾つかという内に数えられる。いかにも夏の芝居らしく、どんなに突っ込んで芝居をしても芸が暑苦しくならない。洗練の極みである。もっとも、あんなのは真似の仕様がないから、今度の猿之助が熱演のあまり少々暑苦しくなったって咎める必要は毛頭ない。秀太郎に教わったと言っているが、二代目の鴈治郎のが面白かった、などとも言っているのがニクイところで、相当研究しているに相違ない。鴈治郎の万野というのは、私が見るようになってからは東京ではしていないから、最晩年に関西でしたのを見てきた人が、別に頼んだわけでもないのに、あんまり面白いからとブロマイドになった舞台写真をお土産にくれたのを貰ったので推し量るばかりだが(ブロマイドとは思えないような凄まじい顔で写っていた。それにしても猿之助は当時いくつだったのだろう?)猿之助は相当よくやっていると認めていい。後に衣装を変えるのが上方式なのだろうが初めて見た、ように思う。(さっき言った昭和42年6月の東横ホールの上方歌舞伎公演で十三代目仁左衛門の貢が浅葱色の衣装でつとめた時、万野は四代目菊次郎だったが、さてどうだったか? 残念ながら覚えていない。)

というわけで、染五郎貢、猿之助万野がそれぞれ自分の仁にあってそれぞれよく、且つ取り合わせの妙も利いて面白く、梅枝のお紺、米吉のお岸、ちょっと水気が過多のようではあるが神妙につとめているところを買って松也の喜助も無事とすれば、この若いメンバーに、秀太郎の万次郎、萬次郎のお鹿などという長老連と(この中に京妙の千野も加えたい)、何とも不思議な取り合わせもおかしく、何だか私一人で褒めているような気もするが、近頃面白い『伊勢音頭』ではあった。(忘れるところだった。橘太郎に橘三郎に隼人の林平による「追っかけ」から「二見ケ浦」も近頃でのものと認められる。十頭身みたいな顔の小さいのは気になるが、隼人の息の良さというものは、先月の『伊賀越』の奴でもオッと思わせる。)

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幸四郎が13度目とかいう『熊谷陣屋』を出して、幸四郎一代としての熊谷を作り上げた感があるが、今回ひとつオヤと思ったのは、顔をいつもの砥の粉よりも赤面と言っていいほど赤く塗っていることで(そうすると癇癪筋が引き立たないのが難だが)、察するに芝翫型を加味乃至折衷したものか? いわゆる團十郎型が、相模をそっちのけにして熊谷一人の心境劇になってしまうことへの批判や反省が(以前からあったにはあったが)最近頓に聞こえて来るようになったのは、ひとつには男女対等がここまで進化した世相の反映でもあるだろう。吉右衛門も仁左衛門も、それぞれ團十郎型の熊谷の中で、能うる限り、敦盛≠小次郎の首の扱い方に気を配って相模への心遣いを示す工夫をしているが、今回の幸四郎は、それを一段と進めようということでもあろうか?

(それにしても、埼玉の奥の熊谷からはるばる神戸まで、我が子を思ってやってきた女房に向かって「ヤイ女」とは、いくらなんでもないよナア。赤い顔をした素朴な豪傑のオジサンならまだしもユルセルが、砥の粉の顔の沈着冷静なミスター熊谷ともあろうものが、なおさら気になる? 今日埼玉県立熊谷高校が甲子園に出場したとして、球児たちの母親連中がバスを連ねて駆け付けるのと、相模が一里歩み三里歩みして、徒歩でやってきたのと同じ距離であるわけだ。)

ところで、ここでも染五郎が義経を、猿之助が女形で相模をつとめ、実力を見せるが、猿之助の相模が小次郎の首を抱いてのクドキが、座ってする仕事が多い。私の席はちょうど相模の居所と相対する位置にあったのだが、生憎この日は前の席に座高高く肩幅広い偉丈夫が座ったので、普通に坐っていると丸っきり姿が見えない。後ろの席に気兼ねしつつ左右いずれかへ首を傾げねばならず、じっくりと見極めることが出来なかったのは残念である。

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吉右衛門が『吃又』をするのは数え間違いでなければ今度で10演目のようだ。もちろん悪かろう筈もないが、大きな体を小さくして芸をしているような感じがないでもない。むしろ今度は、菊之助がお徳をするのに興味があった。栗梅の小袖に黒繻子の帯という女房役の典型のような姿の菊之助というのは、あまり見た記憶がない。昨秋の『六段目』でお軽を見たのも珍しかったが、お軽は姿は女房でも性根は娘だから、今度のお徳で吉右衛門を亭主に持っての女房体験は大いに得る処あったに相違ない。祖父の梅幸という人は、立女形として大きな役もいろいろしたが、十一代目團十郎や松緑を相手に女房役も数々つとめている。

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坂田藤十郎が長右衛門、鴈治郎が『醍醐の花見』の秀吉一役切りで上がってブルペンで待機という態勢下、立ったり座ったりを能うる限り少なくしてつとめる。たまたま初見日、お半の書置きを知って、行灯の燈を掻き立て、読もうと立ち上がった途端、あわや稀勢の里の二の舞かとヒヤリとさせる場面もあったが、どうやら無事であったようなのは何よりだった。(間髪を入れぬタイミングで下手からすっと近寄り、一瞬で様子を見極めてすっと姿を消してしまった黒衣の振る舞いが見事だった。)大長老の気力には敬意を表するしかないが、この人はやはり辛抱役より、お半と長吉の二役を変わった在りし日が懐かしい。辛抱役でも『河庄』の治兵衛とは一つではないようだ。もっとも今回は、そのお半と長吉の二役を壱太郎がつとめるというミソがあり、この秀才クンは抜かりなく巧打を放ち、ここでも染五郎が儀兵衛をつとめるという協力体制。上村吉弥のおとせが、『宵庚申』の八百屋の婆をさせてみたいような面白さがある。

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猿之助の『奴道成寺』に「三代猿之助四十八撰の内」という肩書がつけてある。なるほど、「家の芸」なわけだ。過日初目見得をした大谷桂三の長男が大谷龍三と名乗って小坊主の役で初舞台。数奇な役者人生を閲してきた桂三を思うと、どうぞ健やかに成長してくれと願わずにはいられない。

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亡き勘三郎ゆかりの赤坂ACTシアターの赤坂歌舞伎(実は「赤坂大歌舞伎」と「大」の字がついている)で初の新作を掛けた。蓬莱竜太作・演出で『夢幻恋双紙』。「赤目の転生」というサブタイトルがついている。小劇場系の気鋭の作者らしく、こうと思えばあゝといった感じで次々と観客の意表を突いてゆく展開といい、それを転生という形で人間の諸相を視覚化して見せる、水際立った演出の手際といい、なかなかのものだし、作としても悪くない。勘九郎にしても七之助にしてもなかなか達者で、こういうものをすればひょっとすると親父より巧いかも、と思わせるほどだ。だがここで気になるのは、和服を召した年配のご婦人方から各年齢層に広がった中村屋ファンと思われる女性観客たちが、どういう感想をお持ちになったか、である。思うに、この作を盛る器として最もふさわしい劇場はと言えば、赤坂ACTシアターよりむしろ、新国立劇場の小劇場ではあるまいか、というのが見終わっての私の第一の感想である。(「新」の字がついているのに注意。三宅坂ではなく初台の方ですぞ。)いっそこのメンバー、このスタッフがこぞって新国立劇場に出演したなら、歌舞伎界だけでなく日本の演劇界にとっても、もっともっと、幾層倍にも意義ある公演になり得たのではあるまいか。どこかの先走りの週刊誌が「歌舞伎が新国立へ殴り込み」などと書いてくれるかもしれない。

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「歌舞伎」と名乗る公演が今月はもう一つあって、それは新橋演舞場の「滝沢歌舞伎」である。「滝沢演舞場」と称していた頃から数えればもう随分の年数を数えることになる。毎回欠かさず見ているわけではないが、はじめは国籍不明のようなところに魅力を発散させていたようだったのが、三十半ばという年齢だそうだが、大分落ち着いた「歌舞伎」ぶりを見せるようになっている。今年は『鼠小僧』を結構面白く見せている。「野田版」を認めるなら、これだって「滝沢版」として認められて然るべきには違いない。とにかくこの一党の身体訓練だけでも一見に値するわけで、戸板を使った義堅ばりの立回りにしても、大ゼリを使って歌舞伎の義堅の二倍の落差を跳び下りるのだから、大変なことは間違いない。

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この月のミュージカルは、40年余、今なお連載が続いているという少女漫画を原作とする日本製ミュージカル『王家の紋章』の再演、英国小説の原作による米国製ミュージカル『紳士のための愛と殺しの手引き』といった、いろいろに考えるネタを提供してくれるかのような作が並んでいて、それぞれに興味深かった。かつての『ベルサイユの薔薇』にしてもだが、西洋史やら中東史やらを題材なり舞台なりにして女性の作者が大長編を物してしまうというのは、さすが紫式部の国ならではとも言えるが、一面、すぐれて現代日本ならではとも考えられる。かつてはかの『八犬伝』あり『白縫譚』あり(なんと現代語訳が、それも女性の訳者の手でなされていることを迂闊にもつい最近知った)、だから男性にも物語作者の才能はない筈がない(筈なの)だが、少なくとも今日、男がつまらぬ小理屈に拘泥して物語を構築する才覚と度胸(と考えるのが、おそらく一番当たっているであろう)を失ってしまったのが最大原因であろう。まさしく「女は度胸」の時代なのだ。(三島由紀夫は逆立ちしても山崎豊子になれなかったであろう。)

一方『紳士のための愛と殺しの手引き』がアガサ・クリスティーを思わせるような物語性を秘めているのも興味を惹かれるが(つまりかの大英帝国も、かつてはウォルター・スコットのようなのもいたが、近代に入るとミス・マープルのおばさんに名を成さしめることとなる)、しかしこちらについては、そういうことよりも、米国製ではあっても英国の貴族社会の相続制度をネタにしているためもあり、ミュージカル化に当たっての脚本と作曲に妙を得ているためもあって、テイストがイギリス風なのが面白いし、成功の因になってもいる。要するに、ドタバタをしてもガキっぽくないのがいい。宮沢エマという最近になって見掛けるようになった女優は、かの元首相の孫娘なそうだが、なかなか潤いのあるソプラノで、この芝居の肝になる場面で、おそらく技巧的にも難しいに違いない曲を好唱佳演してまことに結構だった。今回公演の殊勲甲である。

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新国立は前回の『白蟻の巣』につづくシリーズ「かさなる視点・日本戯曲の力」の第2弾で安部公房の『城塞』。初演当時は奇天烈と見えたに違いない劇中劇中劇という設定も、そういう点ではすれっからしになっている当節の観客には受け容れやすくなっているが、翻って思えばそういう観客を造成するうえで、この作などが大いに貢献した筈ともいえる。同時に、昭和37年という時点で、昭和21年を劇中劇としてみせるという入れ子構造による三一致の法則が、いま見ても充分インパクトがあることを確認できただけでも、今回上演した意義はあるというものだ。

そうは言うものの、二つの劇中芝居の内、主人公の「男」とその「男の父」の方は明快だが、「男」と「男の妻」の方がもうひとつすっきりしないために、やや片肺飛行の感が残るのが今度の上演の難点だろう。名作はすべからく明晰・明快であることを要するのだ。

アベ・コウボウというやや奇妙な響きを持つ名前は、中学生のころラジオの放送劇(という言い方の方が普通だった。ラジオドラマとは、まだあまり言わなかった)の始まりに、「作・アベコウボウ」というアナウンスをちょくちょく耳にしたのが始まりだった。奇妙な内容だが決して難解ではなかった。初期のテレビにも、ちょいちょい出演してヤマアラシのようなヘアスタイルを見せていた。言うこともしごく平明だった。それなのに「演劇」となると妙に難解になってしまうのは、だから演出や俳優の演技のせいではないかという気が、私などはどうもしてしまうのだが。

随談第593回 このところの話

前回と前々回の第591回と第592回でうっかりミスを二件、犯していたことに後になってから気が付いた。まずはそのお詫びから。

一件目は第591回のフランス女優ミッシェル・モルガンの訃報のところ。子供のころ西洋人の女性、特に女優の顔を怖いと思うことがよくあったが、彼女などもその代表格だったと書いた話の続きとして、同時代のフランス女優の連想から、『天井桟敷の人々』のアルレッティなどもそのひとりだった、と書こうとして、そのアルレッティの名前が不意に出なくなった。こういうことは若い時にだってあることだが、近頃頓に多くなったのは残念ながら歳のせいと思わざるを得ない。目の前にいる孫の顔を見ながらいまは50歳を優に超えている筈の甥の名前が口をついて出たりする。溺愛?する身内の幼い子供として、年若の叔父として初めて接した甥の名前が脳裏の最深部にインプットされているのに違いない。で、こういう場合、しばらく放っておくと自然に記憶が回復するのが分かっているから、それから書き加えればいいと思って取り敢えず先を書き進めたわけだが、今度はそれを失念したまま載せてしまった、というのが事の次第。掲載が大分間遠になっているのが気になっていたので少々気が急いていた、ということもあったとはいえ大トチリではあった。

もっとも、こちらは恥になりこそすれ迷惑を及ぼすことではないが、もう一件の方は、前回の最後の話題『マリウス』について新橋演舞場でと書いたのは全くの勘違いが原因のうっかりミス、正しくは日生劇場だった。こういうミスはよろしくありませんね。改めてお詫び申し上げます。

ところでその新橋演舞場は愛之助らによるブロードウェイ・ミュージカル『コメディ・トゥナイト!』なるもので、ちょいとこれは、どうにもならないものだった。「ローマで起こったおかしな出来事」の「江戸版」と副題に謳っているが、うわべだけローマを江戸におきかえたところで話のポイントが土台から成り立たず、洒落にもならない。企画の見通しの甘かったが故の失敗だから、愛之助が懸命につとめるだけ気の毒になるばかりで、とても笑えるものではない。

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大相撲春場所はおそらく誰ひとり予想しなかったであろう筋書となって、さしも普段は関心を示そうとしない民放各局まで、春場所だけでなく相撲の話題をいろいろな番組にして放送を始めている。稀勢の里はこれで断トツに人気随一の力士となったに違いない。相撲ぶりもだが、横綱の土俵入りが、所作のいちいちに重みがあって近来稀に見る素晴らしさだ。セリ上がりの前傾も程がよく、したがって風格が出る。最近の横綱は皆、不知火型だとそうなりがちなのは差し引いても前のめりに突っ込み過ぎるのが気になる。マスコミが、何秒かかったからどうのということばかり問題にするのはおかしな話で、流れと間合いが整っていることが肝要で、先輩の三横綱の中では、リズム感がいい日馬富士のが一番、白鵬のは、ひとつの所作ごとに流れが停滞する感じが感心しない。

万人が目撃していた土俵上での怪我を押して出場、優勝を決めたのは、貴乃花最後の優勝のケースが、小泉首相の「痛みに耐えてよく頑張った、感動した」という総理大臣杯授与の際の「名言」で誰知らぬものないが、13日目の土俵で負傷、休場かと思われたときに連想したのは、昭和31年秋場所の初代若乃花のことである。前場所初優勝してこの場所も最有力と目され、当然横綱昇進が期待されていた初日目前、煮立っているちゃんこの大鍋を、回りではしゃいでいた3歳か4歳ぐらいだったかの長男坊がひっくり返して全身火傷で死去するという不慮の悲劇に見舞われた。当時大関で若の花(はじめ若ノ花だったのが、験を担いで若の花となったら大関となり、こののち、若乃花と改めて横綱になったのだったが、「ノ」「の」「乃」、どう書こうと、本来こういう場合の正式の表記は「若花」であり、「の」は補いのためなのだからどう書いても同じことであり、この改名は意味がないと評した古老がいたが、なるほど、一理ある一家言であろう)といっていたが、その日からちゃんこを絶ち、土俵に上がるとき以外は大きな数珠を掛けて念仏三昧で秋場所に臨んで、鬼神の乗りうつったように連戦連勝、12連勝したところで高熱に倒れ休場となった。それでも千秋楽に再出場、勝てば優勝というので、本割が組まれて横綱の栃錦と対戦と決まった。ところが高熱が引かない、協会も異例の措置を取って、幕の内の取組み開始の時刻まで出場を待とうということにしたのだったが、遂に高熱が引かず欠場となり優勝を逃し横綱昇進もお預けとなった。(つまりこの場所、若の花は不戦敗が二つ付いて12勝2不戦敗1休み、という戦績だったことになる。)しかしこのときの強烈な印象から「土俵の鬼」という異名が出来、若乃花人気は爆発的なものとなったのだった。(日活で映画化して題名も『若の花物語・土俵の鬼』、本人役には本人が出演し、奥方役をつとめたのが、のちに石原裕次郎夫人となった北原三枝だった、という嘘のようなホントの話がおまけにつく。)

負傷を押して優勝、物凄い形相が評判となったという点では貴乃花の時と共通するが、しかしあの時の貴乃花はすでに功成り名遂げた晩年だった。片や新横綱の場所、片や横綱目前の場所でそののちに全盛を迎える期待をいやが上にも高揚させたという意味では、今度の稀勢の里のケースは初代若乃花を襲った惨事と重なり合う。確かに、八角理事長の言うように、後世語り継がれるであろうことは疑いない。但し問題は、あの怪我が今後の土俵にどれだけ尾を引くかということであろう。顔を歪めてしばし動けず、検査役の親方に背を持たせかけるというあの様子から察するに、筋肉断裂とでもいうことでなければいいが。

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それにしても、稀勢の里礼賛の声に覆われてほとんど聞こえてこないが、当の相手が照の富士であったというのは因縁というほかはない。一昨年秋場所13日目、照ノ富士が土俵上の取組みで膝を痛め、以後1年半、低迷を続ける原因となった一番の相手が稀勢の里だったのだ。たまたま私は見に行った日だったから、膝が折れるように崩れ落ちたさまを眼前にしたが、あの負傷がなければあの場所優勝して連続優勝、横綱になっていたところだった。踏ん張りが利き、寄りをこらえたり、吊り上げたりする怪力を発揮出来るようになった今場所は7割程度の回復具合と思われるが、終盤の遠藤戦と鶴竜戦で無理をしたのが祟って、稀勢の里との二番は膝の悪さがかなり目についたのも、事実として誰かが書いておくべきだろう。(このことは琴奨菊戦での問題の立会い変化にも微妙に影を落としている筈だが、しかしああいう一番で「あれ」をやっては、完全アウェイになってしまうのはやむを得ない。あの一番で出来た悪役イメージは今後の相撲ぶりで払拭するしかない。)

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照の富士との本割の一戦の最後の仕切りに入る時、解説の舞の海氏が、私なら右に変化し(て右上手を取りに行き)ますね、と言ったのが適中し稀勢の里が立会い右に動いて右上手を取りに行ったのだったが、立ち合い不成立となって、今度は左へ大きく変わるという動きを見せた。これまでの稀勢の里だったらこういう機転を利かせられたか、少々疑問だが、こうした場合、少なくともスポーツ番組と称するほどの番組なら、不成立となった初めの立ち合いから映像を見せなければいけない。照の富士が琴奨菊に見せた立ち合いの変化も、実はその前にまっすぐに立ったのが不成立となってやり直したという前提があってのことだった筈だが、その晩のサタデー・スポーと題するNHKの番組では、二度目の立ち合いからしか映像を見せなかった。中継放送を見なかった人は、その前に不成立となった立ち合いがあったことは知らないままということになる。ニュース番組の中のスポーツ・コーナーならともかく、これはスポーツの専門番組ではないか。もう5秒、時間を割けばすむことで、司会者とレポーターのじゃれ合いみたいな余計なお喋りを5秒だけ早くやめれば事は足りるのだ。この番組に限らず、近頃この手のことが多すぎる。

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先に書いた映画『若の花物語・土俵の鬼』だが、当時日活では、元大関が糖尿病のため幕尻近くまで凋落して再起、敢闘賞を受賞、40歳にして関脇まで復活する感激を描いた『名寄岩物語・涙の敢闘賞』の好評に続けて『川上哲治物語・背番号16』『褐色の弾丸・房錦物語』『怒涛の男・力道山物語』など、どれも本人が出演して本人自身を演じるという映画が次々と作られたその一作である。(若乃花や川上、力道山はともかく『房錦物語』と聞いてハハンとわかる人はこのブログを読んでくださる方の内どれぐらいいるだろう? 今で言うなら『遠藤物語』みたいなものだといえば一番手っ取り早いか。房錦は遠藤とは顔は似ていないがやはりイケメンで、前捌きのいい寄り身を得意とする好力士という点では共通する。関脇まで行ったが、まだ若い横綱だった大鵬が何度か苦杯をなめたことがある。)

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怪我の話ばかりだが、相次いでのアキレス腱断裂で片や十両、片や何と幕下にまで下がってしまった安美錦と豊ノ島が苦闘を続けているのを見るのは本当に胸が痛む。こういうことが、私にとっては一番と二番の贔屓力士であるこの二人に相次いで起こったのを見ると、神の悪意とでもいうべきものを思い浮かべざるを得ない。二人とも当代屈指の相撲巧者だが、その巧さも立ち合いの当たりや出足、踏ん張りが利いてこそ十分に発揮されるものだから、一見以前と同じように取っていても、むざむざこのあたりの地位の力士に負けてしまう姿を見ることになる。今の尾車親方の大関琴風や、近くはいまの栃ノ心なども幕下に落ちて復活したが、まだ若かったから可能であったことで、今度の二人のように年齢が行ってからではなかなか難しいのだろう。出来る限りBSの放送で取組を見るようにしているが、午後二時、三時という時間だから欠かさずというわけにもいかない。何とかいま一度、幕の内に復帰した姿を見る日を願うしかない。
 アキレス腱断絶というと思い出すのが往年の横綱羽黒山で、終戦直後の昭和22年頃まで、たしか4連覇と無敵の豪勇であったのが、二度に亘ってアキレス腱を断絶、四年間、優勝から遠ざかってしまった。そもそも、小学生だった私がアキレス腱という言葉を覚えたのはこの羽黒山の一件によってのことだったから、いまなおアキレス腱と聞くとすぐ羽黒山を連想するように頭の構造が出来上っているのだ。こうした不運にも拘らず40歳近くまで強豪の名を辱しめることなく横綱を張り続けて、最晩年に全勝優勝した時のことは忘れがたい思い出として、新進の横綱の千代の山を下手投げで破った千秋楽の一番など、ラジオのアナウンサーの声まで耳に残っている。

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むかし話にかまけるようだが、相撲だろうと野球だろと、芝居だろうと、結局のところ、どれだけ多くのむかし話を総和として蓄積しているかが、そのジャンルの厚みやら懐の深さやらを決めると言ってもいいのではあるまいか。女優の富士真奈美という人がなかなか端倪すべからざる女史であるらしいことは、ときどきテレビで喋っている姿を見て知ってはいたが、先日、風呂上がりのつれづれに何気なくつけたテレビの番組で、佐藤浩市等と駄弁っている中に、話題が高校野球になると、突如、巨人へ行った新浦が静商のエースで投げた試合をあたし下田の砂浜でラジオで聞いていたの(彼女は伊豆の出身らしい)、とか、放浪画家の山下清さんと(何かの番組でか)柏戸さんの部屋を訪問した時、柏戸さんが喜んで、タクシーで帰るとき裸のまんまで手を振って送ってくれたの、といった話がすらすら出てくる。面白い。オーオー、という感じでつい見入ってしまったが、彼女はこういう話題をいくつも持っているに違いない。新浦などという名前がすらっと出てきたり、裸のまま手を振ってタクシーを見送ってくれたなど、いかにも柏戸の一面らしい。いわゆるオタクとは違う、自由気ままに悠然と楽しんでいる感じがいい。
 それで、というわけではないが、稀勢の里の本名が萩原寛というのを今度知って、ヘエ、と思った。戦後、一リーグ時代最後の年と二リーグ時代一年目の二年間、巨人の正右翼手だった同姓同名の選手がいたのを思い出す。つまり中島治康と南村不可止の間をつないだわけで(なんて言っても、分かる人はどれほどいることだろう?)、台湾出身で前名を呉といった。戦前巨人、戦後阪神で活躍した呉昌征とは別人で、あまり目立たない地味な存在だったが、『エノケンのホームラン王』という巨人軍選手総出演の映画にちらっと出てくる。

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WBCというと日本の戦績のことばかりが問題になるが、もう少し目を見開いて眺めるなら、今回最も注目すべきは、アメリカが、メジャーの選手を揃えて優勝するなどようやくこの大会の意義に目覚めた感のあることである。野球は、オリンピックの種目に入れてもらおうなどと齷齪するより、WBCを真の世界大会にして隆盛を図るべきだというのが、私の持論である。将来その隆盛に気が付いたIOCが、ベースボールもオリンピックに参加してくれと頼んできたら、ようやく、まあ、出てやるか、と答えればよろしいのだ。サッカーだって、世界大会の方が本大会ではないか。

カリブ海上に浮かぶ一島嶼をかつてオランダが領有したのを起源として、自治領となった今、野球強国の一角を占めるようになったり(バレンティンよりはるか前にヤクルトにいたミューレンが監督をしているのも、ヘーエという面白さがある)、アメリカ球界のマイナーリーガーでチームを編成したイスラエルが予選リーグで健闘したり、注目に値するおもしろい話柄がいろいろあった。こうした視野を拡げて見るなら、準決勝敗退という今回の日本の戦績は、それなりに悪くない位置取りだったとも言えるのだ。

随談第592回 今月の舞台から

新国立劇場の新しく始まった昭和30年代シリーズの第一弾、三島由紀夫の『白蟻の巣』を見てきた。あまり芳しい出来とも思われないが、それなりに思うところもあった。昭和30年、青年座の第3回公演が初演というから、今は昔の作だが、三島としてはこの前後が、小説なら『潮騒』だの『金閣寺』だの、芝居なら『鹿鳴館』だの『黒蜥蜴』だの『近代能楽集』の諸作だの、歌舞伎でも『鰯売恋曳網』だの、それぞれの分野で一番瑞々しい作品を次々と書いた頃で、私には、三島という人は実際にお付き合いするのは御免蒙りたい人のような気がしながら、作家としてはいまだに好印象を持ち続けていられるのはこの時期に書いた作品群があればこそといって過言ではない。(率直に言って、この頃のものが一番面白いではないか。文章だって、この頃のものが一番実が詰んでいる。)

もっとも、『白蟻の巣』を見るのは今度が初めてだが、やや青臭さが気にかかる面もあり三島の戯曲としてさほどの作とは言えなさそうだ。他の受賞作を見ても相当の権威があったと思われる岸田演劇賞の第二回を取っているが、当時の三島の名声が取らせたという一面もあったかもしれない。もっとも、観念主義について回る一種の青臭さは三島に終生ついて離れなかったものだから、それにもかかわらず魅力と思えるか否かが、成功作か否かを分けるのだとも言える。平田満演じる元華族の農園主苅屋義郎の、妻妙子と運転手百島の心中未遂まで起こした不倫関係を黙認している「寛大さ」なるものの正体が、日本人論にも通じるし、この役のモデルとされる元東久邇宮の若宮という人物の出自を通して天皇論にも通じるわけだが、現代の若手の演出家による「かさなる視点」という、今回のシリーズのテーマに関する限りでは、一応、目的は達せられたことになるのだろう。だがそれだけでは、一杯道具の三幕物という古典主義的作劇と言い、三島dictionによる言葉・言葉・言葉で成り立つ脚本と言い、要するに三島の駆使する言葉の芸術としての面白さが発揮されなければ、「お芝居」としてのうま味は何にもない。X線写真のように骸骨や内臓を剥き出しにして見せて、ハイこの通り三島戯曲を裸にしてご覧に入れました、というだけのことである。

もっとも、これはもはや、言っても詮無いことなのかもしれない。はっきりしているのは、現代の俳優たち、とりわけ若い女優たちにとって、三島の戯曲の言葉をセリフとして言うのは困難、いやほとんど不可能なことだということである。無理もない。戦前から戦後、この戯曲の書かれた昭和三〇年ごろまでは確実にあった、upper middle以上の階層およびその縁辺の女性たちの言葉遣いと言外のニュアンスというものが、既に雲散霧消して久しいのだから。ちょっとした言葉の区切り方、アクセントとイントネーションから立ち現れる気品あるコケティシズム。苅屋妙子を演じる安蘭けいや百島啓子役の村川絵梨のセリフがそういうニュアンスをまったく伝えられないからと言って、彼女たちを責めるのは酷というものだろうと観念する他ないのだ。伝えられないのではなく、それがそこに潜んでいることに全く気付かずに、台本を自分たちなりの読み取り方で読み、自分たちなりの感情を籠めてセリフを言っているだけなのだから。まだ若い演出者も、おそらくそれを知らないのに違いない(と、考える他はない)。

三島の戯曲は、誇張して言うなら、ある時代までの日本の社会に確かに存在した「階級方言」を駆使して作られた「歌舞伎」なのだ。人物はだから、国崩しなら国崩し、辛抱役なら辛抱役、片外しなら片外し、その人物にふさわしい言葉、ものの言い様をセリフとして言わなければ面白くならない。ましてこの芝居、イヤこの戯曲は、昭和二〇年代の(おそらくは前半、まだサンフランシスコ講和条約締結以前の)ブラジルという、戦前以来の秩序というものが崩壊してしまった日本本土の現実から隔絶された「場」を舞台に、旧華族の家庭という、「空疎な遺物」の物語なのだ。それだけ、抽象性が高い。

安蘭けいの夫人妙子はどうしてあんなに現代的にグラマラスなのだろう、運転手役の石田佳央はどうしてあんなにスマートで知的ですらあるのだろう? 「匹夫下郎」という言葉がかつての階級制社会には現実としてあった筈だが、すでに自動車の時代ではあっても、この戯曲の人物たちの認識ではこの男は「車夫馬丁」であり、「おとこ」そのものの肉体を体現した匹夫下郎でなければ、主人義郎が彼ら彼女らに見せる「寛大さ」は意味も奥行きも、「面白さ」も持ち得なくなる。わずかに苅屋義郎役の平田満が序幕で見せていた態度物腰や仕草に、役の奥行への理解が窺われたのは、年の功というものかもしれない。そう言えば、ひ弱な肉体をもって生まれ育った三島がボディビルに凝り出したのも、ちょうどこの作を書いたこの頃ではなかったっけ。

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坂田藤十郎に菊五郎、幸四郎、仁左衛門、梅玉、女形も魁春に雀右衛門に時蔵と、これだけ顔見世並みに揃っていてタイトルが「三月大歌舞伎」なのだから、この月の歌舞伎座は随分と遠慮っぽい。『伊賀越』の「岡崎」を再演するのが眼目の国立から雀右衛門と歌六が掛け持ちだとは、夜の部の始まる前に、雀右衛門夫人から、いまこの時間まだ国立にいます、と聞いてアッと思った。迂闊なことだが、それはそれ、これはこれ、だったのだ。『岡崎』が切れるのが4時過ぎ、『助六』が始まるのが6時半、それも、お谷から揚巻になるのだから、こういう掛け持ちはそう滅多にはないことだろう。『お染の七役』や『伊達の十役』の早変わりとは意味が違う。揚巻からお谷、よりはまだしもか。歌六の、山田幸兵衛からかんぺら門兵衛にしてもだが、この二つの掛け持ちは、この際、余人を以て代えがたいが故の、名誉の掛け持ちというべきであろう。
『岡崎』が内容に見合った量感を失うことなく前回より一段と明晰になったのは、各役各優、それだけすることが的確になったからだろう。とりわけ歌六の役者ぶりが一段と大きく、奥行きが深まった。吉右衛門の政右衛門が、もう少し芝居っ気を見せても、と思うくらい辛抱役に徹したためでもあるが、幕切れのシンメトリーが幸兵衛を頂点とする構図がぴたりとはまって、少しも不足を感じさせない。…とは言うものの、元々この人は老けの脇役だけに納まる人ではない。『輝虎配膳』の直江山城という知る人ぞ知る傑作を見せたのは、今世紀になってからのことである。あれを最後に白塗りの役が巡ってこないのは、吉右衛門と行を共にするようになり、一座の中で脇の要衝を固めることが専らになったからで、それで名声ますます高まったのだから目出度いには違いないが、かつてこの人に勘弥の再来を期待したこともある私としては、半面残念に思う気持ちも捨て切れないのも事実である。

もう一つ、前回を遥かに超えて出色だったのは「藤川の新関」で、前回からわずかの間に米吉のお袖がすっかり一人前の娘方として開花したからで、黄八丈の衣装がぴたりとはまる娘ぶりが、菊之助の志津馬と相合傘の風情などまさに匂うがばかりの好一対。この場が単なる「岡崎」のための筋の上の前哨に留まらず、悲劇の間に欠かせない彩りであることを教えられる。
お袖という役は、『矢口渡』のお舟のようでもあり『鮨屋』のお里のようでもありしまいに尼になるところは『野崎村』のお光のようでもあり、要するに娘役のエッセンスでこねて丸めたような役で、米吉としてはお舟をした経験がよい勉強になっているに違いない。

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さっき吉右衛門の政右衛門がもう少し芝居っ気を見せても、と言ったが、それに付けて思い出すのは二代目鴈治郎の政右衛門だ。幸兵衛女房が糸を繰り政右衛門が門口のお谷に心を遣りながら莨を刻む「莨切り」では、吉右衛門はもっぱら肚で芝居をするから、おのずと顔もうつ向けがちになるが、鴈治郎は顔を上げ目は虚ろに宙をさ迷うといった風情だったし、門口に出てお谷を追いやるところのあっちこっちに気を遣う小心ぶりなど、そこだけ取ればとても剣豪とも思われないうろたえぶりだった。だがこれが、「古き良き上方」の芝居の仕方なのだろう、とも思わせる面白さだった。

関所破りをして取り手に囲まれ、大小を糸立にくるんで雪で覆って隠すところでは、これはたまたま私の見た日だけのアクシデントだろうが、どこへ隠そうかと爪先立ってウロチョロするうち、おこついたはずみに刀が鞘走ってしまったりした。三十六番斬りの剣豪にあるまじきことだが、これも、心逸るさまの形容としての上方流のお芝居だったのであろう。

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それにしても、今になって良いものを見ておいたと思うのは、昭和30年松竹映画『荒木又右衛門』と、32年新東宝『剣聖暁の三十六番斬り』という対照的な二本の映画である。片や後の白鸚八代目幸四郎主演の堀内真直監督、片や嵐寛寿郎主演の山田達雄監督、前者が長谷川伸の原作の映画化という史実の考証を踏まえ、後者は講談に語り伝え来った又右衛門伝説の典型の集大成ともいうべきシナリオという、好対照な内容であったことは、いま思えば天の配剤のようなものだ。昭和三十年代もまだ早い頃までは剣豪荒木又右衛門というものがまだ民間説話の英雄として「現役」であり得ていた(おそらく最後の時代)であったから、こういう映画が作られていたのである。(アラカンは何と、例の『明治天皇と日露大戦争』の明治天皇役と同時の公開である。)

面白いのは、こうした講談をベースにしたものと、史実に拠るものと、文楽・歌舞伎で見る『伊賀越』と、黙阿弥の『日本晴伊賀報讐』と、モチーフとなる物語やエピソードがそれぞれ絡まり合っていることで、荒唐無稽と思われがちな講釈の三十六番斬りだってあながち根拠のない絵空事とも言えまいし(つまり、今度歌昇のやっている近藤野守之助(あの『番隨長兵衛』で水野の朋輩の近藤登之助か?)をはじめとする又五郎を擁護する旗本連中が、三十六番斬りのモデルであろう)、『伊賀越道中双六』として演じられる「奉書試合」や「敵討ち」の場が実は黙阿弥であったりするのは、『仮名手本』十一段目と称して黙阿弥の実録物のアラカルトをはめ込んだりするのと同じことで、「忠臣蔵」にせよ「伊賀越」にせよ、寛永なり元禄なりに現実にあった事件がベースになっていることから離れられないからであろう。(昭和38年12月歌舞伎座で勘弥・延若・扇雀という顔ぶれで「試合」「沼津」「仇討」という出し方をしたことがある。おそらくこの時が、国立劇場は別にすれば、昔風のアラカルト式出し方の最後であったろう。「伊賀越」伝承が「みなさんご存知」であることを期待できなくなった、これが下限であったということか。)

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歌舞伎座の『千本桜』渡海屋・大物浦で仁左衛門が知盛を出し、松緑・延若と東西の型を綜合しての仁左衛門型として集大成して見せたのは敬服に値するが、ただ二つ、桓武天皇九代の後胤新中納言知盛としての名乗りのセリフに省略があったのと、手負いになった知盛が胸に刺さった矢を引き抜いて滴る血潮を呑むという、延若の見せた型を取り入れたのは大いに結構だが、細かいことを言うようだが矢に血汐をぼってりと肉厚に(小道具に注文をしたのだろう)つけてあったのは、やや生々しい感じがして違和感があったこと、この二点を、凝っては思案に能わぬ疑問点とする。あれだと知盛が串刺しのソーセージを齧っているみたいで、義太夫物のトーンとしては生々しさが障りになる。赤い血潮を塗るだけでよかったのではないか?
梅玉が『千本桜』で義経、『明君行状記』で池田光政と、殿様役者ぶりを発揮。いつもクールな梅玉があれだけ芝居っ気を見せるのはよほど入れ込んだのか。前回もよかったのを思い出すが、何時だったかを調べてみたら2001年9月、『明君行状記』が昼の部、夜の第一に山本有三の『米百俵』を出した時とわかって、あゝ、と思い出した。その春成立した小泉純一郎内閣が言い出して俄かに世人の知る処となり、歌舞伎座で早速、吉右衛門にさせたのを新首相自ら見物に来たので大騒ぎだった時だ。小泉首相はその前に、大相撲で貴乃花が大怪我をしながら優勝、自ら総理大臣杯を渡しに来て免状の文言を読まずに「痛みに耐えてよく頑張った、感動した!」と叫んで大評判を取った、その記憶がまだ褪せない時だったから、旧歌舞伎座の二階ロビーから二階席はわんわの騒ぎだった。

閑話休題として、今月の殊勲賞は巳之助の『どんつく』、ちゃんと三津五郎家の踊りを踊って見せたのを評価したい。技能賞は『引窓』のお幸の右之助。あの役は、鳥が餌をついばむようにして貯めた小粒を渡して与兵衛から濡髪の人相書を買おうとする貧に窮した婆と、「濡髪の長五郎を召し取った」と叫ぶ元郷代官の妻という格と、両方を見せなければならないところに人を選ぶ難しさがある。しょっちゅう出る芝居だが、じつはなかなか適任者がいない。右之助は品格あり、さりとて偉過ぎず、結構だった。(但し、布で口を被ってセリフを言うと聴き取りにくくなるのは一考すべしだ。)
今月注目随一の海老蔵の『助六』がまずまずであったのは結構だった。何と言っても助六役者として天成の仁と柄である。今のままだって当代の助六であるのは間違いないが、その割には褒める声がもう一つ大きくならないのは、海老蔵の助六はこんなものではないと思えばこそだと知ってもらいたい。

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新橋演舞場に山田洋二監督の『マリウス』が掛かった。マルセル・パニョルのこの作は、オールド新劇ファンには文学座の舞台で懐かしい思い出と共にある芝居だが、山田監督にとってはそれとは別に格別の思いのあるものという。学生時代に友人の大切にしていた翻訳本を借りて読んだのが知り染めた初め、かのフーテンの寅さん「男はつらいよ」シリーズも、これが原点なのだという。そういえば、寅さん以前に『愛の讃歌』という好篇を作っているのが山田版『マリウス』のいわば第一作で、マルセーユが瀬戸内海の小島の港町、ヒロインのファニーが倍賞千恵子、マリウスが中山仁、今度柄本明がやっているセザールが伴淳、林家正蔵のパニスが有島一郎その他その他という配役でやっている。今度の自ら脚本・演出の舞台版が、いうなら山田版『マリウス』の第二弾、かつての文学座の記憶にどれだけこだわるかで評価は分かれようが、それはそれとして見るなら、当節気持ちよく見られる好舞台と言っていいだろう。

随談第591回 よもやまばなし

ここひと月ばかりの間に私のアンテナに引っ掛った訃報というと山中毅、神山繁、船村徹、鈴木清純、ミッシェル・モルガンといったところか。何と言っても感慨を呼ぶのは山中であるのは、時代の記憶と直結しているからだ。
メルボルン・オリンピックというのは、ヘルシンキに次いで日本が戦後二度目に参加した大会、つまり私にとって物心ついて以来二回目のオリンピックで、南半球だから12月に開催、ヘルシンキが夏休み中だったのにこちらは二学期の期末試験と重なっていたのを思い出す。その間にテレビの放送は始まっていたが海外からの実況中継などとてもとてもという段階だから、まだ専らラジオの時代である。
 ヘルシンキで負けて古橋が引退したのを引き継いで、メルボルンでまだ高校生だった山中が銀メダルを取った、というのがこの訃報を伝えるマスコミ流の定番であろう。その間4年間、人がいなかったわけではないが、皆、固くなって決勝まで進めない中で、彗星のように、という言葉通りに出てきた高校生が一人、メダリストになった。その時の金メダリストがマレー・ローズというオーストラリアの選手で、当時は日米選手権とか日米豪選手権とかいろいろあったから、通算すればそれなりに勝ったこともあったように思うが、その後も遂に、オリンピックではこの選手に勝てなかった。対戦成績は拮抗していたが優勝回数で大差がついた大鵬と柏戸の関係と相似形である。別にファンだったわけでもないし、小学生の頃のように無邪気に熱中したわけでもないが、今となれば、当時のさまざまな個人的な思い出と絡まり合って、訃報を目にして淡い感傷に襲われたのは不思議である。いま見ればさほどの作品でなくとも、古い映画を見る機会に巡り合えば、それだけで懐かしいのと同じようなことかも知れない。

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ミッシェル・モルガンというのも、我々(よりむしろもう一つ上の世代)にとって格別な思い出のある女優だが、マスコミの報道はそっけないものだった。今の人たちにとってそんな程度の評価なのか? かの『天井桟敷の人々』というのは、『風と共に去りぬ』などと(対照的でありつつ)並んで、昭和20年代に輸入された外国映画の中でも別格的な存在であった筈だが。もっとも私などの年配だと、公開当時は何せまだ子供だから見たって何がいいのかさっぱりわからない。なるほどこれは、と思うようになったのは、その後ほぼ10年置きぐらいの間隔で繰り返し公開されたのを見てからで、初めは、なんとも不気味な顔をした女優、というので強烈な印象を受けたものだった。大体、外国人が溢れ返っている中で育つ今どきの子供はどうか知らないが、西洋の女性、それも濃いメークをした女優というのは、我々世代の子供にとって、かなり不気味に思えたものだが、彼女はその中でもとび切りの、おそろしいような西洋女だった。『天井桟敷の人々』でも、主役のジャン・ルイ・バローなどよりはるかに印象的に思えたし、その記憶は今も変わらない。

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一月の国立劇場の『しらぬい譚』に亀蔵扮するピコ太郎もどきの人物が登場して大受けだったが、日によっては本物が登場したらしい。あの奇天烈な英語もどきとちょび髭、イマドキのお笑い芸人の中ではちょっぴり古風で違和感のある芸人ぶりが、往年のトニー・谷を思い出させる。と、思っていたら、このほどチャンネルNECOで、昭和29年の東宝映画、市川崑(が監督だったとは、迂闊にも今度はじめて知った)『わたしの凡てを』というのを見ていたら、そのトニー・谷が出てきたのには、感慨ひとしおであった。当時、ミス・ユニバースなる世界美女コンテストで堂々の三位入賞、身長と顔のサイズ配分が8対1なので八頭身という、当時の日本女性として破天荒なプロポーションで話題だった伊東絹子の映画初出演という話題作である。中学生だった私は、もちろん知ってはいたが、見なかったので実は今回が初見である。いま見ると、菊田一夫原作の『君の名は』の焼き直しに焼き直しを重ねたような陳腐なストーリイと言い、むしろそれが興味深い当時の東京や大阪の最先端の、なんとも安っぽい街の情景と言い、良くも悪くも一驚せざるを得ないが、池部良と上原謙が相手役とあきらめ男役、宝塚から映画へ転進してまもない有馬稲子が恋のライバル役という、それなりの豪華キャストが組んである。(だみ声の大阪弁で鳴らした三遊亭百生が有馬稲子の父親役で出てきたのには驚いた。まさしく余禄である。)物語が進んで、いよいよ伊東絹子扮するヒロインがミス・ユニバース日本代表を決める選考会に出場する会場(が東京会館なのは、おそらく実際にもそうだったのだろう)の場面で、司会者役としてトニー・谷が登場する。終戦から8年、GHQが帰ってから1年という、終戦直後の闇市全盛時代とは微妙に違う一つの時代を、ある意味でこれほどシンボライズしていた人物もいないだろう。とんがりのロイド眼鏡にちょび髭、奇怪な英語にソロバンというスタイルは、もちろん計算づくでしたことだったろう。ピコ太郎からトニー・谷を連想したのが間違いでなかったことも確かめられた。ここらが、巨匠監督の名画しか見ない人には解らない、BC級映画ならではの面白さである。

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国会中継を見ていると、大臣に代って答弁をする官僚たちがしきりに、「…と承知してございます」「…と考えてございます」「…と思ってございます」といった言葉遣いをするのが、近頃いやに耳に障る。「ござる」という動詞は「ある」「おる」「はべる」と同義だから、「…と承知しております」「…と考えています」などというのと同じであり、別に誤用ではなかろうが、最近やたらに耳につくようになったのは、官僚に独特の気取り方の流行現象なのだろう。
 それにしても、こういう処に登場する官僚たちの慇懃で馬鹿丁寧且つ取り付く島のないそっけない態度・物腰というものは、よくもこう、何十年経とうと、世の中がどう変わろうと、寸分たがわず、毫も変化しないのには驚かざるを得ない。彼等とて、年配から考えて昭和も末期、もしかすると平成生れさえいるかもしれないのだから、平素は、Tシャツにジーンズで出歩いたり、我が子の運動会には傍目も構わず撮りまくったり、当世風のこともしているのだろうが、一旦業務となると、官僚流の気取りの「型」をきっちり守り抜いているのにはいっそ感心したくなる。もしかするとあれにも、「外務省の型」とか「大蔵省の型」とか、「成駒屋の型
だの「音羽屋の型」だのと同じように、いろいろあるのかもしれないね。
 一方、安倍首相がよく、「…なんだろう」というのも耳に障る。「××法案を今国会で成立させることが是非とも必要なんだろう、と思うわけであります」という風に使う(のが首相の言葉癖らしい)のだが、それほどの大事なら、「なんだろう」というような他人事みたいな言い方は、言葉癖というにはいかにも無責仁じみて聞こえるから、おやめになった方がよろしかろうと思うのだが、如何なものなんだろう。
 もう一つ、この首相の言葉の癖で、文字に直せば句読点を打つようなところでいちいち、「これはですね」「あれはですね」と「ですね」をつけるのが耳に障るが、実はこの「ですね」の「ね」を「よ」に変えて、「これはですよ」「あれはですよ」とすると、尊敬する祖父の岸信介首相の言葉癖になるのだ、ということに、ご本人はお気づきであろうか?(ナニ、疾うに知っていて、お祖父さんの噛んで含めるような説教調を避けて、当世流のソフトタッチに変えている、つもりなのかもしれないが。)

随談第590回 如月だより

まずは歌舞伎座のお噂から。

暗闇の押し問答の場面から開幕した正月に引き換え、江戸歌舞伎三九〇年と謳った今月は、猿若祭やら幼い坊やの初舞台やらと、場内は、賑わっている。まさか今年の歌舞伎座は春節、いやさ旧正月で春を迎えようというのでもあるまいが、見る前は、前日辺りからテレビ各局で持て囃したり、正直なところやや鼻白む感じもないでもなかった『二人桃太郎』に引き続いて、折から節分というので豆撒きでやんやの騒ぎ、ついこちらも、いつのまにやらおめでた気分になっているのだから、これが歌舞伎というものの何とも不思議なところと認めないわけには行かない。

豆撒きといえば、今度は菊五郎が「追儺」を行ないます、と挨拶をしたのでヘエと思ったが、以前、富十郎が座頭格として開口一番「昭和15年の立春を祝いまして豆撒きを行ないます」と挨拶したのを思い出す。つまり平成15年を言い間違えたのだから、もはや13年前の昔となるわけだ。富十郎らしいそそっかしさも懐かしいが、ついでに懐旧談に耽るなら、新桃太郎の祖父、つまり十八代目勘三郎が初舞台で桃太郎をしたのが昭和34年4月、すなわち現天皇皇后のご成婚の、まさにその月であったのだから、数えれば58年前、江戸歌舞伎390年の6分の1乃至7分の1は、それからこっちの話ということになるわけだ。

歌舞伎の歴史もさほど長くはないのである。

それにしても、勘太郎の三代目というのはいいが、長三郎という名前は知らなかった。何だかあまり可愛らしい坊やの名前という気がしない。無理して古い名前を引っ張り出さなくとも、もっと可愛らしい活気のある名前を初代として名乗らせる手もあったのではないか? 中村七三郎という、江戸和事の元祖とされるいい名前があるが、これは七之助の坊やの時に取っておくか? 

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『大商蛭子島』の開幕前に勘三郎のところの石橋さんが、この芝居、みんな何だかよくわからないって言ってるんですよ、と笑っていたが、その割には、皆、まずまず無難につとめていたように見える。たしかに、松緑のやっている手習いの師匠が実は源頼朝公、などというのは、一番目を抜きにして二番目の場面だけで見顕しをやって見せるのだから大変には違いない。かつて復活初演のときに祖父の二代目がした役だからというのが縁となっての配役だろうが、何とかし遂せたのは松緑もそれだけ幅が出来てきたからで、以前の松緑だったらお手上げだったろう。

この脚本は、国立劇場ができる前、歌舞伎審議会というのが出来て、学識者と舞台の実際家が手を携えて、天明歌舞伎の復活上演という机上の論を現実の舞台に上せるという仕事を実現した、ある意味で戦後歌舞伎の一つの記念碑といえる。こうした機運が、その5年後に開場した国立劇場の復活上演へと結実したのだともいえる。昭和30~40年代というのは、いま思えば、一種の啓蒙開化の時代だったのだ。昭和29年末に開場した東横ホールの第一回公演にいきなり、上方歌舞伎研究会という名で、碩学といわれるほどの学識者が関わって『心中万年草』を復活上演したりしているのも、一連の機運の中から生まれたことだったろう。歌舞伎鑑賞教室で解説役の若手俳優が、歌舞伎はエンターテインメントです、と高校生に向かって迷うことなく言い切る時代になった昨今からすると、時運の転変をつくづく思わないわけには行かない。

(ところでこの『心中万年草』だが、演じたのは岩井半四郎と市川松蔦、といっても、判る人はどのぐらいいるだろう? 半四郎は仁科明子のお父さん、松蔦は現門之助の父の先代門之助である。この時点での、若手花形の先頭にいた人たちだった。)

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『四千両』という芝居は、いかにも黙阿弥らしくありながら、黙阿弥の異色作ともいえる。「牢内」が有名で、もちろん私も面白いと思うが、序幕の「四谷見附」が黙阿弥的リアリズムとして『入谷畦道』の「蕎麦屋」と並んで双璧だと思う。ここの菊五郎の富蔵が流石である。もうこれだけの富蔵は、いま既にこの人だけ、今後もう出ないだろう。

ところで「四谷見附」と言えば現在の四ツ谷駅から上智大学のグラウンド当りだろうが、この場の背景に描かれた千代田城の遠景は、いまなら半蔵門の国立劇場辺りから見た景色のように見える。「牢内は、だんだんマスゲームじみて見えたのが気になった時期もあったが、久しぶりに見るとやはり面白い。しかしこの芝居、序幕の御金蔵破りの後、一転熊谷土手で改悛の情を見せたかと思うと、伝馬町での(牢仲間から見ての)模範囚ぶりと、いいとこ取りにつまんで見せるので、場ごとに随分飛躍があるのが難とされるが、しかし富蔵の転変ぶりなど、却ってこうして見た方が結構現実にいそうな人物像として貫かれているようにも思える。つまり盗賊としても、護送犯としても囚人としても、どこへ行ってもそれなりに「ひとかどの」男なのだ。

熊谷土手というのは、この『四千両』のほかに、『沓掛時次郎』でも『不知火検校』でも大事な場面として使われるが、江戸からの、あるいは江戸への距離が、遠くもなく近くもなく絶妙な位置にあるからだろう。(この場での彦三郎の八州同心が何ともいい。)

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襲名披露で熊谷をやり盛綱をやり、大阪では石切の梶原をした新・芝翫が、もう「新」の字が取れた今月は『絵本太功記』の光秀をやる。立て続けに丸本時代物の大役と取り組む意欲は見上げたものだが、それはそれとして、鴈治郎の十次郎と孝太郎の初菊の絡み合いを手数の多い上方式でやって見せたのが、芸の良し悪しは別にして、なかなかの見ものだった。東京流だと何だか取り澄ましていてとかく退屈に流れるのだが、なるほど、義太夫の本場のやり方は違ったものだ、義太夫物とはこういうものかと納得させられる。思わぬ収穫であった。

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ひところ玉三郎と勘三郎で当てた『梅ごよみ』を染五郎の丹次郎、菊之助の仇吉、勘九郎の米八という新メンバーでの初目見得。仁よし柄よし、もう一段、磨きをかければ新名物になり得るだろう。歌六の千葉藤兵衛の貫目の程の良さなど、つくづくいい役者になったものだ。夜の部の追出しにこれほど恰好な二番目狂言もない。それにしても、原作の為永春水の江戸言葉をこれほど有効に生かした塩梅といい、場面の切り取り方と言い、芝居の運びの快適さと言い、木村錦花という作者の万事を呑み込んだ手練というものは恐れ入る他はない。これこそ絶後というものだろう。

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それとも関連するが、新橋演舞場の喜劇名作公演の一番目『恋の免許皆伝』というのは一堺漁人、すなわち曾我廼家五郎作の『四海波』のことで、これがなかなか面白い。序幕では適齢期だった許嫁同士が、20年後の第二幕、40年後の第三幕と、老齢に至ってようやく結ばれるというストーリイは、まさしく、かの『ぢいさんばあさん』と同じであり、感動の質も変わることはない。違うのは、剣術指南の娘である女に、婿たる男は剣の腕前で勝らねばならないという枷を掛け、序幕で達人を以て自負する鼻をへし折られた男が、20年後、40年後、艱難辛苦の修業の末、またしてもあっさり負けてしまうという「喜劇」に仕立ててある点だけだ。今回の門前光三(という戯作者名である)による脚色がどの程度手を加えてあるのか、元の台本を知らない私には分からないが、明治43年が初演と聞けば、こういうものを長年月埋もれさせていた世の通念というもののおそろしさを思わないわけには行かない。人情の機微の押さえ方と、芝居とはいかなるものかを熟知した作劇と、それさえ揃っていれば後はいらないと、100年後の今なお立証しているかのようだ。(因みに明治43年は1910年、107年前である。)

二番目として渋谷天外・喜多村緑郎・河合雪之丞という顔合わせで『狐狸狐狸ばなし』が出るが、せっかく天外が伊之助をするなら、「江戸みやげ」でなく、元の大阪を舞台にした版にしたら如何なものであったろう? 実はこの芝居、面白いには違いないが、江戸土産というにはちと話がエグイのが気になりもする。そこが北条秀司と木村錦花の違うところ、『狐狸狐狸ばなし』と『梅ごよみ』の違う処ではあるまいか?

随談第589回 あらたまのくさぐさ

新年初のタイトルとして「あらたまのくさぐさ」と書いたら、「新珠の九さ草」という文字が出てきた。コンピューターも時には洒落たことをする。なるほど、これも悪くないが、「九さ草」とすると9章、九つの話題を連ねなければならないので、惜しいがこのタイトルは不採用としよう。

新年は、毎年のことだが三日の浅草歌舞伎、四日の歌舞伎座に始まって、今年は新橋演舞場、国立劇場に三越劇場の新派と、新年第一週は国立以外は連日11時開演で、ゴングとともに5発、ボディブローを食らったような形となった。加えて中小、種々の劇評その他の原稿、仕事があるのが有難いとは言え、気が付けば早や月末ということになった。

もうひとつには、ご覧のようにこの欄も模様替え、何せ早や十年の余も続けてきたので、なにかと錆が付いたり、船底に藤壺の類が付着するのに似た症状が出たらしく(というのは、私はただ書くだけ、操作の一切はさる人のご厚意に任せているので)、年末以来故障つづき、新年を機にかく新バージョンとは相成った次第、これもまた、新年の挨拶が遅れた理由のひとつ、更にその他、身辺雑事さまざま重なった挙句・・・

というわけで、かく新装なった新バージョンにて本年もよろしくご愛読お願い申し上げます。

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歌舞伎座新年の昼の部が、いきなり暗闇の中、彰義隊と山岡の押し問答から始まることは新聞評にも書いたとおりだが、昭和50年代ごろだったか、新年の開幕と言えば筝曲の社中の出演で、100人もいるかと思うほど大勢のご婦人方が舞台に並んでの琴の合奏で、新年を言祝ぐ舞踊で始まったことが何年か、恒例のように続いた時期もあったのを思い出す。(思えばあのころ、歌舞伎座の経営は今よりはるかに苦難の時代だったはずだが。)

だが考えてみれば、いまこの文章を読んでくださっている皆さんの中で、元旦にお屠蘇を祝った人はどれぐらいあるだろう? 新年だからと言って、晴着、とまでいかなくとも、せめてセーター一枚なりと、新品でなくとも、前日まで着ていたのと取り換えて、新年を迎えた人はどれぐらいあるだろう? 富める者富まざる者それぞれなりの分に応じて、猿股一枚足袋一足なりと新しくして、新年を迎えるという習慣がなくなったのは、いつごろからだったろう?

少なくともそれは、やれバブルがはじけたの何ののせいではないことは確かだ。私の見るところ、むしろ、戦後の日本が格段に豊かになるのと比例して、こうした習慣は捨て去られ、忘れられていったのだったと思う。豊かになって逆に失ったのだ。

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歌舞伎座の幕間の玄関ロビーが、愛之助夫人のロビー初デビューというので、パンダの檻の前の如き人だかり。劇場側の計らいで我々にも「お引き合わせします」とのことだったが、考えてみればあちらは一人、こちらは複数、つまるところは一人一人、女王陛下の拝謁を賜わるような形になったのは余儀ないところであったろう。(国技館に御成りの際の天皇ご夫妻のように、協会幹部や横綱大関が玄関前にずらりと並ぶ前を挨拶を受けながらお通りになる、というわけにもまさか行くまい。) 

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その愛之助に染五郎の顔合わせ、というのが今月の歌舞伎座の売りなのだろうが、それより新橋演舞場の新・右團次の『雙生隅田川』が面白かった。たまたま『演劇界』に評を書いたから詳しくはそちらに譲るが、今後せめて「惣太内」と「道行」の二場だけでもいいから、現代歌舞伎のレパートリーの常連として定着させたい名作だと思う。近松といえば心中物、と決めてしまった思い込みの過誤から、もういい加減に抜け出して然るべきだろう。

松若丸と梅若丸の二役をする右團次の子の新・右近が秀抜の子役である。6歳だそうだが、あれだけ上手いととかく小憎らしくなるものだが、そういう嫌みがまるでないのが結構である。(お父つぁんが武田右近といって『天保遊侠録』の麟太郎をしたときは、張り飛ばしてやりたくなった!ものだが。)

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ところで、数年来海老蔵で開けていたこの新橋演舞場の正月、ことしは海老蔵がやや引いて、新・右團次の襲名を前面に立て、猿之助に中車も加わったというこの一座、ちょいとマッチョ軍団の趣きもあるが、そのことも含めて、当節なかなか面白そうな顔ぞろいだ。いろんなことが出来そうな顔ぶれだから、しばらく続けると、浅草の花形歌舞伎のお坊ちゃんたちがみんなあまりにも良い子ぶりなのがかえって気に掛かったりするだけに、この生きのいいにいさんたち(いや、オジサンか?)がひと暴れしてくれると、歌舞伎界全体によい刺激を波及する期待もできそうだ。

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稀勢の里の横綱昇進が決まって、マスコミとりわけテレビ各局の報道が予期以上の扱いなのは、何はともあれ結構なことだ。横綱が二人、大関が一人途中休場して対戦がなく、残る二人の大関もそれぞれカド番にかかわるような不調にも拘らず、今場所を低調と感じさせず、昇進を大甘の人気取り政策と見る意見も出てこないのは、それだけの勢いを見る者に納得させたからだ。白鵬との一戦など、追い込まれて窮余の逆転であったにも拘らず、むしろ「強い」と感じさせたのもそれだ。白鵬が小さく見えた。一気の寄り身に賭けるしかないと白鵬に思わせた、まさに「稀なる勢い」があった。

昇進を伝達に来た使者に、四文字熟語だの何だのとってつけたような妙な難語を言わなかったのもよかった。そもそもあの伝達式なるもの、妙にセレモニー化したのはテレビ報道の影響だろう。そもそも番付というものは次の場所前に発表するまでは極秘にする決まりであるのを、横綱と大関の場合に限って特別に(近年は、新入幕と新十両も公表するようになったが、つまり昇進すればそれ相当の準備が必要だからだろう)、来場所の番付編成の会議中に正副二名の使者が途中退席して伝達に来るというもので、大切なことには違いないが、もっと質素なものであったはずだ。初代若乃花の時の写真を見た覚えがあるが、使者と本人の間に火鉢が置いてあった。あの時も一月場所の後で寒中だったから、使者のために火鉢を用意したのだろう。その前の、誰だったかの時は、昇進できるかどうか本人も知らず、前夜どこかで飲んでいて慌てて帰って来た、などということもあった筈だ。

まして四文字熟語などというのは、かの若貴兄弟が始めたことで、あれを、こんどはどんな四文字熟語になるでしょうか、などと騒ぐのは明らかにテレビのワイドショー流の事大主義であって、言いたければ言っても構わないが、伝統でも何でもない。普通の言葉で挨拶して、それをマスコミも好意的に迎えたようなのは、今後のためにも、世間一般の相撲理解のためにも良いことだった。

土俵入りは雲竜型を選び、奉納の際、初代若乃花の化粧回しをつけたのは非常に良かった。仕草を教わった大乃国も、師匠の隆の里も、初代若乃花の弟子だから、孫弟子である稀勢の里のこの行為こそ、伝統を大切にする心情の表われである。

相撲の人気が高まるのは(切符を手に入れるのが難しくなったのは困ったことだが)喜ばしいが、やたらに伝統を振り回して、妙に事大主義的にならないようにマスコミにも願いたいものだ。それよりもつい先日、街中の遊園地で土俵に円を描いて相撲(らしきもの)を取っている男の子がいたのを、ホオという思いで見た。母親らしき女性もいたから兄弟なのかも知れない。もっとも、ろくに相撲の取り方を知らないらしく、相撲だか鬼ごっこだか分からないような代物だったが、それでも、絶えて久しく見なかった光景である。私などの小学生時分は、本場所が始まってラジオの中継放送が聞こえてくれば、校庭の隅に棒切れで円を描いた土俵で相撲を取って遊ぶのがごく当たり前の光景だった。当時はまだラジオの時代、テレビで映像を見ることなどなかったにもかかわらず、皆それなりに、相撲の取り方を知っていたのは、思えば不思議なようなものだ。

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宇良がたすき反りという65年ぶりという技を決めて評判を取ったが、相撲の取り方がすっかり変わって組み合うことが少なくなった昨今、反り技を売り物にする力士が出てこようとは、確かに話題を呼ぶだけのことはある。昭和26年夏場所の栃錦=不動岩、翌27年1月の常の山=大内山戦以来というが、どちらも、小兵力士が長身の力士に決めたものだった。常の山は主に幕内中軸にいた文字通りの手取り力士で、相手の大内山はのちの大関だが当時はまだ中軸から上位、6尺7寸といっていたが、後に大相撲も尺貫法をやめてメートル法に切り替わったとき、2メートル3センチと聞いて、皆々仰天したものだった。栃錦は当時小結だったか、24、5貫、80キロ級で相手の不動岩は6尺9寸5分と言っていたが実は7尺あったろうと言われていた。2メートル10数センチということになるから大内山よりさらに約10センチ高い。後の横綱鏡里と共に双葉山道場開設時の有望株で関脇まで行ったがそこでとまってしまった。

この栃錦=不動岩の一番の写真は、その後かなりの間、珍しい決まり手の例として、相撲雑誌はもとよりいろいろなところでお目に掛かったものだが、今度の宇良のときにNHKの相撲放送で全然触れなかったのは、当節の担当者はご存じなかったと見える。

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今年に入っての訃報といえば、新年早々、テニスの加茂公成という懐かしい名前を見た。こういう名前は、別にテニスに格別の関心があるわけではない私のような者にも、戦後の一つの季節をある彩を以て思い出させてくれる。1950~60年代、デヴィスカップの東洋ゾーンというのが、田園調布にあった田園コロシウムというテニス場で行われ、オーストラリアだのインドだのの見るからに強そうな強豪が立ちふさがっているために、華奢な日本選手は跳ね返されてしまうのが常だった。加茂公成だの宮城淳だの、皆戦前からのテニス一家の御曹司だった。

もう一つの訃報で、松方弘樹が各局からこぞって大名優扱いされるのにはびっくりするが、もっとも彼の俳優としての全貌を知っているわけではないから別に異を立てるつもりはない。親父さんの近衛十四郎は、主演スターとして復活してからより、松竹の時代劇映画で凄みのある悪役俳優だった頃がなかなかよかった。(大谷友右衛門と二枚看板で共演した『風雲日月草紙』というのがあった。いま一度巡り会って再見したいと願いながら未だ果たしていない。昭和30年、映画俳優大谷友右衛門としては末期の作ということになる。) 

その近衛十四郎の息子だというので売り出して間もない頃、テレビで『人形佐七捕物帳』をやっていたのをよく見ていたから、以来、ある種の好感を持ってはいた。なにしろ渥美清と克美しげる(この名前! まだ覚えている人は結構少なくないだろうが)が子分の役だったのだから、今は昔の話だが、そういえば岩井半四郎が八丁堀の同心の役で準レギュラーで出ていたっけ。(例の一件が起こるより前の話である。) 

もうひとつ、これは比較的近年だが、タイトルは覚えていないが大正から昭和初期の時代のストーリーで、詩人だか画家だったかの役をしてあの時代の文化人の雰囲気をよく出していたのに感心したことがある。むしろ時代劇をしているときより、セリフの癖がなくてはるかによかった。あの時代の雰囲気を体に持っている感性こそ、この俳優の得難い「仁」であったと思う。このブログに書き留めておこうと思う理由でもある。

随談第588回 歳末日記抄

一昨日辺りを境に、突如歳末となったという感じである。思えば、「押し詰まる」という語感を忘れかけて久しい。以前は12月に入ると徐々に歳末の感じが、世間にも職場にも、各家庭にも色濃くなってゆき(12月14日の討入の日辺りからそれが加速的になり出すのが実感された)、文字通り、暮が押し詰まってゆくのがひしひしと思われたものだったが、当今は、昨日までは何事もなく、今日から突如、遮断壁が下りるように歳末になる、という感じだ。そこで慌てて、歳末の日記からのよしなしごとの抜き書きで、今年のこのブログを締め括ることにしよう。

(その1・ふしぎな歌) 『べっぴんさん』という朝ドラの主題歌が、3カ月経った今なお、何を言っているのか歌詞が半分ぐらいしか聞き取れない。とんでもないところで言葉を切ったり、重要と思われる言葉をボソッと呟くかと思うと妙なところで声を張り上げたり。翻って思うに、歌詞、発声、フレーズの切り方、強弱の付け方等々、おそらく作詞・作曲・歌い手、更にこれを容認し採用したディレクターその他のスタッフ・番組関係者たちの日本語に対する感覚が、われわれのような旧時代人とは、おそらくまったく別種の言語感覚の上に成り立っているのだろうと考える他はない。

主題歌もだが、ドラマ自体も、題材への興味に引かされて、まあ、見続けてはいるものの、かなりかったるい進行である。神戸のハイカラ=ブルジョア家庭に育った仲良し3人組が、戦災にあったり夫が出征・復員、貧窮生活に陥ったりしながらもお嬢さん気質は微動だにせず、女学生気分そのままに小さなベビー用品店を始め、やがて大百貨店に店舗を出すようになり、この先には一代飛躍をするのであろうという(実は誰もが知る有名メーカーがモデルであるという)物語は、このところの朝ドラお得意のストーリーで、どうやら、ヒロインたちのお嬢さん流のやり方が男社会の通念・常識に勝ってしまうという筋書は結構愉快なドラマになりそうに思うのだが、脚本・演出とも、それなりのユーモアということを考えているらしい気配はあるものの、運びに起伏・緩急がないから、いらいらすることおびただしい。独善の匂いが充満している。

わけてもイライラを増幅させるのがヒロインの亭主で、この男がでてくるだけでうんざりする。マジメで誠実なだけが取り柄、小心、小胆、器の小ささ、男としての魅力のないことでは朝ドラの歴代のヒロイン亭主としてワースト幾つかに入るであろう。この男を含む仲良し3人組の夫たちは、要するに一種の三バカ大将なわけだろうが、それならいっそ三枚目にしてお笑い系の役者にでも配役した方が、多少は救われるかも知れない。

そんなにつまらなければ見るのをやめればよさそうなものだが、いまさらやめるのもイマイマシイ。と、そうやって釣るのも、演出者の手の内かも。

(その2・夜のニンマリ)朝ドラついでに大河ドラマ『真田丸』。まあ、面白い部類であった。あの作者、あの主人公役なら、ああなるであろう、うまいものだとも思い、こうとよりならないのだなあ、とも思う。通して見て、作者の意図を最後まで貫かせることを可能にした一番の功労者は長沢ますみであろう。最初、現代調丸出しの演技でオヤと思わせたが、実はそこに作者の(逃げも含めて)狙いがあるのだと分って見れば、彼女の存在感と演技は殊勲甲であったといってよかろう。だんだん歳を取ってゆく、それと共に女っぷりも上がってゆく感じなど、なかなか端倪すべからざるものがあった。

あの女の存在があって、秀吉だ、家康だ、景勝だ、三成だ、淀君だ、その他その他の歴史上の著名人たちを捌く三谷幸喜流の料理塩梅が、それぞれ、なるほどという形を取り、位置を占め、オモシレエジャネエカと思わせるところに落ち着くことになった。つまり、作者三谷幸喜の立ち位置を、長沢まさみが言わず語らずの裡に視聴者に知らしめ、ドラマの中に定めたということになる。(イヤに褒めるようだが、ここがあのドラマの勘所なのだから仕方がない。)そこを見外せば、新聞の読者評に、あの主人公は一人だけ現代人が混じっているようでイメージにある幸村と違っていた、というさる年配読者の感想が載っていたが、在来の歴史ドラマファンからすれば、そう思うのが当然であろう。

(その3.沖縄見聞)今年からつとめることになったさる委員の仕事の一環として、視察旅行という名目で沖縄へ一泊の旅をした。旅は嫌いではないが出不精の性分で、はじめての沖縄である。那覇空港へ着陸の途中、地上に見えた最初の文字が屋根の上に「ニトリ」と大書された広告で、次いで着陸直前、自衛隊の滑走路が右手に見え、戦闘機や輸送機が何機も目に飛び込んできた。「ニトリ」の広告という「本土並み」的光景と、自衛隊機というキナ臭さの併存。あゝ沖縄だと妙なところで実感した。

沖縄の国立劇場を視察し、いわば歌舞伎に相当する組踊の舞台を見、ややお楽しみとして首里城址を見物するのが旅行の主たるところだったが、その首里城址に復元された王宮がなかなか面白かった。正面の正殿の左側に清の冊封使の席があり、清王朝の使者に向かって仮設の舞台がしつらえられ組踊が演じられる。それと向かい合って、つまり舞台の裏手から薩摩側の席がある、という図が、往時の琉球国をめぐる日中両国の関係だったわけだ。

と、そこで思い出したのが昭和31年7月、かの市川右太衛門の『旗本退屈男・謎の幽霊船』なる一作である。琉球国の御家騒動に退屈男が乗り込んで解決するという筋で、私の見た限りの退屈男シリーズで一番出来の良い作だったと思うが、善玉が薩摩派、悪玉が清朝派という設定で、高千穂ひづる演じるお守り役が幼君を守り抜く。感服した退屈男が「大和撫子はここにもいた」と感に堪えて言う右太衛門独特のやや上方訛りの名調子と、山形勲演じる悪玉方の隊長役が「我らにはさる大国の後ろ盾がござる」と退屈男に向かって言い放つ、これまた独特の、一種棒読み調子が耳に残っている。OSKの名花だった勝浦千浪が琉球の踊り子役で出ていたっけ。

(その4・ファミリーヒストリー)秋に実の兄が死に、親から引き継いできた上村家の仏壇が我が家に移されることになった。昭和改元とほぼ同時期に、亡父が分家独立と大学進学とを一挙に行ったのを機に拵えたと推察される古い仏壇である。

この際でもあるし、と思い立って、姉・妹の記憶も合わせ、聞き伝えていたことに加え、戸籍を確認するなどして上村家の系図を拵えてみた。肝心の、明治維新で幕府瓦解と共に北海道へ移住、という処で具体的な人名が辿れなくなるのが残念だが(死後80年で謄本が破棄されるらしい)、大筋のところは案外古いところまで遡れるもので、なにより面白かったのは、処々に伝わっている逸話のごときものから、いわゆるDNAのような、一族一党に通底する性癖・傾向・生きざまのようなものが、長短ともに、結構浮かび上がってくるように思われることである。同時に、ふだん忘れているような古い記憶というものが、兄弟姉妹、撚り合わせてみると、かなり正確に思い出され、辿れるものだということだった。

一方残念なのは、生涯独身を通した兄が、癌と知って家を売り払って余生を外国で送ろうと企てたはいいが、想定外に病の進行が早く、事実上、到着するなり入院、一カ月病院で過ごして死去、その国へは事実上死にに行ったような結果になったのが、本人は本望だったとしても、その結果、家具調度から蔵書その他、客観的にはろくなものではなくとも、兄弟姉妹には思い出のあるもの共、わけてもアルバムだの手紙類だの、とりわけ戦中戦後の時期を語るものが永久に失われてしまったことだ。系図はそれなりにできたものの、肝心の近過去の記憶を裏付ける資料が失われたことになる。

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本年度は是きり。来年もよろしくご愛読ください。

随談第587回 舞台随想

今月の歌舞伎では、玉三郎の道成寺に心が留まった。並々ならぬ思いが察しられたからである。決意、と言ってもよいし、心意気と言ってもよい。『京鹿子娘五人道成寺』という外題を見た時は、『日本振袖始』ならぬ五岐大蛇みたいだと思ったりもしたが、舞台を見ている内にそんな軽口を叩く気持ちは消え失せた。これで玉三郎は『娘道成寺』を舞い納める覚悟かも知れない、そう思わせるだけの強い意志がそくそくと迫ってくるのを感じた。

体力から言っても、玉三郎が『娘道成寺』を一人で踊り抜くことは多分もうあるまい。菊之助と踊った『京鹿子娘二人道成寺』も、新しい歌舞伎座で踊った東京での三演目が見納めと思っている。今度の「娘五人」は娘を三人増やしてそれだけ体を楽にしようというだけのことではあるまい。勘九郎、七之助、梅枝に児太郎。これと見込んだ四人の後輩を率いて、道行は五人、三蓋笠は児太郎、鞨鼓は勘九郎・七之助、「ただ頼め」は梅枝に任せ、クドキその他、ここぞという処は自ら踊る。『京鹿子娘二人道成寺』のようなさまざまな含意が読み取れるような構成の妙があるわけではない。役名は五人ともが白拍子花子だから、五人一身ということなのだろうが、そのこと自体に格別の面白さがあるわけでもない。むしろ、全曲を一人で踊り抜くことの無理を悟り、受け入れた玉三郎が、四人の後輩を自ら率いることによって五体一身の心で、自身の『京鹿子娘道成寺』を踊り収めようとの意思を私は読み取ったと思った。そしてそのことに感動を覚えた。クドキへの心入れ、四人を従えて鐘の上に立ち、見得をするときの気迫には、玉三郎一代の『娘道成寺』を誇示するかのような格別な美しさがあった。

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これを見るまで気づかなかったが、児太郎は国立と掛け持ちである。『仮名手本忠臣蔵』第3部としての八段目と九段目の小浪という大抜擢の大役と、この顔ぶれでの『五人道成寺』の一人という大抜擢である。児太郎にとっては生涯忘れられない月になるだろう。またそれによく応えている。芸の未だしをあげつらうより、一心さを以て芸の不足を上回った「初一念」をこそ、認めるべきであろう。

梅枝については、私は夙に、講師を引き受けているカルチャー教室で、株を買うなら梅枝株を今のうちに買っておくことを勧めます。それもすぐに売らないで、財産として取ってお置きになるとよい、と話してある。曾祖父三代目時蔵の俤を見ているからだが、今月の花子と『寺子屋』の戸浪を見ながら、むしろ三代目左團次を思い出した。どちらに似たところで、今の世にあの顔の長さは、それだけでも希少品だが、もちろんそれだけが理由ではない。相撲で言えば、腰の備えがいい。とり越し苦労をひとつするなら、あまりああだと、人気の上で割を食ったりしないだろうかということだけだ。

七之助がすっかり大人になった。真女方として貴重な存在となった。これからを大切に歩んでもらいたい。中車、松也と三人芝居の『吹雪峠』でも、一番戯曲に肉薄していたのは七之助だった。(『吹雪峠』といえば、中車はこれから、自分をどういう方向へ持っていこうとしているのだろう? いまのところ中車の舞台には、不可もない代わりに優も秀もない。失敗を恐れ過ぎてはいないだろうか?)

四人の後輩女方といっても、勘九郎のはあくまでも立役が加役として踊る道成寺であり、もちろんそれでよいのだが、このところの勘九郎の舞台ぶりにやや行き暮れたような翳を感じるのは私だけだろうか。第二部の『寺子屋』で松王丸をしていて、おとっつあんそっくりと声がかかってもおかしくないだけの成績を示してはいるのだが、父親そっくりが、眉毛をぴくぴくさせるなど細部の模写に陥りかねない危惧を覚える。湊川で討ち死にした父正成を慕う楠木正行ではないが、父のようになりたい、なろうと思う一心に凝り固まっていはしまいか。親を尊敬するのはもちろんいい。だが、やがて来る十九代目勘三郎は、十八代目とはまた別な、独自の勘三郎でなければならない。

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12月の三部制が、それぞれ同一料金なのは、当然といえば当然だろうが、おかしいといえばおかしい。玉三郎が『二人椀久』と『五人娘道成寺』を踊る第三部と、獅童と松也の歌舞伎ミュージカル『あらしのよるに』が同じ料金で見られるという、この歌舞伎座風デモクラシイに幸いあれ、か?

『あらしのよるに』がいけないと言っているのではない。あれはあれで結構だと思う。4月末、幕張メッセで初音ミクと共演した獅童の獅子奮迅ぶりに一種感動を覚えたことは、その折にこの欄に書いた通りである。『あらしのよるに』もその延長線上に置いて見るとき、こうした路線における獅童の在り様というものが如何に稀有なものであるかがわかる。海老蔵、菊之助さらに勘九郎、七之助、さらにさらに染五郎・・・と指を折っても、獅童のこの働きに拮抗できる人材があろうとも思われない。

『あらしのよるに』を迎える客席の反応も好意と満足感に満ち満ちていた。成功だったのである。しかしそのことと、玉三郎の道成寺が同じ料金でよいのだろうか?という疑問とは矛盾することではない。玉三郎の第3部が1万2千円なら、第一部『あらしのよるに』は6千円でいいのではないか? むしろ、6千円で、大勢の若い人たちに見てもらうべきものではないか? 誤解のないために言うのだが、これは価値の上下をいっているのでも、儲け主義がどうのということを言っているのでもない。

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国立劇場開場50周年の『仮名手本忠臣蔵』三部作がどうにか無事舞い納めた。菊五郎の勘平という秀作を生み出しただけでも、しただけのことはあったと言ってよい。

国立劇場について、税金でまかなってもらえるから経営努力をしない、ということを言う向きがあるが、私はその手の「きびしい」声には必ずしも同調しない。少なくとも、「いま置かれている」状況の中で相当の努力を払っていることは間違いない。50年前の開場当時は、歌舞伎座が年間、ときには年に8回か9回しか歌舞伎の興行が出来なかった中で、1年12カ月、歌舞伎公演をしていたのが、どうして、歌舞伎教室を入れても年6回になってしまったのかは、おそらく国立劇場だけの責任ではあるまい。

それにつけてもだが、近頃、カルチャーなどで受講者の方々の話を聞いていてアッと思うのは、五十年配六十年配で比較的近年に歌舞伎に関心を持つようになったような人たちが、その念頭に国立劇場の存在がほとんど入っていないということである。歌舞伎座が改築されたことで歌舞伎に関心を持つようになったという人も少なくないのだろう。11月の「忠臣蔵シリーズ第二部など、菊五郎の勘平に吉右衛門の由良之助が揃って顔をそろえて、料金も歌舞伎座の3分の2ですむという「お徳用」であったにも拘らず、薦めてもピンとこないような顔で聞いている。旧歌舞伎座がいよいよ取り壊しというニュースが流れた時、まだ元気だった勘三郎がタクシーに乗ったら、「あんたたちも歌舞伎座がなくなったら仕事がなくて大変だね」と運転手から同情されたという笑い話は、実は決して笑い話ではない。