随談第611回

あれよという間に9月が終わってしまう。慌てて随談その611回。

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九月の歌舞伎座は、秀山祭という看板の元に、じつは三つの興行が鼎立するかのようだった。ひとつはもちろん秀山祭。昼の部の『河内山』に夜の部の『俊寛』と、この部分については揺るぎがない。もうひとつは昼の部第一の『金閣寺』。これは福助舞台復帰の慶寿院が衆目を集める眼目で、児太郎が歌舞伎座で雪姫をするという瞠目すべき配役に、梅玉が藤吉をつとめ、上手屋台の雪姫に付き添う腰元を歌女之丞と梅花がつとめるという、成駒屋一門配慮を尽くしての格別の一幕である。これはしかし、秀山祭という大きな翼の下に翼賛されているかに見えるから違和感はない。

第三は夜の部の過半の時間を使っての新作歌舞伎舞踊『幽玄』で、あれこれロビー雀たちの話題を集めたのは、内容・出来不出来の可否については措くとしても、ここがどうも別世界のようになるということだった。『俊寛』までと、それ以後と。ここに紹介するのは、歌舞伎は興味があるから切符を貰ったりすれば喜んで見に行くがそれ以上ではない、という程度には歌舞伎を見ているというさる知人が、夜の部を見てきてメールを寄越しての感想だが、私は『幽玄』も舞台が奇麗なので興味を持って見ましたけれど、前や後ろ、隣の席の人たちは、途中で次々に席を立ってしまいました、という。どうでした?とこちらから訊ねたわけでもないのに、わざわざこういうことを知らせてきたのが面白い。つまりこの人は、太鼓芸能集団鼓童出演、玉三郎演出による新作舞踊『幽玄』をそれなりに興味を持って見たが、なんだか普通の歌舞伎とは違うなあ、と感じた一方、周囲の客が席を立つのを、歌舞伎通の人にはきっと面白くないのだろうなあ、と察知したのであるらしい。この人とて、歌舞伎に全く無知なのではない。

「歌舞伎は興味があるから切符を貰ったりすれば喜んで見に行くがそれ以上ではないという程度には歌舞伎を見ている」と、言葉でいえばややこしいようだが、実はこういう人たちが歌舞伎座の座席のかなりの部分を占めていると想像される。常連客の予備軍とも、外縁部分とも言えるこういう層の人たちの言うことが、案外、歌舞伎需要(受容)の実態を語っているのかもしれない。おそらくこの新作歌舞伎舞踊『幽玄』一幕は、たとえば12月の三部制公演などの折に、これ一本で第三部あたりの演目として出したなら、落ち着くべきところにすんなりと坐り場所を見つけられたのではあるまいか。

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『河内山』を見ながらつくづく思ったことが二つある。ひとつは、元気なうちにもう一度、吉右衛門に通し上演『天衣紛上野初花』を是非やってもらいたいということ。いつもの「質見世」「松江邸」と直侍の「蕎麦屋」「大口寮」に加えて「大口楼廻し部屋」「三千歳部屋」「田圃」と出し、大詰の「妾宅」まで出すのは、吉右衛門は昭和60年12月以来やっていない。これを菊吉でやってくれたなら、私にとっては、今生の見納めのようなものだ。

もうひとつは、吉右衛門一座と呼びたくなるほどに揃った脇の充実ぶりだ。魁春の後家おまき、歌六の和泉屋清兵衛は元より、吉三郎の番頭、京妙の女中と揃う「質見世」は、むかしの誰それ云々と言い出すなら知らぬこと、現代の歌舞伎でもうこれ以上のものは望めまいというレベルに達している。「松江邸」でも、幸四郎の出雲守、歌昇・米吉の数馬・浪路というのはそれぞれそれらしくてなかなかの好配役だし(数馬・浪路というのは、実際には当人たちの言う通りナンデモナイのだが大膳に不義密通と言われて観客にもそう見えるぐらいでないとダメなのだ)、種之助・隼人に又之助・梅蔵・左升・吉兵衛という近習、京蔵・芝のぶ・春花・梅乃・蔦之助・春之助という腰元と揃ったところは水も漏らさぬ布陣というべきであろう。

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それにしても幸四郎は、今月大方の出演者が一役、二役のなか、『鬼揃い紅葉狩』に『操り三番叟』と自分の出し物二つに、松江候に狩野之介と、ひとり四役を受け持つ張り切りボーイぶりと付き合いの良さが好感度をますます高めている。こういう幸四郎の在り方というのはなかなか興味深いものがある。

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今まで気がつかなかったら、おそらくこの月からのことであろうと思うが、歌舞伎座の正面ロビーの、上手寄りと下手寄りの左右対称に当たる見当の壁面に、小さな額が掛かっていて、見ると英文のメッセージが、邦文タイプで打った、昔なつかしいような独特の字体の和訳付きで、それぞれ一通ずつ、飾ってある。近づいてみると、メッセージにはそれぞれ自筆に相違ない署名があって、上手寄りのがダグラス・マッカーサー、下手寄りのが(ナントカ)・リッジウェイとある。マッカーサーの方の日付が1951年1月2日、リッジウェイの方は同年の4月何日だったか、とにかくまだ一桁の日付である。アッ、そうか、と思い出した。つまりこの月、昭和26年1月と言えば前の第4期歌舞伎座開場の月であり、くだんのメッセージはGHQの総大将のマ元帥(と、その当時よくそういう言い方をしたものだ)からの祝辞であるわけだが、ところがその三か月後、この時点ではまだ夢にも思わなかったトルーマン大統領による電撃的なマッカーサー解任ということがあり、朝鮮戦争真っ只中の戦場から戦闘服姿で後任のリッジウェイが着任、ということがあったのだった。(その新聞一面を飾った写真がありありと瞼に甦ってきた。)それでさっそく、着任早々のリ将軍からも頂戴に及んだのが、下手寄りの方の額装のメッセージというわけなのであろう。いままで松竹本社のどこかに眠っていたのが(もしかしたら「発見」されて?)、このたび額装されて正面ロビーに飾られたものと思われる。

ところで、文字通りの立ち読みながら読んでみると、リッジウェイの方はまあ型通りの挨拶だが、マッカーサーの文章に、ム?と目を凝らした一節があった。メモをするまではしなかったからうろ覚えだが、なんでも、かつての歌舞伎には好もしからぬ思想に基づく内容のものもあったが、そういうものは旧歌舞伎座の瓦礫と共に葬り去られ、新しい歌舞伎座にはそうした要素は一切なくなった云々、といったような趣旨であったと思う。(正確に知りたい方は、ご自身で歌舞伎座一階ロビーへ行ってご覧になってください。)ウームと思った。それにしても、秀山祭の今月、67年ぶりに陽の目を見たこの文書、歳月によるシミひとつにさえ、実物ならではの迫力を感じたのは私だけだろうか。

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文楽の九月公演を前に鶴澤寛治が亡くなった。若いころというか、私などが知ったのはもう中年だったが、さほど似ているとは思わなかった先代に、老来瓜二つのように、風貌だけでなく、芸の上でもそっくりになってきて、親子というものの不思議さを思わせた。私は先代が、芸・風格ともに、三業を通じ、あまた見た文楽の名人たちの中でも一番好きだったが、当代が、外見だけでなく先代を偲ばせてくれるのが、近年の文楽見物の楽しみだった。

咲太夫が『本蔵下屋敷』を語って、うまいものだと思わせたのと、吉田蓑助が『夏祭浪花鑑』の「三婦内」のお辰を遣って、とかく前に出過ぎると非難されながら、色っぽいこと水も垂れるようだった若い頃を思い出せる元気さだったのが、私にとって今回公演の二つの楽しみだった。

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芝翫が『オセロ』をやろうと思った動機は知らないが、むかし松緑が途中で倒れて急遽、先代の権十郎が代ったときのことを思い浮かべながら見た。権十郎の生涯に59役という代役の中でも、珍なるものの代表であったろう。いや、こういう言い方は誤解があるといけない。私に言わせれば、この時のオセロ、珍どころか、権十郎の方がよかったと思う。権十郎は「時代」でやったのに、松緑は、歌舞伎っぽくなるのを避けようとてか、「世話」とまではいわないが、ナチュラルにやろうとして水っぽくなったからだ。この辺に、歌舞伎俳優にシェイクスピア(のごときもの)をさせようと企画・依頼する側と、(少なくとも松緑の時代の)歌舞伎俳優が「新しいもの」をしようとする際の思い込みのすれ違いがある。少なくとも、かつてはあった。権十郎はそんなことには構わず、突然代役を引き受けて膨大なセリフを詰め込んで自分に出来るやり方でやったのだろう。そうしてそれが、歌舞伎役者ならではできないオセロを、見事やってのけることにつながったのだ。芝翫のオセロは、黒く塗った顔に目と歯の白さが浮き立って見え、健康的でいい男であるのがよかったと思う。

演出家がいろいろ理屈をこね回して台本を裏読みの上に裏読みして(眼光、紙背に徹する如き達人が、当節の演出家にはうじゃうじゃいるらしい)、原作者もびっくりという演出に出くわすのは、むしろそうでないのにぶつかることの方が稀な近頃だが、今度の『オセロ』でも、幕切れ、これで一件落着となったところへ突如、何者とも知れぬ暴漢の群れが来襲、舞台の上は死人の山となって幕となるという、シェイクスピアもびっくりという演出だった。多分いろいろ小難しい(ゲンダイテキな)リクツがあるのだろうが、やれやれとため息をつくより、こちらはすべがない。そういえばイヤーゴーがもてあそぶ絵地図も地球儀も、亜米利加も亜細亜も阿弗利加もちゃんと描かれている現代の世界地図だったっけ。(それにしても、イヤーゴーが年々歳々、ガキっぽくなってくるのは、現代演劇の在り様を考える上で、結構イミのあることかもしれない。かつて先代白鸚がした、いまとなっては伝説的『オセロ』のときのイヤーゴーは森雅之だったのだ。これこそまさに今昔の感というものだろう。)

閑話休題、現代的演出に話を戻すと、もうだいぶ前になるが、スウェーデンの映画監督のベルイマンが演出したスウェーデン語による『ハムレット』を見たことがある。これは徹底した現代劇としての『ハムレット』で、幕切れに登場するノルウェイ王子フォーティンブラスはかのベトナム戦争で覇を鳴らしたグリーンベレーで、(『ハムレット』だから当然とはいえ)舞台上の人物は全員掃討されてしまうという結末だったが、これは実に面白かった。少しも違和感を覚えなかった。この違いはどこからくるのだろう?

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樹木希林が亡くなって各紙・各局大わらわで、元より私の出る幕などないが、悠木千帆という芸名で文学座の研究生上がりだった頃を見覚えているというのは、小指の先程度の自慢の種になるかもしれない。芥川比呂志以下の、座の創立者岸田國士の愛娘岸田今日子を含む中堅どころがごっそり抜けて劇団「雲」というのを始めた時、口さがない演劇ジャーナリズムから、あれでは文学座ならぬ杉村春子一座だと揶揄されるほど手薄になり、杉村女史が悔し涙を流して地団駄を踏んだりという状況だったさなか、男でござるとばかり義侠心を発揮した森雅之が参加して、紀伊国屋ホールだったかで『三人姉妹』をやったことがある。(もっともそのころは、まだ荒木道子もいたし北城真紀子もいたし、文字通り杉村一座になったのは、次に中村伸郎や賀原夏子らのベテラン勢が抜けてからだが。)ところでその『三人姉妹』のときの上演パンフに、おでこに前髪を垂らしてにっこり微笑む新人悠木千帆の顔写真が、幹部俳優よりひとまわり小さく載っている。中堅級がごっそり抜けて、その下のクラスが大量に抜擢されていい役を与えられた驥尾に付して、悠木千帆も順送りに繰り上げられた一人だったわけだろうが、それでもまだ、舞台よりもパンフの顔写真で覚えている程度の端役だった。とはいえ、他の同程度の連中のことはまったく記憶にないのに彼女だけが印象に残っているというのは、やはり栴檀ハ双葉ニシテただ者ではなかったことを証明するものだろうか。昨年だったかどこかの新聞に、文学座の研究生になったといっても、それまでいわゆる新劇というものはろくに見たこともなく、映画も錦之助・千代之介のナントカ童子みたいなものしか見ていなかったと書いているのをたまたま読んで、フームと思った。さもありなん、やがてユニークな仕事をする人間というのは、そういうものなのだ。

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貴乃花がまたやりましたね。ワイドショーなどの論調を見ても、もう大方の論客にもそろそろ見えてきつつあるようだが、相撲協会がもっと、貴乃花擁護の識者たちが主張するようにやっていたとしても、結局は、協調して行くことは難しかったに違いない。今度の件で私が見たテレビの中では、「サンデイジャポン」が一番いいところを突いていたようだ。もうひとつ、「トクダネ」におにいちゃんの元若乃花が出て、弟は入門した時からずーっと今までやって来て、今度初めて引退するつもりなんだろうと笑っていたのが、引退か辞職かでテレビ識者があれこれ聞いた風なことを論じ合っていた中で、一番急所を突く見方であったかも知れない。

第二相撲協会を画策しているといった噂もあるらしいが、冗談ではなく、もし貴乃花が本当に自分の信じる相撲を実現しようと思うのならそれしかないだろうと私は思う。それで連想するのは、昭和7年、当時関脇の天龍が中心になって同志を率いて相撲協会を脱退、自前で組織を作って独自の興行をした春秋園事件と呼ばれる一件である。髷を切った散切り頭で、星取りの仕方も合理的(と自分たちが考えた)な方法で行い、心意気に応じて応援してくれるファンもあったが、数年で刀折れ矢尽きて解散した。要するに近代的で合理的な運営を実施したのだったが、歌舞伎界で門閥外の俳優たちが前進座を作ったのとほぼ同時期、共通する一面もあるような気がする。尤も貴乃花は、相撲は神事であり国体であるとするのが信条のようだから、方向としてはむしろ正反対だが。

前進座は今も存続しているが天竜一派は結局、一敗地にまみれて解散した。同志の中には、天龍の先輩で、名大関と謳われていた大ノ里という名力士もいて、この人が遠征先の満州で客死したとき『大関大ノ里』という新派の脚本が作られ明治座で上演されている。大ノ里を演じたのは名優井上正夫、妻の役が初代水谷八重子、天龍は柳永二郎という堂々たる配役である。

この天龍氏は、戦後もう一度活躍している、昭和30年頃、それまでNHKだけだった大相撲放送に、新興の民放の先駆けとしてラジオ東京、つまりTBSが乗り出し、当時まだ相撲ファンの記憶に赫々としていた天龍を解説者として担いだのだった。小坂秀治という秀抜なアナウンサーと共に、神風・玉の海・大山親方の解説に志村・河原・野瀬アナといったNHKとはまた別な面白さがあった。ラジオ時代に始まり、テレビになってからもかなり長く続いたと思う。

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折からの台風襲来の報道で埋め尽くされた合間に、日馬富士の断髪式のニュースが流れた。これから世界各地を廻っていろいろ勉強するつもり、というようなことを明るい顔で語っていた。それにしても、貴乃花と日馬富士が時を一にして協会を去るというのは、巡り合わせの皮肉を思わないわけにはいかない。

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栃ノ心が大関の座を維持できたのが、私にとっての今場所の欣事の第一、安美錦の後を追うかのようにアキレス腱を断絶して、こちらは幕下までおちてしまった豊ノ島が、ようやく十両復帰を確実にしたのが欣事の第二。安美錦が序盤の快調を維持できず、来場所の再入幕をフイにしてしまったのは・・・。

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西武ライオンズの源田が捕殺最多記録を作ったという小さな記事の中に、記憶の底に沈んでいた往年の名選手の名前が出てきた。つまり源田が今シーズン達成した捕殺510個という新記録は、1948年、中日の杉浦清の502捕殺という記録を更新したという記事なのだが、それを読んだ途端、当時実際にこの目で見た、ショートを守りながら中日の監督を兼任していた杉浦の姿が瞼の底から甦ったというわけだ。杉浦清といっても、長嶋茂雄と立教黄金時代を作り、1959年の日本シリーズで巨人に4連勝した南海のエース杉浦忠の名さえ耳にすることがなくなってきた近年、よほどのマニアでなければ知る人もないだろう。しかし人の名前ひとつで、幼時に見た「動く姿」がまるで映像のように蘇ってくるのだから、記憶というものは不思議なものだ。

古い名前といえば、今シーズン、ヤクルトの中尾輝という若手のピッチャーが活躍したが、この名前も子供の頃に見た巨人の中尾輝三を連想させてくれて、ひそかに楽しんでいる。中尾という投手は、200勝投手であり無安打試合を二度もするとか、凄い記録をいろいろ作っているのだが、その割には、戦前ではスタルヒン、戦後は藤本英雄とか別所とか、人気の点でも上越すエースが同時期に常に同じチームにいたせいもあって、印象がくすんでしまう損な立場にあった人だった。それにしても、東京ドームより後楽園球場の方が懐かしい、などとうそぶく絶滅危惧人種がやがて現実に絶滅する日が来たら、こうした選手や力士たちの英姿というものは、瞼の底からも死に絶えてしまうことになるのだろうか。

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