随談第607回 麗しの五月に

今回も余儀ない事情で月末になってしまった。芝居はとうに終わっている。間が抜けてしまったようだが、ま、お許しいただきたい。「麗しの五月に」というタイトルを取ってつけたように付けたのは、むかしむかし、大学に入って初めてのドイツ語の授業の時、ABCを教わる先に、先生が黒板にハイネの「麗しの五月に」という詩を書いたのを、何とはなしに思い出したからに過ぎない。あの先生、ゲルマニストとしてはあんまり名を成すこともなかったらしいが、ほとんど思い出すこともない教師たちの中で、ふと思い出すこともあるのは、こんな逸事のせいかもしれない。

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歌舞伎座は菊五郎一世一代?の弁天小僧に堪能した、と言えばほぼそれに尽きる。思えば50年の余、初役の時から見続けてきた弁天である。さすがに、二階堂信濃守の家中早瀬主水の息女ナニガシの姿で登場した時しばらくは、正直、内心ではウームという思いも抱かないでもなかったし、全体から言っても、5年前の現・歌舞伎座こけら落としの時以来の5年の歳月を思わなかったわけでもない。グルメ通がよくやるような言い方をするならば、さらにその5年前の『青砥稿』としての通しの時が極上であったろう。だがまあ、そんなことはこの際、大した問題ではない。誰だったかが誰だったかについて言ったように、「感動した!」というのが一番ふさわしい。52年前の初役からずっと見てきて(もちろん、全部を見ているわけではないが)、若い時は若いなりに、壮年の時は壮年なりに、長老となれば長老としてなりに、これほど「弁天小僧」であった弁天役者は他に知らない。10年前の『青砥稿』の通しの時は、弁天と南郷は今度と同じ菊五郎に左團次、赤星の時蔵は健在だが、南郷が三津五郎、駄右衛門が團十郎だったのだからうたた今昔の感を改めて実感せざるを得ない。左團次の南郷も久しいが、團十郎も先の辰之助も、現・楽善の薪水もと、南郷役者には事欠かなかったが、相棒変われど弁天小僧はずっと菊五郎だった。まさしく、遥けくも来つるものかはの思いである。 

極楽寺の立腹まで出すと聞いたときは驚いたが、これが流石である。気を付けて見ていると、菊五郎はほとんど動いていない。測定してみたらせいぜい幅一間ぐらいでしかないのではないか。(つまり約二メートルである。)それで、ちゃんと極楽寺屋根上の大立ち回りになっている。もちろん、捕り手役の面々の働きがあってのことだが、歌舞伎の立回りというのはあれでいいのである。(まだ平成になる前だったか、タテ師の八重之助が元気だったころ、国立劇場で京劇と歌舞伎の立回りの比較、といったテーマの企画公演があったのを思い出した。京劇では芯の役の役者自身が飛んだり跳ねたり宙返りをしたりめまぐるしく働くが、歌舞伎ではドンタッポのテンポが早くなっても芯の役者がめまぐるしく動くわけではない、ということが、こう並べてみるとよくわかった。)

海老蔵に駄右衛門をさせたのは團菊祭故でもあろうが、70有余翁の弁天・南郷を相手にそれなりに駄右衛門としての貫目を示しているのが海老蔵という役者の値打ちであって、これは天稟といってよい。『北山桜』の奮闘ぶり以上に、むしろこちらにこそ海老蔵の真価がある。

時蔵の虎蔵、松緑の智恵内に團蔵の鬼一と揃って、することにもそつがないにもかかわらず『菊畑』はどうもボルテージが高まらない。もっとも「奥殿」を出さないのが当たり前になって久しい今更、鬼一に魁偉を求めるのは木によって魚を求めるようなものかもしれないが、そうなるとこの『菊畑』という狂言は、いろいろな役柄の人物が標本のようにならぶ見本市みたいなことになるわけだ。

昭和41年4月、といえばさっき言った菊五郎が初役で弁天をした翌年のことだが、八代目團蔵が引退に当って鬼一をつとめ終え、四国巡礼の旅に出たまま瀬戸内の海に入水したという、つまり最後の舞台だった。このとき皆鶴姫をつとめたのが、つい前年五月に菊之助になったばかりの(つまり弁天小僧を初役でつとめたのが、その翌月の6月だった)現・菊五郎だった。今度の『菊畑』に現・團蔵が鬼一をするのにはこうしたことを踏まえた配慮が察しられる。(なおこの時、当時中学生だった孫銀之助、つまり現・團蔵に、八代目は序幕として『弁慶出立』という一幕を書いて与えたのだったが、残念ながらこのせっかくの祖父の置き土産は、まだ本興行の舞台に乗る機会を得ないままに半世紀の余が過ぎてしまっている。)

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住太夫が死去、玉助が誕生。その前に新しい呂太夫や織太夫が出来て、名前の上では私などには文楽を見始めた頃の懐かしい名前が甦ってきて、悪い気はしない。もう、先代玉助を見ている、というだけで、ヘエーと言われる時代になっているのだ。前の勘十郎でさえ、文楽について何かをしている人でさえ知らない人が大勢いるのだから、まして玉助に於いておや。オレ、赤バットの川上や青バットの大下を見ているぞ、というのと同じようなことなのだろう。私が文楽を見始めた頃、熊谷だの光秀だの、という人形は、もっぱら玉助の領分だった。『沼津』の平作、も見たと思う。肩幅と胸幅の厚いがっしりとした体格と言い、茫洋とした風貌・風格と言い、横綱の鏡里に似ている、というのがはじめて見た時の印象だった。鏡里もそうであったように、玉助みたいな感じの日本人を、そういえば見かけなくなって久しい。むずかしい理屈は言わないが、とにかく芸ががっちりと出来ていて小揺るぎもしない、という感じが、いかにも古典の世界の古強者にふさわしかった。優勝を何回しただの勝率が何割何分何厘だのはどうでもいいのであって、そういうことを超えて、鏡里がいかにも横綱らしい横綱であったように、先代玉助もいかにも、古典芸能などというしゃらくさい言葉をまだあんまり耳にしなかった頃からの、文楽の人形遣いという古く尊い芸を伝える立派な芸人という風格が忘れ難い。

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その文楽で『廿四孝』の「筍掘り」が久しぶりに出て、疲労困憊する快感、というものを久しぶりに体感した。どこかの教室で五年がかりで浄瑠璃の原文を解読したとか聞いたが、ではその教室の解読作業に参加した人でないとこの芝居の 醍醐味が分からないのかと言えばそんなことはない筈で、たまにはこういう疲労困憊しながら見る芝居というのも悪くない。文楽では何年かごとには手すりにかかるが、わかりにくいものは遠ざけられる昨今の歌舞伎では、まして歌舞伎座では、もう見ることは叶わないかもしれない。(冗談ではない。国立劇場で、やるなら今でしょう! あの「岡崎」をやった意気を忘れない限り。)

歌舞伎では疾うにやらなくなった場だが「桔梗原の段」というのが私の好みで、槍弾正の越名弾正の突き出す槍へ、逃げ弾正の高坂弾正が「手練の槍先受けてはたまらぬ、そこで身どもは逃げ弾正」とさっさと逃げてしまう、あのセリフを実際の場でいつか使ってみたいと思っているのだが・・・

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西城秀樹だ星由里子だ朝丘雪路だ高畑勲だと、わずかの間にばたばたと聞こえてきた訃報の中でも、時期的にもやや離れて、一番先に聞いたのが、作曲家の木下忠司氏死去の報だった。百二歳とか。木下恵介監督の実弟で、最も人口に膾炙したのが「おいら岬の灯台守は」という『喜びも悲しみも幾年月』の主題歌だが、新聞によっては、テレビの『水戸黄門』の主題歌の方を見出しに掲げたところもあったらしい。人名事典の記述としては、木下恵介監督の一番盛りの頃の作品のほとんどすべての音楽を担当したのが真っ先に来るだろうが、私が初めて聞き覚えたのは『破れ太鼓』という、木下恵介でも比較的初期の作品で、あの阪東妻三郎、つまりバンツマが主演する現代劇の主題歌だった。(時代劇映画俳優中の王者とされる阪妻だが、不幸(と言っていいだろう)なことに時代劇ではいわゆる名画には恵まれず、代表作はということになると(『雄呂血』という無声映画時代の大殺陣を見せる作を別にすれば)、一に『無法松の一生』、二に『王将』、三に、と言ってよいかどうかは議論の余地はあるが、この『破れ太鼓』ということになる。現代劇と言っても近過去の時代を扱った『無法松』や『王将』と違い、『破れ太鼓』はバンツマが洋服を着て出てくる文字通りの現代劇である。私がこの映画を見た最初は、夜、小学校の校庭に白布のスクリーンを張って映写する映画会でだった。(裏側にまわると裏焼きになって見えるという、ある年配以上の方なら必ずや記憶がおありだろう。)あの中で忠司氏も、バンツマ演じる雷親父の息子の一人の役で出演、主題歌を自ら歌うのが、翌日、教室で皆が大声で歌っているというほど、子供心にも一度聴いたら覚えてしまう強烈な印象があった。もっとも、その息子役を演じていたのが忠司氏自身だったと知ったのは、はるか後年、名画座でリバイバル上映を見た時のことだったが。

だが人名辞典での記述は知らず、私にとっての忠司氏の作で最も愛好するのは、昭和二十九年、美空ひばりが主演作『伊豆の踊子』の中で歌う主題歌である。「三宅出るとき誰が来て泣いた、石のよな手で親様が」「まめで暮らせとほろほろ泣いた、椿ほろほろ散っていた」「江島生島別れていても、心大島(逢う島)燃ゆる島」「おらが親さま離れていても、今度逢うときゃ花も咲く」という短い曲で、歌詞を括弧書した短いフレーズを、同じメロディで繰り返すだけという、なんとも簡素な構成なのだが、舟歌か何かのようにゆったりと繰り返されるのがまるで永遠に続くかのように感じられる。十七歳のひばりが、出来上がってしまっているイメージからは思いがけないような高い声で歌うのが情感があってなかなかよろしいのだが、何故かこの曲のことを言う人にほとんど出会ったことがない。流行歌というのは、一番流行った誰でも知っている曲よりセカンドベストぐらいの曲の方が忘れ難いものだという説があるようだが、これなどはまさにそれに違いない。この曲は木下忠司氏の作詞・作曲だが、さっきの『破れ太鼓』にしても、氏は作詞家としても秀逸な詞を書いていて、同じ昭和二十九年にもうひとつ、これも美空ひばりの歌った『お針子ミミ―の日曜日』というシャンソンがあって、これは忠司氏の作詞で、作曲は黛敏郎である。第二フレーズが「お針子ミミーはパリジェンヌ、ダニー・ロバンが大好きで」と始まる。ダニー・ロバンというフランス女優を覚えている人も少なくなってしまったいま、こんなことを書いても、果たして興味を持って下さる方がどれほどあるものやら・・・

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もう少し、書くつもりでいた話題もないではなかったのだが、長くなったし夜も更けてきたし、明日は夏に備えて少しは部屋の模様替えをするのに精力を温存しておく必要もあるし、というわけで、栃ノ心の大関昇進を祝いつつ、本日はここ迄ということにさせていただきます。

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随談第606回 卯月見物記

四月の歌舞伎座は、昼を菊五郎、夜を仁左衛門が取り仕切って奮闘しているにもかかわらず、正月来の襲名見物疲れか久々の孝玉共演見物疲れか、はたまた財布の紐を引き締めたのか、客席が大分ゆるやかに見えたともっぱらの噂、狂言がややなじみが薄いというキライもあったかしらん。

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昼の部第一のタイトルが『西郷と勝』とは、なんともそっけないというか、木で鼻をくくったようというか。(『西郷と豚姫』というのを前に見ましたが、あれとは違うのですか、などという人もいた。)そういう私も、はじめは新作物かと思いかけたら、ナニ、青果の『江戸城総攻め』のことだった。第一部の第二場「半蔵門を望む濠端」と、第三部第一場の「薩摩屋敷」を取り合わせて一幕二場とするのは真山美保演出バージョンとして、上演時の名前で猿之助吉之助VS竹之丞麟太郎、團十郎吉之助VS幸四郎麟太郎という二組、外題も『江戸城総攻め・麟太郎と吉之助』として二度の前例があるが、今回は、真山青果作『江戸城総攻め』より松竹芸文室改訂、としてある。その「より」が曲者なのだが、もっとも、ぼんやり見ている分にはいつもの『麟太郎と吉之助』と格別違いがあるようにも感じられない。無口のイメージの西郷が饒舌なのは青果のせいだが、膨大なセリフをよく覚え、ともかくも客席を静かに聞かせただけでも松緑は敢闘賞ぐらいもらっていい。

で、それはそれとして、最後の詰めに至って、「勝先生、戦争ほど残酷なものはごわせんなあ」と西郷が声を張り上げると、満場ワーッと沸き立つ。このセリフは本来ここで西郷が言うセリフなわけで、これが本当なのだが、「薩摩屋敷」が出幕になる機会が少ないためもあろうが、しばらく、いや大分前から、「上野大慈院」で蟄居謹慎中の慶喜を説得する山岡のセリフとして言わせるのが定着して久しい。そのことの是非もさることながら、それを山岡が「戦争ほど残酷なものはござりませぬゥ」といかにも名調子で張り上げ満場をわーっと沸かせるのが近頃の通例になっている。じつは、あれがいつも私はちょいと引っかかるのだ。あれは、(山岡にせよ西郷にせよ)もっと静めた調子で言う方が、しみじみと胸に沁みるのではあるまいか?

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さてこの「明治150年記念」と謳った開幕劇がついたために時間が押せ押せとなり、昼の部の終わるのが4時少し前、夜の部開演が4時45分とずれ込んだ。昔、というのは昭和の頃だったら昼の部の終わるのがこのぐらいは当たり前、4時を回ることだって珍しくなく、入れ替え時間15分でちゃんと4時半に夜の部を開けたことだってあった。前の、つまり第4期の歌舞伎座は通路が四通八達、じつに人はけがよかった。(それにつけても、最近出来の劇場に人はけのよくないところが多いのは、万が一の時どうなるのだろうと心配になる。)

それはいいとして、『裏表先代萩』が、序幕の「花水橋」がなしにいきなり「大場道益宅」から始まると、菊五郎の小助がお手の物の世話の小悪党ぶりで、何だか黙阿弥狂言でも見ているようで(まあ、そうには違いないが)ちと面食らう。まず「表」=時代の場面があって、次に「裏」=世話の場面があって、というぐあいに表・裏・表・裏・表と、時代と世話が交互にあって、トド、時代、つまり「表」の場面で締めくくらないと、表紙の欠けた本を読むみたいでどうも落ち着きがよろしくない。

しかしながら、菊五郎が小助に仁木、政岡は時蔵に譲って二役をつとめるのは、御大奮闘と言ってよい。またその仁木がなかなか立派なのに感じ入る。これこそ年輪というものである。時蔵は『伽羅先代萩』も併せ、そもそも政岡をつとめるのはこれが初めてという。仁よし柄よし、もう疾うにしていて当然の優であり、政岡である。

孝太郎が下女のお竹と沖の井、吉弥が松島。彼女?等の実力は当節の歌舞伎の底力というもの、これぞプロフェッショナルの名に恥じない。この二人は夜の部の『絵本合法衢』でも、孝太郎が倉狩峠で太平次に殺されるお亀、吉弥が太平次女房お道で、これもすることが堂に入っている。役柄の人物にすっとなっているのは、歌舞伎の本道を長年月歩んでいてこそ身についたもので揺るぎがない。吉弥といえば、「表」、つまり『伽羅先代萩』の「竹の間」に登場して鶴千代の脈を取る浅井了伯妻小槙という不気味な女医がいるが、歌右衛門の政岡でこの場が出ると先代の上村吉弥がよくこの役をしたのが、いかにも怪しげで何ともよかった。本舞台にいる若君の脈を花道から取って「ご正脈でございます」などと言うのが、いかにももっともらしかった。

こんどの道益は團蔵で、この人はこういう役をさせると、ちょいと品があるようでちょいと何かあるようで、そこらの按配がなかなかいいのだが、すべて腹七分の仕事なのは身についた痼疾のようなものか。しかしこの一、二年、めっきり役者ぶりが上がり、いい顔になってきたのは正しく年の功というものだろう。(丸々と太った銀之助少年がなつかしい。いまの大谷桂三の先代松也とふたりで、梅幸の『鏡獅子』で胡蝶を踊ったのが今も目に残る。)東蔵が外記で先月の老一官以来の爺役は、いまや何でもござれの境地か。斎入が「対決」で山名宗全の穴を行く横井角左衛門、表に返って「刃傷」では細川勝元を錦之助。『西郷と勝』ではかなりの緊張気味で松緑の西郷に押され気味にも見えたが、こういう仁にはまる役だと生き返ったようになるのがこの人のカワイイところ、イヤサ、値打ちである。等々、名前を挙げていない方々も併せ、脇の役役の背丈が揃うのはさすが菊五郎劇団。こういう芝居には一層、それが何よりである。

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『絵本合法衢』は仁左衛門一世一代という断り文句がついているのに目を瞠る。もうこれが最後ですよ、と言うほどの意味らしいから目くじらを立てることもないわけだが、初代白鸚の復活初演を見た記憶からするとちょっと「?」という感も抱かぬでもない。「仁左衛門歌舞伎」として見る分には言うことはないにせよ、これだけが「お手本」ということになってしまうと、そうではあるまいと、書いておきたい気持ちも捨てられない。

それにしても、あれが昭和40年の残暑のころだったから、当時の名前でまだ与兵衛が染五郎、孫七が萬之助だったのだ! お道が先の又五郎だったっけ。芝鶴のうんざりお松とか、先代中車の瀬左衛門・弥十郎兄弟なんていうものは、「見ておいてよかった」という代表のようなもので、いわゆる古典の役以上に、むしろこういう復活物で見せたこういう人たちの歌舞伎演技の「教養」の深さが、いまにしてつくづくと偲ばれる。当時はこういう人たちが、腕を撫していたればこそ、白鸚一家一門と共に東宝に新天地を求めたのであったのだろう。

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新国立のオペラパレスで『アイーダ』を見た。さすがにこういうものだと、近頃はやりというか、現代の演出家諸氏に呪縛のように絡みついているかに見える現代的演出の入り込む余地がないせいか、とってつけたような演出に煩わされずに見ることが出来たのは幸いだったが、それにつけて思い出したのは、勘三郎が天下にこわいものなしの頂点に立ったころ手掛けた野田版の『愛陀姫』なる不思議な代物のことだった。ヴェルディの曲を歌えばこそ、勘三郎のアムネリスが、決して美声とは言い難い声で長セリフを言う。あれはいったい、何だったのだろう?

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随談605回 如月弥生の噂たち

ようやくオリンピックの喧騒が収まって、とにもかくにもほっとする。オリンピックが嫌いなわけではない。テレビを通じて培養・増幅される騒々しさに疲れるのだ。取り分け、NHKと民放とを問わず女性のアナやレポーターの、一生懸命盛り上げましょうと奮励努力する嬌声のワンパターンぶりが、彼女たちの健気さが思い遣られるにつけ、痛々しさに耳を覆いたくなる。彼女たちの真面目(なればこそああなるのだろうから)な努力を悪く言うわけにはいかないだけに、こちらはますますたじろぐことになる。

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閉会式の実況放送をした女性は、日本選手のメダルの数が幾つと幾度言ったことだろう。近年日本選手の活躍が目覚ましくなるにつれ、また競技数が幾層倍するにつれ、日本人選手の出番のない種目で世界最高峰クラスの名人上手たちの芸を見る機会が少なくなってしまった。あれらこそ、オリムピックならではなかなか見られないものなのだが。熱心に放送時間を調べればどこかで放送しているのかも知れないが、日本の女子選手の活躍をあれだけ繰り返し見せ(てくれ)たスケート競技でも、男子1万メートルというのは遂に見ずにしまった。いつのオリンピックだったかオランダの何とかいう大選手がいて、当時のテレビは彼が悠然とリンクを何周もする姿を延々と写してくれたから、日本の取ったメダルが幾つなどということを忘れて惚れ惚れと眺めたものだ。

そういう中でたまたま、バイアスロンの放送を見たのは幸いだった。むかしの札幌大会の時にたまたま中継を見て、こういうすっとぼけたような競技があるのを知って、ちょいと好感を持ったのである。スキーの距離競技と射撃を組み合わせて、一発的を外すたびに一周回ってこなければならないというペナルティがつくというのが、とぼけた味がある。こういう競技は、北ヨーロッパの雪に閉ざされた狩猟生活の実際から生まれたものに違いない。狩人になった勘平が、京都の山崎などでなく、どこか雪深い土地で、狸の吉兵衛や種子島の六等の狩人仲間と鉄砲を担いで野山を駆け回るような生活の中から考え出されたような趣きがある。もっとも今度久しぶりに見ると、随分設備が整備されて以前のような野趣が薄れ、むかし行った山あいの温泉宿を久しぶりに訪ねてみたら麗々しいホテルが建っていたような感じだったが、それでも、フィギュアスケートとか体操競技のように、選手たちの技は大したものには違いなくとも、あまりにも高度に発達したために技のための技というところまでいってしまうと、何となく無機的な感覚になるが、それがあまりないのがいい。日本のナントカ選手がメダルに届いたの届かないのと絶叫するアナの声を聞かなくてすむのも、健康にいい。

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もちろん、羽生選手も小平選手も千手観音みたいなパシュートの諸嬢もカーリング女子も結構でしたよ。彼らの健闘にケチをつける気は毛頭ないが、いまさらここに書くには及ぶまいと思うから書かないだけだ。

ただひとつ、羽生選手の(たしか帰国してから外人記者クラブの会見でだったかの応答ぶりを聞いていて、その頭脳の良さとセンスの良さから、売り出したころの玉三郎がいろんなところに引っ張り出されてインタビューに答えていろんなことを何の屈託もなく語る言葉が、おのずから「玉三郎語録」とでもいうような趣きとなっているのが、世の人々を瞠目させたのを思い出した。技術としてのフィギュアと芸術としてのフィギュアとの関係をどう思うかと問われて、高度な技術と高度の芸術性とは両々相俟つべきもの、といった趣旨のことを「羽生語録」風のディクションでさらりと答えてのけるあたりが、その真骨頂だろう。(当時、玉三郎宇宙人説というのがあったっけ。いまもあるのかもしれないが寡聞にして知らない。)

それにしても、欧米の選手と並ぶと大人と子供みたいに身長差があり、おまけに胴長短足、タキシードに蝶ネクタイをするとチンドン屋みたいになってしまうのが常だった「ニッポン男児」から、ああいう手長足長という体型のオノコが出現するようになろうとは、お釈迦様でなくとも夢にも思わぬことであった。(浅田真央の先生の佐藤選手などの時代は、男子フィギュアというと蝶ネクタイなどをつけた正装で、屋外のリンクでやっていたものだった。新聞の扱いも小さく、スポーツ欄の中段辺りに、それでも小さいながら写真入りだったのはいいが背景に雪の榛名山なんぞが写っていたりするのが何がなし物寂しくて、ものの哀れを感じさせた。)

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カーリング女子諸嬢のプレー中とプレー後の変貌ぶりを見ながら、さらには帰国後の、ごくフツーの人ぶりを見ながら、ウルトラマンのナントカ星人が普段はそこらのおじさんやおばさんの姿をしていたり、スーパーマンの正体がうだつの上がらないサラリーマンだったりするのを連想した。あんなにすごい技を見せていた選手諸嬢が、帰郷した途端、OLや店員をしている、ごくフツーのむすめさんの顔になるのを見てこの人たちをソンケイする気になった。

普通の人の中に凄い人がいる。コンビニで売っているおにぎりに海苔を巻き付けるあの仕掛けを工夫した人を、私は天才だと思うのだが、会ってみたら、たぶん、何てことのないフツーの人なのだろう。そういう、人間の摩訶不思議さを、カーリングの彼女たちは教えてくれた。

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春場所が始まると同時に、貴乃花親方が相撲協会を訴える訴状を内閣府に提出し、協会役員としては春場所を欠勤する由。ご本人かねがね曰く「精進とは神事の世界」なりと。つまり、欠勤も神事の内、ということか。ところへ、愛弟子が暴力沙汰を起こすという不祥事勃発。笑い事ではないのは重々承知しながら、申し訳ないがつい吹き出してしまった。あの何とも不思議な勿体を付けた態度物腰をさんざん見せられた後では、これは如何ともし難い。

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さて、ここからは芝居の話。

今月はまず菊之助だろう。『髪結新三』は予期を大きく超えるものだった。天晴れ上々吉、である。何度も書いてきたように、この優の近年の立役志向に、私はなにがなし、素直に賛同できないこだわりを抱いていた。あれだけの、純正で癖のない若女形ぶりは稀に見るものであり、大切にしたいという思いが強かったからだ。彼が幼名の丑之助から、菊之助と名乗って脚光の中に歩み出してきたとき、私は、実際には見たこともない、彼にとっては祖父の梅幸の若き日というのはこうでもあったろうかと夢想した。菊之助を襲名した舞台では浜松屋の弁天小僧をつとめたが、いよいよ見著わしになって肌脱ぎになろうという一瞬、大向うから女性の声で「脱がないで!」と声が掛かった、という話を、そのとき同じ舞台を見ていた某氏から聞いたことがある。その女性の気持ちがわかるような気がした、というより、女性にそう叫ばせる菊之助を、面白いと思った。その後しばらくは着実に若女形の正統の道を歩み続けるかと見えた菊之助が、ちょうど世紀の変わり目頃だったろうか、『グリークス』に出演し女方にあるまじき芝居をしたり、海老蔵の光源氏に紫の上をつとめ緋の袴姿でずかずかと男のように歩いたり、ゴッホの若き日の芝居をしたり、といういっときがあったが、思えばあれが、菊之助若き日の惑いの日々であったのだろう。やがて歌舞伎版沙翁劇『十二夜』でアッと言わせたり玉三郎との新版の『二人道成寺』を踊って瞠目させたり、という「天の時」がやってきてトンネルを抜けたのだった。

7年前の東北の大震災の折、菊之助が自ら企画してチャリティー舞踊公演を行ったとき、『藤娘』に『浮かれ坊主』を上・下二段返しにして見せたのを見て、あゝと心づいたことがある。父の菊五郎が華々しく売り出した若き日、東横ホールの花形公演でこの踊り二題を二段返しで見せたことがあった。菊之助を襲名したばかりの当時の菊五郎にとって、あれはひとつの宣言であったと私は思っているが、菊之助は父のその「故事」を知っていたに違いない。で、時至って、(義経でなく)富樫をやり、宗五郎をやり、こんど新三を出した、ということなのであろう。宗五郎はまずまずというところだったが、新三は、歴代の新三役者列伝中に数え得るものだと思う。芸の良し悪しを超えた輝きがある。「新三内」を見ながら思ったのは、もはや彼が立役をつとめるのをとやかく言う段階は超えたということだった。

もっとも、危惧がないわけではない。「白子屋見世先」や「永代橋」では、新三がいい男だというより、菊之助自身の美男ぶりが先に立つ。つい先月末、右近が清元永寿太夫としての披露目の延寿会で菊之助は『お祭り』を踊ったが、宝塚の男役みたいという声の聞かれたのは厳しすぎるとしても、いささか腑に落ちかねる出来だった。つまり『お祭り』のあの鳶の兄イは、役であって役ではない。新三なら新三という役の人物を演じることによって役になるのではなく、踊り手である菊之助自身がすっと役になるのでなくてはサマにならない。あの手の役の方が実はむずかしいのだ。で、そういうことがあって直後の、今度の新三である。これは、どう考えればいいのだろう?

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『国姓爺合戦』という芝居は、労多い割には功成り難い、つくづく難しい芝居である。まず錦祥女の唐人衣裳が似合う女方というのはなかなかいない。ほとんど唯一の例外は玉三郎で、この異能の人はあの異国の風俗がずばり、サマになった。(それをとっかかりにして、当時、玉三郎論のごときものを物したことがある。)第二に、和藤内という役が、「紅流し」の荒事を除けば何とも手持無沙汰であることで、錦祥女は元より、甘輝、老一官、渚と他の人物たちが皆、複雑な肚の芝居をする中で、誰がやっても、ただひとり彼だけが単細胞オトコに見えてしまう。(かつて江藤淳が出世作『夏目漱石』で「坊っちゃん」の主人公を和藤内になぞらえたが、なるほど、何の罪も悪気もない松山の町の人々を、江戸っ子の坊っちゃんがなんとも無邪気に突っかかり、傷ついた挙句、一方的にこき下ろす、まさに、童子の心でつとめよという荒事の極意そのものであろう。)こんどの愛之助は、勉強家らしくかどかどの見得など、腰がよく入ってなかなかいい形をするが、しかしこの人の仁から言って、甘輝をした方が、少々柄は小さいが適役である筈だ。反対に芝翫の甘輝は、唐人衣裳の似合うのは天下一品だが(昨年の『唐人殺し』と言い、このところこの人の役者ぶりの良さが光って見える)、肚から言えば彼が和藤内であろう。このところ腕を上げつつある扇雀も錦祥女はちと荷が重く、結局今度の『国姓爺』は老一官と渚の老人夫婦の芝居となった。(とはいえ、東蔵は本当は渚の人だろう。)秀太郎の渚は流石だが、それにしてもこのニッポンのお母さん、ふた言目には「日本の恥」と連発するのがちと耳にさわる。(大近松のむかしから、ニッポン人は、国際舞台へ出ると必要以上に力み過ぎるというDNAに変わりはないらしい。)

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雀右衛門の『男女道成寺』は『京鹿子娘道成寺』への橋頭保を築いたものというべきだろうが、(玉三郎がもう踊らないとすれば)、『京鹿子娘道成寺』は選手がいるのに観客はお預けを食うこと既に久しい状態が続いている。

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歌舞伎座の夜の部は玉三郎ワールドによる貸し切り状態。「お染の七役」の通称を出さず『於染久松色読販』と本名題だけ謳ったのは、土手のお六と鬼門の喜兵衛の件り二幕だけを出すからで、この「孝玉」発祥の記念すべき狂言を玉三郎・仁左衛門で見せるのが趣向。昔を知らず、今の二人だけを見る人にはもちろんそれ相当の感想も批評もあるだろうが、47年前の(昭和93年の今年、あのときの初演がちょうど昭和・平成の歳月の折り返し点だったのだ!)フレッシュコンビ誕生の舞台の記憶をまざまざと呼び起こすにつけ、感慨なきを得ない。見る我々にとっても、演じる玉・仁左御両所にとっても、思い出たっぷりの曾遊の地を感慨深く巡る旅をしているような気分である。すなわち、「旧婚旅行
に批評などと、野暮な真似はいたすまい。『神田祭』も御両所のデレデレぶりを楽しめばそれがすべてである。

むしろ玉三郎としては、かつて自ら新派の舞台に出演して繰り返し演じた新派古典の『滝の白糸』を、壱太郎・松也両人に演出として伝授する方が、「今日的」な意味を持つ行為と言える。こうした「玉三郎女子大学」の学長プロフェッサーとしての活動を最近頓に目にするようになったが、これも、一代の異能の名女方玉三郎としての身の処し方の一環であろう。果して壱太郎・松也両人、予期を超える健闘ぶりであったのはめでたい。

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今年も品川の六行会ホールでみつわ会の公演があった。第20回記念公演とある。久保田万太郎作品だけを二本づつ、三月の数日間公演する。今年は『あきくさばなし』に『釣堀にて』。新派の田口守が、ここ数年来こうした仕事に熱心に取り組んで、みつわ会以外でも、『銀座復興』だの今年正月の新派公演で山田洋二の『家族はつらいよ』だの、昭和の東京の市井の男を演じ続けている。『釣堀にて』の方は直七老人が中野誠也で、この人もみつわ会の常連出演者だが、在来普通のイメージからすると万太郎の世界とはややずれを感じる。『釣堀にて』というと、万太郎が死んだ年の12月、追悼の催しが三田の校舎で行われた折、本読みの形式で、つまり大教室の教壇辺りに椅子を置いて、演者は台本を手に、簡単な仕草をする程度でやったのが、却って万太郎の言葉の味わいがよく伝わっておもしろかった。この時の直七老人は中村信郎だったが、いかにも戦前の東京の下町で旦那と呼ばれる人物の陰影を彷彿させたのが忘れ難い。中村伸郎としても、舞台・映画を通じてこの時の直七老人ほど水際立った名演はなかったのではあるまいか。あの直七は、もういまの東京にはいなくなってしまった(絶滅してしまった)人種であろう。それをいまの俳優に求めても無理というものかも知れない。

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随談第604回 東京の雪

20センチも積もる「大雪」が降ると大騒ぎになるのは東京という町の常だが、子供のころまで振り返ると、東京の基準でいう「大雪」というのは、四、五年を周期にあったような気がする。学校に行っても(たぶん先生たちが揃わなかったのだろう)授業がなかなか始まらない。達磨ストーブ(というのが当時の暖房の代表だった)を囲んで、普段あまり喋ったりする機会のない他クラスの友だちとも話に花が咲くのはみんな気持ちが高ぶっているからで、結局授業もろくにないままに終わって儲かったり、大雪とか台風襲来というのは、日常の歯車を束の間チャラにしてくれるという意味で、ちょいと悪くないものだった。小学生の時に高円寺の駅をラッセル車が通るのを見た、なんてのは、今なお、いい思い出となっている。

東京の雪降りで一番多いのは、そろそろ冬型の気象が緩んできて春近しを感じさせるような二月の末か、さらに春めいてくる三月ごろで、たいがい、昼頃から降り出した雨が夕暮れごろ雪に変わり、翌朝、雨戸をあけてアッと驚くというケースで、直侍が三千歳を訪ねて行く情景を語る、 …冴え返る春の寒さに降る雨も暮れて何時しか雪となり、上野の鐘のも凍る、細き流れの幾曲がり、末は田川へ入谷村…という清元の文句が、江戸東京の雪降りの模様を活写して余すところない。黙阿弥の自然観察眼の確かさを示す好例で、気象庁の担当官に教えてやりたくなる。「細き流れの幾曲がり」というのは、入谷あたりの田圃の中を流れる小流れで、おそらく今は、かつての田圃が化けた住宅地を縫うように走る小路の下に暗渠となっているに違いない。こうした光景は入谷と限らず、板橋・練馬・杉並・世田谷などという、二十三区の外縁を成す、元々近郷の農村地帯だった地域はみな似たようなものだ。(杉並区に住んで、マイカーに練馬ナンバーを付けるのはダサいから嫌だ、などというのは、目くそが鼻くそを嗤うたぐいと知るべきである。)

今度みたいに寒中に大雪の降るケースももちろんあるが、最近めったになくなったのは、まだ旧年中、暮れの内にさらりと降る小雪で、私の子供のころは毎年一度や二度、かならず降ったような気がする。たいして積もったりはしない。氷も張った。霜柱も立った。子供は手に霜焼けをつくった。鼻の下に二本、洟を垂らしている子供が必ずいた。十二月になると子供は足袋をはいた。下足がズックの、いわゆる運動靴であろうと下駄であろうと、はくのは靴下よりも足袋だった。十二月というのは、もうそれぐらい寒かったのだ。と、こんなことをつい思い出すのも、たまの雪降りは東京に生まれ育った者にとって、ささやかな非日常の訪れとして心の中に染み入ってくるものがあるからだ。

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さて今月の各座の噂だが、歌舞伎座の高麗屋三代の襲名はいよいよ着々と運んで、変化といえば引幕が草間彌生の極彩色のに変わってアッと言わせることを除けば、取り分けて新たに付け加えることはあまりない。披露に関わる演目が夜の部に集中して昼の部は新幸四郎の大蔵卿だけかと思うと、昼に吉右衛門が出している『井伊大老』は夜の『七段目』と共に37年前の先の白鸚の披露演目であり、且つ最後の舞台でもあったわけで、いわば隠し味になっている。白鸚の由良之助と染五郎の力弥という配役も、37年前の、それぞれ一代下っての再現という趣向で、古きを知る者には二つの光景がダブって見えることになる。もっとも、37年前の先代白鸚はこの時もうかなり弱っていたから、歌右衛門のおかるに松緑の平右衛門と揃うと巨大な落日を見るような感があった。新しい白鸚は、それに比べると、まだラ・マンチャの一回や二回やってのけそうな元気さで、めでたい限りである。

如何かと思った新幸四郎の熊谷が揚幕に消えたとたんに拍手が巻き起こったのがオッという感じだった。よくやったという意味と、共感という意味と、ふたつながらのように私には受け取れた。こまかな仕草に至るまでよく研究していて、それを一つの流れの中によく収めてある。熊谷の英雄としての骨の太さ、大きさといったものを、ともかくも役の中に収め遂せたという意味では、先月の弁慶や松王丸とひとつである。しかし、丸本時代物のぼてっという量感はあまりないのは是非もない、か・・・

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二ヶ月目とあって『芝居前』が出て、「町年寄」という役で我當が出ているのにアッと思った。この前この人を見たのもやはりこうした一幕でのことだった。正直、我當の顔を見られるとは思っていなかった。まだ秀公といった昔の、カチッとした若手俳優ぶりが思い出される。十一代目團十郎の河内山宗俊が出たのは七代目幸四郎十七回忌追善で高麗屋三兄弟が顔を揃えた時だったが、秀公が数馬をしていたのが記憶に鮮明である。若輩ながら殿様をいさめる硬骨漢の若侍という役が我當自身と重なって、あれは我當若き日の傑作であった。それから今に至るまで、これほど印象の一貫している人も珍しい。

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新橋演舞場で12日間、大阪松竹座で8日間、合わせて20日という、こうした公演の打ち方を近頃よく見かけるようになった。一か月25日公演というのはもともと戦後の歌舞伎が定着させたいわば標準タイプだが、永らく不動だったこうした体制もいよいよ限界がきているようだ。『喜劇有頂天一座』の原作『女剣劇朝霧一座』が新派の演目として初演された昭和34年当時は、歌舞伎の他に新派と新国劇がほぼ毎月、演舞場や明治座で公演をしていたのだからまさに隔世の感とはこのことだ。

その『女剣劇朝霧一座』は、新派が歌舞伎と同じように昼の部・夜の部の二部制で昼夜別メニューで何本もの演目を並べていた最後に、肩の凝らない「追い出し」用の演目として出したもので、作は北条秀司、演じるは初代水谷八重子に市川翠扇という、いまから見れば超豪華版だった。これを、渡辺えり、キムラ緑子という顔ぶれでタイトルも変え演出も新規にやろうというのは、だから再演ではなく、北条秀司原作より、と見るのが実態だろう。客席はほとんど中高年ながら上々の入り、受けもよい。その限りでは成功に違いない。

今更、昔はどうのといっても始まらない。こうした形でなりと旧作に埃を払う機会があったのを喜ぶべきであろう。(歌舞伎の復活上演というのも、実はこれに近い場合もあるに違いない。)が、それにしても、最後のああいう取ってつけたようなフィナーレというのは本当に必要なのだろうか。

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シアタークリエで『FUN HOME』を見た翌日、日生劇場で『ブロードウェイと銃弾』という、マフィアが芝居の金主となるという1920年代を舞台にしたミュージカルを見た。圧倒的に後者の方が面白い。前者は、今どきの日本の脚本なら3時間はかかるだろうところを1時間40分で仕上げてあるなど、なるほどトニー賞を取ったというだけあって筋の捌き方がシャ-プだし、ゲイの父親にレズの娘といういかにも現代的な家族の問題をストレートに、スマートに扱っていて、現代の進歩的でものわかりのよいインテリ層の共感を得るだろう。(ふと思ったのは、こういう芝居の劇評をトランプ大統領に書かせてみたら面白かろうということだった。)面白かったのは吉原光夫演じる父親役で、インテリで自分ではものわかりがいいつもりだが、じつは自分の価値観や嗜好にこだわる専制君主、という、いかにもアメリカの父親像の原風景をよく見せている。風貌といいホントのアメリカ人みたいに見えるのも秀逸だ。

『ブロードウェイと銃弾』の方は、マジメな演劇青年の書いた台本をマフィアの子分が手直しすると俄然面白い脚本に仕上がるという皮肉の中に、演劇論が忍ばせてあるところがミソで、ウッディ・アレンのアイデアが卓抜で、スーザン・ストローマンの振り付けもいいし、なるほど出来のいいブロードウェイ・ミュージカルの面白さというものを偲ばせる。こういうのを見ると、当節のわが日本の小劇場出身の作者諸氏がいかにもマジメで小さな理屈に凝り固まっているかが改めて思われる。ここでも、チーチというマフィアの子分役の城田優が圧倒的にいい。

ところで、この『ブロードウェイと銃弾』というタイトルの原題はBULLETS OVER BROADWAYというのだが、誰が訳したってこう訳すより仕方がないとはいえ、原題と翻訳のこの隙間というものは如何ともし難い。翻訳文化ニッポンということを改めて思いながら見ることとなった。

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こうしたメジャーの公演の陰でひっそりと、深川江戸資料館小劇場で東宝現代劇75人の会の公演があった。(資料館の一隅に横綱大鵬の展示コーナーが常設されている。大鵬部屋はこの近所だったのだ。そういうことがいかにも自然な光景となっている。) かつて日比谷に芸術座を作るにあたって、菊田一夫が、劇団員として新人俳優を公募、芸術座を中心に東宝制作の舞台を支える人材を養成した。実践主義で鍛えられた彼らの実力は定評のある所で、かの『放浪記』も『がしんたれ』も『たぬき』も、染五郎時代の若き日の白鸚が喝采を浴びた『蒼き狼』も、この人たちの支えがあってのものだったのだ。その彼らも、芸術座の閉鎖と共に姿を見なくなった。東宝現代劇75人の会とは、その人々で結成したもので、しばらくは東京芸術劇場などで菊田一夫の作品を上演していたが、近年は、上記の深川資料館内にある小劇場で公演を続けている。第31回公演の今回は、第一期生で会の重鎮でもある横澤祐一作の深川シリーズ5作目で、昭和30年ごろを背景に永代橋のほとりで開業していた旅館を舞台にした下町ドラマ。内容もだが、何よりつくづく感じるのは、彼らのセリフの明確さだ。一語一語の明晰さ、その意味するところ、暗示するところ、その情感、すべてが明確であり、そうしたセリフのやり取りで劇が進行する。妙なところで踊り出したり、意味もないギャグを飛ばしたりもしない。それまでの芝居をみずから、ナーンチャーッテ、とチャラにしてしまうようなフィナーレをつけたりしない。かつては当たり前だったこうしたことが、こういう舞台を見ていると、いまやいかに貴重かということを改めて知らされる。最前ふれた『喜劇有頂天一座』にしても、肝心なところを支えているのは、じつは青柳喜伊子、伊藤みどりをはじめとする劇団新派の女優達である。プロフェッショナルという言葉が各方面で飛び交う昨今だが、じつは、そんな言葉を皆が知らなかったかつての方が、こと演劇に関する限り、本当にプロフェッショナルの俳優たちが当たり前のように存在していたのではなかったか。75人で始めた会も、いまや20数名という。

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その東宝現代劇75人の会の主軸のメンバーだった内山恵司と青木玲子が昨年、亡くなっていたことをこのブログに書き洩らしていたことが今になって悔やまれる。新聞の訃報欄には気を付けているつもりだが、見落としもあるし、知ってはいてもブログを書くタイミングで書き落してしまったり、ということが実はちょいちょいあるのだ。青木玲子は、『放浪記』で芙美子の原稿を預かる先輩の女流作家の役をつとめていた女優、と言えば、あゝと思い当る人も多いだろう。出てきただけで、いかにも昭和初期という時代の空気を漂わせていた。名優といってよかった。内山は、つとめた舞台だけでなく、おそらくこの会の支柱であったと思われる。

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訃報欄といえば、上月佐知子、川地民夫などという昭和30年代を思い出せる名前を相次いで見つけたが、上月は本業の女優としてより、昭和36~7年ごろ、TBSだったと思うが、かなり長期にわたって昭和10年代の時代史を往時の映像をふんだんに使って見せて行く番組で、私は毎週欠かさずに見ていたから、司会の古谷剛正のアシスタントをつとめていたのをよく覚えている。硬派の、なかなかいい番組だったが、上月のアシスタントぶりも知的で悪くなかった。
川地民夫は、後々まで活躍していたのは知らないではないが、私にとっては初期の裕次郎映画にちょいとした役どころとしてお坊ちゃん役で、その死を知って懐かしいと思わせるだけの、ある種悪くない匂いをもっていた。

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文楽の豊竹始太夫の急死はそうした訃報とは別種の、一つの事件としての驚きだった。聞いた話では、今月の公演の稽古に遅刻気味に駆けつけてきてそのまま倒れたとかいうことだが、床に座った姿は、文楽界の高安とでもいった風な一風ある風貌が異彩を放っていた。

その文楽は、八代目綱太夫五十回忌追善というので、咲太夫の口上があった。このところ、一種の怪物君といった風情だった若いころと比べるとちょっと心配になるくらいめっきり細くなった咲太夫だが、口上の席に座ったところを見ると、後ろに飾られた亡父綱大夫の遺影とびっくりするほど瓜二つの相貌となっている。咲甫太夫に織大夫を継がせるという。自身は終生咲太夫で通すのだろうか。さすがに、その二人で前後を語る『合邦』は久しぶりに時代物の大曲を聴いたと思わせるものであったのは、何よりめでたい。

ところで私は山城少掾は知らず、綱太夫は聴いているがその真髄を理解していたとは言い難い。すべてにまろやかに円満具足したかのような芸で、つけ入る隙がないような気がして、当時はむしろ若太夫の方に惹かれていた。亡くなったのが六十五歳だったと今度知って驚いたが、その三回忌だったかの追善に、咲太夫が、のちに九代目を継ぎ更に源太夫となった、当時の織太夫と二人で『熊谷陣屋』を前後に分けて語ったのが記憶に強く残っている。咲太夫は当時まだ二十代だったわけで、今考えても信じがたい立派な語りだった。

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三部制の真ん中に襲名の二人を据え、『心中宵庚申』を第一部、『油地獄』を第三部に置いたのは、「上田村」と「油店」が八代目ゆかりの曲という構成も、そうと知れば味な立て方と言えるが、どちらも上方の町人社会のせせこましい義理づくの話だから、辛気臭い話にサンドイッチにされた気味もある。(もっとも、そんなことを言っていたら近松物などやっていられなくなるのも事実だが、「油店」は呂太夫がさすが年の功を示す巧演だった。)

「上田村」といえば、昭和40年9月の歌舞伎座で見た延若の半兵衛が忘れ難い。何も知らず旅の途次、女房の実家に立ち寄ったという風情が、いかにも半兵衛という人物を印象付けたが、いま思えば、延若という人の役者人生も、半兵衛を地で行ったようなものだったような気もしてくる。(誰があの婆アか、などという詮索は抜きにしてだ。)ともあれあの半兵衛を見ておいたお陰で、この七面倒くさい芝居に好印象を持つことになったといっても過言ではない。この時は歌右衛門が姉のおかるに回って、芝翫(まだこの時は福助だったが)が千代、八世三津五郎の平右衛門という大顔合わせだったが、「八百屋」になって中村霞仙の婆の巧いこと! 先月の『躄の仇討』の早蕨と、二か月続けてこの上方の老巧な役者を思い出させる出し物を、歌舞伎と文楽で見たのも何かの奇縁か。

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随談第603回 寒中御見舞い

新年のご挨拶をし損ね一月も末になっての寒中お見舞いということになりましたが、ともあれ今年もよろしく願いあげます。別題・出し遅れの証文集? まあ、ごくエッセンスだけということで今回はご容赦願います。

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まずは三代同時襲名からというのが、ものごとの順序というものであろう。中心になるのはもちろん新・幸四郎なわけで、『車引』の松王丸に『勧進帳』の弁慶という披露の役いずれも、幸四郎という名に懸けての選択であろう。どちらもまずは真っ当に及第点、新聞にも書いたが、弁慶で幕外に一人立った時、やり遂げたという思いが全身から吹きこぼれてくるような概のあったのが印象的であった。今月はこの二役、来月は大蔵卿に熊谷と、高麗屋・播磨屋双方の、単に当たり役というだけでなく、芸のエッセンスが集約されているような役々を披露の役として選んだところに、新・幸四郎の意欲と同時に視野の広さというか、目指すところというか、己を知るところというか、いろいろなことが窺われて興深い。

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『勧進帳』は、幸四郎以外のことでもいろいろ見るべきものがあって面白かった。

吉右衛門が富樫を付き合ったのは叔父として当然だろうが、この富樫の凄いこと。これが、芝居だから台本に従って筋が運ぶが、もし相撲だったら・・・? と、つい思ってしまうほど圧倒的であった。これも、吉右衛門流の新しい幸四郎へのはなむけであり、愛の表現であろう。

新・染五郎の義経も貴重なものを見た思いがする。もちろん、12歳の義経というのは襲名なればこその配役だが、そこに却って、『勧進帳』の義経というものへ日本人が託してきた思いが浮き彫りにされるかのような面白さがあった。三蔵法師にしても義経にしても、純なるものこそ儚く、か弱い。それを守り抜く者に託する思い。それにしても、染五郎の眉がすばらしい。まさしく、眉秀でたる若人、である。

歌六の常陸坊、芝翫の片岡八郎のこの立派なこと。そこで思うのはこの四天王で『勧進帳』がもう一組、二組できそうだということ。芝翫の弁慶に歌六の富樫(この逆もちょっと見てみたい)に鴈治郎なり愛之助なりの義経という、相当なレベルの『勧進帳』トリオがこの四天王でできそうだ。

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『車引』では勘九郎の梅王丸が素敵な出来であった。おとっつぁんの十八代目勘三郎がまだ二十歳過ぎぐらいの頃に吉右衛門の松王丸・梅玉の桜丸で梅王をつとめた時の映像があるが、それをそのまま再現したかのよう。技術的にも肉体的にも困難を極める、角々の見得をあれだけ見事にしてのけた例は、この映像の先代勘九郎と富十郎しか、私の見た中では思い当たらない。

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しかし今度の三代襲名で私が最も興深く見たのは新・白鸚の松王だった。幾度も見てきたこの人の『寺子屋』だが、それらをはるかに突き抜けている。「以前の通りやっているのですが今度の白鸚の松王は違うと感じていただけたらと思います」と自ら語る、その通りになっている。急所は首実検で「でかした源蔵、よく討った」といって首桶の蓋をガタガタさせて首になったわが子を見た親の苦悩なり動揺なりを表すようなサマを一切見せない。それでいながら、松王の肚の内を十分に見るものに思わせる。ああ、白鸚もついにこういう境地にまで至ったのだ。作秋見た『アマデウス』のときと一脈、相通じるものである。

梅玉の源蔵もさすがという趣き、魁春の千代は当節この人を以って第一人者と目していいであろう。雀右衛門の戸浪も役にふさわしい人の演じている、おのずからなる良さがある。左團次の玄蕃も、幾度見たか知れぬほどだが、この顔ぶれでの玄蕃として最もふさわしい玄蕃であろう。

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序幕に『箱根権現躄仇討』が『誓仇討』というタイトルで出た。昭和53年に先の白鸚の滝口上野、歌右衛門の初花、十七世勘三郎の勝五郎で出た以来だが、実はこの大顔合わせより、昭和40年二月の歌舞伎座で当時谷間の世代と言われた人たちを集めた一座の興行があった時に、延若の上野、先の雀右衛門の初花、三世猿之助(つまりいまの猿翁だが、こういう話をするときにはこの名前はふさわしくない)の勝五郎に、市村竹之丞だった富十郎の折助に、中村霞仙の老母早蕨という配役でしたのが忘れ難い。そのあと、昭和46年の正月に(これが結果的に東横歌舞伎最後の公演となった)片岡孝夫の上野に玉三郎の初花、現・田之助の勝五郎というのがあって、田之助の紀伊国屋の人らしい二枚目ぶりが目に残っている。こういう、大歌舞伎と中芝居・小芝居の入会地で演じ継がれてきたような狂言は、大立物の大顔合わせよりも適任者の揃った小体な座組でした方がしっくりする。その意味で、今度の勘九郎、七之助、愛之助に秀太郎という配役は、今日での好配役であり、どうして今月のようお祭り騒ぎの中で出たのか不思議な気がするが、何はともあれ、これだけの顔ぶれで出せたことは、この貴重な、愛玩に値する作が、今後数十年、長らえるだけの条件を作ったことになる。それにしても、国立の『小栗判官』とこの『躄仇討』と、躄車を引いた道行を同じ月に見るとは、いまどき稀有な体験であった。

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その国立の菊五郎版『小栗判官』だが、一にも二にも、菊之助判官と尾上右近の照手姫というカップルが命綱、別の言い方をすればこの二人あってこその舞台であった。耳にした限り、面白かったという声をあちこちで聞いたのは何はともあれめでたいことだ。説教節以来の日本的物語世界の生み出した、男女が会っては離れ又巡り合うメロドラマというのは、かつての『君の名は』を持ち出さずとも、今なお我々の感性の底流をなしているのかもしれない。

それにしても、かつての猿之助版の、とりわけ「浪七内」から「檀風」のどんぶりテンコ盛りの上にてんぷらを50センチも盛り上げた天丼のような大車輪・大サービスを思い出すわれわれ高齢者層には、腹八分とも腹七分とも見える、器にぽっちりお上品に盛った、低カロリーを旨としたような菊五郎版は、糖尿病対策としてふさわしいかもしれない。

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新橋演舞場の『日本むかし話』で鷹之資の一寸法師が素晴らしかった。まさしく富十郎の子であることを確認させた。

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浅草の花形歌舞伎を、今月一番面白かったという声がある。確かに、と私の中でもうなずくものがある。松也と巳之助の『御浜御殿』はともかくもこの芝居の面白さを実感させたし、隼人の『鳥居前』の忠信の役者ぶりにはオヽと目を瞠らされた。他の面々もそれぞれに健闘、どれも好舞台だった。

ところでこの公演のもうひとつの傑作は、筋書と称して売っているパンフレット掲載の出演者の写真で、最近よく見かける、じつはアルバムかと見紛う類いのものと一線を画している。どの写真もそれぞれに興味深いが、かつてのSKDの男役を思わせるような米吉と(宝塚ではなくSKD風であるところが面白い。阪急電鉄沿線の山の手令嬢を相手の宝塚と、浅草を本拠にしたSKDとではおのずから味わいを異にしていた。ちょっぴり下司でマッチョな風のあるところに、SKDの味があった)、往年の銀幕スターを思わせる(まるでむかしの上原謙みたいだ)錦之助のが、私はひときわ気に入った。いずれも、一種の「俳優論」になっているところがミソである。

          ***

協会側・貴乃花側、泥仕合の深みにはまり込んで闇試合の様相を呈している中、初場所の栃ノ心の優勝はまさに泥中の花であった。4年前、怪我で幕下まで陥落して再起した当時の土俵を見たことがあるが、それまでののっぺりしたイケメン力士とは見違えるようなたくましい風貌に変わり、風格すら備えた姿は幕下の取組の中でひと際目立った。以来、栃ノ心は私の贔屓力士の一人に加わることになった。まもなく十両に復帰し、折から台頭してきた照ノ富士や逸ノ城と優勝を争うなどして幕の内に戻った時は、当時もこのブログに書いたと思うが次期大関候補の筆頭かとすら見えた。

今場所の白眉は御嶽海を吊り出しで破った一番で、当って出る相撲ばかりが良しとされる昨今の相撲で、本当に久しぶりに見る吊り技だった。柏鵬時代前期、明歩谷(みょうぶだに)という、栃ノ心をもう少し細身にしたような体つきの、吊り技一点張りで起重機という仇名の力士がいた。ある場所、まだ大関だった柏戸と大鵬と三人で優勝決定戦を戦ったのがこの相撲取りの生涯のハイライトだった。結果は二人に負け、柏鵬両力士は横綱に同時昇進したのだったが、その後まもなく、焼失したまま久しかった浅草寺の仁王像が再建されることになり、この明歩谷が仁王様のモデルになるということがあった。だからいまも、浅草寺に参って仁王様を見れば明歩谷を偲ぶことができるのだが、そんなことを知る人も覚えている人もわずかなものであろう。

明歩谷のような吊りのスペシャリストでなくとも、吊り出しという技、決まり手はかつてはごく普通に見かけるものだったが、最近はめったに見なくなった。押したり引いたりがほとんどで、四つ相撲の角逐が稀になったからだが、四つ相撲があり、寄り身があり、押しがあり突っ張りがあり、投げ技があり、足癖がありするからこそ、取り口が多彩になり、その上にそれぞれの技のスペシャリストのような力士がいたりしたから、各力士相撲ぶりに個性があって面白かったのだ。横綱栃錦と大関若乃花の対戦で(いわゆる栃若時代よりこの当時の方が熱戦が多くて面白かった)、二場所続けて栃錦が若乃花を吊り出しで破ったことがある。栃錦は別に怪力というタイプではなかったが(怪力というなら若乃花の方が怪力だった)、一瞬の呼吸と技で吊り出したのだ。

栃ノ心を次期大関候補として期待したい。若手も結構だが、彼のような心技に蓄積のある力士が活躍するのは味わいが深い。(安美錦のアキレス腱断絶の時の相手が栃ノ心だったのは、何とも皮肉なことではあるのだが。)

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