隋談第614回 平成最後の歳末に

何事にも「平成最後の」という枕詞がつくこの頃だが、文字通り平成最後の天皇誕生日にあたっての天皇の談話はなかなか印象的だった。戦後日本における象徴天皇の在り様を語る内容と、語る人(すなわち天皇自ら)の語り口とが、あれほどぴったり重なった文体というものはないだろう。まさに形影相添うごとく、あれほど平易な、誰でもが使う言葉だけで成り立っている文章というものはまたとない。その意味で、戦後70年かけて出来上がった口語を主体とした現代日本語の文章の達成ともいえる。あれを、昭和天皇が語ったとしたら!まずそれは考え難い。あの独特の節のついた昭和天皇の語り口は、勅語を朗読するための音調が、いくら平易な言葉で民草へ語り掛けようとしても抜きがたくついて回る文語を根に持つ「天皇語」であって、戦前と戦後の天皇の在り方の、いうなら裂け目の上に立った、昭和天皇以外にはあり得ないものだった。あの語り口では、このほどの天皇の談話の言葉を、その意味するところを、語ることは不可能だろう。天皇誕生日の翌日のNHKテレビで、戦後人間宣言をした昭和天皇の全国巡行の映像が映し出され、行く先々で人々に語り掛ける天皇の声が流れたが、あれと、被災地を訪れた平成の天皇の声と口調の自然さとでは、実に興味深いまでに違いが際立っている。父と子と、二人の天皇の在り方の違いが、まさに端的にそこに顕われていた。今回の天皇の談話は、その意味で、天皇が象徴としての在り方を模索した果てに自ら完成した「新・天皇語」の姿であり、その意味で、現代日本語のひとつの達成ともいえる。

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天皇誕生日の翌日のNHK番組で、少年時代からご成婚の頃までの映像が流れたのが実に面白かった。あゝ、と見ていて思わず声が漏れた映像がいくつもあったが、その中にひとつ、その時の現場を私自身、肉眼で見た光景があった。学習院の中学生のころの映像で、あの学習院独特の詰襟服を着た姿から、ひとつの記憶がよみがえった。後楽園球場のネット裏席から満場の観客に手を振って歓呼に応える姿である。その幾万という満場の観客の一人として、一塁側内野席スタンドに小学生の私もいたのだった。私が現天皇の姿を実際に見たのはこの時と、それから10年余ののち、東京駅のプラットホームでこちらは数メートルの間近に見た夏服姿で、これから高校野球の開会式のために甲子園へ行くのだという声が、どこからともなく耳に入った。もっともこちらは、もう誰もの記憶にある、成人してのちの皇太子時代だから、特別の感慨というものはない。

同じ番組で講和条約発効当時の画像に美空ひばりの「お祭りマンボ」をかぶせたのは、担当者のヒットとほめていいだろう。「お祭りマンボ」を歌うひばりの声は昭和27年4月を象徴する歌声だった。4月28日がサンフランシスコ講和条約発効の日、5月1日が皇居前広場のメーデー事件という、時代の折り目であり、もちろん全くの偶然だがその講和条約発効の日に鷺ノ宮から西巣鴨に引っ越したお向かいの家のラジオから、「お祭りマンボ」の歌声が筒抜けのような音量で聞こえてきたのが、当時小学6年生という子供心に強烈に焼き付いている。

翌年、エリザベス女王戴冠式に出席のため渡英、アメリカまで太平洋を幾日もかけて渡る船旅の模様が、連日一面を飾る記事となった。(あの記事は、おそらく伝書鳩が運んだものだったに違いない。そういえば当時は、鳩を飼っている家をちょいちょい見かけたものだが、今はついぞ見なくなった。)それにしても、見送りの埠頭に吉田茂の姿が映っていたり、英国でのエピソードの人物としてチャーチルが出てきたり役者も揃っているが、戴冠式の現場の映像の、かなり末席と思われる席に座っている皇太子の姿も、往時の記憶を呼び覚ますのに充分である。まだテレビなど一般にはあってなきがごとき時代にもかかわらず、鮮明な記憶となっているのは、新聞に載った写真がが映像となって記憶されているためか、それとも、当時のニュース映画で見た光景の記憶なのか、ともあれ、列席した皇太子の席の序列がいかにも新・女王から遠い、後ろの方だったことを、当時、周囲の大人たちがぼやいていたのも、ついでに思い出した。(つまり、こういうところで敗戦国の悲哀を実感したというわけだった。)

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少しは歌舞伎のことも書いておかなくては。

国立劇場の『増補双級巴』は「壬生村治左衛門内」の復活は、如何なものかと案じたが、まずはしたたけのことはあった。大詰の「五右衛門内」と合わせ、五右衛門の「実像」として一貫させたのは、復活の実を上げたといってよく、国立劇場としてよい仕事をしたといえる。但し、こちらも折角復活した大詰の「五右衛門内」の継子いじめ、「藤ノ森捕物」と出しながら「七条河原釜茹」を出さなかったのは九仞の候を一簣に欠くというもので、釜茹でになりながら我が子を頭上高くさしあげるという、人間五右衛門を物語るエピソードとして五右衛門伝説中でも最も親しまれた場面なのに、もし「残酷」といった批判を恐れてのことだとすれば、世情への忖度の行き過ぎというべきである。

それにつけても、歌六の治左衛門の明き盲ぶりには感服した。俊徳丸でも『朝顔日記』の深雪でも、芝居の盲人役は大概目をつむっているが、治左衛門は目を開けたままだ。歌六の治左衛門は、どう見ても盲人の目であり、それが技巧上のことにとどまらず、この人物の、ひいてはこの場面、さらにひいてはこの物語の通奏低音というべき悲哀の度を深くしていた。日経新聞年末恒例の「本年度ベストスリー」は今回は「趣向」として長老級?から選ぶことにしたために、残念ながら外れてしまったが、せめてここに書いておくことにしよう。

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歌舞伎座の今月は一切、玉三郎の手の内にある。壱太郎に、春の『滝の白糸』に続き『お染の七役』を伝授し、自ら演じる『阿古屋』を梅枝と児太郎にも伝授し加えて三人日替わりで見せ、更には、若い二人が阿古屋を勤める日には自ら、何と岩永を演じ、更にさらに『傾城雪吉原』なる「新作歌舞伎舞踊」(と、わざわざ勘亭流で添書きまでつけている)を見せ、梅枝・児太郎には『二人藤娘』を躍らせるという、サービスぶりというか何という・・・。(こういう時こそ、往年の野球解説の「小西節」なら、何と申しましょうか、というところだ。)

でさて、梅枝の曽祖父三代目時蔵ばりの古風、元ラグビー部(なそうな)で培った根性が傾城の意気地に通じる児太郎の気魂と、それぞれに長所を見せてファンを安堵させたのは重畳であったが、さて問題の玉三郎演じる岩永こそ、まさに「何と申しましょうか」というより言葉が浮かばない。見終わった後、二階のトイレでたまたま連れション状態となった某大先達に、「ねえねえ、いまの岩永、本当に玉三郎だった?」と訊かれたが、まあ、そりゃそうでしょうねえ、と返事をしたものの、質問のココロはよくわかった。文楽のやり方をよく調べ(吉田玉男に教わったと聞いたが)た上での工夫はよくわかるが、まさに凝っては思案に能わず、あそこまでシガを隠すと同時に玉三郎自身の個性まで隠してしまっては、あれが本当に玉三郎だったとはいまもって狐につままれた状態のままなのは、如何とも仕様がない。

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昼の部の第一に松也と中車で『幸助餅』が出て、中車が相撲取りになるが、せりふの上手いのはたいしたものだが、いかにも関取ぶりに歌舞伎の相撲らしい色気がない。こういう、相撲取りなら相撲取り、奴なら奴、といった役柄としての「紋切型」が身に添わないというのは、もうそろそろ、中車たるもの心しなければならない時期なのではあるまいか。香川照之との二刀流は、これからもずっと続けるのだろうか?

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まあともあれ、これが「平成最後」の年の暮。どうぞ良い年をお迎えください。

随談613回 1+1=1.3

判じ物みたいなタイトルで恐縮だが、前回はあれっぱかりでお茶を濁して勘弁していただいたので、今度は早めにと思いながら、そういう時に限って次々とやらなければならない仕事が目の前に現れる、という日が続いて気がつけば早や霜月下旬、勝頼が八重垣姫に口説かれた頃である。(因みに、我が家の夕顔はさすがに霜月も下旬になってからは咲かなくなった)、というわけで今回も、先月分と今月分と合わせて1+1=2とするつもりだったが、1+1=1.5か1.3ぐらいのところでご了解願うことにしたい。

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輪島、古川清蔵、スタンカ、手塚明治、森下整鎮、江波杏子、三上真一郎・・・と続いたこの約二か月間に私のアンテナに引っかかった訃報の中で、マスコミが盛大に取り上げたのは輪島ひとり、まあ江波杏子も近過去マスコミ人と同世代だから相応の扱いをしてもらえたが、昭和30年代半ば頃、南海ホークスのエースだったスタンカとなると、いかにも調べて書いたとおぼしい記事を散見したぐらい。でもまあ、この辺までは今のマスコミのアンテナに掛かり得るものと見える。同じ南海で晩年にスタンカとようやく重なり合ったかという世代差のある森下となると、ほんの数行の死亡記事が出たぐらい。巨人の三塁手だった手塚明治も同じくだが、まあ、これは仕方がないか。新聞が記事を載せてくれただけでもありがたいと思うべきか。

森下の盛りは昭和20年代後半から30年代中頃、三塁の蔭山と共にやさ男揃いの南海でもとりわけてのやさ男だった。(ああいう、スマートボーイの名手ばかり揃えていた当時の南海ホークスのようなチームというのも、その後も含めてちょっとないだろう。14代目の守田勘彌が、当時、大の南海ファンとして知られていたが、なるほど、昭和20年代、別所を巨人に引き抜かれた後の南海を支えたエースの柚木進など、いかにも勘彌ばりの生締物が似合いそうなハンサムだった。しかし与三郎や直侍やピントコナばかりではチームとしては非力なので、パ・リーグでは3連覇しても日本シリーズでは第二次黄金時代の巨人に跳ね返されたのに鑑み鶴岡監督はチーム改造を決意、数年がかりで野村克也のような非・二枚目を増強して遂に巨人に四タテを食わせて夢に見た御堂筋のパレードを実現したのだった。(もっともそのころの巨人は、黄金時代の面影はもう疾うになくなっていたが。) 話のついでだが、蔭山などは、同じ名三塁手として鶴岡監督の秘蔵っ子として育てられ、後継者として監督に指名されたと思ったら、自分は監督に値するだろうかと悩み死にをするという、死に方まで繊細なやさ男だった。銀行員がばくち打ちの親分になったようなもの、とその死を報じた新聞があったっけ。

手塚明治という名前は、明治大学の出身だからというわけではもちろんないが覚えやすいので子供たちも「手塚明治」と上下一対、揃えて覚えていた。大柄でスケールの大きい好選手だったが、結局のところ、長嶋茂雄の出現まで転変した、戦後の巨人の三塁手列伝の一人ということになる。広岡達郎が早稲田を出て巨人に入って最初に三遊間を共に守ったのが手塚だった。その夏の初ナイターの夜の対中日戦の情景が鮮やかに思い出される。昭和29年、川上と千葉の一、二塁は変わらないが、宇野と平井に代わって三塁が手塚で遊撃が広岡、外野もレフト与那嶺にライト南村は変わらないがセンターの青田が前年大洋ホエールズへ去って、早稲田から入った岩本堯が守るという風に、同じ第二次黄金時代といっても少しずつ様変わりを始めていた頃だった。(このころの私は巨人ファンの中学生だったから、こういうメンバーはいまでも空で言えるのだ。)

古川清蔵となると、私などでも幼いころのかすかな印象しかない。実際には、このプロ野球草創期の強打者(戦前に二度、ホームラン王になっている。その一度は年間4本という、最少記録の保持者でもある)の現役生活は意外に長く30年代にまでかかっているのだが、記憶としては戦後間もない後楽園球場で阪急ブレーブズの黒に島の入ったユニフォームを着た姿がほぼすべてである。古川以外にもこうした形で今も眼中に残っている、戦後まで活躍した戦前以来の選手たちの誰彼の名前は、百人とは言うまいが、挙げ出せばたちどころに数十人は出てくるだろう。みんな、当時にあっては一騎当千の強者である。そうした選手はいまもなお次々と出現して、そのときどきのファンの眼中に何十年後迄、留まることになるのだ。見た限りの観客一人一人が、生きている間だけは。

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訃報は訃報でも全くの別口で、元楯の会の会員で三島事件のメンバーという人の死亡記事が目に留まった。服役後は妻の実家に引っ込み、民主党の事務局に勤めていたという。フーム、楯の会から民主党ねえ。若い時の夢から醒めれば、その辺りに落ち着いたということなのであろうか。享年70歳とある。まさしくツワモノどもが夢の跡だが、あの月は松竹75周年というので大顔合わせの『先代萩』が出たのと結びついて記憶している。あれが私の「先代萩体験」中の最大のものであったかも知れない。

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BSのお茶の間劇場で『お茶漬の味』を久しぶりに見た。この作は小津作品の中ではあまり評価が高くないが、それは商社マンである主人公が社命で急に外国へ出張することになるのが、冷えていた夫婦の縒りが戻る契機となるという設定に無理があるからだということになっている。しかしいかにも小津的世界が充満しているという意味では、なかなか捨てがたい作で、私は愛好している。昭和27年の作だから、この年の四月限りでGHQ 撤が撤退、進駐軍が帰って行ったという、微妙な時代が画面に溢れている。五所平之助『朝の波紋』、成瀬巳喜男『銀座化粧』、千葉泰樹『東京の恋人』、佐伯清『浅草四人姉妹』などと共に、いずれも昭和27年という興味深い年の東京の小市民の生活から「戦後」を捕らえている、私の愛好する佳作たちである。佐分利信の商社の幹部社員が鶴田浩二の甥の高等ルンペン(警察予備隊にでも入るか、という会話が交わされる)に誘われてパチンコ屋に入って、玉をひとつづつ穴に入れて弾く、オーイ玉が出ないぞとドンドン叩くと顔を出したパチンコ屋の主人が笠智衆で、軍隊時代の部下だったり、木暮実千代の女房が遊び友達の淡島千景たちと後楽園球場にナイターを見に行くと、ちょうど毎日オリオンズの攻撃中で「4番センター別当」というアナウンスと共に、あの別当薫が打席に入って素振りをくれる。そのワンショットだけでも、オオと声を発したくなる。この年から、後楽園の公式戦でナイターが試合日程の中に組まれるようになったのだから、このワンショットは実に雄弁に時代を証言しているのだ。観戦中、また場内アナウンスがあって、「〇〇さま、お宅からのお電話でございます、至急お帰り下さいませ」と放送する。そうだった。当時の野球場ではこんなサービスまでしていたのだったっけ。(私も実際に、「〇〇様、お宅が火事だそうです。至急お帰り下さい」というアナウンスを聞いたのを覚えている。この時は流石に、内外野のスタンド中が大笑いだった。)電話を掛ける。自宅用だからもちろん壁掛け式である。電話口の向こうの交換手に「ウナで願います」という。もちろん至急電報を打つのだ。佐分利がデスクで仕事をするとき計算尺を使っているのには、アッと思い出した。そうだった! この当時は算盤に代って計算尺がかなり使わていて、たしか、算盤日本一と同じように、計算尺日本一を競う大会などもあったのだった。家では卓袱台でめしを食う。箸箱から箸を取り出して喰い終われば湯呑でちゃちゃっと洗って箸箱にしまう。ラーメン屋に入ればラジオから『サンフランシスコのチャイナタウン』が流れている…と、切りがないからこのぐらいにしておこう。

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ところでこの当時、どころか30年代になってからでも、後楽園に限らず野球場の座席は仕切りのない木のベンチだった。新聞紙を畳んで尻に敷くのが自ら確保する一人分の座席で、小用に立ったりして戻ってくると席が亡くなっていてもおかしくない。もちろん、尻も腰も痛くなるから、7回の表裏の攻撃が始まる前、場内アナウンスが「読売ジャイアンツ(阪神タイガース)、ラッキーセブンでございます」と言うと、巨人なり阪神なりを応援している者は立ち上がって、アーアと伸びをする。風船を飛ばしたり、チアガールやマスコット人形が出てきて踊ったり、などと言うことはいうことは、一切、ありよう筈もなかった・・・

ということが、思い出話として話題となったのは、今月勘三郎追善で久しぶりに平成中村座の座席に座って、腰と尻の痛さに思わずも往年の野球場のスタンドの様子を思い出すこととなったからだった。中村座には申し訳のような背もたれがつけてあるが(あれは確か、初めはなかった筈だ)、長い板を渡しただけの野球場の座席にはもちろんそんなものはなかった。

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勘三郎追善は、十月十一月と歌舞伎座・平成中村座と続いてどちらも好感の持てる舞台だったが、歌舞伎座夜の部の『助六』で玉三郎が曽我満江になったのが秀逸だった。T&Tなどといって大童だった昔ながらに、仁左衛門の助六がさすがに齢はとったと思いはするものの優美な姿は変わらないところへ、揚巻を七之助にゆずり、勘九郎に白酒売をさせ、自身は満江にまわるという(おそらく玉三郎みずからの発案であろう)配役が絶妙で、そのために今度の『助六』は、喧嘩沙汰や股くぐりなどより、満江の出ている場面が眼目となった。おかげで、平素は裏になっている曽我の世界が立ち現れた、というのは表向きのほめ言葉、七之助には芸ゆずりの趣もあるし、白酒売りが「抜けば玉散る天秤棒」と本当に天秤棒を抜いて見せたのは、かつて14代目勘彌がしたのを若き日の父18代目が見て自分もやってみたいと念願、後年ようやく実現したという逸話を、亡き父に代わって勘九郎が玉三郎の前でやってみせたというミソがあったり、何かと興味津々のユニークな『助六』であった。

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11月の顔見世は、菊の清心に吉の白蓮、吉の五右衛門に菊の久吉という、昼夜にわたる菊吉共演が圧巻だった。先々月の『河内山』といい、それにつけても思うのは『天衣紛上野初花』でも『十六夜清心』でも、菊吉健在の間に是非、今ひとたび、通しで見せてもらいたいということである。今生の見納め、悔いはないという気さえする。

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歌舞伎座の夜の部で猿之助が『法界坊』を出したのは出るべくして出た、というところだろうが、まずはオーソドックスにと言いながら、聞くところによると、伝承の間に積もり積もったギャグの類を出来るだけ切るようにとの方針であった由。そうなるとどうしても、ハードボイルド風のタッチになるのはいいが、これを更に進めるとこの狂言の地金にある陰惨な要素が露呈してくることになり、勘三郎二代のような愛嬌が体にあるわけではない猿之助としては己れを知る業とも言えようが、一方そうなると、既に勘三郎が串田歌舞伎でやった線に重なることになりはしまいか?

まあ、今からそれを心配するのは取越し苦労として、切り捨てたギャグの中でひとつ、白髭鳥居前の場で、桜餅の折を「しめたぞしめた、〆このうさうさ」とぐるぐる巻きにする、あの卓抜なギャグまで捨ててしまったのは残念である。その前におくみを乗せた駕籠をぐるぐる巻きにする、駕籠と桜餅の折が相似形であるという視覚の連想がもたらす可笑しみは、キャンディーの箱の少女が手にした箱に自分が描かれているという不思議と同じく、なかなか「哲学的」であって捨てがたい妙趣がある。

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その『法界坊』の大詰の「双面」で、前の「大七」のおくみが案外で、ちょっぴり失望させた尾上右近が、この場に至って俄然、大化けする。こういう「変身」の秘儀こそ、この種の芝居の根源にある魅惑であって、たとえ「名優」だからといって皆が必ずしも出来るわけではない。逆に猿之助は、ここでの隈取が妙にのっぺりと綺麗に描いてあったのは頷けない。

それにしても、今度の若手花形が中心の一座では序幕「向島大七」の鯉魚の一軸をめぐるドタバタのおかしみが、まるで芝居にならないのに、大袈裟のようだが少々ショックを受けた。ドリフターズみたいで面白かった、という声もあった由だが(往年の「エノケンの法界坊」を知る人はいまどき後期高齢者だけだろうが、ドリフターズを知っている人だってもはや相当のご年配であろう)、後半、歌六の甚三が登場してようやく芝居になったというのは、一見華やいでいるようで、実はそろそろお寒くなってきている「歌舞伎のいま」を垣間見たようでもある。

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国立劇場の『大岡越前』が意気上がらぬ中で、ただ一人、楽善の水戸老公が見事だった。亀三郎時代から見てきたこの人の越し方を思うと、いわば隠居名の楽善を名乗るようになってからの風格と舞台の冴えには、我がことのように胸に迫るものを覚える。こういう役者人生もあるのだ。こういう、「名優」としての在り方もあるのだ、と改めて思う。

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今度の『名高大岡越前裁』と銘打った天一坊劇がとかく起伏に乏しいのは、この狂言が実は、芯の役は大岡であっても働くのは天一坊であるというところにあるのだが(その意味では、ひところ「天一坊と越前守」などといった映画の題名みたいな外題がはやったのにも理由があったのだ)、戦前、この芝居を当たり役にしていた十五世羽左衛門は天一坊と池田大助の二役を兼ねるのを常としていたというが、なるほど、それでこそ面白い実録大衆劇になるのだ。

池田大助というのは、今度は彦三郎がやった役だが、「無常門」「紀州調べ」「切腹」という一番儲かる場面で活躍する(今度はその「紀州調べ」を出さないので、出る幕出る幕、奉行所だ役宅だという固い場面ばかりで気が変わらないのが今回最大の誤算である)越前守側近の若侍中でもひと際の儲け役であり、戦前戦後のひと頃まで、歌舞伎を見ない子供たちにまで知られた名前だった。今も時々出る綺堂の『権三と助十』にも登場し(あれも実は大岡政談劇である)、最後の方に越前守の使いで褒美を渡しにやって来て、二人に向かって「やるじゃあねえか」と砕けて言ってワッと沸かせる場面があるが、野村胡堂に『池田大助捕物帖』という、『銭形平次捕物控』と並ぶシリーズ小説があり、かなり読まれたものだった。ラジオの連続放送劇になったりもしたが、昭和40年に初代として襲名、売出し中だった辰之助が、NHKの連続テレビドラマで『池田大助捕物帖』を主演したのが今となってしきりに懐かしい。後に病気をしてげっそり痩せてしまったが、このころはいかにも松緑の息子らしい恰幅の良さで前途洋々を思わせる好青年だった。

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かなりガタピシした九州場所だったが貴景勝の優勝はよかった。高安は、よく言えば豪快だが、腰高で力任せの取り口で墓穴を掘るところ、小型稀勢の里ぶりを長短共に見せて、兄貴分の稀勢の里の穴を八分目埋めたところで最後に自滅した。あのままでは横綱にはなれまいし、なったところで兄貴分と同様、取りこぼしが多いだろう。稀勢の里は、期待と抜群の人気といい、取り口は違うが腰高で力任せの相撲っぷりといい、待たせに待たせてようやく横綱になった挙句、怪我続きで短命に終わった往年の吉葉山を連想してしまう。

貴景勝はいまのところ、生真面目なところなど、師の貴乃花のいいとところだけ似たようで、このまままっすぐ、余計な屈折をしないで伸びれば大成するかもしれない。そのためにもくれぐれも、「不借身命なんどという、かつての軍人が好んで使ったような難語をひねくりまわす趣味に耽る真似までは師に学ばないでもらいたい。短躯肥満の横綱というと照国だが、今のところは取り口が違う。取り口に幅が出来て、前捌きと差し身のよさが身につくようになればだが、それはいま急に考えなくていいだろう。それにしても、昨年来のああいう事態、こういう事情を考え合わせると、今場所の貴景勝の優勝というのは、協会側・貴乃花側双方を睨み合わせた相撲の神様の絶妙の捌きというべきか。

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貴景勝優勝一点張りの相撲報道のおかげで鵜の毛ほども報道されないが、千秋楽結び前の一番の栃ノ心=松鳳山戦は奇妙なものだった。私に言わせればあれは栃ノ心一勝、松鳳山一勝の、言うなら預かり相撲である。一度目は審判長、二度目は行司が、立ち合い不十分で止めてやり直したわけだが、一度目などは両者審判の声に気づかず勝負がついてしまってからの取り直しという見苦しい措置だった。(その上での相撲が、松鳳山が口を切って顔面血まみれ、返り血で栃ノ心も胸が血だらけ、おまけに物言いのつくもつれた勝負だったというのも因縁めいている。)
 この一番に限らず、呼吸が合っていると思われるのに行司が止めて立ち合いをやり直させるということが、最近やたらに多い。審判部の方針に沿ってのことだろうが、見ていて白けることも少なくない。あまりに神経質と思われる行司も何人かいる。(つまり、行司によって差異があるという不公平も生じている。)

それと密接に関連していると思われるのは、仕切りに入る前にぐずぐず時間をかける力士が近頃頓に多くなっている。腰を割って蹲踞に入る前に、自分の都合で隙取るのだが、どうも見苦しい。栃煌山辺りから目立ち始めて、一番重症なのが石浦、遠藤にもその気味があるがもちろん彼等だけのことではない。審判や行司は、むしろそこから注意を促すべきで、その方が根本ではないか。

随談第612回 神無月の夕顔

今月もまた月をまたいでしまった。余儀なく簡略版と行こう。

窓に這わせている夕顔がこのところになってよく咲く。大輪だと開けば直径10センチは優に超える、薔薇や何かのようなギラギラしたところが少しもなく、これほど清楚な花もないだろう。本来なら、夏もそろそろ終わり涼風が立つ頃に咲くのだが、今年の秋は夏のごとき熱気が続いたので少しも咲かず、今年はダメかと思っていたら、今になって、例年以上によく咲く。夕方に花開いて、翌朝にはしぼんでしまうという、あとくされのないところがいい。日付が変わるぐらいの時刻が一番の盛りで、もうひと仕事という前に夕顔を見るために外に出るのがこのところの日課となっている。

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という前口上を書いたのが10月末。それだに随分遅いのだが、そのまま、書き足す暇の出来ないままに早や11月も一週間。というわけで思い切って今回はこれまで、次回、今回書くつもりでいたことも併せ、載せることにします。ご了解ねがわしう。

随談第611回

あれよという間に9月が終わってしまう。慌てて随談その611回。

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九月の歌舞伎座は、秀山祭という看板の元に、じつは三つの興行が鼎立するかのようだった。ひとつはもちろん秀山祭。昼の部の『河内山』に夜の部の『俊寛』と、この部分については揺るぎがない。もうひとつは昼の部第一の『金閣寺』。これは福助舞台復帰の慶寿院が衆目を集める眼目で、児太郎が歌舞伎座で雪姫をするという瞠目すべき配役に、梅玉が藤吉をつとめ、上手屋台の雪姫に付き添う腰元を歌女之丞と梅花がつとめるという、成駒屋一門配慮を尽くしての格別の一幕である。これはしかし、秀山祭という大きな翼の下に翼賛されているかに見えるから違和感はない。

第三は夜の部の過半の時間を使っての新作歌舞伎舞踊『幽玄』で、あれこれロビー雀たちの話題を集めたのは、内容・出来不出来の可否については措くとしても、ここがどうも別世界のようになるということだった。『俊寛』までと、それ以後と。ここに紹介するのは、歌舞伎は興味があるから切符を貰ったりすれば喜んで見に行くがそれ以上ではない、という程度には歌舞伎を見ているというさる知人が、夜の部を見てきてメールを寄越しての感想だが、私は『幽玄』も舞台が奇麗なので興味を持って見ましたけれど、前や後ろ、隣の席の人たちは、途中で次々に席を立ってしまいました、という。どうでした?とこちらから訊ねたわけでもないのに、わざわざこういうことを知らせてきたのが面白い。つまりこの人は、太鼓芸能集団鼓童出演、玉三郎演出による新作舞踊『幽玄』をそれなりに興味を持って見たが、なんだか普通の歌舞伎とは違うなあ、と感じた一方、周囲の客が席を立つのを、歌舞伎通の人にはきっと面白くないのだろうなあ、と察知したのであるらしい。この人とて、歌舞伎に全く無知なのではない。

「歌舞伎は興味があるから切符を貰ったりすれば喜んで見に行くがそれ以上ではないという程度には歌舞伎を見ている」と、言葉でいえばややこしいようだが、実はこういう人たちが歌舞伎座の座席のかなりの部分を占めていると想像される。常連客の予備軍とも、外縁部分とも言えるこういう層の人たちの言うことが、案外、歌舞伎需要(受容)の実態を語っているのかもしれない。おそらくこの新作歌舞伎舞踊『幽玄』一幕は、たとえば12月の三部制公演などの折に、これ一本で第三部あたりの演目として出したなら、落ち着くべきところにすんなりと坐り場所を見つけられたのではあるまいか。

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『河内山』を見ながらつくづく思ったことが二つある。ひとつは、元気なうちにもう一度、吉右衛門に通し上演『天衣紛上野初花』を是非やってもらいたいということ。いつもの「質見世」「松江邸」と直侍の「蕎麦屋」「大口寮」に加えて「大口楼廻し部屋」「三千歳部屋」「田圃」と出し、大詰の「妾宅」まで出すのは、吉右衛門は昭和60年12月以来やっていない。これを菊吉でやってくれたなら、私にとっては、今生の見納めのようなものだ。

もうひとつは、吉右衛門一座と呼びたくなるほどに揃った脇の充実ぶりだ。魁春の後家おまき、歌六の和泉屋清兵衛は元より、吉三郎の番頭、京妙の女中と揃う「質見世」は、むかしの誰それ云々と言い出すなら知らぬこと、現代の歌舞伎でもうこれ以上のものは望めまいというレベルに達している。「松江邸」でも、幸四郎の出雲守、歌昇・米吉の数馬・浪路というのはそれぞれそれらしくてなかなかの好配役だし(数馬・浪路というのは、実際には当人たちの言う通りナンデモナイのだが大膳に不義密通と言われて観客にもそう見えるぐらいでないとダメなのだ)、種之助・隼人に又之助・梅蔵・左升・吉兵衛という近習、京蔵・芝のぶ・春花・梅乃・蔦之助・春之助という腰元と揃ったところは水も漏らさぬ布陣というべきであろう。

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それにしても幸四郎は、今月大方の出演者が一役、二役のなか、『鬼揃い紅葉狩』に『操り三番叟』と自分の出し物二つに、松江候に狩野之介と、ひとり四役を受け持つ張り切りボーイぶりと付き合いの良さが好感度をますます高めている。こういう幸四郎の在り方というのはなかなか興味深いものがある。

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今まで気がつかなかったら、おそらくこの月からのことであろうと思うが、歌舞伎座の正面ロビーの、上手寄りと下手寄りの左右対称に当たる見当の壁面に、小さな額が掛かっていて、見ると英文のメッセージが、邦文タイプで打った、昔なつかしいような独特の字体の和訳付きで、それぞれ一通ずつ、飾ってある。近づいてみると、メッセージにはそれぞれ自筆に相違ない署名があって、上手寄りのがダグラス・マッカーサー、下手寄りのが(ナントカ)・リッジウェイとある。マッカーサーの方の日付が1951年1月2日、リッジウェイの方は同年の4月何日だったか、とにかくまだ一桁の日付である。アッ、そうか、と思い出した。つまりこの月、昭和26年1月と言えば前の第4期歌舞伎座開場の月であり、くだんのメッセージはGHQの総大将のマ元帥(と、その当時よくそういう言い方をしたものだ)からの祝辞であるわけだが、ところがその三か月後、この時点ではまだ夢にも思わなかったトルーマン大統領による電撃的なマッカーサー解任ということがあり、朝鮮戦争真っ只中の戦場から戦闘服姿で後任のリッジウェイが着任、ということがあったのだった。(その新聞一面を飾った写真がありありと瞼に甦ってきた。)それでさっそく、着任早々のリ将軍からも頂戴に及んだのが、下手寄りの方の額装のメッセージというわけなのであろう。いままで松竹本社のどこかに眠っていたのが(もしかしたら「発見」されて?)、このたび額装されて正面ロビーに飾られたものと思われる。

ところで、文字通りの立ち読みながら読んでみると、リッジウェイの方はまあ型通りの挨拶だが、マッカーサーの文章に、ム?と目を凝らした一節があった。メモをするまではしなかったからうろ覚えだが、なんでも、かつての歌舞伎には好もしからぬ思想に基づく内容のものもあったが、そういうものは旧歌舞伎座の瓦礫と共に葬り去られ、新しい歌舞伎座にはそうした要素は一切なくなった云々、といったような趣旨であったと思う。(正確に知りたい方は、ご自身で歌舞伎座一階ロビーへ行ってご覧になってください。)ウームと思った。それにしても、秀山祭の今月、67年ぶりに陽の目を見たこの文書、歳月によるシミひとつにさえ、実物ならではの迫力を感じたのは私だけだろうか。

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文楽の九月公演を前に鶴澤寛治が亡くなった。若いころというか、私などが知ったのはもう中年だったが、さほど似ているとは思わなかった先代に、老来瓜二つのように、風貌だけでなく、芸の上でもそっくりになってきて、親子というものの不思議さを思わせた。私は先代が、芸・風格ともに、三業を通じ、あまた見た文楽の名人たちの中でも一番好きだったが、当代が、外見だけでなく先代を偲ばせてくれるのが、近年の文楽見物の楽しみだった。

咲太夫が『本蔵下屋敷』を語って、うまいものだと思わせたのと、吉田蓑助が『夏祭浪花鑑』の「三婦内」のお辰を遣って、とかく前に出過ぎると非難されながら、色っぽいこと水も垂れるようだった若い頃を思い出せる元気さだったのが、私にとって今回公演の二つの楽しみだった。

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芝翫が『オセロ』をやろうと思った動機は知らないが、むかし松緑が途中で倒れて急遽、先代の権十郎が代ったときのことを思い浮かべながら見た。権十郎の生涯に59役という代役の中でも、珍なるものの代表であったろう。いや、こういう言い方は誤解があるといけない。私に言わせれば、この時のオセロ、珍どころか、権十郎の方がよかったと思う。権十郎は「時代」でやったのに、松緑は、歌舞伎っぽくなるのを避けようとてか、「世話」とまではいわないが、ナチュラルにやろうとして水っぽくなったからだ。この辺に、歌舞伎俳優にシェイクスピア(のごときもの)をさせようと企画・依頼する側と、(少なくとも松緑の時代の)歌舞伎俳優が「新しいもの」をしようとする際の思い込みのすれ違いがある。少なくとも、かつてはあった。権十郎はそんなことには構わず、突然代役を引き受けて膨大なセリフを詰め込んで自分に出来るやり方でやったのだろう。そうしてそれが、歌舞伎役者ならではできないオセロを、見事やってのけることにつながったのだ。芝翫のオセロは、黒く塗った顔に目と歯の白さが浮き立って見え、健康的でいい男であるのがよかったと思う。

演出家がいろいろ理屈をこね回して台本を裏読みの上に裏読みして(眼光、紙背に徹する如き達人が、当節の演出家にはうじゃうじゃいるらしい)、原作者もびっくりという演出に出くわすのは、むしろそうでないのにぶつかることの方が稀な近頃だが、今度の『オセロ』でも、幕切れ、これで一件落着となったところへ突如、何者とも知れぬ暴漢の群れが来襲、舞台の上は死人の山となって幕となるという、シェイクスピアもびっくりという演出だった。多分いろいろ小難しい(ゲンダイテキな)リクツがあるのだろうが、やれやれとため息をつくより、こちらはすべがない。そういえばイヤーゴーがもてあそぶ絵地図も地球儀も、亜米利加も亜細亜も阿弗利加もちゃんと描かれている現代の世界地図だったっけ。(それにしても、イヤーゴーが年々歳々、ガキっぽくなってくるのは、現代演劇の在り様を考える上で、結構イミのあることかもしれない。かつて先代白鸚がした、いまとなっては伝説的『オセロ』のときのイヤーゴーは森雅之だったのだ。これこそまさに今昔の感というものだろう。)

閑話休題、現代的演出に話を戻すと、もうだいぶ前になるが、スウェーデンの映画監督のベルイマンが演出したスウェーデン語による『ハムレット』を見たことがある。これは徹底した現代劇としての『ハムレット』で、幕切れに登場するノルウェイ王子フォーティンブラスはかのベトナム戦争で覇を鳴らしたグリーンベレーで、(『ハムレット』だから当然とはいえ)舞台上の人物は全員掃討されてしまうという結末だったが、これは実に面白かった。少しも違和感を覚えなかった。この違いはどこからくるのだろう?

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樹木希林が亡くなって各紙・各局大わらわで、元より私の出る幕などないが、悠木千帆という芸名で文学座の研究生上がりだった頃を見覚えているというのは、小指の先程度の自慢の種になるかもしれない。芥川比呂志以下の、座の創立者岸田國士の愛娘岸田今日子を含む中堅どころがごっそり抜けて劇団「雲」というのを始めた時、口さがない演劇ジャーナリズムから、あれでは文学座ならぬ杉村春子一座だと揶揄されるほど手薄になり、杉村女史が悔し涙を流して地団駄を踏んだりという状況だったさなか、男でござるとばかり義侠心を発揮した森雅之が参加して、紀伊国屋ホールだったかで『三人姉妹』をやったことがある。(もっともそのころは、まだ荒木道子もいたし北城真紀子もいたし、文字通り杉村一座になったのは、次に中村伸郎や賀原夏子らのベテラン勢が抜けてからだが。)ところでその『三人姉妹』のときの上演パンフに、おでこに前髪を垂らしてにっこり微笑む新人悠木千帆の顔写真が、幹部俳優よりひとまわり小さく載っている。中堅級がごっそり抜けて、その下のクラスが大量に抜擢されていい役を与えられた驥尾に付して、悠木千帆も順送りに繰り上げられた一人だったわけだろうが、それでもまだ、舞台よりもパンフの顔写真で覚えている程度の端役だった。とはいえ、他の同程度の連中のことはまったく記憶にないのに彼女だけが印象に残っているというのは、やはり栴檀ハ双葉ニシテただ者ではなかったことを証明するものだろうか。昨年だったかどこかの新聞に、文学座の研究生になったといっても、それまでいわゆる新劇というものはろくに見たこともなく、映画も錦之助・千代之介のナントカ童子みたいなものしか見ていなかったと書いているのをたまたま読んで、フームと思った。さもありなん、やがてユニークな仕事をする人間というのは、そういうものなのだ。

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貴乃花がまたやりましたね。ワイドショーなどの論調を見ても、もう大方の論客にもそろそろ見えてきつつあるようだが、相撲協会がもっと、貴乃花擁護の識者たちが主張するようにやっていたとしても、結局は、協調して行くことは難しかったに違いない。今度の件で私が見たテレビの中では、「サンデイジャポン」が一番いいところを突いていたようだ。もうひとつ、「トクダネ」におにいちゃんの元若乃花が出て、弟は入門した時からずーっと今までやって来て、今度初めて引退するつもりなんだろうと笑っていたのが、引退か辞職かでテレビ識者があれこれ聞いた風なことを論じ合っていた中で、一番急所を突く見方であったかも知れない。

第二相撲協会を画策しているといった噂もあるらしいが、冗談ではなく、もし貴乃花が本当に自分の信じる相撲を実現しようと思うのならそれしかないだろうと私は思う。それで連想するのは、昭和7年、当時関脇の天龍が中心になって同志を率いて相撲協会を脱退、自前で組織を作って独自の興行をした春秋園事件と呼ばれる一件である。髷を切った散切り頭で、星取りの仕方も合理的(と自分たちが考えた)な方法で行い、心意気に応じて応援してくれるファンもあったが、数年で刀折れ矢尽きて解散した。要するに近代的で合理的な運営を実施したのだったが、歌舞伎界で門閥外の俳優たちが前進座を作ったのとほぼ同時期、共通する一面もあるような気がする。尤も貴乃花は、相撲は神事であり国体であるとするのが信条のようだから、方向としてはむしろ正反対だが。

前進座は今も存続しているが天竜一派は結局、一敗地にまみれて解散した。同志の中には、天龍の先輩で、名大関と謳われていた大ノ里という名力士もいて、この人が遠征先の満州で客死したとき『大関大ノ里』という新派の脚本が作られ明治座で上演されている。大ノ里を演じたのは名優井上正夫、妻の役が初代水谷八重子、天龍は柳永二郎という堂々たる配役である。

この天龍氏は、戦後もう一度活躍している、昭和30年頃、それまでNHKだけだった大相撲放送に、新興の民放の先駆けとしてラジオ東京、つまりTBSが乗り出し、当時まだ相撲ファンの記憶に赫々としていた天龍を解説者として担いだのだった。小坂秀治という秀抜なアナウンサーと共に、神風・玉の海・大山親方の解説に志村・河原・野瀬アナといったNHKとはまた別な面白さがあった。ラジオ時代に始まり、テレビになってからもかなり長く続いたと思う。

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折からの台風襲来の報道で埋め尽くされた合間に、日馬富士の断髪式のニュースが流れた。これから世界各地を廻っていろいろ勉強するつもり、というようなことを明るい顔で語っていた。それにしても、貴乃花と日馬富士が時を一にして協会を去るというのは、巡り合わせの皮肉を思わないわけにはいかない。

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栃ノ心が大関の座を維持できたのが、私にとっての今場所の欣事の第一、安美錦の後を追うかのようにアキレス腱を断絶して、こちらは幕下までおちてしまった豊ノ島が、ようやく十両復帰を確実にしたのが欣事の第二。安美錦が序盤の快調を維持できず、来場所の再入幕をフイにしてしまったのは・・・。

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西武ライオンズの源田が捕殺最多記録を作ったという小さな記事の中に、記憶の底に沈んでいた往年の名選手の名前が出てきた。つまり源田が今シーズン達成した捕殺510個という新記録は、1948年、中日の杉浦清の502捕殺という記録を更新したという記事なのだが、それを読んだ途端、当時実際にこの目で見た、ショートを守りながら中日の監督を兼任していた杉浦の姿が瞼の底から甦ったというわけだ。杉浦清といっても、長嶋茂雄と立教黄金時代を作り、1959年の日本シリーズで巨人に4連勝した南海のエース杉浦忠の名さえ耳にすることがなくなってきた近年、よほどのマニアでなければ知る人もないだろう。しかし人の名前ひとつで、幼時に見た「動く姿」がまるで映像のように蘇ってくるのだから、記憶というものは不思議なものだ。

古い名前といえば、今シーズン、ヤクルトの中尾輝という若手のピッチャーが活躍したが、この名前も子供の頃に見た巨人の中尾輝三を連想させてくれて、ひそかに楽しんでいる。中尾という投手は、200勝投手であり無安打試合を二度もするとか、凄い記録をいろいろ作っているのだが、その割には、戦前ではスタルヒン、戦後は藤本英雄とか別所とか、人気の点でも上越すエースが同時期に常に同じチームにいたせいもあって、印象がくすんでしまう損な立場にあった人だった。それにしても、東京ドームより後楽園球場の方が懐かしい、などとうそぶく絶滅危惧人種がやがて現実に絶滅する日が来たら、こうした選手や力士たちの英姿というものは、瞼の底からも死に絶えてしまうことになるのだろうか。

随談第610回 お熱うございます(遅ればせの挨拶)

締め切りの優先順位がめまぐるしく変動するという事態のために8月の随談を9月になってようやく書き始めるという始末である。今月の初日が開いてしまった今更、先月の話をするのも難儀だから簡略に済ませることにしよう。

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歌舞伎座の三部制の内、第一部と第二部の「弥次喜多」までが幕見席まで完売、第二部第二の「雨乞其角」と第三部の『盟三五大切』がガラガラ、という話を聞いたが、どういうことなんだろう、とも思うし、そりゃそうだろう、とも思う。ふーむ、そうですか、と取り敢えずは相槌を打つより知恵が浮かばない。ホントウニ、ドウナッテルノダロウ?

『花魁草』は既に菊五郎にはなっていたがまだ若かった頃、梅幸がまだ健在で父子共演した初演を思い出しながら見た。当時は、流石の北条秀司も晩年で、北条さんとしてはまあまあの作かなという感じで見たものだが、いま改めて見ると、ちゃんと抑えるべきツボは押さえてあるのだなあと、むかしの作者の確かな腕というものを再認識する。上演時間90分の中に人生の機微が過不足なく盛ってあって、11時に始まり、終わると12時半、ちょうどお食事時間という頃合いになっている。今度は菊五郎の役を獅童、梅幸の役を扇雀がやっているが、なかなか悪くない。ある意味では、こういう二人の方が向いているともいえる。一、二塁感を転々と転がるゴロで抜いたシングルヒットというところ。(二塁手が広島の菊池だったら捕られていたか・・・?)

『龍虎』を見ながら、先月の『源氏物語』の明石の龍神の宙乗りの場面を連想した。次に、八代目三津五郎の随筆に、初演のときまだ健在だった七代目に見せたら、なんだか気違いみたいなものだね、と言われたとあったのを思い出した。七代目の感想の言はいまなら「配慮すべき言葉」というパージに引っ掛かることになるわけだ。私が初めて見たのは八代目としては最後の、のちの九代目の、当時蓑助と踊ったときだが、八代目の時はいつも文楽座出演だったのだから相当の意気込みと権威があったのだろう。

『心中月夜星野屋』の原典の落語の「星野屋」はむかし桂文楽のを聴いたのを思い出す。この名人はなぜか手拭いでなくハンカチを使うのだが、端を糸切り歯で噛んでキーっとしごいて「悔やしい―っ」と泣いた姿が目に残っている。今回は中車、七之助に獅童の女方という配役が効を奏した。中車もこういう芝居を違和感なくやれるようになったのだから、歌舞伎役者として身についてきたのだろう。婆ア役とはいえ獅童の女方も悪くない。『三五大切』の三五郎も悪くないから、つまり今月の獅童は三安打、猛打賞である。

第二部は『弥次喜多』『雨乞其角』併せて、新橋演舞場の『NARUTO』組を除いて次世代若手花形総動員で(中には随分久しぶりの顔も見える)、幸四郎・猿之助の座頭としての目配りの良さがすべてと言って過言ではない。猿之助に至っては『NARUTO』への応援出演との掛け持ちだが、なにはともあれその目配りは大したものだ。『弥次喜多』では門之助のキリストが珍芸賞、これも歌舞伎役者の芸の内である。

『三五大切』を見ながら思ったのは、この芝居は偉い役者の大顔合わせなどより、むしろこういう顔ぶれでやるのが一番ふさわしいのだということである。幸四郎の源五兵衛は仁も柄も違うが念願叶って気を入れてやっている良さ、七之助の小万は玉三郎とも共通しつつそれとはまた一風違う独自の風を見せ(つまり、単なるエピゴーネンではないという)最適任、獅童の三五兵衛も、仁左衛門よりむしろ、あのザラザラ感に於いて最適任だろう。狂言の規模・内容と主役三人の芸の身の丈が、今までのどの顔合わせよりもハマっている。つまり今日的なのだが、にも関わらず、第三部がガラガラだったというのは、当節のカブキ・ゴーアーには「大作者南北作の古典」という堅苦しいイメージで敬遠されたということなのだろうか?

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夏の自主公演・勉強会研究会から収穫いろいろ。

まず歌昇・種之助兄弟の「双蝶会」から。歌昇の関兵衛・黒主、種之助の宗貞、客演の児太郎の小町姫に薄墨という『関の扉』がアッと言わせた。とりわけ黒主には驚いた。もう吉右衛門も幸四郎も体力的にやらないとすれば、これだけの黒主を他に誰が見せてくれるだろう?(と言うほどのものである。)

「音の会」で『寿式三番叟』を素踊りで踊るというのも初めて見る珍しさだったが、新十郎の三番叟がよく踊った。(本当は項を改めて書くべきことだが、先月末、国立能楽堂で野村万作師が『釣狐』を面・装束を付けず紋付袴姿で演じる「袴狂言」として演じるという舞台に出会うことが出来た。87歳の名人の超絶的な芸と並べるわけではないが、稀有な体験ではあった。)

尾上右近の「研の会」で、右近が壱太郎の梅川で『封印切』の忠兵衛をしたのが、なかなか面白かった。詳しくは『演劇界』に書いたが、藤十郎を捨て台詞の末まで「模写」するというのは只事ではない。

鷹之資の「翔の会」で妹の愛子と『吉野山』を素踊りで踊ったが、踊りもさることながら、まさに父ゆずりの素晴らしい声に感じ入った。18歳、今春大学に入学したという。行く末を祈らずにはいられない。

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7月の日経の「私の履歴書」は吉右衛門だったが、何回目だったか、高校生になる前から銀座のクラブ通いをしたという思い出話の中に、指南役は松竹スター森美樹だったというのを読んで、アッと思うと同時に記憶が甦った。いま森美樹と聞いて、オオとすぐわかる人はそうはいないだろうが、昭和30年代初頭の数年、売り出してかなり重用されたスターである。長身で、日本人離れした風貌だったが、むしろ時代劇で重用された。当時は、東映・大映だけでなく松竹も時代劇を盛んに作っていたから、春の連休をゴールデンウィークと名付けて大船の撮影所で現代劇の大作を、秋の文化の日を中心にした頃をシルバーウィークと名付けて京都の撮影所で時代劇の大作を、というのが方針で(シルバーウィークは定着しなかったが、ゴールデンウィークの方はすっかり定着した代り、元は松竹映画の宣伝から始まった用語だったことは忘れられてしまった)、八代目幸四郎、即ち初代白鸚を引っ張り出すのが恒例だった。で、昭和31年秋のシルバーウィークの大作は『京洛五人男』というのを、幸四郎が近藤勇、高田浩吉が月形半平太、田村高広が坂本龍馬(父親のバンツマが死んで、サラリーマンをしていたのを無理やりバンツマ二世として売り出そうと映画俳優に転向させ、現代劇ならともかく時代劇は、と尻込みするのをやらせたのだった。この時が初の時代劇であったかも)等々、という中で森美樹もかなりいい役で出ていたが、たぶんこの『京洛五人男』あたりが縁の端ではなかったろうかと推測できる。そういえば当時、映画雑誌の記事で(そのころ私は、それまで読んでいた『平凡』をやめて、ワンランク上げたつもりで『近代映画』というのを購読していた)、森美樹が「毎日一度は銀座を歩かないと気がすまない」と言っているのを読んだ覚えがある。まさにドンピシャリではないか。おそらく森美樹氏は幸四郎に気に入られ、当時中学生の萬之助少年のよき「おにいさん」であったのだろう。(たしかそれから程なく、不慮のことがあって早世したのだったと覚えている。)

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津川雅彦氏の訃報と共に随分多くの声が聞こえてきたが、それはそれとして、ごく若い時から見ていた者として、ある種の感慨が私にもある。名子役として鳴らしていた兄の陰になっていた少年期を持つ、次男坊の屈折が柔構造の面白いキャラクターを醸成したという、これも良き事例だろう。つい先ごろ、『お転婆三人娘・踊る太陽』に『ジャズ娘誕生』などという昭和32年制作の日活映画を絶えて久しく再見する機会があったが、実に懐かしかった。どちらも、売り出したばかりの裕次郎が、『ジャズ娘誕生』では江利チエミの、『お転婆三人娘・踊る太陽』ではペギー葉山、芦川いづみ、浅丘ルリ子の三人姉妹の引き立て役をつとめつつ、自身も売り出そうというもので、何ともチャチなものなのだが、そこが時代を雄弁に物語っていて、実にいい。監督が『ジャズ娘誕生』は春原政久、『お転婆三人娘・踊る太陽』が井上梅次で、その井上梅次が、もうその年の内に『鷲と鷹』とか『嵐を呼ぶ男』といったアクションものの裕次郎映画を作り始める、その前夜の作なのだが、さてその『お転婆三人娘・踊る太陽』の方に、これも売り出したばかりの、まだ15,6歳ぐらいの津川雅彦が出ていて、なんとも涙が出そうなほど情けなくも懐かしく、しばし感慨に耽った。引き立て役の裕次郎の、いうならそのまた引き立て役なのだが、大を成してからの津川については私などの出る幕ではないとして、こういう話はあまりする人もなさそうなので(『狂った果実』だと、多くの人が語り出すのだが)、ちょいとお目を汚す次第である。

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むかし「月面宙返り」という技で名を成していまは体操界のボスになっている人物が、アマ・スポーツ界汚染の新手の話題の標的となっている。もっとも、その話をするのが目的ではない。この人が選手として活躍したころは、もうあまりオリンピックなどを子供の頃のように熱心に見なくなっていたので、おのずと耳に入ってくる声名しか馴染みがないが、「月面宙返り」などと言う、少年活劇物のような名称が大真面目でつくようになったハシリとして記憶に残っている。もう少し前の、東京オリンピックでエースだった遠藤とか、もっと前から高名だった小野とかいった人たちの頃は、大変な名人上手ではあったが、鉄棒から飛び降りるときはごく真っ当に飛び下りていたから、子供だましのような格別な呼び名がついたりはしなかった。つまり、なんであんなわざとらしい「技のための技」をしなければならないのだろう?という、体操という競技に一種の違和感を覚えた初めが、かの「月面宙返り」だった。フィギュアスケートなどにも同じことが言えるが、おもしろうてやがて虚しさをおぼゆる「技」を競い合う競技の行き着くところなのだろう。

随談第609回 熱暑のさなかに

おあつうございます、と打って転換したら「お暑う」でなく「お熱う」と出た。生意気なパソコンである。ひと頃までは、日本歴代の最高気温といえば、昭和一桁時代に山形で記録した40度ナニガシというのであった筈だが、この数日、そんなものは問題にもならないような数字が日本中から連日出てくる。私の住む練馬区は、しばらく前から、新聞・テレビの気象予報で「東京都心」と別に扱われるようになった。東京23区から除外されたような気分だが、つまり、地図を見ればわかるように、練馬区は東京湾から西北方面へ(つまり、都の西北である)23区中最も遠い内陸にあり、地図上に物差しを当てれば延長線上に、数年前に岐阜県多治見市に奪われた気温日本一をこのほど奪回した埼玉県熊谷市がある。つまり、都区内随一の高温を誇るわが練馬区は、高温日本一の熊谷のミニチュア版というわけだ。

さてその埼玉県熊谷市はかの熊谷直実の領地である。(現在クマガヤと読むのは、明治何年だかにこの地に鉄道が敷かれたとき、地方士族の出である(つまり浅葱裏である)鉄道省の役人が、「谷」を「ガイ」と読む坂東言葉を知らずに「谷」だから「ヤ」だろう、すなわち「熊ケ谷」であろうと勝手に解釈して「クマガヤ」と駅名を決めてしまったのだ、と真偽は知らないが、これは、かつてはよく言われた説で、私も子供の頃からいつとはなしにそう思い込んでいる。ついでに言うと「秋葉原」という駅名も、本来は「アキバハラ」を江戸弁で「アキバッパラ」(「海老蔵さん」というのとほぼ同じイントネーションで発音する)と言っていたのを、これも鉄道省の役人が「アキハバラ」と勝手に決めてしまったのだという。この手のことは死んだ先代の桂文治が、高座で憤慨してまくしたてるのを芸にしていたのが懐かしい。)

さてその熊谷の猛暑はおそらく昔からであったろうから、直実も相模もさぞ暑かったろうが、そんな土地で育った倅の小次郎は、敦盛の身代わりになれるような色白の公達タイプでなどでなく、真っ黒に日焼けした農村型少年であったに違いない。黒澤明が『熊谷陣屋』を映画にしたなら、おそらくそういう扮装をさせたに違いない。一の谷は現在の神戸市だから、相模が倅の初陣を案じて埼玉の奥から阪神沿線まで駆けつけるのは、熊谷高校の野球部が甲子園に出場したとしてウチのボクちゃんたちの初陣の応援に、母親連中がバスを連ねて甲子園まで繰り出すのと等距離ということになる。

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今月の歌舞伎座のことは『演劇界』に書いたから、もうここに同じ苦労を繰り返したくないので、8月初頭に発売の9月号を見てください。むかし昭和30年前後、名調子の野球解説で鳴らした小西徳郎さんが独特の口調で「エー、何と申しましょうか」というのが大人気だったが、今度の夜の部『源氏物語』はまさに「何と申しましょうか」であって、つまり、何とも申しようがないのである。

しかし海老蔵の名誉のためもあるから言っておくと、昼の部の『出世太閤記』はちょっとした味なものであって、愛児歡玄と父子共演の「大徳寺」の場が仮になかったとしても、半日の芝居として立派に見るに値するだけのものである。以前、現・猿翁の三代目猿之助が一日がかりの芝居としてこしらえて、やや未整理の感があったままに捨て置かれていたのを、半日芝居としてむしろすっきりとさせたことによって、今後の上演がしやすくなったと言える。元はれっきとした南北の作であり黙阿弥の作であって、場面場面で双方をテレコにしたこういう台本の作り方は、アカデミズムが現場にしゃしゃり出てきて原作尊重ということを矢鱈に喧伝するようになるまでは、よくあることだったわけで、現にいまだって、『仮名手本忠臣蔵』と称して本来『裏表忠臣蔵』の一幕である「道行旅路の花聟」を四段目の次に出したり、「十一段目」と称して『十二刻忠臣蔵』だのなんだの明治出来の実録物の討入場面をまぜこぜに出して通用しているではないか。つまりこれなら、海老蔵の本音が歡玄と「大徳寺」を出すことにあったとしても、ご愛敬で通るわけだ。

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すっかり歌舞伎座の陰になったが、国立鑑賞教室の『日本振袖始』の時蔵の八岐大蛇の後ジテの隈を取った風姿が、三代目時蔵もかくやあらむという、一見の価値ある見ものだった。錦之助の素戔嗚も大立派で、この兄弟共演の古典美は当節の歌舞伎での逸品である。この大して面白いわけでもない狂言は、こうした古典美によって支えられるのでなければ、日本おとぎ話の絵解きに終わりかねない。

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新国立の宮田慶子芸術監督の任期最後の仕事としての蓬莱隆太作『消えていくなら朝』が、ちょいと面白かった。蓬莱隆太といえばこの前、赤坂歌舞伎と称した『赤目の転生』というのの作者である。近頃の流行と言っては悪いだろうが、内向に内向を重ねるタイプと見えたが、歌舞伎よりもやはり現代劇という自分のフィールドでの仕事は、はるかに手に入っている。自身がモデルのような劇作家として一応成功した人物が、二重にも三重にもわけアリのしがらみに雁字絡めになっている家族のことを題材に脚本を書こうというところから、平素問題を避け合ってやってきた父母兄妹とタガの外れた応酬がはじまるという、小劇場お得意の不条理劇だが、なかなかよく書けていて最後まで一気に引っ張って行かれた。小劇場演劇というのは、文学では既になくなってしまった「私小説」が演劇という形をとって甦ったもののように私には見えるのだが、これを見ながら思い出したのは、かつて伊藤整が言った、私小説とは逃亡奴隷の文学であるという警句だった。まさにこの作は、逃亡奴隷という蕩児が帰郷してパンドラの箱を開けるという、エンドレスの劇であり、それを休憩なしの二時間で終わらせたのは作者の良識であり、現役感覚のなせる業であろう。

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毎夏の新橋演舞場の楽しみはOSK公演と新喜劇の公演で、今年も来ました、ではないが、楽しませてくれた。茂林寺文福・館直志合作『人生双六』はかつての藤山寛美としても知られた極め付けだが、いま見てもやはり面白い。こういう芝居は出演者に大阪人の匂いがあることが肝心だが、今度は、材木会社の社長夫人の役で大津嶺子が出ている。昭和40年前後、毎日曜日に新喜劇の舞台中継がテレビで見られた頃、ほぼ欠かさず見ていたが、ちょうど当時、この人は大津十詩子という芸名で娘役のトップだった。新喜劇の女優としては、大柄で品のある、いわゆる大阪のねえちゃんとは一線を画した硬質な感じがユニークだった。こういう女優も、やはり必要なわけで、いまは退団して客演のような形で参加しているようだが、ある意味ではこの人の役の社長夫人の情とわけ知りぶりを品の良さで包んだ味が、この芝居の急所なのだと言える。まさしく、大人の芝居である。こういう味わいは、新国立劇場では味わえない。

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先日来のサッカーWBCをめぐる流れを、私のようにさほど入れ込むほどの、つまり薀蓄を傾けるほどのサッカー観劇歴も、したがって関心も熱意も持ち合わせていない者の目から、前監督の解任、新監督就任から第一戦、第二戦、第三戦、さらにその後の流れまでを見ていると、事態の変転と共に、人の目、人の心というものがどういう風に転変し、またそれを、ある力なり意図なりがどういう風に掴み、導き、あるところへ落とし込むかということが、そうしてそれを人々が受け入れるかということが、これほど鮮やかに、まるで図式を描くように見えた例もないだろう。肝となったのは例の対ポーランド戦の一件だが、一旦はかなり聞こえていた批判的な声もあっという間に呑み込まれ、健闘及ばず惜敗、しかし明日があるさ、というまるで誂えたような、日本人の情緒の琴線に触れる結末によって、絶妙な形で落着した。これほどうまいシナリオというものは、そう滅多に書けるものではない。サッカーがプロ化して四半世紀、これで完全に日本人の心情と日本の社会に根を張り、万古不易の「日本文化」と成り遂せたといえる。プロ野球が昭和10年に成立して四半世紀といえば昭和35年、1960年ということを考え合わせれば、フーム、といろいろ物思うことが思い当たる。因みにこの1960年の時点で、長嶋は既にプロ野球史上最大のスターになり遂せていたが、王はまだ一本足打法も確立しておらず、未成の状態に留まっていて、ONという語が生まれ、定着するにはもう二年乃至三年の時が必要だった。四半世紀というのは、つまりそういう時の経過、熟成に要する時間なのだろう。

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野球と言えば、大谷のことは未知数の部分が多すぎるから他日の論として、ダルビッシュだマー君だ、米球界に身を投じた面々は皆(ドイツモコイツモ)、怪我だのなんだのでパっとせず、ひとり、知名度から言えば平均以下の野球ファンなら知らなかったかも知れない平野が、それこそいぶし銀のような活躍をしている。そこでだが、一度はメジャーリーグという最高レベルの場で自分の腕を試してみたいという(もっとも至極の)意欲を持った選手は、1年(ではちょっと、というならせめて二、三年)限定で向こうへ行きこういう具合に(日米双方を)あっと言わせたらさっと引き上げてきて、後はまた日本の野球界で活躍するという例がもっと多くなるべきだ、というのが私の持論である。今年は巨人の上原とヤクルトの青木が元のチームに戻ってきて実のある活躍をしているのも、好もしい例といえる。平野はどうするか知らないが、今シーズンが終わったらさっさと帰ってきて、来シーズンは日本(の、なるべくなら元のチーム)で、何ごともなかったような顔でプレーをしたなら、これほど格好いいことはない。笈を負って外地へ行き外地で果てる山田長政みたいな生き方は、古めかしすぎる。

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栃ノ心場所になるかと思い、6日目まではそうなりつつあった名古屋場所は、予期せぬ展開となって、終わってみればマスコミは御嶽海一辺倒である。御嶽海は大卒力士の臭みがあまりないのがいいし相撲ぶりもいいから期待できるが、それにしてもこの一、二年で、気が付いてみると、幕の内の地図がかなり塗り替わってきたのがひしひしと感じられるようになっている。御嶽海はもう少し前から幕に入ってその先陣を切ってきたわけだが、安美錦や豊ノ島がアキレス腱断絶で休場したのがちょうど二年前だから(もう二年も経ってしまったのだ!)、当時はまださほどには感じられなかった新旧の顔ぶれがその間に入れ替わって、今浦島みたいなことにもなりかねない。十両で踏みとどまって、一旦、二旦は幕の内に戻った安美錦の苦闘の様子はテレビでも見られるが、幕下に落ちた切りの豊ノ島の様子は、普通ではなかなか見る機会がない。

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桂歌丸、加藤剛、浅利慶太、橋本忍と訃報が続いたが、それぞれ親しんだ時代がやはりそれぞれに懐かしい。浅利慶太は、この前日下武の時にも書いたように、やはり昭和30年代、四季を作り日生劇場を作った頃だし、橋本忍もやはり20~30年代の映画のそれだ。加藤剛もやはり若いころだが、晩年、NHKが司馬遼太郎の『坂の上の雲』を随分力瘤を入れて何回かに分けて放送した時、日露戦争開戦前夜のような場面で、伊藤博文をしたのが、加藤剛もこんな役者になったのかと感慨深く見たのが最後だった。あれは、なかなかのものだった。

歌丸は、笑点は笑点で結構だが(その前身のような「お笑いタッグマッチ」には出ていなかったっけ。あれで初めて知ったように覚えているのだが、いや、あれには出ていないよ、という声もある。してみると思い違い、なのかな?)、その精華とすべきはやはり今世紀に入ってからの10年余、毎夏国立演芸場で連続口演した『牡丹灯籠』であり『真景累ケ淵』だろう。私は『牡丹灯籠』のたしか3回目ぐらいから聞いたが、初めの時は、大劇場で若手の勉強会の歌舞伎を見た後、演芸場に回って聞いたのだったが、フリで楽々入ることが出来たほどだった。(それも、中入りを過ぎていたから半額で、だった。)その後次第に評判となって、前売り初日に買わないと聞かれなくなった。鳥なき里の蝙蝠の感もややなくもないにせよ、見事、名人として遇されることとなったのは目出度い限りで、間の取り方、噺の運び方、合間に入れるくすぐりまで、すべてに圓生をよく写し、やがて自分のものにした、その過程をほぼ聞くことが出来たのを満足すべきだろう。落語は結局、話し手の語り口だと私は思っているが、その語り口を確立したところにこの人の真骨頂があった。

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山田洋二監督の『たそがれ清兵衛』は公開の時見はぐったままだったのを、先日、BSのお茶の間シアターでやったのを初めて見た。その中で清兵衛の幼い子供たちと、宮沢りえが扮する昔の思い人が唄を歌いながら遊ぶほんの短い場面があって、その歌詞を聞いてアッと思った。聞こえてきたのは、「・・・その袂を盥で洗いましょ」「洗った袂を竿に掛けて干しましょ」云々という、ほんの断片だったが、この歌が私が幼いころ、母から聞かされたものと同じものだったからだ。言葉遣いは若干違うが、私が覚えている歌詞を全部書いてみると、「円山とってんから東を見ればね、見ればね」「門の外からお小夜さんが通よたかね、かよたかね」「お小夜差したるキギョウの櫛をね、櫛をね」「誰に貰ろたか金次郎さんに貰ろたかね、もろたかね」「金次郎おとこは伊達者で困るね、困るね」「そこでお小夜は涙がぽーろぽろ、ぽーろぽろ」「その涙を盥で洗おとね、洗おとね」「洗った袂を竿に掛けて干してね、干してね」「干した袂を七重にからげてね、からげてね」「からげた袂で大坂鉄砲、鉄砲、ズドーン」というもので、第一連の「丸山」は「円山」かも知れず、第9連の「七重に」は七重でなかったかもしれない。「キギョウの櫛」というのは何だろうと思いながらまだ調べていない。それぞれの歌詞に、たとえば「まるやま」では両手で丸く山を描くとか、「櫛」と言えば櫛で髪をくしけずるとか、その他「盥で洗う」「竿に掛ける」「からげる」等々、みなそれらしき手ぶりをするように振りが付いている。「大坂鉄砲、空鉄砲、ズドーン」というところでは、砲筒を抱えて撃つ真似をするのだ。

さて映画で見たのは、この第7連の「袂を盥で洗う」というところと、第8連の「竿に掛けて干す」というところで、言葉遣いは多少違っても節は同じ、アッと思った。母は明治の末の生まれだが、そのまた母親、つまり私の祖母は明治18年生まれの江州の産だから、どうやらそちらの方に伝わっていたものではないかと思っている。「円山/丸山」は京都の円山または長崎の丸山か? 「大坂鉄砲空鉄砲」というのは真田の張り抜き筒ではないかと想像するが、確かめようもないままでいた。そこでお願いは、この文章をお読みになった方で、何か心当たりがおありであったなら、些細なことなりとご教示いただけまいか、ということなのだが・・・。但し、私はツイッターその他、その手のことは一切していないので、ハガキか何かで頂戴できるとありがたいと思っています。

(管理者より)一番下にあるメールアドレスで当サイト宛にメール頂けたらと思います。

随談第608回 菊吉の目の玉

今月の歌舞伎座では、菊五郎が『野晒悟助』を出したのが秀逸である。凡庸なホームランより、技ありのシングルヒットの方がプロフェッショナルの仕事として評価されて然るべきと私は考えるが、これはまさにそういう代物である。菊五郎としては20年ぶりとのことだが、じつはこれは、僚友だった故・辰之助が健在でいたならば、菊五郎のところへお鉢が回ってくることもなかったであろう演目である。菊五郎としては、だから(菊之助にもだが、たぶん菊之助以上に)松緑に、よく見ておけよと、骨法伝授する心づもりで20年の埃を払って出したものと、これは私の勝手な推測(いや忖度か?)である。

もともとこれは、亡き先代権十郎の出し物だったという珍重すべき作であって、黙阿弥の作でありながら大歌舞伎ではかなり早くから上演が絶え、中芝居・小芝居で伝えられてきたという、マイナーでユニークな佳作なのだ。その中芝居・小芝居が隆盛を極めていた大正期、十五代目羽左衛門張りの役者ぶりで「浅草の羽左衛門」と呼ばれて人気者だった二代目河原崎権十郎が当たり役としていた。時流れて戦後、いまは大歌舞伎の人となって菊五郎劇団の脇役の重鎮となっていた権十郎は、折から渋谷の東急百貨店九階に開場した東横ホールで花形歌舞伎の公演が始まり菊五郎劇団としては中堅・若手をユニット出演させる方針を打ち立て、倅の権三郎がその座頭格として出演するようになったのを機に、かつて自身が浅草の公園劇場の座頭であった当時の当たり役『野晒悟助』を伝授、蘇らせたのだった。かくして、かつて「浅草の羽左衛門」たりし父から、「渋谷の海老様」たる倅へと遷された、という来歴を持つこの狂言は、れっきとした黙阿弥の作ながら、いわば「B級名作」「B面の名曲」として、大歌舞伎の演目リストの一隅に載ることになったのだった。権三郎は、東横ホールの花形歌舞伎が始まると間なしに父を失い、権三郎として一度、三代目権十郎として一度、計二度、『野晒悟助』を東横の舞台に上せている。私が見たのはその二度目、昭和40年6月の舞台だった。敵役提婆仁三郎は今度と同じ左團次の若き日だった。(先々月のこのブログに書いた、菊之助襲名の翌月、現・菊五郎の弁天小僧初役と同じ月の同じ公演である。現在の長老級が花形として売り出した初穂の頃だった。権十郎はそうした中での兄貴格、というよりむしろ伯父貴格として、前年10月、すなわち東京オリンピック開催中の真っ只中に上演した花形連による『仮名手本忠臣蔵』の通しでは、丑之助の判官とおかる、左近の勘平、亀三郎の若狭助に平右衛門、男女蔵の師直に石堂に定九郎、玉太郎の顔世、加賀屋福之助と橋之助兄弟の道行の勘平におかるという中で、堂々、由良之助を演じたのだった。(それぞれ、現在の誰々であるか、ご存知ない向きは調べてみてください。ベンキョウになると思いますよ。ここに挙げた名前は権十郎と左近を除いて全員、現在も活躍しています。ついでにクイズを一問:このとき道行の伴内をつとめたのは誰でしょう?正解を知れば、往時と現在を思い合わせ、感慨半ばを過ぎるものがあることでありましょう。)

閑話休題、『野晒悟助』のことをもう少し書きたい。権十郎は東横での二度の上演以後、自ら脇役の提婆仁三郎と六字南無右衛門にまわって、旧・新橋演舞場で初代辰之助に伝えたのだったが辰之助は再演しないまま急逝、三転して菊五郎にお鉢が回るという経緯を辿って、この狂言は命脈を保ってきた。(菊五郎初役の折は国立劇場が「伝授場」となった。菊五郎は5年後に旧・歌舞伎座で再演、今度が三演目となる。大詰の四天王寺山門の立回りなど、ご苦労様なのを厭わず、よくぞ出してくれたものだと思う。)

と、縷々述べてきたのは他でもない。この狂言が、このまま立ち消えさせるには忍びない貴重な演目であることを訴えたいがためで、先に「B級名作」「B面の名曲」と言ったが、黒沢だの小津だのの大作ばかりが名画ではないように、楽聖だの天才だのの大曲だけが名曲ではないように、文豪の名作だけが名作ではないように、ごく普通に作られた普通の作品にも愛すべき佳品、賞翫されて然るべき佳作がさまざまある。そうした佳作たちを愛好する人々がどれだけあるか、それが、そのジャンルの成熟度を物語る何にもまさるバロメーターであり、懐の深さを示す尺度となるのだ。巨匠黙阿弥の作ながら、『野晒悟助』は決して、世に言われる「名作」ではないかもしれないが、これほど、黙阿弥らしい趣向に満ちた味な作もあるまいかと思われる、愛すべく捨てがたい佳品である。今回の菊五郎所演には、こうしたさまざまな意味合いや思いが汲み取れる。

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それはそれとして、悟助と敵対する提婆の仁三郎の子分役で新蔵・左升・荒五郎・升三郎といった面々が出てくると、ご苦労様と声を掛けたくなる。この人たち、朝から『妹背山』、続いて『文屋』といじめの官女で登場し、中には出ずっぱりの顔も見受ける。仁三郎の子分になっていつもの彼らの顔になるとようやくほっとしたのは、むしろ見物するわれわれの方かもしれない。ともあれ、いじめの官女の連続出演というのは、私もこの齢になって初めて見る「奇観」であった。きのうアリゾナ辺りから成田に着いて今日はじめて歌舞伎座を見たような外人客が、『妹背山』を同じ芝居の第一幕、『文屋』をその続きの第二幕と思ったとしても不思議はない。

さてそうしてみると、今月の各演目を通して、ナントカつなぎみたいに重なり合う趣向があるわあるわ。『野晒悟助』も『夏祭浪花鑑』も住吉鳥居前の達引から始まる。数珠を爪繰り念仏三昧の男伊達が登場する。悟助の家業が葬儀屋で早桶が飾ってあれば、『巷談宵宮雨』の虎鰒の太十の隣家も早桶屋だ・・・という具合。余儀ないケースもあるが、これほど、趣向のつく芝居が並ぶのも一奇である。

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もっとも、今月の昼夜五演目、個々に見るならどれも粒がそろって悪くない。『妹背山』は、このところ女房役や付き合い役ばかりで自分の出し物に恵まれなかった時蔵が、お三輪をするのはずいぶん久しぶりだが、やっぱりいい。久々に、丸本時代物のヒロインを見たという思いがする。この人の代表作の一つであろう。松緑の鱶七も、顔の拵えが何だか白茶けていて海の男がしばらく寝込んでいたみたいなのが気になるが、この人は祖父二代目以来のマッチョな人物をさせると、時にオッと言わせる芝居をする。思えばこの役は、何年か前に玉三郎に引き立ててもらって初役でつとめて以来、たび重ねてここまで来たわけだ。そういえば『坂崎出羽守』も良かったし先達ての西郷だってちょいとしたものだったし・・・と、このところつとめた役々を振り返ってみると、地味だがヒットを重ねて打率をかなり上げてきていることに気が付く。

別格として、楽善の入鹿。父羽左衛門以来の名バリトン、当代での入鹿であろう。さらに別の意味での別格は、芝翫の豆腐買いおむら。この人の女方ぶりというのは、最後の舞台となった一家総出演の『夏 魂祭り』のときの芸者姿で証明済みだが、このおむらも、まさしく、イヨ、おとっつぁんソックリ、ナリコマヤーというやつである。この上は、岩藤をぜひ見たくなった。

先月『喜撰』を踊ったばかりの菊之助が今月また『文屋』を踊るというのは、『六歌仙』を次々と踊ってやろうという魂胆だろうか。青鬚が何やら気になった喜撰より、仁・年齢ともに相応の文屋の方がしっくりするという当然至極の成績で、これは今後、出し物に出来るだろう。(但し、『妹背山』の後に出すのはこれ限りにした方がいい。)

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吉右衛門が『夏祭浪花鑑』を出すと知った時は、正直、ハテナと首をかしげたのだったが、孫との共演という「おじいちゃん馬鹿」ぶりはさて措いて、なるほどと思わせるだけのものを見せた。つまり、目の玉の黒いうちに自ら團七をつとめて後事を託するに足る舞台を、ということなのであろう(と、これも、私の勝手な推測ならぬ忖度である。)聞くところによれば史上最高齢の團七とか、正直、ウームと思うところがないと言っては嘘になるが、つまりは、昼の部に於ける菊五郎、夜の部に於ける吉右衛門、それぞれに、犠牲的精神をふりしぼっても目の玉の黒いところを見せて睨みを利かせたわけで、各役各優それぞれに、それぞれの伸長ぶりを見せたのがその成果ということになる。雀右衛門初役のお辰が、うちの人の惚れたのはここじゃない、ここでござんす、と胸をポンと叩いたところでワッと言わせたのは、画竜点睛を地でいったものというべきだろう。

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芝翫が龍達で『巷談宵宮雨』と聞いた時にはあまりピンと来なかったが、これが思いのほかのヒットだった。24年ぶりの上演というが、これほど間遠だったのは初演以来おそらくはじめてのことだろう。十七代目勘三郎在世のころは、数年に一度の割で出していたものだが、しばらく忘れた形になっていたのが今度久しぶりに見て、しかもかつてのメンバーとは時世時節ですっかり変わった顔ぶれでありながら(いや、却ってそれがよかったのかもしれぬ)、やはりこれは傑作だったと思わせたのだから大したものだ。24年前の舞台はよく覚えているが、富十郎の龍達が持ち前の歯切れのいいセリフが裏目に出ていまひとつしっくりせず、むしろ勘九郎当時の十八代目勘三郎が太十でなかなかよかった。当時はまだ、若手という感じを残しており、富十郎の胸を借りるという貫禄の差もあったのだった。当然、いずれ龍達をやるつもりであったろう。芝翫としては亡き義兄の弔い合戦のつもりもあったろうが、しかしこの場合は、中村屋の伯父さんもすなる龍達という役をボクも是非ともやりたいからするのだ、というのが本音であろう。芝翫の永年の夢が叶ったのを素直に喜ぼう。松緑の太十の大殊勲(あっぱれ、右中間を深々と破る三塁打というところ)をはじめ、いちいち挙げぬが皆々、生き生きとした好助演の中にも、橘太郎の石見銀山猫いらずの薬売りがひと際の秀逸なのは、おそらく鯉三郎、子團次といった先人たちの妙技を見知っている賜物だろう。

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国立劇場の鑑賞教室で又五郎・歌昇父子の『連獅子』は、おそらく現今での随一と言ってもいいと思うが(歌昇が、狂言師の間はいつもの若手花形の顔なのが、子獅子になると見事に獅子の顔になるのにびっくりする)、話題をさらっているのが巳之助の解説。ここに紹介するまでもなくすでにブレーク中だろうが、ひと頃の、随分と心配させてくれた若き惑いの日々の姿を想うと、ひとしおの感慨なきを得ない。

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新国立の『夢の裂け目』はよかった。新国立制作の現代劇としても、井上ひさしの作としても、これが随一と言ってよいであろう。井上独特の、自意識過剰からくるわざとらしさと真面目の入れ子になった具合が、ここでは絶妙のブレンドを作り出している。真面目一点張りでは、このテーマはこうは行かず、と言って、偽悪が過ぎれば、見る側はダアーっとなってしまう。

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今月はいまのところ、「私の過去帳」に書き加えるような訃報は目にしていない。

随談第607回 麗しの五月に

今回も余儀ない事情で月末になってしまった。芝居はとうに終わっている。間が抜けてしまったようだが、ま、お許しいただきたい。「麗しの五月に」というタイトルを取ってつけたように付けたのは、むかしむかし、大学に入って初めてのドイツ語の授業の時、ABCを教わる先に、先生が黒板にハイネの「麗しの五月に」という詩を書いたのを、何とはなしに思い出したからに過ぎない。あの先生、ゲルマニストとしてはあんまり名を成すこともなかったらしいが、ほとんど思い出すこともない教師たちの中で、ふと思い出すこともあるのは、こんな逸事のせいかもしれない。

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歌舞伎座は菊五郎一世一代?の弁天小僧に堪能した、と言えばほぼそれに尽きる。思えば50年の余、初役の時から見続けてきた弁天である。さすがに、二階堂信濃守の家中早瀬主水の息女ナニガシの姿で登場した時しばらくは、正直、内心ではウームという思いも抱かないでもなかったし、全体から言っても、5年前の現・歌舞伎座こけら落としの時以来の5年の歳月を思わなかったわけでもない。グルメ通がよくやるような言い方をするならば、さらにその5年前の『青砥稿』としての通しの時が極上であったろう。だがまあ、そんなことはこの際、大した問題ではない。誰だったかが誰だったかについて言ったように、「感動した!」というのが一番ふさわしい。52年前の初役からずっと見てきて(もちろん、全部を見ているわけではないが)、若い時は若いなりに、壮年の時は壮年なりに、長老となれば長老としてなりに、これほど「弁天小僧」であった弁天役者は他に知らない。10年前の『青砥稿』の通しの時は、弁天と南郷は今度と同じ菊五郎に左團次、赤星の時蔵は健在だが、南郷が三津五郎、駄右衛門が團十郎だったのだからうたた今昔の感を改めて実感せざるを得ない。左團次の南郷も久しいが、團十郎も先の辰之助も、現・楽善の薪水もと、南郷役者には事欠かなかったが、相棒変われど弁天小僧はずっと菊五郎だった。まさしく、遥けくも来つるものかはの思いである。 

極楽寺の立腹まで出すと聞いたときは驚いたが、これが流石である。気を付けて見ていると、菊五郎はほとんど動いていない。測定してみたらせいぜい幅一間ぐらいでしかないのではないか。(つまり約二メートルである。)それで、ちゃんと極楽寺屋根上の大立ち回りになっている。もちろん、捕り手役の面々の働きがあってのことだが、歌舞伎の立回りというのはあれでいいのである。(まだ平成になる前だったか、タテ師の八重之助が元気だったころ、国立劇場で京劇と歌舞伎の立回りの比較、といったテーマの企画公演があったのを思い出した。京劇では芯の役の役者自身が飛んだり跳ねたり宙返りをしたりめまぐるしく働くが、歌舞伎ではドンタッポのテンポが早くなっても芯の役者がめまぐるしく動くわけではない、ということが、こう並べてみるとよくわかった。)

海老蔵に駄右衛門をさせたのは團菊祭故でもあろうが、70有余翁の弁天・南郷を相手にそれなりに駄右衛門としての貫目を示しているのが海老蔵という役者の値打ちであって、これは天稟といってよい。『北山桜』の奮闘ぶり以上に、むしろこちらにこそ海老蔵の真価がある。

時蔵の虎蔵、松緑の智恵内に團蔵の鬼一と揃って、することにもそつがないにもかかわらず『菊畑』はどうもボルテージが高まらない。もっとも「奥殿」を出さないのが当たり前になって久しい今更、鬼一に魁偉を求めるのは木によって魚を求めるようなものかもしれないが、そうなるとこの『菊畑』という狂言は、いろいろな役柄の人物が標本のようにならぶ見本市みたいなことになるわけだ。

昭和41年4月、といえばさっき言った菊五郎が初役で弁天をした翌年のことだが、八代目團蔵が引退に当って鬼一をつとめ終え、四国巡礼の旅に出たまま瀬戸内の海に入水したという、つまり最後の舞台だった。このとき皆鶴姫をつとめたのが、つい前年五月に菊之助になったばかりの(つまり弁天小僧を初役でつとめたのが、その翌月の6月だった)現・菊五郎だった。今度の『菊畑』に現・團蔵が鬼一をするのにはこうしたことを踏まえた配慮が察しられる。(なおこの時、当時中学生だった孫銀之助、つまり現・團蔵に、八代目は序幕として『弁慶出立』という一幕を書いて与えたのだったが、残念ながらこのせっかくの祖父の置き土産は、まだ本興行の舞台に乗る機会を得ないままに半世紀の余が過ぎてしまっている。)

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住太夫が死去、玉助が誕生。その前に新しい呂太夫や織太夫が出来て、名前の上では私などには文楽を見始めた頃の懐かしい名前が甦ってきて、悪い気はしない。もう、先代玉助を見ている、というだけで、ヘエーと言われる時代になっているのだ。前の勘十郎でさえ、文楽について何かをしている人でさえ知らない人が大勢いるのだから、まして玉助に於いておや。オレ、赤バットの川上や青バットの大下を見ているぞ、というのと同じようなことなのだろう。私が文楽を見始めた頃、熊谷だの光秀だの、という人形は、もっぱら玉助の領分だった。『沼津』の平作、も見たと思う。肩幅と胸幅の厚いがっしりとした体格と言い、茫洋とした風貌・風格と言い、横綱の鏡里に似ている、というのがはじめて見た時の印象だった。鏡里もそうであったように、玉助みたいな感じの日本人を、そういえば見かけなくなって久しい。むずかしい理屈は言わないが、とにかく芸ががっちりと出来ていて小揺るぎもしない、という感じが、いかにも古典の世界の古強者にふさわしかった。優勝を何回しただの勝率が何割何分何厘だのはどうでもいいのであって、そういうことを超えて、鏡里がいかにも横綱らしい横綱であったように、先代玉助もいかにも、古典芸能などというしゃらくさい言葉をまだあんまり耳にしなかった頃からの、文楽の人形遣いという古く尊い芸を伝える立派な芸人という風格が忘れ難い。

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その文楽で『廿四孝』の「筍掘り」が久しぶりに出て、疲労困憊する快感、というものを久しぶりに体感した。どこかの教室で五年がかりで浄瑠璃の原文を解読したとか聞いたが、ではその教室の解読作業に参加した人でないとこの芝居の 醍醐味が分からないのかと言えばそんなことはない筈で、たまにはこういう疲労困憊しながら見る芝居というのも悪くない。文楽では何年かごとには手すりにかかるが、わかりにくいものは遠ざけられる昨今の歌舞伎では、まして歌舞伎座では、もう見ることは叶わないかもしれない。(冗談ではない。国立劇場で、やるなら今でしょう! あの「岡崎」をやった意気を忘れない限り。)

歌舞伎では疾うにやらなくなった場だが「桔梗原の段」というのが私の好みで、槍弾正の越名弾正の突き出す槍へ、逃げ弾正の高坂弾正が「手練の槍先受けてはたまらぬ、そこで身どもは逃げ弾正」とさっさと逃げてしまう、あのセリフを実際の場でいつか使ってみたいと思っているのだが・・・

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西城秀樹だ星由里子だ朝丘雪路だ高畑勲だと、わずかの間にばたばたと聞こえてきた訃報の中でも、時期的にもやや離れて、一番先に聞いたのが、作曲家の木下忠司氏死去の報だった。百二歳とか。木下恵介監督の実弟で、最も人口に膾炙したのが「おいら岬の灯台守は」という『喜びも悲しみも幾年月』の主題歌だが、新聞によっては、テレビの『水戸黄門』の主題歌の方を見出しに掲げたところもあったらしい。人名事典の記述としては、木下恵介監督の一番盛りの頃の作品のほとんどすべての音楽を担当したのが真っ先に来るだろうが、私が初めて聞き覚えたのは『破れ太鼓』という、木下恵介でも比較的初期の作品で、あの阪東妻三郎、つまりバンツマが主演する現代劇の主題歌だった。(時代劇映画俳優中の王者とされる阪妻だが、不幸(と言っていいだろう)なことに時代劇ではいわゆる名画には恵まれず、代表作はということになると(『雄呂血』という無声映画時代の大殺陣を見せる作を別にすれば)、一に『無法松の一生』、二に『王将』、三に、と言ってよいかどうかは議論の余地はあるが、この『破れ太鼓』ということになる。現代劇と言っても近過去の時代を扱った『無法松』や『王将』と違い、『破れ太鼓』はバンツマが洋服を着て出てくる文字通りの現代劇である。私がこの映画を見た最初は、夜、小学校の校庭に白布のスクリーンを張って映写する映画会でだった。(裏側にまわると裏焼きになって見えるという、ある年配以上の方なら必ずや記憶がおありだろう。)あの中で忠司氏も、バンツマ演じる雷親父の息子の一人の役で出演、主題歌を自ら歌うのが、翌日、教室で皆が大声で歌っているというほど、子供心にも一度聴いたら覚えてしまう強烈な印象があった。もっとも、その息子役を演じていたのが忠司氏自身だったと知ったのは、はるか後年、名画座でリバイバル上映を見た時のことだったが。

だが人名辞典での記述は知らず、私にとっての忠司氏の作で最も愛好するのは、昭和二十九年、美空ひばりが主演作『伊豆の踊子』の中で歌う主題歌である。「三宅出るとき誰が来て泣いた、石のよな手で親様が」「まめで暮らせとほろほろ泣いた、椿ほろほろ散っていた」「江島生島別れていても、心大島(逢う島)燃ゆる島」「おらが親さま離れていても、今度逢うときゃ花も咲く」という短い曲で、歌詞を括弧書した短いフレーズを、同じメロディで繰り返すだけという、なんとも簡素な構成なのだが、舟歌か何かのようにゆったりと繰り返されるのがまるで永遠に続くかのように感じられる。十七歳のひばりが、出来上がってしまっているイメージからは思いがけないような高い声で歌うのが情感があってなかなかよろしいのだが、何故かこの曲のことを言う人にほとんど出会ったことがない。流行歌というのは、一番流行った誰でも知っている曲よりセカンドベストぐらいの曲の方が忘れ難いものだという説があるようだが、これなどはまさにそれに違いない。この曲は木下忠司氏の作詞・作曲だが、さっきの『破れ太鼓』にしても、氏は作詞家としても秀逸な詞を書いていて、同じ昭和二十九年にもうひとつ、これも美空ひばりの歌った『お針子ミミ―の日曜日』というシャンソンがあって、これは忠司氏の作詞で、作曲は黛敏郎である。第二フレーズが「お針子ミミーはパリジェンヌ、ダニー・ロバンが大好きで」と始まる。ダニー・ロバンというフランス女優を覚えている人も少なくなってしまったいま、こんなことを書いても、果たして興味を持って下さる方がどれほどあるものやら・・・

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もう少し、書くつもりでいた話題もないではなかったのだが、長くなったし夜も更けてきたし、明日は夏に備えて少しは部屋の模様替えをするのに精力を温存しておく必要もあるし、というわけで、栃ノ心の大関昇進を祝いつつ、本日はここ迄ということにさせていただきます。

随談第606回 卯月見物記

四月の歌舞伎座は、昼を菊五郎、夜を仁左衛門が取り仕切って奮闘しているにもかかわらず、正月来の襲名見物疲れか久々の孝玉共演見物疲れか、はたまた財布の紐を引き締めたのか、客席が大分ゆるやかに見えたともっぱらの噂、狂言がややなじみが薄いというキライもあったかしらん。

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昼の部第一のタイトルが『西郷と勝』とは、なんともそっけないというか、木で鼻をくくったようというか。(『西郷と豚姫』というのを前に見ましたが、あれとは違うのですか、などという人もいた。)そういう私も、はじめは新作物かと思いかけたら、ナニ、青果の『江戸城総攻め』のことだった。第一部の第二場「半蔵門を望む濠端」と、第三部第一場の「薩摩屋敷」を取り合わせて一幕二場とするのは真山美保演出バージョンとして、上演時の名前で猿之助吉之助VS竹之丞麟太郎、團十郎吉之助VS幸四郎麟太郎という二組、外題も『江戸城総攻め・麟太郎と吉之助』として二度の前例があるが、今回は、真山青果作『江戸城総攻め』より松竹芸文室改訂、としてある。その「より」が曲者なのだが、もっとも、ぼんやり見ている分にはいつもの『麟太郎と吉之助』と格別違いがあるようにも感じられない。無口のイメージの西郷が饒舌なのは青果のせいだが、膨大なセリフをよく覚え、ともかくも客席を静かに聞かせただけでも松緑は敢闘賞ぐらいもらっていい。

で、それはそれとして、最後の詰めに至って、「勝先生、戦争ほど残酷なものはごわせんなあ」と西郷が声を張り上げると、満場ワーッと沸き立つ。このセリフは本来ここで西郷が言うセリフなわけで、これが本当なのだが、「薩摩屋敷」が出幕になる機会が少ないためもあろうが、しばらく、いや大分前から、「上野大慈院」で蟄居謹慎中の慶喜を説得する山岡のセリフとして言わせるのが定着して久しい。そのことの是非もさることながら、それを山岡が「戦争ほど残酷なものはござりませぬゥ」といかにも名調子で張り上げ満場をわーっと沸かせるのが近頃の通例になっている。じつは、あれがいつも私はちょいと引っかかるのだ。あれは、(山岡にせよ西郷にせよ)もっと静めた調子で言う方が、しみじみと胸に沁みるのではあるまいか?

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さてこの「明治150年記念」と謳った開幕劇がついたために時間が押せ押せとなり、昼の部の終わるのが4時少し前、夜の部開演が4時45分とずれ込んだ。昔、というのは昭和の頃だったら昼の部の終わるのがこのぐらいは当たり前、4時を回ることだって珍しくなく、入れ替え時間15分でちゃんと4時半に夜の部を開けたことだってあった。前の、つまり第4期の歌舞伎座は通路が四通八達、じつに人はけがよかった。(それにつけても、最近出来の劇場に人はけのよくないところが多いのは、万が一の時どうなるのだろうと心配になる。)

それはいいとして、『裏表先代萩』が、序幕の「花水橋」がなしにいきなり「大場道益宅」から始まると、菊五郎の小助がお手の物の世話の小悪党ぶりで、何だか黙阿弥狂言でも見ているようで(まあ、そうには違いないが)ちと面食らう。まず「表」=時代の場面があって、次に「裏」=世話の場面があって、というぐあいに表・裏・表・裏・表と、時代と世話が交互にあって、トド、時代、つまり「表」の場面で締めくくらないと、表紙の欠けた本を読むみたいでどうも落ち着きがよろしくない。

しかしながら、菊五郎が小助に仁木、政岡は時蔵に譲って二役をつとめるのは、御大奮闘と言ってよい。またその仁木がなかなか立派なのに感じ入る。これこそ年輪というものである。時蔵は『伽羅先代萩』も併せ、そもそも政岡をつとめるのはこれが初めてという。仁よし柄よし、もう疾うにしていて当然の優であり、政岡である。

孝太郎が下女のお竹と沖の井、吉弥が松島。彼女?等の実力は当節の歌舞伎の底力というもの、これぞプロフェッショナルの名に恥じない。この二人は夜の部の『絵本合法衢』でも、孝太郎が倉狩峠で太平次に殺されるお亀、吉弥が太平次女房お道で、これもすることが堂に入っている。役柄の人物にすっとなっているのは、歌舞伎の本道を長年月歩んでいてこそ身についたもので揺るぎがない。吉弥といえば、「表」、つまり『伽羅先代萩』の「竹の間」に登場して鶴千代の脈を取る浅井了伯妻小槙という不気味な女医がいるが、歌右衛門の政岡でこの場が出ると先代の上村吉弥がよくこの役をしたのが、いかにも怪しげで何ともよかった。本舞台にいる若君の脈を花道から取って「ご正脈でございます」などと言うのが、いかにももっともらしかった。

こんどの道益は團蔵で、この人はこういう役をさせると、ちょいと品があるようでちょいと何かあるようで、そこらの按配がなかなかいいのだが、すべて腹七分の仕事なのは身についた痼疾のようなものか。しかしこの一、二年、めっきり役者ぶりが上がり、いい顔になってきたのは正しく年の功というものだろう。(丸々と太った銀之助少年がなつかしい。いまの大谷桂三の先代松也とふたりで、梅幸の『鏡獅子』で胡蝶を踊ったのが今も目に残る。)東蔵が外記で先月の老一官以来の爺役は、いまや何でもござれの境地か。斎入が「対決」で山名宗全の穴を行く横井角左衛門、表に返って「刃傷」では細川勝元を錦之助。『西郷と勝』ではかなりの緊張気味で松緑の西郷に押され気味にも見えたが、こういう仁にはまる役だと生き返ったようになるのがこの人のカワイイところ、イヤサ、値打ちである。等々、名前を挙げていない方々も併せ、脇の役役の背丈が揃うのはさすが菊五郎劇団。こういう芝居には一層、それが何よりである。

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『絵本合法衢』は仁左衛門一世一代という断り文句がついているのに目を瞠る。もうこれが最後ですよ、と言うほどの意味らしいから目くじらを立てることもないわけだが、初代白鸚の復活初演を見た記憶からするとちょっと「?」という感も抱かぬでもない。「仁左衛門歌舞伎」として見る分には言うことはないにせよ、これだけが「お手本」ということになってしまうと、そうではあるまいと、書いておきたい気持ちも捨てられない。

それにしても、あれが昭和40年の残暑のころだったから、当時の名前でまだ与兵衛が染五郎、孫七が萬之助だったのだ! お道が先の又五郎だったっけ。芝鶴のうんざりお松とか、先代中車の瀬左衛門・弥十郎兄弟なんていうものは、「見ておいてよかった」という代表のようなもので、いわゆる古典の役以上に、むしろこういう復活物で見せたこういう人たちの歌舞伎演技の「教養」の深さが、いまにしてつくづくと偲ばれる。当時はこういう人たちが、腕を撫していたればこそ、白鸚一家一門と共に東宝に新天地を求めたのであったのだろう。

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新国立のオペラパレスで『アイーダ』を見た。さすがにこういうものだと、近頃はやりというか、現代の演出家諸氏に呪縛のように絡みついているかに見える現代的演出の入り込む余地がないせいか、とってつけたような演出に煩わされずに見ることが出来たのは幸いだったが、それにつけて思い出したのは、勘三郎が天下にこわいものなしの頂点に立ったころ手掛けた野田版の『愛陀姫』なる不思議な代物のことだった。ヴェルディの曲を歌えばこそ、勘三郎のアムネリスが、決して美声とは言い難い声で長セリフを言う。あれはいったい、何だったのだろう?

随談605回 如月弥生の噂たち

ようやくオリンピックの喧騒が収まって、とにもかくにもほっとする。オリンピックが嫌いなわけではない。テレビを通じて培養・増幅される騒々しさに疲れるのだ。取り分け、NHKと民放とを問わず女性のアナやレポーターの、一生懸命盛り上げましょうと奮励努力する嬌声のワンパターンぶりが、彼女たちの健気さが思い遣られるにつけ、痛々しさに耳を覆いたくなる。彼女たちの真面目(なればこそああなるのだろうから)な努力を悪く言うわけにはいかないだけに、こちらはますますたじろぐことになる。

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閉会式の実況放送をした女性は、日本選手のメダルの数が幾つと幾度言ったことだろう。近年日本選手の活躍が目覚ましくなるにつれ、また競技数が幾層倍するにつれ、日本人選手の出番のない種目で世界最高峰クラスの名人上手たちの芸を見る機会が少なくなってしまった。あれらこそ、オリムピックならではなかなか見られないものなのだが。熱心に放送時間を調べればどこかで放送しているのかも知れないが、日本の女子選手の活躍をあれだけ繰り返し見せ(てくれ)たスケート競技でも、男子1万メートルというのは遂に見ずにしまった。いつのオリンピックだったかオランダの何とかいう大選手がいて、当時のテレビは彼が悠然とリンクを何周もする姿を延々と写してくれたから、日本の取ったメダルが幾つなどということを忘れて惚れ惚れと眺めたものだ。

そういう中でたまたま、バイアスロンの放送を見たのは幸いだった。むかしの札幌大会の時にたまたま中継を見て、こういうすっとぼけたような競技があるのを知って、ちょいと好感を持ったのである。スキーの距離競技と射撃を組み合わせて、一発的を外すたびに一周回ってこなければならないというペナルティがつくというのが、とぼけた味がある。こういう競技は、北ヨーロッパの雪に閉ざされた狩猟生活の実際から生まれたものに違いない。狩人になった勘平が、京都の山崎などでなく、どこか雪深い土地で、狸の吉兵衛や種子島の六等の狩人仲間と鉄砲を担いで野山を駆け回るような生活の中から考え出されたような趣きがある。もっとも今度久しぶりに見ると、随分設備が整備されて以前のような野趣が薄れ、むかし行った山あいの温泉宿を久しぶりに訪ねてみたら麗々しいホテルが建っていたような感じだったが、それでも、フィギュアスケートとか体操競技のように、選手たちの技は大したものには違いなくとも、あまりにも高度に発達したために技のための技というところまでいってしまうと、何となく無機的な感覚になるが、それがあまりないのがいい。日本のナントカ選手がメダルに届いたの届かないのと絶叫するアナの声を聞かなくてすむのも、健康にいい。

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もちろん、羽生選手も小平選手も千手観音みたいなパシュートの諸嬢もカーリング女子も結構でしたよ。彼らの健闘にケチをつける気は毛頭ないが、いまさらここに書くには及ぶまいと思うから書かないだけだ。

ただひとつ、羽生選手の(たしか帰国してから外人記者クラブの会見でだったかの応答ぶりを聞いていて、その頭脳の良さとセンスの良さから、売り出したころの玉三郎がいろんなところに引っ張り出されてインタビューに答えていろんなことを何の屈託もなく語る言葉が、おのずから「玉三郎語録」とでもいうような趣きとなっているのが、世の人々を瞠目させたのを思い出した。技術としてのフィギュアと芸術としてのフィギュアとの関係をどう思うかと問われて、高度な技術と高度の芸術性とは両々相俟つべきもの、といった趣旨のことを「羽生語録」風のディクションでさらりと答えてのけるあたりが、その真骨頂だろう。(当時、玉三郎宇宙人説というのがあったっけ。いまもあるのかもしれないが寡聞にして知らない。)

それにしても、欧米の選手と並ぶと大人と子供みたいに身長差があり、おまけに胴長短足、タキシードに蝶ネクタイをするとチンドン屋みたいになってしまうのが常だった「ニッポン男児」から、ああいう手長足長という体型のオノコが出現するようになろうとは、お釈迦様でなくとも夢にも思わぬことであった。(浅田真央の先生の佐藤選手などの時代は、男子フィギュアというと蝶ネクタイなどをつけた正装で、屋外のリンクでやっていたものだった。新聞の扱いも小さく、スポーツ欄の中段辺りに、それでも小さいながら写真入りだったのはいいが背景に雪の榛名山なんぞが写っていたりするのが何がなし物寂しくて、ものの哀れを感じさせた。)

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カーリング女子諸嬢のプレー中とプレー後の変貌ぶりを見ながら、さらには帰国後の、ごくフツーの人ぶりを見ながら、ウルトラマンのナントカ星人が普段はそこらのおじさんやおばさんの姿をしていたり、スーパーマンの正体がうだつの上がらないサラリーマンだったりするのを連想した。あんなにすごい技を見せていた選手諸嬢が、帰郷した途端、OLや店員をしている、ごくフツーのむすめさんの顔になるのを見てこの人たちをソンケイする気になった。

普通の人の中に凄い人がいる。コンビニで売っているおにぎりに海苔を巻き付けるあの仕掛けを工夫した人を、私は天才だと思うのだが、会ってみたら、たぶん、何てことのないフツーの人なのだろう。そういう、人間の摩訶不思議さを、カーリングの彼女たちは教えてくれた。

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春場所が始まると同時に、貴乃花親方が相撲協会を訴える訴状を内閣府に提出し、協会役員としては春場所を欠勤する由。ご本人かねがね曰く「精進とは神事の世界」なりと。つまり、欠勤も神事の内、ということか。ところへ、愛弟子が暴力沙汰を起こすという不祥事勃発。笑い事ではないのは重々承知しながら、申し訳ないがつい吹き出してしまった。あの何とも不思議な勿体を付けた態度物腰をさんざん見せられた後では、これは如何ともし難い。

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さて、ここからは芝居の話。

今月はまず菊之助だろう。『髪結新三』は予期を大きく超えるものだった。天晴れ上々吉、である。何度も書いてきたように、この優の近年の立役志向に、私はなにがなし、素直に賛同できないこだわりを抱いていた。あれだけの、純正で癖のない若女形ぶりは稀に見るものであり、大切にしたいという思いが強かったからだ。彼が幼名の丑之助から、菊之助と名乗って脚光の中に歩み出してきたとき、私は、実際には見たこともない、彼にとっては祖父の梅幸の若き日というのはこうでもあったろうかと夢想した。菊之助を襲名した舞台では浜松屋の弁天小僧をつとめたが、いよいよ見著わしになって肌脱ぎになろうという一瞬、大向うから女性の声で「脱がないで!」と声が掛かった、という話を、そのとき同じ舞台を見ていた某氏から聞いたことがある。その女性の気持ちがわかるような気がした、というより、女性にそう叫ばせる菊之助を、面白いと思った。その後しばらくは着実に若女形の正統の道を歩み続けるかと見えた菊之助が、ちょうど世紀の変わり目頃だったろうか、『グリークス』に出演し女方にあるまじき芝居をしたり、海老蔵の光源氏に紫の上をつとめ緋の袴姿でずかずかと男のように歩いたり、ゴッホの若き日の芝居をしたり、といういっときがあったが、思えばあれが、菊之助若き日の惑いの日々であったのだろう。やがて歌舞伎版沙翁劇『十二夜』でアッと言わせたり玉三郎との新版の『二人道成寺』を踊って瞠目させたり、という「天の時」がやってきてトンネルを抜けたのだった。

7年前の東北の大震災の折、菊之助が自ら企画してチャリティー舞踊公演を行ったとき、『藤娘』に『浮かれ坊主』を上・下二段返しにして見せたのを見て、あゝと心づいたことがある。父の菊五郎が華々しく売り出した若き日、東横ホールの花形公演でこの踊り二題を二段返しで見せたことがあった。菊之助を襲名したばかりの当時の菊五郎にとって、あれはひとつの宣言であったと私は思っているが、菊之助は父のその「故事」を知っていたに違いない。で、時至って、(義経でなく)富樫をやり、宗五郎をやり、こんど新三を出した、ということなのであろう。宗五郎はまずまずというところだったが、新三は、歴代の新三役者列伝中に数え得るものだと思う。芸の良し悪しを超えた輝きがある。「新三内」を見ながら思ったのは、もはや彼が立役をつとめるのをとやかく言う段階は超えたということだった。

もっとも、危惧がないわけではない。「白子屋見世先」や「永代橋」では、新三がいい男だというより、菊之助自身の美男ぶりが先に立つ。つい先月末、右近が清元永寿太夫としての披露目の延寿会で菊之助は『お祭り』を踊ったが、宝塚の男役みたいという声の聞かれたのは厳しすぎるとしても、いささか腑に落ちかねる出来だった。つまり『お祭り』のあの鳶の兄イは、役であって役ではない。新三なら新三という役の人物を演じることによって役になるのではなく、踊り手である菊之助自身がすっと役になるのでなくてはサマにならない。あの手の役の方が実はむずかしいのだ。で、そういうことがあって直後の、今度の新三である。これは、どう考えればいいのだろう?

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『国姓爺合戦』という芝居は、労多い割には功成り難い、つくづく難しい芝居である。まず錦祥女の唐人衣裳が似合う女方というのはなかなかいない。ほとんど唯一の例外は玉三郎で、この異能の人はあの異国の風俗がずばり、サマになった。(それをとっかかりにして、当時、玉三郎論のごときものを物したことがある。)第二に、和藤内という役が、「紅流し」の荒事を除けば何とも手持無沙汰であることで、錦祥女は元より、甘輝、老一官、渚と他の人物たちが皆、複雑な肚の芝居をする中で、誰がやっても、ただひとり彼だけが単細胞オトコに見えてしまう。(かつて江藤淳が出世作『夏目漱石』で「坊っちゃん」の主人公を和藤内になぞらえたが、なるほど、何の罪も悪気もない松山の町の人々を、江戸っ子の坊っちゃんがなんとも無邪気に突っかかり、傷ついた挙句、一方的にこき下ろす、まさに、童子の心でつとめよという荒事の極意そのものであろう。)こんどの愛之助は、勉強家らしくかどかどの見得など、腰がよく入ってなかなかいい形をするが、しかしこの人の仁から言って、甘輝をした方が、少々柄は小さいが適役である筈だ。反対に芝翫の甘輝は、唐人衣裳の似合うのは天下一品だが(昨年の『唐人殺し』と言い、このところこの人の役者ぶりの良さが光って見える)、肚から言えば彼が和藤内であろう。このところ腕を上げつつある扇雀も錦祥女はちと荷が重く、結局今度の『国姓爺』は老一官と渚の老人夫婦の芝居となった。(とはいえ、東蔵は本当は渚の人だろう。)秀太郎の渚は流石だが、それにしてもこのニッポンのお母さん、ふた言目には「日本の恥」と連発するのがちと耳にさわる。(大近松のむかしから、ニッポン人は、国際舞台へ出ると必要以上に力み過ぎるというDNAに変わりはないらしい。)

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雀右衛門の『男女道成寺』は『京鹿子娘道成寺』への橋頭保を築いたものというべきだろうが、(玉三郎がもう踊らないとすれば)、『京鹿子娘道成寺』は選手がいるのに観客はお預けを食うこと既に久しい状態が続いている。

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歌舞伎座の夜の部は玉三郎ワールドによる貸し切り状態。「お染の七役」の通称を出さず『於染久松色読販』と本名題だけ謳ったのは、土手のお六と鬼門の喜兵衛の件り二幕だけを出すからで、この「孝玉」発祥の記念すべき狂言を玉三郎・仁左衛門で見せるのが趣向。昔を知らず、今の二人だけを見る人にはもちろんそれ相当の感想も批評もあるだろうが、47年前の(昭和93年の今年、あのときの初演がちょうど昭和・平成の歳月の折り返し点だったのだ!)フレッシュコンビ誕生の舞台の記憶をまざまざと呼び起こすにつけ、感慨なきを得ない。見る我々にとっても、演じる玉・仁左御両所にとっても、思い出たっぷりの曾遊の地を感慨深く巡る旅をしているような気分である。すなわち、「旧婚旅行
に批評などと、野暮な真似はいたすまい。『神田祭』も御両所のデレデレぶりを楽しめばそれがすべてである。

むしろ玉三郎としては、かつて自ら新派の舞台に出演して繰り返し演じた新派古典の『滝の白糸』を、壱太郎・松也両人に演出として伝授する方が、「今日的」な意味を持つ行為と言える。こうした「玉三郎女子大学」の学長プロフェッサーとしての活動を最近頓に目にするようになったが、これも、一代の異能の名女方玉三郎としての身の処し方の一環であろう。果して壱太郎・松也両人、予期を超える健闘ぶりであったのはめでたい。

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今年も品川の六行会ホールでみつわ会の公演があった。第20回記念公演とある。久保田万太郎作品だけを二本づつ、三月の数日間公演する。今年は『あきくさばなし』に『釣堀にて』。新派の田口守が、ここ数年来こうした仕事に熱心に取り組んで、みつわ会以外でも、『銀座復興』だの今年正月の新派公演で山田洋二の『家族はつらいよ』だの、昭和の東京の市井の男を演じ続けている。『釣堀にて』の方は直七老人が中野誠也で、この人もみつわ会の常連出演者だが、在来普通のイメージからすると万太郎の世界とはややずれを感じる。『釣堀にて』というと、万太郎が死んだ年の12月、追悼の催しが三田の校舎で行われた折、本読みの形式で、つまり大教室の教壇辺りに椅子を置いて、演者は台本を手に、簡単な仕草をする程度でやったのが、却って万太郎の言葉の味わいがよく伝わっておもしろかった。この時の直七老人は中村信郎だったが、いかにも戦前の東京の下町で旦那と呼ばれる人物の陰影を彷彿させたのが忘れ難い。中村伸郎としても、舞台・映画を通じてこの時の直七老人ほど水際立った名演はなかったのではあるまいか。あの直七は、もういまの東京にはいなくなってしまった(絶滅してしまった)人種であろう。それをいまの俳優に求めても無理というものかも知れない。