随談第602回 歳末あらかると

このところ月一回の更新で、何だか月刊誌みたいになってしまったが、今回も種々の原稿締め切り日が次々と立ち現れて、あっという間に歳末となってしまった。月-1と決めてしまったわけではないが、年内はこれでご勘弁を願いたい。

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12月の歌舞伎座がこの分だと例年3部制が恒例になりそうな感じになってきて、一部・二部・三部のどれをどういうお客に向けたメニューにしようか、手探りしている感じだ。確か去年は第一部が『あらしの夜に』だったと思うが、今度は『布引滝』と『土蜘』と名作全集の一冊みたいな献立で、二部が『らくだ』と『蘭平物狂』というのは、落語種と大立ち回りのスペクタクルのセットで初心者にもとっつきやすいものを、というつもりだろう。第三部に至って玉三郎が登場して女子大学教授といった風情で中車クンを相手に教導よろしきところを見せる。成否は別として、それなりに工夫がされていることは察しられる。

仮にそうだとすると、第一部は『実盛物語』は丸本物の作劇テクニック用例集の模範のような作で、もし私が国文学科の作品研究の授業でも持つことになったら毎年この作をテキストに選ぶだろう。歌舞伎とはいかなるものかを知る上で、これに勝る教材はない。今回は(新聞評にも書いた通り)おそらくは仁左衛門のコーチもよろしく愛之助の持てる良きものを引き出して上々の首尾。妙なミュージカルまがいのことをしたり、生煮えの『月形半平太』を見せたり、期待を裏切ることが続いた愛之助がシーズン末になってようやく放った快打一番というところ。『土蜘』も能取り物の見本のような作で松緑にも向いているし、というわけで第一部は出来はまずは上の部。ところが客席は、ハテ?、と目を?くほどに空席が目立った。

第二部。『らくだ』は屑屋の久六の中車が熱演のせいもあって愛之助の熊五郎より強そうに見えかねないから、この話の土台のピントがずれている。片岡亀蔵(5月に坂東亀蔵が新規誕生し、今月はついに二人亀蔵の鉢合わせということになった。襲名という各家の大事にとやかくいうつもりはないが、みすみすこういう事態も予測される中、何とかならなかったものか)のらくだの馬の怪名演?があっても、挽回はむずかしい。

『蘭平』は、見せ場の大立ち回りは全編90分強の内せいぜい20分もない。そこまでの70分を持たせるのは至難の業だ。後段の立ち回りも松緑の蘭平がわが子への情愛の表現に力を入れる反動で、色奴の闊達さを減殺してしまうからせっかくのタテが生気凛凛とはいかない。役の性根も大事だが、それも色奴という役柄を踏まえた上でのことであって、松緑に限らず、近頃、こういう穿き違いが多くないか? 『布引滝』で片岡亀蔵の瀬尾が、決して悪い出来ではないが、何故か前段がヤワで人がよさそうに消える。筋書きの出演者の弁を読むと、前半と後半で統一感のある役として見せたいと言っている。ハハア、これだな、と思った。あの憎々しい爺がこんなにいいヒトだったんだ、と見物をびっくりさせるのがモドリというものではなかったろうか?

第3部。『瞼の母』はよかった。歌舞伎俳優中車として記念すべき初本塁打である。夏の『刺青奇偶』もよかったが、こちらは、過去の歴々たる諸優の番場の忠太郎の中に混じっても立派に伍していける。なるほど『瞼の母』とはこういう芝居だったか、と思わせさえするのだから立派なものである。もっともこれには、玉三郎の教導よろしきも大いに物を言っているかと思われる。またその水熊の女将もよかった。忠太郎の顔を見てすぐ、我が子だと気づく。その解釈も、その表現も、ともに水際立っている。こういうところに「名女方玉三郎」の真骨頂があるのだろう。『楊貴妃』。これも玉三郎美学の結晶。玉三郎がすれば、これも歌舞伎、である。まさに「異能の人」である。

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国立劇場は吉右衛門が「家の芸」として『梅の由兵衛』に取り組むが、並木五瓶の作というものは、言うは易いが実際にやる側としてはなかなか難しいに違いない。批評家好み、学者好みと言ってしまえば身も蓋もないが、小山内薫だ池田大伍だといった昔から、これからの時代に歌舞伎が可能性を持ちうる作者として、南北と共に喧伝された。南北はその波に乗って、大正の第一期、戦後の第二期を経て今日もなお持て囃されているが、五瓶の作が実際の上演で成果を挙げた例は多いとは言えない。と、一方にそうした流れがあり、また一方に、初代吉右衛門の梅の由兵衛という現実の舞台での当たり役があって、播磨屋の家の芸とされてきた。こちらは、五瓶がどうのというより、大歌舞伎より中芝居小芝居で演じ継がれてきた流れの上に立つものであったと想像される。つまり、大播磨が当たり役としたから、戦前の大歌舞伎で播磨屋の芸を見るための演目として繰り返し演じられ、戦後間もなくまでそれは続いたのだったのだろう。

今度の吉右衛門による復活は、家の芸の再生継承がおそらく主眼だろう。が、それだけに、昭和23年から70年が経ってしまった今となっては生ける手掛かりはおそらく豊富とは言えないに違いない。「苦心は察するに余りある」と新聞に書いたのは、そこら辺りを思ってのことだった。つくづく思ったのは、こういう狂言の場合、仁と柄にはまるかどうかが勝負だということで、一に菊之助、二に錦之助がいいのはそれ故で、一方、又五郎の苦心の演技も報われにくいのは同情に値する、ということになる。そうなると今更ながら、東蔵や歌六の存在感というものがものをいうわけで、彼らが出てくればちゃんと大人の芝居になるのだから、論者が何と言おうと、結局、芝居というものは鍛え込んだ役者の腕なのだ、という当たり前のことを改めて思うことになる。

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新橋演舞場の舟木一夫公演で「忠臣蔵」を昼夜通しという、相当の意気込みが感じられる舞台を見せている。映画や舞台で昭和の初期から演じ継がれてきた「時代劇」というジャンルと、それが培い、伝承してきた芝居作りのメソッドは、新国劇などともに、歌舞伎の周辺演劇・芸能としての観点からも私などには大いに興味深いものがあるが、次第に南風競わなくなりつつある中で、総員とは言うまいが、時代劇の演技の骨法を体得していると思われる俳優を、能うる限りといってもいいほど集めている中でも、林与一の吉良上野介が出色であった。ちょいとした立ち居、物腰、あれは誰にでもマネできるという訳にはいかない。つまり、歌舞伎が隠し味になっているのだ。

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間奏曲風に、アンテナに引っかかった訃報を一、二。海老一染之助、皆さんおっしゃる通り。いい芸人だった。それにしても、染太郎が頭脳労働で染之助が肉体労働というマルクスもびっくりというギャグは、いかにも二人が売り出した昭和20年代を哀しいまでに反映していた。社会党が自由党や民主党と五分に渡り合い、存立していた時代なればこそ、思いついたギャグである。

野村佐知代女史、はじめはさほどでもなかったのが、齢を重ねるにつれご夫婦瓜二つになってゆくサマは絶妙という他はない。他人が何と言おうと、よき夫婦であったに違いない。まさに蓼食う虫、か。

これは訃報とは別。ただ久しく聞かなかった名前を新聞で見つけて、ちょっぴり時が甦った。蛸島彰子氏引退の報である。女性棋士第一号として、テレビ対局で時間係をしていた制服姿のマジメな女学生の面影が甦る。加藤一二三氏が白面の貴公子だった時代と記憶がダブる。

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日馬富士の暴行事件に始まる相撲界の騒動の、とりわけテレビの報道を見ていると、良くも悪くも、いかにもテレビだなあと思わざるを得ない。それが事を引っ掻き回すことにもなり、意外に嗅覚の確かさを示すことにもなり、テレビ文化人衆が蜂の巣をつつき回る模様が日ごとに変転する。

それにしても、貴乃花の憑物でもしたような異様としか言いようのない目つき顔つき態度を連日見せられていると、終戦間もなくに世人を驚かせた「あのこと」を思い出さずにはいられない。あの大横綱双葉山が、璽光尊と称して勢力を張っていた生き神様の信者になって、たしか金沢にあった本拠に警察の手入れがあって逮捕されるという記事が新聞に載ったのを、事件当時、私はまだ小学校に上がる前だったがかなり鮮明に覚えている。引退直後の双葉山と、こちらはまだ現役バリバリだった天才棋士の呉清源という、相撲と囲碁とそれぞれの世界で別格的存在だった二人が、得体のしれない(としか常人には思われない)生き神様の信者になったのだから、踊る宗教だの、南朝正統の末裔と称する熊沢天皇だの、同じころ世を騒がせていた奇態な人物や事件の中でもひと際、世人の耳目を惹いたのだった。(例に引いて申し訳ないが、いまでいえば、白鵬と将棋の羽生永世七冠の二人がそろって、得体の知れない生き神様に引っかかったようなものと思えば判りが早い。)何でも、群がる警官たちを取っては投げする双葉山に、柔道五段という警部が背後から膝にタックルして大殊勲を挙げたのだと、これは大人たちが新聞記事を読んで話しているのを耳にしたのだった。(私は残念ながら、双葉山の現役の姿を、見ている筈なのだが幼時の悲しさ、覚えていない。昭和20年3月の大空襲で前の両国国技館が焼けたために(この時、両国橋の雑踏の中で、松浦潟と豊島という二人の幕内力士が焼死している。松浦潟はクリスチャンだったというがおそらく隠れキリシタンの末裔であろう)、五月場所は後楽園球場で7日間興行で行われ、それを親に連れられて見に行ったことは知っているのだが、悲しいかな茫漠とした情景の断片の記憶しか残っていないのだ。)

双葉山は、宗教心というか、悟道というか、「道」ということに熱心であったようだし、昭和10年代という一種特別な時代に第一人者として生きた人だし、それが敗戦とほぼ同時に現役を引くという巡り合わせもあり、それやこれやが絡み合ってのことだったのだろうが、とかく「××道」だの「××精神」だの「××愛」だのというものはひとつ踏み違えるとおかしなことになってしまうのは、人間存在そのものの哀しさという他はない。貴乃花も、相撲道(夫子自身は「角道」と言っているようだが)や「国体」とやらに熱心なようだが、どうぞ踏み誤らないように願うばかりだ。伝え聞く限りでは、角界改革のためにいい考えも持っているようだが、「国体」というのはもちろん「国民体育大会」のことではあるまいから、まさか、「国体護持」なんていう「国体」ではありますまいね。ともかく、その辺のことがよくわからない内は支持も賛同も出来かねる。

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それにしても、とつくづく思わないわけにいかない。初代若乃花のあの豪放磊落ぶりから、同じ血縁の一族ながら随分かけ離れたところまできてしまったものだ、と。年代から言うと祖父と孫のようだが、当代の父親の先代貴乃花は、初代若乃花の親子ほど齢の離れた弟だから、実は伯父甥の間柄ということになるのだが(初代若乃花の全盛時代に、たしか若緑という四股名だったっけ、三段目ぐらいまで取った実弟がいたはずだが、貴乃花の先代はそのまた弟ということになるわけだ)、あのころ私は栃錦の方を応援していたが、初代若乃花も素晴らしかった。昭和28年の初秋、当時私はJR、じゃない国鉄の大塚駅から5~6分のところに住んでいたが、二所ノ関一門の巡業が大塚駅の駅前広場にやってきたことがあった。当時は今のような「大合併方式」ばかりでなく、一門ごとに小回りの利く形で、都内のこんなところにまでやってきたのだ。(翌年には、こんどは近くの中学校の校庭に出羽ノ海一門がやってきて、私の学校では午後の授業を「校外授業」にして校長以下、全校で「見学」に出かけたものだ。私はそこで、つい前日に明治神宮に奉納したばかりの新横綱栃錦の土俵入りを見たのだった。)さてその大塚駅前広場の二所一門(とか出羽一門とか、こういう言い方をこの頃とんと聞かなくなった)の巡業は、場所柄からか「夜相撲」だったから、電灯を方々にぶら下げた灯りでムードもいい。当時小結ぐらいだった若乃花が控えに座っているそのすぐ後ろで同級生の××君がキャラメルをなめながら見ていると、ふいと振り返った若乃花が「オレにも一個くれよ」と声をかけて来たので、一粒進呈すると、ありがとうと言って口に放り込むとすっと土俵に上がっていった(と、翌日教室で聞いた)。

こういう話は、本当にいいよなあ。「おすもうさん」とはこういうものなのだ。(この頃は「力士さん」なんて妙な言い方をする人があるが。)

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日馬富士は好きな力士のひとりだから、事態を祈るような思いで見ていたが、何発も、それも器物も交えて、殴ったと知って,これは引退もやむを得ないと思った。(それにしても勿体ないことをしたものだ。前場所のあの逆転優勝こそ、この力士の真骨頂を見せたもので、名横綱列伝に入るところだったのに。)

思い余って、平手で一発、というのが(もちろん、場合にもよるが)、人間は神ではなく、理性の抑制も万能ではないという意味で、情状酌量の「のりしろ」だと私は思っている。(私は大人になってから二度、ひとを叩いたことがある。一人は身内の中で最も近くにいる女性で、一秒後に詫びた。もう一人は90歳を過ぎて呆けてしまった私の母親。御不浄でウンチをさせている間のやり取りの中、「いまここにある現実」を受け容れる許容度を超えてしまった瞬間、正確にいえば殴ったのではないが同等の邪険な行為に及んでしまった。母の半身はぐらりとのめって柱の角に額をぶつけた。)

教育の目的の愛の鞭、というのは私はあまり好まないが、力ではなく、思いを籠めた一発、というのは(もちろん時と場合次第だが)「あり」ではないかと思う。つまりこれも、思い余って、であろう。 

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思えば、日常の中で我々は、「ぶん殴ってやりたい」「張り飛ばしてやりたい」衝動に駆られる瞬間に取り巻かれている。駅の雑踏をスマホに「全神経を奪わせながら」歩いてくる奴の「宝物」をすれ違いざま叩き落としてやりたくなる。暗がりの狭い道をチリンとも鳴らさずに間際をすり抜けて行く自転車。(むかしは追い抜くときチリンと軽く鳴らすのが当たり前ではなかったろうか?) 例えばその一瞬前に、かさばる荷物を持ち替えていたらどういうことになるだろう?)、等々、等々々、切りがない。

たまたまNHKのBSの「お茶の間シアター」で『青い山脈』を久しぶりに見た。その中で原節子が、龍崎一郎の頬をぴしゃりとやるのがこの映画全編を通じての肝となる「味のある」シーンとなっている。ああいうのは「暴力」とは別なのだろうか? テレビで「いかなる理由があろうとも暴力は絶対にいけません」と主張する文化人の方々の意見はどうなのだろう? (『女殺油地獄』で父親の徳兵衛が思い余って箒で与兵衛を(何発も)打つのは観客の同情を引く場面だが、あれも「×」か?)

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日馬富士の引退で、現役の横綱が不祥事で引退に追い込まれた事例として、前田山の名前が久しぶりに出てきた。1949年、戦後再開して一躍、大衆娯楽の代表格に躍り出たプロ野球が、戦後初めての日米野球戦を開催した。(終戦から4年、というタイミングを思うべきである。この年は一リーグ時代最後の年となるのだが、因みに、プロ野球の実戦の模様をおそらくあれほど長々と、しかも映画の内容と密接に絡ませながら実写した作品はないと思われる黒沢明『野良犬』は、三船敏郎と志村喬の刑事が山本礼三郎の拳銃の闇ブローカーを逮捕する場面でこの年4月の巨人・南海戦の模様を実写撮影している。この時の巨人・南海戦は種々の事情が重なった因縁試合だったので異常な熱気だったのを利用したのだ。)来日したのはサンフランシスコ・シールズというヤンキースの傘下の3Aのチームだったが、当時の日本のプロ野球は歯が立たなかった。そのシールズの監督としてジョー・ディマジオとかミッキー・マントルといった強打者を育てたオドール監督という名将は、戦前ベーブ・ルース等大リーグチームの選手として来日したという親日家だったが、その第一戦の後楽園での対巨人戦の試合開始前、観戦に来ていた横綱前田山と握手をするという、ハプニング的行事があった。それだけならむしろグッドニュースだが、ところがこの時、前田山は折から開催中の秋場所で初日に勝った切り負けが込み、途中休場中だったから、非難轟轟、遂に引退に追い込まれたのだった。

大関を張ること10年という強豪で、張り手で鳴らした。張り手といっても、いま流行りの、白鵬がやるような立ち合い一瞬の張り差しではなく、猛烈な上突っ張りにまじえるもので、ある場所など双葉山と羽黒山という当時二強とされた二人を張り手で連破して名を轟かせた。前田山は、高砂親方としても協会幹部としても高見山等外人力士を育成するなどユニークな存在で、のちに現役横綱として引退に追い込まれた3例目となった朝青竜はひ孫弟子ということになる。引退間もないまだ講和条約発効前という時代に、引退寸前のような幕内力士4人を率いて渡米するという(向こうで何をしたのかよくわからないが)、常識では収まり切らないことをする、よく言えば先見の明ある人で、この一行の中に、大ノ海という、本人は幕内中軸どまりの弱い相撲取りだったが、花籠部屋を開いて初代若乃花を育て、今日の貴乃花に至るまでの隆盛の基を作った人物がいたのだから、考えてみれば、よくも悪くも、のちに相撲界を騒がせることになる種は、前田山が蒔いたのだともいえる。

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と、ここから大谷やらイチローやら、日米野球の話に持っていくつもりだったが、長くもなったしくたびれたし、それはいずれまたということにして、最後はやっぱり芝居の話で締めよう。

押し詰まった暮れの22日、伝統歌舞伎保存会主催の第21回研修発表会というのが国立劇場で開かれ、『廿四孝』の「十種香」と「奥庭」を米吉が八重垣姫をするという舞台があった。米吉もなかなかの健闘を見せたが、その他の役は門弟クラスの面々だったが彼らの健闘ぶりも相当なものだった。濡衣の菊史郎、音一朗の蓑作、吉兵衛の謙信、蝶三郎の小文治、吉二郎の白須賀六郎といった面々、それぞれによかったが、吉兵衛など、陰で聞かせる第一声など、吉右衛門が御馳走でハプニング出演するのかと思わせるほど、よく練れた大音声は見事なものだった。

夏に行われた右近の「研の会」、歌昇・種之助兄弟の「双蝶会」、先月末の鷹之資の「翔の会」など、それぞれの歩みの中での成果を見せるものだったのを見るにつけ、今更のようだが、若手だけの一座での公演が、正月の浅草歌舞伎一か月だけというのは、ちと検討あって然るべきではあるまいか。

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