随談第600回 秋出水

毎回同じような書き出しで申し訳ないが、またしても随分ご無沙汰になってしまった。ただし今度はパソコンのせいではなく、中小さまざまな原稿締め切りが相次ぎ、そのための調べものにも相当の時間が必要だったためだ。当然、自分にとっての新発見もあるから、これはこういう仕事ならではの余禄である。

日程が順調に運んでいたなら秋場所千秋楽の日馬富士VS豪栄道の大逆転から始めたところだが、出そびれたお化けみたいなタイミングになってしまった今となっては、十一月場所に絡めて書くことにしよう。

と書いたところへ、元若島津の二所ノ関親方が倒れたというニュースに驚かされた。近年、勝負審判になって土俵下に顔を見るようになり、随分細くなったので気になっていたが、それと今度のことは関連はないらしい。テレビで現役時代の映像がいくつか出たのを見て、活躍したのは昭和の末期のことだからそれほど古い昔のことではない筈なのに、昨今の相撲とはこんなにも違ってしまったのかということに驚く。若島津という力士の持っていた個性や風情のためでもあるが、いかにも、力士という雰囲気が漂ってくる。こういう風情は、当節の力士には希薄になってしまったのかと、改めて憮然とした。

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歌舞伎座で『マハーバーラタ戦記』、新橋演舞場で『ワンピース』。こういう出し物で、片や昼の部を通し、片や二か月をこれ一本で乗り切るというのだから、世の趨勢というものを思わないわけにはいかない。

どちらも結構面白い。(少なくとも「野田判ナニガシ」より面白かったのは間違いない。)『マハーバーラタ戦記』には優れた神話・伝説が必ず持っているビルドゥングス・ロマン的テーマ、即ち、一人の若者が様々な試練を受けながら成長してゆく、という「物語」というものの根源が横たわっている。桃太郎がおばあさんの作ってくれた黍団子を腰に下げ、つまり最低限度の生きる糧だけを身に着けて旅立つ。行く先々で、犬や猿や雉という他者との出会いがあり鬼との出会いもある。鞍馬山を出た牛若丸が弁慶や金売り吉次や駿河ノ次郎や伊勢ノ三郎やに出会い、熊坂長範に出会い更には藤原秀衡に出会い…という風に、善悪さまざまな人物や試練に出会いながら成長してゆく。スサノオノミコトもヤマトタケルも、ジークフリートも、みんなそうだし、ウィルヘルム・マイスターもジャン・クリストフもみんなそうだ。そこには、人間いかに生きるべきかという、最も素朴で、それ故に根源的で永遠の問いが横たわっている。やれ心理を掘り下げるの条理がどうした等々といった、アーラ難しの問答無益、小むずかしいモンダイも、結局そこに集約されるのだ。これが、物語というもの、芝居というものの根源である。だから面白いのだ…という、最も単純素朴なことを、『マハーバーラタ戦記』を見ながら、『ワンピース』を見ながら思った。エッ? 『ワンピース』も? そうだ、『ワンピース』にも間違いなくそれがあるではないか。

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それにつけてもだが、七之助演じる百人兄弟の長女鶴妖朶王女が、五王子の惣領彦三郎演じる百合守良王子を見事にたぶらかしたところで序幕が終わり、昼食を取りながら誰言うともなく口を揃えたように言い出したのは、折から解散総選挙となり、身を捨てて大博打を打ったつもりの某氏をものの見事にたぶらかした一枚上手の某女史を連想したということだった。(たぶらかされ王子の名前に〇〇の二字が入っているのも皮肉だが)つまり七之助演じる悪女ぶりにそれだけのカンロクと迫真力があったということで、今回の大殊勲第一等は七之助である。もっとも、菊之助の主人公迦楼奈もいかにも桃太郎を思わせる風情がよく、ひねくれた「個性派」でないところが神話の主人公に似つかわしい。こちらは初案・企画と併せ殊勲賞を進呈しよう。

(聞くところでは、鶴妖朶王女という人物は七之助がするために王女にしたのであって、本来は男性なのだそうでインドの人から見るとけったいな感じがするらしい。がまあ、以前猿翁がやったスーパー歌舞伎の『三国志』で劉備玄徳を女にしたのと同じデンで、こういう手は歌舞伎としてはアリであろう。)

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『ワンピース』を見たのは猿之助が大怪我をして休演となった翌日だった。代役の尾上右近がセリフもよく入っている、と思ったら特別マチネで猿之助の役をすることに決まっていたので、セリフも仕草も完全に入っていたと見える。これはまさしく「天晴れ」を進呈するに値するが、そればかりでなく、猿之助のようなエライヒトがするより初々しい右近がする方が、この狂言の本質テーマにもかなってふさわしいのではあるまいか。

アマゾン・リリーなる女ケ島に大挙登場する女形連のノリにノッている凄まじさも特別賞もので、平素腰元などの役でかしこまっている面々がここぞとばかりの大わらわ。思えば、彼らにとってこれほど発散できる機会というのは他のどんな芝居にもないわけで、扮装も凝りまくりどれが誰やらも見当がつかぬほど。言うなら、無礼講の大宴会の余興を見ているようなものだが、壮観には違いない。またそれを観客がアハアハ笑って楽しんでいるのも、いかにも当世流である。

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歌舞伎座に戻って、玉三郎淀君を見せる『沓手鳥孤城落月』は、歌右衛門風烈女を離れて玉三郎ワールドを作ろうとしつつ、目下のところ道半ばという感。玉三郎にしては珍しくセリフもまだ十分に入っていないかのよう。乱戦の場の裸武者の件をやめるなど、随所に政権成立の暁にはああしよう、こうしたいの青写真が提示される。まあ、今後へ向けての習作というところ。

『漢人韓文手管始』が珍しく出たが、芝翫の唐人姿の役者ぶりの秀抜さなど取柄はいろいろあるものの、脚本をもう少し何とかしないと、この芝居、何が売りなのかが定まらない。国立開場2年後の昭和43年12月、国立劇場で勘弥の伝七、八代目三津五郎の典蔵でやったときの勘弥のピントコナぶりが目に残っている。むしろそういう役者の持っている味や風情で見せるものではあるのだろうが、それにしてもドラマとしての面白さをもう少し前に出せないものか。当時は「唐人殺し」と言っていたっけ。二代目の鴈治郎が昭和27年に関西でしていたのは、迂闊ながら筋書巻末の上演記録で今度知った。今度の鴈治郎も大努力で悪くはないが、まだ「味」よりも「演技」で見せている分、面白味は薄くなる。 

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したが、このひと月足らずの間で一番面白く且つ興深かったのは、サンシャイン劇場での幸四郎の『アマデウス』だ。これぞ「幸四郎歌舞伎」の到達点といってもいい。初演以来30年、周囲もすっかり入れ替わり若返り、孫世代と芝居をしているようなものだが、それだけにまさしく幸四郎一人芝居、これぞ高麗屋風大歌舞伎といった様相を呈する。もともと、『ラ・マンチャ』の幸四郎より『アマデウス』の幸四郎の方が仁にも通い、芸風にも合っていると思ってきたが、少なくとも今度ほど、ご本人が楽しんで芸をしている幸四郎は見たことがない。

筋書巻末に載っている上演記録で過去の上演の折の配役を見ると、うたた今昔の念に襲われる。今を去る35年前、開場間もないサンシャイン劇場で初演した折のモーツァルトが江守徹だったのはもちろん覚えているが、ヨーゼフ2世の近藤洋介、スヴィーテン男爵の臼井正明なんていう配役を見るだけでウームと唸らざるを得ない。(臼井正明はNHKの放送劇団時代は二枚目役で鳴らした人で、映画で初代中村錦之助のやった『紅孔雀』の主役那智の小四郎の役は、原作であるラジオの放送劇ではこの人だったのだ。)宮廷楽長ボンノが名優宮口精二というのも贅沢な配役で、ウィッグをつけた18世紀ウィーンの宮廷姿はまるでハイドンみたいだった。1998年のときには今井朋彦が風2をやっていたなんて、今度この記録を見て初めて知った。(そうだったのか!)初演以来の出演者が幸四郎のほかにもう一人いて、現・高麗五郎の松本幸太郎である。なにかご褒美があってしかるべきであろう。

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新国立劇場の『トロイ戦争は起こらない』。ジロドウの名高い作で確かに面白かったが、今見ると、かなり枝葉がにょきにょき出ているのでもっと刈り込んだら、などと余計なことを考えてしまう。こういう戯曲こそ、「そのとき」があってのものなのだ、ということを改めて思う。

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『レデイ・ベス』再演、相変わらず花總まりの西洋赤姫ぶりが見ものだが、劇中出てくるヘンリー8世の肖像を見て、昔見た『わが命尽くるとも』というトマス・モアを主人公にした映画を思い出した。絶対制君主というものを絵解きしたような、という評が当時あったが面白い映画だった。映画といったが、元は(作者名が今、どうも思い出せない)たしか’A Man for All Seasons’といったと思う、そういう原題の戯曲で日本でも芥川比呂志がモアの役でやったのを見たことがある。いま再演しても面白いのではあるまいか。

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今日は衆院選の投票日。連日の雨降りで、日本シリーズの代表もパ・リーグはつい先ほど、ソフトバンクに決まったが、セ・リーグはまたしても雨天順延である。先日の甲子園での横浜と阪神の泥中戦は甲子園のグランド整備会社が優勝を攫ったようなものだった。今回表題の「秋出水」とは秋の野分で出水するのを言った秋の季語である。・・・と、今回はこれ切り、次回はなるべく早めに書きます。

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