随談第598回 再開の回

永いことご無沙汰をしてしまいました。今日から再開します。

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先月半ばから約3週間、パソコンが使えない状態となってしまった。原因は要するにウィンドウズ7の機器に10の機能を載せたことからくる過重負担であるとの専門家の見立て。入院させた機器は本来の7に機能を戻して退院ということになった。その結果、メールとHPはどうにか無事だったものの、一番の打撃は、10に切り替わってから書いた原稿その他がすべて消えてしまったことで、あきらめのつくもの、つかぬが気を取り直してかかるより仕方ないもの、さまざまある上に、復旧後もいろいろ、試運転やら、その間に入った原稿の締切やら、月初めのこととて集中する劇場通いやらで、中断は更に伸び、かくなる次第となってしまった。ここで得た一つの教訓といえば、『道成寺』の聞いたか坊主の言う、7の機器に10の機能を載せるような、余計なことは致すまい、ということである。

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今日は8月16日、昨日来の間断ない雨降りである。記憶にある昭和20年の夏、8月15日の終戦の日は晴天で、玉音放送そのものは覚えていないが、それが終わってぞろぞろと近所隣りの各家から人が表に出てきたような、不思議な感覚を覚えている。まもなくB29の編隊が次々と飛び来たり、飛び去って行ったのを覚えているが、もしかするとこれは別の日のことであったかもしれない。

当時は鷺ノ宮に住んでいたのだったが、ちょうどその日に、父親が腸チフスで(と聞き覚えているが確かなことは分からない)阿佐ヶ谷の河北病院に入院と決まって、母親は付き切りで一緒に行ってしまい、姉と兄は学童疎開で福島に行ったままであったから、未就学児であった私は満二歳になったばかりの妹と留守番ということになった。父の会社の部下の女性が(どうやって頼んだのだろう? こんな時によくもまあ、引き受けてくれたものだ。今ならパワハラと訴えられかねない)泊まり切りで来てくれたのだった。熊倉さんという名前の、いま思えば高畑淳子みたいなタイプの元気のいい人だったが、一度、雨降りの薄暗い日、さすがに持て余したのだろう、三畳の部屋に閉じこもってしまったことがあった。陰鬱という感覚を初めて抱いた、一つの体験であったろう。八月も半ば過ぎになるとままありがちな、きのう今日のような雨降りの日というと、終戦の年の夏を思い出す。
 
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休載の間に私のアンテナに掛かった訃報というと、役者では中村京紫、中村仲太郎、それ以外では順不同でジャンヌ・モロー、犬養道子、平尾昌晃、上田利治、後藤美代子、安西愛子、野際陽子、西村昭五郎等々といったところか。

京紫はついこの間まで舞台で元気な姿を見ていたから目を疑った。京妙、京蔵に次ぐ雀右衛門一門の姉さん株として、いい女方ぶりを見せるようになっていた。三人三様のなかにも品格があって、たとえば先年死んだ吉之丞のような路線をゆく、これからが本当にいい脇役者となるところだったのに惜しいことだ。仲太郎はしばらく前から姿を見なくなっていたが、かつては「名馬」として名を成した役者である。名題にならなかったからその死は報道の対象にはならない。馬の脚とか立廻りとか、エキスパートとしての誇りから敢えて名題にならないで通す役者が昔からいたものだが、仲太郎もそうだったのだろうか。

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ジャンヌ・モローは、こちらがちょうど学生時代に一番いいタイミングで遭遇した西欧の女優という意味で、私の中で特異な存在となっている。「つむじ風」という曲を『突然炎のごとく』の中で自ら歌うのが絶妙で、サウンドトラックを聴いているだけで気持ちがいい。ああいう女優は日本映画ではまずお目にかかれないだろう。いわゆるファム・ファタルというやつだが、もっとも出会ったのが別の時期であったら、行き違っていたかもしれない。『突然炎のごとく』という作品自体も、トリュフォーとしても結局、この一作だろう。気障といえばこれほど気障な映画もないが、これほど気持ちよくさせる気障もない。その意味でたいした芸だと認めるべきであろう。

後藤美代子氏は、NHKの女性アナウンサーとして特別な存在で、その見識といい、大人の風格があった。出版記念会に版元へのお義理からだが出席してくれたのが縁で、知遇を得ることができたのは幸いだった。

その他の人達も、餓鬼の折から現在に至るまでの私の人生の道程のその時々に、なにがしかの痕跡を残して行ってくれた名前たちである。歌のおばさんからロマンポルノの監督までさまざまだが、それにつけても、人間というものは、何時出会うかそれ次第で、記憶に留まるかただすれ違うだけでしまうかであり、その意味では、現代といえども、人生を旅になぞらえるのにふさわしいのはあくまでも道中を歩く旅であって、乗物に乗って移動する旅ではふさわしくない。

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今月の歌舞伎座では『刺青奇偶』が一番よかった。先達のお手本コピーを徹底的になぞりなぞりしていた中車が、このところになって、何がしか手ごたえを掴んだかのような芝居を見せ始めていたが、今度の手取りの半太郎で、ようやく確かなものを探り当てたように見える。初めに出てきただけで、「板についている」という語源通りの手応えを感じさせる。歌舞伎役者中車として、はじめてバットの芯で捕えた初ヒットである。

七之助のお仲も、玉三郎を懸命に写して(これだけ写していればそれだけでも大したものだが)、しかしどこか違うのは、祖父の先代芝翫を思い出させるものがあるからだ。なるほどこの役は、17代目の勘三郎の半太郎では先の芝翫の役だったわけで、これはちょいとした「発見」だった。この「発見」は、七之助の今後に何がしかの暗示を与えるものかもしれない。(妙な言い方だが、七之助は、玉三郎より骨太なのだ。これは決して悪いことではない。)

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この月の一番の話題は『野田版・桜の森の満開の下』だろうが、見ていていささかくたびれた。決して悪い成績ではない。どころか、勘九郎をはじめ皆巧いものだと感心する。勘九郎だけではない。染五郎も七之助も巳之助も梅枝も、扇雀も弥十郎も亀蔵も猿弥も、ほかの誰彼も、みな溌剌としている。(しかも彼らは、現代劇の俳優のようにこれ一本を何十日もかけて稽古をしたわけではない。この月だけでも、みなそれぞれ、他の狂言で幾つも役をつとめているのだから、他ジャンルの俳優から見たら歌舞伎俳優の仕事というのは驚異的といっても然るべきだろう。)

今度の上演は勘三郎生前の野田との約束をこういう形で実現させたのだそうだが、おそらく、勘三郎がするよりきっとよかったろうと思われる。勘三郎ではもっと「歌舞伎」になってしまったろう。セリフも、あんなにすらすら言えなかったかもしれない。つまり勘三郎と勘九郎たちとでは、それだけ体に持っている「歌舞伎」の濃度や感覚が違うわけで、つまりこういうものをさせれば、今の人達の方が巧いのだ。(まして、17代目勘三郎や歌右衛門や白鸚たちが「野田秀樹」をやる光景など、想像するだけでほとんどグロテスクでしかあるまい。)

面白くなかったわけではない。少なくとも、同じ「野田版」でも一生懸命歌舞伎に近づこうと努力した『砥辰』や『鼠小僧』などより、自分の本領で自分の思うままに作ったこの作の方が、勝手知ったる我が庭のごとく自然で、無理がない。言わんとする主意もよくわかるし、共感も出来る。その意味での才気も疑いない。

しかし、長いなあ。第一幕75分、20分の休みをはさんで第二幕が55分、合せて130分、2時間10分だ。あのテンポであれだけのことをするのに、あんなに時間が必要だろうか? あんなに、まるで強迫観念に取り憑かれたみたいにギャグや駄洒落で埋め尽くさねばならないのだろうか? 客席から笑い声が聞こえなくなるのを恐れているかのように。あのテンポは回転する独楽が倒れないようにするためのもので、独楽の回転と言わんとする中身とは別のもののように思えてしまう瞬間が何度かあって、その都度、やや白けた思いに襲われるのを如何ともし難いのだ。それで思うのだが、筋書に『モッケノ幸い』と題する「七五のリズム」で書いたという文章が載っているが、あれが野田氏の考える「七五のリズム」なのだろうか? 指を7本、5本と折り数えながら書いた文章のように、私には見えるのだが・・・?

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