ペギー葉山という人の名声は昭和30年代半ば以降、『南国土佐を後にして』と『ドレミの唄』の二曲で、国民的な規模で決定づけられたわけで、それに異議を唱える気は少しもないが、私にとってはそれより前の、洋物の歌を歌えば、シャンソン歌手以外は一律にジャズ歌手と呼ばれていた頃のペギーの方が懐かしい。ペギー葉山とかナンシー梅木とか、「二世」という言葉も今となっては古めかしいが、当世流に従えば「ハーフ」でもないのに、姓名の「名」の方を片仮名の異人風にした芸名が、いかにも昭和20年代の匂いを芬々とさせる。この間死んだかまやつひろしの父親はティーブ釜萢だし、トニー谷、フランキー堺、フランク永井等々、歌手と限らず、記憶をたどって数え出せば陸続と続くだろう。プロ野球の選手も、これは本当に日系の「二世」だが、与那嶺要はウォーリー与那嶺だし、西田亨はビル西田だし、日米二つの名前を持っていた。外人選手流入時代の前に、日系二世の選手の時代があったのだ。(因みに長嶋茂雄の前に巨人の三塁を守っていたのは、柏枝という二世選手だった。川上が4番打者の座を下りて長嶋に定まるまで、巨人の4番を打ったのもエンディ宮本だった。)
ところでペギー葉山だが、晩年といっては失礼だが、老いて未だ威風を放つその姿を見かけたことがある。いまの猿之助がまだ亀治郎の名で脚光を浴び出して間もない頃、京都の大学内の劇場で毎夏「亀治郎の会」を開催して注目を集めていたその開演前のロビーの雑踏の中でだった。つまり、彼女は亀治郎を京都まで見に来たのだろう。ごった返すロビーで、強度の近視の私の友人が鉢合わせしそうになってハッとした一瞬、さりげない身のこなしで擦れ違うと、あでやかに人ごみの中に消えていった。見事な光景だった。
*
三遊亭円歌の訃報を知らせるニュース番組で、アナウンサーが「演歌さん」「演歌さん」と初めから終いまで、頭にアクセントを置いて呼んで(読んで)いた。若いとは言ってもそれほど駆け出しとも思われない年配と見受けたが、つまりこのアナ氏は、円歌という噺家の存在を、自分の関心の中に一度も容れた(入れた)ことがないのだろう。知らないということほど、ナサケナイことはない。
*
金森和子さんと言っても、このブログを読んでくださる人の中にも知る人はそうは多くないかも知れない。『歌舞伎座百年史』などの大部の労作の編集に携わった人といえば、少しは分かってもらえるだろうか。私が新聞評を書き出して間もない頃、たまたま席が近くだった時、あちらから名乗りを上げてくれたのが最初だった。まだぽっと出のころに、そういう接し方をしてくれる人というのは、何とも有難いものなのである。
最近しばらく顔を見ないと思っていたら、ついこの正月だったか、歌舞伎座のロビーで立ち話をしていたら通りすがりに挨拶をされ、一瞬だが、金森さんと気が付くのに暇が掛かった。重い病気に罹って、久しぶりの歌舞伎座なのだということだった。たとえそんない方でも会い方でも、亡くなる前に言葉を交わすことが出来て良かった。
*
そして、最後に佐田の山である。
この人が登場した時、既に世は柏鵬、すなわち大鵬・柏戸の時代が始まっていた。栃錦が引退したのは60年安保闘争がいよいよ大詰めに差し掛かろうという五月場所で、その年の一月場所に新入幕した大鵬が、まだ上位との対戦のない位置ながら11日目まで連戦連勝、あわや平幕優勝をさらうかと注目が集まったとき、既に関脇に昇進していた柏戸と普通なら顔の合わない位置ながら対戦が組まれ(こういうことは現在でもちょいちょいあるが、まず真っ先に柏戸を当てたところに、ただの「止め男」ではない期待が籠められていた)、押し合いの末、柏戸が引き落として勝った。
結果としては栃錦がすんなり優勝、場所後にエールフランス航空から優勝力士への報償としてパリ旅行招待という、この年から始まった椿事があった。当時、パンアメリカン航空が、千秋楽の表彰式というと、ナントカさんといったっけ、米国人の日本駐在員が紋付き袴でたどたどしい日本語で賞状を読み上げるのが名物になっていたのへの対抗策として、後発のエールフランスが「パリ旅行」という「記念品」を考え出したのだった。一般人の海外渡航が解禁になる前夜というこの時期を物語る、これも戦後世相史の一ページとして優に書き留められて然るべきことであろう。初場所優勝力士に対するこの「ご褒美」はその後数年続いて終わったが、第一回のこの時は優勝した栃錦に柏戸もお供をするということになって、羽織袴姿でベルサイユ宮殿を見物中の写真とともに、栃錦が柏戸の女房と間違えられて「マダーム」と呼びかけられたというゴシップが添えられてきた。このパリ旅行には、すぐ三月に春場所が始まるという慌ただしい中に一航空会社の宣伝にのっての外国旅行など稽古不足の基であり百害あって一利なし、という声もあったりしたが、さてその翌三月の大阪春場所が、いまでもちょいちょい当時の映像を目にする若乃花との横綱同士の全勝対決で、この一戦に敗れた栃錦は、次の五月場所に初日・二日目と連敗するとそのまま引退したのだったが(大鵬は、だから、一躍上位に昇進した三月場所で、たった一度だけ栃錦と対戦している。ほとんどいわゆる「電車道」で、あっという間に押し出されてしまったが)、当分は、一人天下になった若乃花の時代が続くものと思われたにも拘らず、しばらくは第一人者の地位は保ったものの予想外に早く衰えを見せ(好敵手の引退で目標を失ったと言われた)、大鵬は入幕一年目には大関として柏戸に並びかけ、二年目の秋に横綱に同時昇進した時には既にやや優位に立っていた。まだ青味は残しながらも、時代の趨勢は既に柏鵬にあった。
佐田の山が台頭したのはそういう流れの中だった。体格は見るからに二人より貧弱で、年齢もやや上だった。いいところなしのようだが、しかし突っ張りを武器に果敢に柏鵬に挑み、何度かに一度は牙城を突き崩す相撲ぶりはなかなかよかったし、あまり当世風でない風貌もあって古格すら感じさせた。やや遅れて、当時は珍しかった大学相撲から鳴り物入りで角界入りし、見る見る台頭してきた豊山にはとりわけ激しい闘志を見せたのも、偏狭というより、気っぷのいい、古き良き相撲取り気質と受け止められた。柏鵬より後から横綱になり、柏鵬より先に引退したが、決して単なるB級横綱ではなかった。しばらく優勝から遠ざかった後、二連覇した次の場所、初日・二日目と連敗すると引退を発表したのは栃錦の引退に倣ったのだと言われた。佐田の山に続いて、栃の海、北の富士と、同じ出羽の海一門から横綱が出て、このころまでが名門出羽の海一門の面目が実質をもって保たれていた時代だった。正直に言って、私としては柏鵬にもまさってなつかしい力士である。
*
と、ここまで書いて一晩寝かせて置いたら、今朝の朝刊に元NHKのスポーツ・アナの土門正夫さんの訃報を見つけてしまった。東京五輪の際、例の女子バレーボールの決勝戦のラジオの放送を担当したというのが記事の中心である。なるほど、あくまで堅実なよき意味での女子バレーの決勝戦をテレビで放送したのは鈴木文弥アナで、大詰の日本のサーブの時、「金メダルポイント」と繰り返し絶叫して、批判を浴びながらもしばらく一世を風靡したが、「文弥」などという名前も、このアナ氏を人気者にする上で一役買っていたのは間違いない。(正夫と文弥ではインパクトが違う。)同じころNHKの相撲放送で鳴らした北出アナは名前が「清五郎」だったが、こういう名前がまだこの世代にはちょいちょいあり得たのだ。そういえば昭和30年頃、十両に大瀬川半五郎という力士がいたし、もっと前の横綱前田山は英五郎だった。さながら次郎長三国志だが、何と今年になって、プロ野球で「栄五郎」という名前の新人が活躍している。キラキラネーム隆盛の当節、結構なことである?