随談第586回 舞台随想(その2)

吉右衛門が「七段目」の大星一役、菊五郎が「五・六段目」の勘平一役、仁左衛門が『御浜御殿』の綱豊卿一役(『連獅子』の間狂言の慶雲阿闍梨というのもあるが、あれはまあ、今この際はノー・カウントとしよう)という中で、幸四郎一人、『加賀鳶』の道玄に、芝翫襲名の披露演目『盛綱陣屋』で和田兵衛を勤めるという元気さである。今月に限った話ではない。このところ、こうした「現象」をしばしば目にするが、心身共に健康且つ若いのであろう。やがてXデーが来ても高麗屋ばかりは超高齢者として矍鑠として舞台に立ち続けるのではあるまいか? 舞台ぶりも、同世代の大家たちの中でもひと際、万年青年的な若さを感じさせる。レジェンドとなるのは、案外この人であるかもしれない。

『加賀鳶』の道玄を初めて演じたのは、もう60歳を過ぎてからだった。他にも次々と黙阿弥物を手掛け出し、『筆屋幸兵衛』などは没落士族だから身体にある役といえようが、円転滑脱の趣きからは遠い幸四郎が何故、柄にもない芸質にもない(と思われる)黙阿弥物を?と、真意を測りかねるところも、正直あった。しかしご当人は案外喜劇好きとおぼしく、演じ重ねて道玄も今度で五演目となると、それはそれなりに身について来て、ようやく我が物としたなと認めてよいだけの流露感が感じられるようになった。菊五郎も二度ほどつとめているが正直、如何に当代の兼ねる役者といはいえ、やはり根にある二枚目役者としての体質が、こういう役となるとどこかで邪魔をすることになるからおそろしい。となると、いまや高麗屋を以て担い手と認めるのが現実というものであろう。少なくとも、道玄のオトコとしての強面ぶりは本物である。(勘三郎は遂に一度も手掛けないまま逝ってしまったが、もしやっていたとして、果たしてどうだったろう?)

松蔵の梅玉というものは、これもいまやこの人を以て適任者と認めてよく、あの細身に程の良い量感を蓄えた感じがなかなかいい。鳶の恰好で踵を揃えて束に立った姿が、現在一番風情があるのはこの人だろう。

おさすりお兼を秀太郎がやっていて、このところ頓に、じゃらじゃらした、どこまでが役でどこからが地だかわからないような世話のセリフがすっかり堂に入って、いまやお兼役者として揺るぎがないが(秀太郎がまさかこういう風になろうとは、50年前の国立劇場開場の折の苅屋姫などからは想像もつかなかった)、夜の部の『盛綱陣屋』では微妙をつとめるという変幻自在ぶりを見せるが、こちらは、情の厚さに於いては申し分ないが、セリフのじゃらじゃらがわざわいしてどうも世話っぽくなるのが気になる。先頃の『道明寺』での覚寿もそうだったが、かつての苅屋姫が、覚寿や微妙以上にお兼の方がピッタリになってしまおうとは、まさに有為転変の世の中である。

それにしても、昼の部と夜の部ではお客が入れ替わるからいいのかもしれないが、一日の内にお兼と微妙を同じ役者が勤めるという配役は、どうも感心したことではない。もちろんこれは、秀太郎が望んでしたことではあるまい。東蔵は国立劇場で六段目のおかやをしているし、余儀ないこととはいえ如何なものか。

『加賀鳶』と言えば(通しで出たのは、国立劇場で一度切り、見たことがない)、「木戸前」の勢揃いを序幕とするのが定例となっている。いつぞや赤川次郎氏が、後の場面と筋の上の関係のない「勢揃い」不要論を唱えていたが、なるほど、外題は『加賀鳶』と言いながら鳶は松蔵ひとりしか活躍しない、つまりこの場合も、脇筋である道玄の筋の方が庇を借りて母屋を奪っているわけだ。しかし「勢揃い」のない『加賀鳶』というのも、入場式のないオリンピックみたいなものだろう。

ところでその「勢揃い」を見るとき私がいつも気にかけていることがあって、それは、いざ引き上げと決まって舞台下手に二列に並んだ鳶たちがセリフを言いながら半纏を畳む時の、素早く脱いでビシッと四角く畳む、その手際である。これがなかなかうまく行かないことが多く、中には遂に間に合わず、レインコートみたいにぐしゃぐしゃに持ったまま引き上げる羽目になるのが、大概、一人二人出る。はじめに脱ぐときに袂が引っ掛ると後に響くことになるわけだが、要は気働きの有無であって、今月私の見た日に限って言うと、うまくいかなかった某君の名前は伏せるとして、断トツに手際が鮮やかだったのは右近だった。

この「勢揃い」で、冒頭、押し出して来た鳶たちが花道に並んでツラネを言うのがいわばセレモニーの入場行進みたいなものだが、先頭の春木町巳之助が一同の兄貴分、次の昼っ子尾之吉というのが、ひとりだけ前髪をつけた未成年なのが目につく、この二人がとりわけいい役ということになっている。今度は春木町巳之助が染五郎でこれは顔ぶれから言って順当、役者の格と役の格が重なって結構だが、昼っ子尾之吉に襲名三兄弟の末弟歌之助が、お兄ちゃん二人を差し置いて抜擢されているのがオッと言わせる。声変わりの真っ最中、意気の良さが身上というところだが。

その染五郎だが、自分でも『口上』で笑わせている通り昼夜5役の大奮闘だが、よかったのはこの春木町巳之助と『盛綱陣屋』の暴れの注進といった付合い役、『御浜御殿』の富森は健闘を認めてよいが、実はあの役、作者の指定によると、江戸勤番の都会人が国詰めの田舎侍を装っているのだ、とある。もっとも、そういう富森を演じたのは…などと言い出すと、八代目三津五郎に富十郎に、後は…ということになってしまうが、染五郎に限らず当今の富森は皆、その辺りの含みがどこかへ行ってしまっているような気がする。まあ、それは措いておくとすれば、当節の富森として好演と言ってよいだろうが、肝心の自身の出し物である『毛抜』の粂寺弾正が、思ったほどでなかったのが気になる。喉で発声する昔の癖が戻って、せっかく、懸案だった『勧進帳』で弁慶をあれだけにやってのけ、役者ぶりだけでなく、役どころ、つまり役者としてのフィールドを大きく開拓するゆとりを身に着けたかと期待した折だけに、おやおやというところなのが残念である。

ついでだが、『御浜御殿』で、綱豊に突き放されて富森が吉良を討とうと焦るのをお喜世が必死で止めようともみ合っているさなか、舞台奥の縁先を吉良とおぼしき老人が腰元に案内されて通るのが開いている障子の間から見える、という演出を、何故か今度は採っていない。これは染五郎の責任ではないと思うが、仁左衛門の意向だろうか?

11月の初日を目前に、彦三郎が楽善になり、長男の亀三郎が彦三郎に、次男の亀寿が亀蔵になるということが発表になった。楽善という名前は不勉強で知らなかったが、三代目が隠居名として名乗った名前の由。

彦三郎は、この月の時政でも目についた体の具合から察するとやむを得ないところなのかもしれないが、それでも、「口上」の席に連なってのいかにも渋い、風格ある役者ぶりは、キラキラ役者がもてはやされる当節、滋味のある風情でウムと唸らされる。それにしてもこの人、亀三郎に始まって薪水、亀蔵、彦三郎、そして今度の楽善と、私の見ている前で五つの名前を名乗ることになる。私としても、こんな例は初体験である。(光伸、八十助、簑助、(九代目)三津五郎というのがこれまでの最多改名記録だが、尤も私は光伸時代は見ていない。)

亀三郎といった子役時代に映画に出演している。昭和30年、山本有三の小説の映画化で原研吉監督の松竹映画『路傍の石』で、今も変わらない、生真面目でまっすぐな風貌・演技が主人公の吾一少年にぴったりだった。

亀三郎時代の思い出深い役といえばもう一つ、昭和ひと桁世代を中心に始まった東横ホールの若手歌舞伎が開場10周年を目前にした1964年10月(といえば東京オリンピックがまさに開催中である)、亀三郎等の当時の新世代を主力にした『仮名手本忠臣蔵』通し上演が行われ、現・菊五郎の丑之助の判官におかる、後の初代辰之助の左近の勘平、といった中で亀三郎の役は若狭助に平右衛門だった。とりわけ平右衛門は、その後に見た父親世代の大家たちを含めても、いかにも妹思いの実意のこもった、好もしいものとして今なお甦ってくる。

(蛇足ながら、24歳だった現・左團次の男女蔵が、このとき既に、52年前となる先月の国立劇場と全く同じ師直と石堂をつとめている! 尤も、吉田の兼好を吉田の松陰などと言い間違えたりはしなかったが。)

これを受けて翌40年五月、歌舞伎座で六代目菊五郎十七回忌という特大の興行が行われ(この時に『保名』を踊ったのが11代目團十郎の最後の舞台となったという因縁の公演だった。そのころ何かとトラブルメーカー的行動が続いていた團十郎は、この時も途中休演して物議を醸したりしたが、私の見た日は再出場してからだったのは幸いだった)、丑之助改め菊之助、左近改め辰之助、亀三郎改め薪水という、菊五郎劇団三巨頭の長男3人の同時襲名という晴れ舞台だった。華やかな人気では他の二人に一籌を輸しても、芸が一番しっかりしているのはむしろ薪水だ、という声も少なくなかった。つまりこの時点での亀三郎改め薪水は、菊之助・辰之助と同列に並んでいたのである。

(ついでながら、いわゆる「三之助」なるものは、この時点ではまだ存在していなかった。後の12代目團十郎の新之助は、先の東横ホールの花形揃いの『忠臣蔵』にも、三人同時襲名の公演にも、「学業優先」という理由で出ていなかった。)

好事魔多しという決まり文句が、まもなく薪水を襲った難病の場合ほど、身に染みて思われることはないだろう。東北巡業中の夜行列車の車中だった、と聞いたように覚えているが確かなことは知らない。ともあれ非運はこの時に始まった。身体的なハンディキャップが、それ以後この人の役者人生について回ることになったのだ。長らく病気・保養の時期が続き、やがて亀蔵と改名する。心機一転の心算であったのだろうが、亀蔵時代の舞台は正直、印象が薄い。また数年して彦三郎となって、役どころ・地位、今日に至る歩みを続けてきたが、芯になる役をつとめる機会はほぼなくなった。気の毒、という言い方は却って非礼かも知れないが、薪水襲名前後の、爽やかな舞台ぶりをいま改めて思い起こすとき、何とも言えぬ懐かしさと共に、胸が熱くなるのを覚えないわけには行かない。

彦三郎の名前の先代は、実父の十七代目羽左衛門の前名であり、事情があってのことではあったが、彦三郎という大名跡から羽左衛門という、座元名に由来するまた別な大名跡に変わったのは異例と言われたものだった。新・彦三郎になる亀三郎は、その爽やかで清潔感のある風姿が、父の薪水時代を彷彿させる。良き彦三郎として、父の果たせなかった域に達する「いい役者」になってもらいたい。

弟の亀寿が、薪水でなく亀蔵になるのは、父が病魔に侵されたのが薪水を名乗っていた時期だったのを嫌ったのだろうか? それも分らないではないが、しかし薪水という名は祖父十七世羽左衛門も若き日に名乗った名前でもあるのだし、この際蘇らせてほしいという思いが正直する。この亀蔵は彦三郎家の名前なので坂東亀蔵だが、片岡家にも、現に片岡亀蔵が活躍中だし、羽左衛門家の名跡として市村亀蔵という名前もある(戦前のことだが十五代目羽左衛門の養子に亀蔵という人がいた)。

昭和三十年代から四十年代、中村福助が二人いて、成駒屋福助と高砂屋福助と呼んで区別していたものだが(時には、東京福助と大阪福助と呼ぶこともあったが、これはいかにも艶消しだった。言うまでもないが、この「東京福助」が新・芝翫の父の七代目芝翫のことである)、同名が二人、同時に存在するという事態は、なるべくなら避けた方がよい。

 

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随談第585回 舞台随想(その1)

(むしろ「つなぎ」のようなつもりで書いた前回分だったが、予想外に長い掲載になってしまった。標題を「今月の舞台から」を「舞台随想」と改めます。)

***

今月は、歌舞伎座の新芝翫も結構だが、国立劇場がお徳用である。何しろ、菊五郎の勘平と吉右衛門の大星が見られて、料金も歌舞伎座の3分の2ですむのだ。

菊五郎の勘平はこれで何度目だろう。またか、と思ったりした時期もあったが、その頃だって別に手を抜いていたわけではない。このクラスが顔を揃えて通しで出せば、判官と勘平は菊五郎と判で押したようになるからで、かつて父の梅幸も判官とおかると決まっていたのとよく似ている。そうしてよく、マンネリなどと陰口も聞かれたものだった。一面、それもそうには違いないが、しかしいま振り返れば、判官もおかるも、やっぱり梅幸のが一番懐かしく思い出されるのだから面白い。菊五郎の勘平もそれと同じようだが、今度のを見て、ちょいとこれは、今までとは別物だぞという気がする。することなすこと、無駄というものがない。無駄な力が入っていない。一段奥の境地に入ったのだ、と思わされる。

たまたまこの夏、尾上右近が自主公演「研の会」で五・六段目の勘平をしたのを連想する。まったく同じ型でつとめながら、片方は克明も克明、一挙手一投足に気を配り水も漏らすまい、という意識に満ち溢れていて、そこが秀才ならではの魅力でもあり面白いところでもあり、将来の展望へ夢を膨らませたくなるところでもあり、一方同時に、息も抜けない息苦しさに見ているこちらもへとへとになった理由でもある。菊五郎のはそれと対照的といえば手っ取り早い。菊五郎三傑の一と見て間違いない。(後の二傑は? とりあえず思いつくのは,一に『吉野山』の忠信、二に『幡随長兵衛』の水野、というのはどうだろう?)

歌舞伎座の『御浜御殿』で仁左衛門がこれも何度目とも知れぬ綱豊卿を、玲瓏玉の如き、余計なものの抜け切った境地で、呼吸している。呼吸している、というのも舞台評として妙なようだが、名演だの絶妙だの、技芸神に入るだの、よく使う劇評用語ではどれもピンとこない。

このところ、とりわけ肩の故障から再起して以降の仁左衛門というものは、ちょっと大仰に言えば一種仙境に入ったような感じで、透明感たるや只事ではない。ときとして、あまりにもこうなり過ぎては逆に影が薄くなってしまうような気がすることもないでもないが、いつぞやの菅丞相とか今度の綱豊卿のような役では、過去の誰彼に照らしても、ちょっと思い出せない独自の境地を思わせる。

「七段目」の大星というと、十三代目仁左衛門のを見てから、それも30年前の国立劇場20周年の時より、それより約10年前、公文協の地方公演を小田原まで追いかけて見たときに、それまで知っていた白鸚や松緑等東京の諸優の大星とはまるで別物なのを知った驚きが、あれから40年近くたった今なお、深く私の中に残っている。まさに祇園で遊ぶ由良大尽、「はんなり」というのはこういうことなのかと知った。無論、当代のも結構だが、何といっても戦前の祇園を知っている十三代目のようなわけには行かないのは是非もない。ああいう由良大尽は、おそらく見ることは叶わないであろう。

まあ、そういうことは置いておくなら、また国立劇場に戻って吉右衛門の大星が、東京風の大星としてまず言うところない。こころなしか、前段の遊蕩に韜晦しているときのセリフがやや小音なのが気にならなくもないが、最後の九太夫折檻の懸河の弁で帳消しにする。遊蕩に韜晦するさまと、九太夫折檻の懸河の弁絶の落差の大を自然に覆いくるめてしまう懐ろの大きさが、吉右衛門の吉右衛門たるところであろう。

この他にも東京勢の大星には、幸四郎もいるし、亡くなった團十郎もいたが、そうしたあずまおとこの大星たちの「ますらをぶり」とひと味ふた味違った、菊五郎の由良大尽というのを一度見てみたいものと、かねて私は思い続けている。祇園ではなく銀座だろう、などという減らず口は置いておいて、あれだけの勘平を見せてくれたいま、こういう大星もあるぞというのを「おねだり」しておきたい。

さて新・芝翫の盛綱がなかなか結構である。芸の上では、先月の『熊谷陣屋』よりいいのは生締の捌き役という「仁」に関わることでもあろうが、芝翫型を演じるにあたってのやや手探りの感や、團十郎型への未練も感じられなくもなかったのに比べ、迷うことなく取り組んでいる感じがいい。とかく難渋になりがちなこの芝居が、明快で、それでいて、丸本時代物の量感や奥行きを感じさせるのが値打ちである。とにかく、熊谷・盛綱と、二つの陣屋物をこれだけ見せたのだから、自信を持って然るべきである。

義兄の十八代目勘三郎が襲名の時、『盛綱陣屋』を出して驚かせたことがあった。襲名興行は三カ月にも及んだからいろいろな試みをする余地やゆとりがあったからでもあるが、盛綱とは、とそれまでの「勘九郎」から見て意表を突かれた。ところが本人の話によると、盛綱という役には前々から興味があって、何故かというと、長男坊の気持ちがよく書けているからだという。「だって、次男坊ってのは自分勝手だし、ずるいでしょ?」というのが勘三郎の意見だった。自分の都合だけでなくあれこれ気を配って勝手なふるまいはできないのが長男坊というものだ、と勘三郎は言った。なるほど『盛綱陣屋』というのは、弟の四郎高綱の勝手なふるまいを兄の三郎盛綱が全部自分の責任で引き受けて後始末をしてやるという芝居である。目の付け所のユニークさ面白さはさすが勘三郎だと思ったが、しかしそれなら、むしろ高綱の方が普通皆が思っている勘三郎のイメージに近いであろう筈ではないか? へーえ、と思った。この人はこの人なりにいろいろに気を配ったり、長男坊としての自分を盛綱に重ね合わせていたのだ。勘三郎という人を知る上でもこの「盛綱論」のユニークさは興味深いが、もっともこの長男盛綱に対する弟高綱は、まさか義理の弟の新・芝翫のことではないだろう。

ところでその勘三郎の盛綱は、いろいろ面白いところ、巧味を見せたところ、勘三郎一代の芸を見る上ではなかなか興味深いものだったが、しかし盛綱らしさという一点で、新・芝翫の方が私としては戴ける。当代の盛綱役者としてリストに加えられるものと言っていい。それはもちろん、見たさまだけのことではない。

(勘三郎と言えば、父の17代目も、後半生は兄の初代吉右衛門十八番へ次々と食指を動かすようになって、盛綱も二度にわたって手掛けたが、細部には処々に巧味を見せながら成功と呼ぶにはためらわれる、という体のものであったのを思い出す。)

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随談第584回 十月のさまざま(訂正版)

(お詫びと訂正)冒頭の『箱根霊験記』についての記事の中で、過去の上演の年月の記載に誤りが2か所ありましたので、その個所を訂正したものを掲載します。)

役目柄の劇場巡りの範囲が大幅に広がったのに加え、種々の原稿締切、法事の準備手配等々、身辺何かと小忙しく、このブログも差し替えが間遠な状態が続いている。各座、疾うに楽日も過ぎ、打ち上げてしまった芝居の評判をするのも、出そびれた幽霊みたいで気が利かないから、今月のさまざまと題して、事件やら訃報やらさまざま取り交ぜて一席伺うこととしよう。

***

10月末、片や国立演芸場、片や紀尾井ホールという小さな劇場で、素敵な演奏会を二晩続けて聞いた。国立演芸場は女義太夫の会で竹本駒之助・鶴沢津賀寿の『箱根霊験記』、紀尾井ホールは京都在住の常磐津都喜蔵師(本当はトキゾウの「キ」の字は「七十七」を一字として書く、あの字だが、実はこれは「喜」と同じ意味を表す本字なのだが、コンピュータには採録されていないと見えて変換できない。一般に略字と考えられがちなので、WINDOWS 10を作った技師もそう考え、IMEパッドにも載せなかったのであろう)が10余年来続けている常磐津の会で語った『仮名手本忠臣蔵』八段目と『本蔵下屋敷』である。駒之助は今や、文楽の太夫を含めても今聴いておくべき数少ない一人、まして今回の上演稀な貴重な曲(になってしまった)、今回聞き損ねたらチャンスはあるまいという逸品だった。冒頭不慣れが耳についた津賀寿も後段はよく弾いた。都喜蔵師また、その撥捌きのやわらかさ、少しの力みもない妙音を聞かせてくれる。名人と呼んで然るべきであろう。

(『箱根霊験記』は本来『箱根権現躄仇討』というのが本名題だが、「躄」の字を憚って、近頃はこういう呼び方をするらしい。歌舞伎での最近演は十年ほど前我當が南座で『箱根権現誉仇討』という外題で出した由だが私は見ていない。東京では昭和53年に十七代目勘三郎、歌右衛門、白鸚という大顔合わせで出したのが最後だが、実はこれはやや期待外れで、こういう小芝居種めいた狂言にはこの大家たちはあまり適任ではなかったようだ。昭和46年1月、これが東横歌舞伎最後の公演となった興行で、現・田之助の勝五郎、玉三郎の初花、孝夫の滝口上野というのと、昭和40年2月、猿之助の勝五郎、雀右衛門の初花、延若の滝口上野、竹之丞つまり富十郎の折助で出したのが、私の頭の中ではちゃんぽんになって、田之助・雀右衛門・延若・富十郎というベスト配役として記憶されている。母親役が骨の髄から大阪の役者のような中村霞仙だったのを、今回たまたま坐り合わせた神山彰氏のお陰で思い出した。)

*****

訃報と言えばやんごとなき際(きわ)から忘れかけていた名前までとりどりあるが、誰もが言う平凡な感想ながら、昭和の終わりということを、ビッグネームからマイナーネームまで、それぞれについて思わされた「死」がこのところ相次いだ。

前天皇の弟宮の死は、誰もが言うこととはいえ、これを以て「昭和」は完全に終止符を打たれたことを改めて痛感したという意味で、単なるニュースではなく「私事」に関わってくる死だった。亡くなるまではとりわけて関心事でもなかったにも関わらず、その報と共に、強くそれを意識することになったのは、我ながら意外だった。昭和天皇の戦後に関する事績を民間での行為を通じてほぼ完ぺきに補完した上、先ごろの当近の「玉音放送」まで、見るべきほどのことを見切った上での死であったように思われる。

岩波ホールで「木下順二没後10年」という案内を、あまり直接的な関わりを生前持たなかった私であるにも関わらず頂戴したので出かけたが、なかなか興味深い話を聞くことが出来た。1914年の生まれという。前日逝去された三笠宮が1915年生まれとの由だから、一歳違いだったわけだ。それぞれ立場は違え、本当の「戦中派」というのはこの人たちのことを言うのであろう。言うことすること、すべてが「戦争」と関わっている。

平幹さんについては、私の出る幕はいくらもない。テレビの『三匹の侍』で全国区デビューする前、初代錦之助の『親鸞』など、東映時代劇が新機軸を求めて、岩崎加根子とか河原崎長一郎とか、まだあまり手垢のついていない新劇の若手に目をつけて登用し始めた中にその顔を見つけた、というのが、せめて、語る人も比較的少ないかと思われる、数少ない私の出る幕と言えるだろう。誰しもそうであるように、全国区デビューする前の、痩せて、やや暗いイメージは、平幹氏の場合も例外ではなかったが、それも含めてイメージとしては終生、これほど変わらなかった人も珍しいとも言える。あの声、あの物の言い様、当時からああだった。そこに、この人のシャイネスがあるような気がして、そのために私は、最後まで好印象を持ち続けることが出来たと言っても過言ではない。声音と物の言い様に独特の知性が漂っていたという点、先年逝った三国連太郎と双璧であったろう。

野球界から、法政から広島に行った山本一義、慶應から巨人、さらに東映に行った渡海昇二と、しばらく耳から遠ざかっていた名前の訃報を相次いで聞いた。どちらも、私が大学に入学した時の、六大学野球でそれぞれのチームの主将だった。入学して最初に見に行った試合が慶法戦で、山本も渡海も、実物をそのとき初めて見たのだった。山本の方は、約十年後輩の山本浩二も同じ進路を辿ったもう一人の山本として、首位打者のタイトルは取らなくとも常に打撃十傑には入っていたように、地味だが実力派としてプロ球界名選手列伝の一隅に座を確保するほどの存在として全うしたが、渡海の方は、パッとした成績を残すことなくわずか4年でプロ球界から名前が消え、それから無慮半世紀余、稀に彼が主将を勤めていた秋のシーズンに繰り広げられた早慶6連戦のことが話題になる折に、ちらりと名前が出るという程度だった。渡海の名が六大学野球で知られ出したとき、野球好きでかなりの母校愛の持ち主と察しられる戸板康二さんが喜んで、「慶應に渡海屋銀平が現れた」と書いたことがあったが、肝心の銀平クンの活躍がせめて歌舞伎ファンにまで広く知られるに至らなかったために、折角の戸板さん一流のウィットもちょっといい話のネタになりそこなったのは残念だった。

同じ学年には早稲田の主将で国鉄スワローズに入ってまずまずの成績を残した徳武定之とか(はるか後年、郷ひろみの岳父として名前を聞くことになったのは思わざることだったが)、スター選手がかなりいた。のちに工学部の教授になったという東大のエース岡村が、9回裏満塁から投じた一球がデッドボールになって押し出し、負け試合になってしまったのを目の前で見たこともあった。次の学年で、大洋ホエールズに入って東大からはじめてプロ野球の投手となった新治よりも、岡村の方が名投手だったと思う。それにつけても、この年代から訃報が相次いだのには物思わずにはいられない。因みにそれは、60年安保の年である。

元羽黒岩の戸田が死んで、大鵬戦での世紀の大誤審のことが新聞の片隅にちょっとした記事になったが、確かに、あの頃の大鵬だったら、戸田とのあの一番がなかったら70連勝ぐらい行っていたかもしれない。

行司の軍配は大鵬に上がりながら物言いがついて負け、40何連勝だったかでストップとなったところが、翌日の新聞に載った写真から検査役の誤診が明らかとなり、それが元でビデオ判定が実施されるようになったという話はよく知られているが、それよりも、あの場所後大鵬は気晴らしのつもりかオーストラリアに遊びに行き、ビアホ-ルで豪快にジョッキを空けていると、その様子を見たオーストラリア人の客からビールの飲み比べの挑戦を受け、受けて立った大鵬の圧勝に終わった、という話なら、ここに紹介しておく価値があるかも知れない。ところでこの記事を受けて、朝日の「素粒子」欄だったか、カンガルー焉んぞ大鵬の志を知らんや、と書いたのは天晴れだった。こういう記事、イマドキの朝日の記者に書けるだろうか?

日本シリーズは近来稀に見る面白さだった。それぞれのリーグで、形は違うがそれぞれに劇的な形で優勝を遂げ、今年はクライマックスシリーズを蛇足と思わせたチーム同士だったのもその一因だろう。初戦二連敗して広島に歯が立たないかと思った日ハムが、一気に雪崩を打つように4連勝してしまったのが、いずれも接戦ばかりというところに、一戦一戦の機微が窺われ、素人受けも玄人好みもする、面白いゲームばかりだった。結果的には、広島は相撲で言う喜び負けの形になってしまったわけだが、目の前で日ハムの優勝が決まってもぞろぞろ帰ってしまったりしないカープファンも、敬意を表するに値するだろう。

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