随談第582回 今月の舞台から

秀山祭の歌舞伎座は、吉右衛門王国の弥栄を祝うがごとくいまや爛熟の境。大蔵卿で正面を切ったまま階段を何度か上り下りする折など、実は内心ひやひやする。高齢者の仲間入りした肉体は否応なく盛時の勢いを奪われつつあることは否みようがないが、舞台の上に立ち現れる人間像はいよいよ鮮明に、作り阿呆に韜晦する、その奥の心境を眼前させる。こういう大蔵卿は見たことがないと言ってもいい。「いのち長成気も長成、ただ楽しみは狂言舞」の後、下に降りて「暁の明星が西にちらり東にちらり、ちらりちらり」と空を指すところが圧巻。その分厚い感触は、他の誰の大蔵卿にも覚えたことのないものである。

魁春の常盤が、かつて加賀屋橋之助時代のこの優に、義父歌右衛門がその教育方針を問われて、行儀のよい品格ある役者にと答えたという、その通りの姿となっていまそこにいる。この人の定高を見たいと思う。政岡ももう一度見たいと思う。戸無瀬や萩の方やを見たいと思う。<BR>私は歌右衛門を信者として神の如くに拝跪した体験を持たない者だが、しかしこの種の役を演じる歌右衛門をその盛りの時代に(正直、時としてやや辟易しながらも)見たことを貴重な体験であったと信じる者でもある。魁春は、義父のそうした役々を、間近にあって熟知するどころか、雛鳥や小浪や初花姫等々で四つに組んで芝居をした人である。そうした体験を、この人ほど数多く持つ優は他にない。(12月の国立劇場では戸無瀬を務める由、期待したい。)

『吉野川』を吉右衛門・染五郎の大判事・久我之助、玉三郎の定高・菊之助の雛鳥という配役は、今日での大顔合わせであることに間違いないであろう。たしかに、当代の歌舞伎としてある水準を行く舞台であった。吉右衛門の大判事は、その芸容の丈高さに於いて文句ない立派さであり、「倅清舟承れ」の眼目のセリフは、その含蓄と量感の点で、父白鸚や叔父二世松緑に勝るものと思う。(それとは別に、白鸚の無骨さが、いま思えば恋しくもあるのだが。)

玉三郎の定高は新聞評にスマートで素敵なおばさまぶりと書いたが、内容芸容とも玉三郎歌舞伎として見る分にはそれ自体完結した世界を構築している。玉三郎が引き受ける以上、こうした定高像を作り上げることになるのは、これはこれとして認めるしかないわけだが、丸本時代物『吉野川』の一役としてこう演じられれば、雛鳥役の菊之助としては行きどころを封じられた形にならざるを得ない。またそれとは別に、菊之助は久我之助がむしろ本役であろう、ということも改めて知れる。祖父梅幸以来の、音羽屋の人たちの芸質であり体質と考える他はない。(今回は今回としてふと思いついたのは、菊五郎に定高を奮発してもらって、吉右衛門と文字通り「あいやけ同士」として、菊之助の久我之助に雛鳥は右近、というのは如何であろう。)

染五郎が、久我之助のすぐあとに『らくだ』で屑屋の久六になって出る。これは染五郎流の役者心として認めて然るべきであろう。昼の部開幕に『碁盤忠信』を再演したのは曾祖父七代目幸四郎に因んだ演目だが、実は母方の曽祖父初代吉右衛門が子供芝居時代に演じたという隠し味も利かせている。アイデアマン染五郎のプロデュース力というのはなかなかのものである。

『らくだ』には実はいろいろなバージョンがあるが、今度のは岡鬼太郎作の『眠駱駝(ねむるがらくだ)物語』だから、半次の妹おやすなどというなくもがなの役(とはいえ小米がじつに可愛らしい)が登場したり、座付作者としての鬼太郎の配慮が今となっては却って邪魔臭いが、このバージョンの初演が昭和3年3月の本郷座、初代吉右衛門の久六に13代目勘弥の半次というのだから、じつはこれも、叔父吉右衛門の蔭で染五郎も秀山祭をひそかに営むという隠し味になっているわけだ。(小米のやっている妹役の初演者しうかとは、後の14代目勘弥の少年時代である。)

新橋演舞場に新派が、但し半月興行だが久々に掛かり、二代目喜多村緑郎襲名公演を出したのは、新派としては一種の賭け、将来掛けての試金石というものだろう。新・喜多村緑郎になる月之助は大変な荷物を背負うことになるが、そういう問題はちょっと脇に置いていうなら、俳優月之助としてはよき道を選んだと言える。ひと頃、毎年7月の旧歌舞伎座を、猿翁の後を玉三郎が引き受けて鏡花劇をしきりに出していた頃、当時段治郎だった月之助がなかなかの実力を見せていたのが相当に強い印象となって記憶に残っている。先頃は若獅子の連中の応援を借りて新派公演として『国定忠治』を出したりしたが、新派本来のものも含めて、女性路線に傾きっ放しだった新派の間口を広げられる可能性がある。

それにしても川口松太郎『振袖纏』、北条秀司『振袖年増』と、昼の部に並べた戦後新派の佳作たちを見ても、昭和20~40年代頃の新派というのは、何という大人の世界を当たり前のような顔をして毎月のように舞台に乗せていたのかということがよくわかる。(もっとも、『振袖纏』を今回時代物にしたのは松也の出し物としての特例であろう。これでは、物語は同じでも松太郎物の味は出ない。)

いつも言うことだが、昔に比べれば、など言い出せばともかく、脇役のしっかりしていることも、痩せても枯れても新派の財産である。柳田豊、佐堂克実辺りが最古参だろうが、中堅どころの女優たちの粒の揃っていること。市川猿琉が喜多村一郎と名乗って新派俳優となって新・緑<BR>郎に文字通り影の如くに付き従ったのにも、健闘を祈らずにはいられない。

文楽が国立劇場開場50周年記念に『一谷嫩軍記』を昼夜で通すという頑張りようだが、逆に言うと、良きにつけ悪しきにつけ、そこから文楽の現状が如実に窺えるというものだ。文雀も亡くなり、昔、というのは国立開場以前からの人といえば、人形では簑助、三味線の寛治、團七、清治、太夫の咲太夫ぐらいのものか。團七が「陣屋」の後半を弾いてさすが年功という処を見せたが、この人がこんな大きい場を弾かせてもらったのも久しぶりだろう。(なにしろかつては津太夫を弾いていたのだ。)そういう意味では、単に手薄になったということばかり言うより、場が与えられればちゃんと出来るのだという人は、まだ他にもいる筈だ。腐っても鯛、と言ったら言った方が失礼だが、可惜鯛を腐らせておくのは、文楽の側の不見識であろう。

咲太夫がチャリ場の「脇ケ浜宝引」語って巧いものだが、何となく、やや細って元気がなかったのが、この際だけにちょっと気になる。大事にしてもらいたい。