随談第566回 綴じ目の弁

アレよという間に歳末となってしまった。今年のページはこれで閉じることにしよう。

前々回の題を「訃報&訃報」として北の湖や原節子のことを書いたと思ったら、それからわずかの間に野坂昭如さんなど幾つもの訃報を聞くことになった。「戦後」という時代が終わろうとしていることを思わざるを得ないが、(『火垂るの墓』のあの餓死する幼い妹が、たぶん私と同年ぐらいであろう)、死の翳は次第に裾を広げて、私にとっては趣味以上の趣味ともいえる連句を接点として30年来の同年の知己であった翻訳家の坂口玲子さんの場合もそうであるようにように、至近弾がわが身の近辺にもしきりに落ちるようになったのも、この二、三年来のことである。

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数年来の懸案であった『東横歌舞伎の時代』をようやくこの歳末ぎりぎりに滑り込む形で出版することが出来たのが、「私的」な意味での今年のトップニュースということになる。昭和29年の1954年12月から昭和46年の1971年1月までの16年間、いまの東急デパート渋谷店、当時の名称で東横百貨店の9階にあった東横ホールという中劇場で行われた歌舞伎公演の年代記だが、こうした形で、戦後という「時代」を切り取って書いてみたいという思いが根底にある。完全に「私的」な思いだけでエッセイのような形で書ければ本当はよかったのだが、そういうわけにも行かなかったのは、やはり「調べて書く」という作業を伴わざるを得なかったからだ。資料としては、往時の『演劇界』と、俗に「筋書」といって場内で売っている公演ごとのパンフレットとが根本資料、それに「記憶」という「血液」が潤滑油ということになる。この「潤滑油」がもっと多量であったなら、と思うものの、こればかりは今更、どうしようもない。

ともあれ思い立ってから7、8年は経っている。(正確に言えば、翻訳家である畏友池央耿氏に勧められたのがきっかけだった。池氏は、実は東横の舞台は私などよりよほど初期の頃から見ている、隠れた歌舞伎通である)。資料としての、手許に欠けた分のパンフレット集めは木挽堂書店の小林順一さんに多くを負うことになったが、雑誌と違って「筋書」というものは古書店では扱わないのが普通だから、「ご観劇の記念に」お求めくださいと場内でアナウンスしているあの手の刊行物は、「お求めになった」ご当人が、もういらないやと手放したり、あるいは亡くなった時に、闇へ消えてしまう運命にある。実際に書き出したのが2011年秋、一旦書き終えたのが昨14年3月。しかし26万字を超え、400字詰原稿用紙で650枚を超えるという分量では、買ってくれるのは図書館ぐらいなものという値段になってしまうというので、約3分の2に減らすことになり、そのためには事実上、全面的に見直し、構成も変え手直しもして、書き直すのに9カ月かかって、再度の完成がちょうど一年前の昨年末ぎりぎり、それから後は出版社側の作業に移って、掲載写真の肖像権の問題やら何やかや、結局この歳末に滑り込むということになった。版元である雄山閣宮田哲男氏の忍耐力の賜物である。定価3000円+税、読んでいただけたなら心から感謝申し上げたい。

それにしても、この前出した『歌舞伎百年百話』から明けて9年も経ってしまったのには驚かざるを得ない。実はその間、2冊分、書いているのだが、出版ということにはならずにいる。ひとつは『演劇界』に2010年から翌年にかけ18回連載した執筆者の列伝『演劇界人物誌』、もうひとつが、このブログに昨年いっぱい断続的に連載した『勘三郎随想・勘三郎48文字』だが、更にこの他に、澤村田之助丈の自伝『澤村田之助むかし語り・回想の昭和歌舞伎』と、中学校以来の友人でドイツ語教師をしながら歌舞伎の劇評を『演劇界』などに長いこと書いていた故佐藤俊一郎君の遺稿集『今日は志ん朝あしたはショパン』の二冊を、協力者はあってのことだが、二冊の著作の編集をしたり、怠けていた覚えはまるでないのだが・・・

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春からこのブログに連載を始めた「BC級映画名鑑」の第一章「映画の中のプロ野球」は前回でお終いということにしたばかりだが、たまたまその後、日本映画チャンネルでテレビ初放映という触れ込みの昭和31年新東宝映画『天国はどこだ』を見ていたら、思いがけない場面にぶつかった。場所の特定はしていないが海抜〇メートル地帯辺りと思しい環境劣悪の地域に志願して赴任した保健所の医師(を演じている沼田陽一を覚えている人も少なくなってしまったろうが、骨っぽい好青年役で好感のもてる好俳優だった)が、地域の少年たちの野球チームのために、学校の後輩だという縁で、何と国鉄スワローズの金田正一選手と町田行彦選手に指導に来てもらうというのだ。弱小球団だった当時の国鉄の投打のスター選手の特別出演というわけである。津島恵子演じる保育園の先生に、タクシーを降り立った金田が声を掛けて道を訊く。その後、ユニホーム姿になって金田が投げる球を町田が打つという、それだけのシーンだが、正直、そもそも私はこの映画の存在すら覚えがなかったぐらいだから、こんなところに若き日の金田や町田が出ていようとは夢にも知らなかった。意外な記録として、書いておくことにしよう。金田は今なお知らぬ者もない大選手だが、町田を知る人はいまでは少なくなってしまったろう。初期のスワローズ生え抜きの強打者で、なかなかの好選手だった。この映画の前年の昭和30年度のセ・リーグの本塁打王になっているから、ちょうど人気の盛りだったことになる。

映画自体は、松林宗恵監督若き日の良心的な社会派作品の力作で、なかなか見せる。津島恵子と思い合いながら暴力団員を殺して前科者となった青年が木村功という、主役の三人が三人、いかにもという配役だが、懐かしさも手伝って予期せぬ収穫だった。昭和31年と言えば、新東宝がそれまでの文芸物や青春物が主体の良識派路線を変更して間もない時期だが、こういう作品も作っていたのだ。

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ついでに言うと、NHKのBSで小津の『秋刀魚の味』をやっていたので久しぶりに見たら、中村伸郎扮する、例によっていささかシニカルな人物が、笠智衆と北龍二の中学時代以来の友人に、昔の恩師のために一席設ける計画があるから付き合えといわれて、大洋・阪神戦を見に行く予定を棒に振ることして店に行くと、その試合をテレビで放送中で、大洋の4番打者桑田が打席に入っている、という場面があるのを知った。正確に言えば、忘れていたのだが、もちろんこの桑田は、後の巨人の投手の桑田真澄ではなく、三原が大洋の監督時代の長距離砲として鳴らした桑田武である。阪神の投手はバッキーが投げているのも、いかにも昭和37年という感じだ。昭和37年というのが、ここでは動かせない意味があるのであって、巨人の監督が水原から川上に変って、まだ川上体制が確立していないこの時期、大洋・阪神戦というのが、大人の野球ファンの見るものだったのである。例の「巨人大鵬卵焼き」というフレーズが言いはやされたのもちょうどこの頃のことで、それを裏返すと大洋・阪神戦ということになるのだ。

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最後に、かつてこの欄で恒例としてやっていた「若手役者年間賞」を歳末特別付録 として久しぶりに復活してみよう。

◆トリプルスリー 菊之助 

・知盛(盗塁=あれよという間に二盗・三盗・本盗をたてつづけに決めた。いや、まさかのランニングホームランというべきか? 但し、旅では魚屋宗五郎までしたそうだが、宗五郎の肌ぬぎと弁天小僧の肌脱ぎは意味が違う筈。聡明な菊之助がそれを知らない筈はないのだが・・・?

・信夫(本塁打=振袖を着た女房役という味な役で若女形としての本領発揮。再演の玉手御前は、悪くはなかったが初演の鮮烈さに代る「何か」がいまひとつ明確に見えずフェンス越えとは行かなかった。)

・敦盛&小次郎、犬塚信乃(打率3割=若衆方としての稟質の純度と高さは抜きん出ていた)

◆長打率 七之助(お三輪=平成中村座では「御殿」、歌舞伎座では「杉酒屋」「道行」で合わせて一本。いや柔道の話ではありません。お父さんを亡くしてこの方の長足の成長ぶり。雪姫、おちくぼの君等々、長打連発。

◆打点王 染五郎(『四谷怪談』の5役、豆四郎、実盛と、打撃に幅が出来、若き4番打者としての風格(のようなもの)を思わせた。但し富樫は、喉を絞った発声などやや元の木阿弥の感あり、新大関昇進はもう一場所、見送りか。(アレ? いつの間にか相撲の話になっていた!)

◆特別賞 尾上右近(「研の会」で踊った『鏡獅子』。打球は遥か場外へ消えた。「諸君、脱帽だ。天才が現われた」と叫んだという故事は、誰が誰のことを言ったのでしたっけ?)

◆敢闘賞 巳之助(棒しばり、芋掘長者=悲しみに耐えてよく頑張った!感動した!)

◆びっくりポン賞 隼人(『おちくぼ物語』の左近少将=あれは誰だろう?と筋書の配役表を見直させた。)

この他にも好成績・好舞台は多々あったが、賞の数はあまり多くない方が値打ちがある。またの機会ということにしよう。

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このブログも、まず本年はこれ切り。良い年をお迎えください。

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随談第565回 私家版・BC級映画名鑑 第8回 映画の中のプロ野球(番外その3・映画の中の大相撲2)『名寄岩 涙の敢闘賞』

前回(随談第561回)、「映画の中のプロ野球」の「番外その2」として『三太と千代の山』を紹介したが、先月たまたま神保町シアターで『名寄岩・涙の敢闘賞』を見る機会が出来たので、これ幸い、「番外その3」として加えることにしたい。神保町シアターの企画としては、「作曲家小杉太一郎の仕事」という中の一作としての上映だった。小杉太一郎は、ちょうど私が中高生でしきりに時代劇映画を見ていた頃に映画音楽の作曲家としてデビューした人で、『血槍富士』とか『黒田騒動』とか、内田吐夢監督と片岡千恵蔵が組んで評判だった作品が懐かしい。

この『名寄岩・涙の敢闘賞』は父の小杉勇の監督で、昭和31年6月封切りの日活映画、前に書いた『川上哲治物語』『若乃花物語』等、本人の出演による一連の伝記ものの先駆ともいえる作だが、昭和29年6月に映画製作を再開した日活が、やがて石原裕次郎や小林旭等の路線を主流にするようになるまでの一時期の、そのまた一時期のささやかなトレンドとしての一作と言える。但し、後続作と違ってこの『涙の敢闘賞』は池波正太郎が新国劇のために書いた脚本が元になっていて、その意味では舞台劇の映画化でもあるわけだが、それだけ作品としての骨格がしっかりして厚みがあり、どこか文芸映画に近いムードさえある。当時の日活は、文芸映画をひとつの路線としていた。

本人がみずから出演して自分自身を演じるというのが売りだが、意外にも、年齢も川上や若乃花より一世代上、気質としても、昔気質で一徹な性格から考えても一番こうした趣向が向いていなさそうに思える名寄岩が、実はなかなかうまいのも面白い。少なくとも、川上などの比ではない。二言三言セリフを言うだけで、あとはスランプを脱するための素振りを繰り返すシーンばかりの川上に比べ、名寄岩は物語の核心となる演技をするのだから、比較の対象にならないようなものだ。演技が上手いというより、その真実味に於いて、本人が出演することの効果が最大限に発揮されたという意味では、相当のベテラン俳優が演じても多分こうは行かなかったろう。まさに巧まざる「名演」と言える。

当時の実況放送のアナウンサーが必ず「老雄名寄岩」と「老雄」の二文字を冠のようにつけて呼ぶのが常だったように、私が実際に見知っている名寄岩は、40歳まで現役を続けた(先頃引退した旭天鵬が名寄岩の記録を破ったというのがささやかなニュースとして、久しぶりに名寄岩の名が音波に乗った)、その晩年の何年間かだが、ちょうどそれがこの映画の核心となる時期に相当する。

若い頃は「怒り金時」(つまり金太郎を思わせるような童顔、体躯で、昂揚すると顔から全身から金太郎のように朱に染まったという)と仇名された一概者で、一徹な人柄を語るエピソードとして、既に幕の内力士となっていながら門限にほんの数分遅れたために小雪の舞う厳寒の冬、翌朝の開門の時刻まで外に佇んで待ったというのは、一種の伝説となって知られていたし、勝ち名乗りを挙げる時に手刀を切って懸賞を受取る作法も、名寄岩が範を示して見せたのが後の手本となったのだとされる。(先頃引退した豊真将は、その限りでは名寄岩の遥かへだたった後継者ということになる。真っ正直な土俵態度やケレン味のない人柄で人気のあった大関の魁傑なども、人気の在り様としては名寄岩と共通する面があった。ひとつの系譜といえよう。)

兄弟子の双葉山、弟弟子の羽黒山と共に立浪三羽烏と呼ばれ、戦中から終戦直後にかけ大関に二度昇進して二度陥落(一度は全敗している)、糖尿病に悩まされていたとは当時から聞いていた。剛力に任せた真っ正直な四つ相撲であったため、体力の低下がそのまま成績に反映され、番付も一時は幕尻近くにまで陥落したが、30代半ばに至って奇跡の復活を遂げ、遂には関脇にまで復帰した。ちょうどその頃関脇から大関に昇進した栃錦が老雄名寄に苦杯を喫した一番を覚えているが、小兵の技能力士であった当時の栃錦は、名寄岩のような力相撲を取る力士を鬼門としたのである。この映画でも、下位に低迷してわずか三勝か四勝しか挙げられなかったそのわずかに上げた勝星の相手の中に、まだ平幕だった若き日の初代若乃花(当時は若ノ花と書いた)の名前がアナウンサーの声として聞こえて来る。(当時の代表的なスポーツ・アナといえばNHKの志村正順アナだった。前に書いた和田信賢から志村正順へというのが、NHKのスポーツ・アナの系譜ということになる。)

映画では、幕尻近くに下がって大きく負越し、休場すれば十両陥落必至となった名寄岩が奇跡のカムバックを遂げ、9勝5敗で迎えた千秋楽の備州山との一番に死力を尽くし、水入りとなっても方屋(かたや)に下りられず土俵上に坐りこみ、再開後も力戦むなしく遂に破れ,受賞には星ひとつ足りないため絶望と思われた敢闘賞が、特別の計らいで授与されることになったという、当時評判となった逸事を頂点として物語られる。山根寿子演じる病身で寝たきりの妻にまだ小学生の男の子がひとり、妻の妹が田舎から見舞いに来たまま帰るに帰られず主婦代り母親代りをつとめるという家庭で、その妹役の高田敏江がなかなかいい。近所の商店街の店主で、かつてその体格のよさに惚れ込んで立浪親方に紹介したという元力士の人情家が沢村国太郎、もう一人名寄贔屓の近所のおっさんが織田政雄。この辺りの配役は人情劇として水も漏らさぬ布陣といえる。(沢村国太郎は、ようやく若手スターとして売り出し始めた倅の長門裕之、津川雅彦と共に製作再開した日活に入ったのだった。)

次の場所も不振が続けば十両陥落は必至、元大関としてそれは引退を意味する。そこへ救いの手を差し伸べたのが新入幕当時から10年余来の贔屓の木暮教授で、勤務する大学の病院に特別のはからいで入院させてくれる。名寄岩は巡業を休んで入院、徹底的な治療の傍ら、付き人の取的を相手に病院の庭で稽古に励む。当初は付き人にも負けてしまう状態だったが、遂に克服、迎えた夏場所で奇跡の復活、敢闘賞を受賞するが、その報を聞きながら妻は後事を妹に託して息絶える。

という筋だけ語れば絵に描いたような人情劇には違いないが、これがほぼすべて事実に基いているところに有無を言わせぬ力があり、切々と訴えてくる情感は決して安手ではない。先に言った名寄岩自身の真実味と、小杉勇監督の外連味のない演出によるところが大きい。

滝澤修演じる恩人の木暮教授とは、日大総長・総裁として日大を今日あらしめた器量人で、歌舞伎通・相撲通としても知られた呉文炳であることは明らかで、名寄岩の入院したのが板橋の日大病院、そこの院長の役が菅井一郎、教授の令嬢の役に当時売り出して間もない芦川いづみが出ているのが、思わずオオと声を上げたくなる清純さだ。呉教授と名寄岩の関係は、名寄岩が新入幕だった昭和12年当時、花道を引き揚げてくる名寄岩を、憧れるように見上げる幼い少年の可愛らしさに思わず抱き上げたのが教授の長男坊だったというのが機縁という、ささやかなエピソードも短いショットで描かれる。当時幼い少女だった妹娘がいまは妙齢となっている(つまり芦川いづみである)という中に、歳月が暗示される。令嬢からの頂戴物のカステラを、家族と付け人に平等に分けるために物差しを当てて切り分ける場面も、正直の上に几帳面な名寄岩の人間を語る実話であろう。

妻初枝の役の山根寿子は登場する場面すべてが病床の上というおよそ発散しない役だが、この時代の女性を演じる上でこれ以上の適役はないであろう。長谷川一夫の相手役として数多くの時代劇を撮っているが、山田五十鈴とまた違った意味で、長谷川とはベスト・コンビであった。日活の製作再開とともに日活に移ったが、その後の日活の路線がアクションもの中心に変わったこともあって、必ずしも恵まれた環境とは言えなかったのが惜しまれる。何度も映画化された『細雪』の最初の阿部豊監督版で雪子をしているが、女の匂いを感じさせるという意味で、おそらく最も雪子らしい雪子であったろう。

ついに引退した名寄岩の断髪式の場面に、兄弟弟子でいまは時津風理事となった双葉山と立浪親方として羽黒山が特別出演する。立浪親方は、劇中では先代親方として林寛がつとめているが、引退の前年に死去したため、名寄岩から見れば弟弟子になる羽黒山が部屋を継いだのだった。この辺の事情は映画では全く説明抜きだがやむを得ないところだろう。羽黒山は、40歳近くまで現役を、それも横綱として続けた強豪力士だったが、最後の数場所は現役横綱として二枚鑑札で親方を兼務したのだった。(栃錦も晩年の数場所、二枚鑑札で春日野部屋を継承したが、現在ではこの制度が無くなったため、親方が場所中に誕生日が来て定年退職すると、後継者が現役力士だった場合、途中休場の形で引退という形になるケースが生じる。どうも釈然としない制度だと思う。近年では、佐渡ヶ嶽部屋が元琴桜から琴の若に移行したときがそうだった。)

断髪式の場面に、髯の伊之助と呼ばれた名物行司式守伊之助の白髯姿や、これも太鼓の名人として知られた呼出し太郎なども映る他、横綱の吉葉山の不知火型の土俵入りや、三根山が支度部屋で贔屓客らしい玄人筋の女性と談笑するショットがあったりするご馳走も、この映画の余禄の内だろう。前述の備州山との水入りの一戦の場面は、既に引退していた元備州山の年寄桐山が髷をつけた現役時代の姿で出演、名寄岩と相撲を取るのだが、どうしてなかなか迫力がある。

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『BC級映画名鑑』の「映画の中のプロ野球(大相撲)」はこの回でひとまず終了、新年からは「大女優のBC級名画」(大女優以前の大女優)を随時連載の予定です。

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随談564回 今月の舞台から

歌舞伎座は新聞評に「玉三郎歌舞伎学校」の趣き、と書いたように、玉三郎学長がとりしきる「大和屋式女庭訓」だが、学生はもちろん共学で、大学生もいれば中高生もいるから、一貫教育風でもある。あるいは自ら演じあるいは自ら演出し、学長先生の熱意にはほだされるが、教育方針もなかなかユニークのようだ。

「玉三郎演出」と銘打ったものもあれば謳っていないものもあるが、大なり小なり何らかの「玉三郎演出」の目がどの演目にも配られているに違いない。『赤い陣羽織』は在来の岡倉士郎演出、福田善之演出に対して明記したのであり、『関の扉』に竹本・常磐津掛け合いにするという大変革を施しても、こうした曲に演出とは名乗らないのは慣例に従ったまでのことであろう。

それはまあ、『千本桜』の道行を清元に直したりするのは昔からあることだから、『関の扉』を竹本・常磐津掛け合いにしたっていけないわけではないが、「昔むかし」という語り出しから、むしろ竹本の方が主体になっている。関の扉を挟んでの関兵衛と小町のやりとりひとつとっても、関兵衛は竹本、小町は常磐津が受け持つから、わかりやすいといえばわかりやすいのは一得として、(松緑にはこの方が向いているとも言える)、奥へ行けば行くほど、曲調・曲想の反りが合わなくなるのは如何ともし難い。しかし味わいなどというものは馴染んで来ればそっちの方が好みという人もやがては出現するかもしれない。玉三郎好みのテイストということであろう。『妹背山』のお三輪というのも、玉三郎としては数少ない丸本物での持ち役だが、これも、お三輪という役の一面が玉三郎のメルヘンチックなテイストと反りが合ってのことで、あくまで「玉三郎の婦女庭訓」というべきものだろう。

ところで玉三郎教授の生徒たちだが、松緑も七之助も、松也も児太郎も、大役を二つも三つも受け持っている。それを何とかやってしまうというところが、良くも悪くも現代という時代である。松緑は、ともかくも彼なりに力をつけてきていることを認めよう。関兵衛など、お祖父さんを西瓜とすれば夏みかんほども顔の大きさが違うから、あの扮装がさまになるだけでも大変な苦労努力が必要に違いない。松也が、宗貞などという不得要領な役を、それなりにそれらしく見せているのは、二枚目としての天性の良さといえる。児太郎という人は、濡衣なら濡衣、橘姫なら橘姫、それなりに役になるのに感心する。やや老けだちに見えるのも、やがて吹っ切れる時があるに違いない。

こうした中で七之助のこのところの進境というものは、ちょっと感心する。『関の扉』も小町を、『妹背山』も「道行」までは七之助に任せ、墨染から、「御殿」から玉三郎にバトンタッチという方式で、それだけ七之助を信頼してのことともいえるが、それはそれとして、特にお三輪の場合、このまま七之助で「御殿」まで見たいと思わせた。

中車という俳優をどう考えればいいのか、私は今なお、手探り状態でいる。何の役にせよ、とにかく相当のレベルでそれなりにこなしている。この人の履歴を考えれば感心してもいいのだが、なんとなく、もやっとしたものが残る。思うに、尻尾を掴まれまいという用心が過ぎるのではあるまいか。(そんなことを言われてもねえ、とご本人が聞いたら言うかも知れないが。)もちっと黙って見ているより仕方がないかもしれない。

      ***

見る前は、今更『四谷怪談』でもあるまいに、まあ染五郎がお岩さんをやってみたいのだろうから仕方がないさ、といった気も正直、ないでもなかった国立劇場だが、存外に悪くなかった、こりゃ案外いけるでえ、というやつである。染五郎と(幸四郎もか)国立劇場の文芸部が、いろいろ細かいところにまで気を回して、台本の上でも、舞台上の工夫の上でも、一所懸命、辻褄を合わせたり、現行の慣例がほったらかしにしているところに気配りをしたり(たとえば序幕の「浅草田圃」に登場するお岩が糸立を手にしていたり、庄三郎の扱いを整備したり)、的中率にしたらさてどうだろうか、ともあれ好感度を上げる要因になっていることは間違いない。

発端に『足利館門前』、大詰に『師直邸夜討』という『忠臣蔵』劇のフレームをつけて、(染五郎が作者鶴屋南北として話を現代につなげるやり口は、大西信行版『牡丹灯篭』に於ける三遊亭圓朝、猿翁が『獨道中五十三駅』復活初演の折の(二代目鴈治郎だったっけ)作者鶴屋南北を登場させたアイデアのパクリのようだが、この染五郎の如才なさぶりの好感度がなかなかいいのでちゃんと洒落になっている。(こういうときのセンスの良さは、猿翁などよりずっと上等である。もっとも、そのエグさの有無が澤瀉屋と高麗屋を分けるところで、猿翁が今日の大をなしたのはこうしたエグいところを厭わず押し付ける「厚かましさ」があったからでもある。染五郎のボン・グウはそれに耐えられるだろうか?)

ところで『四谷怪談』を『忠臣蔵』のフレームに嵌めるという試みは。その猿翁が夙に昭和50年代にやっていて、そのときは「六段目」までの後に「隠亡堀」まで、次に「討入り」までの後に「仇討」まで二日掛りで上演したという初演の形に準じて、しかも今度のような実録風ではなく『仮名手本』そのものを演じたのだった。

今回のもう一つのミソは、小仏小平と小汐田又之丞の筋を表に出したことで、「又之丞住家」を出したのは、私の覚えているのは昭和43年7月の歌舞伎座で、17代目勘三郎のお岩・与茂七・小平に勘弥の伊右衛門の時で、17歳だか18歳の玉三郎が又之丞妹という役をつくってもらって出したとき(又之丞は訥升時代の宗十郎だったか。出番は少ないのにちゃんと覚えている)、その後にもう一回、勘三郎が北版と称して串田和美演出でコクーン歌舞伎で出しただけであろう。伊右衛門の母親のお熊という役は、「隠亡堀」だけだと、仮にも武士の母親とも思われない汚い婆アとして出るだけだが、ここが出ると彼女の日常が見えて、いわゆる「通った役」として、萬次郎が出ただけの甲斐のある役になる。またここに登場する高麗蔵の赤垣伝蔵が実にいい。『忠臣蔵』というフレームを明示したのが今回上演の眼目とすれば、高麗蔵の仕事は画龍点睛の働きをなすものと言っていい。

もうひとつ、これは新聞にも書いたが、いつもの三役に加え発端の南北と大詰の大星も併せ都合五役をつとめる染五郎に、若き座頭といった風情なり格なりがほの見えたことで、世代交代の気運の満ち始めた折から、そろそろ新大関昇進の時期も近いか、という感じもする。(少し気が早いかな?)

となると、御大幸四郎はご隠居さんか、ということにもなるが、隠居はともかく、相も変らぬ幸四郎風新劇には違いないとはいえ、この人の伊右衛門というのは悪いものではないし(現にいまの第一線級で伊右衛門役者が他にいるだろうか?)、芸に齢を取らせていないのは偉い。思えばいまはない日比谷の芸術座での木の芽会で、染五郎の伊右衛門に万之助の直助でやったのが、今年でちょうど50年前ということになる。つまりこの人の伊右衛門を、もう半世紀見てきたことになる。先の又五郎がお岩で(これは名演の誉れ高い傑作だった)、父の八代目が「隠亡堀」だけ与茂七で特別出演したのだった。ひょろ長い伊右衛門と直助に左右からはさまれた直助が、安っぽい現代風のビルの谷間に沈んだ格調ある赤煉瓦の建築みたいだった。もう一つ思い出した。このとき「隠亡堀」以外の場の与茂七は、先頃死んだ吉之亟だったっけ。

と、今回は褒めた『四谷怪談』だが、いつもいつもオミットされる「三角屋敷」を、いまやもう冗談ではない、ここできちんと出しておかなくては。それこそ、国立劇場に求められるところだろう。先の猿翁の時はちゃんと「三角屋敷」を出している。こういうところが、猿翁の端倪すべからざるところと言える。

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文楽は、本興行の方の『奥州安達原』「環宮御殿」で千歳大夫も文字久大夫も、時代物らしいスケール感があってよく語ったが、鑑賞教室の方の『三十三間堂棟由来』がなかなか結構だった。私の見たのはBプロの方だが、「鷹狩の段」の咲甫もよかったし、「平太郎住家」から「木遣り音頭」を語った英大夫が出色だった。この大夫は、大曲を語るにはやや非力だが、こういうものを語らせればしっかりしている。無駄に修行はしていないというやつだ。

お柳もだが平太郎がよく語れるのがこの曲の勘どころで、平太郎と言えばかつて歌舞伎で歌右衛門が復活した時の三代目左団次のいいことと言ったらなかった。魁春と梅玉で(鴈治郎という手もある)、国立劇場で如何であろう。

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新橋演舞場の舟木一夫公演がなかなかよかった。このところ天一坊の伊賀亮だの物々しい役が続いたが、今度の勝小吉は、青果の『天保遊侠緑』とも子母澤寛の『父子鷹』とも違い、小吉自身の書いた『夢酔独言』から新規に作ったのがよかった。水谷八重子や林与一など、共演者にも人を得ているのがこの公演のいつもいいところで、今回特に英太郎が大活躍をする。(ちょっぴり芝翫や芝喜松に似ていることに気が付いた。)しばらく前だがテレビのチャンネルNEKOで「舟木一夫オン・ザ・ロード」という番組を見たが、なかなか面白かった。つまり、この人、芸談を語れる人なのである。

勝小吉といえば、映画では阪妻の最後の映画(撮影未完で死んだのだった)の『あばれ獅子』や、『父子鷹』は市川右太衛門が小吉で中学生だった北大路欣也が麟太郎役でデビューしたのを見ている。NHKの大河ドラマで『勝海舟』を渡哲也がしたときには、何と松緑(二代目である)が小吉役で出ている。

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毎年暮れの三越劇場には劇団民芸の公演が掛かる。何だか奈良岡朋子一座のようなことが多いが、今年は小幡欣治作の『根岸庵律女』、つまり正岡子規の妹の話で、一代記というか、一種の芸道物風というか、もちろん再演だが近頃古風ともいえる芝居を、初演では主役の律をした奈良岡は今度は母親役で脇に回り、若手を前面に出している。もう宇野重吉を知らない世代なのだそうだ。若い女優の声がびんびん響きすぎるのが、民芸や前進座の特徴というか(まさか芸風ではないだろう)玉に瑕だが、良い意味での新劇らしい舞台で、久しぶりにこの劇団を見直した感じだ。

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随談第563回 訃報&訃報

北の湖と原節子とはふしぎな取り合わせだが、これも何かの縁の端であろう。もっとも、北の湖は文字通りの急逝だが原節子の場合は三月も前の9月初めに亡くなっていたという。つい先日も大映の二枚目スターだった(頃が私には一番なつかしい。『青空娘』で若尾文子を田舎教師の菅原謙二と争う都会派の好青年などがよく似合った)川崎敬三が同じように、「亡くなっていたことがわかりました」という近頃よく耳にするニュースとなった。この二人の場合は故人の遺志を尊重してそうなったのだからいいが、かつてはそれぞれの世界で相当に鳴らしていたような人が、「亡くなっていたことがわかった」といった小さな記事になっているのを読むことがちょくちょくある。人は棺を蔽ってわかるとよく言うが、そう言ってしまったのではちょいと気の毒な感じもする例もまま見受ける。むしろ、報道する側がどれだけの知識と理解と見識をもって死亡記事を書いているかを問いたくなることも少なくない。

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北の湖は、強さという意味では戦後最強力士であったろう。優勝回数など記録の上ではそれを超える人もあるが、他を寄せ付けない圧倒的な強さのイメージを植え付けた点、彼に勝るものはない。まさに巨象の荒れ狂うが如し、という感じだった。「戦後横綱番付」を作るとすれば、終戦直後の最も困難な時代の土俵を支えた羽黒山と共に、東西の正横綱の座に坐って然るべきである。

北の湖の手形を見ると、普通人でも少し大柄な人ならもっと大きな人はいくらもいそうなほど小さい。指が短いからで、師匠の初代増位山の三保ケ関親方が、北の湖の指がもう少し長かったら文字通り無敵であったろうと言ったというが、つまり指が短いと取ったまわしを切られやすい分、安定感に欠けることになる。闘志漲る相撲で抜群の強さを見せながら安定感に若干の憾みを残したという点で、かの朝青龍は小型北の湖だったとも言える。(但し、北の湖が朝青竜と違うのは、同じ強いが故に憎まれても、決してヒールではなかったことである。)

そのデンで行くと、現在の白鵬は小型(というのは語弊があるが)大鵬ということになる。負けない相撲。盤石というより、相手の力を吸収してしまう柔構造の耐震力という点で、二人は共通する。見ていて、強い、というのとは少し違う。大鵬には柏戸という、相撲ふりでもイメージの上でも対照的な好敵手がいたが、白鵬の場合は朝青竜が不祥事で早くにいなくなってしまったのが、連勝や優勝回数といった記録を作る上では幸いしたかもしれないが、強さを競い合うという意味では不幸であったかもしれない。大鵬を偉とする点は、柏戸以外にも、横綱、大関から関脇以下に至るまで、強豪・巧者、強敵があまたいる中で戦ったことで、だから大鵬の連勝記録は30連勝40連勝台までで、その代わり何度もしているのは、難敵が大勢いる中でいかに安定した強さを長期にわたって示したかを物語る。

いまの白鵬の相手として、取り口の共通点から言って、稀勢の里が大鵬に於ける柏戸、日馬富士が栃ノ海に擬せられるが、稀勢の里は柏戸に及ばず、日馬富士は栃ノ海に勝ると言っていいかもしれない。(今場所の日馬富士は大したものだった。白鵬を破った一番は、夏場所、弟弟子の照ノ富士初優勝のために奮起して、土俵際まで追い込まれながら飛燕のごとく懐に飛び込んで白鵬を倒した一番と共に、その真骨頂を見せたものと言っていい。)

白鵬が終り三日を3連敗したことを云々する声があるが、日馬富士戦、照ノ富士戦、鶴竜戦、どれも勝った方を賞賛すべき見応えのある相撲だったではないか。とりわけ照ノ富士が両まわしを引き付けて白鵬の腰を利かなくして寄り切った剛力には改めて恐れ入った。

一方白鵬は、先場所来の故障休場を通して衰えの兆しを自覚したかのように見える。と同時に、初場所以来の、審判に不審をあからさまにするなどの暗い翳が吹っ切れたかのように、隠岐の海戦の櫓投げ、栃煌山戦の猫だましなど、一種の遊びの境地のようなものが察知される。北の湖が理事長として猫だましに苦言を呈したのはケジメという意味で正論であったわけで、ただ予期せぬことに、それが遺言でもあるかのようなタイミングになってしまった。そこらの阿吽の呼吸を読むべきであろう。(猫だましは、かつて若き横綱として旭日昇天の勢いにあった大鵬に、15,6歳も歳が離れ、老境に入ろうとしていた大ベテランの出羽錦がやったのが、お前さん、もう俺の手にはおえなくなってしまったよなあ、といった、一種人を喰ったようでもあり、口惜しいがお前さんを認めざるを得ないぜといった、ベテランの複雑な思いを反映したようでもあり、といった、なかなか味のあるものだったのを思い出す。当時まだ若かった大鵬は怒ったらしいが、大ベテランから貰った勲章でもあったわけだ。)

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10年ほど前になるか、明治座で『長崎ぶらぶら節』を石川さゆりがやったことがあって、これが結構行けた。それが名物の、主人公の長崎芸者がお座敷で横綱の土俵入りをする場面を欠かすわけには行かない。そこで土俵入りの伝授を北の湖に受けた。自身、明治座まで来てくれたという。スーツ姿だったが上着を脱いで、目の前で本息でやってみせてくれたのが「本当に素敵でした。セリ上がりなどまるでアトラスが地球を持ち上げるようでした」と石川さゆりが言っていたのは、さもありなんと思われる。

私の娘婿というのはロック歌手を目指してCDの一枚も出した昔を持つ男だが、見たことがないというので一度本場所を見せたら、理事長として初日の協会挨拶のために紋服姿の北の湖が土俵に上がるのを見て、「格好いい」と呻いていた。

この二つの話に通底するのは、男としての迫力が生み出す男の色気である。終生それを持ち続けた。こういうのを、本寸法の男の中の男というのであろう。

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原節子の場合は、既に生きながらの偶像として評価やイメージが、まるで氷結してしまったかのように、誰の言うことも固定してしまっている。一種の不幸とすら言いたくなるほどだが、実はこうした評価もイメージも、引退する前から出来上がっていた。以後ほぼ半世紀、変わることがなかったとも言えるわけで、それが彼女の「偉大さ」の証しと言ってしまえばそれまでだが、あるいは、今度の「死」によって呪縛が解けて、いろんな評価が出てくることになるのかもしれない。

その一方、これは又聞きだが、その死を伝えるどこかの局のニュースショーで、司会者とコメンテーターの3人ともが、あっけらかんとした口調で、原さんて私は一度も見たことがないんですけどねえ、とやっていたという。世代の、あるいは時代の違いを言いたいのか、あるいは、原節子など知らなくとも恥とも何とも思わないということか。

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私が密かに畏敬するところのある私より若いさる女性が、小津の作品での原節子が、どこか無理をして小さくなっているように見える、と言った。フームと思う。かなり鋭いところを突いている一言と思われる。

それとは直に結びつくことではないが、時に小津作品の原節子に、デケエなーと思(ってしま)うことがある。『晩春』の冒頭、生け花を習う場面で感じたのが最初だった。(その場面では、和服に腕時計をしている。つまり彼女は職業を持つ女性なわけだが、時計をはめたままでいるわけだ。)

もうひとつ。原節子はときどき、にこやかに笑いながら、はっとするほど怖い顔をする。これも、原節子を語る上で見落としてはならないことだろう。

それにしても。大正9年、1920年という、芸界人当り年の生まれの、中村雀右衛門、山口淑子、森光子、そして原節子(ついでに言うと川上哲治も!)その他その他の同い年生まれが、これでみんないなくなってしまったことになる。活躍の頂点が人生の早い方にあった者、後半生にあった者、晩年にこそあった者、それぞれの人生の在り様が、こう並べてみるだけでも浮き彫りになる。

結びに、私なりの原節子三傑。

1. 小津安二郎作品から『麦秋』

2. 黒澤明作品から『わが青春に悔いなし』

3. 成瀬巳喜男作品から『山の音』

(番外)千葉泰樹監督『東京の恋人』(こういう、いわゆるプログラム・ピクチャーでの原節子を語る人があまりいないのを、物足りなく思うのは私だけだろうか? それなら、というわけでもないが、いずれ、BC級映画名鑑に書こうと思っている。)

やはり昭和20年代に最も輝いた人だった。その輝きに於いて、抜群の光を放っていたことは確かだろう。

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水木しげるが死んで、私などが喋々するために出る幕はないが、ひとつ思うのは、手塚治虫と水木しげると、漫画というジャンルは戦後二人の天才を出したわけだが、小説や戯曲ではどうだろう? ということである。

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