随談第559回 続・今月のあれこれ

『放浪記』の林芙美子役が仲間由紀恵に変っての初公演が話題になっているが、一口評でいえば、まずは無事に通過というところ、もうひと声上げて、精一杯よくやった、と言ってもいいだろう。

難しいのは、脚本から舞台からその他何やかにやら、森光子の体臭が染み付いてしまっているので、それを、これからどう自分のものに洗い直し、染め変え、着こなして行くかで、たとえば芙美子の行く先々で、男どもから、あの拙い面といった雑言を浴びる。脚本は別に森光子に当込んだわけではなく、実際に林芙美子がそう言われたことを踏まえているわけだろう。森光子だってちっとも拙い面だったわけではないが、そこをうまく自分と重ね合わせて(観客に)実感させるように見せていた。ここらが千回も演じ込んだ年輪であって、いわば森光子と観客の間で共犯関係を成立させていたから、そうあり得たのだ。仲間由紀恵には、当然だがまだそれがない。ばかりか、顔立ちから言って、はるかに「美貌」という印象が表に立つ。むしろ苦労して、なかなかよくそれを目立たせないでいるのは褒められて然るべきかも知れない。にもかかわらず、脚本の上の男どもの雑言と、舞台の上の芙美子の間にウソっぽいものが流れてしまう。これは如何ともし難いことであって、今後演じ重ねる内にどれだけそれが解消されていくか、言い方を変えれば、仲間由紀恵と観客の間にどれだけ共犯関係が成立してゆくかに掛かることになる。

成瀬巳喜男監督、高峰秀子の芙美子役による映画『放浪記』は、同じ菊田一夫脚本に基いていて、部分部分には舞台よりもいいところもいろいろある優れた作で、高峰自身も、一番好きな作品と言ったとかいう話も聞いた気がするほどだが、流石の名映画女優高峰秀子もこればかりは舞台の森光子の名声の陰に光を奪われてしまった。これも結局は、観客との共犯関係の成立の度合いの問題であるだろう。実際の森光子が(高峰秀子が仲間由紀恵が)実際の林芙美子にどれだけ似ていたか否かの問題ではない・・・筈なのだが。 

瀬戸内寂聴師が先頃東京新聞に面白いことを書いておられたのをちょっと拝借させていただくのだが、かつて瀬戸内晴美の名でようやく作家として認められるようになった頃、折から舞台の『放浪記』もようやく盛名高くなって、あるとき森光子の方から、女流作家連を劇場に招待するということがあった。平林たい子だ佐多稲子だ円地文子だといった錚々たる人たちがまだ健在で、瀬戸内女史はようやくその驥尾に付して見物させてもらったという。さてその終了後、大御所連の批評の凄まじかったこと、あんなの林芙美子と全然違うわよ、あの人せいぜい『放浪記』ひとつ読んだだけでやってるんじゃないの、といった調子であったという。

まあ、そういうものなのだ。平林たい子に至っては。生き証人も生き証人、自身が村野やす子なる役名で登場人物として舞台に出てくるのだから、つまり初演から10年、20年ぐらいまでの『放浪記』は、往時を身を以って知る人たちにとってはいわば「同時代劇」だったわけだ。それを思えば森光子も、そうした生き証人達がいなくなるまで長命して演じ続けたればこそ獲得した、あの「勝利」だったのだとも言える。翻って仲間由紀恵の場合は、森光子をずっと見続けてきたという「生き証人」たちと戦わなければならないわけだ。そうした生き証人たちを「共犯者」としてグルにしてしまえるかどうか? かかってすべてはそこにある。舞台は観客との格闘技なのだ。

『放浪記』で仲間由紀恵よりも気になったのは、芙美子を取り巻く男たちになる男優たちが、総じてこれまでとはガタッと落ちることだ。演技の巧い下手よりも、時代の雰囲気がないのと、役のキャラの表現にエスプリのないのが、芝居全体を痩せさせている。今度の一番の弱点はそこだろう。大昔のことは言うまいが、大出俊だ米倉斉加年だ山本学だ、いま思えば皆、なかなかのものだったことが改めて思われる。

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熊倉一雄、宝生あや子、庄司永健、八木昌子といった古くからの新劇人の訃報を、この秋になってから立て続けに聞いた。古くからの、といっても皆戦後派で、大なり小なり、ラジオやテレビで一般にも馴染の顔となったというひとつの世代として、ある種の感慨を抱かせる。

この中で八木昌子にはちょっぴり格別の感慨があって、久保田万太郎が死んだのが私が大学4年の5月のことだったが、その年の初冬のある日、久保田先生の母校に追善の奉納、といった感じで文学座の連中が三田の校舎にやってきて、大教室で『釣堀にて』を立稽古形式で上演したことがあった。演出の戌井市郎に中村伸郎、夏原夏子その他といったれっきとしたメンバーだったが、万太郎の戯曲の言葉の面白さを堪能するためには、なまじ衣装を着け装置を飾った舞台で見るよりも良き体験であったといまも思っている。ところでこの時に、新人として売り出したばかりの八木昌子が楚々たる風情で、女中か何かの役で出ていたのだった。新劇の若手女優にはちょいと類のない、といって新派の女優ともまた違う、しっとりとしたいい風情で、その後、紀伊国屋ホールだったかで万太郎のものをした時に、フームと感心したことがあって、ちょいとした隠れファンの自覚もあったのだった。それから何十年か相経っての後、ふとした縁でご本人と話をする機会があったのでこの時の話をしたところが、まるで記憶にないようだったというのがこの話のサゲとなる。恰幅もよくなってそれはそれでよろしかったが、かつての楚々たる風情はもうなかった。隠れファンとはいえまんざらでもなかった人、ご冥福を祈りたい。

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目に止まった訃報がもうふたつある。まず橘屋円蔵から。

最晩年に鬼気迫るような『お直し』を三越落語会でやって、評判が良くてもう一回、開場したばかりの国立演芸場でやって間もなく死んでしまった先代の名を継ぐまでの、月の家円鏡だった時分の円蔵が、テレビをつければどこにでも出ているといった人気者だった時分というのは、思えばもう40年からの昔になる。それにしてもきれいさっぱり、当節のテレビからは寸毫もその名は聞えてこなくなっていた。私自身が、誰それがどこで何をするから聴きに行く、と言ったことをしなくなってしまって久しいから、時折、思い出してはどうしているんだろうと思うことはあっても、それなりになっていたから、久しぶりにその名を聞いたのが訃報であったことになる。

それにしても、盛んな当時の円鏡がこういうことを言っていたのが忘れがたい。自分たちの世代の噺家で、いい噺家といえば志ん朝さん、巧い噺家といえば談志さんだ、あたしはそのどちらにもなれないからお客様に可愛がられる噺家になろうと思う、というのだった。とにもかくにも、志ん朝・談志と三幅対になろうという、そういうことを言って、また客の方もそう聞かされて許していたのである。
    

もうひとつの訃報は野球の石井連蔵である。小学生時分の私にとっては早稲田の名選手としてラジオでその名を聴き(当時は六大学野球の実況中継を当然のこととしてラジオで放送していた)、学生時代には早稲田の監督としての姿を神宮球場で見ていた。長身で、真っ黒に日焼けして名前の通り石のように意志が固そうで、あの早稲田のユニフォームがよく似合う、いかにもワセダの人というイメージ通りの人だった。もうひとり、早稲田の両石井として、石井藤吉郎という人がいて、こちらはふっくらとした体格で大人(たいじん)の風があった。

長嶋茂雄氏などよりもう一世代前の、古き良き六大学野球が存在し得た時代の人と言える。その意味では、最後の人であるのかもしれない。

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随談第558回 今月のあれこれ

今月の歌舞伎座については新聞に書いた以上のことを多く語る必要はあるまい。二代目松禄追善がらみの出し物に、音羽屋畑とは縁があまりなかった仁左衛門に玉三郎がそれぞれの得意のものを出して昼夜に並べたという、互いに隣りのテーブルを気にし合いながら、別々に注文した料理を食べているような按配で、玉三郎が『文七元結』に角海老の女将で出るが何だか気もそぞろで身に沁みないようだし、仁左衛門が『髪結新三』に加賀屋藤兵衛で出れば、あんないい男の婿が来るならお熊は忠七と駆け落ちしなくてもいいのではないかと余計なことを思わせたり、ご馳走というよりお付き合いというところ。(それにしても玉三郎の角海老の女将は、時々、せりふに呂律が回らないような妙な口跡が気になる。今に始まったことではないが、今回はとりわけ気になった。)

菊五郎が『髪結新三』に鰹売りで出る。菊十郎直伝だそうだが

流石に「カッツオカッツオ」という呼び声のあの最初の「カ」の音が出ない。(そうやすやすと出たら大変で、菊十郎は上がったりになってしまう。)しかしそれもご愛嬌で、こちらはまさしくご馳走になっている。菊五郎は『文七元結』でも見事に音羽屋一門の統領としての貫録を示して、追善の実を上げた。ここらが、菊五郎劇団を伊達に名乗ってはいない値打ちである。

松緑の新三についてかなり辛辣な声も幕間に聞いたが、私は必ずしもそうとばかりは思わない。たしかに、祖父の新三とは違う。勘三郎二代の新三のように、親子よく似ていながら独自の新三を作れれば一番幸せだったろうが、そう行かないからと言って即ちダメというのは、ちと料簡が狭いというものだ。二、三、四と、松緑三代は一見それぞれ柄も芸の色も違うが、マッチョな男っぽさというひと筋で紛れもなくつながる。その一筋でつながれば、新三が祖父ほど粋でなくたって構うことはない。(その祖父だって、はじめて新三をした頃は、師匠の六代目菊五郎と比べられて、同じ江戸前でも六代目は鮎だが松緑はサンマだなどと言われたのだ。)

音羽屋ビル内に店舗を借りて店を出したような風情の仁左衛門と玉三郎だが、「のれん街」の支店よろしく『大蔵譚』に『阿古屋』という銘柄品を並べる。もっとも『大蔵譚』は」東京初進出という攻めの姿勢だが、玉三郎は『阿古屋』でわが城を守り抜こうという態勢。大蔵卿は、幕切れに勘解由の切首を放り出したり、いろいろユニークな型を見せるが、何より、平家に従わないだけでなく、為義や義朝ら源氏方の大将連にも批判の目を向けていることをくっきりと示したのが気に入った。それでこそ、この風雅の士の作り阿呆は一段と奥行を深くするのだ。

『阿古屋』は、最上のときを10とすれば7か8かというところ。新聞にも書いたように、一世一代と謳ってこそいないが、そうした心でつとめているように察しられた。

逸すべからざるもの。『音羽嶽だんまり』の梅枝の七綾姫の古典美。音羽屋に右近あれば萬屋に梅枝ありというところか。

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国立劇場の『伊勢音頭』についても新聞評をご覧いただきたいが、それだけでは愛嬌がないから、各界各氏の一口評を以下に掲げることにする。

国立劇場鑑賞講座講師氏曰く。「相の山」から「二見ヶ浦」までを見、「太々講」をご覧になって、「油屋」まで至る青江下坂と折紙を巡る顛末と人物関係がよくおわかりになったと思います。

辛口君曰く。よくわかるということと芝居が面白いということの違いもよくかった。

甘口君曰く。新聞評をごらんください。

眠り続け、時々目を開けていた元総理曰く。二見ヶ浦に五輪エンブレムみたいな日の丸が昇ってきたのでびっくりした! 感動した!

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幸四郎がまたまた『ラ・マンチャの男』を出したが、これは掛け値なしによかった。何時のが一番よかったかと言い出せば、人さまざまに甲論乙駁あるだろうが、私は今度が一番素直に心に沁みた。『ラ・マンチャの男』という芝居の骨法がしっくりと見えてきて、あゝ、こういう芝居だったのだ、と改めてよくわかった。

思うに、幸四郎もいい年配になって、野心やら気負いやら、解釈やら、いろいろなものが削げ落ちてきて、役への共感が自然な形で顕われるようになったのではあるまいか。それが、同じように齢を取ったこちらにも、素直に伝わってきたのだと思われる。歌舞伎も含めて、私は幸四郎に今回ほど親近感を覚えながら見たことはなかったような気がする。

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スーパー歌舞伎Ⅱ『ワンピース』を見る。原作も知らず、そもそも『ワンピース』の何たるかも、今度の上演がなかったら知らなかったような状態で見たのだったが、なかなか面白かった。スーパー歌舞伎にはふさわしい題材で、前回の第一作はテーマが内向して辛気臭いのが玉に瑕だったが、今度のこれは、「哲学」もメッセージ性もありながら明快で、そのために芝居が暗く淀まないのがスーパー歌舞伎にふさわしい。スーパー歌舞伎はこれでいいのだ。要するに当世流『里見八犬伝』みたいなものだが、脚本の横内謙介も、かつて猿翁のために書いた『八犬伝』ではテーマ性ということに足を取られて少々ならず押しつけがましいのに辟易させられたが、その後の『三国志』でコツを会得したためか、それともオトナになったためか、ともあれ、脚本の差す手引く手の按配よろしきを得るようになったのは喜ばしい。序幕の筋売りをもう少し大胆にしてもよかったとか、ラストのメッセージが猿翁風にややくどくなったとか、言い出せばないわけではないが、主人公が試練に逢って悩みはしても、あれこれ内向してぐだぐだするのでないところは、おそらく原作のキャラの多くの支持を集めている理由なのであろう。

猿之助もいいが、竹三郎、笑三郎、春猿、笑也ら一座の女形連が、アヤシクもおもしろい。
        
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秋場所は照ノ富士の快進撃をいい気分で楽しんでいたのが、皮肉にも私の見に行った13日目の土俵で稀勢の里に寄り倒された一番で膝を痛めるという思い掛けないことになってしまった。そもそも13日目の切符を買ったのは、横綱大関が揃って皆勤すれば白鵬と照ノ富士の一番が組まれることが予測されるからだったが、横綱二人が休場という予期せぬ事態で目論見がはずれたのは余儀ないこととして、あの怪我は何ともつまらないことをしてしまったものだ。寄り倒しと言っても、稀勢の里が寄り立てるのをこらえて重ね餅になって倒れたというのと違って、いきなり照ノ富士だけが背中にべっとり砂をつける形で倒れたのだから、見ている限りでは腰が入り過ぎたのかと思ったのだが、膝の負傷とは狐につままれたようなものだ。千秋楽の本割で鶴竜を圧倒した一番を見てどうにか溜飲を下げることが出来たが、照ノ富士が故障を押して出場を続けた心意気は天晴れとしても、膝の故障は将来に関わりかねない。兄弟子の安美錦が両膝の疾患で苦労している姿を目の当たりに見ているのだから、致命傷とならないうちに完治しないと,本人ばかりか相撲界の将来を左右しかねないことになりかねない。

ところで今場所の世上の話題といえば、鶴竜が栃煌山戦と稀勢の里戦で見せた立会いの変化の是非についてだが、稀勢の里戦は相手も大関、行司に止められ仕切り直しとなって右と左へ飛び分けた(?)ところは、技能派鶴竜ならではともいえる。(それにつけても稀勢の里の勝負弱さよ!)むしろ格下の栃煌山相手に飛んだことの方が、オヤオヤと思わされた。もっともその栃煌山が翌日の照ノ富士に奮起一番、初黒星をつけたのだから、鶴竜があの立会い変化で得た勝ちは、意味深長な伏線となったことになる。

曲もなく飛び、手もなくひっかかる相撲が続けばしらけてくるのはもちろんだが、双葉山まで持ち出してあまり仰々しい批判をするのもちとついて行きかねる。(中には、叩き込みや引き技は禁じ手とすべきだなどと(冗談半分にせよ)言い出す向きもあるらしい。)要は、見る者を納得させられるかどうかであって、立会い一瞬の変化で今なお鮮やかに覚えているのが、昭和33年初場所、優勝を争う栃錦若乃花の決戦ががっぷり四つのまま二度水が入っても勝負つかず、10分後取り直しとなって再び対戦、若乃花大きく右へ飛んで小手投げ一閃、栃錦左外掛けで防いだが及ばず、若乃花に名を成さしめた一番で、栃錦贔屓の私としては無念ではあったが若乃花の豪胆な機略に驚きはしても、卑怯だとは思いもしなかった。あの一番で、若乃花が立会い飛んだことを非難した人はおそらくいなかったのではあるまいか。若乃花はこの一番で優勝と横綱昇進を決定的にし、以後これを境に、年齢で4年、土俵経歴で7~8年の開きのある両者の全盛期が入れ替わる分水嶺となったという意味からも、数ある栃若決戦の中でも頂点に立つ一番であったと思っている。(今も時々放映される、翌々35年春場所の両者全勝同士での一番は、あれが両者最後の対戦となったことからも知れるように全盛期を過ぎたもので、じつは栃錦贔屓としては少々物足りない憾みがある。)
     
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別項として連載中の「映画の中のプロ野球」で昭和20~30年代の映画に出てくるプロ野球のことを書いているが、つい先日NHKのBSの番組で、昭和11年の巨人阪神戦のフィルムが発見されたというのを、寸前で気が付いて録画することが出来た。わずか2分間の映像だが無限のことがそこに映っている。

沢村栄治の投球フォームが一球だけにせよ映っていたのが、番組としてはメインの話題だったが、それ以外にも、阪神の景浦や若林が映っていたり、巨人の二塁手が三原、三塁手が水原であったりする中にも、背番号18という一塁走者がこの試合の巨人の先発投手前川八郎で、数年前。95歳だかの高齢で始球式をしたときのニュースは当時見た覚えがあるが、その息子という方が出てきて、これが父ですと証言したのには驚かされた。前川という名前の投手が巨人軍の前身の、ベーブルース等の全米軍を迎えた全日本軍の時からいたことは小学生時分から知ってはいたが、あまりパッとした印象のない存在だけに、有名選手の映像を見るのとまたひと味違う感慨がある。プロ野球は早くにやめて、別所・青田のいた時代の滝川中学の監督であったことは今度知った。背番号18をつけているのは主戦投手と目されていたからだろうか? 

背番号と言えば藤本監督が22をつけているが、戦後、少年時代の私が見覚えた頃は、どのチームも監督の背番号は30と決まっていたようなものだったが、してみるとあの慣例はいつごろからできたのだろう? 番組の途中から金田正一氏が登場して,沢村の投球フォームについて、俺と同じだと言っていたのは、手前味噌のようでいながら説得力があって面白かった。

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ラグビーが久々に脚光を浴びることになったのは結構なことである。私など、サッカーよりラグビーの方に親しむ機会が多かったので、別にサッカーに恨みがあるわけではないが、Jリーグが出現してあれよあれよという間にサッカー一辺倒になってしまったかのような状況に、違和感を覚えていた。

オールジャパンと言いながら、フィフティーンの4割方は外国人というのは、比率から言ったら大相撲の外人力士どころではないにも拘らず、俄かラグビーファンたちも素直に受け容れているのは面白い。その一方、ラグビー発祥国のイギリスは、イングランドだスコットランドだウェールズだと、別々に出てくる。その伝で行くなら、日本も、北海道だ関東だ九州だと、何チームも出場するようになればいいのだ。

五郎丸選手の「ルーティン」が人気だが、ちと手数が多すぎるのが気になる。その内、キックは何秒以内にすべし、等と新規定が作られたりしなければいいが。水泳では、日本選手が金メダルを取った泳法にクレームがついたり禁止になったりしたものだが。

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随談第557回 私家版・BC級映画名鑑 第6回 映画の中のプロ野球(5)『エノケンのホームラン王』(その2)

(第555回から続く)
ところで肝心の野球の場面だが、大別して3種類に分類できる。

(1)グラウンドでの練習場面(先に言った平山がスライディングの手本を健吉に見せてくれるのもそのひとつ)


(2)控室や練習の場面などでの選手たちの会話(この部分は完全にシナリオ上の「セリフ」で、三原監督なら三原監督、川上なら川上、千葉なら千葉が役の上の自分自身として、たとえば「監督さん、健坊を何とか試合に出してやりましょうよ」といったセリフを言って演技をするのである。助監督だった中島治康と千葉がセリフも一番多く、また芝居心もあるかに見えるが、うまくはないが川上だって結構カワイイ。ここではあくまでも、後のV9のカワカミテツハル監督ではなく赤バットのカワカミテツジ選手である。)

(3)冒頭の巨人阪神戦に始まり随所に挿入される試合の実写映像。選手たちのプレーもさることながら、何度も映し出されるスタンド(観覧席と当時は言った)やグラウンドやダッグアウトなどの情景は、『野良犬』とまた別趣の興味をそそられ見飽きることがない。これほどつぶさに後楽園球場の模様を映像として記録したフィルムはおそらくないだろう。

練習風景の中で、三原のノックを一塁手川上、二塁手千葉、三塁手山川、ショート白石、レフト平山、センター青田、ライト呉(戦前巨人、戦後は阪神で活躍した台湾出身の名選手呉昌征とは別のもう一人の呉で、後に萩原寛と日本名を名乗るようになった)というスタメンメンバーが受けるショットとか、藤本、中尾、小松原(まん丸眼鏡をかけたヌーボー然とした若手で、外野手も兼任する、つまり二刀流選手の一人だったが、それにしてもこの映像の姿はなつかしい)、多田(この人は捕手兼任の二刀流だった)、川崎といった投手陣の投球場面に和田信賢アナの声でナレーションが入って「これは高速度撮影による投球フォームであります。カーブは実際には曲らないとのアメリカの物理学者の説があるそうでありますが、これが中尾投手の直球、これがカーブ、その効果はご覧の通りであります」といった解説がついたりする。捕手の内堀は、前に『不滅の熱球』で書いた、かつて沢村栄治の球を受けたあの内堀保で。この時まだ現役の正捕手だった。キャッチャーのミットやマスク、プロテクターの形が現在とはまるで違うのも懐かしくも興味深い。

試合の場面では球審の池田豊、塁審の西垣、国友らも字幕で紹介される。この当時は審判も黒か紺の上下に蝶ネクタイに威儀を正し、特に名審判と言われた池田球審は、「プレイボーーーーール」と音吐朗々、満場に響き渡る声音で試合開始を宣言し、一球一球の判定にも「ストライーーーーク」と音声高らかに宣告するので有名だったが(ある意味では大相撲の行司に匹敵する)、それがそっくり、この映画の中に再現されているのはそれだけで大いなる価値がある。ろくに声も発しない(聞えない)審判の方が普通の今日では考えられない名調子で、『ベースボールマガジン』だったか『ホームラン』だったか、プレーボールを宣告する姿が野球雑誌の表紙を飾ったことさえあった。池田に限らずほとんどの審判は名の聞えた元選手で、おのずから権威があった。このときの塁審の西垣徳雄は二年後、二リーグ制開始の折に出来た新球団国鉄スワローズの初代監督になるのだし、中日が初の日本一になった時の名監督天地俊一も審判をしていた。(逆転本塁打を放った川上がホームインするとき、池田球審が「ホームラン賞」として金一封を渡すシーンが映っているのも、往時を語る一資料だろう。)

もうひとつ、冒頭の巨人阪神戦で若林や藤村,捕手の土井垣等阪神の選手の姿が見えるのも懐かしいが、七色の球を投げ分けると言われた若林の投球フォームが、いま見るとあんなものだったかと、正直、びっくりする。専門家はどう見るか知らないが、素人目には、立腰で手投げのように見えるのだ。そういえば藤村にしても川上にしても、今の常識からすると随分、不器用なフォームと映る。先頭打者の千葉がヒットを放って、途中から四球を選んだときのようにほとんど歩いて一塁へ行くのは、ウン、むかしはああだったよなと思わず笑ってしまう。全力疾走どころではない。それがプロ選手の貫録というものだったのである。(高校野球で殊更のように全力疾走が強調されるのは、「堕落した」プロ野球の真似をするなという意味合いがあったのは確かである。)

さらにもうひとつ書き落とすわけに行かないのは、NHKの名アナウンサーとして知らぬ者のなかった和田信賢が登場し実況放送をする場面が再三挿入されることで、プロ野球にせよ大相撲にせよ、当時のラジオの中継放送の果していた役割と影響力の甚大さは計り知れない。(それで思い出すのは、私の小学校時代の上級生で、通学の道々、野球の架空実況放送(のつもりであったろう、たぶん)を独り言のように小声で言いながら歩いている生徒がいた。ピッチャー投げました、打ちました、大きな当たり、レフトバックレフトバック、といった具合である。あの人、どうしているだろう、といまも時折思い出す。)和田信賢氏はこの4年後、日本が戦後初めて参加したヘルシンキのオリンピックの放送のため病を押して出張、病状悪化して彼の地で客死するという悲劇的な死を遂げている。

当時のスタンドが一人掛けの椅子ではなく、仕切りのない木のベンチだったことは前に『お茶漬の味』の折にも書いたが、ラスト近くに健吉が客のいないがらんとした球場でホームランを打つ夢を見る場面で、当時の観覧席(とその頃は言った)の様子がつぶさに写し出される。(木製のベンチは当時はどこの球場も同じで、神宮などは外野は芝生席だったから、六大学戦の入りの薄い試合の折などは、野球見物よりデートが目的の男女(アベック、と当時は言った)の姿もよく見かけたものだった。)客席以上に驚かされるのは、ダッグアウトのベンチの何とも粗末なことで、木製の粗末な腰掛が雑然と置いてあるだけである。昭和23年という時代の如何に貧しかったことか。

ところで戦後三年目のこの年のシーズンまで、現実の巨人軍はまだ一度も優勝していない。(にも拘らず人気は随一だった。)監督も中島治康、藤本英雄とめまぐるしく変わって、この年から三原修が就任し、翌24年にようやく戦後初の優勝を遂げる。『エノケンのホームラン王』及び『野良犬』に映し出された巨人軍はそういう時代の姿であり選手たちだったわけだが、まだ痩せて心もち頬のこけた三原の風貌は、私などにはこよなく懐かしいし、且つ好もしい。(エノケン、ではない健吉青年に話しかける声音といい、言葉遣いといい、何とやさしいことよ!)このちょうど10年後、西鉄の監督として巨人と日本シリーズで三年連続して戦い、三連覇した時代の、誰もが知る、そしていまも映像で時折見かけることがある(『一刀斎は背番号6』に登場するのはまさにその時代の姿である)恰幅のいい大監督の風貌と一風異なり、いかにも智将という気配が漂う。ところでその三原をやがて西鉄に追いやることになる一大原因となった水原円裕ならぬ水原茂は、まだこの『エノケンのホームラン王』の時点ではシベリアにいた。帰還したのは翌昭和24年7月のことである。(その情景はニュースフィルムとして残っている。)だから水原の姿は、『エノケンのホームラン王』は元より、その年の巨人南海第9戦を舞台にした『野良犬』にも出てこない。

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