随談第551回 私家版・BC級映画名鑑 第4回 映画の中のプロ野球(その4)『四万人の目撃者』『お茶漬の味』『野良犬』

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『一刀斎は背番号6』や『川上哲治物語・背番号16』に映像として留められている後楽園球場のスタンドの様子のことに触れたが(『背番号16』には一度ずつだが神宮球場と甲子園も出てくる)、野球そのものがテーマでない作品の中にプロ野球の場面が出てくるのも、昭和20年代から30年前後の世相の反映であり得たからで、学生野球やラグビーの場面は青春のシンボルのお定まりとして登場はしても、戦後という時世を映す役には立たなかった。プロ野球そのものが、社会の縮図たり得たのである。

昭和35年制作の堀内真直監督の松竹映画『四万人の目撃者』は野球映画ではなく、有馬頼義の同名の推理小説の映画化で佐田啓二と伊藤雄之助が刑事になる推理物だが、満員の後楽園球場で試合の真っ只中に事件が起きる。目撃者が四万人というのは、後楽園球場がぎっしり観客で埋まった満場注視の中で、中日ドラゴンズの強打者西沢道夫が三塁打を放って滑り込んだところで事件が起こるからである。西沢本人が出演し、マスコットバットを放り出して打席へ入るショットは俳優がやったのでは到底出せない迫力がある。

小津安二郎の作品にも後楽園球場が出てくる。失敗作と見做されているので論じる人は多くないが、昭和27年封切りの『お茶漬の味』で、商社の幹部社員だが地方出で味噌汁をご飯にかけて美味い美味いと食べるような夫を疎ましく思い、有閑の友人グループと遊び歩いている妻という夫婦を、佐分利信と木暮実千代が演じている。失敗作にこそ「らしさ」がよく現われるという意味で、数ある小津作品の中でも私はこの作品を愛好するものだが、その遊び仲間の淡島千景や姪の津島恵子等と後楽園球場へナイターを見に行くという場面がある。ちょうど、「3番レフト三宅」が凡退したらしく続いて「4番センター別当」というアナウンスと共に、毎日オリオンズの別当薫が打席に入ったところで、ほんのワンシーン、スタンスの広い独特の優美なフォームでバットを構える別当の姿がロングで捉えられる。プロ野球をナイターで見るというのが、昭和27年、この年の4月に講和条約が発効して占領状態から脱却、ようやく戦後ではなくなる第一歩を踏み出した、時代の先駆け的なシンボルなわけだ。

神宮球場にはその前から照明設備があり、三年前の昭和24年にサンフランシスコ・シールズが来日した折、神宮で夜間試合(と当時は言った)をしたことがあるが、黄色っぽい灯りの、あまり明るいものではなかった。後楽園のはカクテル光線というそれまでとは段違いに明るい照明で、「ナイター」という新語と共に、プロ野球ならではのイメージで新名物となっていたのだった。試合開始が近づいて夕暮れてくると、(確か、「点灯致します」といったアナウンスがあったと思う)照明が一基、一基つくごとに拍手が起ったものだった。つまり照明が点灯されるのも、「見せ物」の内だったのである。

(『お茶漬の味』の画面にはナイターの他にも、パチンコ屋、競輪、ラーメン屋、羽田飛行場から出発するプロペラが四発の大型旅客機と野天の送迎台、特急の展望車、前年開場したばかりの歌舞伎座など、終戦から七年という時代の諸相が映し出されている。だが今はそれらに深入りしている隙はないから、「お茶漬の味の中の昭和27年」とでも題して、いずれ項を改めて語ることにしよう。)

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ところで後楽園球場が映画の中でこうした使われ方をしたおそらく第一号が黒澤明の『野良犬』だろう。BC級どころか昭和24年度の「キネ旬ベストテン」3位に選ばれ今なお名作の誉れ高い作だが、ここでは昭和24年という時代を切り取るために選ばれた後楽園球場のプロ野球というところに的を絞っての話である。

兵隊帰りの若手刑事の三船敏郎が、ベテラン刑事の志村喬の協力を得て、山本礼三郎演じる拳銃の闇ブローカーが野球狂だということから、巨人・南海戦の行なわれている後楽園球場の中で逮捕するという場面である。満員の後楽園球場のスタンドでの二人の刑事の動きとグラウンドでの試合開始前の練習や試合の模様がめまぐるしく交錯するが、球場の場面は全部で約12分、おそらくこれほど球場と試合の模様が詳しく、躍動的に描写された映画はないと思われる。  (ついでに言うと、映画の中では拳銃のブローカーのことを「ピストル屋」という言い方をしているが、ピストルのことをパチンコとも言うので、ピストル屋をパチンコ屋と間違えるという場面もある。『お茶漬の味』に先立つこと三年で、パチンコ屋がほんの端役でだが登場しているわけだ。黒澤は『お茶漬の味』と同年の『生きる』でも、余命のないことを知った主人公が刹那の憂さを晴らすひとつとしてパチンコを使っている。)

昭和24年だからまだ一リーグ時代で、当初脚本は巨人・阪神戦の予定だったらしい。それが何故、巨人・南海戦に変更になったのかは知らないが、この年の巨人・南海戦というのは一種因縁試合と化していて、前年までの南海のエース別所を巨人が強引に引き抜いたしこりが残っていた(別所はシーズン開幕当初、たしか100日間だったか、出場停止処分を受けていた)ところへ、開幕間もない四月、試合中のトラブルから巨人の監督三原が南海の捕手筒井を殴って出場停止処分となった(ポカリ事件と呼ばれた)上に、5対2とリードされた9回裏、川上が逆転満塁本塁打を放つという離れ技を演じたり(その年の暮れ、買ってもらった「野球いろはカルタ」の「い」は「一打よく川上満塁ホームラン」というのだった)、波乱含みであったから、そういうことも踏まえての変更であったとすれば、その第9戦という映画の設定は、「野球ファンならこの試合、見逃すはずはない」だから犯人は必ず見に来ている筈だという志村喬刑事のセリフは、現実に照らしても充分説得力を持つことになる。

グラウンドの情景では、まず試合前の練習風景が、いま見ると珍しくも懐かしい。現在では専ら打撃練習だが、当時は、2列に向かい合ってトスバッティングとか、いまでは見かけなくなったいろいろなやり方をしたものだった。(そういう際の藤村やスタルヒンの観客を意識してのショーマンシップぶりがなつかしい。近年ではイチローの背面キャッチがわずかにそれに匹敵したが、それももう昔話になってしまった。)カメラは一塁側、すなわち巨人側から撮っていて、背番号から16川上哲治、23青田昇、3千葉茂、17藤本英雄(日本球界初の完全試合を達成した中上英雄は当時藤本姓だった)、21川崎徳次、25平山菊二、19多田文久三、7山川喜作、1白石勝巳(後の広島カープ監督)などの姿が読み取れる。試合が始まると、巨人の投手は川崎で、腕をぐるぐる回してから振りかぶるという今では見かけなくなった投球フォームが既に時代を語っている。南海の投手はアンダースローの武末悉昌、顔ははっきり見えないが捕手は筒井、サードは監督兼任の山本(鶴岡)一人、これは俊敏な身のこなしからもわかるがショートは木塚忠助であろう(そのコマネズミのようなすばしこさは正しくチュウスケだった)。巨人のレフトは大飛球をフェンスに手を掛けジャンプして捕球、敵の本塁打をフイにする名人芸で「塀際の魔術師」と呼ばれた平山で、まさにその魔術師ぶりを見せるショットがロングで捉えられているのには感激せざるを得ない。(これを映像に残してくれただけでも、黒澤明は私にとって名監督の名に値する!)その他、三塁を蹴って本塁に突入する走者が、今日の走塁では考えられないような大回りをして来ることだとか(当時、日本の野球が本場アメリカに比べ一番劣るのが走塁だと言われていた)、バットを強振したり滑り込んだり激しい動きをすると、何かというと帽子が脱げることが多かったのも当時の野球の一風景で、あればかりは昔はよかったとは嘘にも言えないお寒い風景だったが、映画の中でもわずか12分間に三度も、帽子の脱げる光景が写っている。(デザインの問題もあるだろうが、おそらくそれ以上に材質が悪かったのだろう。走塁の際、帽子を鷲づかみにして走る選手もよくいたが、阪神の藤村の場合などは如何に猛虎タイガースという猛々しい感じが、ひとつの名物たり得ていた。)

場内アナウンスのウグイス嬢(という今では随分と古風な呼び方も、この当時の、つまり戦後の女性の社会進出のひとつの反映として生まれたものであろう)の、「○○さま、迷子のお子様が放送席の屋根の上にいらっしゃいます」という放送があり場内笑いの渦の中、父親らしき男が出てきて子供を抱きかかえて引っ込むという微笑ましいショットがあり(場内放送の席はグラウンドに面してダッグアウトの並びにあった)、それをヒントに、犯人を場内放送で呼んでおびき出そうという作戦を思いつくというシナリオは秀逸で、それが功を奏して見事に逮捕に成功するのだが、ちょうどその時に「ジャイアンツ、ラッキーセブンでございます」という場内アナウンスと共に観客が立ち上がり伸びをするショットが写ると、それにまぎれて犯人も二人の刑事も行動に移る。これは当時、七回の表と裏、それぞれのチームのファンが立ち上がり、アーアと背筋を伸ばしてひと息入れるという慣習があったのである。7th inning stretchというのだそうだが、そんな言葉は当時はもちろん知らなかった。思うにこれも進駐軍のアドバイスによるものだったのだろう。(スタンドの椅子も木製のベンチに古新聞を尻に敷いて坐るだけのもので、一人一席という仕切りなどないから、詰めて坐れば定員などあってないようなものだった。『お茶漬の味』でもまだこの式で、現在のような一人掛けの椅子になったのはかなり後になってからのことだった筈だ。)

もう一つ、アイスキャンデーを売り歩く売り子に手配写真を持たせ、犯人の居場所をあらかじめ突きとめておくというのも、うまく考えた妙案と言うべきで、果して犯人が二度、キャンデー売りを呼び止めると、売り子が隠し持った手配写真と照合するショットがある(つまり犯人は二回、キャンディーを買ったわけだ)。一回目の売り子の通報で犯人の席を特定し、二回目の通報で行動に移ったという設定なわけだが、本当を言えば、超満員の大観衆(「何人ぐらい入るんだろう」「5万人と聞いています」という志村刑事と三船刑事の会話があるが、『四万人の目撃者』に比べると1万人、多いことになる)の間を、顔が割れているとはいえそう簡単に探し出せるものかどうか疑問も残るが、この設定自体の面白さで、少なくとも「芝居の嘘」として成立すると言っていいだろう。)

ところで二回目の通報者は大学の学帽をかぶったアルバイトの学生で、「すみません売切れです」と下手な言い訳をして通報するのだが、当時の学生はみな帽子をかぶっていた。刑事たちももちろん、犯人も、中折れなり鳥打帽をかぶっている。小学生に至るまで、男の無帽が普通になったのは、昭和30年代になってからであろう。何よりも戦後という時代を語っているのは、アイスキャンデーなる割り箸の片方を芯にした粗末な代物で(一本10円と、はじめに犯人から声を掛けられた女性の売り子が答えている)、街中でも至る所、自転車の荷台に木箱に入れたのを積んで辻々を走り回って売るのを呼び止めては買ったものだった。同じアルバイトでも、納豆売りは小・中学生、アイスキャンデー売りは大学生なり、ともかく大人が多かった。

この『野良犬』にせよ、同じ頃に作られた『静かなる決闘』など、私は黒澤映画では大家になってからの物々しい大作より、むしろ初期のものの方が好きだが、この約12分の野球場の場面を見ても、当時の黒澤監督の瑞々しい冴えがよくわかる。

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随談第550回 今月の舞台から(2015年6月)

『新薄雪物語』を『忠臣蔵』並みに昼夜に掛けて出そうという今月の立て方は、歌舞伎座としてももしかしたら初めてかも知れない。入りが薄いなどと言われてあまり出なかったのが、平成になる前頃から上演が増えてきたようなのは、歌舞伎に対する世の嗜好(志向)が変ってきた、これもひとつの表われとも言えそうだが、それでもまだ知名度は高いとは言えない。なまじ「新」の字がついているために新作物と思い込まれることも、いまなお跡を絶たない。


『仮名手本』の場合は、ちょうど四段目までの時代の世界が終わって五、六段目の世話の世界に入るところで、昼夜の変わり目が実にうまくゆく。映画の『風と共に去りぬ』が南北戦争までの時代の部分をパートⅠ(一番目)、舞台がスカーレット・オハラの故郷タラに移って世話になってからがパートⅡ(二番目)となるのと同じデンだが、四段目の長丁場で芝居が重たくれた後に、がらりと調子が変ってお軽勘平の道行になって昼の部を打ち出すというのは、元来『仮名手本』のパロディ作だった「道行旅路の花聟」のあの明るい憂愁と遊び心に満ちた曲調が、以後の悲劇を予感させつつ昼の部を締め括るという絶妙の効果を発揮するわけで、原作尊重主義者や二部制反対論者が何と言おうと、あれは戦後歌舞伎の上演形態が生んだ最高傑作と呼ぶに値するであろう。(もちろん、本文通り「裏門」を出す上方方式も結構だが、それとこれとは別の話だ。)

だが『新薄雪物語』を真半分に割って、「花見」と「詮議」を昼の部に、「広間・合腹」と「正宗内」を夜の部に、というのは、苦肉の一案には違いないが『仮名手本』の場合のようにはうまく行きにくい。ストーリーが『忠臣蔵』ほどの馴染がない、ということはこの際置こう。「花見」と「詮議」だけ見て帰る人は、少なくとも歌舞伎的気分をかなりの程度満喫して帰るかもしれない。しかし夜の部だけの切符を手に入れて見に来た人は、いきなり「広間・合腹」を見せられ、その後に「正宗内」を見せられて、腑に落ちたろうか? たとえ『新薄雪物語』全編のストーリーにある程度通じている人だとしてもだ。

昭和40年の11月の歌舞伎座といえば歌右衛門がホイベルス師というカトリックの神父さんの作った『細川ガラシャ夫人』を初演したり、まだ知る人ぞ知るという存在だった玉三郎が『双面』のおくみを雀右衛門の代役でつとめて刮目させたりした懐かしい月だが、この時の昼の部に『新薄雪』が出て、何と「詮議」に「広間・合腹」の二幕のみという出し方だった。勘弥と歌右衛門が園部夫妻、八代目三津五郎と夛賀之丞が伊賀守夫妻、延若が葛城民部、それに襲名からまだ二年の三代目猿之助(つまり現・猿翁である)と現・梅玉の先代福助が左衛門と薄雪姫、半年後の翌年4月に引退して6月には四国巡礼の途次瀬戸内海に入水してしまう八代目團蔵が秋月大膳(「花見」も出すならなかった配役だろうが、「詮議」だけの大膳としては、何とも古怪で不気味な忘れがたいものだった)というやや地味目の配役だったが、なかなか充実した、内実のある良きものだった。こういう出し方もあるのである。つまり「詮議」と「広間・合腹」はセットなわけで、そこを実力者を揃えてしっかりと見せれば、必ずしも通しでなくとも、大一座でなくとも、昼夜いずれかの芯になる演目として出すことも充分可能なのだ。

と、これを逆に言えば、全篇の核心としてあくまでセットであるべき「詮議」と「広間・合腹」を、今度のように昼夜に分けてしまうのは、ちと無造作に過ぎたとは言われまいかということになる。(『仮名手本』の上方流だと昼の部に六段目までやってしまい、夜の部を七段目から始め必ず八・九段目も、東京式のように別扱いにせず、一日の内に見ることが出来るという長があるのだが、ただひとつ、六段目の勘平腹切と七段目のおかるの筋が立ち別れになってしまうのは上方式の弱点であろう。「詮議」と「広間・合腹」を昼夜に分けるのはそれに近い。)あれは昼夜両方の切符を買わせようとの松竹の策略であろうというような、巷間囁かれている軽口とは、一旦切り離しての話である。「正宗内」を久々に出すという事情もあるわけだが、上演時間の上のことだけ言うなら、「正宗内」の方が、昼の部第一の『天保遊侠緑』よりむしろ短いわけだ。理由はおそらく他にあるのであろう。

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しかし舞台だけのことをいうなら、まずは結構な『新薄雪』であった。菊・吉・仁・幸の四横綱揃い踏みというところに今回の配役の主眼があることは明らかで、菊五郎が「花見」で妻平で出て「詮議」で葛城民部とおいしいところをつまみ、仁左衛門が「花見」で大膳から「詮議」では識者の難ずる半不精もものかわ園部兵衛へ変って、幸四郎大渋の伊賀守と共に「広間・合腹」と実のあるところを取り、吉右衛門は団九郎ひと役ながら「正宗内」を出して合わせて一本の実を取ろうという、これだけ落ちこぼれなく揃うのは、いずれまたと言ったって…‥という思いは口には出さね万人の胸にあるところを、こうして目の当たりに見られるのだから、まずはこの眼福を心ゆくまで嘆賞するのが最も「正しい」鑑賞法ということになるのであろう。妻平にしても、団九郎にしても、もう何年か前だったらと欲が出るのは、正直、違いないとしてもだ。

籬は時蔵屈指のはまり役であって11年前の折の三津五郎の妻平とふたりでの恋の取り持ちの件の素敵だったのが忘れられないが、今回は菊五郎が決して悪いわけではないのだが、どこか大儀そうに見えるために今ひとつ弾まないのは、致し方ないという他ない。(新聞評に、このことについて触れた件で、「次にはもう一倍の弾みがほしい」となっているのは「欲には」の誤りである。校正の際見落とした筆者の誤り、この場を借りて訂正と共にお詫びしたい。「又といっても」と言いながら「次には」という論理的矛盾に気が付いた方には、お察しいただけたかもしれないが。)

仁左衛門の大膳は初役だそうだが、十三代目の大膳がそうだったように花道から出て七三で「咲いたわ咲いたわ」をやる。その十三代目の時の団九郎が吉右衛門で、今度がそれ以来という。まこと、歳月は人を待たないと思う他はない。吉右衛門が「正宗内」を出すのは、先日の『伊賀越』の「岡崎」と同じデンで、初代がしたものという思いと、幸兵衛に正宗に歌六がいればこそ、という条件が整ったことと、二つながらに備わった時こそ今、ということだろう。「正宗内」は、ご覧になった通りの芝居で、『仮名手本』で言えば十段目の「天川屋」みたいなものだが、『千本桜』の「鮓屋」もどきにしてみたり、歌舞伎芝居として何とか面白く見せようとの苦心の跡が偲ばれる。あるいはこの場が「鮓屋」の先行作なのかも知れない。最後に団九郎が片腕を切り落とされての立回りは『腕の喜三郎』を思い出させた。入りの薄い国立劇場で復活上演した、あれはもう30年からの昔になる。

さっき時蔵の籬の話をしたが、このクラスの女形が働きどころを得たのもこの月の好もしいところで、魁春が梅の方をするのはかつてこの役を専らにしていた歌右衛門の格に坐ったわけで、他の同類の役回りに回った時と同じように、魁春は幅は狭いが確実な守備領域を持っている堅守の内野手のような趣きがある。伊賀守の妻の松ヶ枝という役は「三人笑」には参加させてもらえず少し損の卦の役だが、芝雀はその代わり「正宗内」では小型お里のような娘役を受け持ったり、開幕劇の『天保遊侠緑』では八重次を引き受けたり、かつての、「長老」の座に納まる前の父雀右衛門がそうだったように、広範な守備範囲を誇るまさに「遊撃」という言葉通りの遊撃手の活躍ぶりである。橋之助とはほとんど初めても同然のような顔合せと言う。なるほどそう言われてみれば、橋之助は近年は主に勘三郎と行を共にしていたし、芝雀は実質上播磨屋一座の立女形のような働きをしていたから、一座することもなかったのであろう。しかし『天保遊侠緑』の小吉と八重次にしても「正宗内」の国俊とおれんにしても、このコンビ、悪くない。とりわけ橋之助にとって、しっかりした女房役を持つことはいま必須のことであるかもしれない。この顔合せがコンビとしてこの後も組まれることを期待しよう。

秋月大膳と大学兄弟の半不精といえば、大学役の彦三郎が面白いことを筋書の出演者の弁で言っている。大膳とは役柄が違うから同じ顔には作らないのだという。なるほど、批評家などというものは半不精の是非は論じてもこういうところへはなかなか頭が回らない。さすが羽左衛門の後継者というものだが、ところでこの大学、精悍な感じがなかなかいい。この人、菊五郎の水野十郎左衛門に於ける近藤登之助など、この頃こういう役回りでオッという仕事をするのは、さすが年功というものである。

半不精といえば、籬の代りの呉羽を高麗蔵、妻平の代りの袖平を権十郎がつとめて、なるほどというところを見せているが、薄雪姫に至っては、「花見」が梅枝、「詮議」が児太郎、「広間」では三転して米吉と代るが、これは半不精でも三分の一不精でもなく、若女形のホープたちに出場機会を与えようというところからの配役だろう。梅枝が「花見」では案に相違してあまり仕出かさないのは老け性質のためか? とすれば。少々考える必要があるかも。今回の三人に限っては、「詮議」の児太郎が着実にヒットを放った。

『天保遊侠緑』は橋之助の当り役と言っていい。この人はこういう、アアラ難しの問答無益みたいな役がいい。ある種古風ともいえる役者気質の、あっぱれ大丈夫、なのだ。『新薄雪』の国俊にしても、親の勘当を受けて願掛けをしたり、下男にやつして入込んだりしたところで、それほど七面倒な肚が必要なわけではない。大分前になるが、『熊谷陣屋』を芝翫型でしたことがあったが、ああいう試みをしてみるのもいいだろうし、『天保遊侠緑』でも伊東玄朴との件を是非やってみるといいと思う。現・猿翁がむかしやったことがあるが、麟太郎が犬にキン玉を喰われたのを治すために玄朴と渡り合ったり、橋之助に向いている筈だ。

麟太郎という役は出来れば実の父子でやれるといいのだが、国生がすっかり大きくなって麟太郎どころか甥の庄之助の役をするようになったのに驚く。よく頑張っているが、この役の扱い方(いわば性根でもあるが)に私は少々疑問を持っている。この前染五郎がした時にも思ったことだからこれは国生の罪ではないと思うが、今の演じ方だとこの若者は、単に気のいいだけなのか、はたまた知恵足らずなのか、どういう人間なのか計りかねるところがある。一度洗い直した方がよくないか。

ここでも魁春が阿茶の局になって格のあるところを見せる。品格のある役者に、という歌右衛門の教育方針はその限りでは達成されたのである。ところで、たしなめられた組頭取の連中が、若君のお側に仕える者と言っても無礼な態度を崩さないのに、局というと急にはーっとなるのは、むしろ逆ではないだろうか? その組頭の友右衛門、添番役の團蔵など、それぞれに年功を見せている。

菊五郎がちょっと大義そうとさっき言ったが、決して楽をしているのではなく、夜の追出しに『夕顔棚』を左団次と踊っている。この踊りは初演が初代猿翁と七代目三津五郎という案に相違の顔ぶれなのだが、今度梅枝と巳之助が踊っている里の若い男女が、初演では後の先代門之助の松蔦と岩井半四郎なのだから、栄枯盛衰、今は昔という他はない。

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国立劇場の鑑賞教室は孝太郎と亀三郎に亀寿の解説で『壺坂』という経済的な一座で、客席の入りはともかく舞台はどうして悪くない。孝太郎のお里が懸命に尽くせば尽すほど、「三つ違いの兄さん」より年上女房のきらいがあるのは、芸の上でもリードしていくことになるからやむを得ないことで、この孝太郎はむしろ好演というべきである。亀三郎の沢市は、ある種鋭角的な演技、というより芝居作りで、冒頭、お里を疑うところから、山に参ってからも、絶望の果て身を投げるまで、実に明晰でよくわかる。少なくとも客席の高校生たちも、真面目に見ていた生徒なら、みなよく沢市の心情を理解したであろう。それかあらぬか、ドラマチックなうねりがこれほどよく見えた『壺坂』というのも珍しい。若い人がする以上、これはこれでいいのだと思う。

亀寿の解説また、近頃よくあるお笑い風はクスリにしたくともなく、久々に見る正攻法で一貫する。出演者を紹介するのにも片岡孝太郎さんと坂東亀三郎さんと、二度言って二度とも、じつはボクの兄貴ですなどと言わないのは、これぞあの羽左衛門の孫だというより、亀寿流の美学であるのかも知れない。内容もあれもこれもと追わず、女形の化粧と着付の実演、基本の姿勢と仕草というところに絞ったのが、初心者の興味と驚きに端的に答えるものとなった。片岡當史也の実演も適切であった。

というわけで、今回の官署教室は規模は小さいがクリーンヒットである。

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三越劇場の新派は久里子が『十三夜』、八重子が『残菊物語』と新派本格派で知名度も高い安定銘柄の筈だが、それでも大入りというわけには行かないようだ。『十三夜』は録之助に迎えた松村雄樹がまずまず及第、父が立松昭二、母が伊藤みどりといういまの新派としては精いっぱいの布陣であり、まずは新派として名に恥じぬ舞台と言ってよい。(それはそれとして私は、父親の役を柳田豊で見たいと、じつは前から思っている。今回は『残菊物語』で五代目菊五郎という、この一座で他にやり手のいない役を引き受けてこれも悪くないが、『十三夜』の父親をする機会が、もう一度、久里子のせきであるかどうか。)

それにつけても、と言い出せば、先日亡くなった一条久枝を思い出すことになる。ああいう、骨の髄からと言いたくなるような脇役者、それも新派の、と限定することがむしろその演技の普遍性を示すことになるような脇役者は、新派に限らず、現代の日本の演劇界から存在の基盤を失いつつあるのかも知れない。「腕っこき」という、最近めったに見かけなくなった言葉がぴったりする、いい女優であり、いい役者だった。新派の、といったが、じつは終戦後のいっとき、子供の養育のために、当時隆盛を極めていた女剣劇の一座に出ていたこともあったと、何かで読んだことがある。そうした浮世の苦労が、見事に舞台に昇華されていた人だった。晩年の彼女を生かすだけの舞台を、新派が充分に備えられなかったことが残念である。

実はこのブログを始めて間もなくの随談第13回に、新橋演舞場で年に一度の恒例だった舟木一夫公演で『瞼の母』が出た時、金町の半次郎の母おむらの役でに出演した一条について、こういうことを書いたことがある。

ところで、ここでぜひ書いておきたいのが、その一条久枝である。私はこの人は、現在の日本のすべてのジャンルを通じての女優の中でも、幾人か指折り数えられる第一級の人だと思っている。先代水谷八重子と演じた、たとえば『金閣寺』など、人の世の労苦を誠実に、しかしさらりとたくましく、生き抜いた女を、あくまで脇の分を守りながら演じて,この人ほど、胸を貫く深さを持つ人はいない。大正とか戦前とか戦後とか、いろいろな呼び方をする日本の近代の、その時代その時代の実質感を、その役の人生を感じさせる(繰り返すが、あくまで脇の役の分を律儀に守りながらである)演技をする人はほかに知らない。

だが残念なことに、彼女への評価は、私の見るところ、充分になされているようにはどうも思えない。現にこんどの筋書きの扱いを見ても、上に挙げたあとのお二人に比べ、ひとまわり小さいのだ。そんなこと、どうでもよろしいのですよ、ともしかしたらご当人はおっしゃるかもしれないのだが、私としては、ひそかに切歯扼腕しているのである。
      
この文章を書いたのはちょうど10年前の2005年5月のことだが、この時の舞台が、私が一条久枝を見た最後となった。つい先頃訃報を聞きながら、追悼の文を書く機を逸したままになっていたので、ここに記してそれに代えることとしたい。

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人によっては森光子の代表作として『放浪記』以上という人もいて、充分、私もその意を汲むことが出来る『おもろい女』を、藤山直美がすることになって、シアタークリエでの1カ月公演の前に(前倒しの日延べよろしく)北千住のシアター1010ですることになり、そっちの方へ案内が来たので見に行ったところが、足立区の施設のいずれかに爆弾を仕掛けたとの報があり、午後3時までに区の施設すべてに退去命令が出たために、一幕目が終わったところで打ち切りということになった。他日シアタークリエで見直すことになったが、ところで、最上階にこの劇場の入っているビルの他のフロアーは丸井の店舗で、こちらは足立区の施設ではないから、営業を続けているという、当然と言えば当然、不思議と言えば不思議な光景が現出した。これを珍風景と呼ぶべきや如何に?

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新橋演舞場が大変な賑わいで、しかも50代かと思しき中高年男性の目立つこと、あの広々した二階の男性用トイレ(明治座と並んで、都内の劇場トイレとして双璧である)が混雑する有り様は稀有な光景である。去年に引き続いての三宅裕司を中心とする「熱海五郎一座」の公演だが、これだけの支持を得ているというのは大変なことだ。東京の喜劇の灯を絶やすな、というスタンスもいい。とにかく二幕、二時間半を気持ちよく笑いながら見た。

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新国立劇場のシーズン企画で森新太郎演出、フジノサツコ上演台本という『東海道四谷怪談』の初日を見る。お岩を秋山菜津子がする以外は、全員男優で、お袖もお梅も扮装は一応女姿だが男であることを露わに見せて演じる。髪梳きの場と、最後の伊右衛門討死の場面でピアノ曲「乙女の祈り」が鳴り響くことがお岩の「性根」を暗示するものと察せられる。とかく最近の歌舞伎では略しがちな「夢の場」を出すのもそれ故であろう。紙漉きの場などは、言葉も南北の原典そのまま使っている。

人物関係も、お岩-伊右衛門、伊右衛門-四谷左門、伊右衛門-伊藤喜兵衛一族、伊右衛門-お熊・秋山長兵衛etcといった線を重要視し、直助権兵衛は登場しない。いきおいお袖もあまり出番はなく、与茂七に至っては最後に突如姉お岩の敵、と言って現われることになるが、それはそれでよろしい。

と、そこまでは脚本・演出の意図を呑み込めたが、さて実際の舞台はというと、今日での相当の顔ぶれを集めていると思われる出演俳優たちの、発声も含めた言葉の感覚に私はどうにも馴染めないままに終始することになった。現代風なら現代風でいいのだが、それにしては妙に時代劇であることを意識しているかにも聞こえる。「じゃわいのう」といった言葉の言い回しが耳につく。ああいう発声、ああしたものの言い方は、当節の舞台上ではよく耳にするように思うが、現実の社会も含めそれ以外の場所ではあまり耳にしないような気がする。演出もそれを認めていると思われる。とするとあれは、現代の舞台演劇の「型」なのであろうか?(但し秋山菜津子のセリフだけは抵抗感を覚えることなくよく聞こえた。)

しかし本当は、この種の舞台について私などが何かを言っても始まらないのであって、歌舞伎の『四谷怪談』も何も馬耳東風の(即ち夏目漱石風にいえば、歌舞伎などという狭い路地裏を覗いたこともない)現代のごく尋常な若い人たちがこの舞台を見て、面白いと思ったのなら、多分それでいいのである。

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随談第549回 照ノ富士礼賛

照ノ富士が夏場所でめでたく優勝して大関に昇進したのは大相撲にとって近来の欣快事である。大器といわれ底知れぬ力は知られていたとはいえ先々場所はまだ平幕で8勝だったのだから、先場所に白鵬を力相撲で破って準優勝した強さが、万人に強烈な印象を刻み付けたればこそと言える。先場所と二場所の成績だけで、協会が満場一致で昇進を決め、マスコミからも世間からも疑義をはさむ声がまったく聞こえてこないというのは、白鵬に次いでナンバー2の実力者であることを、皆、暗黙の裡に認めたことになる。

夏場所、私が見たのは12日目で、前日の白鵬戦で一敗地にまみれた翌日だったが、稀勢の里をがっぷり四つからの左下手投げ一発で転がした相撲は、充分に満場を興奮させるに足り、次の一番で白鵬が豪栄道に逆転負けを喫する雰囲気を醸成したかのようだった。つまりはあの稀勢の里との一番から、今場所の最終章が書き換えられたのだ。常日頃相撲の動向などには見向きもしなかった民放が、俄かに大相撲の映像を流し始める。良くも悪くも、そういう「風向き」を察知する能力はさすがと言わねばなるまい。

先場所の折にも書いたが、照ノ富士の「照」は伊勢ヶ浜部屋の往年の横綱照国の「照」だろうが、体躯といい力感溢れる豪快な相撲振りと言い、照国と戦中戦後を支えた羽黒山の再来を思わせる。あれで、もうひと腰低く立って自分充分に組む立会いを身につけたら、腰の柔らかさと併せ、羽黒・照国両雄を合せることになる。羽黒山だ照国だと、大昔の話を始めようというのではない。観客の側も現役世代は柏鵬を語れれば上々、栃若を語れる人の多くは後期高齢者になってしまったいま、(その柏鵬すら、大鵬とは言っても柏戸と言う声をほとんど聞かないことに私はかなり深刻な疑義を抱き始めているのだが、それはいまは他日の話としよう)、照ノ富士によって久しく忘れていた、本格的な力のこもった四つ相撲を見ることが出来る期待を語ろうがためである。もうひとつ、照ノ富士の真価を語るためにはそこまで遡らないと似たタイプが見当たらないためでもある。

照国は短躯肥満、搗きたての餅のような柔軟さで差し身がよく、叩かれても引かれても前に落ちない堅実さを誇る相撲巧者で(いまの千代鳳に幽かにその面影を私は偲んで、大関ぐらいまでなら行けそうかと期待している)、優勝は晩年になってから二回しただけだから、上辺の記録を見ただけでは軽視されてしまうだろうが、それでもなおかつ、名横綱の名に恥じない見事な相撲を取った一流の名力士だった。強力無双、豪快にして堅牢な相撲を取った羽黒山と、見たさまも相撲振りも好対照だったのもよかった。羽黒山は戦中から終戦直後の、旧両国国技館を摂取されて神宮相撲場や浜町公園の仮設国技館で本場所を開いていた時期に最盛期を迎え、立浪部屋の兄弟子だった双葉山の後を追う形で並びかけ(大関になった名寄岩と三人、立浪三羽烏と呼ばれたのは戦前の話だったろう)、双葉の引退後を襲うようにして、4連覇したところでアキレス腱を二度断裂しながら38歳まで取ったという、おそらく歴代横綱中、最も寿命の長かった一人の筈だ。最後の勝利は昭和28年初場所、5日目まで全勝しながら右親指を骨折して(二瀬山という闘魂溢れるファイターとの対戦で、前哨戦の突っ張り合いの時、左手の親指が相手の口の中に入り、噛み折られてしまうという椿事だった)以後ほとんど片手で相撲を取る状態の中で、新大関の栃錦がもろ差し速攻で攻めるのを外四つから極め出しで破った豪快な相撲で、照ノ富士が先々場所・先場所と豪栄道を極め倒した二番を見て半世紀前の記憶を蘇らせた。翌場所休場した翌々28年夏場所2日目、荒法師と異名を取った玉ノ海の外掛けで小山が崩れるように倒れてそれを最後に引退したという、つまり生涯最後の土俵を私は見ている。完成途次だったためにまだ仮設国技館と言っていた蔵前国技館の大衆席だった。大衆席と言うのはいまなら椅子席のCに相当することになるが、わずかに傾斜のついた板張りの床に薄べりを敷いただけだったから、見ている内にいつの間にか少しづつ畳目に沿って座蒲団ごと滑り、前の方へと人が詰まってゆくという、まさに「大衆席」の名の通りの席だった。

ところで白鵬だが、12日目、豪栄道の(得意の?)捨て身の首投げに不覚を取った後、負け残りで控えに戻るべきところを異例の長時間、花道に立ち尽くしていた姿が、マスコミの報道は遠慮がちにしているようだが、異様とも不審とも、まず見たことのない光景で、真意はともかくあまり見よいものではなかったと言わなければならない。初場所の稀勢の里戦での物言い取り直しの判定にクレームをつけた一件の記憶がまだ強く残っているいま、白鵬自身の自負とプライドの余滴が、分水嶺の向こう側へ流れ落ちるかこちら側へ落ちるか、微妙なところで揺れているに違いない。このところの白鵬の中で何かが起こっていることは確かだろうが、この土俵下での振舞いが、今場所の在り様のなにがしかを語っているかのようだった。今場所の4敗のどれにも共通しているのは、出るべきところで送り足が出なかったことだが、まあ今のところは、鳥影が差したようなものかも知れない。大関として照ノ富士が、白鵬とどれだけ互角以上の相撲を取れるかどうかに、今後がかかることになる。

それにつけても、一昨年来の遠藤ブームで相撲人気が回復したのは同慶の至りだが、昨秋来、前売り発売とほぼ同時に土日祭日は全席売切れてしまうという有り様で、切符を手に入れるのが俄かに難しくなったのは、私などには痛しかゆしという他はない。

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