随談第542回 あれこれ

連句では春夏秋冬の句に、季語のない無季の句を織り交ぜて数人から成る座で連ねてゆくが、今回はさしずめその無季、つまり「雑(ぞう)」の句に当る。「ざつ」と読まずに「ぞう」と読むところに妙味がある。料理でも「雑煮」とか「雑炊」とか、なかなか乙な命名だが、そういえばアンケートで、支持政党なし、などといって政権与党を上回る最大多数だったりするのも「雑」の部類かも知れない。

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三津五郎の場合のような「今」が切り裂かれるような死もあれば、その死によって、茫漠とした中から鮮やかな「過去」を蘇らせるような「生」もある。

新聞の訃報欄で、あゝ、この人まだ生きてたんだ、という名前を見つけるのは、面白いと言っては失礼だが、その人の活躍していた、時代だの、その世界のことだの、つまり小なりといえどもひとつの歴史が蘇ってくるのが、何とも言えずやっぱり、面白い。

1月の末、ほんの10行余りの小さな記事だったが、吉野トヨ子さんの死亡記事が載った。こう言って、あゝ、とすぐに分かる人は、いまもう、どのぐらいいるだろう? ヘルシンキのオリンピックの女子円盤投げで4位に入賞した人である。何だ、メダリストじゃないのか、と思うかもしれないが、この4位入賞というのは、そこらの今どきの金メダルよりはるかに値打ちがあったことは間違いない。

昨秋、例の『マッサン』の中で歌われる、夕空晴れて秋風吹きという『故郷の空』の歌のことを書いた折にも触れたことがあったが、ヘルシンキの大会というのは、戦中戦後、返上したり出場を認められなかったりで、ナチスドイツ時代のベルリン大会以来16年ぶりに日本が参加した大会だが、小学生だった私にとっては初めて知るオリンピックであり、それから12年後の東京大会などよりはるかに懐かしい。ラジオのザーザーいう雑音の向こうから実況放送するアナウンサーの声が聞えてくるという頼りなさだが、そのザーザーいうのは海の波の音だとまことしやかに言われていた。たしかに、ザーッザーッと、ある周期をもって聞こえるのが波濤のように聞えた。その波濤を越えて地球の裏側から届いてくるアナウンサーの声は、既にそれだけである種の感動を与えるものだった。

この大会の日本選手の戦績は、いかにも、戦後まだ7年というこの時点では、まあ仕方がないか、と小学生でも思うようなものだった。〇〇選手は日本新記録を出しましたが惜しくも予選失格、などというのはいい方で、多くは緊張のあまり普段の成績すら出せなかったのではあるまいか。全種目で日本の金メダルは一個、陸上競技ではメダリストはなし、この吉野選手の4位入賞というのが最高の成績だったのである。もう一人、沢田文吉選手という棒高跳びの選手が6位だったかに入賞したのがすべてで、二人とも戦前派のベテランだったので、やっぱり精神力がアプレゲールの選手とは違う、などという声も聞こえた。たしかに、この二人は自分の持てる力を、孤立無援の異国の空でちゃんと発揮したのだった。(楽しんできます、などというイマドキの若い選手のコメントを聞くと、これこそまさに隔世の感と思わざるを得ない。)94歳という没年齢からするとヘルシンキ大会の1952年の時は31歳だったことになるが、小学生の私にはもっとおばさんに見えた。若い頃は短距離の選手だったことは今度の死亡記事で知った。

まったくの偶然だが、それから数日後、イギリス映画『炎のランナー』がBSで放送された。いうまでもなく1924年のパリ大会の時の二人のイギリス代表の陸上選手の話だが、その中で、スタートの時に選手各人が、シャベルともなんともつかない金属製の器具で土を掘ってスタートの足の位置を決める場面がある。小学生の時に見たニュース映画で、100㍍の選手がシャベルで土を掘っていたのを思い出したが、記憶では砂場遊びをするときのような普通のシャベルだったような気がする。いずれにしても、いまのようなスターティング・ブロックなどというもはなかったわけで、トラックもただの土だし、一度今の選手にこういうやり方で競技をさせてみたらどういう記録が出るか、きっと面白いだろう。新記録だの何だのと言ったって、かつてと今とでは、条件が基本的なところでまるで違うのだ。

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スターティング・ブロックもそうだが、いま当り前のように「そこにある」器具だの道具だのが、うっかりすると、つい昔から当然のように使われていたように思い込むという例は、テレビドラマでもしばしば見かける。

今度の朝ドラの『マッサン』にしても、ああした「近過去」の時代を扱うときに、年配の者から見ればエーッと思うようなことが平然と行われているのに出くわす。前に『花子とアン』の時にも書いたが、一番気になるのが遠距離の電話で、大正だの昭和初年だのに、東京と九州、大阪と北海道の間で、それも卓上電話ですらすらと長電話をしているのなど、考証がどうのという以前に、ドラマとしての真実味、更には劇的効果という上から言っても、他人事ながら惜しいと気持になる。たしかに東京と大阪・京都間の電話は明治30年代には開通しているようだが、いまのように誰でもが気安く電話を掛けていたわけではない。

昭和初年、大阪と、北海道のそれも余市くんだりと、あんなに簡単に電話が通じたとは思われない。電話の交換手という職業は、戦後も昭和30年代、高度成長が始まる前までは、女性の仕事の中でも代表的なもののひとつで、遠距離どころか、市外でさえ、彼女たちの手を通さなければ電話を通じることは不可能だった。(正月明けの仕事始めの日の夕刊といえば、日本髪に和服姿の交換手諸嬢が交換台に坐って仕事始めをする写真を載せるのが恒例になっていたものだ。当時の電話交換手の女性を主人公にした朝ドラが作られて然るべきである。)

しばらく前の『マッサン』でサントリーならぬ亀井の大将の息子が死んだという知らせが大阪から直通とおぼしき電話で届く場面があったが、あれなどは、当時なら当然、電話でなく電報であったろう。子供の頃よく聞いたラジオドラマでは、夜、寝ているところへ、配達夫がドンドンと扉を叩いて「電報、電報」とか「○○さん、電報ですよ」と叫ぶような場面が、ただならぬ知らせをもたらす劇的効果としてよくあったものだ。「ウナ電」と呼ばれた至急便は夜間でも配達してくれたからだが、夜更けに電報配達夫の声に起されてドキリとしたり、胸騒ぎを覚える劇的効果というものは電話などの比ではない。電話にしても、交換手が介在するもどかしさが劇的効果を一倍増すのだ。電話機も、卓上電話などでなく、壁掛け式の方が戦後もしばらくまでなら普通だったことは前に書いた。

こうしたことは、脚本家でも演出家でも、小津だの黒澤だのに限らず当時の映画をちょっと気を付けて見ればすぐにわかりそうなものだが、知らぬが仏よろしく平気でやっているのは解せない。戦前に新幹線やジェット機で北海道と関西を行き来したらおかしいのと同じことである筈だ。

徳川将軍が夜な夜な千代田の城から抜け出して居酒屋へ出没するようなドラマなら別だが、なかなか細部にも凝ったドラマ作りをしているように見受けるだけに引っ掛かるわけだ。(戦時中の戦況を伝えるニュースをラジオで聞く場面で、放送博物館から借り出したとおぼしきクラシックなラジオが出てくるのは、時代色を出すために凝ったつもりだろうが、当時にあってはそれが現役のラジオだったのだから、骨董品みたいに古びているのはおかしいわけだが、まあこれはご愛嬌の内か。若い娘が、ヤッター、などと叫んで喜ぶのも、そもそもそんな日本語は当時なかったのだが、まあご愛嬌の内と目をつむろう。)

「芝居の嘘」と「間違い」は違う、とは十三代目仁左衛門の言葉だが、『マッサン』で出征前夜、一同で『蛍の光』を原語の「オールド・ラング・ザイン」を歌う場面があったが、あれは「芝居の嘘」であって、いくら仮名書きの歌詞を見せられたって工員や町の人たちがすぐ歌えるわけがない、などと言い出すのは理屈というものだろう。しかし昭和の初期に大阪から北海道へダイヤルひとつで電話がかかるのはそれとは違う。

ついでに細かいことを言うと、カレンダーに「ドウカウィスキー」という社名が左書きに書いてあったが、あれも当時なら右書きにすべきである。くさしてばかりでは気の毒だからひとつ褒めると、障子の桟が縦長の短冊形で、雪見のガラスが嵌まっていたのはよかった。東京あたりでもあれが当時一番普通に見る障子の桟で、わが家の茶の間もそうだったが、近頃とんと見かけなくなった。

もう一つ、これは別の問題だが、『マッサン』に限らないことだが、配役の表記に、ドラマの中で役名が出てこないような比較的小さな役に、木村花子とか吉田太郎とか、何の説明もなく役名が書いてあることが多いが、あれではその役名の人物がどの役で、何という俳優がやっているのか、(たまたまその俳優を知っていなければ)わかりようがない。「床屋」とか「特高刑事」とか「賄いの小母さん」とか書いてくれればすぐにわかる筈だが、どういうものだろう?

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途中まで書きかけて中断している間に、三津五郎の訃報が入ったり、「今月の舞台から」を先に書かねばならなかったりで、後回しにしている内に大分旧聞になってしまったが、吉野トヨ子さんの訃報から大分日が経ってから、荒井恵子さんの死亡記事が目に止まった。よく読むと既に5年ほど前に亡くなっていたようだが、たぶんNHKの放送開始100年の特集番組か何かのためだろう、出演依頼の連絡を取ろうとしたことから判明したのであるらしい。すでに歌手活動をしていなかったからという。しかし戦後の昭和20年代、国中がNHKのラジオ放送を聞いていた時代、この人の歌声を耳にしなかった日本人はいなかった筈だ。若い世代の間では大人気でも、ある年代以上にはさっぱり、などということがあり得なかった時代である。

NHKの「のど自慢」という番組自体が、いまとはまるで違って一種の社会的な存在だった時代、年に一度の全国大会で優勝してプロ歌手になったというだけで、その知名度は、現代の観念で考えては計り知れないだろう。ともあれ荒井恵子さんはその第一号だった人で、大分のちになってから、同じコースを辿って有名スターになったのが、コント55号の二郎さんということになる。

坂上二郎氏もクラシック部門の合格者だったが、荒井さんも同じく、歌手としても癖のない(なさすぎる?)音楽の先生みたいなあくまでオーソドックスな歌唱のソプラノで、「ラジオ歌謡」といって、NHKが健全な歌謡曲を国民に広めようという趣旨で毎週一曲の割りで発表していた番組などが、一番の活動拠点であったと思う。記事の見出しに「童謡『森の水車』の荒井恵子さん」とあったが、正確に言えば、だから『森の水車』はラジオ歌謡というれっきとした大人のための歌謡であって、童謡とは違う。(あるいは「日曜娯楽版」という当時評判の人気番組の中で月替わりで新作していた中の一曲だったかもしれないが、ともあれ童謡ではない。)

「童謡」というのは戦時中の川田正子などを始まりに当時ひとつのジャンルとなっていて、小学生ぐらいの年齢の少女歌手が「童謡歌手」と呼ばれていた。いまも活躍している由紀さおりはその生残りで、当時彼女はまだ小学校に入る前だったはずである。一方に美空ひばりのような少女の「流行歌手」がいて、同年代からもう少し幼い世代へかけて「童謡歌手」と呼ばれた少女たちがいたわけだが、荒井恵子さんはそのどちらとも違い、世代ももう少し上の、しかし昭和20年代という時代を紛れもなく象徴する存在だったのである。

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桂米朝が死んで既に多くのことが言われているが、ひとつ思うのは、この人からが昭和生まれの噺家だということである。(東京の落語家で同年輩というと先代の金原亭馬生ということになる。)もうひとつ、この人は上方落語の再生・復興という命題を背負っていたから、演者であると同時に常に批評家というか、客観的に見ている現代風「離見の見」とでもいうべきものを内在させていて、それが独特の知的な味わいとなっていた。だから、というべきか、生粋の関西人の知人に言わせると、米朝の大阪弁は東京の人間にも親しめるように按配した大阪弁で、自分たちにはむしろ春団治などの方が本当の大阪の言葉だと思う、と聞かされたことがある。そうであるのかもしれない。

私がこの人の高座に接するようになったのは昭和40年代、当時盛んだったホール落語に「上方から仲間入りさせてもらいます」といった前フリをして語り出すのに、ちょいちょい出会うようになったのが始まりだったが、東京の大方の落語好きは大概そんなところだろう。まだ40代で髪もつやつやしていたから、芸は既に一級品だったが、現在皆が知っているあの味わいは、だんだん年齢が行くに従って滋味を深めて行く内に出来上がって行ったものだった。話のスケールの大きいことでは圓生と並ぶ人だったと思う。

大阪だの東京だのという距てを越えた名人であり、明治生まれの大家たちがいなくなった後、最も古典の格調と滋味を感じさせた人だったが、それと別に、上方ならではの話を聞かせてくれる楽しみがあったことは事実で、私の場合、一番貴重な体験だったのは、桂文楽十八番でのみ知っていた『景清』を米朝で聞いたことだった。まるで同じ話とは思われない。つまり文楽はエッセンスだけに切り詰めていたので、そもそも何故『景清』という題なのか、たまたま落語好きが機縁で親しくなったさるラテン語の大家という人から訊かれてウームと詰まってしまったことがあったが、その謎が解けたのも米朝の『景清』を聞いたお蔭だった。

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渋谷の東急プラザが閉鎖するというので話題となっているが、昭和40年の開場当時というのは、私にとっても渋谷は一番よく行く繁華街であった時期だったから、そうと聞けばそれなりの感慨もないではない。3階の紀伊国屋書店、8階の食堂街のお好み焼き屋やロシア料理店が当然のようにテレビでもネタになっているが、当時ロゴスキーに行くと、ルパシカのようなお仕着せを着て店内の清掃をしている年寄りがいたが、あの人は元陸軍少将なのだそうだと、さる先輩が教えてくれたりした。真偽のほどは元より知らないが、終戦から20年余、そういうことがあってもまだおかしくない時代だったのだ。

東横百貨店に西館が出来、東横ホールが作られて東横歌舞伎が始まったのが中学生のときだが、その西館の出来る前、デパートと隣りのビルの間にロープウェイが行き来していた時代があり、その更に前、がらんとした焼け跡の青山通りを母親に連れられて、ハチ公前から乗ったバスで通った記憶というのが、渋谷についての私の原風景ということになる。(青山にあった何とかいう病院へ行くためと称していたが、今思うと、ついでに渋谷で映画を見て帰るのが目的であったらしい。お蔭で私は未就学児であったころから洋画邦画を問わずお相伴し、いまだにその断片を網膜に焼き付けている。後になって古い映画を見ながら、ア、これだったのか、と感嘆久しくすることも何度かあった。)

しかし自前で出向くようになった渋谷の街も、やがて東横歌舞伎が終り、東横落語会が終り、その間に出来たNHKホールへ通うコンサート・ゴーアーとしての習慣もいつしか止み、ハチ公のところから斜めに渡った歓楽街(一度、あの通りで萬屋錦之介とすれ違ったことがあったっけ)にあった安いふぐ鍋屋が、次第にふぐより白菜ばかりになってしまって、ふぐを食べに行くこともなくなった。私にとっての渋谷の街は昭和の内に終ったといえる。近年は、渋谷というのは必要がなければなるべく足を向けない土地になってしまった。コクーンだパルコだ観世の能楽堂だ、縁が切れてしまったわけではないが、親近感というものは、当時とは比較にならない街と化して久しい。

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照ノ富士の強さが白鵬の優勝を蔽ってしまう形で春場所が終わった。何と言っても13日目の白鵬戦と千秋楽の豪栄道戦が白眉で、相撲の醍醐味を久々に味わった感がある。優勝した白鵬は金持喧嘩せずを決め込むかのようだが、あれだけの力相撲を取って完敗したというのは朝青龍と鎬を削っていた頃以来と言っていい。把瑠都と琴欧州が引退し、真っ向から白鵬に勝てるのは稀勢の里ぐらいなものだったが、世代の違う新勢力という意味で、照ノ富士に負けた一番のような脅威を感じることはなかっただろう。白鵬が連戦連勝を続けてきたのは、相撲の取り口のレベルが抜群に高いからで、力が抜群だったわけではないと私は見ている。かつての双葉山はどの相手よりも常に紙一重ずつまさっていたから誰にも負けなかったのだという話があるが、それと似たところもある。

照ノ富士は話題性の上で逸ノ城の陰に隠れていたが、あちらはまだ「怪物」という未知数の域から抜けていないが、こちらは既に立派な強豪力士として本道を歩み出していることを証明した。怪物というのは、人間以上でもあり人間未満でもある存在なわけで、高校球児に次々と「怪物クン」が現われるのは高校生という「大人未満」の存在だからで、プロ選手になってからもいつまでも怪物と呼ばれるような名選手・大選手はいない。

照ノ富士が豪栄道を極め倒した一番の強さは、豪栄道のショックが思い遣られるほどだが、実は初場所二日目に見に行った時もこの両者の対戦があって、今場所とほぼ同じ経過を辿って同じように極め倒したのだった。初場所の時は,底の知れぬ力を持った大物(つまり怪物)と思ったが、今場所を見ると、既に豪栄道を上回る力をもつ強豪という印象に変っている。大鵬は入幕した年の内に大関になり、二年目の秋には横綱になったが、記録がどうのという意味ではなく、その再現をやってのけかねない。

照ノ富士の「富士」は師匠の旭富士の「富士」だが、「照」は伊勢ヶ浜部屋ゆかりの横綱照国の「照」であろう。照国は戦中から戦後にかけての名横綱で、綺麗なアンコ形で桃色の音楽と呼ばれた相撲巧者だったから、照ノ富士はタイプから言うと対照的で、むしろ照国と同時代で、共に終戦直後の相撲界が最も困難だった時代を支えた、剛力無双で金剛力士の如しと言われた羽黒山の再来のような印象を受ける。

伊勢ケ浜部屋は大正時代の名関脇で名人といわれた清瀬川(戦後私の見始めた当時は協会の理事自らが検査長として土俵下に坐ったが、端然とした晩年の姿・風貌を実際に見覚えている)以来、数多くの相撲巧者を輩出してきた部屋で、その伝統は今の安美錦にまで続いているわけだが(安美錦はいかにも伊勢ケ浜の力士らしい)、他部屋から移籍してきた照ノ富士は、伊勢ケ浜の色に染まることによって単なる「怪物」から脱皮出来たのだともいえる。今場所中に聞こえてきた安美錦と兄弟弟子としてのエピソードにしても、部屋の空気をよく伝えている。負傷による途中休場がなければ、今場所は安美錦の技能賞は間違いなかったであろうから、伊勢ケ浜部屋で三賞を独占するところだったろうが、惜しいことをした。

以前はそれぞれの部屋によって取り口や力士たちの雰囲気まで、色合いが違っていものだが、それが鮮明でなくなったのも相撲の面白味を失わせている一因となっている中で、伊勢ケ浜部屋は部屋のカラーを明確に持っているように見えるのが好もしい

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随談第541回 今月の舞台から

歌舞伎座の『菅原』の通しは、仁左衛門の菅丞相が、おそらくこれが絶後かと思う気持が一入の思いにさせる。病後のことでもあるし、もしかすると年齢のこともあるかもしれないが、いままでに比べると心なしか輪郭が少々細って、前回あたりのふくよかさをベストとすれば、よく言えば凄愴の気が一段と深まったが、行く秋を思う心にも似た気持にもさせられる。周囲の配役のことも含めて、もうこれだけの『道明寺』は叉と言っては見られまい、と思わないわけに行かない。将来のことは予測できないにせよだ。心ある人は何を差し喰っても見ることをお勧めする、と新聞評に書いた所以である。

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戦後これで12回目となる『道明寺』上演の内、昭和39年5月の11代目團十郎生涯唯一の上演以後の10回すべてを見たことになる。こんなことが記録を調べるまでもなく空で言える狂言は他にあるまい。神品と言われた13代目仁左衛門の、国立劇場開場15周年の56年11月と、63年2月歌舞伎座と二度にわたる上演を、やはり規範と考えるべきであろうが、初めて見た『道明寺』という想い出からも、私は11代目團十郎の菅丞相も忘れがたい。もっとも、13代目のをはじめて見た時の、義太夫の含蓄を踏まえた、音を遣った菅丞相のセリフの妙に驚き、感に堪えた記憶は忘れがたいから、もしかすると11代目のは、そういう点では瑕瑾もあったのかもしれないが、当時の私にはまだそうした観点から見る力はなかったことは白状しなければならない。しかし13代目のとはまた違った、孤絶感に包まれた気韻といい、やや情に傾いた気配もなしとしない13代目に比べ、毅然とした趣きといい、少なくとも当代仁左をも含めて「三絶」のひとつと見たい。

特に忘れがたいのは最後の花道で振り返っての天神の見得で、13代目も15代目も、両松島屋は普通の七三でするが、私の記憶では11代目はこの見得をいわゆる「逆七三」でしたのだと覚えている。苅屋姫のすがる袖を払ってずっと息をつめたまま花道を、普通の七三を通り過ぎて逆七三まで歩んでから、すっと振り返って袂をくるくると巻き上げた方が、息の使い方が長くなる、その分、思いが一段と深く余韻となって心に沁みるのだ。此処ばかりは、のちに13代目のを見た折に、唯一、物足りなく思ったものだった。

こういうことが確かな記憶として言えるのも、当時貧乏学生だった私は、3階の東側「ろ」の19または20という席で見るのを常としていたから(そのために前売り初日に並んで席を確保した)、11代目の菅丞相が逆七三までの長い距離を歩いて行くのをつぶさに、息を詰めて見ていたからで、この場面を見るためにはこの三階東側「ろ」の19の席こそが、歌舞伎座の全座席中、最上の席だったといまも思っている。(花道逆七三へと歩む丞相と、見送る覚寿・苅屋姫をひとつの視野の中に一望できるためには、三階から俯瞰するパノラマ的展望が不可欠になる。これを以てしても、歌舞伎は、一等席1万8,000円を払うばかりが、あるいは役者の生身に接するかのような小劇場で見るばかりが、必ずしもベストとは限らないことが分る。)

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『道明寺』の上演機会の少ないのは菅丞相に人を選ぶことの他に、他の役々にも人が揃うことが求められるからと言われるが、今度の覚寿秀太郎、立田の前芝雀、土師兵衛歌六、宿禰太郎弥十郎、苅屋姫壱太郎、判官代輝国菊之助等々という配役は、いま現在での人材を揃えたと言い得るが、気難しいことを言い出せばドンピシャリは芝雀ひとりかも知れない。

では覚寿に他に誰がいると問われれば、よくぞ秀太郎がいてくれたとも言えるのだが(田之助がこのところとんと出ないが元気なのだろうか?)、強さが求められる「杖折檻」から「館騒動」はよく頑張ったが、情が主体となる「丞相別れ」になると世話っぽくなるのは、得意の筈のところで却って上手の手から水を漏らしてしまったものか? 尤も、本来立役から加役で勤めるのが常法だったこの役も、13代目二度目の上演の折の梅幸以降は、専ら当代仁左の丞相でも芝翫、玉三郎と女形が勤めるのが四半世紀も続いている。もっとも玉三郎のときは、14代目勘彌の三十七回忌という意味合いもあってのことで、その勘彌はさっき言った11代目團十郎のときに覚寿をつとめたのだった。水奴の宅内を成敗すると見せて宿禰太郎を討つところのエスプリのある芝居が面白かったのを覚えている。国立開場の時の二代目鴈治郎、白鸚丞相の時の17代目勘三郎、13代目最初の時の延若と、錚々たる顔ぶれが並んでいるが、誰、と決定打を放った人はいないともいえる。結局、品格と13代目の丞相に比肩し得る芸格の大きさ・高さで梅幸、女形をする時の常でやや芸がこずんで期待ほどではなかったが芝居上手で鴈治郎、きっぱりとメリハリのある芝居運びで勘彌というところか。17代目は何だかやり難そうにしていたのが気になったが、もし今、映像なりと見ることが出来たなら認識が改まる可能性はある。延若は品あり手強さありで私は好きだったが、セリフが渋滞したのが惜しまれる。

立田の前は我童、雀右衛門など錚々たる人たちもつとめたが、13代目所演の折の若き日の秀太郎の玲瓏たる趣きも忘れがたい。労多い割りには功少ない役だが、他にも田之助とか、この役は今度の芝雀まで、誰かしらいつも適任者がいる。

宿禰太郎は、11代目團十郎、13代目仁左衛門の折の富十郎の目の覚めるような躍動感が圧倒的だが(11代目のときは市村竹之丞を襲名した翌々月だった。闊達さの盛り、当時の竹之丞ほど勢いのある役者は今なおいない)、段四郎の木目込み人形みたいなカチッとした古典味も劣らずよかった。両者相譲らず、双璧というところか。いずれにせよ、芸に愛嬌のある優でないと面白くない。意外に難しいのが土師兵衛で、八代目團蔵、鯉三郎、先代権十郎と顔ぶれは揃っているが、「東天紅」の件の太郎と二人で「すりゃこそ鳴いたは東天紅」と囃し立てる具合など、もっともっと愛嬌たっぷりの親爺敵として芝居気の必要な役なのではないかと思われる。私は見ていないが、昭和30年代関西歌舞伎が壊滅した大阪で行われた「七人の会」という短期間の公演で、(実はこの時に13代目仁左衛門が菅丞相を初演しているのだが)、この時の嵐璃珏の兵衛というものは格別の面白さであったらしい。そこから類推して、助高屋小伝次が一番それに近いかと思われる。今度の歌六は少しいかめし過ぎるのではあるまいか。太郎も兵衛も、立者のやる大きな役ではあっても、役の性格としては安敵に類するのだ。

苅屋姫は、由次郎から襲名直後の田之助(鶴之助改め竹之丞と同時襲名だった)、秀太郎、精四郎時代の沢村藤十郎、玉三郎、孝太郎に今度の壱太郎となるが、みな若き日につとめたもので、これだとか『九段目』の小浪とか『合邦』の浅香姫とか、芸はしっかりしていなければならないがあまり大物が出ると却って可憐な清楚さが出にくくなるという役の、これもその一つだろう。一人というなら国立開場の時の秀太郎か。(この時は菅丞相の17代目勘三郎も覚寿の2代目鴈治郎もいまひとつ冴えず、13代目の判官代輝国と秀太郎の苅屋姫、国立開場最初のセリフを序段「大内山」の場で第一声として発した当時の片岡孝夫と、松島屋一家が攫ってしまったという評判だったが、折から来日中のベルリンオペラの面々が見に来て、赤い着物を着た人が一番巧いと評判だったというゴシップ記事を読んだ覚えがある。)輝国はその時と團十郎のときの13代目仁左衛門の後、我当、梅玉、富十郎とつとめているが、こればかりは我当が最上だった。父譲り。今度の菊之助は、この大曲のピリオドを打つ役として、思いの外に役者ぶりが小さいのは何故だろう? 菊之助が己れを知るための試金石となり得るのではあるまいか?

水奴は八代目三津五郎のような大家がつとめたのも見ているが、年寄りの冷や水などという意地悪評も耳にした。勘九郎時代の勘三郎も勤めているご馳走役だが、九代目宗十郎の独特の愛嬌が一番で、回数も一番多い。若い頃の歌六もまだほそっこい体でやったことがあるが案外悪くなかった。と、こう名前を並べても分かる通り、役者心の有無が物を言う。

偽使いの弥藤次は今度の松之助も存外健闘しているが、これは先代の片市にとどめを刺す。器用な人ではなく、セリフの癖もいつも同じだったが、それでいて、何をしてもその役になっているという不思議な役者だった。

『道明寺』ではないが、同じ11代目團十郎の時の『筆法伝授』は八代目三津五郎の源蔵に、まだこの時点では大谷友右衛門だった雀右衛門が戸浪だったが(4カ月後の9月に雀右衛門になったのだった)、まさにほたほたと水の垂れるようで、『筆法伝授』の戸浪といえば今なおこの時の友右衛門を思い出す。

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『道明寺』談義がつい長くなったが、今回の『菅原』は、仁左衛門を見ることと、その他の主要な役々を若手たちがつとめる「花形歌舞伎」的側面への興味と、顔が二つある。で、そのもう一つの顔についてだが、いうなら近未来の歌舞伎界の予測地図を描いて見せたようなところに興味が行く。勘三郎・三津五郎を失った今、自ずから、興味というよりもっと切実な関心がそこへ我々の目を向かわせるのは自然の理というものだろう。

染五郎が『筆法伝授』では源蔵をし、『寺子屋』では松王になる。

たとえば吉右衛門と仁左衛門が昼夜で役を交替するというのなら格別、まだそういう大家でもない染五郎にこういう配役を組むのは如何か、といった正統的「正論」もさることながら、私が今回のこの配役に反対するのは別に理由がある。

染五郎の松王丸は『賀の祝』『寺子屋』とも努力の程は充分認められて「いま現在の染五郎」として決して悪い成績ではないが、ずばりと言って褒められるのは『筆法伝授』の源蔵の方で、こちらは仁よし柄よし、演技も悪くない、当代での源蔵といって過褒ではない。

この場でのこの役の急所は、伝授は伝授、勘当は勘当と理非曲直を曲げない(というところに、天神様たる菅丞相の「崇高なる融通の利かなさ」があるわけで、覚寿があんなに心を尽してやっても苅屋姫の顔を見ようとしないのも、同じリクツである、そこが並の情理兼備の生締役の紳士たちとはわけが違うところなのだ)菅丞相に、源蔵が、伝授は他に遊ばされ勘当御免、と泣き伏すところにある。染五郎の源蔵はそういう男としてすぐれている。そういう「柔らかな心」を心底に持った男の痛切な思いが『寺子屋』へとつながるわけで、だからせっかく『筆法伝授』で源蔵をしたのなら『寺子屋』でも源蔵をしたくなるのが、筋から言っても情の移りとしても当然自然だと思うのだが、染五郎丈、如何であろうか? 貴兄なら、そういう機微を汲める人だと拝察するのだが?

同日の内に『筆法伝授』と『寺子屋』で源蔵をつとめられる機会など、そうそうあるものではない。染五郎は千載一遇のチャンスを逃したことになる。惜しむべし。

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菊之助が『加茂堤』『車引』『賀の祝』と通して桜丸を演じた上に『道明寺』で輝国をつとめるが、こういう場合、桜丸を本役として輝国は余裕綽々、いい役者ぶりで半日の観劇を気持ちよく締め括ってくれることが、観客の側の芝居見物の生理に適うというものである。劇中の人物であるだけでなく、同時に観客と芝居の綴じ目に立っている役と言ってもいい。輝国の幕外の引っ込みはそのためにあるようなものだ。そうした機微をさりげなく包んで大曲『道明寺』にエンドマークを記すのが「大人」の役者というもので、俊才菊之助もそこらがまだまだお若いということになる。

桜丸は『加茂堤』は梅枝の八重ともども上々、『八犬伝』の信乃浜路といい、近頃の良きカップルである。(梅枝は『筆法伝授』では戸浪で染五郎とカップルだが、これも上々である。)

菊之助は『車引』『賀の祝』でも及第点は取ったが、芝居にゆとりがないのはやむを得ないながら、あの一幕が一倍長く、重たく感じられた。(それにしても桜丸という役、のれん口から出て坐りこんだ切りそのまま腹を切ってしまう。サッカー風にいうならこれほど運動量の少ない役もないだろう・・・などという雑念が、菊之助を見ながらつい思い浮かんでしまった。)

愛之助の梅王丸は隙を見せない優等生、と言っては意地悪評になってしまうが、しっかりと正攻法で四つ相撲を取ろうとし、また取っているところに端倪すべきものがある。この人は決して荒事役者ではない、にも拘らず『車引』の、あの幕切れの見得できっちり格に入って見せた。ついこちらも教師気分になって、成績表に「優」と書き込むことになる。

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染五郎と菊之助がほぼ出ずっぱりの大わらわの一方、松緑が『寺子屋』の源蔵ひと役。もっとも筋書の出演者の弁で、私は梅王のイメージかも知れませんが一番好きな役は源蔵と語っているのが面白い。『筆法伝授』の染五郎と好対照に男っぽい源蔵で、こういう役をする時の松緑を見ていると、あゝ、辰之助の子だなあとつくづく思う。武骨で正直者で、公卿侍というよりどこかの地方の藩士みたいだが、こういう源蔵も悪くない。ふと思ったのだが、こういう行き方で『筆法伝授』をするのも面白かろう。ひと頃、隈を取る役ばかりやっていた(させられていた?)時代があったが、辛抱強くここまで来たのである。と、つい感傷的になってしまったのは何故だろう。

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ところで『加茂堤』だが、今度も最近の定番台本で済ませているが、今度のような一座の場合を良き折として、冒頭、三兄弟が揃って語らいをしている場面を出したらどうか。たいして時間を喰うわけでなし、むしろそれ故に、エライ役者がつとめる時には早朝出勤を要請しにくいところから今の慣行が出来たのだ。そういう悪しき慣例を改めるのも、花形たちの仕事の内ではあるまいか?

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国立劇場の橋之助初役の『髪結新三』については、『演劇界』5月号に劇評を書いたからここでは控えるが、聞くところによると、橋之助は三津五郎に教わることになっていたのが、ああした結果となり果たせなかったのであるらしい。入院中の三津五郎から電話で、あなたの新三を作りなさいという助言があったという。せめて三津五郎にもうひと月の命があったなら、といった思いも残る話だが、この三津五郎の言葉から何を汲み取るべきか、鍵はそこにあるだろう。

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随談第540回 三津五郎追悼(訂正・修正版)

三津五郎の葬儀から帰ってこれを書き始めている。会葬者の列に並んで、しばらくはコートを脱いだままでいたほど、暖かな冬晴れの穏やかな午後だったのが、三津五郎にふさわしい。大佛次郎に『冬あたたか』という題の一冊があるが、そういえば三津五郎の最後の歌舞伎座出演となった舞台が、昨夏の納涼歌舞伎での大佛次郎作の『たぬき』だった。大佛次郎の、温かい中に辛口の文体の感覚が、三津五郎の明晰なセリフによってよく活きていたのを思い出す。

もっとも、当日は月に二度通っているコンディショニングに行く日だったので、それをすませた後、喪服に着替えに一度帰宅したりしたので、開始時刻に間に合うようには到着したのだが、斎場に着いた時はすでに会葬者の列が延々と連なっていて、はるか彼方の斎場で葬儀が始まっても、どなたがどんな弔辞を述べたのかも分からず終いだったのは残念である。


そのためもあってか、いまなお、その死が実感としてピンと来ないでいる。葬儀に出ることで、何らかの意味でひとつのけじめがつけられるかと思ったのも、達せられなかったことになる。もっとも新聞に載せる追悼文は知らせのあったその夜の内に書いているが、それと、自分の中の思いとが、まだひとつにつながらない感じが、ある種のもどかしさを抱かせる。(菊五郎の「名弔辞」のそれもほんの一部を聞いたのは後日のテレビ番組でだった。姫路城や彦根城もホステス嬢やキャバクラ嬢も愛した君、というジョークもさることながら、巳之助をいい役者に育てて見せるという言は、男と男の約束というものだろう。また巳之助が、父は誰にもできる小さな努力を誰にも出来ぬほど積み重ねた人と語ったのは、父譲りの聡明さを思わせる名言である。)

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三津五郎と最後に会って言葉を交わしたのは、おととしの一月末、三津五郎が毎日芸術賞を受賞した折の、受賞式後の立食パーティーでだった。もうひと月が経つのにいまだにピンとこないんですよ、とそのとき三津五郎が言っていたのは、旧臘の勘三郎の死のことだったから、思えばその時点では、團十郎はまだ存命だったことになる。それからほんの数日で月が改まってすぐ、團十郎逝去というドえらいニュースが飛び込んできたのだった。あれからちょうど満二年、その間に歌舞伎座開場こけら落しが挟まるのだから、後世の史家を待つまでもなく、歌舞伎にとっては激動の三年間だったことが改めて思われる。

團十郎が亡くなった折、歌舞伎は支柱を失ったと私は書き、語りもしたが、それは半面、象徴としての意味合いで言ったことだった。團十郎の芸と存在は掛け替えがないが、菊・吉・仁・幸、現に屋台骨を背負っている人がいないという意味ではない。本丸に直撃弾が落ちた、とたしかあの時言ったのだったが、本丸がいま落城したというわけではない。

今度の三津五郎の死は、ある意味では團十郎の場合以上の直撃弾とも言える。但しそれは、現にいまこの場に炸裂した、という以上に、近い将来を展望したとき、その甚大さが改めて痛切に思い知らされる、という種類の痛手といえる。勘三郎と三津五郎が中核となって次代の歌舞伎を支える層が形成される筈の、その中核となるべき二人が二年余の間に失われたわけで、時蔵や芝雀といった同年の女形達から、福助、橋之助といったそれに続く年配の人びとがひとつの時代の層を形成すべき核心がなくなってしまったことになる。(染五郎とか猿之助とか、あるいは海老蔵といった更に若い世代の諸優の活動の在り様には、あきらかに勘三郎の影響が読み取れるが(ときには「真似」とすら言ってもいいかのように)、実は、そうした目につきやすいレベルのことよりもっと実質的なところにも、二人の影響力は及んでいると思われる。だがそれが実際の形を結んで現われるのは、もう少し後になってからであろうし、上の世代の諸優の場合とは意味合いも、形も異なるものだろう。)

私が知るようになって以来の戦後の歌舞伎の在り様を振り返っても、個々の俳優たちの芸の上の実力や人気だけではどうにもならないものがあるのは否定の仕様がない。時の運でもあり、そういう立場に立った者の意思の力にもよる。芝翫も雀右衛門も、「谷間の世代」などと一括りに呼ばれた時代があった。富十郎を含め、歌舞伎座建て替えのための三年間に亡くなった三人の長老たちは三人とも、そうした「冬の時代」を通り抜け、個としての芸の力によって晩年を飾った人たちだった。

勘三郎と三津五郎という次代の支柱となるべき存在をあれよという間に失って、歌舞伎界の未来図がこれからどういう風に描かれてゆくのか、予測は、出来るようでもあり、混沌としているようでもある。

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だが実をいうと、こうして書き進めがら私の内心の苛立ちはつのる一方である。どうして私はいまこんなことを書いているのだ? 三津五郎を思う内心の本当の気持ちは、こんなことにいつまでもかまけていたいのではない。いま私が書きたい、書いておきたいのは、こんなことではない、という思いが、キーを叩く傍から私を駆り立てる。

素晴らしかったあの舞台、法悦を覚えながら見た踊りの、あの無比の間のもたらす快感、差す手引く手のあの一挙手一投足のもたらす豊饒な歓び。私のまず書きたいのは、言いたいのは、何よりもそういった事どもではないのか? たとえば『喜撰』の、たとえば『靫猿』の、あの法悦とか、『勧進帳』の弁慶や仁木や熊谷を見事に演じてそれまで勝手に作り上げていたイメージを見事に覆してくれた驚きと喜びとか。それからあの大和屋一流の、たとえば『供奴』、たとえば『大原女・奴』『山帰り』といった小品の踊りの数々が、代々の三津五郎たちの追憶へと誘ってくれる嬉しさ。(五年前、大山の阿夫利神社の能舞台で奉納のために踊った『山帰り』は、残暑の気配を留めながら秋気の中に暮れなずむ中で見たのだった。あの美しさは何ものにも代えがたい、いまとなってはなにものにも代えがたい思い出である。)

それらは皆、すでにいまの時点で他に真似手のない高いレベルに達していたにも拘らず、これからの更なる熟成の日々にもっと高い境地、もっと熟した味わい、さらに磨かれた練達の技芸を以て、まだこれからの永い日々、我々を愉しませ、なごませ、喜びを与えてくれるものと、誰もが、信じて疑うことのないものであったのではなかったか。三津五郎を送る身になった今、本当に書いておきたいのは、書いておくべきなのは、何よりもそういうことではないのか? 

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最後にひとつ、私事にからめた逸事を記しておこう。私にとっても「私事」だが、三津五郎にとっても「私事」に関わる部分もあるのであまり大ぴらに言うのは遠慮すべきだと思ってきたのだが、「話題」としては世間に知られていることなので、書くことにする。20世紀の最後の年である2000年7月と言えば、当時まだ八十助だった彼の身辺が一番かまびすしく騒がれていた時期に当る。私の出した『21世紀の歌舞伎俳優たち』という本のための出版記念会が催されたのはそういうさなかだったが、第一線の役者たちの小論を集めた本の内容から、幾人かの優たちが出席してくれた中に、八十助もいた。というより、じつは八十助が出席できる日を選んで日取りを決めたのだった。(大阪松竹座に出ていた勘三郎は、その日が楽日だったので、祝電を送ってくれた。もちろんまだ勘九郎だった頃である。)それぞれに短いスピーチをしてもらったのだが、おのずと八十助に注目が集まることになる。「今は世紀末です」と八十助は切り出すと、すぐに続けて言った。「私の人生も世紀末です。」覚えず、満場がどっと笑う。と、ひとつトーンを上げて、続けた。「しかしやがて年が明け、新しい世紀を迎えると共に、私は十代目三津五郎に生まれ変わります。」もう後は、割れんばかりの拍手と、それを包む朗らかな笑い声だった。

それにしても、とさる先達の方が後に私に語った。ああいうさなか、彼はよくも来てくれましたね。何も無理をする義理はなかったでしょうに、と。つまりこの人は、八十助の誠実、を指摘したのである。

このときのスピーチの中でも自ら言っているように、既にこの時より先に、翌年2001年一月に、八十助から十代目三津五郎を襲名することは既定の事実となっていた。私はこの本の「坂東八十助」論の結びに、この本が出版されて半年後には三津五郎と名前が変わることになるが、敢えて「八十助」という記述のままにすることにする。この本に書いたのは、21世紀を目前にした「今この時の八十助」の姿であり、それはやがて世紀が変り、三津五郎と名を変えても意味を失うわけではないからだ、そうして将来、何年後かの「その時その折の三津五郎」の姿を、私は「十代目三津五郎論」として書くだろうと結んだのだったが、それは実現する機会を永遠に失うことになってしまった。それを書くのはまだしばらく先のことだとばかり思っていたのである。

先に私は、中村勘三郎論を書くことを本人に約束し、実際に物しながら、その死によって出版する機会を得ないままにしてしまった。いままた三津五郎とも、約束を果たさないままになってしまった。しかもこちらは、まだ一字も書いていないままである。

まさに光陰は矢の如く、人の命の儚さを思わないわけにはいかない。

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