随談第566回 綴じ目の弁

アレよという間に歳末となってしまった。今年のページはこれで閉じることにしよう。

前々回の題を「訃報&訃報」として北の湖や原節子のことを書いたと思ったら、それからわずかの間に野坂昭如さんなど幾つもの訃報を聞くことになった。「戦後」という時代が終わろうとしていることを思わざるを得ないが、(『火垂るの墓』のあの餓死する幼い妹が、たぶん私と同年ぐらいであろう)、死の翳は次第に裾を広げて、私にとっては趣味以上の趣味ともいえる連句を接点として30年来の同年の知己であった翻訳家の坂口玲子さんの場合もそうであるようにように、至近弾がわが身の近辺にもしきりに落ちるようになったのも、この二、三年来のことである。

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数年来の懸案であった『東横歌舞伎の時代』をようやくこの歳末ぎりぎりに滑り込む形で出版することが出来たのが、「私的」な意味での今年のトップニュースということになる。昭和29年の1954年12月から昭和46年の1971年1月までの16年間、いまの東急デパート渋谷店、当時の名称で東横百貨店の9階にあった東横ホールという中劇場で行われた歌舞伎公演の年代記だが、こうした形で、戦後という「時代」を切り取って書いてみたいという思いが根底にある。完全に「私的」な思いだけでエッセイのような形で書ければ本当はよかったのだが、そういうわけにも行かなかったのは、やはり「調べて書く」という作業を伴わざるを得なかったからだ。資料としては、往時の『演劇界』と、俗に「筋書」といって場内で売っている公演ごとのパンフレットとが根本資料、それに「記憶」という「血液」が潤滑油ということになる。この「潤滑油」がもっと多量であったなら、と思うものの、こればかりは今更、どうしようもない。

ともあれ思い立ってから7、8年は経っている。(正確に言えば、翻訳家である畏友池央耿氏に勧められたのがきっかけだった。池氏は、実は東横の舞台は私などよりよほど初期の頃から見ている、隠れた歌舞伎通である)。資料としての、手許に欠けた分のパンフレット集めは木挽堂書店の小林順一さんに多くを負うことになったが、雑誌と違って「筋書」というものは古書店では扱わないのが普通だから、「ご観劇の記念に」お求めくださいと場内でアナウンスしているあの手の刊行物は、「お求めになった」ご当人が、もういらないやと手放したり、あるいは亡くなった時に、闇へ消えてしまう運命にある。実際に書き出したのが2011年秋、一旦書き終えたのが昨14年3月。しかし26万字を超え、400字詰原稿用紙で650枚を超えるという分量では、買ってくれるのは図書館ぐらいなものという値段になってしまうというので、約3分の2に減らすことになり、そのためには事実上、全面的に見直し、構成も変え手直しもして、書き直すのに9カ月かかって、再度の完成がちょうど一年前の昨年末ぎりぎり、それから後は出版社側の作業に移って、掲載写真の肖像権の問題やら何やかや、結局この歳末に滑り込むということになった。版元である雄山閣宮田哲男氏の忍耐力の賜物である。定価3000円+税、読んでいただけたなら心から感謝申し上げたい。

それにしても、この前出した『歌舞伎百年百話』から明けて9年も経ってしまったのには驚かざるを得ない。実はその間、2冊分、書いているのだが、出版ということにはならずにいる。ひとつは『演劇界』に2010年から翌年にかけ18回連載した執筆者の列伝『演劇界人物誌』、もうひとつが、このブログに昨年いっぱい断続的に連載した『勘三郎随想・勘三郎48文字』だが、更にこの他に、澤村田之助丈の自伝『澤村田之助むかし語り・回想の昭和歌舞伎』と、中学校以来の友人でドイツ語教師をしながら歌舞伎の劇評を『演劇界』などに長いこと書いていた故佐藤俊一郎君の遺稿集『今日は志ん朝あしたはショパン』の二冊を、協力者はあってのことだが、二冊の著作の編集をしたり、怠けていた覚えはまるでないのだが・・・

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春からこのブログに連載を始めた「BC級映画名鑑」の第一章「映画の中のプロ野球」は前回でお終いということにしたばかりだが、たまたまその後、日本映画チャンネルでテレビ初放映という触れ込みの昭和31年新東宝映画『天国はどこだ』を見ていたら、思いがけない場面にぶつかった。場所の特定はしていないが海抜〇メートル地帯辺りと思しい環境劣悪の地域に志願して赴任した保健所の医師(を演じている沼田陽一を覚えている人も少なくなってしまったろうが、骨っぽい好青年役で好感のもてる好俳優だった)が、地域の少年たちの野球チームのために、学校の後輩だという縁で、何と国鉄スワローズの金田正一選手と町田行彦選手に指導に来てもらうというのだ。弱小球団だった当時の国鉄の投打のスター選手の特別出演というわけである。津島恵子演じる保育園の先生に、タクシーを降り立った金田が声を掛けて道を訊く。その後、ユニホーム姿になって金田が投げる球を町田が打つという、それだけのシーンだが、正直、そもそも私はこの映画の存在すら覚えがなかったぐらいだから、こんなところに若き日の金田や町田が出ていようとは夢にも知らなかった。意外な記録として、書いておくことにしよう。金田は今なお知らぬ者もない大選手だが、町田を知る人はいまでは少なくなってしまったろう。初期のスワローズ生え抜きの強打者で、なかなかの好選手だった。この映画の前年の昭和30年度のセ・リーグの本塁打王になっているから、ちょうど人気の盛りだったことになる。

映画自体は、松林宗恵監督若き日の良心的な社会派作品の力作で、なかなか見せる。津島恵子と思い合いながら暴力団員を殺して前科者となった青年が木村功という、主役の三人が三人、いかにもという配役だが、懐かしさも手伝って予期せぬ収穫だった。昭和31年と言えば、新東宝がそれまでの文芸物や青春物が主体の良識派路線を変更して間もない時期だが、こういう作品も作っていたのだ。

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ついでに言うと、NHKのBSで小津の『秋刀魚の味』をやっていたので久しぶりに見たら、中村伸郎扮する、例によっていささかシニカルな人物が、笠智衆と北龍二の中学時代以来の友人に、昔の恩師のために一席設ける計画があるから付き合えといわれて、大洋・阪神戦を見に行く予定を棒に振ることして店に行くと、その試合をテレビで放送中で、大洋の4番打者桑田が打席に入っている、という場面があるのを知った。正確に言えば、忘れていたのだが、もちろんこの桑田は、後の巨人の投手の桑田真澄ではなく、三原が大洋の監督時代の長距離砲として鳴らした桑田武である。阪神の投手はバッキーが投げているのも、いかにも昭和37年という感じだ。昭和37年というのが、ここでは動かせない意味があるのであって、巨人の監督が水原から川上に変って、まだ川上体制が確立していないこの時期、大洋・阪神戦というのが、大人の野球ファンの見るものだったのである。例の「巨人大鵬卵焼き」というフレーズが言いはやされたのもちょうどこの頃のことで、それを裏返すと大洋・阪神戦ということになるのだ。

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最後に、かつてこの欄で恒例としてやっていた「若手役者年間賞」を歳末特別付録 として久しぶりに復活してみよう。

◆トリプルスリー 菊之助 

・知盛(盗塁=あれよという間に二盗・三盗・本盗をたてつづけに決めた。いや、まさかのランニングホームランというべきか? 但し、旅では魚屋宗五郎までしたそうだが、宗五郎の肌ぬぎと弁天小僧の肌脱ぎは意味が違う筈。聡明な菊之助がそれを知らない筈はないのだが・・・?

・信夫(本塁打=振袖を着た女房役という味な役で若女形としての本領発揮。再演の玉手御前は、悪くはなかったが初演の鮮烈さに代る「何か」がいまひとつ明確に見えずフェンス越えとは行かなかった。)

・敦盛&小次郎、犬塚信乃(打率3割=若衆方としての稟質の純度と高さは抜きん出ていた)

◆長打率 七之助(お三輪=平成中村座では「御殿」、歌舞伎座では「杉酒屋」「道行」で合わせて一本。いや柔道の話ではありません。お父さんを亡くしてこの方の長足の成長ぶり。雪姫、おちくぼの君等々、長打連発。

◆打点王 染五郎(『四谷怪談』の5役、豆四郎、実盛と、打撃に幅が出来、若き4番打者としての風格(のようなもの)を思わせた。但し富樫は、喉を絞った発声などやや元の木阿弥の感あり、新大関昇進はもう一場所、見送りか。(アレ? いつの間にか相撲の話になっていた!)

◆特別賞 尾上右近(「研の会」で踊った『鏡獅子』。打球は遥か場外へ消えた。「諸君、脱帽だ。天才が現われた」と叫んだという故事は、誰が誰のことを言ったのでしたっけ?)

◆敢闘賞 巳之助(棒しばり、芋掘長者=悲しみに耐えてよく頑張った!感動した!)

◆びっくりポン賞 隼人(『おちくぼ物語』の左近少将=あれは誰だろう?と筋書の配役表を見直させた。)

この他にも好成績・好舞台は多々あったが、賞の数はあまり多くない方が値打ちがある。またの機会ということにしよう。

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このブログも、まず本年はこれ切り。良い年をお迎えください。

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随談第565回 私家版・BC級映画名鑑 第8回 映画の中のプロ野球(番外その3・映画の中の大相撲2)『名寄岩 涙の敢闘賞』

前回(随談第561回)、「映画の中のプロ野球」の「番外その2」として『三太と千代の山』を紹介したが、先月たまたま神保町シアターで『名寄岩・涙の敢闘賞』を見る機会が出来たので、これ幸い、「番外その3」として加えることにしたい。神保町シアターの企画としては、「作曲家小杉太一郎の仕事」という中の一作としての上映だった。小杉太一郎は、ちょうど私が中高生でしきりに時代劇映画を見ていた頃に映画音楽の作曲家としてデビューした人で、『血槍富士』とか『黒田騒動』とか、内田吐夢監督と片岡千恵蔵が組んで評判だった作品が懐かしい。

この『名寄岩・涙の敢闘賞』は父の小杉勇の監督で、昭和31年6月封切りの日活映画、前に書いた『川上哲治物語』『若乃花物語』等、本人の出演による一連の伝記ものの先駆ともいえる作だが、昭和29年6月に映画製作を再開した日活が、やがて石原裕次郎や小林旭等の路線を主流にするようになるまでの一時期の、そのまた一時期のささやかなトレンドとしての一作と言える。但し、後続作と違ってこの『涙の敢闘賞』は池波正太郎が新国劇のために書いた脚本が元になっていて、その意味では舞台劇の映画化でもあるわけだが、それだけ作品としての骨格がしっかりして厚みがあり、どこか文芸映画に近いムードさえある。当時の日活は、文芸映画をひとつの路線としていた。

本人がみずから出演して自分自身を演じるというのが売りだが、意外にも、年齢も川上や若乃花より一世代上、気質としても、昔気質で一徹な性格から考えても一番こうした趣向が向いていなさそうに思える名寄岩が、実はなかなかうまいのも面白い。少なくとも、川上などの比ではない。二言三言セリフを言うだけで、あとはスランプを脱するための素振りを繰り返すシーンばかりの川上に比べ、名寄岩は物語の核心となる演技をするのだから、比較の対象にならないようなものだ。演技が上手いというより、その真実味に於いて、本人が出演することの効果が最大限に発揮されたという意味では、相当のベテラン俳優が演じても多分こうは行かなかったろう。まさに巧まざる「名演」と言える。

当時の実況放送のアナウンサーが必ず「老雄名寄岩」と「老雄」の二文字を冠のようにつけて呼ぶのが常だったように、私が実際に見知っている名寄岩は、40歳まで現役を続けた(先頃引退した旭天鵬が名寄岩の記録を破ったというのがささやかなニュースとして、久しぶりに名寄岩の名が音波に乗った)、その晩年の何年間かだが、ちょうどそれがこの映画の核心となる時期に相当する。

若い頃は「怒り金時」(つまり金太郎を思わせるような童顔、体躯で、昂揚すると顔から全身から金太郎のように朱に染まったという)と仇名された一概者で、一徹な人柄を語るエピソードとして、既に幕の内力士となっていながら門限にほんの数分遅れたために小雪の舞う厳寒の冬、翌朝の開門の時刻まで外に佇んで待ったというのは、一種の伝説となって知られていたし、勝ち名乗りを挙げる時に手刀を切って懸賞を受取る作法も、名寄岩が範を示して見せたのが後の手本となったのだとされる。(先頃引退した豊真将は、その限りでは名寄岩の遥かへだたった後継者ということになる。真っ正直な土俵態度やケレン味のない人柄で人気のあった大関の魁傑なども、人気の在り様としては名寄岩と共通する面があった。ひとつの系譜といえよう。)

兄弟子の双葉山、弟弟子の羽黒山と共に立浪三羽烏と呼ばれ、戦中から終戦直後にかけ大関に二度昇進して二度陥落(一度は全敗している)、糖尿病に悩まされていたとは当時から聞いていた。剛力に任せた真っ正直な四つ相撲であったため、体力の低下がそのまま成績に反映され、番付も一時は幕尻近くにまで陥落したが、30代半ばに至って奇跡の復活を遂げ、遂には関脇にまで復帰した。ちょうどその頃関脇から大関に昇進した栃錦が老雄名寄に苦杯を喫した一番を覚えているが、小兵の技能力士であった当時の栃錦は、名寄岩のような力相撲を取る力士を鬼門としたのである。この映画でも、下位に低迷してわずか三勝か四勝しか挙げられなかったそのわずかに上げた勝星の相手の中に、まだ平幕だった若き日の初代若乃花(当時は若ノ花と書いた)の名前がアナウンサーの声として聞こえて来る。(当時の代表的なスポーツ・アナといえばNHKの志村正順アナだった。前に書いた和田信賢から志村正順へというのが、NHKのスポーツ・アナの系譜ということになる。)

映画では、幕尻近くに下がって大きく負越し、休場すれば十両陥落必至となった名寄岩が奇跡のカムバックを遂げ、9勝5敗で迎えた千秋楽の備州山との一番に死力を尽くし、水入りとなっても方屋(かたや)に下りられず土俵上に坐りこみ、再開後も力戦むなしく遂に破れ,受賞には星ひとつ足りないため絶望と思われた敢闘賞が、特別の計らいで授与されることになったという、当時評判となった逸事を頂点として物語られる。山根寿子演じる病身で寝たきりの妻にまだ小学生の男の子がひとり、妻の妹が田舎から見舞いに来たまま帰るに帰られず主婦代り母親代りをつとめるという家庭で、その妹役の高田敏江がなかなかいい。近所の商店街の店主で、かつてその体格のよさに惚れ込んで立浪親方に紹介したという元力士の人情家が沢村国太郎、もう一人名寄贔屓の近所のおっさんが織田政雄。この辺りの配役は人情劇として水も漏らさぬ布陣といえる。(沢村国太郎は、ようやく若手スターとして売り出し始めた倅の長門裕之、津川雅彦と共に製作再開した日活に入ったのだった。)

次の場所も不振が続けば十両陥落は必至、元大関としてそれは引退を意味する。そこへ救いの手を差し伸べたのが新入幕当時から10年余来の贔屓の木暮教授で、勤務する大学の病院に特別のはからいで入院させてくれる。名寄岩は巡業を休んで入院、徹底的な治療の傍ら、付き人の取的を相手に病院の庭で稽古に励む。当初は付き人にも負けてしまう状態だったが、遂に克服、迎えた夏場所で奇跡の復活、敢闘賞を受賞するが、その報を聞きながら妻は後事を妹に託して息絶える。

という筋だけ語れば絵に描いたような人情劇には違いないが、これがほぼすべて事実に基いているところに有無を言わせぬ力があり、切々と訴えてくる情感は決して安手ではない。先に言った名寄岩自身の真実味と、小杉勇監督の外連味のない演出によるところが大きい。

滝澤修演じる恩人の木暮教授とは、日大総長・総裁として日大を今日あらしめた器量人で、歌舞伎通・相撲通としても知られた呉文炳であることは明らかで、名寄岩の入院したのが板橋の日大病院、そこの院長の役が菅井一郎、教授の令嬢の役に当時売り出して間もない芦川いづみが出ているのが、思わずオオと声を上げたくなる清純さだ。呉教授と名寄岩の関係は、名寄岩が新入幕だった昭和12年当時、花道を引き揚げてくる名寄岩を、憧れるように見上げる幼い少年の可愛らしさに思わず抱き上げたのが教授の長男坊だったというのが機縁という、ささやかなエピソードも短いショットで描かれる。当時幼い少女だった妹娘がいまは妙齢となっている(つまり芦川いづみである)という中に、歳月が暗示される。令嬢からの頂戴物のカステラを、家族と付け人に平等に分けるために物差しを当てて切り分ける場面も、正直の上に几帳面な名寄岩の人間を語る実話であろう。

妻初枝の役の山根寿子は登場する場面すべてが病床の上というおよそ発散しない役だが、この時代の女性を演じる上でこれ以上の適役はないであろう。長谷川一夫の相手役として数多くの時代劇を撮っているが、山田五十鈴とまた違った意味で、長谷川とはベスト・コンビであった。日活の製作再開とともに日活に移ったが、その後の日活の路線がアクションもの中心に変わったこともあって、必ずしも恵まれた環境とは言えなかったのが惜しまれる。何度も映画化された『細雪』の最初の阿部豊監督版で雪子をしているが、女の匂いを感じさせるという意味で、おそらく最も雪子らしい雪子であったろう。

ついに引退した名寄岩の断髪式の場面に、兄弟弟子でいまは時津風理事となった双葉山と立浪親方として羽黒山が特別出演する。立浪親方は、劇中では先代親方として林寛がつとめているが、引退の前年に死去したため、名寄岩から見れば弟弟子になる羽黒山が部屋を継いだのだった。この辺の事情は映画では全く説明抜きだがやむを得ないところだろう。羽黒山は、40歳近くまで現役を、それも横綱として続けた強豪力士だったが、最後の数場所は現役横綱として二枚鑑札で親方を兼務したのだった。(栃錦も晩年の数場所、二枚鑑札で春日野部屋を継承したが、現在ではこの制度が無くなったため、親方が場所中に誕生日が来て定年退職すると、後継者が現役力士だった場合、途中休場の形で引退という形になるケースが生じる。どうも釈然としない制度だと思う。近年では、佐渡ヶ嶽部屋が元琴桜から琴の若に移行したときがそうだった。)

断髪式の場面に、髯の伊之助と呼ばれた名物行司式守伊之助の白髯姿や、これも太鼓の名人として知られた呼出し太郎なども映る他、横綱の吉葉山の不知火型の土俵入りや、三根山が支度部屋で贔屓客らしい玄人筋の女性と談笑するショットがあったりするご馳走も、この映画の余禄の内だろう。前述の備州山との水入りの一戦の場面は、既に引退していた元備州山の年寄桐山が髷をつけた現役時代の姿で出演、名寄岩と相撲を取るのだが、どうしてなかなか迫力がある。

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『BC級映画名鑑』の「映画の中のプロ野球(大相撲)」はこの回でひとまず終了、新年からは「大女優のBC級名画」(大女優以前の大女優)を随時連載の予定です。

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随談564回 今月の舞台から

歌舞伎座は新聞評に「玉三郎歌舞伎学校」の趣き、と書いたように、玉三郎学長がとりしきる「大和屋式女庭訓」だが、学生はもちろん共学で、大学生もいれば中高生もいるから、一貫教育風でもある。あるいは自ら演じあるいは自ら演出し、学長先生の熱意にはほだされるが、教育方針もなかなかユニークのようだ。

「玉三郎演出」と銘打ったものもあれば謳っていないものもあるが、大なり小なり何らかの「玉三郎演出」の目がどの演目にも配られているに違いない。『赤い陣羽織』は在来の岡倉士郎演出、福田善之演出に対して明記したのであり、『関の扉』に竹本・常磐津掛け合いにするという大変革を施しても、こうした曲に演出とは名乗らないのは慣例に従ったまでのことであろう。

それはまあ、『千本桜』の道行を清元に直したりするのは昔からあることだから、『関の扉』を竹本・常磐津掛け合いにしたっていけないわけではないが、「昔むかし」という語り出しから、むしろ竹本の方が主体になっている。関の扉を挟んでの関兵衛と小町のやりとりひとつとっても、関兵衛は竹本、小町は常磐津が受け持つから、わかりやすいといえばわかりやすいのは一得として、(松緑にはこの方が向いているとも言える)、奥へ行けば行くほど、曲調・曲想の反りが合わなくなるのは如何ともし難い。しかし味わいなどというものは馴染んで来ればそっちの方が好みという人もやがては出現するかもしれない。玉三郎好みのテイストということであろう。『妹背山』のお三輪というのも、玉三郎としては数少ない丸本物での持ち役だが、これも、お三輪という役の一面が玉三郎のメルヘンチックなテイストと反りが合ってのことで、あくまで「玉三郎の婦女庭訓」というべきものだろう。

ところで玉三郎教授の生徒たちだが、松緑も七之助も、松也も児太郎も、大役を二つも三つも受け持っている。それを何とかやってしまうというところが、良くも悪くも現代という時代である。松緑は、ともかくも彼なりに力をつけてきていることを認めよう。関兵衛など、お祖父さんを西瓜とすれば夏みかんほども顔の大きさが違うから、あの扮装がさまになるだけでも大変な苦労努力が必要に違いない。松也が、宗貞などという不得要領な役を、それなりにそれらしく見せているのは、二枚目としての天性の良さといえる。児太郎という人は、濡衣なら濡衣、橘姫なら橘姫、それなりに役になるのに感心する。やや老けだちに見えるのも、やがて吹っ切れる時があるに違いない。

こうした中で七之助のこのところの進境というものは、ちょっと感心する。『関の扉』も小町を、『妹背山』も「道行」までは七之助に任せ、墨染から、「御殿」から玉三郎にバトンタッチという方式で、それだけ七之助を信頼してのことともいえるが、それはそれとして、特にお三輪の場合、このまま七之助で「御殿」まで見たいと思わせた。

中車という俳優をどう考えればいいのか、私は今なお、手探り状態でいる。何の役にせよ、とにかく相当のレベルでそれなりにこなしている。この人の履歴を考えれば感心してもいいのだが、なんとなく、もやっとしたものが残る。思うに、尻尾を掴まれまいという用心が過ぎるのではあるまいか。(そんなことを言われてもねえ、とご本人が聞いたら言うかも知れないが。)もちっと黙って見ているより仕方がないかもしれない。

      ***

見る前は、今更『四谷怪談』でもあるまいに、まあ染五郎がお岩さんをやってみたいのだろうから仕方がないさ、といった気も正直、ないでもなかった国立劇場だが、存外に悪くなかった、こりゃ案外いけるでえ、というやつである。染五郎と(幸四郎もか)国立劇場の文芸部が、いろいろ細かいところにまで気を回して、台本の上でも、舞台上の工夫の上でも、一所懸命、辻褄を合わせたり、現行の慣例がほったらかしにしているところに気配りをしたり(たとえば序幕の「浅草田圃」に登場するお岩が糸立を手にしていたり、庄三郎の扱いを整備したり)、的中率にしたらさてどうだろうか、ともあれ好感度を上げる要因になっていることは間違いない。

発端に『足利館門前』、大詰に『師直邸夜討』という『忠臣蔵』劇のフレームをつけて、(染五郎が作者鶴屋南北として話を現代につなげるやり口は、大西信行版『牡丹灯篭』に於ける三遊亭圓朝、猿翁が『獨道中五十三駅』復活初演の折の(二代目鴈治郎だったっけ)作者鶴屋南北を登場させたアイデアのパクリのようだが、この染五郎の如才なさぶりの好感度がなかなかいいのでちゃんと洒落になっている。(こういうときのセンスの良さは、猿翁などよりずっと上等である。もっとも、そのエグさの有無が澤瀉屋と高麗屋を分けるところで、猿翁が今日の大をなしたのはこうしたエグいところを厭わず押し付ける「厚かましさ」があったからでもある。染五郎のボン・グウはそれに耐えられるだろうか?)

ところで『四谷怪談』を『忠臣蔵』のフレームに嵌めるという試みは。その猿翁が夙に昭和50年代にやっていて、そのときは「六段目」までの後に「隠亡堀」まで、次に「討入り」までの後に「仇討」まで二日掛りで上演したという初演の形に準じて、しかも今度のような実録風ではなく『仮名手本』そのものを演じたのだった。

今回のもう一つのミソは、小仏小平と小汐田又之丞の筋を表に出したことで、「又之丞住家」を出したのは、私の覚えているのは昭和43年7月の歌舞伎座で、17代目勘三郎のお岩・与茂七・小平に勘弥の伊右衛門の時で、17歳だか18歳の玉三郎が又之丞妹という役をつくってもらって出したとき(又之丞は訥升時代の宗十郎だったか。出番は少ないのにちゃんと覚えている)、その後にもう一回、勘三郎が北版と称して串田和美演出でコクーン歌舞伎で出しただけであろう。伊右衛門の母親のお熊という役は、「隠亡堀」だけだと、仮にも武士の母親とも思われない汚い婆アとして出るだけだが、ここが出ると彼女の日常が見えて、いわゆる「通った役」として、萬次郎が出ただけの甲斐のある役になる。またここに登場する高麗蔵の赤垣伝蔵が実にいい。『忠臣蔵』というフレームを明示したのが今回上演の眼目とすれば、高麗蔵の仕事は画龍点睛の働きをなすものと言っていい。

もうひとつ、これは新聞にも書いたが、いつもの三役に加え発端の南北と大詰の大星も併せ都合五役をつとめる染五郎に、若き座頭といった風情なり格なりがほの見えたことで、世代交代の気運の満ち始めた折から、そろそろ新大関昇進の時期も近いか、という感じもする。(少し気が早いかな?)

となると、御大幸四郎はご隠居さんか、ということにもなるが、隠居はともかく、相も変らぬ幸四郎風新劇には違いないとはいえ、この人の伊右衛門というのは悪いものではないし(現にいまの第一線級で伊右衛門役者が他にいるだろうか?)、芸に齢を取らせていないのは偉い。思えばいまはない日比谷の芸術座での木の芽会で、染五郎の伊右衛門に万之助の直助でやったのが、今年でちょうど50年前ということになる。つまりこの人の伊右衛門を、もう半世紀見てきたことになる。先の又五郎がお岩で(これは名演の誉れ高い傑作だった)、父の八代目が「隠亡堀」だけ与茂七で特別出演したのだった。ひょろ長い伊右衛門と直助に左右からはさまれた直助が、安っぽい現代風のビルの谷間に沈んだ格調ある赤煉瓦の建築みたいだった。もう一つ思い出した。このとき「隠亡堀」以外の場の与茂七は、先頃死んだ吉之亟だったっけ。

と、今回は褒めた『四谷怪談』だが、いつもいつもオミットされる「三角屋敷」を、いまやもう冗談ではない、ここできちんと出しておかなくては。それこそ、国立劇場に求められるところだろう。先の猿翁の時はちゃんと「三角屋敷」を出している。こういうところが、猿翁の端倪すべからざるところと言える。

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文楽は、本興行の方の『奥州安達原』「環宮御殿」で千歳大夫も文字久大夫も、時代物らしいスケール感があってよく語ったが、鑑賞教室の方の『三十三間堂棟由来』がなかなか結構だった。私の見たのはBプロの方だが、「鷹狩の段」の咲甫もよかったし、「平太郎住家」から「木遣り音頭」を語った英大夫が出色だった。この大夫は、大曲を語るにはやや非力だが、こういうものを語らせればしっかりしている。無駄に修行はしていないというやつだ。

お柳もだが平太郎がよく語れるのがこの曲の勘どころで、平太郎と言えばかつて歌舞伎で歌右衛門が復活した時の三代目左団次のいいことと言ったらなかった。魁春と梅玉で(鴈治郎という手もある)、国立劇場で如何であろう。

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新橋演舞場の舟木一夫公演がなかなかよかった。このところ天一坊の伊賀亮だの物々しい役が続いたが、今度の勝小吉は、青果の『天保遊侠緑』とも子母澤寛の『父子鷹』とも違い、小吉自身の書いた『夢酔独言』から新規に作ったのがよかった。水谷八重子や林与一など、共演者にも人を得ているのがこの公演のいつもいいところで、今回特に英太郎が大活躍をする。(ちょっぴり芝翫や芝喜松に似ていることに気が付いた。)しばらく前だがテレビのチャンネルNEKOで「舟木一夫オン・ザ・ロード」という番組を見たが、なかなか面白かった。つまり、この人、芸談を語れる人なのである。

勝小吉といえば、映画では阪妻の最後の映画(撮影未完で死んだのだった)の『あばれ獅子』や、『父子鷹』は市川右太衛門が小吉で中学生だった北大路欣也が麟太郎役でデビューしたのを見ている。NHKの大河ドラマで『勝海舟』を渡哲也がしたときには、何と松緑(二代目である)が小吉役で出ている。

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毎年暮れの三越劇場には劇団民芸の公演が掛かる。何だか奈良岡朋子一座のようなことが多いが、今年は小幡欣治作の『根岸庵律女』、つまり正岡子規の妹の話で、一代記というか、一種の芸道物風というか、もちろん再演だが近頃古風ともいえる芝居を、初演では主役の律をした奈良岡は今度は母親役で脇に回り、若手を前面に出している。もう宇野重吉を知らない世代なのだそうだ。若い女優の声がびんびん響きすぎるのが、民芸や前進座の特徴というか(まさか芸風ではないだろう)玉に瑕だが、良い意味での新劇らしい舞台で、久しぶりにこの劇団を見直した感じだ。

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随談第563回 訃報&訃報

北の湖と原節子とはふしぎな取り合わせだが、これも何かの縁の端であろう。もっとも、北の湖は文字通りの急逝だが原節子の場合は三月も前の9月初めに亡くなっていたという。つい先日も大映の二枚目スターだった(頃が私には一番なつかしい。『青空娘』で若尾文子を田舎教師の菅原謙二と争う都会派の好青年などがよく似合った)川崎敬三が同じように、「亡くなっていたことがわかりました」という近頃よく耳にするニュースとなった。この二人の場合は故人の遺志を尊重してそうなったのだからいいが、かつてはそれぞれの世界で相当に鳴らしていたような人が、「亡くなっていたことがわかった」といった小さな記事になっているのを読むことがちょくちょくある。人は棺を蔽ってわかるとよく言うが、そう言ってしまったのではちょいと気の毒な感じもする例もまま見受ける。むしろ、報道する側がどれだけの知識と理解と見識をもって死亡記事を書いているかを問いたくなることも少なくない。

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北の湖は、強さという意味では戦後最強力士であったろう。優勝回数など記録の上ではそれを超える人もあるが、他を寄せ付けない圧倒的な強さのイメージを植え付けた点、彼に勝るものはない。まさに巨象の荒れ狂うが如し、という感じだった。「戦後横綱番付」を作るとすれば、終戦直後の最も困難な時代の土俵を支えた羽黒山と共に、東西の正横綱の座に坐って然るべきである。

北の湖の手形を見ると、普通人でも少し大柄な人ならもっと大きな人はいくらもいそうなほど小さい。指が短いからで、師匠の初代増位山の三保ケ関親方が、北の湖の指がもう少し長かったら文字通り無敵であったろうと言ったというが、つまり指が短いと取ったまわしを切られやすい分、安定感に欠けることになる。闘志漲る相撲で抜群の強さを見せながら安定感に若干の憾みを残したという点で、かの朝青龍は小型北の湖だったとも言える。(但し、北の湖が朝青竜と違うのは、同じ強いが故に憎まれても、決してヒールではなかったことである。)

そのデンで行くと、現在の白鵬は小型(というのは語弊があるが)大鵬ということになる。負けない相撲。盤石というより、相手の力を吸収してしまう柔構造の耐震力という点で、二人は共通する。見ていて、強い、というのとは少し違う。大鵬には柏戸という、相撲ふりでもイメージの上でも対照的な好敵手がいたが、白鵬の場合は朝青竜が不祥事で早くにいなくなってしまったのが、連勝や優勝回数といった記録を作る上では幸いしたかもしれないが、強さを競い合うという意味では不幸であったかもしれない。大鵬を偉とする点は、柏戸以外にも、横綱、大関から関脇以下に至るまで、強豪・巧者、強敵があまたいる中で戦ったことで、だから大鵬の連勝記録は30連勝40連勝台までで、その代わり何度もしているのは、難敵が大勢いる中でいかに安定した強さを長期にわたって示したかを物語る。

いまの白鵬の相手として、取り口の共通点から言って、稀勢の里が大鵬に於ける柏戸、日馬富士が栃ノ海に擬せられるが、稀勢の里は柏戸に及ばず、日馬富士は栃ノ海に勝ると言っていいかもしれない。(今場所の日馬富士は大したものだった。白鵬を破った一番は、夏場所、弟弟子の照ノ富士初優勝のために奮起して、土俵際まで追い込まれながら飛燕のごとく懐に飛び込んで白鵬を倒した一番と共に、その真骨頂を見せたものと言っていい。)

白鵬が終り三日を3連敗したことを云々する声があるが、日馬富士戦、照ノ富士戦、鶴竜戦、どれも勝った方を賞賛すべき見応えのある相撲だったではないか。とりわけ照ノ富士が両まわしを引き付けて白鵬の腰を利かなくして寄り切った剛力には改めて恐れ入った。

一方白鵬は、先場所来の故障休場を通して衰えの兆しを自覚したかのように見える。と同時に、初場所以来の、審判に不審をあからさまにするなどの暗い翳が吹っ切れたかのように、隠岐の海戦の櫓投げ、栃煌山戦の猫だましなど、一種の遊びの境地のようなものが察知される。北の湖が理事長として猫だましに苦言を呈したのはケジメという意味で正論であったわけで、ただ予期せぬことに、それが遺言でもあるかのようなタイミングになってしまった。そこらの阿吽の呼吸を読むべきであろう。(猫だましは、かつて若き横綱として旭日昇天の勢いにあった大鵬に、15,6歳も歳が離れ、老境に入ろうとしていた大ベテランの出羽錦がやったのが、お前さん、もう俺の手にはおえなくなってしまったよなあ、といった、一種人を喰ったようでもあり、口惜しいがお前さんを認めざるを得ないぜといった、ベテランの複雑な思いを反映したようでもあり、といった、なかなか味のあるものだったのを思い出す。当時まだ若かった大鵬は怒ったらしいが、大ベテランから貰った勲章でもあったわけだ。)

        *

10年ほど前になるか、明治座で『長崎ぶらぶら節』を石川さゆりがやったことがあって、これが結構行けた。それが名物の、主人公の長崎芸者がお座敷で横綱の土俵入りをする場面を欠かすわけには行かない。そこで土俵入りの伝授を北の湖に受けた。自身、明治座まで来てくれたという。スーツ姿だったが上着を脱いで、目の前で本息でやってみせてくれたのが「本当に素敵でした。セリ上がりなどまるでアトラスが地球を持ち上げるようでした」と石川さゆりが言っていたのは、さもありなんと思われる。

私の娘婿というのはロック歌手を目指してCDの一枚も出した昔を持つ男だが、見たことがないというので一度本場所を見せたら、理事長として初日の協会挨拶のために紋服姿の北の湖が土俵に上がるのを見て、「格好いい」と呻いていた。

この二つの話に通底するのは、男としての迫力が生み出す男の色気である。終生それを持ち続けた。こういうのを、本寸法の男の中の男というのであろう。

       ***

原節子の場合は、既に生きながらの偶像として評価やイメージが、まるで氷結してしまったかのように、誰の言うことも固定してしまっている。一種の不幸とすら言いたくなるほどだが、実はこうした評価もイメージも、引退する前から出来上がっていた。以後ほぼ半世紀、変わることがなかったとも言えるわけで、それが彼女の「偉大さ」の証しと言ってしまえばそれまでだが、あるいは、今度の「死」によって呪縛が解けて、いろんな評価が出てくることになるのかもしれない。

その一方、これは又聞きだが、その死を伝えるどこかの局のニュースショーで、司会者とコメンテーターの3人ともが、あっけらかんとした口調で、原さんて私は一度も見たことがないんですけどねえ、とやっていたという。世代の、あるいは時代の違いを言いたいのか、あるいは、原節子など知らなくとも恥とも何とも思わないということか。

      *

私が密かに畏敬するところのある私より若いさる女性が、小津の作品での原節子が、どこか無理をして小さくなっているように見える、と言った。フームと思う。かなり鋭いところを突いている一言と思われる。

それとは直に結びつくことではないが、時に小津作品の原節子に、デケエなーと思(ってしま)うことがある。『晩春』の冒頭、生け花を習う場面で感じたのが最初だった。(その場面では、和服に腕時計をしている。つまり彼女は職業を持つ女性なわけだが、時計をはめたままでいるわけだ。)

もうひとつ。原節子はときどき、にこやかに笑いながら、はっとするほど怖い顔をする。これも、原節子を語る上で見落としてはならないことだろう。

それにしても。大正9年、1920年という、芸界人当り年の生まれの、中村雀右衛門、山口淑子、森光子、そして原節子(ついでに言うと川上哲治も!)その他その他の同い年生まれが、これでみんないなくなってしまったことになる。活躍の頂点が人生の早い方にあった者、後半生にあった者、晩年にこそあった者、それぞれの人生の在り様が、こう並べてみるだけでも浮き彫りになる。

結びに、私なりの原節子三傑。

1. 小津安二郎作品から『麦秋』

2. 黒澤明作品から『わが青春に悔いなし』

3. 成瀬巳喜男作品から『山の音』

(番外)千葉泰樹監督『東京の恋人』(こういう、いわゆるプログラム・ピクチャーでの原節子を語る人があまりいないのを、物足りなく思うのは私だけだろうか? それなら、というわけでもないが、いずれ、BC級映画名鑑に書こうと思っている。)

やはり昭和20年代に最も輝いた人だった。その輝きに於いて、抜群の光を放っていたことは確かだろう。

       ***

水木しげるが死んで、私などが喋々するために出る幕はないが、ひとつ思うのは、手塚治虫と水木しげると、漫画というジャンルは戦後二人の天才を出したわけだが、小説や戯曲ではどうだろう? ということである。

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随談第562回 今月の舞台から

11月の歌舞伎座が十一代目團十郎50年祭というので、私が担当しているカルチャーの教室で受講者の方々と私の手持ちの十一代目の古いVTRを一緒に見た。格別の珍品ではない。昭和40年3月歌舞伎座での七世幸四郎17回忌の折の『勧進帳』で、このときは團十郎・白鸚八世幸四郎・二世松緑の三兄弟で弁慶と富樫を一日替わり、義経も延若・後の七世芝翫の先先代福助・雀右衛門が一日替わりするので、すべての組み合わせを見ようと思ったらほぼ毎日見なければならなくなるという騒ぎだったが、VTRに映像が残っているのは團十郎の弁慶、松緑の富樫、延若の義経という顔合わせのものである。何度も見て知っている映像だが、改めてそのスケールの大きい役者ぶりに感嘆久しうした。映像の時とは別の日に実際の舞台も見ているが、当時思っていた以上に、掛け替えのない人であったことが今更の如くに思われる。

不器用という評判だった通り、いかにも武骨不器用、減点法で採点でもしたら点数を引かれるところは多々あろうが、しかしこれほど荒事の骨格を備えた弁慶らしい弁慶は、以降、遂に見ることがない。歌舞伎座の筋書にも書いたが、その芸質を一言で言うなら「豪宕」というべく、その魅力を一言で言うなら「男性美」というべきであろう。

(それはそれとして、この松緑の富樫も、いま見ると実に見事でほとんど模範的といっていい。当時の通念としては、白鸚または松緑の弁慶に團十郎の富樫というのがベスト配役とされていたこともあって、むしろ不慣れな役で兄貴につきあった兄弟愛の方が話題だったかもしれない。)

海老蔵は祖父似と言われるが,痩身痩躯という外観、一種のeccentricityを蔵した気質に、たしかに共通するものを覚えることはある。『若き日の信長』に父十二代目よりも役との親近性があり、『河内山』ではそれが役への屈折として顕われる分、「広間」「書院」では変化球の面白さが生きるが、「玄関先」では如何にも若輩ぶりを露呈する。まあこれは、年配から言って余儀ないこととしても(河内山というのは、悪をし尽くした悪党が、ふとした善心から上野の使僧に化けて大名に一杯喰わせる、これ以上はない大博打を打って、「悪に強きは善にも」という、悪党人生の果てに得た悪党哲学と諦念とがブレンドされてそこはかとなく漂ってこその面白さ、つまりは大人の芝居であって、同じことを若造がしたって青臭い悪戯にしかならない。つまり海老蔵にはまだ無理な芝居なのだ)、それよりもセリフがヘロヘロなのがこういう芝居では致命傷となる。もっとも、緋の衣を着たあの扮装はなかなか似合うし、チャームもあるから、延命院日当をしたら面白かろう。

『若き日の信長』では左團次の平手中務がなかなかいい風格で、この人はこの人なりに、ひとつの境地に達しようとしていることが思われる。が、それはそれとして、十二代目が健在でこの役で父子共演をしたら、ということをしきりに思いながら見たのも事実である。

今川の間者僧覚円という役をする右之助が、近頃の人にはちょいとない味な演技を見せる。病気でしばらく休んでいたのが、再起後、いい味を見せるようになった。女形と両方行けるところが、若い時には痛しかゆしになりがちだったが、ここへきて、立役女形それぞれに、うまい具合に発酵するようになった。すっかり世代交代した脇役陣にあって、ひときわ大人の芝居である。

菊五郎の御所五郎蔵、幸四郎の『勧進帳』弁慶、仁左衛門の『千石屋敷』の大石は、いずれも、それぞれの役者人生を反映したそれぞれの到達点と言えば足りるであろう。『御所五郎蔵』では魁春の皐月の隴たけた綺麗さというものも、この人の永い女形としての蓄積の上に底光りがするようで、年代物のワインをちびりとやるような味わいがある。各人それぞれに、それぞれのものを発酵させる年配に達しているのだ。

若い人では染五郎の実盛がよかった。セリフに丸本味が薄いのは難点だが、生締物にドンピシャリの仁のあること、とりわけ爽やかさのあること、この役この狂言にふさわしい夢幻性のあること、素の優しみが役の優しみに通っていること等々、これらの長所がことごとく生きている。妙なことを言うようだが、太郎吉の鼻をチーンとかんでやったり、太郎吉が本物の馬に乗りたそうなそぶりをするのをそれと察してやったりする、いうなら芝居の遊び、入れ事の箇所で、実盛役者の当否が計れると私は思っている。それがないと、20年後のことを予言(予約?)したり、人名はまだしも地名を勝手に命名したりするこの「不思議な小父さん」として、適任者とは言えないのだ。(染五郎より遥かにうまい勘三郎が、夢幻性という一点で、染五郎に一籌を輸するのはこのこと故である。)

          *

吉右衛門が「由良兵庫助館」を初代以来100年ぶりに復活するというのを「売り」にした国立劇場『神霊矢口渡』だが、周到な準備と条件を整えてしっかり演じさえするなら名作であることは疑いない『岡崎』や『競伊勢物語』と違い、果たしてどういうものやら当りのつけようのなかった代物だが、まずは、吉右衛門充実の日々は今も続いていることを証するに足る仕事ぶりであった。敵方に寝返りと見せてそうでなかったり、わが子を若君の犠牲にしたり、先行名作のあれこれから趣向をパクっている辺り、セミプロ作者福内鬼外先生の面目躍如というところだが、吉右衛門はあくまで正攻法に攻めてまずは見応えは充分ある一幕に仕上げたのは同慶の至りというべきか。歌六のしている江田判官の扱いが原作と違えてあるのが脚本校訂上のミソであろう。名作未満、凡作以上というところ、100年上演されなかったわけもわかるし、だがやってみれば相当の作として見られる。少なくとも、吉右衛門の苦労は無駄ではなかった。

とはいえ、やはり何と言っても『頓兵衛住家』が底光りがして見えるのは手垢がついている有難さだが(艶とは要するに手垢であるとは、かの『陰影礼賛』の説くところである)、そればかりでなく芝雀のお舟の手柄でもある。雀右衛門襲名を前にして着々と打率を稼いでいるところだが、この人の本領はやはりこうした娘方にあることを証明したとも言える。歌六の老役も遂に頓兵衛までつとめるようになって、段四郎休演のいま、これも当代でのものであろう。

         *

と、言いかけたら、その段四郎が11月から『ワンピース』に出演しているとの報を受けた。10月に寿猿のしていた役をつとめている由。筋書等には、とくに「再起」だの何だのと謳わず、ひっそりと、また不定期な出演の仕方であるらしい。必ずしも楽観は出来ないが、ともあれめでたいことと言わねばなるまい。

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『矢口渡』といえば公演中の一日、伝統歌舞伎保存会の主催による研修発表会が行われ、米吉のお舟、吉之助の頓兵衛、蝶之介の義岑、京由のうてな、吉兵衛の六蔵等々といった配役で「頓兵衛住家」が上演されたが、米吉の娘方としての素質の良さ、吉之助の手強さ、蝶、京由の仁の良さ、吉兵衛の手強さ、それぞれに今後への期待のもてるものであった。先月も亀鶴の貢らで『伊勢音頭』があったが、これもなかなかの好成績だった。一回だけの上演だが、かえってそれがいいのかもしれない。それよりむしろ、ご褒美として機会を与えるということがあっていい。

         ***

加藤治子が亡くなって、マスコミではもっぱら「お母さん女優」として紹介しているのはそれとして自然なことだろうが、たまたま訃報の届いた日、劇場で隣り合わせた小田島雄志さんが、若き日にはじめて「年上で可愛いと思った人」だったと仰っていたのがむべなるかなという感じである。私は小田島さんよりさらにひと回りも下だが、「かわいい」という感じはよくわかる。が、同時に「こわい女」をさせても、というか「女のこわさ」を演じさせてもユニークな人であったと思っている。仮に「日本舞台女優何傑」といった企画を立てるなら相当いいところにつけるのではないか、というのが私の「加藤治子論」の結論である。

        *

新国立の『桜の園』を見ていて、どういう演技がいいとか、どういう役者が上手いとかいった基準というか、評価の仕方というか、そういったものが随分と変わってしまったなあと、改めて思い遣った。元よりそんなことは、いわゆる70年代の地殻変動以来、常識みたいなものと心得ているつもりだが、それにしても、ここまでくると、遥けくも来つるものかなとため息が出るほどである。

冒頭、ロパーヒンが小間使(などという、ナントカ・ハラスメントだと訴えられはしまいかと心配になりそうな、古めかしい呼称が配役表に書いてあるのは神西清訳を使っているからだ)のドウニャーシャを相手にぼそぼそ、ロクに聞き取れないような調子で喋るのを聞いているだけで、アアこりゃ駄目だ、と私のような時代遅れのむかし気質の者は思ってしまうのだが、カーテンコールでは結構拍手を浴びているし、そもそも演出者が許しているのだから、あれでよしと認められているのだろう。台本の上では対話だが、今度の演出ではほぼ舞台中央に観客に向かって立って、つまりシェイクスピアか何かの冒頭の独白に近い形でこれを言うのだから、なおのことと言わねばならない。

今度のロパーヒン君はひとつの例であって、この手のことに、舞台だけでなくテレビドラマなどでも、ちょいちょいぶつかる。私には妙な癖としか思われない演技が、巧いとされているらしい。しかし私だけが時代遅れなのかと思うと、少なくとも今度の『桜の園』の場合、幕間にロビーで会った演劇関係の顔見知りにそれを言うと、皆ひとしく賛同したのだから、ハテどういう考えればいいのだろうか?

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随談第561回 私家版・BC級映画名鑑 第8回 映画の中のプロ野球(番外その2)『三太と千代の山』

『三太と千代の山』は、昭和27年9月18日封切りの新東宝作品だが、新理研映画株式会社製作とクレジットにある。上映時間約46分という短尺物で、私が虎の巻にしている昭和38年発行の『キネマ旬報』増刊の「日本映画戦後18年総目録」は昭和20年8月15日から昭和38年8月15日までの間に封切られた日本映画全作品をリストアップしたものだが、それによると、古川ロッパ主演の『さくらんぼ大将』と同時に封切られている。二本立だったわけだが、実はこの二本とも、当時人気のラジオドラマ、その頃の言葉で言う放送劇の映画化である。『三太物語』がNHK、『さくらんぼ大将』が前年末に開局した、この時点で唯一の民間放送だったラジオ東京。テレビというものがまだ存在しないこの当時の放送劇の質量ともに隆盛だったことは、現代の人がもっと認識して然るべきで、『君の名は』や『笛吹童子』だけが特別だったわけではない。ウィークデーには毎日夕方の5時~6時台が子供向け、ないしは家族向けの連続劇が15分づつ(NHKの朝ドラが今なお続けているあの形式こそ、往年の連続放送劇の形式の流れを汲むものである)、日曜日にはもう少し長い時間のもの、というケースが多かった。(いまもなお振袖姿で矍鑠としている黒柳徹子女史の売り出した『ヤン坊ニン坊トン坊』は毎日曜6時台、家中で聴く番組だったから、『笛吹童子』や『紅孔雀』のように子供には絶大な人気でもお父さんは聞いたことがない、というのとは違っていた。)『三太物語』にしても『さくらんぼ大将』にしても、夕方になると、仮に我が家では聞いていなくとも、近所のどこかしらの家から放送時間になるとまず主題歌が聞えてくるから、誰もがその歌を聞き知っていた。(どこの家もあけっぴろげの木造住宅だった。)実をいうとどちらの番組も私はそれほど熱心なファンだったわけではないにも拘らず、いまでもフッと、『さくらんぼ大将』のあのロッパの特徴ある歌声を耳朶に蘇らせることが出来る。そこが昭和20年代と現代の決定的とも言える違いなのだ。

ところで『三太物語』だが、丹沢の奥というか裏というか、甲州と神奈川県とが合する辺りを流れてやがて相模川に注ぎ込む道志川という川のほとりの山村が舞台で、毎回必ず、「俺ァ三太だ」という主人公の少年のナレーションで始まることになっていた。作者の筒井敬介は当時売れっ子の放送作家で(テレビ草創期、いまの十朱幸代がデビューした『バス通り裏』の作者もこの人である)、私がやや敬遠していたのは少々学校推薦風の匂いも感じ取れたせいもあったが(よしそうであったとしても、それはまたそれで、いまとなっては懐かしいが)、凡その人物設定や、ストーリーの語り口や運び方は自ずと知っている。小学校の高学年と思しき三太少年とその家族、学校の友達、村人の誰彼、先生たちといったおなじみの人物たちが繰り広げる小宇宙を舞台とした物語である。中でも花荻先生という若い女性の先生が子供たちのマドンナで、山本嘉次郎脚本の映画でも、その舞台背景、ストーリー展開はほぼそのままに繰り広げられる。

仙爺と呼ばれて鮎釣りの名手として自他ともに許している三太の祖父(徳川夢声がやっている)が、化け物の祟りだと言って寝付いてしまう。三太は迷信だと笑うが、結局、それから始まった顛末で、この道志村へ大相撲の(といっても当時の巡業は各一門ごとにすることが多かったから)横綱千代の山一行の巡業がやって来て、三太が千代の山に鮎釣りの穴場を教えてやったことから親しくなり、次の本場所に招待してくれることになる。という主筋に、結婚退職したマドンナの花荻先生が川で泳いでいて失くした結婚指輪をめぐる脇筋が絡んで、藤原釜足演ずる校長から特命を受けて三太は先生のために毎日川に潜って探すが見つからず(先生は指輪を失くしご主人に叱られて泣いているらしい)、却って足を負傷してしまう。やがて千代の山が約束通り送ってくれた秋場所の入場券を、オラの代りに行ってくださいと花荻先生に譲ったのだったが、やがてその当日、ラジオの実況放送で(ここでも、アナウンサーは和田信賢である)千代の山優勝の報を聞いたところへ先生夫妻がやってきて、ごめんなさいね、指輪は今朝、家にあったことがわかったの、ということになる。千代の山の雄姿を見損なった残念さに、憧れだった花荻先生の、結婚してフツーの大人としての一面を見てしまった淡い喪失感が重なって、ひとつ大人になるという、いうならイニシエーション・ドラマなわけだが、花荻先生は若き日の左幸子で、当時の輝くばかりの瑞々しさというものは、同じ頃に作られた『思春の泉』(「草を刈る娘」改題)などを見てもそれまでの日本の女優にはないものだろう。この作でも道志川の淵で泳ぐ姿の美しさというものはいま見ても凄い。(昭和32年9月封切りの中平康監督『誘惑』というのを、私はこの女優の代表作と考えているのだが、もう一度めぐり会いたいものだ。)

こうしたストーリーの中で、巡業の一行に二、三日先立って鮎釣りにやって来た千代の山と仲良くなった子どもたちとの交流の場面で、千代の山がかなりの量のセリフを言って、千代の山自身を演じる芝居をする。『エノケンのホームラン王』における巨人軍の選手たちと同じデンだが、千代の山と言っても、往時を実見していず記録だけから判断する当世のオタク相撲通にはピンとこない惧れがあるが、当時の千代の山というものが如何に大変なスターであったかを知ることが、まず必要になる。幕下当時から稀代の逸材と言われ、いうなら、一世代後の大鵬級の大横綱になるものと期待されていたと思えば話が早い。前に『川上哲治物語』のところで書いた『土俵の鬼若乃花物語』『名寄岩涙の敢闘賞』『褐色の弾丸房錦物語』といった人気力士の伝記映画がしきりに作られたのは、これから数年後のいわゆる栃若時代の相撲人気絶頂のさなかだったが、これはそれより数年先、テレビのない当時、相撲雑誌のグラビア以外では力士の顔も体型も知るすべがないままに、すべてはラジオを通して熱狂していたのである。そういう時代の、千代の山は少年ファンの憧れの第一だったのである。

三太たちがラジオの中継放送で聴いている秋場所千秋楽の千代の山が優勝を決める一戦は、画面では蔵前国技館での実写で(まだ仮設国技館といっていた蔵前国技館の外観が映るのが息を吞ませる)千代の山と照国の取組みと(勝負のついた場面が出ないのは照国の名誉のためであろう)、優勝杯を出羽海理事長、優勝旗を時津風親方(つまり双葉山である)から千代の山が受け取るショットが写るが(後に言うように現実の秋場所はこのようにならなかった。照国との一戦、優勝杯と優勝旗を受けるショットは、おそらくその前年に大関で優勝した折のフィルムであろう)、相撲の場面としてはそれ以上に、三太たちの住む隣村で興行された巡業の場面が素晴らしい。体育館や公民館といった公的施設で行なう今日の巡業と違い、野天に土俵を作って行ったかつての巡業風景としても貴重な映像と言える。付け人が総がかりで千代の山の横綱を締める光景や、出羽錦と鳴門海を太刀持ち・露払いに従えて土俵入りをするショットから、当時まだ関脇だった栃錦が胸を出して激しいぶつかり稽古をするのを、出羽錦、信夫山、鳴門海、大起、羽島山、八方山といった出羽の海一門の力士たちが見守るシーンなど、眼を皿のようにして見ても足りない。(当時は都内にも巡業が廻ってきたものだった。大塚駅前の広場に二所ノ関一門の巡業がやってきて、当時小結だった初代若乃花や内掛け名人の琴ケ浜やガダルカナル帰還兵の怪力玉ノ海や、速攻の先代琴錦らを見たのも、近くの中学校の校庭に出羽の海一門の巡業が来て、前日に新横綱としての土俵入りを明治神宮に奉納したばかりの栃錦を見たのも(もちろん千代の山も)、この映画の一年後、二年後のことである。)

ところで、昭和27年9月封切りのこの映画のこうした場面は、おそらくその夏に撮影されたものと思われるが(物語も、巡業の一行が来て間もなく夏休みとなり、花荻先生の指輪の一件があって、やがて新学期、秋場所という風に展開する)、実はこの夏を転回点として、現実の千代の山の力士人生は思わぬ方へ大きく転じてゆくことになる。映画の中で千代の山が優勝した筈の昭和27年秋場所は、それまで卓抜の技能力士ではあっても関脇どまりと思われていた栃錦が優勝、大関となり、その後の大成への第一歩を踏み出すことになったのと対照的に、千代の山は不振がちとなり、翌年の春場所中に自ら横綱返上を申し出るという事態となる。返上問題自体は、真面目で誠実な人柄を反映したもので、協会も受理せずに落着、その後復調して会心の全勝優勝を果たしたりもしたが、大局的には、土俵の趨勢は千代の山に戻ってくることはなかった。三場所制から四場所制へと移る時期に通算6回という優勝回数は横綱として一級と言えようが、期待と前評価の大きさから見ると、やや悲運の人という翳が差すのは否めない。それだけに、その誠実でやや弱気(ですらある)強豪力士のたたずまいが一種の悲哀を帯びつつ懐かしく思い出されるのだが、『三太と千代の山』はちょうどその運命の転回点の直前の風貌を、奇しくも捉えていることになる。

映画のちょうど一年後の昭和28年秋場所の二日目、友だちと大塚駅前から厩橋まで、すなわち都電16番線の始点から終点まで乗って蔵前国技館で朝の一番相撲から結びまで観戦した打出し後の帰りがけ、ちょうど通りかかった売店の暖簾を上げて、店の人と談笑していたらしい笑顔を残したままの千代の山が、見上げるような長身をぬっと現わした。中学生にとってのこうした一瞬の記憶というものは、おそらく呆けたのちまで残像を残してくれるに違いない。実はこの場所は、その春に横綱返上問題を起した千代の山の再起の場所だった。

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つづき

『三太と千代の山』は、昭和27年9月18日封切りの新東宝作品だが、新理研映画株式会社製作とクレジットにある。上映時間約46分という短尺物で、私が虎の巻にしている昭和38年発行の『キネマ旬報』増刊の「日本映画戦後18年総目録」は昭和20年8月15日から昭和38年8月15日までの間に封切られた日本映画全作品をリストアップしたものだが、それによると、古川ロッパ主演の『さくらんぼ大将』と同時に封切られている。二本立だったわけだが、実はこの二本とも、当時人気のラジオドラマ、その頃の言葉で言う放送劇の映画化である。『三太物語』がNHK、『さくらんぼ大将』が前年末に開局した、この時点で唯一の民間放送だったラジオ東京。テレビというものがまだ存在しないこの当時の放送劇の質量ともに隆盛だったことは、現代の人がもっと認識して然るべきで、『君の名は』や『笛吹童子』だけが特別だったわけではない。ウィークデーには毎日夕方の5時~6時台が子供向け、ないしは家族向けの連続劇が15分づつ(NHKの朝ドラが今なお続けているあの形式こそ、往年の連続放送劇の形式の流れを汲むものである)、日曜日にはもう少し長い時間のもの、というケースが多かった。(いまもなお振袖姿で矍鑠としている黒柳徹子女史の売り出した『ヤン坊ニン坊トン坊』は毎日曜6時台、家中で聴く番組だったから、『笛吹童子』や『紅孔雀』のように子供には絶大な人気でもお父さんは聞いたことがない、というのとは違っていた。)『三太物語』にしても『さくらんぼ大将』にしても、夕方になると、仮に我が家では聞いていなくとも、近所のどこかしらの家から放送時間になるとまず主題歌が聞えてくるから、誰もがその歌を聞き知っていた。(どこの家もあけっぴろげの木造住宅だった。)実をいうとどちらの番組も私はそれほど熱心なファンだったわけではないにも拘らず、いまでもフッと、『さくらんぼ大将』のあのロッパの特徴ある歌声を耳朶に蘇らせることが出来る。そこが昭和20年代と現代の決定的とも言える違いなのだ。

ところで『三太物語』だが、丹沢の奥というか裏というか、甲州と神奈川県とが合する辺りを流れてやがて相模川に注ぎ込む道志川という川のほとりの山村が舞台で、毎回必ず、「俺ァ三太だ」という主人公の少年のナレーションで始まることになっていた。作者の筒井敬介は当時売れっ子の放送作家で(テレビ草創期、いまの十朱幸代がデビューした『バス通り裏』の作者もこの人である)、私がやや敬遠していたのは少々学校推薦風の匂いも感じ取れたせいもあったが(よしそうであったとしても、それはまたそれで、いまとなっては懐かしいが)、凡その人物設定や、ストーリーの語り口や運び方は自ずと知っている。小学校の高学年と思しき三太少年とその家族、学校の友達、村人の誰彼、先生たちといったおなじみの人物たちが繰り広げる小宇宙を舞台とした物語である。中でも花荻先生という若い女性の先生が子供たちのマドンナで、山本嘉次郎脚本の映画でも、その舞台背景、ストーリー展開はほぼそのままに繰り広げられる。

仙爺と呼ばれて鮎釣りの名手として自他ともに許している三太の祖父(徳川夢声がやっている)が、化け物の祟りだと言って寝付いてしまう。三太は迷信だと笑うが、結局、それから始まった顛末で、この道志村へ大相撲の(といっても当時の巡業は各一門ごとにすることが多かったから)横綱千代の山一行の巡業がやって来て、三太が千代の山に鮎釣りの穴場を教えてやったことから親しくなり、次の本場所に招待してくれることになる。という主筋に、結婚退職したマドンナの花荻先生が川で泳いでいて失くした結婚指輪をめぐる脇筋が絡んで、藤原釜足演ずる校長から特命を受けて三太は先生のために毎日川に潜って探すが見つからず(先生は指輪を失くしご主人に叱られて泣いているらしい)、却って足を負傷してしまう。やがて千代の山が約束通り送ってくれた秋場所の入場券を、オラの代りに行ってくださいと花荻先生に譲ったのだったが、やがてその当日、ラジオの実況放送で(ここでも、アナウンサーは和田信賢である)千代の山優勝の報を聞いたところへ先生夫妻がやってきて、ごめんなさいね、指輪は今朝、家にあったことがわかったの、ということになる。千代の山の雄姿を見損なった残念さに、憧れだった花荻先生の、結婚してフツーの大人としての一面を見てしまった淡い喪失感が重なって、ひとつ大人になるという、いうならイニシエーション・ドラマなわけだが、花荻先生は若き日の左幸子で、当時の輝くばかりの瑞々しさというものは、同じ頃に作られた『思春の泉』(「草を刈る娘」改題)などを見てもそれまでの日本の女優にはないものだろう。この作でも道志川の淵で泳ぐ姿の美しさというものはいま見ても凄い。(昭和32年9月封切りの中平康監督『誘惑』というのを、私はこの女優の代表作と考えているのだが、もう一度めぐり会いたいものだ。)

こうしたストーリーの中で、巡業の一行に二、三日先立って鮎釣りにやって来た千代の山と仲良くなった子どもたちとの交流の場面で、千代の山がかなりの量のセリフを言って、千代の山自身を演じる芝居をする。『エノケンのホームラン王』における巨人軍の選手たちと同じデンだが、千代の山と言っても、往時を実見していず記録だけから判断する当世のオタク相撲通にはピンとこない惧れがあるが、当時の千代の山というものが如何に大変なスターであったかを知ることが、まず必要になる。幕下当時から稀代の逸材と言われ、いうなら、一世代後の大鵬級の大横綱になるものと期待されていたと思えば話が早い。前に『川上哲治物語』のところで書いた『土俵の鬼若乃花物語』『名寄岩涙の敢闘賞』『褐色の弾丸房錦物語』といった人気力士の伝記映画がしきりに作られたのは、これから数年後のいわゆる栃若時代の相撲人気絶頂のさなかだったが、これはそれより数年先、テレビのない当時、相撲雑誌のグラビア以外では力士の顔も体型も知るすべがないままに、すべてはラジオを通して熱狂していたのである。そういう時代の、千代の山は少年ファンの憧れの第一だったのである。

三太たちがラジオの中継放送で聴いている秋場所千秋楽の千代の山が優勝を決める一戦は、画面では蔵前国技館での実写で(まだ仮設国技館といっていた蔵前国技館の外観が映るのが息を吞ませる)千代の山と照国の取組みと(勝負のついた場面が出ないのは照国の名誉のためであろう)、優勝杯を出羽海理事長、優勝旗を時津風親方(つまり双葉山である)から千代の山が受け取るショットが写るが(後に言うように現実の秋場所はこのようにならなかった。照国との一戦、優勝杯と優勝旗を受けるショットは、おそらくその前年に大関で優勝した折のフィルムであろう)、相撲の場面としてはそれ以上に、三太たちの住む隣村で興行された巡業の場面が素晴らしい。体育館や公民館といった公的施設で行なう今日の巡業と違い、野天に土俵を作って行ったかつての巡業風景としても貴重な映像と言える。付け人が総がかりで千代の山の横綱を締める光景や、出羽錦と鳴門海を太刀持ち・露払いに従えて土俵入りをするショットから、当時まだ関脇だった栃錦が胸を出して激しいぶつかり稽古をするのを、出羽錦、信夫山、鳴門海、大起、羽島山、八方山といった出羽の海一門の力士たちが見守るシーンなど、眼を皿のようにして見ても足りない。(当時は都内にも巡業が廻ってきたものだった。大塚駅前の広場に二所ノ関一門の巡業がやってきて、当時小結だった初代若乃花や内掛け名人の琴ケ浜やガダルカナル帰還兵の怪力玉ノ海や、速攻の先代琴錦らを見たのも、近くの中学校の校庭に出羽の海一門の巡業が来て、前日に新横綱としての土俵入りを明治神宮に奉納したばかりの栃錦を見たのも(もちろん千代の山も)、この映画の一年後、二年後のことである。)

ところで、昭和27年9月封切りのこの映画のこうした場面は、おそらくその夏に撮影されたものと思われるが(物語も、巡業の一行が来て間もなく夏休みとなり、花荻先生の指輪の一件があって、やがて新学期、秋場所という風に展開する)、実はこの夏を転回点として、現実の千代の山の力士人生は思わぬ方へ大きく転じてゆくことになる。映画の中で千代の山が優勝した筈の昭和27年秋場所は、それまで卓抜の技能力士ではあっても関脇どまりと思われていた栃錦が優勝、大関となり、その後の大成への第一歩を踏み出すことになったのと対照的に、千代の山は不振がちとなり、翌年の春場所中に自ら横綱返上を申し出るという事態となる。返上問題自体は、真面目で誠実な人柄を反映したもので、協会も受理せずに落着、その後復調して会心の全勝優勝を果たしたりもしたが、大局的には、土俵の趨勢は千代の山に戻ってくることはなかった。三場所制から四場所制へと移る時期に通算6回という優勝回数は横綱として一級と言えようが、期待と前評価の大きさから見ると、やや悲運の人という翳が差すのは否めない。それだけに、その誠実でやや弱気(ですらある)強豪力士のたたずまいが一種の悲哀を帯びつつ懐かしく思い出されるのだが、『三太と千代の山』はちょうどその運命の転回点の直前の風貌を、奇しくも捉えていることになる。

映画のちょうど一年後の昭和28年秋場所の二日目、友だちと大塚駅前から厩橋まで、すなわち都電16番線の始点から終点まで乗って蔵前国技館で朝の一番相撲から結びまで観戦した打出し後の帰りがけ、ちょうど通りかかった売店の暖簾を上げて、店の人と談笑していたらしい笑顔を残したままの千代の山が、見上げるような長身をぬっと現わした。中学生にとってのこうした一瞬の記憶というものは、おそらく呆けたのちまで残像を残してくれるに違いない。実はこの場所は、その春に横綱返上問題を起した千代の山の再起の場所だった。

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随談第560回 私家版・BC級映画名鑑 第7回 映画の中のプロ野球(番外)『秀子の応援団長』&『三太と千代の山』(その1)

「映画の中のプロ野球」と題して、第一回の『一刀斎は背番号6』から、戦後という「新時代」をシンボリックに映し出すものとしてプロ野球隆盛の様を映像に写し撮った作品を見てきたが、ここで番外として、戦前の作品に登場するプロ野球と、戦後プロ野球と並んで最も親しい存在だった大相撲を扱った作品を併せて見てみようという趣向である。『秀子の応援団長』には少女時代の高峰秀子の人気を反映した作という興味もあるが、『三太と千代の山』の方は、都会と地方の違いはあっても、子供たちの身なりや表情ひとつにも、昭和20年代という、貧しくも、ある意味で良き時代でもあった当時に小学生時代を過した者には、郷愁にも似た懐かしさを覚える作でもある。

まず『秀子の応援団長』から取り掛かることにするが、実はこの作のことはこの随談の第386回で触れたことがある。昭和15年、高峰秀子14歳の折、今で言うアイドルとしてしきりに作られた秀子映画の一作だが、その翌年の『秀子の車掌さん』は、監督も成瀬巳喜男だし、原作の井伏鱒二お得意の甲州の田園牧歌的ムードを生かして、こっちの方が映画として上等であることは確かだし、高峰としても後年を思わせる才質もほの見えて、もし「高峰秀子論」をするなら貴重な作だろうが、有名な『綴り方教室』とか、更に翌年の、こちらは名画の誉れ高い『馬』といい、14、5、6歳ごろの高峰秀子の可愛らしさというものは、いま見てもたしかに素晴らしい。が、それはそれとして『応援団長』にはいかにもBC級作品らしい懐かしさにある種の「感動」があって捨てがたい。高峰の自伝『私の渡世日記』を読むと、当の本人は忙しくて完成試写も映画館でも見るヒマがなかったと書いている、つまりあまり気もなければ愛着もないような作品なのだが。

この『応援団長』での高峰は、成上がりとはいえ金持ちの令嬢という設定で、伯父が「アトラス」なるプロ野球チームの監督で(この役を何とまだ壮年の千田是也がやっていて、戦後のいかにも新劇のボス丸出しみたいな千田しか知らない私には、大袈裟にいえば、新劇史を見直してみようかと思わせられるほどの感慨がある)、エースが出征して戦地へ行ってしまった後釜として新エースとなった第二投手が散々の出来で連戦連敗の中、秀子の作詞作曲した応援歌が俄然チームを奮い立たせる、という、つまりアイドル秀子がお目当ての「他愛もない」作なわけだが、それにもかかわらず私が「感動」したのは、14歳の高峰の初々しさと重ね合わせて画面からたちのぼってくる昭和15年という時代が持っていた「空気」であり、それを伝えてくれるのが往時の後楽園球場のグラウンドやスタンドのたたずまいだからである。戦中、グラウンドが芋畑になったりスタンドに高射砲陣地が出来たりしたものの、空襲で壊滅していない有難さは、往年のそれが映し出されるだけで、私の知る戦後のそれと重ね合わせると千万言に優るものがある。旧き善き「戦前」が辛うじてまだ保たれていた、あるひとつの時代。それは、「戦後」を知る我々だからこそ感じ取るのであって、昭和15年という「現在」に生きていた人たちにとっては知る由もなかったものかも知れない。

「アトラス」の対戦相手の各チームの選手のショットが映る。これがみな「本物」だというところに、この映画の製作者たちがおそらく予期していなかったであろう、「不朽の」価値があると言っても過言ではあるまい。巨人の攻撃が満塁で、一塁走者がスタルヒン、二塁走者が水原、三塁が(後に戦死する)吉原という(「アトラス」からすれば)ピンチに中島治康が打席に入ってニヤリと不敵に笑う。(中島治康という名前を懐かしいと思う人は、いまはもう後期高齢者に限られてしまったろう。今日野球通を以って任じているような人の口から中島の名が出たのを私は聞いたことがない。戦前を代表するホームラン打者で、ワンバウンドの投球を打ってホームランにしたという逸話は知られているが、戦後まで活躍したから幼い目で見た風格あるその巨体はよく覚えている。今で言えばライオンズの中村剛也か。その巨躯から和製ベーブともいわれたが、もう少し通っぽく言うと、戦後の赤バット青バット時代以降の(つまり『エノケンのホームラン王』に描かれている)ホームラン量産時代以前のホームラン打者という意味から、ベーブルース出現以前の代表的ホームラン打者とされるホームラン・ベーカーになぞらえられる。ベールース以前のベースボールを象徴する選手として、頭脳的な打法と走塁で知られるタイ・カップの名はその再来ともいえるイチローのお蔭で甦ったが、よほど飛ばないボールが支持されて年間10本も打てば本塁打王になるような時代が再び巡ってこない限り、ホームラン・ベーカーの名が甦る機会はまずないだろう。つまり、中島治康の名も。)

それにしてもこの塁上に走者としている3人から類推される打順はどう考えても変テコだ。この辺も、野球映画としてはデタラメデだが、製作側としては当時の巨人軍の三大スターに出てもらったということだろう。沢村は既にいず、川上は、売り出してはいたがこの3人には及ばない、ということか。)水原は、この9年後にシベリアから帰還したときにさえ、まだ現役の三塁手としてプレーする気でいたという話を聞いたことがある。巨人以外のチームとの対戦場面では、のちに中日の四番打者として鳴らした西沢が、当時はまだ投手として投げている。その他、さすがに昭和15年当時の選手となると、ほんの一瞬の短いショットでは、私にはその多くが見分けがつかないのが残念だが、野口二郎や阪神の景浦も写っていたようだ。

散々打ち込まれて悩むアトラスの代理エースがもうひとりの主人公で、灰田勝彦がやっていて有名な『煌く星座』を劇中で歌う。つまり「男純情の」に始まるあの有名な歌はこの映画の主題歌なのだ。灰田勝彦は戦後も大活躍して少年時代の私の記憶にも懐かしい歌手だが、昭和24年、戦争を挟んで9年後の『銀座カンカン娘』でも、高峰と灰田は似合いのコンビと見做されていたことがわかる。その最初の出会いの作品というわけだが、『私の渡世日記』によると、この作品の撮影中に高峰と灰田は顔を合わせたことはないという。つまり二人のシーンは別々に撮ったものの合成だったわけだが、それでも、まさに縁は異なものというべく、ハワイ育ちで湿潤なところのない灰田と、明るく闊達な若き日の高峰は、たしかに一脈通じ合う。こうした作品に写っている大女優・名女優になる前の高峰秀子の何というナツカシサ。それはある種のデ・ジャ・ヴュであって、かつてを知る知らないに拘わらないことだ。後年の「名女優」高峰が、いつも、やり切れないようなウンザリ顔ばかり見せることになるのと不思議なほどの好対照だが、これは高峰秀子論のひとつのテーマになり得るであろう。(この項つづく)

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随談第559回 続・今月のあれこれ

『放浪記』の林芙美子役が仲間由紀恵に変っての初公演が話題になっているが、一口評でいえば、まずは無事に通過というところ、もうひと声上げて、精一杯よくやった、と言ってもいいだろう。

難しいのは、脚本から舞台からその他何やかにやら、森光子の体臭が染み付いてしまっているので、それを、これからどう自分のものに洗い直し、染め変え、着こなして行くかで、たとえば芙美子の行く先々で、男どもから、あの拙い面といった雑言を浴びる。脚本は別に森光子に当込んだわけではなく、実際に林芙美子がそう言われたことを踏まえているわけだろう。森光子だってちっとも拙い面だったわけではないが、そこをうまく自分と重ね合わせて(観客に)実感させるように見せていた。ここらが千回も演じ込んだ年輪であって、いわば森光子と観客の間で共犯関係を成立させていたから、そうあり得たのだ。仲間由紀恵には、当然だがまだそれがない。ばかりか、顔立ちから言って、はるかに「美貌」という印象が表に立つ。むしろ苦労して、なかなかよくそれを目立たせないでいるのは褒められて然るべきかも知れない。にもかかわらず、脚本の上の男どもの雑言と、舞台の上の芙美子の間にウソっぽいものが流れてしまう。これは如何ともし難いことであって、今後演じ重ねる内にどれだけそれが解消されていくか、言い方を変えれば、仲間由紀恵と観客の間にどれだけ共犯関係が成立してゆくかに掛かることになる。

成瀬巳喜男監督、高峰秀子の芙美子役による映画『放浪記』は、同じ菊田一夫脚本に基いていて、部分部分には舞台よりもいいところもいろいろある優れた作で、高峰自身も、一番好きな作品と言ったとかいう話も聞いた気がするほどだが、流石の名映画女優高峰秀子もこればかりは舞台の森光子の名声の陰に光を奪われてしまった。これも結局は、観客との共犯関係の成立の度合いの問題であるだろう。実際の森光子が(高峰秀子が仲間由紀恵が)実際の林芙美子にどれだけ似ていたか否かの問題ではない・・・筈なのだが。 

瀬戸内寂聴師が先頃東京新聞に面白いことを書いておられたのをちょっと拝借させていただくのだが、かつて瀬戸内晴美の名でようやく作家として認められるようになった頃、折から舞台の『放浪記』もようやく盛名高くなって、あるとき森光子の方から、女流作家連を劇場に招待するということがあった。平林たい子だ佐多稲子だ円地文子だといった錚々たる人たちがまだ健在で、瀬戸内女史はようやくその驥尾に付して見物させてもらったという。さてその終了後、大御所連の批評の凄まじかったこと、あんなの林芙美子と全然違うわよ、あの人せいぜい『放浪記』ひとつ読んだだけでやってるんじゃないの、といった調子であったという。

まあ、そういうものなのだ。平林たい子に至っては。生き証人も生き証人、自身が村野やす子なる役名で登場人物として舞台に出てくるのだから、つまり初演から10年、20年ぐらいまでの『放浪記』は、往時を身を以って知る人たちにとってはいわば「同時代劇」だったわけだ。それを思えば森光子も、そうした生き証人達がいなくなるまで長命して演じ続けたればこそ獲得した、あの「勝利」だったのだとも言える。翻って仲間由紀恵の場合は、森光子をずっと見続けてきたという「生き証人」たちと戦わなければならないわけだ。そうした生き証人たちを「共犯者」としてグルにしてしまえるかどうか? かかってすべてはそこにある。舞台は観客との格闘技なのだ。

『放浪記』で仲間由紀恵よりも気になったのは、芙美子を取り巻く男たちになる男優たちが、総じてこれまでとはガタッと落ちることだ。演技の巧い下手よりも、時代の雰囲気がないのと、役のキャラの表現にエスプリのないのが、芝居全体を痩せさせている。今度の一番の弱点はそこだろう。大昔のことは言うまいが、大出俊だ米倉斉加年だ山本学だ、いま思えば皆、なかなかのものだったことが改めて思われる。

        ***

熊倉一雄、宝生あや子、庄司永健、八木昌子といった古くからの新劇人の訃報を、この秋になってから立て続けに聞いた。古くからの、といっても皆戦後派で、大なり小なり、ラジオやテレビで一般にも馴染の顔となったというひとつの世代として、ある種の感慨を抱かせる。

この中で八木昌子にはちょっぴり格別の感慨があって、久保田万太郎が死んだのが私が大学4年の5月のことだったが、その年の初冬のある日、久保田先生の母校に追善の奉納、といった感じで文学座の連中が三田の校舎にやってきて、大教室で『釣堀にて』を立稽古形式で上演したことがあった。演出の戌井市郎に中村伸郎、夏原夏子その他といったれっきとしたメンバーだったが、万太郎の戯曲の言葉の面白さを堪能するためには、なまじ衣装を着け装置を飾った舞台で見るよりも良き体験であったといまも思っている。ところでこの時に、新人として売り出したばかりの八木昌子が楚々たる風情で、女中か何かの役で出ていたのだった。新劇の若手女優にはちょいと類のない、といって新派の女優ともまた違う、しっとりとしたいい風情で、その後、紀伊国屋ホールだったかで万太郎のものをした時に、フームと感心したことがあって、ちょいとした隠れファンの自覚もあったのだった。それから何十年か相経っての後、ふとした縁でご本人と話をする機会があったのでこの時の話をしたところが、まるで記憶にないようだったというのがこの話のサゲとなる。恰幅もよくなってそれはそれでよろしかったが、かつての楚々たる風情はもうなかった。隠れファンとはいえまんざらでもなかった人、ご冥福を祈りたい。

     ***

目に止まった訃報がもうふたつある。まず橘屋円蔵から。

最晩年に鬼気迫るような『お直し』を三越落語会でやって、評判が良くてもう一回、開場したばかりの国立演芸場でやって間もなく死んでしまった先代の名を継ぐまでの、月の家円鏡だった時分の円蔵が、テレビをつければどこにでも出ているといった人気者だった時分というのは、思えばもう40年からの昔になる。それにしてもきれいさっぱり、当節のテレビからは寸毫もその名は聞えてこなくなっていた。私自身が、誰それがどこで何をするから聴きに行く、と言ったことをしなくなってしまって久しいから、時折、思い出してはどうしているんだろうと思うことはあっても、それなりになっていたから、久しぶりにその名を聞いたのが訃報であったことになる。

それにしても、盛んな当時の円鏡がこういうことを言っていたのが忘れがたい。自分たちの世代の噺家で、いい噺家といえば志ん朝さん、巧い噺家といえば談志さんだ、あたしはそのどちらにもなれないからお客様に可愛がられる噺家になろうと思う、というのだった。とにもかくにも、志ん朝・談志と三幅対になろうという、そういうことを言って、また客の方もそう聞かされて許していたのである。
    

もうひとつの訃報は野球の石井連蔵である。小学生時分の私にとっては早稲田の名選手としてラジオでその名を聴き(当時は六大学野球の実況中継を当然のこととしてラジオで放送していた)、学生時代には早稲田の監督としての姿を神宮球場で見ていた。長身で、真っ黒に日焼けして名前の通り石のように意志が固そうで、あの早稲田のユニフォームがよく似合う、いかにもワセダの人というイメージ通りの人だった。もうひとり、早稲田の両石井として、石井藤吉郎という人がいて、こちらはふっくらとした体格で大人(たいじん)の風があった。

長嶋茂雄氏などよりもう一世代前の、古き良き六大学野球が存在し得た時代の人と言える。その意味では、最後の人であるのかもしれない。

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随談第558回 今月のあれこれ

今月の歌舞伎座については新聞に書いた以上のことを多く語る必要はあるまい。二代目松禄追善がらみの出し物に、音羽屋畑とは縁があまりなかった仁左衛門に玉三郎がそれぞれの得意のものを出して昼夜に並べたという、互いに隣りのテーブルを気にし合いながら、別々に注文した料理を食べているような按配で、玉三郎が『文七元結』に角海老の女将で出るが何だか気もそぞろで身に沁みないようだし、仁左衛門が『髪結新三』に加賀屋藤兵衛で出れば、あんないい男の婿が来るならお熊は忠七と駆け落ちしなくてもいいのではないかと余計なことを思わせたり、ご馳走というよりお付き合いというところ。(それにしても玉三郎の角海老の女将は、時々、せりふに呂律が回らないような妙な口跡が気になる。今に始まったことではないが、今回はとりわけ気になった。)

菊五郎が『髪結新三』に鰹売りで出る。菊十郎直伝だそうだが

流石に「カッツオカッツオ」という呼び声のあの最初の「カ」の音が出ない。(そうやすやすと出たら大変で、菊十郎は上がったりになってしまう。)しかしそれもご愛嬌で、こちらはまさしくご馳走になっている。菊五郎は『文七元結』でも見事に音羽屋一門の統領としての貫録を示して、追善の実を上げた。ここらが、菊五郎劇団を伊達に名乗ってはいない値打ちである。

松緑の新三についてかなり辛辣な声も幕間に聞いたが、私は必ずしもそうとばかりは思わない。たしかに、祖父の新三とは違う。勘三郎二代の新三のように、親子よく似ていながら独自の新三を作れれば一番幸せだったろうが、そう行かないからと言って即ちダメというのは、ちと料簡が狭いというものだ。二、三、四と、松緑三代は一見それぞれ柄も芸の色も違うが、マッチョな男っぽさというひと筋で紛れもなくつながる。その一筋でつながれば、新三が祖父ほど粋でなくたって構うことはない。(その祖父だって、はじめて新三をした頃は、師匠の六代目菊五郎と比べられて、同じ江戸前でも六代目は鮎だが松緑はサンマだなどと言われたのだ。)

音羽屋ビル内に店舗を借りて店を出したような風情の仁左衛門と玉三郎だが、「のれん街」の支店よろしく『大蔵譚』に『阿古屋』という銘柄品を並べる。もっとも『大蔵譚』は」東京初進出という攻めの姿勢だが、玉三郎は『阿古屋』でわが城を守り抜こうという態勢。大蔵卿は、幕切れに勘解由の切首を放り出したり、いろいろユニークな型を見せるが、何より、平家に従わないだけでなく、為義や義朝ら源氏方の大将連にも批判の目を向けていることをくっきりと示したのが気に入った。それでこそ、この風雅の士の作り阿呆は一段と奥行を深くするのだ。

『阿古屋』は、最上のときを10とすれば7か8かというところ。新聞にも書いたように、一世一代と謳ってこそいないが、そうした心でつとめているように察しられた。

逸すべからざるもの。『音羽嶽だんまり』の梅枝の七綾姫の古典美。音羽屋に右近あれば萬屋に梅枝ありというところか。

       *

国立劇場の『伊勢音頭』についても新聞評をご覧いただきたいが、それだけでは愛嬌がないから、各界各氏の一口評を以下に掲げることにする。

国立劇場鑑賞講座講師氏曰く。「相の山」から「二見ヶ浦」までを見、「太々講」をご覧になって、「油屋」まで至る青江下坂と折紙を巡る顛末と人物関係がよくおわかりになったと思います。

辛口君曰く。よくわかるということと芝居が面白いということの違いもよくかった。

甘口君曰く。新聞評をごらんください。

眠り続け、時々目を開けていた元総理曰く。二見ヶ浦に五輪エンブレムみたいな日の丸が昇ってきたのでびっくりした! 感動した!

       *

幸四郎がまたまた『ラ・マンチャの男』を出したが、これは掛け値なしによかった。何時のが一番よかったかと言い出せば、人さまざまに甲論乙駁あるだろうが、私は今度が一番素直に心に沁みた。『ラ・マンチャの男』という芝居の骨法がしっくりと見えてきて、あゝ、こういう芝居だったのだ、と改めてよくわかった。

思うに、幸四郎もいい年配になって、野心やら気負いやら、解釈やら、いろいろなものが削げ落ちてきて、役への共感が自然な形で顕われるようになったのではあるまいか。それが、同じように齢を取ったこちらにも、素直に伝わってきたのだと思われる。歌舞伎も含めて、私は幸四郎に今回ほど親近感を覚えながら見たことはなかったような気がする。

       *

スーパー歌舞伎Ⅱ『ワンピース』を見る。原作も知らず、そもそも『ワンピース』の何たるかも、今度の上演がなかったら知らなかったような状態で見たのだったが、なかなか面白かった。スーパー歌舞伎にはふさわしい題材で、前回の第一作はテーマが内向して辛気臭いのが玉に瑕だったが、今度のこれは、「哲学」もメッセージ性もありながら明快で、そのために芝居が暗く淀まないのがスーパー歌舞伎にふさわしい。スーパー歌舞伎はこれでいいのだ。要するに当世流『里見八犬伝』みたいなものだが、脚本の横内謙介も、かつて猿翁のために書いた『八犬伝』ではテーマ性ということに足を取られて少々ならず押しつけがましいのに辟易させられたが、その後の『三国志』でコツを会得したためか、それともオトナになったためか、ともあれ、脚本の差す手引く手の按配よろしきを得るようになったのは喜ばしい。序幕の筋売りをもう少し大胆にしてもよかったとか、ラストのメッセージが猿翁風にややくどくなったとか、言い出せばないわけではないが、主人公が試練に逢って悩みはしても、あれこれ内向してぐだぐだするのでないところは、おそらく原作のキャラの多くの支持を集めている理由なのであろう。

猿之助もいいが、竹三郎、笑三郎、春猿、笑也ら一座の女形連が、アヤシクもおもしろい。
        
      *****

秋場所は照ノ富士の快進撃をいい気分で楽しんでいたのが、皮肉にも私の見に行った13日目の土俵で稀勢の里に寄り倒された一番で膝を痛めるという思い掛けないことになってしまった。そもそも13日目の切符を買ったのは、横綱大関が揃って皆勤すれば白鵬と照ノ富士の一番が組まれることが予測されるからだったが、横綱二人が休場という予期せぬ事態で目論見がはずれたのは余儀ないこととして、あの怪我は何ともつまらないことをしてしまったものだ。寄り倒しと言っても、稀勢の里が寄り立てるのをこらえて重ね餅になって倒れたというのと違って、いきなり照ノ富士だけが背中にべっとり砂をつける形で倒れたのだから、見ている限りでは腰が入り過ぎたのかと思ったのだが、膝の負傷とは狐につままれたようなものだ。千秋楽の本割で鶴竜を圧倒した一番を見てどうにか溜飲を下げることが出来たが、照ノ富士が故障を押して出場を続けた心意気は天晴れとしても、膝の故障は将来に関わりかねない。兄弟子の安美錦が両膝の疾患で苦労している姿を目の当たりに見ているのだから、致命傷とならないうちに完治しないと,本人ばかりか相撲界の将来を左右しかねないことになりかねない。

ところで今場所の世上の話題といえば、鶴竜が栃煌山戦と稀勢の里戦で見せた立会いの変化の是非についてだが、稀勢の里戦は相手も大関、行司に止められ仕切り直しとなって右と左へ飛び分けた(?)ところは、技能派鶴竜ならではともいえる。(それにつけても稀勢の里の勝負弱さよ!)むしろ格下の栃煌山相手に飛んだことの方が、オヤオヤと思わされた。もっともその栃煌山が翌日の照ノ富士に奮起一番、初黒星をつけたのだから、鶴竜があの立会い変化で得た勝ちは、意味深長な伏線となったことになる。

曲もなく飛び、手もなくひっかかる相撲が続けばしらけてくるのはもちろんだが、双葉山まで持ち出してあまり仰々しい批判をするのもちとついて行きかねる。(中には、叩き込みや引き技は禁じ手とすべきだなどと(冗談半分にせよ)言い出す向きもあるらしい。)要は、見る者を納得させられるかどうかであって、立会い一瞬の変化で今なお鮮やかに覚えているのが、昭和33年初場所、優勝を争う栃錦若乃花の決戦ががっぷり四つのまま二度水が入っても勝負つかず、10分後取り直しとなって再び対戦、若乃花大きく右へ飛んで小手投げ一閃、栃錦左外掛けで防いだが及ばず、若乃花に名を成さしめた一番で、栃錦贔屓の私としては無念ではあったが若乃花の豪胆な機略に驚きはしても、卑怯だとは思いもしなかった。あの一番で、若乃花が立会い飛んだことを非難した人はおそらくいなかったのではあるまいか。若乃花はこの一番で優勝と横綱昇進を決定的にし、以後これを境に、年齢で4年、土俵経歴で7~8年の開きのある両者の全盛期が入れ替わる分水嶺となったという意味からも、数ある栃若決戦の中でも頂点に立つ一番であったと思っている。(今も時々放映される、翌々35年春場所の両者全勝同士での一番は、あれが両者最後の対戦となったことからも知れるように全盛期を過ぎたもので、じつは栃錦贔屓としては少々物足りない憾みがある。)
     
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別項として連載中の「映画の中のプロ野球」で昭和20~30年代の映画に出てくるプロ野球のことを書いているが、つい先日NHKのBSの番組で、昭和11年の巨人阪神戦のフィルムが発見されたというのを、寸前で気が付いて録画することが出来た。わずか2分間の映像だが無限のことがそこに映っている。

沢村栄治の投球フォームが一球だけにせよ映っていたのが、番組としてはメインの話題だったが、それ以外にも、阪神の景浦や若林が映っていたり、巨人の二塁手が三原、三塁手が水原であったりする中にも、背番号18という一塁走者がこの試合の巨人の先発投手前川八郎で、数年前。95歳だかの高齢で始球式をしたときのニュースは当時見た覚えがあるが、その息子という方が出てきて、これが父ですと証言したのには驚かされた。前川という名前の投手が巨人軍の前身の、ベーブルース等の全米軍を迎えた全日本軍の時からいたことは小学生時分から知ってはいたが、あまりパッとした印象のない存在だけに、有名選手の映像を見るのとまたひと味違う感慨がある。プロ野球は早くにやめて、別所・青田のいた時代の滝川中学の監督であったことは今度知った。背番号18をつけているのは主戦投手と目されていたからだろうか? 

背番号と言えば藤本監督が22をつけているが、戦後、少年時代の私が見覚えた頃は、どのチームも監督の背番号は30と決まっていたようなものだったが、してみるとあの慣例はいつごろからできたのだろう? 番組の途中から金田正一氏が登場して,沢村の投球フォームについて、俺と同じだと言っていたのは、手前味噌のようでいながら説得力があって面白かった。

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ラグビーが久々に脚光を浴びることになったのは結構なことである。私など、サッカーよりラグビーの方に親しむ機会が多かったので、別にサッカーに恨みがあるわけではないが、Jリーグが出現してあれよあれよという間にサッカー一辺倒になってしまったかのような状況に、違和感を覚えていた。

オールジャパンと言いながら、フィフティーンの4割方は外国人というのは、比率から言ったら大相撲の外人力士どころではないにも拘らず、俄かラグビーファンたちも素直に受け容れているのは面白い。その一方、ラグビー発祥国のイギリスは、イングランドだスコットランドだウェールズだと、別々に出てくる。その伝で行くなら、日本も、北海道だ関東だ九州だと、何チームも出場するようになればいいのだ。

五郎丸選手の「ルーティン」が人気だが、ちと手数が多すぎるのが気になる。その内、キックは何秒以内にすべし、等と新規定が作られたりしなければいいが。水泳では、日本選手が金メダルを取った泳法にクレームがついたり禁止になったりしたものだが。

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