随談第530回 趣向の華ファイナル公演

市川染五郎、尾上菊之丞、藤間勘十郎の三人で始めた趣向の華のことを和田尚久さんから教えてもらって見るようになったのは何回目からだったろうか。どこかの名門私立一貫校の文化祭か何かのような雰囲気でもあり、「花形」未満の「莟形」御曹司諸君の勉強会のようでもあり、とりとめもなさそうでいながら、なかなかのアイデアも随所にピカリと光ったりして気を引かれる。日本橋劇場という場もふさわしい。(それにしても区立の公会堂のくせに(!)こんな気の利いたものを作ったというのは、バブル経済の奇跡の遺産というものであろう。)

「袴歌舞伎」と称して「素踊り」ならぬ「素芝居」、つまり衣裳も化粧もなしで演技をする。台本はというと、既成の作品ではなく、いろいろな作から場や趣向やモチーフをピンポイントに拾い集め、構成した一種の新作物。作品としての良しあしを問うのでなく、歌舞伎の典型を散りばめた各場面各場面を演じることで、「莟形」たちが歌舞伎演技の基本的なことを知り、覚え、身につけるようになっている。なーるほど、と見ていて頷いたり、ニヤリとしたりするところがいろいろ出てくる。近頃の大歌舞伎ではまずやらないような、しかし歌舞伎のエッセンスを体得するにはやっぱり必要だと思われるような場面だの、それに伴う演技技術だの、演じる「莟形」たちにとっての勉強だけでなく、こういう筋立てをこしらえる方もそれなりの勉強が必要だろうと思わせられたり、(何だか褒めてばかりいるようだが)、とにかく見ていてなかなか面白い。東蔵、魁春、友右衛門、芝雀辺りがPTA,亀三郎、亀寿あたりがOB,梅枝、壱太郎、歌昇あたりが兄貴分の上級生、新悟、米吉、種之助あたりが在校生中の花形といったところか。

七年目の今年はファイナルというので三日間、昼夜併せて五回公演の内、同一メニューは一回だけだから、スタッフも出演者も相当忙しい。何よりいいのは出演者一同、みな真剣なことで、先に文化祭の様と言ったのは母親連、更にはお祖母様連がロビーで切符のモギリや何やら、忙しく裏方をつとめているのが、華やぎを添えているからである。

今回私が見たのは二日目の昼夜で、昼が今藤政太郎作曲の「六斎念仏」の演奏、(勘十郎の三味線で染五郎、菊之丞、新悟、壱太郎らが囃子方をつとめる)に、苫舟(というのは誰やらの偽名である)作の袴歌舞伎『東海道仇討絵巻』三幕五十三場というもので、芝雀演じる岡崎の化け猫だの、梅枝演じる女助六の雁金お七だの、種之助と梅丸の又平・お徳夫婦だの、岡崎の猫騒動やら吃又やらの吹寄せで、これに取り組んでいるうちに自ずと、歌舞伎の雑学的エッセンスが身につく(であろう)カリキュラムになっている。なるほど、趣向の華に違いない。

PTA組から特別出演といった格の、化け猫をつとめた芝雀は、つい三日前に雀右衛門の追善舞踊会を国立劇場で開催、昼夜二回、初役で『鏡獅子』を踊ったばかりである。私が見たのは昼の部だったから文字通りの初物だったわけだが、前ジテの弥生と後ジテの獅子の落差のない、バランスのよく取れた踊りで、これは雀右衛門のもそうだった。高齢になってからの活躍が強烈な印象なので、つい忘れられがちだが、雀右衛門は『鏡獅子』を何度も踊っている。歌舞伎座で芝翫と延若と三人一日替わりで踊った時の劇評を書いたのが私のいわば劇評家デビューだが、あの時はもう五十を過ぎていた筈だ。(妙な言い方だが、雀右衛門もやっぱり男なのだなあと、その獅子の狂いを見ながら思ったのを思い出す。)追善舞踊会のことをもう一つ書くと、友右衛門が『鐘の岬』を踊ったが、これもなかなかのものだった。自ら望んでのこの曲だったそうだが、よほど期するところがあったのだろう。袴歌舞伎にも毎回出演していて、(この顔ぶれの中でなら当然には違いないが)大概は大敵のような役どころを受け持って、なかなか立派に見える。大歌舞伎でもひと花、咲かせてくれることを期待したい。

さてしかし、今回とりわけ感心したのは夜の部で、これは今度はじめての試みだと思うが、真山青果の『仮名屋小梅』からそのクライマックスのところを梅枝の一重、壱太郎の小梅、歌昇の銀之助、小米の蝶次等々といった配役で見せる「小梅と一重」と、亀三郎の辰の市と徳の市、亀寿の孝次郎、壱太郎の菊次等々という配役での宇野信夫の『怪談蚊喰鳥』とで、これはどちらも、袴歌舞伎でなく衣裳も化粧もして、大道具こそ簡略版なれ、本格で演じたのが、どちらもなかなかの出来栄えだったことである。

『蚊喰鳥』の方は亀三郎と亀寿だからある程度、予測も期待も出来たことだが、「小梅と一重」の方はそもそも物が物である。本家本物の新派でも、もしやるとすれば、八重子と久里子がよほど頑張って、それでも銀之助役には今月の三越劇場のように歌舞伎から誰か助っ人を仰ぐより仕方がないだろう。歌舞伎としたってあんな大芝居、いまどきあるものではない。それをこの顔ぶれで、天晴れやってのけたのだから大したものである。

何より感心したのは、ちゃんと大人の芸、大人の芝居になっていたことだ。出演者の誰ひとり、お手本にする現実の舞台を見たことがない筈だ。PTAとして見に来ていた歌六の話だと、久里子たちの映像を見て勉強したのらしいが、それにしても、単なる精巧なコピーという域を超えている。とりわけ梅枝の一重が、ちょっと玉三郎ではあるとしても、あの場を仕切る姐さん株として舞台の上に呼吸している。昼の雁金お七でも、一頭地を抜いて芸が大人だった。今月、一番の見ものであったかもしれない。

三日目は、これは袴歌舞伎で義士外伝の「赤垣源蔵特利の別れ」をするというのにも気を引かれたが、これは見はぐった。

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随談第530回 今月の舞台から

今月は歌舞伎座と三越の新派からとしよう。

歌舞伎座の納涼歌舞伎は第三部の売行きが圧倒的だそうだが、それはまあ、プログラムを見れば当然予測されたところだろう。お目当ての『乳房榎』は歌舞伎座杮落し直前の昨年三月に赤坂ACTシアターで現メンバーで初挑戦し、今度はニューヨークから凱旋公演というのだから、まったく世の中変わったものという他ないが(まずサンフランシスコに「上陸」し、各地を公演して回っていよいよニューヨークに乗り込む、などという昔懐かしいような旅公演ではなく、ピンポイントでニューヨークへ降り立って、サッとやってサッと帰ってくるというこの身軽さ!)、しかし思えばこれも、亡き勘三郎がそれだけの地歩を築いてあったればこそだろうから、これも誰(た)が蔭、親父さま、と言うまでもあるまいが勘九郎・七之助はじめ一同、親の恩に感謝しなくては。

私としては、このメンバーでの歌舞伎座上演が実現できたことを喜びたい。番付を見ると、「訪米歌舞伎凱旋記念」の他に「三世実川延若より伝授されたる十八世中村勘三郎から習い覚えし」という、足引きの山鳥の尾のしだり尾の如き、柿本人麻呂も真っ青という長々しい詞書きがついているが、延若から伝授を受けたということをこういう形で明記・明言したことを、私は嬉しく思う。このフェアな姿勢を今後もくれぐれも忘れないでもらいたい。

今更、いちいち評するにも及ぶまいが、勘九郎は、ことに正助が、ときにハッと、というか、ぎょっと、というか、するほど勘三郎をよく写していて、時々、勘三郎そのものを見ているような錯覚に陥る。声柄とか肉親だからとかいうレベルを超えて、早変わりで三次なり重信なりから変って出る、その微妙な間が、そっくりそのままと言っていい。これは偉とすべきことであろうし、少なくとも今は文句なしだが、しかし一方、こんなに似てしまっていいのだろうか、などと余計な老婆心まで駆り立てられる。

七之助のお関、獅童の浪江、どちらも当然ながらACTシアターの時より手に入っているが、半面、七之助には初々しさがやや薄れ、獅童には自分流が色濃くなったような気がする、というのはままありがちなことで、仕方がないところなのかもしれない。獅童はこういう色悪の姿恰好はなかなか悪くないが、お関を口説くところなどあまりに直截過ぎないか、と、これは前回も「演劇界」にも書いたことだが、もしかすると敢えてそうしているのかも知れない。よく言えばハードボイルド、有体に言えば、曲がない。

大詰の仇討の場を蹴(く)ったのは時間の都合だろうが、代りに勘九郎が四役目として円朝で出て高座の口演で締め括るのは『大西版・牡丹灯篭』などでもよくやった手でそれ自体は結構だが、「円朝」であることにこだわってか、「伊藤侯」だの「汽車」で大陸横断しただのと言うのは、却って時代錯誤を招くだけでなく、今回のこの上演の時代、いや時間設定の土台を揺るがせる大ミスである。再三幕間に登場するつなぎの説明役がスマホを操っているように、「現代」いや「現在いまこの時」でよろしい。いや、そうでなければいけないのだ。だからといって「円朝」でなく「喬太郎」にしなくては?などと考える必要はないのであって、勘三郎が野田秀樹と組んで「野田版」の『研辰』だの『鼠小僧』だのを作ったりしたことの意味も、煎じ詰めれば同じところへ行きつく筈だ。いまこのときこその歌舞伎、である。(ところでその幕間のつなぎ役だが、ニューヨーク仕込みだそうだが、変てこな英語を交えたりするのはご愛嬌としても、とにかくもうちょっと粋とかスマートとは言わずとも、背中がむずがゆくならないレベルでありたい。あれではお江戸の芝居ではない。)

ところで『乳房榎』に、三津五郎以下今月の出演者全員揃っての『勢獅子』と来れば、人気の上ばかりか、出し物の上からも第三部が一番「納涼」らしいのは確かだ。巳之助が勘九郎と二人で仕抜きの獅子舞をしているのを見ながら、ようやくここまで来たなあと、しばし感慨に耽った。第一部で『龍虎』を曾祖父八代目三津五郎以来、大和屋四代で踊ったことといい、己之助にとって今回の納涼歌舞伎は深い意味を持つことになるだろう。

三津五郎の鳶頭は言うも更なり、橋之助の見伊達の良さというのは、つくづく、いい役者なんだがなアと改めて思わないわけに行かない。これほど、柄と言い容子と言い、歌舞伎役者らしい役者ぶりというのは、それだけで文化財になってもいいぐらいのものなのだが、もしかするとこの人、生まれてくるのが半世紀ほど、いやもっとか、遅すぎたのかも知れない。やれ肚だの、まして心理だのと、やいのやいの言われなくとも済んだ時代に生まれ合わせていたなら、この人はもっと幸福であったに違いない。

そういう橋之助だからなお、久しぶりの『輝虎配膳』に期待したのだが、そうしてみずから語るところを仄聞するに、十三代目仁左衛門から嘱望されての役との由と聞けば尚更なのだが、その願いの達成度は七分目、という処か。もっとも今度の『輝虎配膳』が生煮えなものに終わったのは橋之助一人の責任ではない。どの役もそれなりの適役を集めてあるのだが、みなそれぞれに手探りで役を撫でさすっている状態から抜け出せていない。稽古不足、でもあるだろうがもうひとつ、この手の芝居は、どれだけドンピシャリの仁を持った役者がツボを押さえた芝居が出来るかにかかっているわけで、思えば十三代目仁左衛門の輝虎、二代目鴈治郎の越路、歌右衛門のお勝、勘彌の直江山城、芝翫の唐衣という顔を揃えることが出来た昭和四十七年一月の歌舞伎座などというのは、まさにあれは『輝虎配膳』上演史上の奇跡のようなものだったということになる。もっとも上演リストをつらつら通覧しても、あれは夢のような別格であって、前回平成17年6月の梅玉・秀太郎・時蔵・歌六・東蔵というのだって、それなりにちょいとしたものだった。(五人とも皆健在であるのは頼もしい。)

上演史を見ると、十三代目仁左衛門がくり返し手がけていなかったらこの芝居は疾うに廃絶していた可能性があったことが推察できるが、思うに上演時間46分という現在の上演台本もまた、十三代目が小一時間で上演できるように切り詰め、整理したものと推測できる。つまり、最小限必要なことはセリフなり竹本なりに一応なりとも盛り込まれているのだが、今日の観客にそれだけで芝居の筋から綾から趣向から、理解し鑑賞しろというには、ちとバリアが高すぎるとも言える。もう一度、当代仁左衛門などがそこら辺りにひと工夫あった上でつとめてくれたなら、絶滅危惧演目から脱却できるかもしれないのだが。いや、わが橋之助にだって、それを期待して何不足があるだろうか?

今度の三部の内、どれがお薦めですかと問われて、まあ常識的にみて「安全」なのは第三部だろうが、観劇経験がある程度ある人ならむしろ第二部を薦めたいと答えた。『輝虎配膳』だって、「歌舞伎」好きなら、「歌舞伎」の愉しみに泥んだ人なら、それ相応に面白いと(インタレスチングであると)思う人も必ずしも少なくはないのである。

加えるに『たぬき』である。三津五郎のセリフを聞いているだけで、これが芝居なのだと得心する。いや、安心する。いろいろなタイプの芝居があってもちろんいいのだが、何といっても土台はセリフであって、ハムレットの昔から芝居は「言葉、言葉、言葉」なのである。ということを、三津五郎を見ていると、いや聞いていると、改めて思わせられる。大佛作品の中でも、この『たぬき』が一番、作者が自然体で書いている作品であろう。あの柏屋金兵衛という人物は『帰郷』の守屋恭吾と同類の人物、すなわち大佛次郎の分身なのだ。ここにあるのは大人の芝居を見る快さである。結局、見終わっての結論も、今月の私のお薦めはこれということになる。

それにしても、ここでも勘九郎が、こんなに親父そっくりでいいのだろうかと心配になるくらいに、セリフの息なり間なり、勘三郎本人が出てきたような芝居を見せる。

第一部は、例年、一番初心者向きというか、予備知識なしの無手勝流でもわかるような演目を並べるのが通例のようだが、『恐怖時代』も『龍虎』も、なるほど予備知識なしでもOKの作に違いはない。(それにしても今回の納涼歌舞伎は、上演頻度という観点からするなら超低空飛行のようなもので、筋書巻末の上演リストを見ると六演目が六頁に収まってしまう。初心者にわかりやすい演目を選んだら上演頻度の低いものが集まったというのは、考えてみると、皮肉とや言わむ想定外とや言わむ、真面目に考えてみるに値することかもしれない。)

『恐怖時代』は私としても見るのは三回目(他に日生劇場で浅岡ルリ子がやったのもあったが)、その割には印象が強いのは、むかし谷崎に熱中していた頃、まず脚本を「文学」として読んだせいかもしれない。旧新橋演舞場で花形歌舞伎をやっていた頃、一度出たことがあって、いまの田之助が梅野で、伊織之介に切られると臓物がぞろぞろ懐から出てきたのを覚えている。(この時の伊織之介は澤村精四郎だったとばかり思っていたら、今度上演リストを見て現・菊五郎だったのを知った。こういう記憶違いというものは、やはり気をつけないといけない。)

もう一回、昭和五十六年八月だったということも今度確かめたが、武智鉄二さんの古稀の記念に歌舞伎座を一日借り切って延若の『俊寛』とか、武智歌舞伎として音にのみ聞いて実際には見たことのなかったようなものをいろいろ見ることが出来た最後に、当時扇雀の坂田藤十郎の伊織之介、歌右衛門のお銀の方、十三代目仁左衛門の春藤靭負、二代目鴈治郎の珍斎、富十郎の玄沢その他その他という豪華配役で見たのが、何と言っても壮観であったが、但し珍物ともいうべく、一回だけの上演だから皆々セリフは怪しげだし、鴈治郎の珍斎などというのは、どこまでが演技でどこからが忘れたセリフをごまかすための「間」なのか不分明なところが絶妙、という、まあそういった名演技の数々であった。申し次の侍の役の某優が、出てきて坐った途端に絶句、まわりはエライ人ばかりだから誰も教えてくれず、さて、一分以上は優にあったであろう(少なくも三分ぐらいには感じた)、あんなに長い絶句は後にも先にも見たことがない。だがそのとき武智氏少しも騒がず、身じろぎもしないでじっと舞台に目をやったままだったと、近くの席から「観察」していたという知人から、後で聞いたっけ。

         *

三越劇場の八月の新派公演がどうやら定着したかの感があるのはめでたいが、『狐狸狐狸ばなし』はまあ、どうなりとしこなせるだけの腕を持っている面々だからよしとして、どうかなあと案じた『蛍』が、やはりむずかしかった。なかなか良くやっている、という評も書いて書けないことはない。少なくとも、みんなよく頑張っているね、と激励してあげるのは少しもやぶさかではない。それだけのレベルの舞台であることは間違いない。

として、さあ、という話である。久保田万太郎の戯曲の言葉、などと新劇講座みたいなことを言うより先に、もうあゝいう言葉遣いで日常を送っていた人たちというのは、「種」としてもはや絶滅してしまったのだということを、改めて思い知ったということである。つまり、そういう、「むかしの東京」の市井の人たちの日常の言葉の上に万太郎戯曲というものは成立していたのだということである。そのリアリティ。そんなことは今更言うまでもない、それはそれとして、万太郎の戯曲というのは、『蛍』という作品は良いものではないか、という論法ももちろん成り立つ。成り立つどころか、もうこれからは、その手で行くしかないのかも知れない、というのが、今度の舞台を見ての、私のやや絶望的な感想の一方の極にあるものである。(現に、新劇の人たちは既にそういうやり方でやっているのではあるまいか。だが、新派でそれをやったのでは・・・という、これは話である。)

私もこの芝居をそんなに数多く見ているわけではない。むしろ、先代八重子と大矢市次郎と柳永二郎とで前の演舞場でやったのを見ることが出来てよかった、などという程度の端くれに過ぎない。とはいえそれは、まさに「言葉、言葉、言葉」の芝居であって、幕切れに、若き日の波乃久里子が今度瀬戸摩純がやっている小娘の役で出てきて、八重子のしげと行き違う、あの瞬間の、「と胸」を突かれた(という表現も、もう近頃聞かなくなった)小さな鋭い衝撃というものは、いま思っても、これぞ万太郎芝居の真骨頂というものだろうと確信している。大矢もさることながら、柳永二郎の重一のせりふというものは、まさに、戦前の東京の市井の人間の言葉であって、言葉遣いだけでなく、声の錆びや、言葉を選ぶ間や、調子や・・・といったさまざまなものが縒り合された上に成り立っているものだった。

翻って、ついしばらく前、そう、(コーツト、というのが、こうした、ちょっと考えをまとめようという場合に出る合の手であって、当世の人はこういう場合、ナンダロウ、というのであるらしい)二,三〇年前までは、つまり昭和といった頃までは、東京に古く棲む一定の年配の人たちから、こうした物言いを聞くことは稀ではなかったと思う。あゝこの人は東京の人だなあ、と懐かしく思うような初老の紳士とか町場の人たちである。

栄吉の月之助も重一の永島敏行もよく頑張っている。その苦心、努力を察すれば、無碍なことは言いかねる。波乃久里子に至っては、久里子自体が絶滅危機に瀕した人間国宝である。最後の人である。しかし正直に言うなら、久里子を見ながら、私はその胸中を思い遣らずにはいられなかった。絶望? まさか?

《蛇足》それにしても、月之助にしても永島敏行にしても何てデカイんだろう。三越の舞台の寸法からすると、ガリバーが出現したようだ。

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随談第529回 OSK

八朔とは八月一日のこと、その午後四時開演で、和物と洋物のレビューが二本、終って外に出ればまだ薄暮の状態に入ったばかり。空はまだ青みが残っていて、雷が潜んでいるやも知れない白い雲に夕日が当って薄い橙色に染まっている。だいだい色、という言葉をこの頃ほとんど聞かなくなった、どころか目にもしなくなった。快適というにはちと暑すぎるが、たそがれ時の銀座というのはいいものだ。これがもう少し秋の気配が漂う頃になるとなおいいが、しかしこの温気(うんき)のなかでさえも、悪くない。わが東京八景というものを選ぶなら、初秋の銀座の黄昏というのは、必ず入れよう。

新橋演舞場にOSKがたった三日間かかって、その初日。去年、日生劇場にかかったのが73年ぶりの東京公演だったという。73年前と言えば戦前である。東京にはSKDというものがれっきとしてあったのだから、当然と言えば当然の話で、そのSKDもとうになくなり、大阪に行くとたまたまOSKのポスターを見かけたりして、ああ、まだ頑張ってるんだなと思ったりする、という程度の知識しか、関心しか持ち合わせていなかった。感動(と言っていいであろう)したのは、昔ながらのレビューをやって(くれて)いることだった。

宝塚が一人勝ちして、独り隆盛を誇っているが、昭和という時代があった頃までは、SKDもOSKも健在だった。もっと前は隆盛だった。宝塚もスターをたくさん出しているが、こちらもたくさん出している。笠置シヅ子や京マチ子はOSK、淡路恵子や草笛光子や倍賞姉妹はSKD。まあそんなことより、73年ぶり東上公演なるOSKが、いまふうのアレンジは当然あるものの、基本的には昔ながらのレビューをいまなおやっているのを見て、まるで昭和30年代か40年代ごろにタイムスリップしたような既視感に襲われる如き舞台に、私は驚き、呆れ、ものの哀れはここじゃわやいと膝を打ち、感動したのだった。誰ひとり名前も知らなかったスターたちである。その男役、娘役のスター達、わんさガールたちの漂わせている感触にも、感動に値するものがあった。最近の宝塚というものを私はまったく知らないが、たぶん、こういう雰囲気、たたずまいというものはあるまいと思われる。

同慶の至りにも好評だったらしく、今年は、たった三日とはいえ、新橋演舞場である。その独特の古色は日生よりも新橋演舞場の古色の方がふさわしい。二本立てのうちの和物の方は、まあこんなものとして、レビューはやはり洋物がつきずきしい。くり返すが、昭和30年代を見るような既視感に襲われる。レビューとはやっぱりこういうものなのだ。古色といったのは必ずしも皮肉でも批判でもない。レビューというものは、(戦前から始まり伝承されつつ)戦後10年、20年(すなわち昭和20~30年代)の間に型が確立したのだから、この古色は古格とすらいってもいいのである。

なまじなストーリーのないのがいい。無内容なのがいい。ただ男役娘役のスターたち、わんさガールたちが奏で、紡ぎ出す夢と華やぎがおのずから醸し出す、留まるところのない哀感こそがレビューの神髄である。わけてもラインダンスの、ただひたすらに無内容で、可愛らしくはつらつとした感覚、その醸し出す儚さ、ものの哀れこそが、レビューの精華なのだ。

現在のメンバーが、往年に比べどういうレベルにあるのかは知らない。たぶん、昔はこんなものではなかった、といった声もあるに違いない。それに通じるなにがしかを、私もまったく覚えなかったわけではない。だがそれはそれ、私はこの舞台に満足した。銀座の夕映えを綺麗だと思ったのも、きっとそれがもたらした感傷に違いない。

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