随談第519回 嗚呼、オリムピックよ!

ソチ・オリンピックもようやく終わった。嫌いでも関心がないわけでもないから(思えばヘルシンキ大会からずっと、熱心不熱心の波はあったにせよ、見てきたのだ)私なりにテレビも見、目配りもしていたつもりだが、いま、マスコミから「オリンピック」が消えて見ると、この清々しさはどうだろう? 喧噪と人いきれと安酒の悪酔いにふらつきながら酒場から一歩、表に出て外気を吸ったときの気分である。

思うにこれは、オリンピックそのもの以上に、マスコミ、とりわけテレビの喧噪がなくなって知った静けさであり、NHKを主体としたオリンピック報道の、単に喧噪というだけではすまない、「感動をありがとう」の押付け演出に辟易した後の清爽感あることは確かである。

もちろん、選手たちの成功や失敗、歓喜や無念、誇りや屈辱、さまざまな姿に心打たれることはある。それを「感動」と呼ぶなら呼んでもいいだろう。だが、頭から尻尾まで、「感動をありがとう」というテーマだかメッセージだか、切り口だか演出だか、縦横・上下・左右・天地、どこを切っても金太郎飴のように押し付けてくる「善意の厚かましさ」にはうんざりする。(おそらくこの裏には、メダル獲得数ばかりを騒ぎ立てることへの批判に対する「つもり」もあるのだろうとは察するが、ともあれこの「べったり感」の気色悪さはたまらない。)

         *

浅田真央そのものは少しも嫌いではないが、世の金メダル・コールをはじめとする、他に人無きがごとき浅田浅田の一点張りにはいささかならずヘソを曲げたくなった。(むかし聞いた桂米丸の新作落語で、「オイ浅田、起きろ。朝だ、朝だ」というのがあったっけ、などと茶々を入れたくもなる。)真央ちゃん、感動をありがとう、みたいな感動大好きおばさんたちの大合唱はともかくとして、キム・ヨナ選手の演技をほめた解説者のブログが炎上したなどという噂を聞くと、ウームと唸らざるを得ない。もっともらしい顔をしたテレビのおじさんキャスターが、日本中が真央ちゃんの笑顔を見たいと願っているんですよ、などとしたり顔で言っているのを見ると、ウヘーと嘆声を上げたくなる。

そうした反発が半分と、これは本当に彼女のスケーターぶりがいいと思うのが半分とで、しばらく前から、浅田選手以上に鈴木明子選手を応援するようになっていた。前回のオリンピック前後のことだったが、ある国際大会で、1日目に浅田が5位か何かで鈴木が2位だったかにつけていたら、どこかの局のベテランらしい女性アナが、浅田選手に是非逆転して優勝してもらいたいですねとやっていたのに呆れ、義憤を覚えたのがきっかけだった。私が勝ってはいけないんでしょうか、と、もし鈴木選手が聞いたら言いたいだろうと思った。一寸の虫にも五分の魂ではないか。

くだんの女性アナはおそらく何の悪気もなしに口走ったのだろうが、こうした無神経がまかり通ってしまうというのも、過剰が当り前になって社会一般に瀰漫してしまっているからで、こういう異常な状況は、今なお少しも変わっていない。煽るだけ煽っておいて、さあとなると、オリンピックには魔物が棲む、とくる。その魔物に餌をやって太らせたのは誰なのだ?

真央ちゃんには気の毒だが、本番ですっ転んでしまったら面白いだろうな、などといった気持も、正直、なかったわけでもない。もちろん、浅田選手個人に対してではなく、あまりにも真央ちゃん一辺倒の大合唱に対してのことだが、真逆(マサカと読みます。マギャクではなく)、本当にその通りの光景を目前に見ようとは、神ならぬ身のもちろん思わなかったのは当り前である。

で、24時間後にはああいう次第で一件落着したわけだが、この一昼夜の間に社会のあちこちで起ったさまざまな反応は、なかなか興味深いものがあった。浅田選手自身にとってのことはさておいて、この急転直下の、一日の内に二度、天地がひっくり返ったような事態を、世間がどう受け止め、どう折り合いをつけたか、である。

すぐに思ったのは、これで浅田真央は伝説を作った、あるいは、伝説の存在となった、ということである。いまのところは、やっぱり金メダルが欲しかった、という方向へも振り子はかなり振れているようだが、いずれは、メダルよりも感動、即ち、「記録よりも記憶」という、あの黄金律のもとに集約されて行くに違いない。レジェンドの女、か!

その意味では、あの1日目の失敗と2日目の大逆転によって、なまじすんなりと金メダリストになり遂せるよりも、永遠に語り継がれる「ヒロイン伝説」として絶妙の筋書が作られたわけだが、もちろんそれは、浅田選手本人の意思とはまったく別の話である。

         *

これはもちろん、浅田選手の場合だけのことではない。マスコミはどうしてこうも偶像を特定し、事前に勝手にシナリオを作って、その想定通りに結果が現われてくることばかりを期待するのだろうか。

またフィギュアスケートの話になるが、競技直前まで、浅田の強敵はキム・ヨナと、もうひとり15歳のロシアの少女と二人しかいないかのような報道ぶりだったが、ナニ始まってみたら、一騎当千のツワモノがわんさといるではないか。あの激戦の中では入賞するだけだって容易なことではないだろう。

引退した安藤美姫さんがどこやらの局に解説者となって出てきて、浅田とキム・ヨナとリプニツカヤの他に選手はいないかのような司会者の口ぶりに、他にも素晴らしい選手が沢山いますから見てください、と言っていたのは天晴れである。(現役時代の彼女は、スポーツ選手というよりモデルかタレントみたいな感覚が少々気になったものだったが、解説者として出演したのを一、二度見て、ちょっと見直していたところだった。)リプニツカヤの陰に追いやられて事前には話題にしてもらえなかったのを見事、ストニコワは女でござると見返してのけたのにしても、3位になった、瀬川詠子さんのイタリア人の親戚みたいなコストナー選手にしても、真っ赤な口紅も赤々といかにも天真爛漫なアメリカ娘らしいゴールド選手にしても、間際になって浅田と鈴木の間の7位という順位に割り込んできたのはちと癪だったがこれもアメリカ的善良さに溢れたワグナー選手にしても、みな素晴らしいではないか。真央ちゃんが金メダルを取るかどうかだけに興味を特化してしまえば、こうした(日本の鈴木や村上も含めて)各国から選ばれてきた世界一流の名手たちの演技を愉しむという、それこそオリンピックならではの意義は無化されてしまう。

それにしても、結果的にああした破天荒なドラマがあっての6位だったからよかったようなものの、あんな派手な大失敗でなくもう少し平凡な形で「浅田選手、健闘しましたが6位でした」という結果だったら、どういうことになっただろう?

         *

ジャンプのあの高梨沙羅ちゃんの場合にしても、カナダに「もうひとりのサラ」という強敵がいるがこれは怪我をしているから目下敵なし、みたいな話だったが、実際始まってみるとやっぱり他にも凄い選手が何人もいた。二位になった何とかいうベテラン選手など、女子ジャンプ界の草分けで女王的存在だったということを、私などが知ったのは、本番直前になってからだった。あれだけ散々、事前に沙羅ちゃん沙羅ちゃんの大合唱をいやというほど聞かせる暇があったのなら、もう少しはそういう実のある情報を、われわれ素人の目や耳に入るように伝えてくれれば、ただ無暗に「感動をありがとう」の極まり文句を言うために画面を見るのでなく、素人なりに競技そのものを鑑賞したり、多少は通ぶった気分になったり、もっといろいろな楽しみ方が出来るというものではないか。(長野で英雄になったジャンプの船木選手が、「サンデーモーニング」なる番組にゲストで出演して、マスコミの報道に「喝」とやっていたのは、なかなかよかった。)

おしまい頃になって、スノーボードの種目で女子選手が二人ほど、健闘よくメダルを取ったが、彼女たちのことなど、よほどその道のオタクでないと知らなかった人がほとんどだろう。一人はもう4度目の出場というベテランだそうだが、上村愛子の顔はこの10年来いやというほど見せられたのに比べ、このあまりの違いは一体何なのだろう? スキーやスノーボードの日本選手といえば(もちろん種目の違いなど知る由もないままに)、上村愛子しかいないのかと思っていた人があっても少しも不思議はない。

         *

それにしても、沙羅ちゃんも、この間までのあどけない童顔に比べると、もうすっかり大人の顔になって、怖いものを知ってしまったのだね、きっと。ロシアのあの15歳のフィギュア少女選手だって、はじめの団体戦の時と個人戦の時とではまるで別人だったのは、わずか一週間でオソロシイものを知って大人になってしまったのに違いない。芝居でも、どんな名優も子供と動物には勝てないというが、こわいものを知らない無心ほど強いものはない。

むかし、夏の大会の体操の選手で、ルーマニアだかどこだったか、コマネチという少女選手がメダルを独占してしまったことがあって、あまりの小憎らしさに、あれではまるで角兵衛獅子だという声が上がったことがあった。親方に仕込まれた通り、ただひたすらに芸をすればよいわけだ。沙羅ちゃんも、オリンピックが一年早かったら、無心に飛んで金メダルを貰っていたかも知れない。団体戦では小憎らしいまでに、ミスをする姿など想像も出来なかったリプニツカヤも、個人戦ではもはや角兵衛獅子状態でいられなくなってしまったのだろう。

大人になるとは、怖いものを知るということである。浅田真央が一日にして別人(の如く)になれたのは、もちろん角兵衛獅子の無心とは違う。落ちるところまで落ちて得た無心の境、平たく言えば捨て身ゆえの開き直りだろうが、帰国してから外人の特派員クラブに招かれて質問に答えていたのをニュースで見たがなかなか面白かった。(それにつけても外人の記者の質問の率直さ、切れの良さというものはどうだろう。日本の記者やアナウンサーというのは、どうしてああ決り切った質問しかしないのだろう?)

それにしても、日本のフィギュアスケートといえば、ごく例外的な選手がやっとこさ、5位だの6位だのに食い込むのが精一杯だった昔を思えば、まさに隔世の感というものだ。欧米の選手を囲むコーチや監督が豪華な毛皮のコートを着ているのを見るだけで、彼我の違いを思わずにいられなかったものだが、まして日本男子選手がフィギュアスケートでメダルを取る日が来るなど、到底考えもしなかった。それだけ、日本人の体形やサイズが如何に変わったかということに尽きるとも言える。(歌舞伎でも最近はフィギュアスケートに転向できそうな、小顔の10頭身役者を見かけるが、先の鴈治郎みたいな体形でフィギュアの選手になったらなんて、想像するだにキモチワルイものね。)それやこれやを思えば、羽生選手などというのは、鶴が天から舞い降りたようなものだが、ちょうど今は心技体整った充実の盛り、上り坂の、当たるべからざる勢いの時期にあるのだろう。おそらく、同じ横綱でも大鵬とか白鵬とかのような、特急品になるべき素材に違いない。フィギュアスケートに限らない。むかしの冬季大会といえば、スキーのアルペン種目など、日本選手では○○選手が35位、××選手が38位でした、なんていうのがほとんどだった。

ジャンプで41歳という葛西選手が銀メダルを取って「感動をありがとう」の対象の随一になったが、どうしても金メダルをとこれからも執念を燃やし続けようという気持は、ご当人にしかわからないことだろう。それよりも私には、ジャンプの飛形を普通より心もち開いて飛ぶスタイルが、モモンガの飛ぶ姿から思いついたという話が気に入った。これこそまさに、ベテラン選手ならではの「芸談」である。

モモンガといえば、おたんこなすのこんこんちきみたいに気の利かない奴に向かって、このモモンガ野郎、というのが江戸以来の罵詈だが、こういうことを伝えるテレビ番組もなかったわけではない。テレビ局もモモンガ野郎ばかりではないわけだ。

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随談第518回 勘三郎随想(その38・最終回)

47.「す」の巻

勘三郎の談話を取材していて何よりも痛切に感じるのは、先輩の俳優たちへの思いの深さである。それは、いわゆる身分の高下を問わない。実父の十七代目と時代を共にした俳優たち、十八代目自身が舞台を共に出来た役者たち。そうした人びとの思い出を語るとき、勘三郎は一番楽しげだった。私もまた、その話を聞くときが、ひと際愉快だった。勘三郎が私のために割いてくれた限られた時間のなかでも、さらに限られたいっときだったが、それは、格別な稠密さをもった、取って置きのいっときだった。

中村歌右衛門は、何といっても、十七代目と時代をともにした最大の存在である。「歌右衛門のおじさん」に言われたこと、教わったこと。勘三郎の語る歌右衛門は、言われた教訓や教わった内容以上に、その存在感、そのときの在り様が、印象的である。『鳴神』の雲の絶間姫で、龍神を滝壷に封じ込めた注連縄を切ると雨が降り出すという、絶間姫にとっての最大の性根どころのセリフの言い方を、噛んで含めるように移してくれる歌右衛門の有様を、勘三郎は、歌右衛門の声色によって一瞬にして描き出す。遠い昔に見た歌右衛門の絶間姫が彷彿とするかのようでもあり、すぐれた画家が、たったひと筆でその人物の全貌を描き出すのにも似た面白さに、思わず笑い出さずにはいられない。

歌右衛門の芸談というものを、活字になったものを読んだり、テレビなどで聞いたことは何度もあるが、そういう時、歌右衛門は必ずのように「お役の性根」ということを繰り返し強調し、具体的なことを例を挙げて述べるということをほとんどしなかったように思う。芸談というと、大概は、自分の当たり役などのおなじみのセリフなり仕草なりを例にとって芸を語るということをするものだが、歌右衛門はそれをしない。曰く言いがたいということなのだろうと忖度するものの、正直なところ、素人には面白みは薄い。

だが、勘三郎の語る歌右衛門は、それとは別な横顔を見せている。歌右衛門が、口写しのように絶間姫のセリフを教えるように、勘三郎もまた、口写しのように、歌右衛門の口真似をして語る。「写す」は同時に「移す」でもあって、まさしく「真似ぶ」ことが「学ぶ」ことなのだ。それはまさに言葉による一筆書きだが、一筆描きというものが、本質的に一種の批評にならざるを得ない以上、それは同時にカリカチュアでもある。歌右衛門だけではない。勘三郎が一筆で描いてみせた片岡我童の姿は、いかなる我童論にもはるかにまさってあざやかであった。

役の上で、勘三郎が一番多くの教えを受けたのは尾上梅幸だった。若衆方から和事味のある二枚目という、勘三郎が若いときにつとめた多くの役が、梅幸の役どころと重なっていたからでもあるだろうが、それだけに、勘三郎の梅幸への思いの深さが、言外からも伝わってくる。梅幸という人は、ことに二枚目の役を演じるときの舞台ぶりでも、素顔を見せるときの印象でも、おっとりと悠揚迫らぬ温厚な紳士というイメージで知られていたが、勘三郎の語る、『忠臣蔵』の塩冶判官をはじめてつとめたときの舞台稽古の模様は、そのイメージを裏切ることなく、同時に、われわれの知らないある一面を見せた梅幸像として、貴重な卓抜さをもっている。聞きながら私は、梅幸という人を改めて、蘇えるなつかしさとともに、好きになったことを告白しなければならない。

吉右衛門劇団で父十七代目と盟友だった松本白鸚にも、勘三郎はひときわの親密感を抱いているようだった。年始まわりに白鸚宅を訪れると必ず、時間が倍はかかる。酒を出してくれるからだが、ただそれだけのことを語るだけで、勘三郎の白鸚への思いは言外のうちに伝わってくる。

勘三郎がとりわけての思いをこめて語った故人をもうひとり挙げるなら、父十七代目の文字通りの竹馬の友であり、終生の心許した友であった守田勘弥だろう。幼かった勘三郎に、子供心にも格別な美しさで映ったふたりの友情の在り方は、ひるがえって、その子である十八代目と玉三郎の関係にまで影響を及ぼしているという。近代歌舞伎の温床としての市村座については多くの証言によって語られているが、父親同士が幼い日々を共にした市村座で培われたものが、形を変えて、勘三郎と玉三郎という、子の代である現代にまで生き続けていることを、勘三郎によって私ははじめて知った。勘弥といい、もうひとりの父十七代目の盟友として忘れがたい松本白鸚といい、ふたりとも、比較的早くに世を去っただけに、それを語る勘三郎にも、ひとしおの思いが感じられる。

こうした大立者ばかりではない。それぞれに独自の芸の味を持った脇役者たちを、私の求めに応じてひと口評のように、そのユニークな特徴をヴィヴィッドに描き出しながら、追憶はフラッシュバックのように次々と蘇る。とりわけ、父の代からの門人だった中村助五郎を語るとき、その死がまだごく近い過去のことであっただけに、哀切さが思いやられた。

勘三郎にとって、こうしたなつかしい先達たちのひとりひとりが、歌舞伎の命そのものなのである。

48.「ん」の章

いま一般の社会が歌舞伎に対して抱いている誤解の最大なのは、現在歌舞伎座などで演じられている歌舞伎が、江戸の昔から少しも変わらず、そのまま演じ続けられていると、「何となく」思い込んでいることであるかも知れない。一方で「伝統歌舞伎」ということが盛んに言われ、また一方で、新しい試みをする者があるとマスコミなどが大きく取り上げるのが、ふだん歌舞伎に関心のない人たちの耳目に触れやすい、ということもそうした錯覚を醸成する上でひと役買っているかもしれない。まさしく勘三郎も、そうした話題でマスコミに登場することの最も多かったひとりであり、果敢に新しい試みにチャレンジする歌舞伎界の旗手というのが、マスコミの話題だけで歌舞伎を見ている者の目に映る勘三郎像であったに違いない。両極端ばかりが伝わって、その割には実態が知られていないということが、いま、社会一般に向かって歌舞伎を語ることを、非常に難しくしている。

伝統歌舞伎といっても、その伝統を実際に演じるのは、現代という時代に生きている生身の役者であり、誰に向かって演じているかといえば、現代人である生身の観客である。この、少し考えてみれば当り前のことが、意外なほど、当り前として通用しない。そういう、不思議な常識や通念のなかに、歌舞伎は、もうずいぶん永いこと置かれている。今年二〇一四年は明治一四七年だが、その近代日本百四十年余の間に日本の社会が、日本人そのものが、どれだけ変わったか? その過激なまでの変化と変貌の中で、歌舞伎だけが変わらずにいるなどということが、あり得るだろうか? 

変わらないと思うが故に、歌舞伎を買いかぶる者がいる。変わらないと思うが故に、歌舞伎に見向きもしない者がいる。どちらも、思い込みの上に立っている点で変わりはない。だが、歌舞伎の伝統とは、歌舞伎の進化とは、そのいずれにあるのでもない。歌舞伎とは何か? 勘三郎がしようとしていることの根底に常にあるのは、自他に向かって放つ、この問いかけであるように、私には見える。

勘三郎がいまなお強く憧憬と敬意を抱き続けている、父十七代目勘三郎や、父と同時代に活躍していた六代目歌右衛門や七代目梅幸たちの歌舞伎もまた、そうした近代歌舞伎の中の、戦後というひとつの時代の歌舞伎である。彼らは彼らで、そのまた父の世代である六代目菊五郎や初代吉右衛門等に代表される歌舞伎の芸を規範としていたが、それもまた、大正から昭和前期というひとつの時代の歌舞伎であることに変わりはない。戦後といい、大正・昭和前期といい、それぞれの時代をよく生きたからこそ、歌舞伎はそれぞれの時代にかけがえのない喜びを同時代の観客に与えることが出来たのであり、それはその時代にあってこその喜びであり、意味を持つものであった筈である。伝統だから時代を超えるのではなく、それぞれの時代をよく生きたからこそ、伝統に連なることができたのだ。人はまず、いまを生きるのであって、いまを抜きにして歴史に生きることはできない。歌舞伎もまた、同じだろう。

「規範」という考え方のなかには、指標とするべきものを求める意志が感じられるが、意志によって選び取られてはじめて、規範は学ばれるべきものとしての意味を持つ。かくのごときものでありたい、あろうとする意志をどれだけ明確に持つか。高校生だった勘三郎が、祖父である六代目菊五郎の踊る『鏡獅子』の映画を見るために日参して、首の振り方を写し取ったというとき、そこにあるのは、かくありたいという意志であり、憧憬と尊敬がそれを支えている。獅子の首の振り方を写すのと、革新を恐れずし遂げたその生き方にまねぶのとは、勘三郎にあっては少しも矛盾することではない。

コクーン歌舞伎や、野田歌舞伎といった活動によって、勘三郎が何を、どういうことをしようとしていたのか、実を言うと私には充分に分かり切れずにいるものがある。懼れずに言えば、勘三郎自身にも、充分に分かり切らずにいた部分があるのではないかという気が、実はしてならない。少なくとも猿翁と比べる時、猿翁ほど明確に見えているものがなかったのではあるまいかという気がする。だがこれは、決して勘三郎を貶める意味でも、猿翁と比べて優劣を云々することでもない。むしろそれ故に、俳優勘三郎の、人間勘三郎の魅力も真価もあるのだという気が、私はしているのだ。ただ何かが、勘三郎を突き動かしていたのだ、と私は思う。

両方をやるのだ、あっちがあってこそこっちがある、と勘三郎自身、明快に語っているように、先人の教えを尊重する念と、我こそ、誰もしなかったことをしているのだという気概とが、勘三郎の中に同時にあるのであって、勘三郎の歌舞伎を双頭の鷲のごとくに先導している。それを、どうして否定できるだろうか?

        ***

一昨年末に勘三郎の訃を聞いたのをきっかけにはじめた『勘三郎随想』でしたが、この回をもって終了します。その時どきの話題や問題に関わるのが生命ともいえるこうした場では、連載は断続的にならざるを得ず、遂に足掛け3年という長きに亘ってしまう結果となりました。ご愛読くださった方々に御礼申し上げます。

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随談第517回 勘三郎随想(その37)

46.「せ」の章

(談話・歌右衛門の教え、思い出の先輩たち)

―――このごろテレビの歌舞伎チャンネルっていうので昔の方の芝居をやってますけど、みんな大したもんだなと思いますねえ。こないだも『忠臣蔵』の「九段目」を見ましてね。歌右衛門のおじさんの戸無瀬でねえ、鴈治郎のおじさんが本蔵やってんですよ。よかったなあ。大星が寿海さん。これがまたいいのよ。それで神谷町のお義父さん(=中村芝翫)が、まだ若いときなんだろうね、お石。それから山城屋坂田藤十郎さんの小浪。いまと全然違う、若くてこんなに太ってんだけどさ。それで延若のおじさんの力弥。古風で、やっぱり凄いなと思いますね。

―――で、歌右衛門のおじさんの思い出というと、ひとつ挙げろと言われりゃあ、見て凄いとかいうよりも、教わったことの凄さだね。いろいろ教わってますけども、『鳴神』の絶間姫を教わったんですよ。おじさん、絶間なんてもうその頃はあんまりなさってなかったんだけど。で、そのときに、ボクが「アノ雨が降るかえ。雨が、テモマア不思議なことのお」ってセリフを言ったら、「あんた駄目だよ。全然不思議じゃないわ」って。あの歌右衛門のおじさんて人はね、ああこんな人なんだなあって、しみじみ思わせられるように、(声色で)「雨が降っ、てもまあ、ふしぎな、ことォ、のおお」って言わなきゃいけないって言うの。ほんとに不思議じゃなきゃいけないって。これ、うちの親父と一緒なんですね。古典であろうと、何であろうと、そういう気持がなきゃ駄目なんだっていうことを教えてくれたんです。

―――それから、まだボク、やってませんけど、玉手。(声色で)「干割れに洩れる細き声」っていうんだよ。ここのね、柱からひびが入ってる。そこからコウ、中へ、おかあさんのところへ、(声色で)「かかさん」っていう風に言わなければ、って。それから、三つおこついてこうやるところね、ビデオ見たって教えてくれないからねって。二日間、ほんとによく教えてくれました。(声色で)「寅の年、寅の日、寅の刻」。ぜんぶ音(おん)を変えなさい、って。とにかく怒られたんだ。

―――それでね、ものすごく怒られて、で、一週間か十日たったら、電話があって、ある役者さんに教えるから、それを見とくのも勉強になるからって呼ばれて、で、行ったんです。その方は、俺が怒られてるのと同じこと全部やってんだよ。ところが、おじさん何にもいわないの。(声色で)「いいよ、あんたいいよ」って。俺ねえ、これだけいまだに謎。なんでそれをいいよって言ったのかなあって、いまだにわかんない。だって俺がいつも怒られてたところを、その人も間違えてんですよ。それをほめてんだもん。よくやったよ、って。ずーっと、いまだにわかんない。これはわからない、いまだに謎。

―――やっぱり、厳しく教わったのが、いまになると、ありがたいと思いますね。だって怒られなかったらわからないもん。怒られたからこそ、わかるわけですよ、違いが。怒れられたときはこわいなとかいろいろ思うけど、やっぱりありがたいなと思いますよね。そういうの見ると、おじさん、あれほんとにうまいと思ってるの? いやそんなことないだろう、と。訊けないしねそれは。ほんとにあれがいいんですか、なんて訊いたら、ウルサイッなんて言われたらおしまいだからさ。それがなんというか、歌右衛門のミステリイというか、でしたねえ。

―――最後に言われたことは、舞台を大事にしてちょうだいねって。二人っきりのとき。ノリアキちゃん。ボクのこと、ノリアキちゃんて言ってたんですけどね。ほんとにね、舞台を大事にしてちょうだいよ、これからも、って。これは守ってる。ふざけない。ともすると家の親父なんか、投げたりなんかしたっていうけど、それはうまいから投げたんで、ボクはおじさんの、舞台を大事にしなさいっていうのはね、これは守っていますね。そりゃ、巧い拙いはわかりませんよ。けど、やっぱり、そりゃ疲れてるときだってある熱のあるときだってあるけれど、でも、大事にしろっていうことは、子供たちにも、ぼくがそれをやらなければ言えないですから。これはおじさんのあの歌舞伎座のあの大きな部屋で、二人っきりで。駒助さん(歌右衛門の門弟)がわざわざ呼びに来て、あれはもう、忘れられないですねえ。

           *

―――それから白鸚のおじさん。高麗屋。よく可愛がってくれた。大好きだった、小さいころ。こないだも染五郎が来たとき言いましたけど、年始回りが一時間半早くなりました。おじさん死んじゃったら。ま、一時間半はオーバー、一時間早くなった。おじさんのところ行くとね、オイオイ上がれっていうので、で、カティ・サークどぶどぶついじゃって。でもおじさんあんまり飲めないんですよ。そんなのがねえ、俺が行くとね、いろんな話を聞いてくれるの。いいおじさんでした。だから、今度のおじさんの(二十七回忌の)追善にボク出られないんで、それじゃあてんで、染五郎が教えてくれっていうんで、本当に一生懸命で、それで『鏡獅子』を教えようってことになったんです。

―――白鸚のおじさんの役のなかからひと役挙げるとしたら、やっぱり『関の扉』の関兵衛はいいねえ。あの博多人形みたいなの。

―――あのね、白鸚のおじさんに、ぼく、弁慶習ってるんですよ。ねえ、弁慶ですよ。『勧進帳』の弁慶。一日だけやったの。歌舞伎座で。あのね、子供歌舞伎教室ってのがございまして、富樫が歌六、義経が家橘、で私が弁慶。おじさんに手取り足取り教わりました。高校生のとき、いやもっとですよ、十七、八ぐらいだったかな。

―――いや、それ知ってたら朝早いのなんか構わず見に行ったのに。

―――ハハハ。いや、教わりましたよ。数珠の扱い方とか、いろいろこまかくね。

           *

―――それから鴈治郎のおじさん(=二代目)だねえ。いや、この万野なんてものはねえ。十兵衛、万野、『封印切』、『河庄』ももちろんだけど、あと、『桜時雨』じゃなくて『桜吹雪』という、何か、芝居が大阪で出たんですよ。何だかわかんない、こういう二つ折りの帽子かぶってね、瓢箪叩きながら出てくるだけの役。桜の花の中から。あんなの誰も出来ない。ハハハ。もっといやあ、俳優祭でやった『白雪姫』の七人の小人のねえ、小人。

           *

―――あの人のこの役、というようなの、ありますか?

―――ああ、浅尾奥山さんの義平次って、よかったですね。あれは家の親父が、女形なのに義平次させたんだろうけど。壮絶な感じでね。

それから、好きだったのは幸雀さん。松本幸雀。あの人がね、『刺青(いれずみ)奇遇(ちょうはん)』で、お仲がもう危ないって言うことをいうために、こう引っ張っていくんですよ、半次さん、半次さん、そんなに長くかかんのかっていうとね、小さい声で「・・・」ていうだけなんだけどね、それで全部わかるわけ。それから『瞼の母』の歳とった娼婦。よかったなあ。

―――それから(助高屋)小伝次さんの『一本刀土俵入』の老船頭。それから斧九太夫ね。『忠臣蔵』の。(声色で)「バカバカシイワエ」って、真似したもんなあ。

それから(坂東)弥五郎さん。番頭長九郎。『法界坊』の。ぼくが、やって下さいって言ったら、「じゃあ早く、あなたねえ、早く法界坊やって下さい」って。「秒を急ぎます」って言われた。もう、駕籠を持てないでしょ。駕籠なんか持てなくていいって。秒を急ぎますって言ってました。よかったなあ。

―――助五郎も惜しいねえ。こないだの山田洋二さんの演出の『文七元結』。彼を撮ってもらいたかったのもあるんだけど、間に合わなかったねえ。藤助さん、よかったんですよ。角海老から迎えに来る、藤助さん。いかにも吉原から来た人だったんだよねえ。芝居なんかしないんですよ。ガラガラって開けて、オッと入ってきて、「イヤどうもすみませんねえ」なんて。もう、なんか、一緒にやっててとっても楽しかった。若いのとやるとこっちがくたびれちゃうけど。

藤助は子団次さんのも、よかったねえ。

―――アッ(手を叩いて)、我童のおじさん。好きだったなあ。『封印切』のおえんとかね、一文字屋お才とか。それから夕霧、南座でやった。これはもう、絶品でしたよね。上等の、いいお人形。わかるでしょ? (声色で)「なんや知らんけども、あちらへ三歩、こちらへ三歩、うろうろしてたら、そのうち幕や」って。ははは。

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随談第516回 今月の舞台から

新橋演舞場の花形歌舞伎『心謎解色糸』がなかなかよかった。大当り、とまでは敢えて言わずにおくが、将来への期待と見通しという観点からだったら、後日、その原点となったという意味で、大当りだったと言われるようになるかもしれない。少なくともこの狂言のこれまでの上演史の上で、今度の上演がひとつのエポックになる可能性は充分ある。

41年前の国立劇場上演版による白鸚・梅幸所演よりはるかに面白いことは間違いない。こういうものは、なまじエライ人たちがやるより、先入観に縛られていない若い連中でやった方がいいという、まさにその典型的な例といえる。70年代に起った南北ブームの中で『桜姫東文章』や『盟三五大切』が現代のレパートリーに甦った、というより、新たに参入した(と言った方が正しいだろう)が、その只中であわよくばこれも、と狙っ(たかどうかわからないが、けっきょく空振りに終わっ)た『心謎解色糸』が、それから四〇年、孫世代の手で新世代歌舞伎のレパートリーとして参入することになったなら、めでたしめでたしというものである。七〇年代と違うのは、『三五大切』にせよ『桜姫』にせよ、七〇年代という時代と関わるものを有していたが、平成の世の『心謎』にはそうしたメッセージ性は持っていない点だが、そこがまた、当世らしいと言えば言える。七〇年代には玉三郎の登場ということがあったが、現代の花形連には、時代と何らかの形で切り結べるキャラの持主は海老蔵ぐらいしか見当たらない。染五郎も、菊之助も、勘九郎も七之助も、皆、才能としては素晴らしいが、皆、オーソドックスな優等生の顔をしている。彼等の中ではやや異色な松緑も、今この文脈からするなら、該当しない。が、この話はいまは閑話休題としよう。

41年前と違うのは、白鸚にせよ梅幸にせよ、南北らしい、ということに対して、身構えたり、ちょっと引いたり、とにかくかなり神経質にな(らざるを得なくな)っていたが、そうしたコンプレックスから、当代の花形連は少なくとも自由らしく見えることである。七〇年代が遺したものでいまも続く最大のものは、「正統」という権威が崩壊し何でもアリという状態が瀰漫的に継続していることで(それで新劇は壊滅したが、歌舞伎には姿や実態は変わりつつもともかくも理念の上では「正統」は存在している。歌舞伎が腐っても鯛であり得ているのはそれ故である)、前代の大物たちの持っていなかったその自由さを、現代の花形たちは初めからそこにあったものの如くに、自由に、別に殊更な反逆も何もする必要もなく、享受出来ることである。前代の大物たちがあれほど苦労し、批評家たちから南北らしくないといった批判を散々された障碍を、現代の彼等はやすやすと乗り越えられる。

今度の一座には海老蔵も勘九郎も(猿之助も)入っていない。もし海老蔵がいたら、染五郎がお祭り佐七と半時九郎兵衛を二役兼ねるという配役はなかっただろう。そういう配役を空想するのも、それはそれでもちろん楽しいが、今度の一座でする以上、染五郎の九郎兵衛は本役ではないと言っても染五郎は困惑するだけだろう。むしろ、そんなことは承知の上で、自分の柄を考え、もう一役の佐七といかに演じ分けるかを工夫した上での染五郎の努力を、私は興味深く見た。(ついでに言うなら夜の部の『青砥稿』でも、日本駄右衛門は染五郎の仁ではあるまいが、たとえば「神輿ケ嶽」のだんまりで大きく見せる工夫と努力を、私は面白く見た。)それで思い出すのは、いまの仁左衛門が『お染の七役』の鬼門の喜兵衛を初めてした時、自分の役ではないと思ったが、勘彌のおじさんから恥をかくつもりでやれと言われてやったお蔭で、あゝいう強い役が出来るようになったと語っていたことである。もちろん仁左衛門と染五郎では個性はまた違うが、他山の石として聞いてもよいことではあるだろう。

松緑の本庄綱五郎と役を入替えたら、というのも、当然、誰しも考えるところだろうが、それはそれとして、私は松禄が、先月の釣天井の柴田勝重といい、実事系の役でじっくり実力を蓄えてきたのを興味深く見ているところなので、この綱五郎も(染五郎の九郎兵衛と補完し合うという意味も含めて)かなりの点を入れたくなっている。ただこの人の何とかすべきなのは、夜の南郷でもそうだが、七・五で切れるセリフの尻が全部同じ調子で同じ音程のところへ落ちてゆくことで、同じ調子が何度も繰り返されることになり、単調で妙味というものがないことだ。

菊之助の小糸ももちろんいいが、今の菊之助の力からすればこのぐらいよくて当たり前というべきだろう。41年前の祖父梅幸の敵討ちをしたようなものだ。

七之助がお房とお時の二役で、得難い素質を見せたのも、新世代歌舞伎の今後を考える上からも頼もしい。玉三郎と感触を違えながら、引き受ける役はほぼ同じところを引き受けてゆくことになるのだろうか。

(それにしても、いまこの文脈からは外れることになるが、歌六の安野屋重兵衛を見ながら私はほとほと感服した。することなすこと、常間常間でことごとく寸法正しく、すぱりすぱりとツボに入ってゆく。この種の役の仕事としてほぼ理想的といってよい。こういう役でのこういう本寸法の芸というのは、勘彌以来だろう。)

        *

『青砥稿』もなかなかよかった。新世代版五人男、みなそれぞれによかったが、何といっても菊之助の弁天というのは天性この人に嵌めて作られたようなものだ(と感じさせるところが、絶対の強味というべきである。)極楽寺山門の立ち回りの飛燕のごとき具合など、私がこれまで見た限り、誰のよりも素敵に素晴らしい。三年前、自ら企画した東北地震被災者救援の舞踊会で踊った『浮かれ坊主』を思い出す。白く塗った素足の筋肉がまるで陸上競技の選手のようだった。

後は(いまのままでも充分、一級品ではあるが)、後ろにいる駄右衛門や浜松屋等の存在を意識しながらの南郷とのやりとりなどで、時代と世話、硬軟取り混ぜてた運びの面白さを見せてくれるようになったら、泉下の黙阿弥翁も目を細めるに違いない。

今度の、久しぶりの、そうして新世代に面々にとっては初めての全段通しで、ひとつ言うとすれば、胡蝶の香合とか、信田小太郎と千寿姫の関係とか、それにからむ赤星十三郎との関係とか、浜松屋が小山家の臣であったといった因果の糸を、客席の万人にもっとわかりやすく、明確に見せるべきだというである。繰り返すうちに、段々、いつの間にか刈り込まれ(以前は十三郎の伯父さんというのが出てきたはずだ)、前菜扱いみたいになってきたような気がする。前段の時代、後段の世話と、二つの世界が大詰で渾然となって大団円を迎えるというのが、作者黙阿弥のこしらえた構想なのではあるまいか。

        *

今月の文楽がなかなか面白い。三部制で十一時開演の夜九時終演という盛り沢山で少々草臥れるが、それだけのことはあるから見て損はない。第一部の『近頃河原の建引』、第二部の『染模様妹背門松』と、大坂の町人世界のさまざまな人情の模様がねっとりと語られて、これこそ文楽ならではという思いで、堪能した。歌舞伎では到底、こうは行かない。大作のいわゆる名作よりも、こういうものにこそ、文楽の真骨頂が発揮される。

『河原建引』の猿回しの件など、歌舞伎だと、猿回しの猿のおかしみも、ほろりとさせる味付け以上にはならないが、文楽だと、本物のお俊伝兵衛も人形、猿のお俊伝兵衛も人形だから、人間と猿の二組のお俊伝兵衛が重なり合って見えてくる。作者の卓抜な趣向、卓抜な人間観が浮かび上がってくる。かつて、あの若太夫の語りで見た時の圧倒的な感動を、ちょっぴりだが偲ぶことが出来た。(それにしても、当代寛治が、風貌風格、先代にそっくりになってきたのに驚く。)

何と言っても堪能したのは『妹背門松』で咲太夫の語った「油店の段」である。今が盛りの咲太夫がたっぷりと語って、文楽でなければ味わえない面白さを心ゆくまで愉しんだ。文楽を聴いてこういう満足感というのは、いつ以来だったろう? 「蔵前の段」も、文字久がお染の親の太郎兵衛をじっくりと語る。人の世の情理を尽くし、お染がそれをじっと受け止めつつそれでも心中に至る具合が、語られる世界は古めかしい町人倫理でありながら、それを超えてもっと普遍的な、大人の良識と若者の情熱の相関関係へと、聴く者の思念を昇華させることになる。こうして初めて、菅専助作の一見古めかしい浄瑠璃が、広く高い普遍性を獲得することになる・・・などと、つい青臭いような理屈を捏ねてしまったが、そういう気にさせてくれるだけのものだったといえる。

ずい分前に見た歌舞伎の『ちょいのせ』はこの作の「質店」と「蔵前」を、番頭の善六をチャリ敵にして喜劇化したものだが、文楽でのこの醍醐味とはまったく異質のものだが、それはそれで、別種の面白さがある捨てがたいものだ。二代目鴈治郎も十三代目仁左衛門も亡き今、誰もやらなければ消滅してしまう絶滅危惧狂言のひとつである。私は実は、当代の、つまり十五代目仁左衛門に、このチャリ敵の善六をやってもらえまいものかと期待しているのだが。あの仁左衛門が善六をやって、女性ファンたちが、上辺では「いやあね」と苦笑しながら、実は腹の中で「仁左衛門さん、カワイー」と喜ぶ様子が目に見えるような気がするのだ。仁左衛門としても、いつもいつも格好いい役ばかりでなく、善六などをやってアッと言わせてみるのも、また役者冥利に尽きるのではないだろうか?

第三部の『廿四孝』は蓑助と文雀が八重垣姫と濡衣を遣う眼福を愉しむものだろう。

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随談第515回 勘三郎随想(その36)

45.「も」の章 

再び再開、続けることにする。

歌舞伎とは何か、という問いは、歌舞伎の根元を問いつつ、ひとびとに常識や通念の変更を迫っている。およそ、歌舞伎を一度も見たこともない者が漠然と抱いている想像としての「歌舞伎」から、型とか約束事とか呼ばれるものの細部まで通暁している歌舞伎通の考える「歌舞伎」まで、さまざまな「歌舞伎」が、社会のなかに乱立し瀰漫する形で存在している。初心者に歌舞伎とは何かを教える解説書や入門書は、「歌舞伎的」とか「歌舞伎らしい」とおぼしい特徴的な事象を取り上げて説明・解説するが、それは、両刃の剣のように、著者の意図とは裏腹に、歌舞伎を特殊なもの、解説がないと理解しがたいもの、と読者に思い込ませることにもつながってしまいかねない。

花道、女形、隈取・・・という風に、歌舞伎のさまざまな事象を取り上げて初心者に向けて歌舞伎を語る、という方法は、題名も『歌舞伎への招待』という本で、著者の戸板康二がはじめて試みたことだった。それは一九五〇年という終戦後間もない新時代に、それまでの歌舞伎通とはまったく異なる戦後(アプレ)世代(ゲール)の読者に向かって、歌舞伎を客観的に分析して見せるという斬新で、知的で、機知に富んだ、おしゃれな方法だった。『歌舞伎への招待』という題名も、ウェーバーの『舞踏への勧誘』という、クラシック音楽のファンにおなじみの曲名から思いついたものだった。「戦後」という新時代の観客たちは、歌舞伎に対する常識は、従来の歌舞伎通に比すべくもなかった代わり、旧世代の持ち合わせなかったような知識や趣味を、はるかに広範囲な分野にまたがって持っていた。そういう読者を想定できたところに、戸板の卓抜なセンスと独創があったのだ。

だが実は、これには先達があって、戦争前の一九三八年に、その当時最も多数の読者を持つ批評家だった三宅周太郎が、外国人に歌舞伎を紹介するために英文で出版した『KABUKI DRAMA』という本で試みた方法を、さらに洗練された形で進化させたものだった。三宅も戸板も、それまでの歌舞伎通の狭い世界から、歌舞伎を、もっと広い世界へ向けて発信して、幅広い読者を獲得した批評家である。(話が脱線するが、前に述べた六代目菊五郎の『鏡獅子』を小津安二郎が撮影した映画も、元来は、海外へ日本の文化の象徴としての歌舞伎を紹介するのが目的で作られたものである。その制作が一九三五年。三宅周太郎の『KABUKI DRAMA』とほぼ同時代である。日中戦争が、十五年戦争という長いスパンで見た場合すでに始まっている時点でのことなのにも驚くが、歌舞伎はこうした形でも、時代と微妙な関わり方をしていたことがわかる。が、いまは閑話休題だ。)

戸板康二がはじめた(開発した、という方がふさわしいかもしれない)こうした方法は、現在もつぎつぎに刊行される歌舞伎の解説書・入門書にも踏襲されている。歌舞伎という現象を目に見える形で具体的に呈示して見せるには、いまなお、これにまさる名案を、まだ誰も思いついていない証拠かも知れない。

一方、歌舞伎をいかにして「保存」すべきか、ということを考えた人々もいた。一九二〇年といえば大正九年だが、当時新進の批評家だった浜村米蔵は、歌舞伎を「正しく保存」するための研究所を設けることを提案している。浜村の説くところによると、この研究所はあくまでも理想的な演劇を実践するためのものだから、まず絶対に必要なのは舞台監督である。舞台監督は光線・大道具・小道具・衣裳・音楽・戯曲・俳優などすべてを支配し、指揮するすぐれた技術家であると同時に思想家でなければならない。劇場は過去の戯曲の住家であり、興行方法は、鑑賞力をもたない観客は一人も内部へ侵入させない一方、あくまでも観客に対して親切であるようにする。劇場は周囲の雑踏から守るために郊外か近県のさびしいところに建て、開場時間を正確にして遅刻した者はいかなる理由があっても入場させず、一切のアルコールを禁ずる。一日の興行時間は三時間ないし四時間とし、長い戯曲を演出する場合は幾日にも分節して上場する。劇場の経済は国家の補助と、富豪が人生になしうる唯一の光栄ある事業としての寄付、それに作者・批評家・選ばれた観客・劇場内部の者などの関係者が応分の努力をしてまかなう。拍手と雑談を厳禁した「深林のような日本戯曲の住家」で、歌舞伎劇の科学的演出をする厳粛な思索研究の場とする・・・・というのだが、これが決して冗談として言っているのではないことは、今日でも、歌舞伎は古典であるべきだという意見の人の話をよく聞いてみると、つまるところは、浜村米蔵が九十余年前に考えたこの「ユートピア劇場」と大差ないところに行き着くのに気がつく。いまの国立劇場にしても、こうした「思想」をどことなく反映しているような気もするし、舞台監督のあり方などは、(一見しての印象とは裏腹に)他ならぬ野田秀樹や串田和美がそれなりに実現・実践しているようにも見える。それもそのはずで、浜村のこうした発想の根底には、前にも言った、「演出」というヨーロッパの近代劇とともに生まれた思想が横たわっているからで、その意味で、国立劇場という形に結実したユートピア劇場と、野田や串田の演劇世界とは、遠く祖先を共通にする間柄ともいえるのだ。(兄弟、というほどではなくとも、孫同士かひ孫同士ぐらいとは言えるだろう。)

だがそれにしても、浜村の唱道するこのユートピア劇場で実際に歌舞伎を見てみたいと思う人は、どのぐらいいるだろう? そもそもこの劇場で、たとえば『助六』の股くぐりなど、どうやって演じ、どういう空気のなかで「鑑賞」されるのだろう?

もっとも浜村米蔵にしても、「保存」といっても、歌舞伎をそのまま冷凍保存してしまおうといっているわけではない。理想の劇場で過去の歌舞伎の本来あるべき姿を研究した上で「保存」し、一方で、つねに流動して止まない歌舞伎を「進行形歌舞伎」として、時代とともに進化させるべきだというのが、その主張するところだった。歌舞伎は興行として大々的にやるよりも、むしろ小規模に、本来のあるべき姿を追求して見せる場であるべきだ、という意見の人もいる。それもたしかに、ひとつの考えではあるだろう。金丸座を知って、これこそが歌舞伎を盛る理想的な器であると考えた識者も少なくない。

しかし、十九歳だった勘九郎青年が、唐十郎のテント芝居を見て、これが歌舞伎だと思ったという時、それは取りも直さず、これこそ歌舞伎が本来あるべき姿、という意味であった筈である。だがその、言葉にすれば同じそれぞれの「歌舞伎が本来あるべき姿」には、なんという隔たりがあることだろう。少なくとも、十九歳の勘九郎青年の胸にともった火は、熱く燃え上がるものであったに違いない。いまも(と言っても、その「いま」はそのまま永遠に冷凍保存されてしまったわけだが)、勘三郎は言う。歌舞伎をつまらない、わからないという奴を黙らせたいのだ、黙らせるような歌舞伎をやりたいのだ、と。こういう演者の思いを、それは間違いだと言えるだろうか? 勘三郎が、自分の考える歌舞伎を盛る器として作った平成中村座もまた、金丸座に発想の原点があることは、勘三郎自身が語っているところである。

歌舞伎とは何か。歌舞伎はどうあるべきなのか。歌舞伎をどうすればいいのか。つまりはいまなお、誰も正解など持っていないのだ。それはおそらく、近代以降の歌舞伎が背負い込んだ、永遠の問いであるに違いない。

「異邦人」であるはずの、串田は言う。「この芝居がどうなったら歌舞伎になるんだろう。どうすれば成り立つのだろう。そもそも歌舞伎らしくする必要があるのか? 歌舞伎らしくってどういうこと? 歌舞伎らしくない歌舞伎ってどういうもの? ・・・もちろん演劇人としての僕個人は、何だってやって良いと思っている。やったほうが良いと思っている・・・・だけど歌舞伎となると、なぜか慎重になる自分がいて、その自分にちょっと戸惑う。そういう自分と折り合いをつけるのに手間取る。なぜかというと、そもそも歌舞伎というものの定義が自分の中で明確でないんだ。」

この、何とナイーヴな正直さ! そうしてその問いは、野田秀樹に尋ねても、おそらく似たような返事が返ってくるのではあるまいか?

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