随談第501回 勘三郎随想(その28)

33.「こ」の章

平成七年の八月という、この時点での弁天小僧は、勘三郎としては五演目に当たっていたが、歌舞伎座でははじめてだった。納涼歌舞伎という、いわば責任芝居の座頭格として通し狂言『青砥稿(あおとぞうし)花(はなの)紅彩画(にしきえ)』として主役の弁天小僧を演じ、大詰の幕を切って一日の観劇を締めくくる青砥左衛門を演じる。役者冥利に尽きる役である。私はひそかに、このときの体験が、十八代目勘三郎のその後を決める何ものかになったに違いないと信じている。

弁天小僧といえば、ふつう、髷も島田に由比ケ浜、とセリフにあるように島田髷に結い振袖姿の武家の令嬢に化けて、万引きとみせてゆすりに来る「浜松屋」の場が有名だが、通し狂言として出す場合には、信田(しだ)ノ小太郎という大名の若殿に成りすまして登場し、許婚の千寿姫を誘拐する「鎌倉初瀬寺の場」と「御輿(みこし)ケ嶽の場」から始まる。つまり時代物の前髪の若衆姿で登場、一転して婦女誘拐の不良少年弁天小僧菊之助へと正体を現わすところが、前段での見どころになる。十八代目勘三郎という役者を支えている芸の本質、芸の姿という観点から見るなら、弁天小僧もまた、若衆役の一変形として見た方がふさわしい。さてこの「御輿ケ嶽の場」で、それまで信田ノ小太郎になりすましていた弁天小僧が、千寿姫の前で正体を現わすところで勘三郎が、父祖伝来ともいうべき変幻自在の妙を見せたときの場内の熱狂は、いまや彼が二千に近い歌舞伎座を埋め尽くす観客を自分の意のままに操っているような錯覚を、覚えさせるものだった。

もともと、勘三郎の扮する信田ノ小太郎は、序幕の初瀬寺に登場する時から、ちょいと気取ったすまし顔で、何か面白いことが起こりそうな予感を観客に与えている。といって、ここは信田の若殿様になりすましているのだから、狂言の底を割るという、じつは悪党であるということなど、おくびにも出しはしない。しかしただ神妙に若殿になっているだけでは、絢爛たる初瀬寺の山門の前をさまざまな人物が出入りする、絵のような美しい序曲を眺めるだけで終わってしまう。勘三郎の場合、気取ったすまし顔が信田ノ小太郎の顔でありながら、同時に、その小太郎になりすまして(たぶん肚の中では面白がり、せせら笑って)いる弁天小僧の顔であり、さらに同時に、そういう弁天を演じている勘三郎自身の顔でもある。役になり切るといっても、この狂言の場合、「花紅彩画(はなのにしきえ)」という外題が語っている通り、錦絵をつぎつぎと繰るが如くに展開するように作られている芝居であって、現代的な心理主義的な解釈など入り込む隙はない。新劇人が手をつけようとしても、手のつけようがないに違いない。役になり切るとは、だからこういう芝居の場合、その役と仁とがぴたりと重なり合うことである。

演じている役と、それを演じる役者とが、二重写しのように重なって見えていないと、歌舞伎としての充分な面白さにならない。その二重性がぴたりと焦点が合っていないと違和感が生じ、あじけない舞台になる。演じる役の役柄と、演じる役者の仁とが重なり合うとき、役も役者も最も輝きを増す。小太郎と思っていた男の顔の下から弁天小僧の顔が浮かび、さらにその下から勘三郎の顔がにじみ出る。千寿姫を連れて花道を入るときの勘三郎の輝きと、場内の熱狂は、まさしく、歌舞伎でなければ味わえない種類の醍醐味だった。そのとき勘三郎は、まぎれもなく、歌舞伎座を埋め尽くした二千の観衆を手の中に握っていた。

しかしここはまだ序曲であって、大輪の花が本当に咲き開くのは「浜松屋」になってからである。相棒の南郷力丸を供の若党にして大身の武家のお嬢様になりすました弁天小僧が、男と正体を見破られて肌脱ぎになって啖呵を切る。「知らざあ言って聞かせやしょう」にはじまる有名なセリフだが、ここでのやり方に、勘三郎にはひとつの主張がある。

浜松屋という大店の呉服商の店先で、男と見破られた弁天小僧は平然と店の番頭たちを前に、帯を解いて赤い襦袢姿で大欠伸をしたり、片肌を脱いで大振袖の下から、背中から二の腕へかけた桜の彫り物を見せたりしながら、やがて大あぐらをかき煙草盆を貸せと言う。そうして悠然と煙管をもてあそびながら、呆れる番頭たちを相手にやりとりをする。

「さては女と思ったは、騙(かた)りであったか」

「知れたことよ。金がほしさに騙りに来たのだ」

全部を引用すると長くなるが、こうしたやりとりの中にも、番頭の応答のたびに手代たちが、三度にわたってヤアヤアヤアと呆れ声の合いの手を入れるのにも口伝があるなど、五代・六代の二代にわたる菊五郎が工夫した、細緻な手順や約束事がついている。そこをそう感じさせないで一見さりげなくさらさらと運ぶところに、主役脇役それぞれにプロフェッショナルの役者としての腕があるわけだが、弁天小僧と番頭たちのやりとりは、やがて、

「それじゃあまだわっち等(ら)を、お前方は知らねえのか」

「おお、どこの馬の骨か、知るものか」

という応酬があってから、「知らざあ言って聞かせやしょう」にはじまる、厄払いといって作者の黙阿弥ならではの綺羅を尽くした七五調の名調子を聞かせることになる。内容は生い立ちから現在に至る盗人としての履歴を得々として語るのだが、オペラならアリアに相当するといってもいい。さて勘三郎の主張とは、この厄払いにかかる呼吸にある。

普通は、どこの馬の骨か知るものか、と番頭のセリフがあった後、ひと呼吸あってから、やや改まる形で「知らざあ言って聞かせやしょう」となる。さあ、ここが聞かせどころ、ということを、観客も弁天を演じる役者も充分に意識している。現代の代表的な弁天役者のひとりである菊五郎のやり方を思い浮かべてもいい。

だが勘三郎はここで、それとは違った行き方を見せた。どこの馬の骨か知るものか、という番頭にかぶせるように「ナニ知らねえ?」と応じ、そのままの息で「知らざあ言って聞かせやしょう」と詠いはじめる。厄払いはたっぷりと聞かせるが、テンポは速い。この息の詰み方は、さらに十年後、十八代目襲名の折の名古屋御園座での「浜松屋」を見て、私は驚嘆した。それはほとんど、疾風迅雷という趣きだった。詰んだ息で、一気呵成という感じで芝居が運ぶと、何度見たか知れない見慣れた芝居が、見る見る躍動感で溢れてゆく。勘三郎ならではの魅力が横溢する。

これはもう、単にやり方の違いというより、厄払いという様式に関する「思想」の違いといっていい。つまり勘三郎のやり方だと、厄払いといえども相手とのやり取りの中にあるもので、そこだけを殊更に切り離してやるものではない。様式といっても「写実」と切り離して存在するものではないことになる。この考えの背景には、おそらく、かつて六代目菊五郎が、十五代目羽左衛門の弁天小僧を、あれでは「時代世話」であって「世話」ではないと評したという問題につながる考え方がある。羽左衛門は、「知らざあ言って聞かせやしょおー」と最後まで調子を張って言ったが、あれは、「知らざあ言って」までは「時代」に張って言うが、「聞かせやしょう」は軽く落として「世話」で言うのだと亡父六代目菊五郎に教わったという話を、梅幸が語るのを聞いたことがある。「時代」に、というのは様式的に、「世話」で、というのは、日常的な感覚で、という意味にいまさしあたりは受けとめてもらっていい。

どちらが正しいのか、という問いには、にわかには答えようがないが、梅幸が実際に両方の言い方をしてみせるのを聞きながら、ずいぶんと印象が変るのに驚いた記憶は忘れがたい。様式に関する思想の違い、とさっき言ったが、さらにいえば、これは、歌舞伎というものに対する考え方の違いが背景にある。ひとつ想像がつくのは、この場合、羽左衛門の様式本位の行き方よりも、様式の中の写実性を主張する菊五郎の見解の方が、弁天小僧の初演者である父の五代目菊五郎の行き方に准じるものに違いないということである。つまり、菊五郎の方が、古くて新しいのだ。

似たようなことを、私は前に、同じ黙阿弥の『三人吉三』で、梅幸と現菊五郎のお嬢吉三の演じ方の違いに感じたことがある。序幕の「大川端百本杭」の場で、夜鷹のおとせから百両の金包みを奪って川に蹴落とすと、右足を棒杭に乗せて「月も朧に白魚の篝火(かがり)も霞む春の空」にはじまる有名な厄払いのセリフを謳いあげるところで、現代のお嬢役者である菊五郎は、右足を棒杭にかけてはっきりとひと呼吸おいてから声のトーンも変えてセリフにかかるが、最晩年に久しぶりでお嬢吉三をつとめたときの梅幸は、棒杭に足をかけそのままの流れの中で「月も朧に白魚の」と厄払いのセリフを言いはじめた。ここでも、先ほどの弁天小僧の場合と共通するものを思わざるを得ない。

そのとき私が思ったのは、おそらく、こうした違いの背景には、歌舞伎を取り巻く時勢の変化というものも関係しているに違いないということだった。時代の中の歌舞伎のあり方と言い直してもいい。ひと口にいえば、日本人の生活の様態が激変したこの半世紀が、現実の生活の中から歌舞伎の、とりわけ世話物と共有していた部分の多くを断ち切ることになったことの反映といっていい。デフォルメに独特の誇張のある化粧や衣裳・鬘、厄払いやツラネのような七五調の詠うようなセリフ、舞いの手や儀式の作法を思わせるような身仕舞いや仕草といった、エトランゼが「歌舞伎的」と捉えるたぐいの様式性は、しかし実は、それまでの日本人の生活の中にあるものと、どこかでつながるものを失っていなかった。和服を着、畳の上で立ち居をすれば、その立居振る舞いには、世話狂言で見るような仕草や生活と、おのずから通底するものが実感される。歌舞伎の様式は、デフォルメはなされていても、日本人一般の生活の様式と、紛れもなくつながっていた筈である。

だが日本人の生活様式が、ある限界点を越えて根本的な位相から変わり、そのつながりを失ったとき、歌舞伎の様式を見る目は、ひとつの新奇なデザインを見る目に変る。歌舞伎の様式は、ア・プリオリにそこにあるひとつのデザインとして承認される。当代の菊五郎のお嬢吉三がはっきりとひとつの様式として「月も朧に白魚の」と謳い上げるとき、それを支持する観客の歌舞伎感を、菊五郎はすぐれた演技者としての直感で探り当てている筈である。梅幸は梅幸で、戦後というひとつの時代の観客の歌舞伎観を、同じように探り当てていた筈だ。

その「梅幸のおじさん」から教わったお嬢吉三のやり方というのを、勘三郎が私の目の前でやって見せてくれたことがある。座談の中でのほんの一筆書きのようなことだったが、おとせを突き落としてから片足を杭にのせて厄払いのセリフにかかるまでを、勘三郎はつと立ち上がると、ひとつの息の中でやってみせた。御園座での十八代目襲名披露の弁天小僧を見ながら、私はそのときの光景をダブらせていた。

これを、歴史は繰り返すといったのでは、あまりにも紋切り型の言い方に過ぎるだろう。十五代目羽左衛門と六代目菊五郎の違いという、古くから歌舞伎の中に内在していたふたつの歌舞伎観とも関わりながら、戦後(という言い方がすでにひとつの歴史上の用語と化しつつある)六十年を超える時間の中での歌舞伎を取り巻く社会の変容とも関わりつつ、いま私たちは当代の菊五郎の弁天小僧を見、勘三郎の弁天小僧を見ている。ふたりの芸風や歌舞伎観を反映しながら、同時にそこには、私たちの生きる現代の社会の在り様を映している歌舞伎がある。

勘三郎の弁天小僧は、いうまでもなく、ただ六代目菊五郎以前の歌舞伎に本卦帰りをしたのではない。勘三郎は、祖父六代目菊五郎がそうしていた、というだけではなく、もう一度、様式の根源にあるはずの、あったはずの、現実感、生命感を甦らせる試みをしているように、私には見える。そこに勘三郎の感性が探り当てた現代性がある、と私は考える。そうしてこのことは、のちに語ることになる、串田和美と提携して演じた『三人吉三』や『四谷怪談』で和尚吉三や直助権兵衛をつとめたこととも、関わりを持ってくる。

当代菊五郎の弁天小僧と勘三郎の弁天小僧と。保守と反保守はめまぐるしく入れ替わり、いまとなってはどちらが保守でどちらが反保守なのか、容易に見分けがつかない。そこには、社会の中での歌舞伎が、あるいは、現代の日本人の歌舞伎に対する姿勢が、乱反射しながら反映しているからだ。

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随談第500回 勘三郎随想(その27)

32.「ふ」の章

大分間が開いてしまったが、またまた勘三郎随想を続けることにしよう。

たとえば平成七年、一九九五年という年は、いま話を続けている十八代目の芸の在り様を見る上で、じつに興味深い年だった。いまにして思えば、勘三郎三十九歳のこの年は、その役者人生の転機に差し掛かろうという季節であったことが見えてくる。

若衆方というところに勘三郎の芸の故郷を見て、そこから多様多彩に自分の世界を広げてゆくさまを見ていこうとするとき、この年に演じた役々から、いまこの文脈に沿って興味をひく役を拾い出してみると次のようになる。

この年、一月には歌舞伎座の『助六』で白酒売を演じ、新橋演舞場に掛け持ちして新派の『鶴八鶴次郎』で鶴次郎をやっている。三月には『菅原伝授手習鑑』で桜丸、四月の名古屋の御園座では三島由紀夫の『鰯売恋曳網』の猿源氏と『本朝廿四孝』の勝頼に『白浪五人男』の弁天小僧と青砥左衛門で、このうち猿源氏は六月に、弁天小僧と青砥は八月にこの年六年目を迎える納涼歌舞伎でも演じている。この月は『五人男』のほかに、僚友の三津五郎が初役で演じる『熊谷陣屋』で義経をつき合っている。九月の歌舞伎座では『菊畑』で虎蔵、團十郎の『若き日の信長』で木下藤吉郎を、いまも目に残る闊達で巧妙な若き日の藤吉郎像を描き出している。十月の歌舞伎座では『先代萩』の頼兼に『娘道成寺』を踊った後、月末に第四回の勘九郎の会で『合邦』の玉手御前を演じ、十一月の南座では『鏡獅子』の他に『鎌倉三代記』の三浦之助に『仮名手本忠臣蔵』九段目の力弥、十二月の歌舞伎座では『野崎村』のお光といった具合である。

この中で、若衆方に属する役としては、桜丸、勝頼、弁天小僧、虎蔵、三浦之助、力弥ということになるが、『助六』の白酒売など和事系の役も当然その延長にあるし、そのほかの役々も、勘三郎の芸の水脈を辿る上では、ごく近いところにあるものだといえる。たとえば『鰯売』の猿源氏は、新作歌舞伎ではあっても勘三郎の身体にある和事味があってこその佳作なのであって、和事が身体にない俳優が演じたのでは、作者が元禄かぶきの趣味を活かそうとした古典味は表わせず、ただの喜劇になってしまうに違いない。いうまでもなく、その和事味とは、若衆方とすぐ隣り合い、重なり合うものである。『熊谷陣屋』の義経にしても、ある種の冷徹な感覚も隠し味としては必要だが、特別な解釈をほどこすのでない限り、歌舞伎の義経という一定の役柄としてつとめるのが通例であり、和事の感覚を持つか持たないかで大きく左右される。つまり、六年前から始まっていた八月の納涼歌舞伎の主軸として、歌舞伎ブームと呼ばれる好況を招いた功績が物を言って、すでに歌舞伎座をはじめとする本興行の第一線に躍り出たこの時期、勘三郎に与えられた役どころがこれらであったということになる。

たとえば白酒売は、歌舞伎座の初春興行での大顔合わせの『助六』の中で与えられた役であり、またその重責に見事に応えるよきものだった。同じ和事でも、上方の和事とはニュアンスが違う。和事らしい柔らか味や色気の中にもさっぱりとした歯切れのよさがあって、それはやがて、『源平布引滝』の実盛のような、生締物と呼ばれる義太夫狂言の颯爽たる二枚目の役や、『源氏店』の与三郎などの江戸の世話狂言の色男たちの粋な色気へとつながってゆく。このときの助六は團十郎だったが、役の上では助六の兄である白酒売として、團十郎と共に華やかな陶酔感に引き込んでゆく推進力となっていた。つまり、歌舞伎の第一線俳優として充分な実力を示したのである。

そうした多彩さの中でも、若衆方の役の数の多さが目立つのは、この時点での勘三郎の役どころとして自然な成り行きであったかも知れない。三浦之助などは、国立劇場で毎夏つづけていた「杉の子会」という勉強会で十七歳のときに演じた役だった。『鞍馬獅子』を猿之助と踊った翌月である。

これらの、この年に演じた若衆役の典型といえる役々の中では、三浦之助以上に、桜丸がすぐれたものだった。このときは『菅原』を昼夜通しで上演したので、「加茂堤」「車引」から演じたが、とりわけ「賀の祝」の桜丸の、古風な歌舞伎味が傑出していた。二〇世紀もあと数年で終わろうとしているこの時代に、それはむしろ奇蹟に属することであったといえる。勘三郎よりひと足ふた足先んじて売り出した先輩世代まで含めても、若衆役でこれほどの古風な感触をもつ役者は、他に考えられない。それこそが、父十七代目を経て、見たこともない祖父である三代目歌六へとつながる、役者の血を考えたくなるものだった。勘三郎自身としては、祖先というなら、歌六よりも、母方の祖父である六代目菊五郎の方を強く意識もし追慕してもいたろうが、ここでは、そのことは少し異なる文脈で語るべき事柄である。むしろ、勘三郎自身は意識していないことであるかも知れない。新しくて、同時に古風な役者という、勘三郎に抱いている私のイメージが形づくられたのは、このときの桜丸が契機であったともいえる。

桜丸は、登場するとき既に死を決意している。正面奥の暖簾口から悄然として出て、そのまま舞台中央に坐ると、もうそのまま動くことはない。すべては、自分の犯したあやまちを詫びて腹を切ることへの万感の思いと、春の夕暮れに若くして死んでゆく若者の愁いを、見る者の心に届けるだけにかかっている。桜丸は牛飼い舎人(とねり)という身で、自分の仕える斉(とき)世(よ)親王と菅丞相(かんしょうじょう)の令嬢の刈屋姫の恋の取り持ちをし、それが政敵に口実を与えて丞相失脚の因となった。桜丸は八重という女房のある妻帯者だが、それにもかかわらず前髪をつけた若衆の役として造形するところに、歌舞伎の「思想」と「美学」がある。八重も、人妻であるのに娘のように眉を描き振袖を着る。ふたりとも、恋のために生き、恋のために死んでゆく役だからである。

役柄という類型は、現代人の考える類型のような、無機的でも空疎でもなく、たくまざる人間洞察を秘めている。それはときに、近代人の分析的思考の及ばない深みにまで到達する。勘三郎の桜丸は、暖簾を分けて姿を現わし、右手にもった刀を杖に佇み庭先の桜木に目をやる、その春愁の憂いを古風なたたずまいにくるんでいる風情が見事だった。風情というと曖昧なようだが、その風情にくるまれて、桜丸という若者の全貌が浮かび上がってくる。それは、どう犀利に分析のメスを揮おうと、表し切れるものではない。

戦前からの歌舞伎を知悉し、克明なノートをつけていた老巧の劇評家志野葉太郎さんは、このときの勘三郎の桜丸について、六代目式に内向するやり方になるのではないかという心配は杞憂に終わって、和らか味のある言い回しに詩情があふれ、沈潜した中にも美しさが匂い立つよき桜丸だったと評している。

後に述べることとも関連してここでちょっと説明が必要なのは、志野さんが、「六代目式に内向するのではないかと心配」したという一事である。この六代目というのは、もちろん勘三郎の母方の祖父である菊五郎のことだが、大正から昭和戦前の歌舞伎をリードした六代目菊五郎は、同時に、一方における歌舞伎革命の旗手でもあった。とりわけ、人形浄瑠璃の作の歌舞伎版である丸本歌舞伎の役について、近代人の感覚や考え方に沿った新解釈を新しい型として巧みに工夫した新演出が、今日の歌舞伎に規範として確立している例も少なくない。新演出とはいわないまでも、近代的な心理主義を盛り込んだ演技で、時代の共感を得た例もまた少なくない。

しかしそれは同時に、一面からすれば、ときに古典主義的な美学と矛盾をすることにもつながる。若き日には劇評家として歌舞伎に通暁していた正宗白鳥は、こうした菊五郎の行き方を歌舞伎の現代語訳であると評した。志野さんがこのときの勘三郎の桜丸について言ったのは、祖父を崇拝する勘三郎が祖父に盲信的に追随せず、この芝居この役にふさわしい古典主義的な行き方を選択し、それによって成果を挙げたことに対する賞賛だった。

もっとも、六代目菊五郎の近代的新解釈に関するこの問題は、じつは、ふつう考えられるほど、簡単に割り切れる問題ではないように私には思える。少なくとも、様式的な演技の方が古典的で、写実の方が近代的と割り切れるほど、ことは単純ではない。白鳥等のいう古典主義とは、じつはしばしば、上演が繰り返され、演じ重ねられる間に生まれた、その後のコンヴェンションとも複雑に絡み合っているからだ。古いと思った演じ方の方が、じつは後になってから出来たものであったり、つけ加えられたり変更されたりした結果であったりする。新解釈が、時として古典復古の試みであったりすることもある。少なくとも菊五郎にとっては、世人の言うところの六代目の新解釈とは、基本的には、様式や約束事の根元を問うことと、ひとつのものであったように、私には思える。そうしてこのことは、のちに勘三郎が行なう新奇ともいえるさまざまな試みとも、深く関わってくる問題でもある。

ところで、この桜丸にもまして、この年の勘三郎で最も鮮やかな印象を残しているのは、八月の納涼歌舞伎で通し狂言として演じた『白浪五人男』の弁天小僧である。それは、この時期に勘三郎がその存在を歌舞伎界に、また歌舞伎ファンの間に派手やかに示した、一大アピールだった。

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随談第499回 今月の舞台から

歌舞伎座の『義経千本桜』は大顔合せならではの大歌舞伎である。知盛を吉右衛門、権太を仁左衛門、忠信を菊五郎という配役は、今日能う限りのものと言って憚らない。

吉右衛門の知盛は、これまで私は、必ずしも芸質に会ったものとは言い切れないものを感じていた。剛直に押してゆくという芸風ではないからだ。昭和57年の暮だったかに、当時まだ30代だった團十郎(まだ海老蔵時代だ)の知盛に感じ入って以来、この役は團十郎だという思いがあった。今度の吉右衛門を、團十郎と比べてどうのというのではない。しかし、銀平のうちにせよ知盛になってからにせよ、音遣いに間然するところのないセリフは圧巻というほかはない。銀平の世話調子は、達者な演者であるほど、ともすると黙阿弥風に傾きやすい。あれだけ立派だった先の松緑にして、そのきらいなしとしなかった。だがこのたびの銀平のセリフは、見事に丸本時代物狂言の世話の声であり、調子である。知盛も、とかくダレがちな三悪道のせりふも聞きごたえがある。入水の量感も充分。比類なき知盛と言って差支えないのではあるまいか。

仁左衛門の権太が、「木の実」で、サウスポーで石を投げたのでオヤと思ったら、右肩を痛めているため11月以降休演という発表があった。そういえば桶を抱える花道の有名な形も何だかもこもこして変だと思っていた。三津五郎に続いてのこの報には、いかなる天魔の魅入りしかなどと軽口を叩いてはいられない。今の歌舞伎には、冗談を言っていられるだけのゆとりがないことが、誰の目にも見えてきている。

しかしこの権太はよかった。何より、生動感に溢れている。基本的には延若のやり方を踏襲しているかに思えるが、首を布に包んだり、褒美の陣羽織を羽織ったり頭からかぶったりは、おそらく仁左衛門自身の工夫だろう。手負いになって善太の一文笛を息も絶え絶えに吹く呼吸に、えも言えない悲痛美があって、しかもそれが全篇を象徴するかのようである。

菊五郎の忠信は、「吉野山」でスッポンからせり上がった一瞬にすべてがある。あの一瞬で、勝負あった、である。絶対の仁とはこのことであり、そこに菊五郎という人の値打ちがある。

と、こういう三人を置いておいて、梅玉の義経の程の良さというものは、伊達に役者はやってはおりませんと暗に語っているかのようだ。この人はいまや、名大関なんだなあ、とつくづく思う。「名大関」というものは、単に横綱のワンランク下の位というものではなく、並みの大関とは別の特別の「格」なのである。吉・仁・菊と三枚揃ったところに梅玉を置くと、なんとも絶妙の均衡が生まれる。名大関たる所以である。

芝雀の典侍の局を見ながら、いまこの芸の旬の季節にあるときに、雀右衛門襲名ということが考えられていい筈だと思った。これほど、何をさせても高いレベルで安定した実力を見せる人は他にはない。プロ野球なら、毎シーズン常に3割をキープして打撃十傑に顔を連ねている好打者のごとき存在であろう。

序幕の「鳥居前」を花形連だけで固めたのは、ひとつのアイデアとしてよかった。もっとも、お蔭で静の役など、「吉野山」「川連館」と三場面で三転することになったが、これは半無精などというものではなく、大顔合せのときにこういう配役が出来る融通無碍も歌舞伎の手の内と考えていいのである。その一人梅枝は、「鳥居前」では女形ということに意識が先んじたのか、妙に神妙になりすぎて生気がない。もう一役の小金吾で本領発揮、凛とした中に憂愁の風情があって、並みの小金吾たちとはひと味、いや、ふた味違う。

          *

幸四郎が国立劇場で熊谷を「陣門・組打」から「陣屋」まで通したが、幸四郎の時代物として、昔の劇評家風の言い方をするなら、結構頂ける、と思った。「陣屋」より「組打」の方がいいのは、(ご自身はどう思っているかは別として)「理」よりも浪漫の人なのだ。何故かあまりやろうとしないしあまり言われないが、私が密かにこの人の傑作だと思っているのは『毛剃』の九右衛門で、長崎弁と異国訛りがちゃんぽんになったようなセリフがこの人の口跡にぴったりだし、異国風俗などのちょっとバタ臭い風情が、誰よりも似つかわしかった。国立あたりで『博多小女郎浪枕』として通して出すといいと思う。間違いなく、当代随一であるはずだ。あまり他に仕出かした人がいないだけに、成功すれば後世に残る仕事になる。祖父七代目もよかったというから、「家の芸」にすべき仕甲斐ともなるだろう。

先月の『不知火検校』は原作へのアレンジの仕方に疑問があってもう一つ腑に落ちなかったが(自負していたほど絶賛の声が高まらなかったのでご機嫌がよくなかったとか、風の便りに聞いたが真相は知らない。でもこういう役者気質は、ユーモアがあって好感が持てる)、悪僧ぶりはなかなかのものだった。私はこの人の敵役をもっと見てみたいと思っているから、不知火検校のようなものに関心を寄せてくれることは有難いことである。

と、さてそこでだが、三津五郎の休演で、歌舞伎座の十二月の『忠臣蔵』の師直役が海老蔵になった由だが、私は、実は密かに、幸四郎の師直が見たいと思っていた。大星と二役は大変だろうが、この際、大奮発してくれてもいいとさえ、勝手ながら思っていた。十一月の方も、仁左衛門の休演で「四段目」の大星が吉右衛門に変ったために、播磨屋の師直が見られなくなってしまったのが残念である。師直で兄弟競演という夢は、私はまだ捨て切れない。

海老蔵の師直にも興味はあるが、しかし(これは正論として言うのだが)いまの海老蔵には、師直よりもまず、大星を先にさせるべきである。七段目はともかく、四段目ならなおさらだ。海老蔵の大星に幸四郎の師直なら、見たいではないか。

          *

衒いでも勿体をつけて言うのでもなく、永いこと歌舞伎を見ていると、嫌いな役者というものがなくなる。長い間には、皆だれしも、何かいいところを持っていることが分ってくるし、もちろん情もうつる。普段小さな役をやっている役者がときにいい役にめぐまれれば、声援のひとつも密かに掛けながら舞台を見守ることも珍しくない。

今月の「熊谷陣屋」で友右衛門が義経をやっている。オヤ、と正直なところ思ったが、考えてみれば三津五郎休演の煽りで巡ってきた大役なわけだ。ここで仕出かしてくれれば、役の上だけのことでなく、役者としてひとまわり大きな役者に脱皮できる機会ともなろう。期待して見たが、まあ、めでたさも中ぐらいといったところか。先月の『不知火検校』でつとめた、富の市に計られて犯される魁春のやった旗本の女房の夫の役など、友右衛門のよさが出ていて、ちょっとしたものだった。却って新作物などの方が、性格俳優的な特性を発揮しやすいのかも知れない。

友右衛門に限らない。高麗蔵の藤の方にせよ、松江の堤軍次にせよ、笑也の玉織姫にせよ、歌舞伎座でなら、秀調の川連法眼の妻飛鳥にせよ、その他その他、皆、一定のところまで来ていながら、なかなか殻を破ってそれ以上に浮上してこない。こうした役は邪魔にならないことが肝要だから、と言ってしまえばそれまでだが、どうもそればかりが原因ではないような気もする。

          *

三越劇場の新派が面白かった。失礼ながら想定外の拾い物である。尤も、想定外とは即ちこちらの認識不足の裏返しであり、拾い物とは読みの不充分さの半面でもある。月之助・春猿・笑三郎トリオの実力を甘く見ていたともいえる。即ち、ゴメンナサイ、である。

また一面それは、『婦系図』という芝居が良くできた芝居であることを、今更ながら再認識させられたことでもある。脚本の巧さ、ほとんど「型」ともいうべき演出、繰り返し上演されてきたが故の(誰が演じようともはや揺るがぬまでに練り上がった)完成度の高さは、同じ新派名作といっても、先ごろの『金色夜叉』などとは比較にならない。

とりわけ「めの惣」がよかった。余所事浄瑠璃ならぬ余所事長唄の『勧進帳』を使って芝居が進行する巧さは言い古されたようなものだが、それに祭の囃子を織り交ぜる具合が何ともうまくできている。下座、いや劇場音楽を演出に生かす上での模範のようなものだ。義経に見立てられた妙子が「海津の浦に着きにけり」で座布団に座るところからはじまって、劇の進行の寸法・長唄の詞章と劇の状況の関わりといったことが重層的に表わされる。もっともそれは、妙子の瀬戸摩純の好演があってこそ立ち現われてくる効果ともいえる。

お蔦の春猿も小芳の笑三郎も、過去にこの役々をやった誰彼と比べてどうのということでなく、ドラマとしての感動を生み出している。他の場ならまだしも、「めの惣」の小芳とお蔦をこれだけやれたというのは、ただ者ではない。

それにしても月之助も合せてのこの三人、今更のようだが思えば不思議な役者である。彼らがいなければ今の新派にこれだけの『婦系図』ができたろうか。脇役をつとめる新派の俳優たち(それは、皆、大したものだ。いま、これだけのプロフェッショナル集団が他にあるだろうか?)とうまく反りを合わせつつ、独自の色合いを出している。序幕の飯田町の隠れ世帯の春猿が、見慣れた新派の芝居の色合いとしてはてらてらするのが気になりながら、ふと、昔風の新派の芝居の絵看板を思い出させたりもする。そこらの微妙な兼ね合いがふしぎな魅力となっている。

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新国立劇場で『エドワード二世』を見る。シェイクスピアの先達としてのクリストファー・マーロウの作は、むかし英文学史の授業で聞いて以来、名のみ知りながら実際の上演を見るのは初めてだが、なかなか面白かった。シェイクスピアの史劇が、歴史をさっさっさっと、要所要所をかいつまんで押さえながら足早に運んでゆく手法といい、マーロウの丸取りであったことがよくわかる。違いはただテイストにあって、シェイクスピアに比べるとタッチがきつく、味は辛口、というより味もそっけもないまでにハード・ボイルドであるという、その分、見終わって劇場を出る母と娘が「よかったわねえ」と芸術鑑賞の余韻に顔を上気させながら帰路に着く、というような光景にはなりにくいかもしれない。

今度の森新太郎演出が、ギャヴィストンの扱いに典型的にあらわれるようにかなり過度に喜劇的なアクセントを濃い味でつけているのは、明快なメリハリをつける上では成功だったともいえるが、半面、このやり方だと、わかりやすい代わりに含みというものがなくなるから、人物像が良くも悪くも単純になるきらいがある。がまあ、本邦初演(か?)としてはこれでよかったろう。それと、現代服でシェイクスピアやマーロウをやるのはいまでは常套となっているが、このやり方にも、そろそろ反省があって然るべきではあるまいか?

それにしても、シェイクスピアにせよマーロウにせよ、内面描写だの心理描写だのという、近代個人主義の生み出した、ウジウジした人間観には無縁であるところが、今日の目から見ると実に爽快である。外面と行為だけを描きながら、人物の全体を捉え、見る者に突きつける。三島由紀夫ではないが、「書くべきことは古典の中に既にみんな書いてある」のだなあと、こういうものを見ると改めて思う。歌舞伎だってそうだろう。内面をうじうじほじくり返すのが新しい、という考えから、我れ人共に、そろそろ脱却したいものである。

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シアターXで三宅大輔作『月夜寒』というのを見た。川和孝氏が続けている「日本近・現代秀作短編劇一〇〇本シリーズ」という、一九九四年からほぼ年に二回、一時間足らずの短編を二本ずつ上演して今回が第三七回、もう一本の大島萬世の『貰ひ風呂』が七五本目、『月夜寒』が七六本目という、おそるべき息の長い仕事の一環である。

三宅大輔といえば、読売巨人軍の初代の監督であり、私などの少年時代には野球評論家として「ベースボールマガジン」などに子供には何やら難しそうな文章をしょっ中書いていたから、その名はかねて聞きつらん、という人物で、その人が歌舞伎批評家三宅三郎や女流劇作家三宅悠紀子の実の兄だと知ったのは後の事、帝劇創設に関わった実業家三宅豹三の子と知ったのは更に後の事になる。六代目菊五郎が戦前の早慶戦華やかなりし頃に慶応びいきだったことから親しくなり、大輔作の脚本が一度ならず、歌舞伎座の本興行で六代目が演じて上演された、という辺りまでは知っていたが、実際に作品を見たのは今度が初めてである。

『レ・ミゼラブル』発端のミュリエル主教にジャンバル・ジャンが感化され、悔い改めるに至る挿話を換骨奪胎した書換え狂言なわけだが、古色は免れないにせよ、きちんと劇作の骨法備わり、じっくり見ていれば今でも鑑賞に堪える。同じ六代目菊五郎所演作でありながら、小山内薫のやはり西洋劇の書換え狂言である『息子』などは、作者の名声のお蔭でたまには上演されるが、こちらは今度埃が払われるまでは埋もれていたわけだ。しかし私には、少なくとも『息子』より劣るものとは思われなかった。つまり三宅大輔は、私が何の根拠もなく独り決めに思い込んでいたような、お道楽で脚本を書いたアマチュア作家ではなく、きちんと劇作を志し、実作を書きためていた、れっきとした劇作家のひとりだったのだ。

以前、東京ドームの中にある野球博物館で、慶応時代の三宅大輔使用のバットというのを見たことがある。グリップのところに、何と呼ぶのか、小さな突起がついている。あれは何のためについていたのだろう? おそらくあれは、「ベースボール」がいまの「野球」に進化する、ひとつ前の時代の遺物なのに違いない。

          

帝劇で『エニシング・ゴーズ』を見たが、テーマといい音楽といい、近頃何やら難しくなったミュージカルが、そうなる前のアメリカン・イノセンスを衒いもなく見せていた時代の気分の何分のかにせよ、味わうことができた。同業者諸氏の口々には、本邦初演のときの大地真央に比べたら・・・といった意見が大方のようだったが、まあ、それはそうにしても、ミュージカルというものは本来こういうものなのだ、という良き昔の何がしかに触れることが出来ただけでも、近頃喜ばしいことである。

アメリカ人というのは、やはりこういうイノセントなものを作らせると堂に入っている。もっともこの中にだって、ルカとヨハネという、どう見ても東洋人蔑視という批判はまぬがれ難そうな人物が登場しているわけで、危うい火種は蒔かれているのだが。

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随談第498回 このところのあれこれ

先月になるが、NHKの番組に二つほど、ヒットがあった。ひとつは大相撲中継の七日目、昭和29年と32年の3月の大阪場所の映像が、取組の間を縫って流れ出した。かの力道山が桟敷席から自ら撮影したフィルムだという。東富士や鏡里の土俵入り、まだ大関時代の栃錦と鏡里戦、朝汐、千代の山、信夫山その他その他がそこに映っているいる。それから大岩山の弓取り。しかもこれがカラー映像で、色もまだ鮮度を保っている。日本ではまだカラー映写機というものがなかった時代にアメリカで手に入れたのだというが、昭和29年の3月場所といえば、力道山がシャープ兄弟というレスラーを連れて来て日本の観客の前ではじめてプロレスというものをやって見せて大評判となった、その直後である筈だ。没後50年に当り遺族から寄贈されたものというが、解説に北の富士氏と元黒姫山の武隈親方を招いたNHKの人選もよかった。誰かさんの言い草ではないが、よかった、感動した。こういう映像の力というものは、何ものにも代えられない。

もうひとつは、「おもいで映画」(だったか)という特集番組で、戦前、アマチュアのカメラ好きが家族や街の情景を当時の8ミリの映写機で撮影した映像のさまざまを見せるというものだった。戦後もしばらくまで、8ミリ好きの親戚のおじさんなどと言う人がどこの家庭にも一人ぐらいはいて、暗幕をめぐらせたり雨戸を閉めたりして、ご自慢の映像を見せるのにお付き合いさせられたという経験は、大概の人が持っていたものだった。だがそれも、こうして歴史を語るものとしていま改めて見ると、何と雄弁な歴史の語り部になることか。

どれも思わず嘆声を発しながら見たが、とりわけ心に沁みたのは、最後に放映された、元検事長だかの一家の映像である。昭和6年ごろから12~3年ごろまでだろうか。廣田弘毅首相の秘書官までつとめた人というから、めぐまれた一家には違いないが、そうしたことを吹っ飛ばして余りある。とりわけ、映像には4~5歳ぐらいの少女として映っている長女の人が、14歳で長崎で被爆しながら、80有余歳の上品な老婦人となって登場して、いまはもう滅多に聞かれなくなったような品のいい言葉遣いとたたずまいで往時を語る様子に、別に哀しいことでも何でもないにも関わらず、覚えず涙が溢れるのを禁じ得なかった。そこには間違いなく、かつての日本にあった、古き良き日本人の姿があった。ああいう品の良さというものは、あの世代の方々がいなくなったら、もう永久に見られなくなるに違いない。

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歌舞伎座を見た翌日、神宮球場へヤクルトの宮本選手の最終試合を見に行く。ヤクルト=阪神戦だが、早くに用事が片付いたので試合開始1時間半前に球場に着いたときはもう大変な賑わいである。試合そのものは、ヤクルトの貧打のためにあまり面白いという展開ではなく、バレンティンの60号ホームランが出たのと、宮本の美技と、最後の打席で、ひと頃のようにラッキーゾーンがあったらさよなら本塁打になっていたかもという大飛球があったのが、おなぐさみというところだったが、それにしても改めて思うのは、こうして、阪神側も併せほぼ満員という人数が集まり、心から楽しんでいる人達がこんなにもいるのだ、という事実である。Jリーグの試合というのはまだ見たことがないが、凡その想像はつく。これを善男善女と評するのはいかにも上から目線めいてしまうが、地方都市ひとつの人口に匹敵する人数が球場なりサッカー場というコンパクトな場に集って、善人も悪人も、君子も巾着切も、老若男女ありとあらゆる人士が一球一打に一喜一憂する情景というものは、思えば感動するに値する。

今年の野球界は、ヤクルトの宮本だの広島の前田だの、中日の山崎だの西武の石井だの、(日ハムの稲葉はどうなるのだろう?)、名選手と呼んで然るべき面々がいちどきに引退する。桧山などというのも、あれで阪神の四番かと言いたくなるような何だか頼りなげな四番打者だったが、代打専門になってからは、なかなかいい味を見せるようになった。山崎だって、はじめ中日にいた頃はただの力持ちのクマさんだったのが、いろいろ苦労して楽天に行ってから、同じクマさんでもなかなか趣のあるクマさんに変貌した。役者でも何でも、年功というもののオソロシサである。(先月の『陰陽師』の團蔵など、歳を重ねてそれなりの味が出てきたのには、ホオという感じだったっけ。)

それにしても、皆、90年代からの選手たちである。これで、20世紀の野球人はほぼいなくなったに等しい。

   秋風や二〇世紀も遠くなり

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秋場所は、最後に白鵬が片目パンダみたいな顔になって優勝して終わった。優勝争いという観点からすれば二流、むしろ三流の場所だったが、見る目次第では、決してつまらない場所ではなかった。たしかに、本場所というものは優勝争いを中心に展開してゆくものには違いない。しかし、大関陣が優勝に関わらないのがけしからんだの、外人力士ばかりでつまらないだのと、同じ念仏を繰り返している人たちというのも、私から見れば気が知れない。優勝を一度もしなかった名大関だって、あったではないか。

評判の遠藤は、夏場所の初日を見に行くために秋葉原の総武線ホームで乗り換えの電車を待っていると、すぐ後ろに来て並んだ散切り頭の力士がいて、それが遠藤だった。(つまり両国までの二駅間、遠藤と道行をしたわけだ。)あれはまだ入門二タ場所目だったわけだが、すでに力士らしい色気があり、自然に振る舞っているのに雰囲気があって、頭はザンギリでも一人前の力士としての風格を備えていた。旭天鵬を立会い一瞬に前まわしを引いて鮮やかに投げ捨てるような切れ味を見せるかと思うと、臥牙丸などに立会いから圧倒されてしまったり、まあ、それで少しほっともするわけだが、それにしても、最後の二日間休場したからといって、なぜ遠藤に敢闘賞をやらないのだろう? 既に勝ち越しどころか9勝も挙げているのだから、事実上、場所を全うしているのも同然だし、それまでの13日間、遠藤ほど注目と話題と喝采を独占した者はいないのだ。内容からいっても、当然、敢闘賞をやるべきだった。(かつて輪島が、千秋楽に休場してもなお優勝したことがあった。優勝にして然り、まして三賞に於いておや。)しかも代わりに敢闘賞を貰った松鳳山は、その遠藤に不戦勝して七勝、翌日ようやく八勝できたのだ。三賞選考委員会は最近、該当者なしを頻発したり、少し考えが窮屈すぎる。委員会の実際を全く知る由もないままに、最近の授賞の在り様から受ける印象として言うのだが、誰か有力な少数の意見に振り回されているのではないかしらん、と言ったら言い過ぎかな? 基準を厳しくするのは結構だが、その理由づけにはある種の「癖」が感じられ、しばしば首をかしげたくなる。

今場所は、遠藤だけでなく、嘉風とか、最後になって安美錦まで、好調を維持していい相撲を取っていた力士に限って負傷休場というのが続いた。むしろそのことが、場所の興趣を殺ぐことになったといえる。安美錦の場合は、琴奨菊の寄りを回り込んで残そうとしたときに行司と接触して逃げ場が狭められたために土俵際に詰まり、こらえようとして膝の故障を悪化させたのだが、今場所はこの他にも、行司が力士と接触して転ぶという場面が、私が目撃しただけで三度もあった。すべてが行司の責任というわけではないが、見苦しいとか何とかいうことより、行司の所作の良し悪しが、安美錦・琴奨菊の一番のように勝敗の行方にも影響を及ぼすことにもなる。

それにしても、一に安美錦、二に隠岐の海、三に豊ノ島を楽しみに見ている私としては、隠岐の海が七勝七敗で勝ち越しと小結をかけ、安美錦が九勝五敗で三役復帰をかけた千秋楽に両者の対戦となって、皮肉なことになったと思っていたら、上のようなわけで安美錦が不戦敗になってしまった。遠藤に不戦勝して勝ち越し敢闘賞を貰った松鳳山の場合とともに、皮肉な巡り合わせである。(その松鳳山が千秋楽に八勝目を挙げた相手が豊ノ島というのだから、因果の糸のもつれは麻の如くである。)

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それにしても、国技館にしても野球場にしても、どうしてあゝも、途中で席を立つのだろう? それもプレーや取組の進行に関係なく、だ。野球でも相撲でも、ひと区切り、という箇所が必ずある。立つならそういう時を見計らって立つべきだろうに、時間一杯になってから、打者が打席に入ってから、辺り構わずひょいと立ち上ったりする人が切りも止まない。あゝいう人は何を見に来たのだろう? 自分が急所や勘所を見逃すのは勝手なようなものだが、隣り近所の席で見ている者はたまったものではない。そういえば近くにいたオジサンも、バレンティンが60号を打った瞬間を見逃していたっけ。

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評判の「半沢直樹」なるものを、最後の3回だか4回だかだけ見た。ドラマそのものよりむしろ、愛之助や中車の演じる敵役の官僚や銀行家が見ものだと聞いたので、見ておこうという一種の職業意識からだったが、ドラマそのものも、初めから見ていればきっともっと面白かったのだろう。それにしても、ラストが勧善懲悪に終わらなかったので視聴者から大ブーイングが起こったのは、黙阿弥の言った「三親切」の教訓はいまなお有効性を失わないと見える。それはともかく、たしかに、愛之助にしても中車(というべきか、ここでは香川照之というべきか)の大芝居ぶりは一見に値した。まさにテレビ版大歌舞伎というべきか、現実の歌舞伎でだってあんな大芝居というものは見られるものではない。二人とも、いかにも愉しんでやっている様子がなかなか頼もしい。歌舞伎の俳優が映画・テレビや他ジャンルに出る是非を言う人がいまも絶えないが、これだけ、自ら愉しみ、一般視聴者にも歌舞伎俳優の演技力を示して見せたのだから、これは大いに結構でしたと言うべきである。

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畏友池央耿(この字が文字化けしませんように。耳偏に火と書いて「あき」または「こう」と読ませる。つまりヒナツ・コウノスケの「コウ」であり、池さんの場合はイケ・ヒロアキである)さんから、光文社古典新訳文庫から出したギッシングの『ヘンリー・ライクロフトの私記』の新訳をいただいたのをよい機会に、ぽつりぽつりと読んでいる。新訳が出なかったら、こういうものを今頃になって読むことはまずなかったろうから、既にそれだけでも、池さんに感謝しなければならない。岩波文庫には昭和21年と、36年と二度入っている。戦前の旧制高校や大学では英語のテキストの定番だったようで、子供の頃、我が家の本棚にもあったのを引っ張り出したのを覚えている。ギッシングというイギリスの文人の名前も、たしかそれで覚えたのだった。

『ヘンリー・ライクロフトの私記』は作者のギッシングがまだそれほどの歳でもないのに、老年の作家ライクロフトに自ら擬して書いた、つまりイギリス版「徒然草」で、双ケ岡ならぬデヴォンに隠棲、心にうつりゆくよしなしごとを書きつづった、という形になっている。イングランド南部の四季折々の風物を描く筆致の美しさに、日本でも早くから人気があったわけだが(確かにそれは、いま、もうそんなところへなど死ぬまで行くこともあるまい私が読んでも、うっとりするほど美しい)、「徒然草」の作者もそうであったように、ライクロフトならぬギッシングも、社会の現実に強い関心があって、それと、瞑想の内に自身を見つめる中から浮かび上がってくる、時にシニカルな一種の箴言風の言葉が面白い。

「本当に貴重なものは金では買えないという。さんざん言い古されていることだが、これは金に困ったことのない人間の浅知恵だ」とか、

「物書き商売の誉れは自由と気位である。実際はといえば、当然ながら何人もの主人に仕えた。作品が編集者、発行人、読者に受けなかったら、どうして筆一本で食えるものか。作品が当たれば、その分、雇い主は増える。物書きは大衆の奴隷である」とか、

「本は図書館で借りて読めばいいのであって、自分の書棚に並べるまでもないと言う人々がいる。どうにも理解できない。本にはそれぞれ独特の匂いがあって、ページから立ちのぼる匂いを嗅ぐだけでその一書にまつわる記憶がそっくり蘇ってくるからだ」とか、

「若い頃、周りを見ては人類に進歩がないことに呆れ返った。今は大衆の姿を見て、よくぞここまで来たと感じ入っている」とか、

「度はずれて傲岸不遜だった時分には、人間の価値をそれぞれの知力と達成の度合いで判断した。それが、年を重ねて、二通りある知の形を峻別しなくてはならないと考えるようになった。すなわち知能と心知で、頭よりも心の方がはるかに大事だという確信は揺るぎない。これまで知り合った立派な人間はみな、頭で考えるよりも心の働きで愚を犯すことを免れている」とか、切りがないからこのぐらいで止めておくことにするが、過激さと良識の間を揺れ動く平衡感覚が、大人の読み物たる所以であろう。

それにしても、光文社古典新訳文庫というのは、よくもいまどきこんな売れそうもない本を出してくれるものと、呆れ且つ感心する。刊行リストに並んだ書名を眺めているだけでも、昭和30年代にでも戻ったような気分になって、甘酸っぱいような追憶に囚われそうになる。七〇年代以降、日本の読書界が教養主義を捨て去ったのは、羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹き過ぎたというべきだろう。

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