随談第497回 勘三郎随想(その26)

28.「く」の章

再び、勘三郎随想をつづけよう。

「兼ねる」役者という言葉がある。故事来歴を言い出すと話がつい解説書めくことになるが、十七代、十八代、二代の勘三郎について考えようとすれば、避けて通るわけにもいかない。

今日では、かつてのような、別格的な名優の代名詞という意味での「兼ねる役者」という概念はもうない。しかし役柄を自在に越境し、さまざまな役を多彩に演じる俳優は存在する。十八代目勘三郎が、そうした現代的な意味での「兼ねる」役者の代表的なひとりだったことは間違いない。多様さの点で匹敵するのは他には猿翁と菊五郎、それに坂田藤十郎を数えるぐらいだろう。しかし猿翁や菊五郎、藤十郎と勘三郎ではその「兼ねる」在り様はそれぞれ異なっていた。これから勘三郎の芸の多面性を見てゆくことにするとして、歌舞伎俳優としての勘三郎の芸の「本籍」は「若衆方」にあると私は考えている。勘三郎は女方もするし、その本領は和事味のある二枚目役にあるが、その二つの水脈の源流は若衆方にある。これまで勘三郎が演じてきた若衆方の役の中から、その芸を語る上でもっとも本質的な役を選ぶなら、『菅原伝授手習鑑』佐太村の桜丸、『鈴ケ森』の白井権八、『白浪五人男』の弁天小僧の三役ということになるだろう。

が、その前にもうちょっと、寄り道をしておきたい。

         *

「若衆方」とは、おそらくその淵源を、今日の歌舞伎の原点である「野郎歌舞伎」よりも古く、「女歌舞伎」と併行しやがて禁止された「若衆歌舞伎」にまでさかのぼることができるに違いない。そもそも前髪とは元服前の男子のシンボルで、それを剃り落として成人男子、つまり野郎になる。女方や若衆方の役者の前髪を法令によって剃り落とさせたところに、権力というものの意地の悪さを感じさせる。言い換えればそれだけ、女方と若衆方は歌舞伎の根幹に関わる役柄であって、歌舞伎の地下水を最も深いところから吸い上げている役といえる。

現在でも、若衆方は女方の俳優が兼ねることが多い。私などの世代の観客にとって、若衆方の最もすぐれた俳優といえば真っ先に思い浮かぶのは七代目梅幸であって、戦後歌舞伎の立女形として梅幸と車の両輪であった六代目歌右衛門が、ごく限られた例外以外は立役を演じない真(ま)女形(おんながた)であったのと、好対照をなしていた。『妹背山婦女庭訓』吉野川の久我之助、『本朝廿四孝』十種香の勝頼といった役がすぐに思い出される。その延長線上には、『仮名手本忠臣蔵』の塩冶判官や『勧進帳』の義経など、気品ある二枚目役の傑作がごく自然に連なっていた。かつての若衆歌舞伎につながる要素をうんぬんするよりも、その品格の高さと気韻は、近代歌舞伎の到達した精華というべきものだった。

梅幸の若衆方や二枚目が近代歌舞伎の陽の面を代表するものだったとすれば、十七代目勘三郎がときに演じて見せたその種の役々には、もう一倍古風な、古い時代の歌舞伎の匂いが立ちこめていた。その中でも、十七代目が七十四歳という高齢で演じた『鬼一法眼三略巻』菊畑の虎蔵を、私は忘れられない。

この虎蔵という役は、じつは源ノ牛若丸だから少年である。平家方の鬼一法眼の屋敷に身をやつして奉公しているという設定で、前髪の若衆姿で登場する。しかもその衣裳が、紫地に袖と裾が白の雁木模様という着付けに、水(みず)浅葱(あさぎ)(ライトブルー)と金で斜めの段になっている襟がついており、肌脱ぎになると、同じ柄の襟のついた赤い襦袢という大胆なデザインである。歌舞伎の衣裳としても、かなり派手な方に属する。この衣裳を着てすんなり似合うようになるだけでも大変なことに違いない。

七十四歳翁の演じる虎蔵を私が忘れがたいのは、演技そのものよりも、こうした扮装で登場する十七代目の、なんとも異様でありながら、それにもかかわらず、不思議な均衡を保っているその若衆ぶりだった。晩年の十七代目は、前に言った昭和三十年代当時のような、精悍さを秘めた小気味のいい小冠者の風とは違って、全体に太って老いも隠せなくなっていたが、その十七代目の扮した虎蔵でなにより印象的なのは、白塗りに前髪の鬘をのせた顔がバランスを失するまでに大きく見えたことである。はじめて歌舞伎を見る人がこれを見たなら、壮大なグロテスクを感じたに違いない。

しかし、この虎蔵は面白かった。グロテスクといえばグロテスクだが、色奴姿の吉右衛門や赤姫姿の時蔵といったわが子のような若手(三十余年前の彼らである)とからんで芝居をしているうちに、はじめ感じた不均衡がいつの間にか不均衡でなくなり、そこから、歌舞伎の若衆という役柄の本質のようなものが浮び上がってくる。なるほど、若衆方というのはこういうものなのだと納得されてくる。それは、梅幸の演じる虎蔵よりも、もう一段、古風な感触に満ちていた。梅幸が洗い落とした古い歌舞伎の、若衆方という役柄の持つ危うい感覚が、ここには持ち伝えられているかのようだった。

正直に言って、この虎蔵を、はじめて歌舞伎を見る観客にすんなり受け容れてもらうのは、難しいかもしれない。しかしもしかしたら、その超現実ぶりに心惹かれる少数派もいるかも知れない。面白いのは、こういう場合、十七代目のこの古怪なまでの若衆方の面白さを支持するのが、必ずしも、年齢や、歌舞伎をどれだけ古くから見ているかには関わらないことである。写楽の絵の面白さを言い出したのが、決して、古くからの浮世絵の愛好者たちではなかったように。歌舞伎の面白さも、いつも年寄りから順に知っているわけではない。シュールだ、などといって十七代目の虎蔵を面白がった若者だっていないとも限らない。

そこまで考えた上でいうのだが、じつは十七代目勘三郎は、まだ中村もしほといった若いころは、じつは女方だったのだ。しかも真女形ではなく、若衆方を兼ねるタイプの女方だった。中年以降、半ばみずから求めて立役に領域を広げ、戦後歌舞伎という同時代の代表的立役の中でもひときわ広い芸域を持つ、兼ねる役者になったが、その真骨頂は、同じ二枚目でも、たとえば『仮名手本忠臣蔵』なら、色にふけったために身を滅ぼしてしまう早野勘平のような、和事味のかかった柔らか味と色気をはらんだ役にあった。

つまり十七代目勘三郎は、まだやっていない役を数えた方が早いくらい役柄の領域を広げ、ギネスブックに登録されるほど数多くの役を演じ、そのそれぞれにさまざまな傑作や佳作を作ったが、若衆方という芸の「本籍」はついに変わることはなかったのだ。七十四歳でつとめた「菊畑」の虎蔵が、いかにグロテスクに見えようとも、演じ込んでいく内に、若衆という役柄のエッセンスが浮かび上がってくる。それが十七代目という役者の「仁」だったからである。

29.「や」の章

さて、十八代目の若衆方について語るために随分と長い助走が続いたが、『忠臣蔵』で若衆方の役といえば、大星力弥である。十八代目も、当然のように若き日には力弥をつとめている。昭和五十二年十一月は、東京方の俳優は歌舞伎座に、関西の俳優は大阪の中座に結集し、東西で同時に『仮名手本忠臣蔵』を上演するという、昭和の『忠臣蔵』上演史でも記録的な意味を持つ上演だったが、このとき、二十二歳だった勘三郎は「四段目」の塩冶判官切腹の場の力弥をつとめたのだった。

力弥は、実説の大石主税に当たる役だからまだ前髪の少年である。しかし歌舞伎では、この役は単なる元服前の少年というより、若衆方の感覚をブレンドした役として演じる役とされている。切腹の座についた塩冶判官が、由良之助の駆けつけてくるのを待ちかねるところで、向かい合ったふたりが、目と目を合わせ、判官の無言の問いかけに力弥がかぶりを振って応えるという場面で、上方式の演出では、この場の力弥は、「踏ん込(ご)み」といって赤い脚絆をつけたり、衣裳の襟足を女性のように抜いて着たり、若衆方の役であることを強調するやり方が、いまでも踏襲されている。男色の関係を暗示するのだともいわれるが、判官と力弥がそうした関係にあったというよりも、(原作の浄瑠璃にもそんなことは書かれていない)、殿様と小姓というものはそのように演じるのだという、ある種のコンヴェンションに属することだろう。かつて片岡秀太郎が力弥をつとめたのを見たときは、なるほど、若衆方というものの在り様を眼前に見る思いがしたものだ。

実説の忠臣蔵物の感覚に近くなっている東京式の力弥は、それに比べると、実説の大石主税の感覚に近づいているが、それでも、中振袖の袂から赤い襦袢が覗いたり、若衆の中性的な感覚は残っている。さて当時二十二歳の勘三郎のつとめる力弥は、こう述べてきた現代の歌舞伎の力弥として、ほとんど理想的なもののように思われた。理想的というのは、若衆という、歌舞伎のもっとも根源的な役柄の本質を踏まえながら、現代の観客の多くがもっている実説の大石主税のイメージにもつながる、凛とした末頼もしい少年ぶりをも満足させるものだったからである。

勘三郎の力弥は、観客の多くが期待する力弥=主税のイメージを満足させつつ、若衆という歌舞伎の水源から水脈を引いている役柄の感覚をも備えているところに、すぐれたものがあった。前者だけなら、他にも人はいるだろう。しかしそれだけでは、赤穂義士の物語の大石主税にはなっても、歌舞伎の義太夫狂言『仮名手本忠臣蔵』の大星力弥としては不十分といわざるを得ない。これはほとんど、天性というべきだろう。父もまた、そうした仁の持主であったことは既に言った。二代にわたる勘三郎父子の、これは身体にあるものであり、血の濃さを思わざるを得ない。

しかし同じ若衆方の役でも、力弥は、常識的には若いときにつとめる役であり、「菊畑」の虎蔵のように七十四歳の老優がつとめることはちょっと考えられない。『忠臣蔵』という周知のストーリイに基づいた劇であることも一因だろうが、それだけではなく、役そのものの性格が比較的平明だからである。白井権八の場合は、力弥より一倍、若衆という役柄が本来的に持つ感覚をコンヴェンションとして担っている。「色若衆」という言い方があって、それだけ、歌舞伎の味が濃い。「菊畑」の虎蔵もそうであるように、むしろ、実際に年齢の若い若手には演じこなすのがむずかしい。身体についた色気とか味といったものが優先し、生身の若さだけではどうにもならないからだ。

勘三郎が『鈴ケ森』の白井権八を初役で演じたのは、力弥の二年後、名古屋の御園座でだが、私はこのときは見ていない。はじめて見たのは、はるか後、平成五年と六年につづけさまに演じたときだった。勘三郎三十七歳から八歳、毎年八月歌舞伎座での「納涼歌舞伎」が恒例になって四、五年目になっていた。シアター・コクーンでの活動がこの直後に始まるというタイミングである。

『鈴ケ森』という芝居は、本来『浮世柄(うきよづか)比翼(ひよくの)稲妻(いなずま)』という鶴屋南北の作の一場面が、人気狂言として独立したものであり、通しで上演する場合には「鈴ケ森の場」という一幕となる。白井権八が登場する狂言は、現在の歌舞伎のレパートリイの中では他に『其(その)小唄夢(こうたゆめも)廓(よしわら)』があり、勘三郎はやはりこの時期にそちらもつとめているが、私がとりわけあっと思ったのは、平成六年四月に『御存(ごぞんじ)鈴ケ森』という外題で一幕物として演じたときだった。

権八は、文政年間に鶴屋南北の狂言を数多く初演した女形の五代目半四郎が演じて以来の役ということになっている。紅絹(もみ)の脚絆をつけるのは、「菊畑」の虎蔵や上方式の『忠臣蔵』の力弥と同じく色若衆の衣裳のいわばお約束だが、品川の海の近い夜の潮騒に「浜辺のようじゃな」と耳を傾ける仕草や、「雉も鳴かずば撃たれまいに、益ねえ殺生いたしてござる」と言いながら砂を拾って手をはたく仕草とか、そのほか角々のセリフ回しにも約束事がいろいろあって、若衆方の演技のエッセンスで成り立っている役だといえる。こうした、口伝のたくさんあるやかましい役を、勘三郎は、むしろそうした約束事のひとつひとつを、心を籠めて演じるのを楽しむかのように見えた。角々をきっぱりと演じながら、和事らしいふっくらとした柔らか味があって、芸盛りの年齢を迎え、力弥のころとは比較にならない、役者としての尾鰭をつけていることがよくわかった。

つい前年に国立劇場で通し狂言の一幕として演じたときは、鶸(ひわ)色(いろ)、つまり黄味がかった薄緑色の衣裳を着たが、歌舞伎座で一幕物の『御存鈴ケ森』として演じたこのときは、黒の衣裳を着た。鶸色の衣裳の方が柔らかな色気があり、岩井半四郎の型ということになっており、女方がつとめるときは鶸色を着ることが多い。一方黒の衣裳は、夜の場面だから背景一面に黒幕を張り詰めてあるので、背景と衣裳と、黒の中から権八の白い顔が浮き上がって見えるのが、また違った美しさがある。立役の場合は、おのずから黒を着ることが多いが、勘九郎はその両方を試みたのだった。短い間に続けてつとめることを配慮したためでもあろうが、両方を試みることができるのは、「兼ねる」役者なればこそともいえる。

権八は、父の十七代目も傑作だった。私が見たのは、先に話題に出た昭和五十一年四月、猿若祭三百五十年記念の興行で、六十七歳で演じたときだったが、このときも、七十四歳の折の「菊畑」ほどではないにせよ、まるで動く大首絵を見るような権八だった。グロすれすれといってもよい。熟し切って、針で突けば果汁が滴り出す熟柿のように、どろりと濁ったような味感は、若手のつとめる権八には求めても求められない境地のものだった。

もちろん、このとき三十八歳の勘三郎に、六十七歳の父のような、熟柿のとろみのような老熟の味などありよう筈はない。しかし役相応の年齢の若手には及びもつかない、芸盛りの年齢ならではの熟成感と充実感は、いまこのときを共にしている喜びを見る者に感じさせるものだった。思えばこの頃が、十八代目襲名へとつながる成熟の季節のはじまりであったかもしれない。益ねえ殺生いたしてござる、と言いながら、砂をもてあそんだ手をはたきつつ前に歩み出るときの、和事の味わいはいまも忘れがたい。勘三郎に大人の役者を感じさせた、ひとつの大きなポイントだった。

それにしても、筋としてはほんの局面、ドラマとしての首尾も完結していないこのひとコマが、芝居として成立してしまうのは、歌舞伎という演劇のある特性を物語るものだろう。なぜ成立するのかといえば、歌舞伎を組み立てている役柄のエッセンスが、権八と長兵衛のふたりの人物それぞれに充満しているからで、それを見せるだけで、「歌舞伎という名の演劇」は成立し得るのだ。若衆と実事の立者。典型と典型。典型の中にこそ、歌舞伎の生命が潜んでいるからともいえる。

それから二十年の時が経って、平成二十四年二月の新橋演舞場で、勘三郎はひさびさの権八を吉右衛門の長兵衛を相手につとめた。勘太郎が勘九郎を襲名するという興行の、特別の一幕のような趣きだったが、業病から薄紙を剥ぐように回復してゆくさなか、白く塗った顔にかえって玲瓏な趣きが現われて、古色がさすがに増していた。勘三郎復活を告げるかのような手応えがあった。かつての十七代目と白鸚の顔合せを見るよう、との声も聞こえた。つまりそれは、昭和五一年の猿若祭で演じられた、あの記憶がそう言わせるのだった。幕が閉まった後、吉右衛門の側から握手を求めたという風聞も伝えられた。久しく二人の共演は途絶えており、待たれていた顔合わせだった。だがそれが、二人にとっての最後の顔合わせであり、勘三郎にとって最後の『鈴ヶ森』となった。

30.「ま」の章  (談話・梅幸のおじさんのこと)

―――梅幸のおじさんはねえ。これはぼく一番多いですから、習ったものが。判官、義経、桜丸、権八、勝頼、お三輪、お光・・・・、もう切りがないですよ。あのころにやった役のほとんどはおじさんに教わりました。ぼくのお師匠さんですからねえ。娘方、二枚目、ほとんどですね。

―――まあ、おじさんの判官は天下一品ですよ。これはもう凄いです。義経も好きだったけれども。それで面白いと思ったのは、こないだの正月、浅草公会堂で子供たちのやった芝居の初日。仁左衛門、玉三郎、勘三郎、その前には雀右衛門のおじさんも来てくれて、みんなで見たんですよ。それで思い出したんだけど、歴史はくりかえすじゃないけれど、ぼくが初役の勘平、初役の判官をやったときの舞台稽古は、見ているのが歌右衛門、松緑、梅幸、勘三郎ですからね。

そのときね、歌右衛門のおじさんが、ぼくの判官があんまり気に食わないの。うちの親父も気に食わないの。やっぱり梅幸のおじさんの菊五郎劇団とは芸風が違うからさ。吉右衛門劇団の歌右衛門のおじさんやうちの親父は、もっと濃くやってくれっていうの。すると梅幸のおじさんがね、「いいんだよ!」って大きな声で言ってね。背広脱いでね。ベルトに刀差してね、ホッ、ヤーッて判官の切腹のしぐさやってくれたんですよ。またそれが、いい格好するんだよ。そしたらさすがの勘三郎、歌右衛門、黙ってましたよ。

―――だからこっちも、その天下一品のお師匠さんのとおりなんか出来っこないんだけど、必死でやりますわね。そのときは新橋演舞場でしたけど、それから後になって、ぼく涙が出たのは、こんどは歌舞伎座で判官をやらしてもらったときにね。喧嘩場で、師直に向かって後ろから刀を投げますでしょ、そのときおじさん酸っぱい顔するんです、こう。芸の良し悪しは真似できなくとも、それをする位置ね、大体そこだわ、っていうところで、おじさんの判官が立ってた位置に、いまぼくが同じ判官の役をやって立っているわけじゃない。歌舞伎座の。その場所、その位置で、いま俺がおじさんと同じ判官をやってるって思ったら、涙が止まんなくなっちゃってさ。幕がしまったら、なんかこう嬉しくてね。おじさんもう亡くなってましたからね、そのときは。あのおじさんと同じことを、いま俺がやってんだ、っていう気がしてね。

―――それ、やっぱり歌舞伎のいいとこじゃないかと思いますね。歌舞伎座の空間、お便所とかだって、みんな思い出がいっぱいつまってるんだ。ここで、ほらって、ね? あのときの思い、幸せだなあって思いましたね。ここだよね。ここでおじさんがやってたじゃないか、みたいな。

―――それからね、敦盛を教わりに行ったとき。これもおじさんのよかったけど。(突如梅幸の声色で)なにもないよォ。何もないよ。敦盛は教えること何もない、って言うんでこちらはかえってむずかしい。それから『勧進帳』の義経。なんだろうなあ、あの可愛らしさ。どうも『勧進帳』に縁がなくて、いつかまたやりたいと思ってるんだけど。それから十次郎も習いましたよ。下げ緒をこうね、こうやるだけで可愛いんですね。それから勝頼も。そういうね、見ていてぽーっとする芸っていうかな、あれをやりたいね。

―――権八をやったときは、幸せでしたよ。なにしろ長兵衛が松本白鸚ですから。梅幸のおじさんは、本当に師匠ですね。

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随談第496回 今月の話題 (修正版)

オリンピックの開催地がとうとう東京に決まったというので、世を挙げて唖然とするばかりのはしゃぎようである。ついこの間まで、笛吹けど踊らず、支持率がなかなか上らなかったのが嘘のようだ。オリンピックそのものは嫌ではない。やるのはいいが、あのAさんが得意げにはしゃぐ姿などというものは、あまり見たくない光景である。あの言い出しっぺのIさんが、宿願が実現したというのに一向にテレビの画面に現れないのも不思議だ。(別に見たいわけではないが。)これから7年の間に汚染水はどれだけ流れ出すのだろう。除染した土を入れたビニール袋はぼろぼろにならないのだろうか。それにしても、IOCの委員という人たちというのも、不思議な人たちではある。(もう一度それにしてもだが、グレース・ケリーの倅があの質問者の中にいたとは知らなかった!)

         *

イチローだ、楽天の田中だ、バレンティンだと、それぞれの選手がそれぞれの記録を打ち立てたのはそれぞれに慶賀すべきことだが、バレンティンの場合、あれがもう10年か20年前だったらどうだったろう? まさか20何試合も敬遠ばかりというわけにも行くまいから、その意味からもバレンティンの実力は評価されて然るべきかもしれない。残り試合が20試合もあったなら、あの記録はローズやカブレラどころか、疾うの昔にバースが破っていたかもしれないわけだ。敵味方を問わずバレンティンに声援を送るスタンドの観衆を見ていると、時代がそれだけ成熟したかとも思えるが、オリンピックの開催地決定に歓声を送るのと、どういう風につながり、どういう風につながらないのだろうか?

それはそれとして、田中の連勝記録を伝える報道の中で、かつての連勝記録として稲尾と並んで松田清の名前が出てきたのは、当然のこととはいえ、一種の感慨があった。およそ、あれだけの記録を残していながら、これほど話題にもならない選手もあまりないだろう。同時期の巨人の若手投手として、先ごろ亡くなった大友工などに比べても印象が薄いのは、めざましかったのが19連勝という記録を残した一年だけのことだったからか。いずれにしても、60年の余も経ってから、リストの上だけにせよ名前が出るのは、記録の余光というべきだろう。

         *

さて今月の舞台だが、三津五郎が休演となって、『御浜御殿』の綱豊卿を橋之助がするのに注目したのだが、何ともこれが妙なものだった。仁はよし、気合はよし、機嫌もよし、ファンから見たら何とも恰好いいだろう。いやファンといわずとも、私から見たって、これほど舞台が綺麗で、役者ぶりがいい役者というものはそうあるものではない。現に今月の『男女道成寺』の幕切れ、笑みを湛えたいい顔をして幕を切る役者ぶりなどというものは、21世紀の今日に見ることが出来るだけでも、ちょっとした奇跡のようなものだ。役者歴から言ったって、染五郎だ、海老蔵だ菊之助だという前に、橋之助の時代というものがあるべきだと思っている。

だがどうも、いま言った、役者ぶりが良くて舞台が綺麗だといったことが、時として裏目に出ることがある。『御浜御殿』の綱豊卿などというのは、その陥穽にはまりやすい役の最たるものかも知れない。何と言っても格好いいし、役者冥利に尽きる役だろう。橋之助を見ていると、気を入れてつとめているのが如実に伝わってくる。嬉しそうに、機嫌よく、セリフを大時代に謳い上げ、緩急自在、冨森を翻弄する。イヨ、ナリコマヤ、である。だが、青果劇とはあゝいうものなのだろうか? ああいうものだったろうか? 橋之助のあれは、真山青果の新歌舞伎作品『元禄忠臣蔵』の徳川綱豊ならぬ、何かの時代物狂言の殿様ではないだろうか? 同じ赤穂贔屓、大石贔屓の君主でも、綱豊卿は松浦の殿様とは違わなければならない。

橋之助を見ながらつくづく思ったのは、富十郎の綱豊というものを見ておきたかったということだった。実際には、富十郎はいつも富森ばかりで綱豊は一度もやっていない。にも拘らず私は、橋之助を見ながら橋之助の向こうに富十郎の綱豊を見ていた。いや、聞いていた。××だぁ、と詠嘆調に流れることなく、××だっ、と短く言い切りながら、情感が稲妻のように走り去るような、あの、たっぷりとした、それでいながら引き締まったセリフ。そうして更にその向こうには寿海がいる。寿海の声が聞こえる。

富十郎の富森が相手にした綱豊は、勘彌であり現・仁左衛門だった。それほど遠い昔ではない。吉右衛門の綱豊を見たのはついこの間である。そこまでは、ともかくも、寿海以来のひとつのものでつながっていたと思う。三津五郎の綱豊に期待していたのも、それ故だった。

はっきり言おう。橋之助は私の贔屓役者のひとりである。好漢、どうか私の言わんとするところを汲んで、しばし思いを致してはくれないだろうか?

         *

幸四郎の『不知火検校』が好評のようだ。目に触れただけでも、朝日がほめ東京新聞がほめ、「週刊新潮」で福田和也氏までが絶賛している。私もそれに異を唱える気はない。昼の部の『河内山』に比べても、詰屈としたところがなく、やはりこの人は新作に秀でている人なのだと改めて思う。乗ってやっている感じもいい。だからこれから書くのは、『不知火検校』評というより、36年前の十七代目勘三郎所演を見ている者としての感慨のようなものだ。

十七代目という人は、開場間もなかった当時の日生劇場で『リチャード三世』をやった時、誰だったかが、あれはリチャード三世ならぬリチャードの三公だ、と陰口をきいたという話があるが、やはり何と言っても、柄といい芸質といい、いかに兼ねる役者とはいっても、本領は世話物役者としてあった人だったから、不知火検校などをさせると、その変幻自在ぶりが緩急よろしきを得て面白かったのを覚えている。今度魁春がやっている旗本の奥方の役はまだ三十にもならない若き日の玉三郎だったが、それを一杯はめる具合など、それは面白うござんしたと言いたくなるようなものだった。要するに軽妙な世話狂言の新作としての一佳作だった。

こんど幸四郎が手掛けようとするにつけて、自分の柄や芸風を考えて、脚本や演出を身に添うように改めたのは賢明なことだが、そうなると、いい悪いではなく、世話味が後退して時代味が勝ってくるのは、やむを得ないというより当然と考えるべきだろう。ただ、もともと作者が世話物として書いたものだから、ピカレスクとしてのスケールが前面に出てくる半面、その割にはやっている悪事が小味なのが気になってくる。そこで御金蔵を奪うという話が取ってつけられるわけだが、そこのところがどうもぎくしゃくして芝居がもたれることになり、第二幕以降は痛快さが減点になる。魁春の奥方が恨みを晴らそうという場面も、余計なものを取ってつけた感じだ。原作に手を加えることは構わないが、その手際がよくない。大詰、左団次がやっている検校捕縛に来る役人が寺社奉行となっているのは、下手人が御金蔵を奪った、しかも検校という身分だからというわけだろうが、勘三郎の時は同心か何かで、幕切れもあんな持って回ったものではなかったにもかかわらず、例の啖呵も鮮やかな印象を残したのを思い出す。(もっとも原作者も、初演後に出した「宇野信夫戯曲選集」では同心だが、後に出した「自選世話物集」という一冊本では寺社奉行に直している。検校逮捕には奉行がじきじきに出張らないと、というわけだろうか。)

せっかくの快調の滑り出しが、勿体をつけたために失速してしまったのは、幸四郎がしばらく前に国立劇場でやった『人間豹』を連想させる。惜しむべし。もうひとつ、場内が終始薄暗く、幕間も明るくならないのは鬱陶しい。配役を確かめようにも読むことも出来ない。特に暗くする必要がある場以外は、もう少し明るくして頂きたい。長時間暗い中に置いておかれる身になってもらいたい。

         *

歌舞伎座の花形一座の『新薄雪物語』は想定外の上出来だった。序幕の「花見」はともかく「詮議」から「合腹」まで、あそこまでやれたのは天晴れというべきである。正直なところ、一番危惧していたのは先ずこの役が若手にとっては一番至難であろうと思われる松緑の伊賀守だが、ともかくもやり遂せたのは、重ねて言うが天晴れというものだろう。次いでの天晴れは七之助の籬である。この人のちょっと老けだちのところは、じつは時と場合によっては気になる要素なのだが、この役では、梅枝の薄雪姫との釣り合いの上からも、それが有効に働いた。

恋の取り持ちの場面というのは、十八世紀のロココ時代の典雅を連想させる。じつは前に時蔵の籬と三津五郎の妻平で見た時にそれと気が付いたのだったが、ついでに言うなら、原作の仮名草子「薄雪物語」というのは、薄雪と衛門の二人が取り交わした恋文二十九通から成る書簡対体小説なそうだが、それなら、近代小説の祖とされる十八世紀イギリスのリチャードソンの「パミラ」と同じ趣向ということになる。読者に恋文の書き方のレッスン書として読まれたというのも、同じである。「薄雪物語」の方が約一世紀、先んじているわけだ。(『鳴神』の、絶間姫が恋の馴れ初めを語る件なども、同じような典雅の匂いがするが、あれも何か典拠がありそうだ。残念ながら浅学にして知らないが、どなたかご存知の向きは教えていただきたい。)

         *

『陰陽師』は、じつのところ私には、どこがおもしろいのかよくわからない。開演前、玄関ロビーにいたら、修学旅行かと思しい生徒たちの団体が続々繰りこんでくるのを目撃したが、むしろ彼等彼女らに感想を訊いてみたいと思う。彼らが面白かったと言ったら、それは大成功なのだ。私は、終始大音響が鳴り響いているのと(音量は大きくとも、調子が変わらなければ結局のところ単調に陥る)、ここでも場内が終始暗いので、睡魔と闘うのに苦労した。染五郎の清明と勘九郎の博雅の二人のやり取りの場面になるとほっとした。あの二人のコンビは、なかなかよかった。

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随談第495回 勘三郎随想(その25)

26.「の」の章

一九六九年四月、満十四歳を目前にした『連獅子』から、少年俳優中村勘九郎の時代が始まるとすれば、その時代の勘三郎を語るものとして、一九七一年三月歌舞伎座での『二条城の清正』の秀頼、同じ年十一月歌舞伎座での『時今也桔梗旗揚』の光秀妹桔梗、一九七二年七月歌舞伎座の舞踊『鞍馬獅子』の卿の君の三役を挙げよう。もちろん、この他にも記憶に残る好舞台はまだまだあるが、のちの十八代目勘三郎につながる新たなものを、十代の勘九郎が成長の過程で見せた記憶すべきものという意味で、この三つの役に焦点を当てることにしよう。

一九六九(昭和四十四)年三月は勘九郎十四才である。この月は、父の十七代目が非常な意欲を燃やし、亡兄の初代中村吉右衛門の当たり役として知られる『二条城の清正』を初役で演じ、女形舞踊の大曲『京鹿子娘道成寺』に挑んで話題を集めただけでなく、昼の部夜の部を通じて五演目に出るという旺盛な働きぶりだった。とりわけ『娘道成寺』は、同じ月、国立劇場でも梅幸が踊っていたから両座競演の形となったので、『演劇界』ではわざわざ両者の比較評を載せるなど、勘三郎の意気込みのほどが話題となっていた。勘三郎としては、実は本興行ではこの時が初演だった。戦中の昭和十八年、戦地の慰問として中国戦線(当時の言い方では「中支戦線」)の奥深くまで出向いた先で踊って以来というものだった。(この時の模様が、当時の『演藝画報』のグラビアに載っている。金冠をつけた白拍子花子の姿で、戦闘服姿の後援者と撮った記念の写真で、「背後の山は敵陣地です」とキャプションにある。なおこの記事が載っている『演藝画報』昭和十八年十月号というのは、明治四十年から続くこの栄誉ある雑誌の最終号で、翌月の十一月号から『演劇界』に切り替わることになる。)それから二十八年を距てたこのとき、十七代目勘三郎六十二歳、働き盛りであったといえる。

ところで『二条城の清正』は、この作以外にも、古典と新作を問わずさまざまな作品で加藤清正の役を得意にしたので清正役者といわれた兄の吉右衛門が、中でも繰り返し演じて、一種の名物視されていた演目だった。いまなお、ほとんど唯一(といっていいだろう)上演レパートリーの中に数えられている「清正物」だが、昭和八年に新作、初演された時、清正の庇護する豊臣秀頼の役をつとめたのは、当時前名の中村もしほをだった他ならぬ十七代目自身であり、その後、兄がこの狂言を出すたびに、幾度となく演じてきた役だった。十七代目としては、亡兄の当たり役に挑むという自分自身の意欲と同時に、勘九郎にかつての自分の持ち役をつとめさせたいという思いも強かったに違いない。

大坂の陣を三年後に控え豊臣方劣勢の中、新帝即位のため京の二条城に入った徳川家康から、成長した秀頼をひと目見たいという名目で呼び出しがかかる。豊臣恩顧の大名たちが家康へなびく中ひとり誠忠の志を忘れない清正が秀頼の守護役として付き添い、無事対面を果たさせるという、歴史上のひとこまとなる史実に基づいた作品で、とりわけ、大詰の御座船の場で、秀頼と手を取り合って越し方をしのび、行く末を思って男泣きに泣く場面がクライマックスだから、演じる父と子がそのまま清正と秀頼に重なり合う。ちょうど子役の域を抜けて成長しようとしている勘九郎は、まさしく秀頼にふさわしい。

勘三郎の狙いは、果して当たった。勘九郎の成長は、すでに二年前の『連獅子』によって明らかになっていたとはいえ、これは舞踊である。役を演じて人物を表現することとはおのずから別である。十五歳の勘九郎の演じる十八歳の秀頼は、史実の人物としてはやや幼いとはいえ、かつての勘九郎坊やや、名子役勘九郎のイメージがまだ残像として眼底に残っている観客に、少年らしい眉宇に成長の証しをくっきりと見せるには充分だった。十七代目の演じる清正が、凛然として家康に対し臆するところなかった秀頼の振舞いに感じ入り、大坂へ向かい淀川を下る御座船の上で感涙にむせぶのが、ここまで成長した勘九郎に目を瞠る観客の思いと重なり合う。

その成長ぶりとは、ただ、大きくなったというだけのことではない。セリフの口跡、メリハリ、立ち居振る舞いにおのずから窺われるイキや間のよさ、気組みのよさといったことは、歌舞伎俳優としての基本をしっかりと仕込まれていることを察知させ、同時に、その稟質の高さを窺わせる。幼いながらに、ある頼もしさすら、見る者に感じさせる。清正がセリフの中で言う、この先二十年も三十年も生き続けてお守りしたい、今宵ばかりは命が惜しくなったという言葉が、この少年俳優の将来を語るかのように聞きなされる。まさしく勘九郎は、『連獅子』につづき、将来へわたって無限に続いている役者人生にひとつの里程標を築いたのだった。

(おまけのようだが、このときの夜の部の最終、いわゆる追い出しの演目に、『妹背山』の道行を、いまの時蔵の求女、芝雀の橘姫と共に、お三輪を踊ったのも、もうひとつのヒットとして忘れがたい。同年配の三人それぞれに、巣立ちの準備をはじめたのである。)

勘九郎はさらに、間を置かずにもう一弾、有効打を放つ。同じ年の十一月に演じた『時今也(ときはいま)桔梗(ききょうの)旗揚(はたあげ)』の桔梗である。

十七代目の意欲的な活動はまだ続いていて、これも兄初代吉右衛門の当り役だった『馬(ば)盥(だらい)』の光秀に取り組んだのだった。若いころから六代目菊五郎に私淑し、やがてはその女婿となった十七代目は、それまで菊五郎の当たり役をわが物にすることに意欲を傾注してきたが、しばらく前頃から、兄の吉右衛門の当り役にも触手をのばすようになっていた。『籠釣瓶』や『大蔵卿』のような仁にあったものは既に我が物とし、次いで『俊寛』や『盛綱陣屋』を手掛けていたが、『逆櫓』の松右衛門や『二条城の清正』など、武張った役は、若いころには女形と和事味のある若衆方を本領としていた十七代目には、本来なら守備範囲に入って来ない役だった。のちに、生涯に演じた役の数によってギネスブックに名前が載った十七代目だが、この当時が、その版図拡大の時期でもあったのだ。『桔梗旗揚』の光秀も、まさにそれだった。

さて、このとき十六歳の勘九郎の演じた桔梗というのは、光秀の妹で、春永に兄光秀が辱しめを受ける中、兄の心中を思いやりながらも凛として振舞う乙女の役である。兄が馬盥で酒を飲まされたり、銘刀の代わりに流浪時代の辛苦の印である妻の切り髪を与えられるなどの屈辱のあいだ、終始傍らにあって気遣いながら共に無念に堪えるという、肚のあるむずかしい役だが、見たところは長丁場の間ただじっと坐っているだけのように見える。若手の女形のつとめる定番のような役ではあるが、多くは、神妙にという方に心が行って、存在の希薄な、色取りの役として終始してしまいがちである。

だが、このときの勘九郎は違っていた。きっちりと、役の行儀は守りながらも光彩を放っていて、私はいまだに、これほど役の性根の通った、存在感のある桔梗を他に思い出せない。このときの『演劇界』の劇評は、国文学の泰斗として知られた成瀬正勝だったが、(こういう、いわゆる劇評家とは違う識者に批評を書かせるということを、当時の『演劇界』はちょいちょいやった)、勘九郎の光秀妹桔梗が美貌でもあり可憐であったとほめた後、この少年は幼少時から天衣無縫なところがあり、最近では『連獅子』で親父を圧しかねまじき熱演を示し、また三月のお三輪の踊りでも並々ならぬ好演振りであった、美貌という点ではいまや花盛りの坂東玉三郎がいるが、その後を追うものは勘九郎ではないかと思っている、という評を書いている。ここでいう「美貌」という言い方にはおそらくちょっと注釈が必要で、人形のような整った美貌というより、役者としての個性が役を通じて耀き出しているような美しさを言っているのだと、私は解釈している。事実、私の目にも、このときの勘九郎の桔梗の美しさは、四十年余を経たいまも忘れがたい。

少年俳優勘九郎を語るもうひとつの役は、翌一九七二年七月に猿之助の喜三太を相手に踊った『鞍馬獅子』の卿の君である。この興行は、前年の十二月に病に倒れた父十七代目が半年余の休演ののち、久々に復帰して勤めるということがあって、その夜の部に『再岩藤』を五年ぶりに上演していた。しかしすでに十七歳になっていた勘九郎は、もう志賀市をつとめる年頃ではなく、大喜利に『鞍馬獅子』を踊ったのだった。(このときの志賀市は、現在の清元延寿太夫の岡村清太郎である。当時の清太郎少年も、私の観劇歴の中の名子役列伝に入るいい子役だった。)

『鞍馬獅子』という踊りは、古典の舞踊としては有名だが、歌舞伎の本興行の演目としてはそうしょっちゅう出るものではない。卿の君というのは平時忠の娘で義経の正妻だが、ここでは、都落ちした義経の後を慕って、形見の薙刀を手に狂乱の体(てい)で登場、太神楽の喜三太とからんで踊るやり取りの中に、古い曲らしいよさを味わうもので、かつての六代目菊五郎と七代目三津五郎のような名手同士で踊ってこそ面白いというのが定評となっているような、やや高踏的とも言える作品である。それを、そのころ若手新鋭の中の先頭に立ち独自の道を歩みはじめていた猿之助(もちろん、現・猿翁のことである)と、まだ花形という位置を獲得する前の勘九郎が、本興行の演目として踊る。先輩の、既に踊りについても定評を得ている猿之助に対し、互角にわたり合うだけのものを見せなければ、そもそも成立しないことだろう。

ちなみにこの時点での猿之助は、前年の同じ七月の歌舞伎座の昼の部で、曽祖父以来猿之助という名前が一日の空白もなくちょうど百年つづいたのを顕彰する「猿之助百年記念」という公演を本興行として成功させ、一年後の七月のまさにこの興行の昼の部では、『義経千本桜』の半通しを上演するという、勢いを加速させつつあるさ中にあった。もうひとつついでにいえば、その昼の部の中幕に、十七代目は得意の小品舞踊『お祭り』を踊って、前年末に大病で倒れて以来長期の休演が続いた後に、満天下へ病気回復の挨拶代わりとしたのだった。(病気回復の舞台に『お祭り』を踊るという「吉例」は、昭和三十年に一度目の大病復帰の舞台で踊って以来、例となったもので、十七代目としてはこの時が二度目だった。)だから夜の部の『鞍馬獅子』に猿之助が勘九郎の相手をするのは、いわばその返礼ともいえた。中村屋と沢潟屋は、この時点でそうした関係にあったのでもあった。

ところで、ここでも勘九郎の成長は目を瞠らせた。猿之助の喜三太の太神楽と、さまざまな起伏にとんだやり取りの虚々実々や、おおらかな古典味は、しっかりした技術的な裏づけと同時に、踊りではあっても役者としてのセンスのよさがなければ成り立たない。それが役者の踊りというものの面白さであり、こわさでもある。父と踊った『連獅子』は、松羽目物という能舞台に模した一種の抽象的な空間の中で踊るものであり、そもそも作品自体が近代の所産である。前年の『妹背山』の道行は、『鞍馬獅子』に劣らない劇的な空間の中で踊るものではあるけれども、同年齢の子供同士で踊ったものだった。『鞍馬獅子』は、いまでは単独の一幕物として出される舞踊だが、本来は長い筋立てを背景として持っている顔見世舞踊であり、踊りの技術と同時に役者心というものが求められる。若手とはいえすでに一人前以上の役者として存在を確立している猿之助と対等に渡り合えたということは、この時点での勘九郎が、すでに一個の若手役者としてスタートラインに立てるだけの力を備えていることを物語るものといえた。暑い梅雨明けの一夜、旧歌舞伎座の三階席でこの一幕を見たときの快い驚きを、私はいまもある充実感とともに甦らせることが出来る。

27.「お」の章

こうした日々の間、勘九郎は、父と出演する歌舞伎座その他の興行で、十代という、もう子役でもなく、さればといって大人でもない年齢に相応の役をつとめていた。そうした中に、舞台年譜のリストをたどれば、なんともなつかしい役々が思い出されてくる。『水天宮利生深川』筆屋幸兵衛の娘お雪とか、父の十七代目と、東宝へ去って以来久しぶりの八代目幸四郎の顔合わせが実現した『蔦紅葉宇都谷峠』の文弥の妹おいちといった小娘の役、『仮名手本忠臣蔵』四段目の力弥、九段目の小浪のようなれっきとした娘役の大役、『百物語』のから傘一本足のような珍品まで、いちいち語り出せば切りがないことになる。

いまこうして振り返ってみて改めて思うのは、この「半端な」季節にも、勘九郎はしごく着実な歩みを続けていたように見えることである。子役時代には華々しい活躍をしたにもかかわらず、この季節を通り抜ける内にいつしか精彩を失ってしまう例は、記憶にあるだけでも、いくつも数えることができる。そこを通り抜けて、ふたたび若手花形として華やかな活躍を始めた例も少なくないが、一度失った精彩を取り戻すことができないままという例も、決して少ないとはいえない。十代の半ばという年齢が、身体も精神も大きく変る、万人が通過することをまぬがれない惑いの日々であることは、歌舞伎俳優といえども変ることはない。

勘九郎の場合、いまその当時につとめた役々のリストを一望すると、やはり父十七代目の目というものを感じざるを得ない。十五歳までは役が少なく、十六歳以降急激にふえるのは、義務教育の学齢を終えたことの反映でもあろうが、同時に、勘九郎自身、惑うことなく自分の進むべき道が見えていたことを物語っている。そうした中で、当時つとめた役を仔細に見てみると、ひとつひとつの役が、年齢や、勘九郎の芸のあり方といった観点から、しっかりした見識によって選ばれたものであることに気がつく。そこに私は、父十七代目の眼差しを感じるのだ。

一方また、この間にも勘九郎は、毎年八月には国立劇場で当時盛んだった若手俳優たちの自主的な勉強会の一環として、「杉の子会」と称する公演を毎年開催し、つぎつぎと大役に挑んでいた。『義経千本桜』の静御前、『絵本太功記』の真柴久吉、『寺子屋』の千代、『妹背山』道行のお三輪(先に言った同世代三人での歌舞伎座での上演は、実はこのときの好成績へのご褒美だった)、『鎌倉三代記』の三浦之助、『船弁慶』の静と知盛、『関の扉』の宗貞、『伊勢音頭』のお紺といった役々である。こう並べて見てもわかるように、のちの持役になっているものばかりであり、将来の自分の役どころを見定めつつ、着々と歩を進め出していたことがわかる。そうした日々の続いた先に、あの『鏡獅子』が来るのだった。

『鏡獅子』の初役は前にも言ったように昭和五十一年四月、誕生日を五月に迎え、二十一歳となる直前だった。まさに、私人としての人生の成人を迎えるのと、役者としての成人を迎えるのとが一致していたことになる。もちろん、その役者人生には、こののちさまざまな曲折があるわけだが、これから以降のことは、編年風にたどってゆくよりも、役者勘三郎をその芸を通じて語る方がふさわしい。

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随談第494回 勘三郎随想(その24) 補正版

24.「う」の章 

そろそろ、勘三郎随想を再開しよう。

『鏡獅子』と『京鹿子娘道成寺』という、勘三郎がみずからライフワークと位置づけている二大舞踊をひとつの象徴と見て、話をかなり大股に進めてきたので、ここらで、ふたたび時計の針を逆に回して、幼いころからの記憶に残る役々をたどりながら、「わが勘九郎史」を書き綴ることにしたい。

初舞台の『昔噺桃太郎』と、チビッコ歌舞伎の『白浪五人男』のことは前に言った。『五人男』の南郷力丸が八歳である。それ以前というと、十七代目がいかにも親子共演の幸福を味わったかと思われるものに、『親子燈篭』という新作がある。もともと作者の村上元三が十七代目に当てて、幇間の哀歓を手だれの筆で描いた一種の家庭劇だが、題名のとおり、子供の役が活躍し子役のかわいらしさで見物を喜ばせ、またしんみりさせる。十七代目の庶民的な愛嬌と、やりとりの間のよさ、うまさが生きて、初演のときから好評だったが、実はそのときまだ勘九郎は誕生していず、子役は慶三といったいまの秀調だった。だから親子共演による『親子燈篭』が演じられたのは再演以降ということになる。

昭和三十六年五月、六歳の勘九郎の大阪初お目見えに、『昔噺桃太郎』と合わせて出し

て人気嘖々、その秋に東京でもということになった。勘九郎オソルベシという評判の立つきっかけとなったのは、むしろこれによってであったかもしれない。父子が愛嬌を競い合って脚本のしゃれた空気を活かしており、夫婦喧嘩のあとで屈託する父子が醸し出すペーソスが中でも快い、などというその折の劇評をいま読むと、五十歳を過ぎた父と六歳になったばかりの子を、評者がまるで対等のような書き方をしているのがおもしろい。

夫婦喧嘩のあとの屈託、と劇評がいうくだりで、そっくりな顔をした五十男の十七代目と六歳の十八代目が、縁先で同じようにあぐらをかいて頬杖をつく姿のおかしさと勘九郎のかわいらしさを、当時の『演劇界』のグラビアが如実に伝えている。父子共演の幸せを十七代目がしみじみ味わったのはこのときではなかったか、と私は推測する。

しかし名子役としての勘九郎をつくづくと堪能し、舌を巻きながら見たのは、もう少し後、勘九郎九歳から十一,二歳ごろ、年号にして昭和三十九年から四十一、二年ごろまでではなかったろうか。昭和三十九年五月の『花上野譽碑(はなのうえのほまれのいしぶみ)』通称「志(し)渡寺(どうじ)」の田宮坊太郎は、その頃歌右衛門がつぎつぎと新しい役に挑み、上演が稀な狂言を復活したり掘り起こしたりしたひとつとして見たものだった。親の敵の森口源太左衛門を、幼いうえに唖者で口のきけない坊太郎に討たせるため、乳母のお辻が水垢離を取って祈願するという、「金比羅利生記」という別題があるように、奇蹟劇の一種で、本水をつかって井戸の水を何杯もあびている歌右衛門の姿が目に焼きついている。

勘九郎の役の坊太郎は、口がきけないが乳母を思って桃の実を盗んだり、砂文字を書いて盗みの理由を説明したり、子役としてはかなりの難役である。なまじに達者にやると、小面憎い感じが先に立って、哀れがなくなってしまう。この、歌舞伎狂言としては決して名作とはいえない芝居が、少なくとも印象にいまも残る舞台になったのは、歌右衛門の熱演もさることながら、勘九郎の、巧みだが情の表出が自然で、こまっしゃくれた嫌味のない柄のよさと演技が、大きくものを言ったからだった。

同じ月の興行、しかも『志渡寺』のすぐ次に、勘九郎は父十七代目と『舞鶴(ぶかく)雪月花』という新作舞踊を踊り、これも素敵な出来だった。近年に十八代目の手で再演されたから見た人も多いだろうが、萩原雪夫作のこの踊りは、上の巻が「さくら」、中の巻が「松虫」、下の巻が「雪達磨」と三段返しの構成で、「春」は若い頃は女形だった十七代目の娘姿、「秋」は勘九郎と親子で秋の虫のユーモアとペーソス、「冬」は夜の間いばっていた雪達磨が朝が来て溶けてしまうおかしみが狙いである。勘九郎はこの松虫の子でも、坊太郎と同じく、感情移入の自然さと情感の深さ、巧みでありながらおとなこどものような嫌味のなさが見事だった。もうこの頃には、単なるアンファンテリブルという興味本位ではなく、末頼もしい存在として万人の見るところとなっていた。先に言った梅枝とともに胡蝶を踊った『鏡獅子』が同じ年の秋である。

翌四十年は、舞台年譜を見ると、五月の六代目菊五郎十七回忌の大一座の公演で、父の『良寛と子守』で父子共演をした一役しか演じていない。勘三郎の親馬鹿ということが、この当時すでに囁かれていたが、こうして記録をたどってみると、やたらに役をさせて喜ぶような育て方は決してしていなかったことがわかる。この坪内逍遥作の新舞踊では、踊りの巧さだけでなく演技の確かさも求められるが、これもすでに書いたように、この子は本当に良寛の話に聞き入っている、とその役者ごころを、批評子に舌を巻かせている。

この批評子は、前年の十七代目の『鏡獅子』に厳しい採点をした浜村米蔵だが、ちかごろの勘三郎ではこの良寛さんに一等感心したと言い、その上で、勘九郎の子守にはなお一層感動した、六代目(菊五郎)の天分といったものは、隔世遺伝で勘九郎に分け与えられているのかも知れないとひそかに考えさせられた、と書いている。菊吉双方の血をもっとも近く受けているもの、ということは既に誕生のときから、事大的なニュアンスも含めて言われたことだったが、このころから、もっと実質的な意味合いをもって、勘九郎の天分というものに再び注目が集まっていたのは、当時の私自身の記憶に照らしても間違いない。

つぎに、『恋女房染分手綱』の自然生(じねんじょ)の三吉というのがある。翌昭和四十一年正月の歌舞伎座、尾上梅幸の重の井である。

自然生というのは、字の通り、生まれながらに育った自然児ということである。同時に、自然薯、つまり自生の山芋という意味でもある。幼いながらも街道筋で馬方をしている三吉少年が、姫君の旅のなぐさみにと呼び込まれた縁から、大名家の幼い姫君の乳母をしている実の母と出会うが、母親は、これからさる大名家へ輿入れをしようという姫の乳母という立場上、親子の名乗りをすることもできず、身を引き裂かれる思いで別れをするというのが、「重の井子別れ」という通称で知られるこの芝居の、昔から泣かせどころになっている。

三吉という子供を生んだのには、重の井には相応の事情があってのことだが、五歳のときから馬方をして稼いでいる三吉は、煙草も呑み、ませた理屈も言う。子役が活躍する演目の代表的なひとつだが、それだけに、悪達者でこまっしゃくれた子役がやると、鼻持ちならなくなるおそれがある。「親子三人一緒ににいたい」とか「父さん母さん養いましょう」という、言葉の上の生意気さが、その心根の純朴さを通じて観客に訴えなければ、お涙ちょうだいの古臭い母物芝居という識者の批判を覆すことがむずかしくなる。当時は、歌舞伎の持つそうした一面へのアレルギーはいまとは比較にならないほど強かった、ということを考えておく必要がある。『先代萩』だの『重ノ井』だのというと、冷笑的に見るインテリ層という存在が一方にあり、また一方に、母物映画が大流行した日々はまだ遠く去ってはいない、という時代環境である。いわゆる高度成長期のとば口にあって、冷笑するインテリ層と、岡や重ノ井にストレートに共感するファンと、双方が「戦後」という時代の作っていた心的環境の中にあったのだ。「いま」より「当時」の方が、歌舞伎の「後進性」に対する批判も拒否反応も、はるかに強かったことを知っておかなければならない。

勘九郎の三吉のすぐれたところは、そういう幣が微塵もないことだった。ませたところと年齢なりのところとが程よく融合し、セリフ尻を潤ませたり愁いを利かせたりする技巧や、歩きっぷりにも馬子の生活を反映させる身のこなしや利発さ加減、「伊達の与作が惣領」ときっぱり強調してプライドを示す解釈など、教えも教え覚えも覚えたもの、という『演劇界』の劇評は、することは達者でもこまっしゃくれた嫌味がない勘九郎の舞台ぶりをよく伝えているが、「役における自己陶酔が既になされている」という締めくくりの一言が、十八代目勘三郎となったのちに至るまで一貫する、演技者としての本質に触れているかのようだ。書いたのは如月青子さんである。

『良寛と子守』のときの子守が、良寛の話に本当に聞き入っているという評言とも通じているし、父の十七代目の舞台ぶりとも重なり合う。大袈裟なたとえになるのを承知で更にいえば、「まだ足らぬ踊り踊りてあの世まで」という祖父六代目菊五郎の、まるで辞世ともとれる一句すら、そこに重ねることも不可能ではないだろう。もちろん、満十歳のときの無心さと、大人の演者としての心境とはまた別にしても、役に自己陶酔する気質という一点で、この三代の演技者に相通じるものを見たくなるのは否定できない。つまりいま振り返れば、満十歳にして既に、勘九郎は単なる名子役というより、役者としての稟質をくっきりと示しはじめていたのだということになる。

それから、あの『加賀見山(かがみやま)再岩藤(ごにちのいわふじ)』の志賀市である。子役時代の勘九郎を語るのに欠かせない、これが一番の「名演」であったといっていい。

『再岩藤』は、昭和四十二年九月のこの時、大正九年以来四十七年ぶりの上演という触れ込みで、前年に開場したばかりの国立劇場が、創立の理念として復活による通し上演に取り組んでいたひとつとしての上演だった。このときに、又助と二役で悪人方の局岩藤の亡霊をつとめた十七代目が、白骨から甦って日傘にのって宙乗りで花見をする場面で、ばらばらに散乱していた白骨が寄り集まって骸骨となる「骨寄せ」や、「宙乗り」といった久しく大歌舞伎の舞台に乗らなかった手法を復活させたのが評判となった。のちの市川猿之助の活動の引き金になったり、また十八代目自身も、のちに平成中村座でさらに発展させて演じるなど、このときの復活上演が、その後の歌舞伎に新しいうねりを生む機縁ともなった。(人も知る、猿之助、いや猿翁の『千本桜四の切』の宙乗りは、翌年三月が初演である。)

さて子役の志賀市だが、いうまでもなく、お家横領をたくらむ悪臣にだまされて奥方を殺してしまった鳥居又助が、申し訳に腹を切る場面で、盲目の幼い弟志賀市が、兄の悲痛な死も知らずに、傍らで「飛鳥川」の曲を琴で弾き、歌うところが見せ場である。勘九郎の演じる盲目の子按摩志賀市は、通常の意味での名子役という枠内で納まらない、すぐれた少年俳優の誕生を告げるものだった。『演劇界』の志野葉太郎さんの劇評も、勘九郎が抜群、大人たち全員が食われてしまっている、琴もうまくこなしたが、それより何もしないで膝に手をおいてションボリすわっているときの巧さときたらただもう感服、身障児の寄る辺ない哀れさが測々とにじみ出ていると手放しの絶賛だが、勘九郎十二歳、幼いながらもすでに役者心がはっきりと育っているのがわかる舞台だった。良寛の話に本当に聞き入っている子守の娘とも、自然生の三吉の役への自己陶酔ともつながる、役として生きることを、勘九郎はすでに知っていたかのようである。

名子役としての勘九郎の名はますます高く、こののちも続くが、役者十八代目勘三郎を考える上で、私にとっての「名子役勘九郎」はほぼ以上を振り返れば足りる。先に言った父子共演の『連獅子』が翌々年四月、勘九郎が満十四歳を目前にした春のことだった。

25・「ゐ」の章 (談話・子役時代について)

―――僕ね、名子役って言われる割には、やってないんですよ。小太郎やってない。千松やってない。なんにもないんですよ。カカサマイノーっていうような役って経験がないの。子役の十種みたいのあるじゃないですか。その手の役って三吉ぐらいじゃないですか。田宮坊太郎なんて特殊な役ですから。これ、心理だから。いわゆるカカサマイノーじゃできない芝居でしょ? 三吉はね、うちの弟子の千弥かな、誰かに教わったんですね。

―――それから志賀市。これは思い出がありますわ。手を折ったんですよ、階段から落ちて。琴弾かなくちゃならないでしょ。それで弾いたのがね。とても痛かったけど休めない。これはね、役者魂というか、この役で植えつけられた。

やっぱり、形で入らなかったかもしれないね。本当にこう感情でやった。それでいいような役ばっかりじゃないですか、ボクのやった役って。感情出したらおかしいんだもの、普通の子役は。そういう役はやらなかった。

―――二条城の秀頼ね。これは好きな役でした。ぽーっとしてやれ、ってこと言われてね。いいよいいよって言われて。そういうことあんまり言われなかったから。家の親父がむかしやった秀頼もよかったらしい。

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