随談第493回 今月の舞台から

勘三郎随想はちょっと一服して、今月見た芝居の話を何やかやお喋りすることにしよう。

前に新しい歌舞伎座についてのあれこれを書いた時、ロビーのソファが少ないのが難と言ったことがあったが、今度、入れ替え時に二階ロビーに行ってみたら、吹き抜けのところに、前の歌舞伎座とほぼ同じ形にソファが置いてあるのを知った。別にこのブログの効果というわけでもなかろうが、ともあれ、ご報告しておこう。

今月の歌舞伎座が、そうは謳っていなくとも勘三郎追善の含みであることは演目を見ても明らかだが、その観点から言うなら追善の実を挙げた一番は勘九郎の『鏡獅子』ということになる。つまり、故人もさぞや満足、というところ。骨太のところが、父よりも役者ぶりが大きくなる期待を秘めている分、いずれは父勝りというか、父に倣いつつ父とは別の自分の『鏡獅子』を築くことになる予感を抱かせるところが頼もしい。芝翫・富十郎既になく、父勘三郎も亡きいま、既に現在、これに勝る『鏡獅子』はあるだろうか? 菊之助のを久しく見ていないが、いまの菊之助ならどういう『鏡獅子』を見せるだろうか?

月半ばから変わった七之助のも見た。こちらは若女形の役者の踊る『鏡獅子』という趣きで、前ジテ後シテとも、そのたおやかさに七之助ならではの良さがある。兄と競うのはいいことだが、兄と同じに踊れなければいけないと考えない方がいい。兄とは別な清冽さに、七之助の生命があるのだ。

三津五郎が勘九郎の勝奴で『髪結新三』を演じ、勘九郎の太郎冠者で『棒しばり』を踊るのも追善ならではだが、同時に、これらの狂言がこの二人によってこれからも演じ継がれてゆくであろうという期待を抱かせる。もっとも新三の場合は、同じ役同じ狂言が三津五郎という演じ手に変わることによって、今までとはまた別な新三像が出来てゆくという、別な意味、別な興味の方がより大きい意味合いを生じることになる。辛口にきりりと引き締まった三津五郎の新三を、勘三郎の新三に馴染んだ観客がどう受け止めるかという問題もある。

『野崎村』のお光というのは、勘三郎若き日の傑作であり、娘方時代の代表作として生涯のベスト幾つだかに選ばれて然るべきものだが、福助とすればお光という役をつとめるという意味での追善であって、芸としては父芝翫の遺産継承のお光を見せることになる。(勘三郎は、この種の役はもっぱら、梅幸に教わった。)しかしこのお光にせよ、扇雀の久松にせよ、七之助のお染にせよ、弥十郎の久作にせよ、それぞれなかなかの好演でなかなかの『野崎村』になったのは、これはこれで良き追善の役目を果たしたと言える。

七之助にしても扇雀にしても、本来このあたりが「仁」なのだろう。二人とも、『狐狸狐狸ばなし』で意外な役で達者な一面を見せて、それはそれで結構なことだが、自分の本領を知り、耕すことの大切さを、殊に七之助は心すべきであろう。扇雀の『狐狸狐狸ばなし』の伊之助というのは、この人稀代の傑作として、存外この人、こういう辺りを梃子にして化けるかもしれない。殷鑑遠からず、『決闘!高田馬場』(デ、ヨロシカッタデショウカ?)をきっかけに大化けした市村萬次郎という先例もある。

弥十郎の久作を、かつてはこういう役といえば八代目三津五郎だったのを思い出しながら見ていた。特に似ているわけでもないのだが、同じ血筋として争われないものだなぁとは思う。冒頭にちょいと出る女中を芝喜松がやっていて、程よくしながら程よく喝采を浚っている。出るところは出ながら出過ぎない、その加減の的確さはこの種の役の手本というべきか。

終りに出てくる油屋の後家を東蔵がやっていて、とりわけこの人だと、もののわかった良識ある母親という感じがするが、本来の浄瑠璃からすれば、こんな、まるで世話のデウス・エクス・マキーナのような役ではないわけで、かの岡鬼太郎は、自分の言いたいことだけ言うために出てくるようなイヤな婆ァだという意味のことを言っている。しかし、『新版歌祭文』全三冊ではなく、『野崎村』という一幕物として見るならば、このお常さんという「世上の補い心の遠慮」を弁えた「大人」というのは、三島由紀夫が『ダフニスとクロエ』になぞらえて書いた『潮騒』に出てくる村の大人たちと同じような役回りとして、われわれの目に映じることになる。そうだとすれば、東蔵のお常というのはなかなか味わい深いものがある。(かの六代目菊五郎発明になる、幕切れのお光の演じ方にしても、『野崎村』を一幕物として考えてこそ、成立するわけだろう。)

もっとも、話がそういうことになると、舞台が回って裏の土手になるところで、船頭と駕篭屋の口論の入れ事は、今度は駕篭屋の片割れをしている橋吾の名題昇進の花を持たせるためだろうが、一幕物としての完成度ということからいえば、ない方がよいことになるし(それにしても、仮花道なしだと船を上手に入れるのに遅々として進められず、船頭役の三津之助に同情したくなった)、久作や久松が上手屋台(に寝ている筈の婆)を気遣う様子をしきりに見せるのも、丁寧なようで、しかし初心の観客には却って不審を抱かせることになるだろう。やはり婆を出すべきだということになるが、それなら、後家が持ってくる菓子折の金包みのいきさつももっと分るようにすべきだ、ということになる・・と、こんなことは既に言い尽くされて来たことだが、今度の台本は「さもしけれども」というところを「さもしいものなれど」と言い換えるなど、現代の観客に分りやすいようとの配慮をしているらしいフシが随所にあるので、ちょっと蒸し返してみる気になった。

今月の演目で『かさね』だけは、とくに勘三郎ゆかりというわけではない。(累を一度、やっているけれど。そうして、この種の役をつとめる時の例によって、なかなか古風な味わいを見せた佳品ではあったけれど。)しかし、いまこういう場で福助と橋之助でやるのは、また別の意味での好企画と期待した。即ち、勘三郎や三津五郎の次には、染五郎だ、海老蔵だという前に、福助や橋之助たちの時代が来なければならないと私は思っているからで、むしろそういう意味から、今月この場で二人が『かさね』を出すというのは、勘三郎追善の意に叶うというものである。

と、思ったのだが、ところがちょいと案外だった。累といい与右衛門といい、仁は良し、役者としての尾鰭のつき方から言っても、若手連中とはさすがに違うという処を見せてくれていい筈だ。で、それはそうには違いないのだが、いすかの嘴と食い違ったというか、釘が一本多すぎるのか足りないのか、踊りなのか芝居なのか、かゆいところに手が届かないというか、要するにドンピシャリと行かないのだ。この『かさね』というのは、長い芝居の前後を切り取って一幕だけ生かしたもので、何だかよくわからないところがいろいろあるのだが、それでも、見ていると何やら不思議に魅惑されるものがあるのだが、肝心のそれが、利いてこない。

福助の累は、風情といい決して悪いとは思わない。むしろこの責は橋之助により多く負ってもらわなければならないのだろう。たしかに橋之助は踊り手ではないかもしれない。しかしそれをいうなら、かつての白鸚だって、普通の意味での与右衛門タイプではないし、決して踊りで見せるという人でもなかったが、背後にある(筈の)ドラマを感じさせる、役者の踊りとして得心の行く与右衛門を見せてくれたものだ。それを考えると、今度の橋之助は、踊りとも芝居とも、どちらとも徹底していなかった感がある。おそらく橋之助には、少年時代から憧れた尊敬する先輩の誰彼の与右衛門がいろいろ目にあって、それをついなぞっていたのかもしれない。思うにこの人、歌舞伎を愛し過ぎているのではあるまいか。もちろん、愛して何が悪いわけはない。が、ほんのちょっぴり、耳かき一杯分ぐらいでいいから、歌舞伎を疑ったりするところがあった方が、餡子をこさえる時の隠し味の塩のように、味わいを深めることになるのではなかろうか?

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ABKAIなるものありて第一回自主公演を渋谷シアター・コクーンにて開催す。海老蔵の会の心ならむ。歌舞伎十八番『蛇柳』の復活と新作歌舞伎『はなさかじいさん』を試む。『蛇柳』は高野山奥の院にありしといふ霊木の精の伝説に基き松岡亮これを脚色し藤間勘十郎これを振付・演出す。『はなさかじいさん』はお伽噺「花咲爺」に基き宮沢章夫これを作り宮本亜門これを演出す。どちらも、まずまず無難の作なり。

『蛇柳』はこの種復活ものの例に洩れず、先行諸作のいいとこを採り破綻なくアレインジす。能仕立てにせしはその典型にして、且つこの他に妙案ありとも覚えず。アヽいつものデンかと心もち退屈させておきて、最後に至りて、後ジテ蛇柳の精を演じつつありたる海老蔵、突如、これまた歌舞伎十八番の一なる押戻しにて登場、アレっと思わせるトリック、まずは図に当りたるは目出度し。

『はなさかじいさん』は、正直爺さんの飼犬シロを、桃太郎のイヌと綯交ぜにせしところがミソにて、近年はやりの(とはいえ、その濫觴は遠く芥川龍之介にあり)桃太郎悪人説をテレコにし、3・11後の世情荒廃を持ち込みしところが作者の働き。まずそれはよしとして、残る問題はそれを如何に歌舞伎の文法に添わせつつ新機軸を打ち出すか、演出力にあり。良識家宮本亜門は、一方に作者宮沢の顔を立て一方に歌舞伎愛好者連の顔を立て、役者海老蔵の仁と愛嬌に後事を託せしかと覚えたり。まずは無事にて、目出度さも中くらい、かな?

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故中村富十郎の遺児中村鷹之資が故人三回忌に因んで「翔の会」を国立能楽堂で催した。番組は、藤間勘祖振付で妹愛子と『菊寿の草摺』、片山幽雪指導、地謡片山九郎右衛門・味方玄で仕舞『松虫』、藤間勘祖振付で『越後獅子』の三番、すべて素踊り形式でつとめた。早や中学二年生だそうで、衣装をつけていないだけ却ってその成長ぶりに驚く。妹の愛子にしてもだ。まずはしっかりと楷書の踊り、と言ってしまえば紋切型のようだが、とりわけ『越後獅子』には感心した。亡父の使ったという子供にはやや長めの晒を見事に捌いた。身体がきちんと踊れていればこそであろう。

学習院の中学校に学ぶとの由だが、会場はその級友や親御さん方と思しき人たちも大勢詰めかけ華やかなこと。そういう一人、いや二人か、パパと思しき二名の紳士が幕間に交わしている会話が、通りすがりに小耳に引っかかった。「そもそもトミジュウロウって、何?」「いやあ、ハハハハ」だってさ。

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国立劇場の歌舞伎音楽研修者の発表会「音の会」と、歌舞伎会・稚魚の会合同公演をそれぞれ見る。『蝶の道行』は竹本の人たちの方が発表の主役なわけだが、藤間勘祖の振付で鴈之助と国矢が小槇と助国を踊る。『蝶の道行』というと、武智鉄二演出で、はじめに(蛾みたいだ、と陰口が聞かれた)つがいの蝶がスクリーンに写るところから始まる新舞踊風のばかり見せられていたことに、改めて気が付く。歌右衛門と梅幸の連舞なんて今も目に残ってはいるが。『吃又』は又之助の又平に京妙のお徳というのだから、なかなか見ごたえがある。いつも腰元で並んでいる京紫が将監の北の方になるなど、評とは別に、いつもと違う顔が見えて興味深い。

この『吃又』にせよ、合同公演で出した『引窓』にせよ、竹本の芝居だと、それぞれがそれぞれなりに手一杯にやっているのがすんなりと見ていられるのだが、『修禅寺物語』となると、若い人たちにはこういう芝居の方が却って難しいのだなあと、改めて知らされる。学校演劇など(いまはどうか知らないが)アマチュアでもよくやる芝居だけに、ひょっとすると、そういう人の方が結構巧かったりすることもあり得るわけだ。

富十郎門下の富彦と魁春門下の春之助による『団子売』がなかなかよかった。

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このところ毎夏、「趣向の華」という公演を見ているが、なかなか面白い。染五郎と藤間勘十郎、尾上菊之丞の三人が肝煎りになって、若手花形未満ぐらいの若い連中が紋付袴というなりで芝居をする。つまり踊なら素踊りというわけで、勉強にもなろうし、また一種独特の面白さも生まれる。今年は、壱太郎が春虹(シュンコウ)という名前で脚本を書き、演出をするという、袴歌舞伎『若華競浪花菱織』なる、いうなら御家狂言。いろいろな有名作から有名場面を取り込んで、どこかで見たような場面を散りばめながら運んで行くのが、それなりに飽かせずに見せる。『再岩藤』の中にお初徳兵衛の話を二番目狂言風に取り込んだり、『伊勢音頭』の追っかけを取り込んだり、なかなかうまくできている。歌舞伎のいろいろな典型場面を若手が真面目に取り組むことで、おのずから歌舞伎の「文法」を身に着ける勉強にもなるわけだ。

といって、これが新作歌舞伎として麗々しく名乗ったのでは、またちょいと大仰なわけで、これなら国立の小劇場でやってもいいのでは?とちらりと頭をかすめたりもするが、やはり野に置け蓮華草、お遊びも兼ねた、そこが「趣向」の華というわけなのだろう。

今年は(おそらく会場が確保できなかったのだろう)内幸町ホールという、あまり向いているとは言えない会場だったが(その割には、屏風を使っての場面転換など、なかなか気が利いていた)、例年は日本橋劇場という場所も良し、ロビーは着飾ったPTA連が華やかで、気後れがするほどだ。

今年は友右衛門と亀三郎が上置き格(友右衛門の立派なこと。失礼ながらちょっぴり認識を改めるほどだ)、亀三郎の役者ぶりのよさも、ふだんとはまた違った側面に気付かされる)、廣太郎と隼人が今回の主役。種之助が役名も又助、先月歌舞伎座で志賀市をしたばかりの玉太郎が志賀市の穴を行く乙市なる役を、もちろん本息でやるのが全編の見どころだったり、米吉のお初と廣松の徳兵衛が狂言回し風に活躍したり、ついこないだまで子役だと思っていた梅丸が意想外の一面を見せたり、平素の舞台では気が付かないいろいろな発見があって、こちらもいろいろな意味でベンキョウになった。

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随談第492回 勘三郎随想(その23)

21.「な」の章

十七代目勘三郎の『鏡獅子』というと、じつはわたしは、たったの一度しか見たことがない。昭和三十九年十月といえば、東京オリンピックのさなかである。その月の歌舞伎座は、大立者たちが昼夜にそれぞれの演目を持つという大盤振る舞いの企画を立てて盛況だったが、わたしのたった一回の十七代目の『鏡獅子』体験は、その中で行われたのだった。胡蝶が、いまの時蔵の梅枝と十八代目の勘九郎であったことも、その踊りぶりまでくっきりと覚えている。あれほど美しく、またあれほど見事に踊った胡蝶は、その後どれだけあったろう?

十七代目の『鏡獅子』といえば、菊五郎自身が『をどり』という著書の中に「もしほ夫婦」という章で述べて以来、戸板康二『六代目菊五郎』をはじめ、いろいろなところに引用されている有名なエピソードがある。第二次大戦後間もない昭和二十三年二月、三越劇場で、当時まだ前名の中村もしほといっていた十七代目が、はじめて『鏡獅子』を踊るに当たって、岳父の六代目菊五郎から猛稽古を授けられたときの話である。

菊五郎は、踊りを教えるときは、女形の踊りであっても、下帯ひとつの素裸にさせて教えたという。基本的な骨格や筋肉の動きひとつまでごまかしの利かないようにするためだというが、このときの十七代目も、素裸で『鏡獅子』の稽古をした。真冬のはずだし、菊五郎は血圧が高く少し熱もあったというが、そんなことを厭う菊五郎ではない。それだけの準備をして開けた初日だったが、見に来てくれた菊五郎の気に入らなかった。それから、もしほの苦悩と、菊五郎の師としての厳しさと、岳父として、また愛娘であるもしほ夫人への父親としての情の葛藤とが言外に綴られていくのだが、十七代目にとっては、それだけの思い出のある『鏡獅子』なのだった。

それから十六年、この話はすでに「伝説」となっていた。十七代目勘三郎として、押しも押されもしない大立者となったいま、もはや昔のもしほではない。勘三郎自身も、折に触れ、その「伝説」を語っている。おのずから、その『鏡獅子』は特別な目で見られることになる。

しかし現実には、勘三郎はその後、それほど回数を重ねて『鏡獅子』を踊るということをしていない。改めて確認したところによると、昭和二十三年から三十九年までのあいだに、東京では一度だけしか出していない。それだけ大切にしていたのか、何か理由があったのかは知る由もないが、この当時、『鏡獅子』といえば、菊五郎の後継者である七代目梅幸が最も頻繁に手掛け、代表的と見られていた。私も何度も見ているが、たしかに、端正で、女形でありながら後ジテの獅子の気組みもよく、前後のバランスもよく取れた、オーソドクシイを感じさせる立派な『鏡獅子』だったと思う。(胡蝶といえばいまの団蔵の銀之助や、いまの松也の父の松助の禄也や、その弟でいまの大谷桂三の先代松也といったあたりだったっけ。)

歌舞伎になじんでまだ日の浅い当時のわたしにとっては、そういう梅幸の『鏡獅子』がおのずからひとつの規範のような働きをすることになる。そうした目からすると、はじめて見る勘三郎の『鏡獅子』は、どこか感触が違って感じられた。弥生は、梅幸のような現代人にもそのまま受け入れられる種類の可愛らしさというより、もう少し老けだちの、悪くいえばもっさりというか、昔ふうの娘という感じがした。獅子も、量感は梅幸以上にあって立派だが、隈を取った顔が、梅幸のような鮮明さと違い、にじみでも掛けたように、くすんだように感じられる。その分、古風な味があるともいえる。

十七代目の弥生が少し老けだちに見えたといま言ったが、このときの劇評を、老劇評家の浜村米蔵が書いているのを読むと、かなり辛辣な言葉がならんでいる。浜村米蔵という人は、大正中期の一番盛んなころの帝劇の文芸部に入る前、市村座の狂言作者として黒衣(くろご)を着て舞台裏で働いていたという経歴のある、その時点で批評家として半世紀にもなる閲歴の持主だったが、まず昭和二十三年の三越劇場の客席で、当時もしほの『鏡獅子』を見たときの「なまなましい想い出」から書きはじめる。

三越劇場はごく小さな劇場なので座席も少ない。うしろに立って見ていたら、すぐそばに菊五郎がいて、もしほの踊りを見ながら、「いけねえ、あ、いけねえ」とか「駄目駄目」とぼやいたりつぶやいたりする。そのつど、まわりのお客からシッシッと声がかかったり、「うるせえ」と叱咤したりする者もいる。菊五郎はたちまち出て行ったが、誰もそれが六代目とは気がつかないらしい。私はそこにはっきり歌舞伎の傾斜を見る思いがした、と浜村は書いている。終戦後まだ三年という時点の、歌舞伎をめぐる時世の落差をとらえた文章として興味深い。

さて、浜村米蔵の十七代目『鏡獅子』評だが、その前ジテには疑問がある、と浜村は言う。ひどく色っぽく、表情過多だ、というのである。「おぼろ月夜やほととぎす」という長唄の文句に合わせて、袂を持った手を胸にあてて、ほととぎすが飛び去るのを目で追う仕草をするところが大切なところとされているが、そこのところの目の使い方などはうまいものだ、と浜村はほめる。つまり技巧は認めているのだが、せっかくのその巧さがあまり引き立たないのは、全体に目を使いすぎるからで、あれでは十六、七のお小姓ではなく、色気ざかりの町娘どころかまるで年増だ、ときめつけている。

額面通りに読めば大変な酷評だが、わたしがこの批評を長々と引いたのは、これに賛同するわけでも、当時の劇評の代表として挙げるわけでもない。この浜村の批評に、わたしはある興味を覚えるからである。浜村自身は認めていないが、鑑賞の基準を変えて見るなら、浜村のこの評言は、十七代目の踊る前ジテ弥生の特徴の一面をよく捉えている。つまり老けだちで、現代人の考える乙女の清純さというのとは微妙に違う、むかし風の娘のぼんやりとした風情、とさっきわたしの言った在り様と、重なり合う。そこを、浜村はだからいけないと言い、わたしは、だから面白いと感じるのだ。

たしかに、十七代目の弥生は、現代の観客にストレートに受け入れられるような清純な乙女ではないかもしれない。その意味では、『鏡獅子』の批評としては、減点の対象になるのかもしれない。しかし翻って言うなら、娘を演じればそういう女になってしまう十七代目勘三郎という人の、役者としての体質を、わたしは面白いと思うのだ。またしても言うが、そこに三代目歌六の翳を見るからである。

十七代目はその後、二年後の昭和四十一年暮の京都南座の顔見世で出したのを最後に、『鏡獅子』を踊ることはなかった。理由は、おそらく年齢と体力の均衡を案じてのことだろう。

22.「ら」の章 (談話・父十七代目の『鏡獅子』のこと、『娘道成寺』のこと)

―――家の親父の『鏡獅子』でぼくの印象に残っているのは、南座の楽の日に百回毛を振ったのを覚えてます。それでぼくも真似してやってたんですけど、もうそろそろやめます。まあ、そんなに印象にないですよ。教わったんですけどね。教わったんですけれど、なんかあの、巧い、という『鏡獅子』かなという気がします。だから、味とか、巧い感じとか、なんじゃないですかね。

―――『道成寺』もそうです。巧いんですよ。テクニックですね。技というか。だからたとえば、「誰と伏見のすみぞめ」チチチチチなんてやるとお客さんがワーッていう。そういう風なことでやってたんだなあ。もっと早くにやればよかったんだけど。でも可愛かったですよ。あの、ゴリラみたいだったなんていうと怒られちゃうけど、だけど、そういう風に見える瞬間があるってことは凄いんじゃないのかとは思いますね。

―――あのときは国立劇場でも梅幸さんが『道成寺』をやって、歌舞伎座のお父さんと競演だったんですね。昭和四十六年三月でした。

―――そうそう。『道成寺』についていえば、私はこれは『鏡獅子』の後から追っかける形で踊るようになった。弥生さんを花子が追っかけたというわけ。二十歳で弥生さんをやり、『道成寺』は平成五年三月に『身替座禅』と一緒にやらせていただいたと思うんだけど。―――もちろん両方ともこれからも何回もやっていくんですけれども、踊りとしてはまったく違う。花子は、踊り込む。弥生というのは、踊るんですけど踊っちゃいけないんですよ。中に絞り込むんです。この間も染五郎が白鸚のおじさんの追善で『鏡獅子』を踊るっていうので、それを言ってやった。汗びっちょりかいてやっているけれども、まだわからないみたい。体を使って踊るんだけど、地味というか、抑える。中に入るんですね。だって大体、弥生はむりやり連れてこられて、いやいや踊るんだから。中に、内に絞るんですね。たとえば、チャンチャンと、手をこう出しますね、最初。そうしたらそこで極力、動きを小さくするんですよ。

―――片や、花子さんは派手なんですよ。もう可愛くてしょうがない。こんな楽しいことはないっていう。踊りたくってしょうがない。だって舞姫ですからね。ただその中でも、金冠をつけた、最初のあそこはずーっと動かないようにという口伝はありますよ。ただ根本的に陽気な子ですから。花子さんは陽気、弥生は陰気っていうか、やっぱりおぼこ。そのおぼこが、ちょっと羽目をはずしてこんなに踊るから可愛い。で。花子はほんとに可愛いっていうね。そのまったく違うところがミソなんですけれども。これはどちらもやっていきたいですね。

―――それともうひとつは、風情で見せる『道成寺』というものを歌右衛門のおじさんが確立なさった。これは六代目とは違うものですね。いまはそっちばっかりじゃないですか。そこに六代目のおじいさんのやり方のような『道成寺』を、やっぱりこれは、誰かがやらないといけないんじゃないかと思うんです。情念とか、もちろんそういうものも大事なんだけど、だってあれは『日高川』と違うんだから。ハハハ。理屈で行きゃあ。「京鹿子、ムスメ道成寺」だよということをね、踊りで示したい。だからおじいさんは「ただ頼め」がよかったって。写真見ても可愛いですよ。それから「鞨鼓」がよかった。踊りっていうもの、踊りで見せる『道成寺』っていうものを意識しますね。

―――先輩方のを見せていただいたなかでは、天王寺屋(=中村富十郎)のがやっぱりそうでしたよね。踊る道成寺っていうね。神谷町(=中村芝翫)もそうだけれど、ちょっと神谷町ともまた違う。まあ、ボクの先生は神谷町なんですよ。なんですけど、その、可愛らしさっていうと・・・みたいなことかな。やっぱり、踊り手の踊る踊りっていうか。芝居に持って行かないっていうか。

―――加役の踊りですね。これも体の続く限りね。情とか情念で見せない分、続けるのは大変なんですよ。体を使うから。

―――お父さんも、若いころはなさったでしょうけど、『鏡獅子』も『道成寺』も一回しか見てないんです。

―――『道成寺』はうちの親父は一回しかやっていないでしょ。満州へ戦地の慰問に行ったときにやっているけど。

23.「む」の章

『鏡獅子』に比べると、勘三郎が『京鹿子娘道成寺』を踊るようになったのは大分後になってからで、踊った回数もずっと少ない。談話にもあるように、戦後の歌舞伎の流れの中で、中村歌右衛門のを代表とする、女形の踊る『道成寺』が主流となってきたということも、若いころには踊る機会が少なかった遠因の内にあるのかもしれない。一日だけの舞踊会は別として、本興行の演目としてはじめて踊ったのは、これも談話にあるように、一九九三年三月、三十六歳のときだった。そのときももちろんよかったが、その年の暮れ、南座の顔見世で見た『道成寺』がわたしには忘れがたい。年が明けてすぐ、今度は歌舞伎座で『鏡獅子』を踊るのを見た。短い間に歌舞伎を代表する二大舞踊を踊る勘三郎に、旭日の勢いというのはこういうことかと思った記憶がある。初演と再演で、すでに驚くべき高いレベルにあったためでもあるが、もうひとつは、女形の踊る嫋々とした風情や、恋の情念を見せる『道成寺』が席巻した感のある現在の歌舞伎に、久々に見る、立役の役者が若い娘の恋の姿のさまざまを踊る、目のくらむような、息の詰んだ踊りの技で見せる『道成寺』だったからだ。

更に五年後の歌舞伎座。このときは、いまでなければ踊れない白拍子花子を見てくれというコメントが私の手許に届けられた直後に見たのだったが、まさにその通りの『道成寺』だった。五年前よりたおやかさ、芸のふくらみが増した中に、前段はしなやか、中段の「恋の手習い」の眼目のくだりはたっぷりと、それがすんだのちは疾風迅雷の趣きであっという間に幕切れに至るという、息もつかせぬものだった。こういう『道成寺』は、心身相俟って盛んだったころの中村富十郎以外、見たことがない。六代目菊五郎を知らない私としては、加役の踊りで見せる『道成寺』の神髄というのはこういうものかと思うばかりだった。

「道行」から「鐘入り」まで。余計なものは一切ない。「娘」道成寺のエッセンスだけが圧縮されたかのようだ。たっぷりと、豊饒でありながら、むしろあっけないとすら思えるほどに、疾風のように過ぎ去った一時間余だが、余韻はかえってその方が深い。

それからまた五年後が、十八代目襲名興行のときだった。このときには、いままでとはやや異なる印象を受けた。全段の運び方としては変わりはない。おきゃんな町娘の恋の万華鏡を見るような楽しさにも変わりはない。だが「恋の手管」のくだりがすんで、曲が終局にかかるにつれ、獅子奮迅の趣きが増し、それはやがて、現世の愉悦が一種の狂気へと募ってゆくような趣きだった。といっても、決して、かつての歌右衛門のそれのような、道成寺伝説を踏まえた『日高川』のように蛇身に変身することを予感させる、恋の執着の怖ろしさを踊るが故ではない。終局へ向けて踊りこんでゆく、踊りそのものによって凄みとか狂気とかを、見る者に感じさせるのだと言ったほうが適切だろうか。

このときには勘三郎としては初めて「押戻し」をつけたが、その團十郎の大館左馬五郎が実に雄大雄渾で、荒事役者の本領を見せるものだった。しかし、襲名興行の祝事ということを抜きにして見るなら、勘三郎の白拍子花子には、蛇身になって押戻しに花道から押戻されるというのは、あまり似つかわしくない。勘三郎の花子の踊りは、『日高川』の伝説を踏まえた踊りではないからだ。つまり、このときの『道成寺』によって勘三郎が示した狂気とは、芸それ自体の狂気なのである。

かつて六代目菊五郎が、その最も盛んであったころ、「まだ足らぬ踊り踊りてあの世まで」という句をものしたというのは、『娘道成寺』を快心の思いで踊ったときの感懐だという。芸をすること、踊りを踊ることの法悦のなかにあっての感懐であろう。このときの勘三郎がどういう心境に至っていたのかは聞いていないが、何か、一脈通じるものを感じさせるものではあった。

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随談第491回 勘三郎随想(その22)

19.「つ」の章

勘九郎時代の十八代目勘三郎が、昭和六十年九月、『鏡獅子』を踊ったのは、二十歳のときの初演から十年たった三十歳のときだった。すでに初演から数えて五演目になっていたが、このときのことは、それに先立つ形で、NHKが『鏡獅子三代』というタイトルで、六代目菊五郎から、十七代目勘三郎を経てその子の勘九郎に至る三代の『鏡獅子』を題材にして、芸の秘密を探ろうというドキュメント番組を制作し、その過程を取材班が分担執筆の形で、同名の本にして出版している。

平櫛田中作の彫像を基に菊五郎の身体能力を運動力学的に解明したり、(「鏡獅子像」制作に際して、田中は菊五郎の身体をつぶさに観察し、また菊五郎もその要望に応じて、裸体の「鏡獅子像」を試作している)、弥生が手にする手獅子の構造を科学的に解明したりという内容に、当時勘九郎の若き勘三郎自身が全面的に協力して制作したユニークな番組だったのを覚えているが、勘三郎にとっては、祖父菊五郎と直接向かい合うことを可能にした、またとない機会であったに違いない。

勘三郎にとって六代目菊五郎は、現実には幻の存在でしかない一方、常に身近に意識せざるを得ない存在でもある。現に生母が菊五郎の愛娘であり、父十七代目がその女婿という環境にあれば、その名は常に、身近にいる誰かが口にするし、何より、勘三郎自身が、自分の芸の目標として、意識せざるを得ない。

父の十七代目勘三郎は、女婿ということは抜きにしても、六代目菊五郎の芸の継承者として、尾上松緑とともに最も重要な存在と目されていた。とりわけ、『髪結新三』『加賀鳶』『筆屋幸兵衛』などの、菊五郎が演出を完成した黙阿弥物の世話狂言は、ほとんどこの二人によって継承され、それぞれの個性の魅力で競合しつつ、棲み分けがなされていた。いままでも、たとえば『髪結新三』なら、松緑に学んだ七代目菊五郎と、十七代目勘三郎を受け継いだ十八代目と、両様の髪結新三をわれわれは楽しむことが出来たが、薄味ですっきりとした江戸前に仕上げた松緑と、江戸前は江戸前でも、陰影深く、複雑微妙な味付けの勘三郎と、それぞれの系譜はすでに現七代目菊五郎と十八代目勘三郎と、二代にわたっている。その背後には、六代目菊五郎の影が、いまも色濃く落ちている。

だがそうしたさまざまな演目の中でも、おそらく十八代目が、祖父六代目菊五郎を最も強く意識するのは『鏡獅子』だったろう。ほとんどを一人で踊りぬく舞踊であり、それだけに、芸としての純度が高いということもある。その意味では、『娘道成寺』も同じだが、もうひとつ『鏡獅子』には、先に述べたような成立の経緯がある。いま私たちが知る『鏡獅子』ほど、六代目菊五郎とそっくりそのまま向かい合える作品は他にない。

このときのNHKの番組自体も、きわめて意義深い内容であったと記憶しているが、その中で当時の勘九郎が取り組んでいる姿は、普通の意味での番組協力とは違うものを感じさせた。祖父六代目菊五郎の『鏡獅子』に肉薄できる好機として、勘九郎の側からも求めるところがあったであろうことを、見ている者にも得心させる姿だった。

結果として、この番組取材にあたっての体験が、十八代目にとって具体的にどういう意義付けがなされたかはともかく、二十歳の初演以来、少なくとも東京での所演は見つづけてきた私が、このとき三十歳で踊った『鏡獅子』をとりわけ印象鮮やかに思い出せるのは、おそらくこのときが、十八代目にとっての『鏡獅子』再発見の秋(とき)ではなかったかと推察するからである。あきらかに、このとき勘三郎は、父十七代目を越えて、祖父六代目をその眼差しの中に捉えていた。

父十七代目を越えて、という言い方が不遜な意味に聞こえたなら、それは私の真意ではない。しかし、父に学び、父を通じて祖父を、おそらく畏敬の念とともに見ているのと、敬意が漠然たる敬意に終らず、ある具体的な存在としてのすぐれた先達として眼差しの中に捉えるのとでは、おのずから別である。勘三郎が、父を越えて祖父を目標のうちに捉えたことを、私はこのときの『鏡獅子』を契機に察知した。不遜ではないまでも、かなりの大胆と自負がその陰に伺われた。

それまでの勘三郎の『鏡獅子』は、ひたすらに「一所懸命」だった。ひとつのところに、一心不乱に、懸命に立ち向かうひたむきさ。その美しさが、見る者を打ち、浄化する。その爽やかさ、そのカタルシスが生命だった。しかしその「一所」に「懸命」になる眼差しは、何を見ていたろうか?

だがいま、勘三郎は、見るべきものを見たのだ。在るべきもの、在るべき姿を見たのだ。その在るべきものを求めることが、すなわち、なすべきこととして、明確に自覚したのだ。勘三郎の前シテの弥生、後シテの獅子の精を見ながら、私が思ったのはそういうことだった。私はこのときの勘三郎を、美しいと思った。

同時に、勘三郎が文字通り歌舞伎の現在における第一線に登場したことを、私が、世人が、はっきり認識したのも、この前後ではなかったか。

(『鏡獅子』について勘三郎自身の談話を取材しているとき、私はひとつおもしろいことに気がついた。このNHKの番組に応じたときのことを、勘三郎は二十歳の初演のときのことと答えたのである。もしかするとこれは、とっさの場合の勘違いであるのかも知れない。だが、仮にそうだとしても、勘三郎のこの「勘違い」は私には興味深かった。勘三郎のなかで、六代目菊五郎の『鏡獅子』という「聖域」に肉薄することを通じて得たものが、「初心」として、揺るぎなく定着しているのに違いない。そう思って、わたしは、敢えてそれを勘三郎に問いただすことをしなかった。)

20・「ね」の章 (談話:『鏡獅子』について2)

―――『鏡獅子』は、去年(二〇〇七年)の正月に歌舞伎座で踊ったのが、初演以来できたかなという感じですね。三十何年かかって。で、あと何年踊れるかということになって、前にも言ったかもしれないけれど、もう毎年踊っていたい。回数を何回じゃなくて。やっぱり肉体が滅びていくわけですよね。それが味になって行かなければならないわけじゃないですか。これは紀尾井町のおじさん(=二代目松緑)の名言だと思うんですけど、ぼくが『車引』の梅王を習ったときに、オイ、お前ね、おれは若いときは梅王の格好がよくできたんだよ、でも心がわかんなかった。いまは心はわかるんだよ、でも格好がなかなか出来ないんだよ。だから、心と体がぴたっというのはなかなかないよって。

―――これはねえ、本当だと思うの。だからそういう意味で『鏡獅子』も、獅子はまあまあ、いつまでも出来るでしょう。けれど弥生は処女だし、容姿もあるし、体を維持して体を使って踊るものだから、そうなったときに、何時やめるかっていうことがいつか来るでしょう。でしょうけれど、それまでに、さっき言った聖なる山に行くとね、いま何合目まで行ったのかは知らないけれど、いまも山を登ってるんですよ。ただその山の登り方がね。

―――まあ稽古はいろいろしました。したんですけども、ただこないだの一月は、一カ月のうちに一日ぐらいでしたね、ちょうど菊之助の見に来た日が駄目だったってあとで笑ったんだけども、あの日だけでしたね、なにか雑念が入ったのは。あとはほとんど無心でした。だからおこがましいことを言うと、お客さまが入っていなくても、踊れた感じがするんです。

―――『鬢(びん)水(みず)に」っていうところで自分の顔を鏡に写す振りがあるんですけど、調子がいいと自分の顔が本当に写るんですよ。錯覚ですよ、もちろん。だけどそれが非常に多かったっていうか。いろんなこと考えない。ただ音楽が鳴る、体が動く、気がつくと終ってるって感じ。それは扇を落そうと(まあ落さなかったですけどね、たぶん)関係ないんですよね。何故か、なんかそういう風な状態でした。また今度やったときにどう変わるか。それはまだわからないんですけど、そんな風な『鏡獅子』でしたね。

―――初演の時ってそうなんですよ。教わった通り。そりゃあもう船頭がいっぱいいたから。宗家(=藤間勘十郎)でしょ、家の親父でしょ、それから家のおばあちゃん(=六代目菊五郎未亡人)がいた、おふくろはまた、ちょっと陰の方で口を出すし、それから西川の家元(鯉三郎)が教えてくれた、それと若村菊さん、それは錚々たるメンバーだ。そういう人たちが教えてくれたことを忠実にやった。初日に獅子が終って引き上げてきたら、それしか覚えてない。無我夢中ってやつね。そうすると、まあまあ、よかったって言われたんですよ。可憐だとか。当り前ですよ、まだはたちで何も出来ないんだから。

二回目にやったときは、なぞったんですね。自分じゃできなかった。もうやめようかなって思ったんですけど、いやそんなことはないっていう。そういう状態がしばらく続きました。

―――転機といえば、いろいろなところで話したことですけど、松竹座の杮落しの時の初日、新しい劇場なのでツーンと桧の匂いがしてね、ああこういう感じか、ってのがまずひとつありました。あともうひとつは、あの9・11。あのときぼくはアリゾナに行ってて帰れなくなった。岡山の後楽園で「かがり火歌舞伎」というので『鏡獅子』を踊る約束をしていたんで、何とか帰ってすぐ、後楽園のお城の前で、ぶっつけ本番で踊った。準備も何もない。そのときにね、よかったんですよ。追い込まれてるし、見せようとか何とか、そういうことがない。ああ、こういう感じなんだ、っていうことを思った。何か漠然とですけど。それからまた稽古をやり直して、それでこないだ、非常に気持よく踊れた。これが続くかなと思ってるんですけどね。

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随談第490回 勘三郎随想(その21)

17.「れ」の章

さてここで、勘三郎にとっての『鏡獅子』という踊りについて、語らなければならない。これこそが、父十七代目勘三郎を経て、祖父六代目菊五郎へとまっすぐにつながる、勘三郎にとっての芸の核心だろうからだ。先に見た『髪結新三』をはじめ、六代目菊五郎から父十七代目を経由して十八代目勘三郎へと伝わる演目は少なくないが、勘三郎自身、自分のなかにある六代目菊五郎への憧憬と、そこへつながる自身の芸の筋道を、『鏡獅子』の中に見ているように、私には思われる。

ちょっと解説風なことを言うと、この曲には原曲があって、『枕獅子』という、題名からして隠微なイメージのその原曲は、遊女が枕を手にして踊るという遊里を背景にした舞踊だった。後半は獅子になるが、「石橋(しゃっきょう)」という、天竺の清涼山に出現する霊獣である獅子の狂いを見せる能楽の舞を歌舞伎に取り入れ、しかもそれを、傾城姿の女形が踊るというのが趣向になっている。だから獅子といっても、牡丹の花で飾った二枚の扇を手獅子に見立てた優美でたおやかなものである。優美だが、その根元には傾城が枕をもって振りをするという濃艶な色気がある。その色気こそが、歌舞伎の本来を支える生命だった。

その『枕獅子』を本歌取りして『鏡獅子』に作り変えたのは、明治の歌舞伎改革者として毎度名前の出てくる九代目市川團十郎で、明治二十年代という時代の志向、歌舞伎を遊里趣味から脱却させて典雅高尚なものに改良しようという團十郎自身の指向などが絡み合って、團十郎は、遊女と枕という隠微な連想を伴うモチーフを消して、鏡開きと女小姓という清純で高等なイメージへと転換させた、というのが近代歌舞伎の教科書風記述のおさらいである。

従来の女形舞踊の概念を破って、後ジテの獅子を豪宕・勇壮な、前後の対応を振幅の大きなものに作り変えた。前段の可憐な乙女と、後段の力強い獅子の精の双方をひとりの役者が踊り抜く。それこそ、歌舞伎俳優ならでは出来ないことであって、古い歌舞伎の殻を破りながら、きわめて歌舞伎的である、という意味で、團十郎の考えた歌舞伎改革は、この『鏡獅子』に最も成功した形で結晶しているといえる。

しかいその頃すでに老境に入ろうとしていた團十郎は、明治二十六年三月の歌舞伎座での初演は好評であったにもかかわらず、その後は一度再演したきりで終わっている。体力を要するむずかしい振りをつけたからだとされる。たとえば、前ジテの踊りに、中ダメといって、ふつうなら膝をつくところでつかずに、膝を曲げたまま、ふわりと身体を宙で支えるようにしてきまる、つまり身体を溜めた姿勢のまま一定時間静止する、という振りが随所にある。強靭な足腰の筋肉が必要となる。触ってごらん、と言われるままに、一度、勘三郎の太ももに触れてみたことがあるが、まるで陸上競技の選手のような筋肉だった。激しい動きをする後ジテの獅子の狂い以上に、前ジテの乙女の踊るくだりの方に、体力的には一倍苦しい振りがついているのだ。皮肉でもあり、高踏的ともいえる。

手獅子を持ってからのくだりも、後見の操る蝶々に見とれている内に、手に持った獅子頭が生き物のようにカタカタと音を立てて動き出して、舞い遊ぶ蝶を追う。弥生はその手獅子に引っ張られるように花道へ連れていかれる。花道で倒れるが、獅子の精が乗り移った手獅子は蝶を追って鳴り続け、弥生は引き起こされるように立ち上がると、そのまま花道の奥へと引き込まれてゆく。

と、見たさま本位に書くとなるが、じつはいうまでもなく、演じる者がそう見えるように手獅子を扱い、本舞台から花道へと駆け込むわけで、これもまた、皮肉であり高踏的な演出といえる。技巧としても体力的にも一番至難なのは、花道でいちど倒れたあと、手に持った獅子頭に引きずられるように立ち上がるところだといわれる。ここは、弥生は獅子の精に操られるままに、自分の意志に背いて動くのだから、自分から立ち上がるように見えてはいけない。

もちろん、後ジテの獅子になってからも、毛の振り方にも幾種類かの技巧があり、体力的にも激しい動きがあるから、高齢になっても踊れるというものではない。といって、未熟な踊り手だと、毛を振り切れないでしまうという光景もまま見かけたりもする。

こうした、技巧としても身体運動としても非常に困難な振りをつけたために、團十郎の後は、大正三年に若き日の六代目菊五郎が取り組むまで、本興行の舞台に乗ることはなかった。このときに菊五郎は、團十郎の実の娘である実子(じつこ)と扶伎(ふき)子(こ)のふたりにつぶさに教えを受けている。ふたりは、それぞれ二代目の市川翆(すい)扇(せん)に市川旭(きょく)梅(ばい)という芸名を持つ女優であり、旭梅はのちの新派の名女優三代目翆扇の母でもある。九代目團十郎が『鏡獅子』を初演したとき、前ジテから後ジテに扮装を変える間のつなぎに踊る胡蝶を演じたのは彼女たちだったから(女性が歌舞伎の本興行の舞台を踏むのは当時としては珍しく、話題となったらしい)、その折手ずから團十郎の教えを受け、振りを知悉していたのだった。そもそも團十郎が『鏡獅子』の発想を得たのは、姉妹が家で『枕獅子』の稽古をしている様子を見ているときだったといわれている。

ともあれ、菊五郎は翆扇・旭梅を通じて團十郎の『鏡獅子』をつぶさに学ぶことで、本格を受け継ぐ者としての自負を獲得した。だがそれと同時に、いま私たちの知っている『鏡獅子』は、ある意味では、六代目菊五郎が作ったのだ、とわたしは思っている。

大正三(一九一四)年から昭和二十(一九四五)年までの約三〇年間に、菊五郎は数知れぬほど(二十一回といわれる)『鏡獅子』を踊っている。それによって大正・昭和の観客に『鏡獅子』という踊りのイメージを定着させたことになるが、それはまた、ひるがえっていうなら、菊五郎と同じ時代に生きてその芸を支持した観客によって、『鏡獅子』は作られたのだということでもある。いま国立劇場のロビーに飾られている巨大な木彫による「鏡獅子像」は、木彫家平櫛(ひらくし)田中(でんちゅう)によって、昭和十一年ごろの、最盛期の菊五郎をモデルにして製作されたものとしてよく知られているが、頬のふくよかな丸顔に獅子の隈が見事に乗って、それ以降、いまでも、『鏡獅子』といえば丸くふくよかな顔でないとそぐわないようなイメージが定着している。だが、写真に残る九代目團十郎の『鏡獅子』を見ると、人一倍長い顔なのはともかく、いまわれわれが抱いているイメージとは距離がある。やや異質な感すらあるといっても過言ではない。闊達で明朗な獅子は、團十郎も知らない近代の観客の志向の反映である。弥生の清純も同じだろう。『鏡獅子』には、古い歌舞伎が宿していたに違いない翳のようなものが一切ない。振りは團十郎の踊った通りであったとしても、明るく晴朗で華麗な、近代の観客が歌舞伎に求めた美しさだけで成り立っている。平櫛田中の制作した『鏡獅子像』は、そうした近代歌舞伎のエッセンスを見事に造形化しているように、わたしには見える。菊五郎ののち誰が踊っても、『鏡獅子』のこの性格は変ることはない。

『鏡獅子』の弥生だけではないが、若い娘の役のとき、菊五郎は眉を細い八文字のような、下がり眉に描くことをはじめた。一九二〇年代にイット女優といわれて人気のあったハリウッド・スターのクララ・ボウの眉の描き方に似せたのだ、という評判が立った。戸板康二さんはこれを、自分の丸顔に配慮したためであり、そのころの人気女優松井須磨子などと相似点があると指摘している。明治の美人の典型だった瓜実顔が丸顔にクイーンの椅子をゆずる時代と時期が重なるとすれば、これは演劇史と風俗史の交叉を論ずるためのテーマにもなり得る、というのが戸板さんの意見だが、つまり菊五郎は、新歌舞伎十八番『鏡獅子』の前ジテの扮装に、当時の現代女性のメークを取り入れたのだ。

六代目菊五郎の『鏡獅子』には、もうひとつ、映画として撮影され今日でも見ることの出来る映像の『鏡獅子』がある。この映画の製作にまつわるさまざまな事情もからんで、菊五郎自身はその出来栄えに不満をもっていたとも伝えられが、昭和十年という最盛期の菊五郎の姿をとらえ、小津安二郎が監督をつとめるというもうひとつ話題におまけのついたようなこの映画は、本来、菊五郎の『鏡獅子』によって日本文化を海外に紹介するという目的で作られたものだった。つまり、菊五郎の『鏡獅子』は、その時点で、海外に対する日本文化という背景を背負って、歌舞伎を代表するシンボルだったことになる。

18.「そ」の章 (談話・『鏡獅子』について1)

―――六代目のおじいさんは、見ぬ人であり、身内であり、写真集であり、うちのおばあちゃんであり、母であり父であり、いろんな人からいろんなことを聞いたり、いろんなもの読み漁ったりして、ぼくのなかに出来上がっているんですよ。

―――あの映画になって残っている『鏡獅子』ね。あの踊りの格好がね、どんなに腰を折ってどんな形をしていても、皆さんも写真を見ていただくとわかるけど、定規を当ててみますと、こういう風に頭からお尻の穴まで見事に真直ぐなんですよ。ぶれない。このぶれない踊りを踊るのは、これはやりたいなと思ってね。それから、いろんな文献を読んだり、それからまあ、神谷町のお義父(とう)さん(=中村芝翫)もそうだし家の親父もそうだし、松緑さんもそうだし羽左衛門さんもそうだし、いろんな人がいろんなことを言うんです。いろんな人がいろんなことを言うような役者が自分のお祖父さんにいたっていうことがね、なにかこう駆り立てられたし、また踊りの話とかなんかも、ぼくが踊りを踊らせていただく上でも、非常に参考になりましたね。

―――それから『鏡獅子』の顔もずいぶん真似をして描いた。新橋演舞場の二階のロビーにうちのお祖父さんの肖像が飾ってあるでしょ。あの、羽二重をつけた顔だけのやつね。あれがそっくりだっていわれるの。そりゃあそうだ、俺、真似してるからね。真似してもやっぱり血がつながっていなければ、あそこまで似ないかなっていう気持ちがありますよね。自分で見ても似てますよ。

―――『鏡獅子』って踊りは特別なものなんですよね。六代目にとっても特別なものだったと思います。昔の新聞の切り抜きを、どなたかが父に下さったのがあって、それを見ると、「鏡獅子」って書いて「ろくだいめ」って仮名がふってあるんですよ。鏡獅子、イコール六代目菊五郎っていうわけね。この間、エベレストを見にネパールへ行ったんですけど、ああいう神聖な山を見ると、自分がどこまで行けるか、そういう風な気がしてきますね。

―――前に、高校生ぐらいの時だったかなあ、三越で六代目菊五郎展ていうのをやったときに、あの『鏡獅子』の映画を見せたんですよ。それを毎日見に行きましてね、「(口三味線で)獅子は勇んでトッツルテンツルトッツルテン」て、自分も首を動かして首の位置を写し取りました。そんなことやっても意味ないかも知れないけれど、それをやったお陰であそこのシーンになると、あの映画の感じの通りの首使いは出来るようになりました。恥ずかしいような話だけれども、そのぐらいなにかこう夢中で通いましたね。

やっぱり本物を見たかったですね。それはもう、間に合わなかったから仕方がないんですけど。

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随談第489回 勘三郎随想(その20)

16.「た」の章

十七代目の、ひいては「菊吉」の話が、続きすぎたかもしれない。十八代目のことをよりよく語るために、話をそこまでさかのぼらせたのだが、ここらで、それが十八代目とどう関わっているかに、話を進めなければならない。

十八代目が、十代の少年時代に父の十七代目と踊った『連獅子』のことを前に言ったが、あれが、少年時代の十八代目を象徴するものだとすれば、それ以上に、十八代目を語る上でどうしても欠かすわけにいかない二つの舞台がある。ひとつは、昭和五十一(一九七六)年四月、二十歳直前に踊った『鏡獅子』、もうひとつは、それから十年後の九月、三十歳のとき踊った『鏡獅子』である。

昭和五十一年四月、この月の歌舞伎座は前にも言ったように「江戸歌舞伎三百五十年猿若祭」と銘打った豪華顔合わせだったが、その一演目として二十歳の青年中村勘九郎の踊った『鏡獅子』のめざましさが、興行全体の成果を浚うほどの大評判となった。いま思い出しても、その規矩正しく凛然とした、しかも血湧き肉踊る躍動感は、ある実感を伴って私の中に生きている。

興行全体の成果を浚う、といったが、この月の顔ぶれの豪華さといったら並のものではない。ほぼ三十年前のこの頃、戦後歌舞伎はその最も熟した季節を迎えつつあった。昭和二十四年と二十九年に、菊吉、つまり六代目菊五郎と初代吉右衛門の死があって、このふたつの死を契機に、主力が世代交代してから、既に四半世紀が過ぎている。菊吉の後を担ったのは、六世中村歌右衛門と七世尾上梅幸を立女形とし、十一世市川團十郎、八世松本幸四郎、二世尾上松緑の三兄弟に十七世中村勘三郎のビッグ6(シックス)を中心とする面々だった。いずれも、生年が明治四十年代から大正初期にほとんど集中している。十一世團十郎のみはこの時より十一年前に早世していたが、年齢にしてほぼ六十代、それぞれに円熟、爛熟のさなかにあった。

また、この人々の子供たちも、ようやく若手時代の生硬未熟さを払拭して、中堅世代への橋頭堡を築きはじめていた。後の名前に統一させて言うと、十二世團十郎、七世菊五郎、九世幸四郎、二世吉右衛門、初代辰之助(三代目松緑)といった人たちの間へ、現在の仁左衛門の片岡孝夫と玉三郎が、「孝玉」とか、頭文字をとって「T&T」などと呼ばれて惑星のように参入してくる、というのが、現在の第一線クラスの人々が当時描きかけていた勢力分布図だった。

こうした季節の中で、十七代目勘三郎が「江戸歌舞伎三百五十年猿若祭」と銘打つ興行を主催するというのも、いまやその栄華の頂点に立ったことを誇らかに示すものといえた。『弥栄(いやさかえ)芝居(しばいの)賑(にぎわい)』という外題のついた「芝居前」では、幸四郎・松緑以下の男伊達、歌右衛門・梅幸以下の女伊達がずらりと並ぶ中、十七代目の扮する座元猿若勘三郎が、二十歳の倅勘九郎の扮する若太夫を従えて手締めをした。栄誉という意味では、五年前に亡父の三世中村歌六五十年忌の興行を実現したのと並んで、十七代目はいまその絶頂に立つものともいえた。このとき勘九郎二十歳目前、この記念すべき場に、その爽やかな若太夫ぶりは誰の目にもあざやかだった。その凛とした姿を見ると、むしろこの猿若祭は、丁年に達した勘九郎を、満天下に披露するためのようにも思われた。

ビッグ6の他の面々の子供たちの中で、彼勘九郎ひとりが、年齢的に離れている。十七世勘三郎は、親世代のなかではむしろ最年長の世代であり、同じ市村座の子役として育った中でも、八代目三津五郎や十四代目守田勘弥などとともに(ふたりとも、まったくの偶然だが、前の年の一月と三月に相次いで世を去っていた)、大正中期までの、「菊吉」が相拮抗して勢力と人気を二分した、いわば市村座時代前期の空気を吸って育った世代であり、梅幸や十七代目羽左衛門等、吉右衛門が去って六代目菊五郎の一人天下となって以後の、市村座時代後期に育った世代とは、その芸風や感覚に微妙な差異をみせていた。それにもかかわらず、その十七世勘三郎の子が、ひとり年齢に開きがあるのは、四十七歳という歳になってようやく授かった男子だったからというより他はない。このことはやがて十八代目を考える上で見逃せない意味を持つことになるのだが、ともあれこの時点では、ようやくいま、大人の役者の仲間入りとしてのスタートラインに立ったものと受けとめられたのだった。

父の十七代目は、この興行の中心として、昼の部では『加賀見山(かがみやま)旧錦絵(こきょうのにしきえ)』の老女岩藤という女の敵役で、歌右衛門の尾上、梅幸のお初という当代の立女形ふたりを相手に悪の魅力を愛嬌をたっぷりに演じ、夜の部では、五代目・六代目と二代の菊五郎の芸を継承した『弁天娘女男白浪(めおのしらなみ)』通称「白浪五人男」の弁天小僧を演じ、爛熟の芸を見せた。柿なら熟柿、ワインなら年代物の古酒の味か。ある意味では、この時機に至って十七代目は、亡父歌六から受け継いだ古い役者の血を、それまで以上に芸の上に濃厚に顕わしはじめたともいえる。それは、弁天小僧のような、菊五郎直系の音羽屋の家の芸の上にも顕われ、玄妙複雑な味わいを見せていた。十七代目勘三郎、このとき六十七歳。

そうした中での、二十歳の勘九郎の『鏡獅子』だった。『娘道成寺』とともに女形舞踊の大曲として、ふつうなら、一日の中心に据えられる演目だが、このときは夜の部の最後に置かれていた。この大一座の中で、勘九郎の出し物としてはこの位置に置くしかない、苦肉の策だったのだろうが、老練の劇評家の志野葉太郎さんは、戦前からの数々の大舞台を見てきた人らしく、演目立ての坐りの悪さに苦言を呈しながら、同時に、その坐りの悪さを救ったのが勘九郎の好演であり、『芝居前』の若太夫といい『鏡獅子』といい目を見張る出来を見せ、夜の部はまさに勘九郎の「夜の部」といった趣きさえあると絶賛している。

夜の部の最後の演目といえば、観客は、一日の観劇を楽しみつつも快い疲れを覚えながら、くつろいで見るのが普通だが、その最後にいたって、それは倦怠を吹き飛ばすような鮮烈な舞台だったのだ。このときの『鏡獅子』こそ、一個の自立した役者としての十八代目勘三郎のデビューだったのだと、私は思っている。若い花形俳優が踊る『鏡獅子』を若獅子と評するのはよくある表現だが、このときの勘九郎こそ、そんな手垢にまみれた常套句とは無縁の、まさしくその名にふさわしい若獅子だった。

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随談第488回 勘三郎随想(その19)

14.「か」の章

そろそろ「勘三郎随想」を再開しよう。が、もうしばらく、十七代目の話を続けたい。十八代目のことを考える上で、どうしても必要だと思うからだ。ちょっとばかりお勉強風の固い話になるが、しばらく辛抱してお読みいただきたい。

長兄初代中村吉右衛門、次兄三世中村時蔵と、歳の離れた兄を持ち、その兄たちとは幼い日々を共にすることなく育った十七代目勘三郎という役者の、芸とその人となりを考えるとき、おそらくふたりの兄たちよりも濃厚に、父三世歌六の気質を受けていると思わずにはいられないが、それが十七代目にとって、より多く無意識の領域に属するものとするなら、長じてから、より意識的に多くを学び、多くを血肉として受けついだのが、六代目尾上菊五郎の芸だった。

十七代目がいかに六代目菊五郎を崇拝していたかについては、本人だけでなくさまざまな人たちによって、既にあまりにも多くのことが語られている。その中からひとつだけ挙げるなら、若き日の十七代目自身の姿をも同時に語っているエピソードとして忘れがたいのは、ときに兄吉右衛門と一緒に暮らしていた家から抜け出しては、菊五郎の家へ駆けつけて、一門の若手や門弟たちなかに混じって、菊五郎の話を聞いたという話である。

菊五郎は、一日の芝居が終わってから、晩酌を豪快にやりながら、のちの梅幸や松緑をはじめ一門の子飼いの者たちを前にはべらせて芸の話をするのが習慣だった。もちろん、酒が入っての、心を許したものばかりを相手の水入らずの場だから、改まった芸談というより、文字通りの放談のなかにおのずから芸の話が随所にとびだしてくる、といった趣きであったらしい。ときには、オイおめえ、『道成寺』のあそこのとこ、ちょっと踊ってみろ、などと不意打ちを喰らわされることもあって、平素の精進のほどを試されることにもなる。

菊五郎の芸談のうまさ面白さはさまざまな逸話となって伝わっているが、連日のようにこれが夜更けまで続く。身近の者にとってはときに煙たくもあったに違いないことも、参加することのかなわない者には、いても立ってもいられないまでの羨望の対象となる。菊五郎と兄の吉右衛門は、「菊吉」と併称され、万事につけライバル視される間柄であると同時に、性格から趣味、暮らしぶりにいたるまで、見事なまでに対照的だったらしい。奔放闊達な菊五郎に対し、慎重小心な吉右衛門は、菊五郎を憧憬、崇拝する弟にとっては、気欝でもあり、板ばさみのような苦悩も味わったに違いないが、そうしたふたりの目に見えない対立葛藤の狭間に、おのずから立つことになったのが、十七代目のいわば宿命だったといえる。

はるか後になって、十七代目は菊五郎を岳父(ちち)と呼ぶめぐり合わせの当事者になる。その長男として生まれた十八代目が、「菊吉」双方の血を最も濃く引く者、と目されたのも、こうして十七代目の思いをたどってみれば、単に、近代歌舞伎の両巨頭の血を引く者、というだけではすまない、ほとんどその役者人生のすべてを貫く因縁と絡み合う意味合いを持つものであったことが見えてくる。その意味で、十八代目勘三郎は、生まれながらにして、「菊吉神話」に包まれた申し子だったのだ。

もちろん、現在「菊吉」の名跡を名乗る現七代目菊五郎も、現二代目吉右衛門も、菊五郎なり吉右衛門なりの栄光を受け継ぐ者たちであることに変りはないが、十七代目という存在を介在させて菊吉双方の芸と血という観点に立つとき、二代の勘三郎の持つひときわユニークな意味が見えてくる。

「團菊」と呼ばれ、九代目市川團十郎とともに明治の歌舞伎を代表した五代目尾上菊五郎という覇者を父に持つ、生まれながらにして名門の御曹司として人となった六代目菊五郎に対して、中村吉右衛門という名前は、自身が初代という歴史の浅さを察知させる。この家は、役者の系図としては、吉右衛門には祖父にあたる初代中村歌六からはじまるに過ぎない。だがこの家系は、傾城の役を得意にしたので傾城歌六と仇名がついたという初代から、その子である三代歌六を経て、初代吉右衛門、三世時蔵、十七代勘三郎の三兄弟から、現在の十八代目勘三郎やその姉の波乃久里子や、血縁の九代目幸四郎、二代目吉右衛門、さらには現在の五代目時蔵、五代目歌六、三代目又五郎等まで考えても、その芸といい気質といい、これほど役者の血を濃厚に感じさせる家も滅多にない、芝居巧者の家系であることが、あらためて見えてくるだろう。(いうまでもないが、三世時蔵の子で早世した四世時蔵、映画界で大成した萬屋錦之介や中村嘉葎雄らも、この大系図を構成する有力なメンバーだし、まだ将来は未知数とはいえ、三代目歌六の血を引く若手たちが大勢、後に続いているのはご存じの通りである。)

またこの家は上方の出自であり、明治初年、三代目歌六が若き日に東京に出てきたという家でもあった。義太夫狂言を得意とする役者としての身についた教養、芸風が、それを反映している。吉右衛門は、江戸前の世話狂言を家の芸とし、代々、江戸前という美学の体現者でもあった菊五郎に対し、時代物の義太夫狂言をその芸の根幹に据えることによって、明治の「團菊」に対する「菊吉」として、大正・昭和の歌舞伎の両頭目の地位にのしあがったのだった。十八代目が襲名披露の演目として演じた『近江源氏先陣館』通称「盛綱陣屋」は、初代吉右衛門の当たり役であり、東京の歌舞伎に人気曲として定着したのも、吉右衛門があればこそという由緒がある演目だった。(それと別に十五代目羽左衛門に始まる系譜もあるのは無論だが。それにしても『盛綱』にせよ『石切梶原』にせよ『引窓』にせよ、「團菊」を経ないで、吉右衛門と羽左衛門と、もうひとり初代鴈治郎と、この三人によって伝えられた今日の代表的な丸本時代物が三本もあるのは不思議である。)

十七代目も、ある時期から、『俊寛』とか『桔梗の旗揚』の光秀とか、兄吉右衛門の当り役を手掛けるようになり、盛綱も二度、演じている。十八代目が襲名の演目として選んだのも、たぶんご当人としては自然のことだったろう。しかし、昭和四十五年五月に「三代目歌六五十回忌追善」と謳って、十七代目が祭主となって盛大な興行を催した時(八代目幸四郎も十三代目仁左衛門も七代目梅幸も皆、口上の席にずらりと並んだのを見やりながら、ここにいるのは皆すべて、親類でございますと挨拶する十七代目の得意満面の様子が忘れられない)、歌六って歌舞伎座で追善をするほどの役者だったのかね、と囁き合っている声もあったのだ。

売り出した当初の菊吉を評して、というのは明治も四十年ごろの話だが(十七代目の生まれたのは明治四十二年である)楠山正雄という当時気鋭の批評家が、六代目菊五郎は親の死後、当然のごとくに家督を継いだ男、吉右衛門は丁稚小僧から番頭にまで出世して暖簾を分けてもらった苦労人という見立てをしたことがある。六代目菊五郎の自負を支える根拠として、父五代目の子であると同時に、少年時代に、茅ヶ崎にあった九代目團十郎の別荘に預けられて、芸の基礎を團十郎みずからの手で叩き込まれたということがあった。つまり菊五郎には、芸の上からも血の上からも、明治の歌舞伎を制覇した團菊直系の衣鉢を継ぐ者という誇りがあったのである。

一方の吉右衛門を、丁稚小僧から番頭に出世し、暖簾を分けてもらった苦労人とたとえたのは、少し辛らつすぎる比喩であったかもしれない。(むしろこの楠山のような言い方が、菊吉二人の対照を更に誇大化したきらいもあったのではないかという気もするが、この際それは他日の論としよう。)少なくと六代目菊五郎と対比し、一面を穿ったという意味では巧みな比喩であったのも事実で、吉右衛門は子役というのは初舞台のときしか経験していない。子供芝居といって、子役の年齢を過ぎたぐらいの少年ばかりで一座を組ませた興行が大人気を呼んだ、そのスターとして売り出したからである。ここにも、同じころ團十郎の別荘で英才教育を受けていた菊五郎との対照があるわけだが、ともあれ吉右衛門という人は、幼くして売り出した日から、腕達者な役者として知られ、倦まずたゆまず精進をつづけてきた人だった。スターでなかった日は一日もなかった代わり、時の来るまでゆっくりと力を蓄えるという豊かな日々は知らなかった人であったかも知れない。夏目漱石の門下で、のちにドイツ文学者として知られた小宮豊隆が、若き日に『中村吉右衛門論』という論文を書いて、その芸をロダンの彫刻になぞらえたりしたのも、そうした日々のことだった。

そういう、何から何まで対照的な六代目菊五郎と初代吉右衛門が、並び立つ両雄といった風に見られるようになったのは、一にも二にも市村座以来のことである。田村成義という歌舞伎座の参謀格だった興行師が、自身の資本で始めた市村座の興行は、明治の「團菊」にならって「菊吉」と呼ばれるようになったこの二人によって、近代歌舞伎史に大きな足跡を残すことになる。「市村座時代」あるいは、所在地の地名から「二長町時代」と呼ばれる菊吉並立の時代は、明治四十一(一九〇八)年から、吉右衛門が突如脱退する大正十(一九二一)年まで続く。前にも書いたが、十七代目勘三郎の役者人生は、幼名の米吉を名乗ってこの市村座で初舞台を踏んだのがはじまりだった。また六代目菊五郎との出会いも、この市村座だった。十七代目こそ、市村座の申し子なのだった。

15「よ」の章 (談話・父十七代目勘三郎のこと)

―――家の親父のことで凄いなと思うことといったら、端的に言えばお客さんを引きずりこむ、なんだろう、粉かけちゃう、金の粉かけちゃう。出てきただけでね。何ともいえないって言う、その何ともいえないって感じですね。

――― 一番、これは凄いなと思った役というのは、後にも先にもね、『馬盥』の光秀。しかも一日だけ。これ好江(=勘三郎夫人)も言いますね。舞台はNHKホール。変なとこですよ、花道も半分しかなくて。だけどよかったよお。あのね、銀色してました、光秀が。銀色。もう光秀だったんだ、ずーと。出から最後まで。熱が入ってたんだなあ。あれは、もう、おったまげましたよ。もう、なんか、あれがちょっと突出してるかな。どこがどうってことは言えないのよ。もう、凄い塊りが動いてた。

―――それから、これはまあ芸を見るというのとちょっと違うけど、子供のころに、自分が息子として見てて、同世代の学校の友達に見せたいと思いましたね。うちの親父の芝居を見せたかった。だって歌舞伎って難しいじゃないですか。小学校五、六年生ぐらいのとき、友達に歌舞伎っていったってそうは見てくれないですよ。でも、家の親父の『高杯』だったら、友達もみんなわかるんじゃないかとか、そんなことを考えましたね。だって楽しいから。それをすすめたかった。

それと同じようにうちの子供たちも言ってくれるんですけど、俺がやっているたとえば『狐狸狐狸ばなし』みたいんだったらわかりいい。中学の一、二年生のころに、絶対面白いんだから見においでよってことが言えたって。

―――やっぱり面白いっていうことではさ、家の親父の右に出るっていったら、一人しかいなくて、(二代目)鴈治郎さんでしょうね。なんともいえない役者だよ、両方ともね。それが、ある意味大切なことかもしれないね。小学生の俺が、同級生に家の親父の歌舞伎だったらわかるんじゃないかっていうのは、ありましたね。それからあと、親父の役で好きだったのは、『筆屋幸兵衛』。よかったですね。

―――こないだのあなたの幸兵衛を拝見して、お父さんのより雄々しい感じがしました。あの、子供を殺そうと決意して片足をぐっと踏み出すところとかね。お父さんのは、子供を刺そうとすると子供が無心に笑うので、刺し殺そうとした短刀を玩具の代わりにひらひらさせてあやしはじめるところ。どうしたって泣いちゃいますよね。でも、女々しいといえば女々しい。お父さんの方が泣かせてくれたけど、あなたのは、それは敢えて避けたのかなと思ったけど。

―――ああ、それはね、反面教師というか。そう、それは敢えて避けました。おっしゃるとおり。

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随談第487回 机上の妄論(その3)

池袋の新文芸坐で三国連太郎の特集をやっているのでデビュー作の『善魔』と『あした来る人』『異母兄弟』の三本を見た。『善魔』が昭和26年、『あした来る人』が30年、『異母兄弟』が32年で、私にとっては小学校から高校時代にかけてに当るこの時代の日本映画というのは、映画自体の内容だけでなく、そこに写っていること、描かれているものすべてが、いま見ると無性に面白い。二本立てだから、本当なら『異母兄弟』と同時上映の日活裕次郎映画『鷲と鷹』も見たかったのだが時間の都合がつかずあきらめざるを得なかった。しかしこれは去年、日本映画チャンネルで再会を果たしていたから、まあ諦めがつく。この特集はまだ始まったばかりで、ほぼ年代順に上映するから、名優の誉れ高くなってからの中期以後の諸作が上映されるのはこれからだが、私にとっては、これだけ見られたことで取り敢えずは満足できるというものだ。

亡くなったときにも書いたように、私は三国連太郎の格別のファンでもなければ良き観客でもなかったが、関心は常に持っていた。というより、持たざるを得ない何ものかを感じさせる俳優だった。その存在自体が「映画俳優」というものである俳優、と言おうか。その演技、存在感、その在り様が、まさに「映画俳優」以外の何ものでもない俳優。名優だの何だのと言われる俳優というのは、大概、歌舞伎にせよ新劇にせよその他何にせよ、どこかで舞台につながっている。いわば板の匂いがする。三国連太郎が舞台に立ったことがあるかどうか知らないが、その如何にかかわらずスクリーンを通じて見るその存在、その演技に舞台俳優の気配がない。(まあそれは、田中絹代にせよ高峰秀子にせよ舞台の匂いのない名映画俳優はいないわけではないが、この際、その話にこだわっている暇はないから、別の機会にしよう。)

ひとついえるのは、三国連太郎の場合、それが「知」の在り方と関わっているらしいということである。これも既に書いたように、いわゆるインテリ俳優・知性派俳優は少しも珍しくないが、三国連太郎の「知」の在り方はそうした在り来たりの「知」とは全く違う。奇しくも『善魔』では、一方の知性派俳優森雅之の演じる役と対照的・対称的な存在としての「善魔」である人物の役である。もちろん、森雅之だってそこらの知性派俳優とはまるで違う俳優だが、その「知」の在り方は、われわれにも理解できる「知」であることに変りはない。当時の日本映画界に、この映画の森雅之の「知」を批判しうる「善魔」の役を演じ得る俳優はいず、それがいなければこの映画は成立しない。思えば、その「善魔」の役を演じて一介の「ただびと」から俳優となり、その役名「三国連太郎」を終生の芸名とした三国連太郎という存在は、この処女作の中に結局は収斂されるとも言えるかもしれない。その意味で、三国連太郎という「善魔」を発見した木下恵介の慧眼はただならぬものだったというべきだろう。三国がときに「怪優」と言われるのは、『異母兄弟』で主人公の老残の姿を演じるのに歯を全部抜いてしまった、という常軌を逸した逸話がそう言わせるからだろうが、じつはそうした行為そのものが、彼の「知」の在り様と深く関わっているところが、わたしに興味を抱かせるのだと思う。

まあともあれ、三作品それぞれを、私はこよなく興味深く見た。『善魔』に出てくる桂木洋子(いうまでもないがのちに黛敏郎夫人となる人である)や、『異母兄弟』に出てくる中村賀津雄、南原伸二、高千穂ひづるの瑞々しさはどうだろう。まだ二〇歳前かと思われる中村賀津雄が画面に映った瞬間、覚えず涙が眼尻からこぼれたが、それは単に懐かしさだけが理由ではない。(高千穂ひづるなど、当時は東映の時代劇映画でさんざん見ていたのだった。南原伸二は東映大泉の現代劇俳優で、警視庁シリーズというので売出し中だった。高倉健が登場する前の東映現代劇のホープだった俳優である。)『あした来る人』も、私は井上靖の原作小説が朝日の朝刊に連載されたのを第一回から読んでいて、中学生だった私に取っては、新聞の連載小説というものの独特の面白さを知るようになった幾つかの作品のひとつだという意味もあって、こよなくなつかしいのだが、その映画化であるこの作品のような造りの、良識ある安定した作調の映画が、当時の日本映画の良質部分の一隅に絶えず作られ、存在していたのだということを、久々に再開するあの場面、このシーンを見ながら、改めて思い出していた。

(もっとも何でも昔がよかったわけでもなくて、冒頭まもない食堂車の場面で窓から見る富士山が、山頂近くがあまりに近く見えているのが、あれでは富士山の中腹を走っているようで東海道線とは思えなかったり、『善魔』でも、ラスト近くの、森雅之と淡島千景がかつての愛をとりもどそうとする大事な場面に見える三日月の形が、ちゃちな時代劇の色模様の場面の月みたいだったりするのが何とも不自然だが、じつはこの手のことは、どんな名監督・大監督の作といえども、昔の日本映画ではちょくちょくあることだった。まあそういったことも、久しぶりに見ればそれはそれでなつかしいともいえないこともないけれど。)

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