随談第470回 勘三郎随想(その7)

断続的に続けると約束して始めた「勘三郎随想」が、どうも間遠になりがちである。勘三郎と生前に交わした約束を果たすという趣意からも、これから少し集中的に掲載するようにしたい。既に五年前になる、一度書いた「勘三郎論」の草稿を、勘三郎亡き今の目で読み返し、書き直し書き加えながら進めて行くことにしよう。このブログを通じて行なう限り掲載が断続的になるのは致し方ないが、できるだけ集中的に続けたい。

草稿は、『勘三郎48章』と題していろは48文字に章を立てたのだった。そこでまず

1.「い」の章

では、勘三郎襲名の時のことから、話の口を切ることにしよう。

いままで、幾人の襲名披露の舞台を見てきただろうか。しかし、その初舞台間もないころから見つづけてきた役者の襲名に立ち会うのは、また格別の思いがあった。

つくづくそれを思ったのは、新しい世紀に変わったその正月に行われた三津五郎の襲名のときだった。私が自前で歌舞伎を見るようになったちょうどそのころ、名子役として脚光を浴びていたのが、三津五郎の八十助であり、勘三郎の勘九郎だった。つまり彼らの舞台人としての人生は、私が歌舞伎を見つづけてきた歳月と、ほぼイコールの長さだということになる。格別の情の湧くのは、えこひいきなどということとはまったく別な、自然な感情である。

私の場合、彼らとの歳の差は、親子ではもちろんなく、兄弟でもなく、年若の叔父と甥の差にむしろ当る。叔父といっても、まだ半人前の中高生であったりする。ひよこが自分のくちばしで殻をつついて破って卵からかえるように、自己完結していた「こども」の世界が壊れて、広い世界が目の前に広がる。そこに見えたものが格別な新鮮さ、珍しさで心象に焼きつけられる。私の場合は、歌舞伎体験のほぼはじめから、そこに勘九郎がい、八十助がいたことになる。

私とおおよそ同年齢の歌舞伎俳優といえば現二代目猿翁と現幸四郎だが、私がその存在を知ったとき、彼らは市川団子、市川染五郎の名で、すでに華やかな少年スターとしてまばゆい光につつまれた姿で私の前にいた。もちろん、彼らの当時の姿もそれはそれとして、格別の懐かしさを持っているから、あの「団子」の記憶を背負っているあの「猿之助」を、いまになって「猿翁」と呼ぶのは、はっきりいえばいまだに抵抗感がある。しかし私の前に現れた最初から、彼らが既にスターであったという距離感が、親密な感情を抱くにはある作用をしていることも、また事実である。

それに比べると、年若の叔父がまがりなりにも年長者として接する、いま目の前にいる甥というのは、また格別な「愛」の対象となりうるものだ。君の幼い姿をぼくは知っているんだよ、といった親しみである。勘三郎にせよ三津五郎にせよ、五十余歳という年輪をまぎれもなく刻んだその顔が、ふと、にこりとするその笑顔の中に、そのころと変わらぬ幼な顔をいまも宿していることについ敏感に気づいてしまうとき、他の役者たちの場合にはないある親密さを、そこに覚える自分があることは否定しようがない。

もとよりそれは、私の一方的な思いであって、当の彼らの知らないことだが、その親密さとは、もっと適切にいうなら、一種の共犯意識に近いともいえる。いうなれば、舞台の上と観客席の違いはあっても、そこで演じられる劇場という空間と時間を共にした共犯意識である。それから五十余年、じつは何度か「劇場から足が遠ざかった」時期をはさみながらも、彼らの役者人生とほぼ重なる観劇の歳月を経て、私は私にとっての「十八代目勘三郎襲名」の日を迎えたのだった。

五代目中村勘九郎が十八代目中村勘三郎に生まれ変わる襲名興行は、地方公演も含め一年十ヵ月という長期間に及んだが(春三月から翌年十二月までというのは、史実の忠臣蔵事件の刃傷から討入りまでと奇しくも同じタイムスパンである!)、その事始めとして、平成十七年の三月から五月にかけ、歌舞伎座で三カ月にわたっておこなわれた、その三カ月目の演目のひとつが「芝居前」だった。

「芝居前」というのは通称で、舞台全面に昔の芝居小屋の正面を模した大道具を飾り、めでたい興行の初日を迎えた賑わいの模様を見せるという趣向の一幕である。歌舞伎座でいえば正面玄関前に当たるむかしの中村座の木戸前に、座元とその後継者である若太夫が、一座の役者たちや座方、茶屋の若い者や芸者衆などを従えて並び、芝居茶屋の亭主だの女将だの町名主だのと挨拶をかわしているところへ、本花道から男伊達と呼ばれる達師(たてし)の連中、仮花道から女伊達の連中が登場して、座の繁栄を祝うめでたい言葉で言祝ぐ(ことほ)というのが、定式になっている。

これらの人物にはそれぞれ役名がついており、当代の第一線の俳優たちが扮するのだから、芝居といえば芝居だが、しかしその役名というのが、たとえば男伊達連中の先頭に立つ尾上菊五郎の役は「音羽の秀五郎」、女伊達の先頭の坂東玉三郎のは「高輪(たかなわ)お玉」であったりする。音羽というのは菊五郎の屋号の音羽屋から、秀五郎というのは本名の寺嶋秀幸からとったのであり、玉三郎は高輪に住んでいるから高輪お玉というような、ほんの洒落であって、男伊達の音羽の秀五郎も女伊達の高輪お玉も、じつは菊五郎であり玉三郎であることを見え見えにした上に成り立っているかりそめの役にすぎない。芝居の形をとったセレモニーである。

ふつう襲名とか追善といった大がかりな興行の場合、「口上」という一幕を演目のひとつとして見せるのが今日での通例で、現に勘三郎の場合も、三月と四月の公演では「十八代目中村勘三郎襲名披露口上」というタイトルの一幕が用意され、その月の興行に出演する幹部俳優たちが舞台に居並んで、新しい勘三郎のためにこもごも祝辞を述べた。舞台と客席、役者と観客の間の虚と実の間に成り立つ歌舞伎ならではのセレモニーだが、ここでも、口上を述べる役者たちは、それぞれ中村雀右衛門であったり片岡仁左衛門であったりしながら、それぞれの家にゆかりの裃袴に、化粧をし髷をつけ、女形は紫の帽子をつけるという、江戸の末ごろの役者の礼装と思われる姿に扮装している。つまりこれもかりそめの姿なわけだが、しかし役名はない。その分、虚より実の要素が強いが、素顔の彼らとは微妙な一線が引かれてもいる。

ごく稀にだが、扮装をせずまったくの素顔のままで口上をいう例もないわけではない。その場合は、紋付に袴という現代の役者の礼装だから、虚の要素はまったくないことになる。そういう形の口上で私の覚えているのは、十一代目市川團十郎・八代目松本幸四郎(松本白鸚)・二代目尾上松緑のいわゆる「高麗屋三兄弟」が、彼らの父親である七代目松本幸四郎の十七回忌の追善の口上をしたときである。明治風のハイカラだった亡父の「近代性」をこうした形であらわしたのかも知れない。その数年前、センセーショナルな話題をふりまいて東宝に移籍していた幸四郎が、追善という特別の事例にひさしぶりに歌舞伎座の舞台を踏み、三兄弟がそろうという待望久しい光景に場内は沸きはしたものの、馴染みの口上の姿でずらりと並ぶ壮観を期待した目には、ちょっと肩透かしを食らったような気がしたものだ。「虚」と「実」の配分が、「実」の方に大きく傾いた分、「歌舞伎らしく」ないと感じたのである。このほどの五代目歌舞伎座の開場に当って、銀座通りをパレードなりお練りなりをするのは素顔に紋付き袴が似つかわしいが、その後で、今度は舞台の上に居並んで開場を祝い、手を締めるのには、髷をつけ、裃袴に意義を正してこそふさわしい。

思えばあの口上の裃姿は、現代という時代にあって歌舞伎を成立させている、微妙な一線をシンボライズしているかに見える。

「口上」にしても「芝居前」にしても、セレモニーでもありながら、同時にひとつの独立した演目でもあるという、考えてみれば不思議な儀式なのだが、新勘三郎の三ヵ月におよぶ襲名興行で、はじめのふた月は通例通り「口上」だったのを、三カ月目だけ「芝居前」にしたのは、ひとつには気を変える意味でもあったろうが、もうひとつ、いまでは誰しも気がついているように、それは中村勘三郎という名前そのものと深く結びついていた。

勘三郎がまだ二十歳だった昭和五十一年四月の歌舞伎座で「芝居前」が出たときは、「初代猿若中村勘三郎三百五十年記念」というタイトルがついていた。このときの主人役は、父である十七代目勘三郎だったが、こんなに代数が大きい名前は、当時まだもちろん健在だった市村羽左衛門がやはり十七代目だったのを除けば、他にはない。勘三郎という名前は、歌舞伎役者のなかで最も古い、江戸歌舞伎の開祖とされる名前であって、「初代勘三郎三百五十年記念」というのは、それから三五〇年前の寛永元年という年に、初代の勘三郎が幕府の許可を得て江戸の日本橋に中村座という劇場を開いた、それを記念する興行だったのだ。(寛永といえば、時の将軍は三代将軍家光である。)

つまり中村勘三郎という名前は、市村羽左衛門の市村座、守田勘弥の守田座に先立つ,幕府公認の江戸三座の中でも最も由緒のある中村座の座主の名跡であって、第二次大戦後の一九五〇年に十七代目を襲名したのは、本来の中村勘三郎家の血筋がすでに絶えていたのを、はじめて役者名として継いだのだった。だから、座主すなわち太夫元(たゆうもと)は、役者とは別格の、「旦那」と呼ばれる特別な名前であるという考え方が、古い世代の役者の間には当然のこととしてあったらしい。口上の幕を取り仕切った長兄の初代中村吉右衛門が、客席に向かって挨拶をすませた後、実弟である新勘三郎の方へわざわざ向き直って、「いいかい、お前は中村宗家の名前をゆずられたのだから名をけがさないようにしなければいけないよ」と諄々と諭したというひとつ話が残っている。二十歳以上も、親子ほどにも歳の離れた末弟とはいえ、このとき既に四十歳の人間へ向かって観客の前でこういう訓諭を垂れたのは、謹厳で篤実な吉右衛門らしい老婆心のあらわれとして笑い話の種となったが、同時に、吉右衛門のような旧世代人にとっては、勘三郎という名前が、江戸三座筆頭の宗家の名跡として格別なものと受けとめられていた、何よりの証しともいえる。

その十七代目の襲名のときにも、「口上」とならんで「中村座芝居前」も出たらしいが、さて話を十八代目襲名の時に戻すと、大夫元役の父十七代目の脇に控えて若大夫の役をつとめた二十歳の折の「初代勘三郎三百五十年記念」からさらに三十年という月日がたって、勘三郎は五十歳を迎えようとしていた。その三十年の間に勘三郎はじつにいろいろなことをしたが、その中で、ざっとここ百年の歌舞伎の歴史の中でも誰もやったことのないことを実現している。言うまでもない。平成中村座、という自分の名のついた劇場を作ってしまったことである。

中村という姓を名乗る歌舞伎俳優は大勢いるが、中村座の座元といえば中村勘三郎以外にはない。筋書の配役表の役名は、中村座座元というだけだが、当然、中村勘三郎であるはずだ。平成中村座を作った当人が、十八代目勘三郎を襲名する歌舞伎座の舞台で、初代勘三郎が作り代々の勘三郎たちが守り伝えてきた中村座の木戸前で「芝居前」をつとめている。勘三郎が勘三郎を演じている。襲名というものが、当の本人だけの祝い事ではなく、その名前を名乗った十八人の勘三郎たちが、ひとりひとりは別人でありながら、「勘三郎」というひとつの有機体でもあることを、身を以って立証して見せているかのようでもある。

平成中村座を作ったといっても、もちろん、先祖の代々の勘三郎たちと違って、勘三郎は座主になったわけではない。勘三郎といえども松竹という興行会社の傘の下にある一俳優にすぎないし、平成中村座を作ったといっても、自前で建設したわけではない。とはいえ、一俳優の側から働きかけて、自分の名前にゆかりのある座名のついた劇場を作るなどということは、勘三郎以外の誰が考えただろう。その発想に、まず驚く。

四国の金比羅にある金丸座で歌舞伎の公演が行なわれるようになった契機にも、吉右衛門、澤村藤十郎とともに勘三郎も関わっているが、金丸座が平成中村座を作ろうというアイデアにつながる契機であったとしても、久しく使われていなかった芝居小屋を復興するのと、まったく新規に作ろうと考えるのとでは、発想に何段もの飛躍がなければならない。その発想の飛躍の中に、勘三郎の現在があったということだろう。

初代の勘三郎が将軍家光の時代に最初の中村座を建てたのとはずいぶんと違うにせよ、ともあれ勘三郎は、自身のアイデアを実現させて平成中村座を作った。勘三郎の発想と働きかけがなかったら、誰も考えもしなかったという意味で、平成中村座は、勘三郎みずからの力で作ったのである。その勘三郎が、歌舞伎座の舞台の上で、「芝居前」の中村座の座元中村勘三郎をつとめる。「口上」の形式では表せない、勘三郎の仕掛けた自負とユーモアをそこに感じ取らないわけには行かない。こればかりは、父の十七代目もなし遂げなかったことである。

平成中村座こそは、それを実現した勘三郎の人気と実力の反映であり、発想の自在さとそれを使いこなす実行力の反映でもあるという意味で、いまこの時の勘三郎の存在そのものを表徴するものといえた。

2.「ろ」の章 (談話:平成中村座のこと)

2008年の1月、歌舞伎座の隣の文明堂がまだ元の店舗だった頃の二階席の一隅で、私は『勘三郎論』のために談話を取る約束で話を聞いた。勘三郎は慌ただしいさなかの時間を割いて、さまざまなことを快く語ってくれた。若干の遅刻の分を取り戻すために、予定の時間を過ぎるのを厭わず、応じてくれた。これから処々にはさみ込まれる勘三郎自身の談話は、その折のものである。

       *

――平成中村座を思い立ったのは、やっぱり金丸座だね。あれを見ちゃったということね。あの立ち上げにも関わったし。とにかくとてもいい小屋だったということ。でも、あそこまで毎回見に行くのは大変でしょ。で、あれが東京にあったらなと。東京にあるというよりも、移動式のものがあったらな、ということを思ったわけです。あの空間を、どこにでももって行くことができるということですね。あの金丸座の空間と出合ったことから、どうしても中村座というものを作りたくなったということになるんですね。

―――それともうひとつは、せっかく勘三郎という名前を継ぐことの意味ですね。中村勘三郎という名前をご縁があってうちの父がいただいたわけですから、その中村勘三郎というのは何だろうと考えると、座元なわけですからね。そういう理屈をつけても、ぼくの生まれてきた使命というとおこがましいけれども、そんなことをやらせていただいてもいいんじゃないかなというのがありますね。これが、こういう家の名前でなかったら、ここまで考えなかったでしょうね。

だからそういう意味からいっても、襲名というものは大きい意味をもっていましたね。金丸座をやらしてもらった当時は、まだ親父が生きていましたから、漠然と、こういう小屋が東京にあったらいいなというようなことでしたけど。

―――それから私自身の問題もありますね。再来年がうちの親父の二十三回忌なんですよ。うちの親父が死んで、約二十年。ぼくにとって激動の二十年といいますかね。あっという間でもありね、いろんな意味でこの二十年は濃かったですよ。子供も大きくなってくる。いろんなこともやった。そうなってくると、思いも強くなってきますね。そんなことがありますんでね。やっぱり名前ということは、大きかったかもしれないね。大体、三十歳から五十歳、自分にとってのいろんな意味での基礎を作った二十年ですからね。

――それにしても移動式ということは,よく考えたなと思うんだけど、どういうところから考えたんですか?

―――どこへでも持って行けるということ。じっさいニューヨークまで行けましたからね。来年は名古屋、北海道もある九州へも・・というふうにして、それでまあ、本拠がいつも浅草にあるという風にして、ということになると、ひとつの夢になりますわね。

――折り畳み式のテントということについては、やっぱり唐十郎さんのテント劇場というのは関係ありますか?

―――ええ、それはあります。それはあるし、また空間というもの、空き地があればどこででもやるという発想はあります。不自由な空間ではありますけれども、大きさとしては非常に面白いんでね。

今度も、『忠臣蔵』の通しをやるんですよ。ふつうの通しをやる日と、本蔵編で通す日とか、いろいろ実験ができるんでね。松島屋(=片岡仁左衛門)が出てくれるっていうから、本蔵と由良之助をやってもらってね。やり方は、まったく普通の、歌舞伎座でやるのとおんなじでやります。だけど本蔵編だと、「松の間」で判官を抱きとめるところから何から全部仁左衛門の兄貴がやる。「進物」も「松切り」も。そのときは私が戸無瀬をやる。で、そのときは判官とかは若手になったりするんですよ。まあ、キャスティングのことはこれから考えるんですけどね。

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随談第469回 さまざまのさよなら

歌舞伎座の新旧交代に導かれるように、さまざまのさよならがこのところ続く。この前銀座シネパトスのことを書いたら、テアトル銀座も間もなくなるから銀座なにがしと名乗る映画館は銀座シネスイッチ一軒になると新聞に出ていた。言われて見ればその通り、というやつだ。

既に世間で誰もが話題にしているようなニュースをここで書いても仕様がないが、渋谷の東横線の地上ホームがなくなるニュースは、かつてここの改札を通って通学していた昔を思えば、やはり何がしかの感傷を覚えないわけには行かない。改装前の上野駅ほどではないにせよ、いかにも始発駅然としたあの構え自体が、大袈裟にいえば「アンナ・カレーニナ」のモスコー駅みたいで、いかにも旧時代風でいい。まだ戦前か戦中か、安岡章太郎が予科生で、日吉の校舎へ通っていた頃、東横線の改札口を通ろうとしたら、向こうから六代目菊五郎がやってくるのが見えた。ヤッと思って、だんだん近づいて来るのを見ていると、六代目ではなく小泉信三だった、とたしかどこかに書いていた筈だ。戦災に会って顔に大きな火傷が出来る前は、小泉自身、菊五郎ばりを自認していたというが、こういうのは、いかにも古き良きむかしの話らしくていい。始発駅ならではのあのプラットホームの並んだ風景があってこそ、成り立つ話である。以前は、小田急でも京王でも井の頭線でも、私鉄の始発駅はみんな、大なり小なり、ああいう形だったのだが、いまでは西武線の西武球場前駅が比較的昔をしのぶのにいいかもしれない。

         ***

三国連太郎のこともすでに方々に書き溢れているが、別に良きファンであったわけでもないのに、やはり、ひとしなみのスターの訃報にはない、ある感慨を抱かされる。晩年の、というか近年の、というか、話題になったような作は、じつはいくらも見ていない。(この頃日本映画は見ないので、などキザなことを言う大人にはあるまいと、若い頃は思っていたものだが。もっとも『釣りバカ日記』は長距離バスに乗ると流してくれるので、いくつかは見ている。)

しかしそういうことに関わらず、映画俳優としてじつに見事な風格を持っていた人で、存在しているだけで見事なひとつの風(ふう)があって、それを、ただそこにいるだけで、ただものでないと思わされたのだから、たいしたものだ。「知」というものを感じさせた唯一の人、と言ってもいい。いわゆるインテリ俳優は他にいくらもいたが(いるが)、存在自体に知を感じさせた人は他にいない。まあ、あの声と、あの常にゆったりした話し方がそう感じさせる一因をなしているわけだが、なかなかよきものであった。俳優として、映画俳優以外の何ものでもなく、且つ、映画俳優として最もよく全うした人のように思う。戦争というものの影を常に感じさせたが、この人の出自も、戦争と並んで大きな影を落としていたに違いない。

はじめは、東大出だとばかり思っていた。当時の俳優名鑑に阪大出となっていたのを思い違えたのだが、じつは大学出などでなく、インテリ俳優として売るための映画会社の宣伝だったそうだが、だまされた人は少なくないだろう。『善魔』というデビュー作のイメージがそうだったからで、「悪魔」ならぬ「善魔」というデビュー作は、後から思えばなかなかこの俳優の存在をシンボリックに規定していたようにも見える。

その次に覚えているのは、昭和29年から翌年に掛けて三船敏郎が三部作で撮った『宮本武蔵』で、又八をやっていた。つまりこの又八は、武蔵よりも頭がよさそうなのだった。もっとも第一部を撮ったところで日活に移ってしまったので、この三船版武蔵映画では、又八は第二部以降は、代役がほんの辻褄合わせに出るだけで竜頭蛇尾に終わってしまう。当時のこの人は、映画の製作を再開した当時の日活の、裕次郎出現以前の路線がよく似合っていた。『警察日記』の若いお巡りさんとか、例の『ビルマの竪琴』の隊長なんぞは、(なぜか兵隊たちのコーラスが蛮声を張り上げたりせず、どこかの合唱団みたいにきれいにハモッているという絵空事とマッチして)ふつうなら気恥ずかしくて見ていられなくなりそうなところを納得させてしまう。裕次郎が出てきてあっという間にスターになって間もない『鷲と鷹』というのを、私は裕次郎映画の中で最も愛好するのだが(先日、久しぶりに日本映画チャンネルでめぐり合った!)、親の仇を討つために輸送船に紛れ込んだ裕次郎を追って船員になりすましている刑事の役をやって、嵐の中で格闘する場面で、裕次郎より筋骨たくましいのを知った。

私個人の思いとしては、この頃の三国が何ともなつかしいが、そのなつかしさとは、単に遠い過去のノスタルジー故ではなく、三国連太郎という存在そのものが持っているものだったのだ。そのことを、いま改めて思う。

         ***

もうひとりの、私にとってはなつかしい人の訃報があった。元巨人の投手大友工である。全盛期は短く、名声は別所の陰に隠されがちだったが、ある一定の時期に範囲を特定すれば、数字の上の戦績だけでなく、読売巨人軍というチームへの貢献度からいっても、別所に決して劣るものではない。しかしイメージからいっても、軟式野球出身という経歴通り、といっても決して悪い意味ではなく、何となくプロ選手らしくない、というか、アマチュアの匂いがあった。それで損をしている面も否定できないかも知れないが、もし、プロ野球史上ユニークな選手の十傑か二十傑かを選ぶなら、当然入って然るべき人だろう。

これは訃報ではないが、もう一人、なつかしいという意味で、往年の野口次郎のことを記事にした新聞があったが、折角、名投手にして好打者の二刀流の元祖として紹介しておきながら、書いた記者は資料を慌てて調べたらしく、野口がかなり長いこと、連続試合安打の日本記録のタイトルホールダーであったことに触れていなかったのは手落ちであろう。

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随談第468回 いよいよ(PART 2)

新しい歌舞伎座の本興行が始まった。同じように作ったとは言っても、やはり実際に動き出してみると、勝手が違う点、不慣れな点、まごつくところ、いろいろ見つかってくる。むしろロビーに出てからが、と前回書いたが、時代の求めに従って種々の改善をしたところに、余儀ないことだが、一方を立てれば一方が立たず、という面も出てくる。

開演前や入れ替え時の玄関前、表通りの混雑を緩和するため、更にはバリアフリーの必要から、玄関を少し、ほんの何メートルかのことに相違ないが、後ろに下げた。入口の石段もなくした。更には、一階・二階・三階すべての出入口を二重扉にした。これらはすべて、改善である。それに伴ってどういうことが起こるか? といえば、一階ロビー、古風な言い方をするなら大間が、心もちだが、寸が詰まった。面積にするなら、ほんの何坪かのことだろう。初めての人なら、こういうものだと思って不足とも思わないに違いない。だから、ちょっと狭くなりましたねェ、などとぼやくのは、懐古趣味と片づけられても致し方のないことなのだろう。でもやっぱり、昔のゆとりが恋しくなったりするのも亦、致し方のないところでもある。

同じ理由で二階のロビーも寸が詰まったから、吹き抜けの奥の、襲名や追善の折などに贈り物だの、故人を偲ぶ写真や遺品だのを陳列するスペースが無くなった。それはまあ仕方がないとして、ロビーの長椅子が少なくなったり、(この前も書いたが)三階のおでん食堂やカレーコーナーがなくなったりしたのは、ちょっとブーイングが起こるかも知れない。

東側と西側のロビーにエスカレーターがついて三階まで楽に上れるようになったのはもちろん改善だが、その代わり一階にはトイレがなくなったとか、その他、いろいろ言い出せば出て来るだろう。二階西側と地下にあった大きな食堂がひとつになって三階に移った、というと、エーッという声が起こりそうだが、この食堂、昭和通りに面して大きな窓がはまっていて、なかなか快適そうである。という具合に、同じ場所同じ面積の所に建てたのだから、さまざまな長短が出てくるのは当然というものだ。

場内の座席の並べ方が幾分変わったために、席によってはいままでとちょっと感じが変ったり、幕間や終演時の人のはけ方が幾分、以前よりは滞り加減のような気がしないでもない。(今までは8席ごとに通路があったため、舞台の芯の前は通路だったが、今度はその中央部分が10席の座席となったり、それやこれやで人のはけ方が多少変わったのだ。)しかしこれとて、座席が大きめになった、という改善の結果なのだから致し方のないところに違いない。三階席が、花道のスッポンが見えるようにしたために急勾配になったことは、前回書いたが、三階の観客からどういう声が上がるだろうか。

舞台の機能に関わる、ツケの音が少し重いような気がしたとか、照明の感じも少し変わったかな、というようなこともあるが、これについてはもうしばらく様子を見ることにしよう。

         ***

それにしても、このところのマスコミが何と熱心に報道してくれることだろう。経済効果が何十億とか試算した経済学者もいるらしい。もしこれが、松竹のPRだったなら、どうせ宣伝だろうと世間は高をくくるだろうが、マスコミが「報道」としてPRしてくれるのだから、その説得力たるや比較にならない。歌舞伎座は、いまやスカイツリーとはいわないが東京駅級の新名所となったわけで、なるほど、幕間にロビーから外を見ると、表に大勢の人だかりがして、上を見上げてスマホをかざしたりしている。

先月の顔寄せ・手打ち式が終わったのが二時半過ぎ、7時開演のシアタークリエまで時間があるのを利用して、三原橋の銀座シネパトスが閉館になるその最終企画で、銀座を舞台にした往年の映画特集を二月からやっていた最終の二本立て、どちらも成瀬巳喜男監督の『銀座化粧』と『女が階段を上る時』を見た。昭和26年と35年の作で、なるほどこの10年間に銀座がいかに変貌したかがよくわかる。昭和26年といえば先代の歌舞伎座が建った年である。三原橋自体が、川が埋め立てられて名ばかりの橋になるという、いかにも「戦後」という時代を象徴するような存在であり、その半地下といういかにも半端な空間に、いかにも三流然とした映画館と、それに相応の飲み屋が並んでいるのも、そこだけ昭和三〇年代が取り残されているような不思議な一画だった。歌舞伎座のすぐ近くで、歌舞伎座と入れ違うように姿を消すのも、もののあわれを覚えずにはいられない。

もうひとつ、更にマイナーな話。我が家の筋向いに古くから営業していた銭湯が、これも三月末で廃業したのだが、その銭湯の建物が、戦前か、戦後としても間もないころに建ったと思われる、破風のついた瓦屋根という昔ながらの「様式」を保っていた。歌舞伎座なんて銭湯の親玉みたいなものだと言ったのは、たしか某都知事であったと思うが、何のことはない私は毎日、さながら歌舞伎座を何分の一かに縮小したような、歌舞伎座そっくりの屋根を眺めて、歌舞伎座不在の間も親しんできたのだった。屋根の反り具合といい、いまどきの大工や屋根屋には到底作れないであろうちょっとしたものだ。いずれ取り壊されるのであろうが、ここでも、歌舞伎座と入れ替わりに、ひとつのささやかな「歌舞伎座のような風景」が消えてゆくわけで、私はほんのちょっぴり、感傷を味わっている。

         ***

さて、何と言っても舞台である。團十郎と勘三郎がいなくなって、歌舞伎の危機というしばらく忘れかけていた言葉がマスコミに踊った。みな一丸になって、と歌舞伎側は答えていた。そうでなくたって、今月のいま、張り切らない者などいないだろう。

事実どれも、なかなかのものである。一日で三部を通して見るのは最高峰級の峰から峰を伝って縦走するようなもの、と新聞に書いたが、現在持てる力を一杯に見せたものと言って間違いない。演目が発表になった当初は、あまり食指が動くメニューとも実は思わなかったが、見終わった今は、まず充分に堪能した。そう、一言でいうなら「堪能」というのが一番ぴったりだろう。

『熊谷陣屋』と『盛綱陣屋』が並ぶのも気が利かないような気がしていたが、それぞれ、これだけのものを見せてくれれば満足という他ない。吉右衛門と仁左衛門が、それぞれに主役をつとめ、要の役でつき合っている。その他の役々も、これだけ役者が揃えばやっぱり面白いなあということになる。

強いて優劣をつける必要もないようなものだが、『熊谷陣屋』の丸本物ならではの厚手な感触は得難いものだと思う。これぞ丸本時代物という実在感である。吉右衛門は、ある意味ですでに熊谷を越えてしまったというか、熊谷より役者が大きくなってしまったというか。だからマイナス的な要素があるとすれば、切実感というか痛切感というかは、この前の時の方があったような気もする。しかしそれをも蔽い尽くして余りあるのが、『熊谷陣屋』という一篇を構成している骨格の大きさを、これ以上は望めまいと思うほどに備えていることである。少なくとも、これほど大きな容量を持った熊谷を私は見たことがない。

玉三郎の相模というのは珍しいと言ってもいいし、菊之助の藤の方は初役だが、それぞれに、行き届いた丁寧な仕事ぶりでいい。更に感心したのは歌六の弥陀六で、年寄り役ということを必要以上に強調せず、それよりも平家の武人平宗清という本性を骨太に演じ出して見せる。仁左衛門の義経が扇の要の位置に立って、あとの4人が見事にシンメトリイを作る。なるほど、この一幕はこういう風に出来ている芝居なのだということが、これほど鮮やかに浮かび上がって見えたことはない。仁左衛門は、たとえば弥陀六を呼び止める際に四天王に目顔で命じるとか、花道へ行きかかる熊谷に敦盛の首を差出しながら自分も顔をそむけて泣いている心を見せるなど、随所に心を配った、おそらくは自身で考えた工夫の数々を見せる。ただ仁左衛門の柄からいっても、緋縅の鎧より、紫の鎧にした方がふさわしい義経のような気がする。

盛綱は、仁左衛門ははじめやや抑え気味のような印象を受けるが、最後の懸河の弁舌が見事で、それまで伏せられていたカードがすべて、有効なカードとして生きてくるのを見る趣きがある。抑え気味と見えたのはペース配分というより、芝居の運びへの配慮というべきだろう。吉右衛門の和田兵衛というのは四半世紀前に一度だけ(それも、当時の孝夫の盛綱で、というのは単なる偶然だろうか?)という珍しいものだが、こういう和田兵衛は初めて見た、と言いたくなるような、実在感と奥行のある人物になっている。はじめの、盛綱と謎の掛け合いのようなやりとりから、終局の、すべてを見通した上で肚を見せる人物としての奥行まで、仁左衛門の盛綱と見事に平仄があっている。『熊谷陣屋』といい『盛綱陣屋』といい、二人が主客入れ替わっての共演は、私にとっては今月随一の見ものだった。

加えて特筆すべきは芝雀の早瀬、時蔵の篝火のふたりの嫁同士で、肚を探りながら思い遣る心の働きが手に取るように見える。東蔵初役の微妙も併せ、三人の女たちが今月もうひとつの見ものである。まだ幼すぎるかと思った子役二人も大健闘だし、かなり足の具合が痛々しいが我当の時政というのはこの人の傑作のひとつだろう。

菊五郎の爛熟の極みの弁天小僧というのも、まさに大人の歌舞伎であって、これぞ菊五郎酒造醸造の特級酒のようなものだ。團十郎に代って吉右衛門が、これもごく若い頃にやったきりという日本駄右衛門をやっていて、頭巾を被った顔が白鸚さながらなのに驚く。見事に二階堂信濃守の重臣であり、同時にギャングの親玉の精悍さを併せ持っている。しかし今度の『五人男』で何よりウームと思ったのは、「勢揃い」でのツラネの見事さだった。普段、結構ぞろっぺいにやることもままあるのだが、五人が五人、黙阿弥の繰り出した言葉の綾を大切に謳っている。たとえば「人に情を掛川から金谷を掛けて宿々で」と息を切らずに言う。「忍ぶ姿も人の目に月影ヶ谷神輿ヶ嶽今日ぞ」と、これもひと息で言う。それだけで、どれだけ諧調に陰影と、うねりが増すことか。この辺が、こけら落しならではの気の入れ方か。

大分、長話になってしまった。この三つで代表することにさせてもらうが、他のどれどれも併せて、当代歌舞伎の実力を見せたというところ。助六が意休の前で香炉台を真っ二つに切って見せて「ちょっとしたってこんなものだ」と言う。何だかあれを思い出した。

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