随談第450回 新国立劇場『るつぼ』

新国立の『るつぼ』を初日に見たが、なかなかよかった。もっとも、中入り前の前半は、かなりの数の登場人物がつぎつぎに現れて、わあわあとわめきたてるのと(魔女がきゃあきゃあわめくのはある程度仕方がないが、今回はかなり抑制されているとはいえ、当世流の絶叫好みはここにもその尾を引いている)、薄暗い照明のもと、聴覚と視覚と両面から過度の刺激を受けるのとで、かなり疲労困憊する。

もっとも、大勢の人物がつぎつぎと出てくるのは脚本がそうなっているからで、これは作者のアーサー・ミラーに文句をいうしかないが、(もっとも考えてみれば、バルザックなどもいきなりパーティの場面で多数の人物をつぎつぎに紹介するところから始まったりするから、これは文学演劇ともに、泰西文化の発想なのかもしれない・・・と書いて、『曽我の対面』なんてのもいきなり大勢出てくるよなあ、とフト思ったりもする。いや、つぎつぎといろんなのが出てきてドラマを設定してゆく、という意味でなら『四谷怪談』の序幕とおんなじか、と思ったりもする)、西洋人の片仮名の名前が頻発し、何人かを除いては出演者の顔を見ただけでは判別のつかないこちらは、人物設定を呑み込むだけで暇もかかれば、神経も脳ミソも疲れる。(あの市蔵がやっている役とか、あの亀蔵がやっている役、という風に、取り敢えず役者本位で押さえておく、という手が利かないわけだ。)

新国立のパンフレットはサイズもよく、ページ数もほどほどで持ち重りがしないのは好感がもてるのだが、毎回一定の編集パターンが定まっていて(そのこと自体は尤も至極、悪いことではないとはいえ)、この役名がどういう人物なのかが、開演前に一瞥しただけでは覚えきれるものではないことに、もうちょっと配慮してもらいたい。(始まると客席は真っ暗になってしまうから、歌舞伎みたいに、オヤ、と思ったらその場で確かめるというわけにいかないのは、実に不便である。)

というわけで、前半(だけでちょっきり100分かかった)が終わった時は疲労困憊、帰っちまおうか、という悪魔(いや、魔女か?)の囁きが一瞬、頭をかすめたほどだった。(劇場側が最近、座席に置くようになったクッションをうっかり尻に敷かずにいた、つまり背もたれにしていたので、尾骶骨が痛くなったのも疲労の一因だが、これは私自身の責任である。中入り後は、尻に敷いたら気持ちがよくなったから、後半の好印象にはそのことも関係しているかもしれない。)が、後半は引き入られて見た。アーサー・ミラーならではの知的な論理性が、折り目折り目を的確に浮かび上がらせていく。17世紀の魔女裁判と、1950年代の赤狩りとの、その様相と構造が鮮やかに重ね合わされていく。宮田慶子芸術監督が始めた「JAPAN MEETS」シリーズでも一番の出来かも知れない。

配役もまず妥当と思われるし、俳優たちもそれぞれに健闘しているように見えた。エリザベス・プロクター役の栗田桃子の抑制のきいたたたずまいが殊勲の第一。この役が駄目だったら、この戯曲は芝居として生命を得ることは出来ないだろう。ジョン・プロクター役の池内博之も敢闘賞を貰っていい健闘ぶりだが、技能賞は、ベテランだから当然とはいえ、ダンフォース副総督役の磯部勉だと思う。存在感、という近頃手垢がつきすぎた言葉で片づけてしまえばそれまでだが、こういう芝居の場合、論理性が明確にされればそれでよしということに、とかくなりがちだが、それでは、舞台で生身の役者が演じる芝居としては面白くない。磯部は、シェイクスピなどで身についた、その役らしさ、というものを表わす術(すべ)というか、雰囲気というか、要するに「お芝居にしてみせる」身体をもっている。つまりは、「時代物」を演じる術といっても同じことで、はっきり言って、彼以外の出演者たちは、戯曲をよく理解し、脚本に書かれた役を的確に演じるうえでは、皆、大したものだが、もしパンフレットで、あるいは大学の教室か何かで教わったかして、アーサー・ミラーのこの戯曲についての知識がなかったなら、舞台の上で展開されている「芝居」が、何時、何処のことなのか、その身体を通した「芸」からは判断がつかない。ひとり磯部勉の身体と演技からは、これが17世紀のマサチューセッツの副総督であることが実感される。アーサー・ミラーといえども、それなくしては、わざわざ劇場まで足を運んで、役者が演じる芝居を見る必要はない。

別の意味で、いま評判(であるらしい)の鈴木杏の演じるアビゲイル・ウィリアムズの存在感も、なるほど、評判になるだけのことはあると思った。後半の冒頭、森の場面でのエロスなど、儲け役を演じて実際に儲けて見せるというのは、じつはそうざらにあることではない。そういえばミラーがマリリン・モンローと結婚したのは、ちょうど赤狩り裁判で議会侮辱罪に問われた頃だった・・・というようなことを、ふと思い出させただけでも、大したものだというべきだろう。つまり、この役と、エリザベスと、対応する二つの役がよかったから、こんどの上演は成功だった、ということになる。(それにしても、6時半はじまりの、終演10時20分というのは、ちとキツイ。帰宅してひと風呂浴びて晩飯を食べたら翌日になっていた。どうして6時開演にしなかったのだろう。)

佐々木愛が、レベッカ・ナースという老女役で出てきたときは目を疑った。まるで母親の鈴木光枝そのままではないか。何だか、彼女のレベッカは日本の尼さんみたいに見えた。(これは必ずしも非難ではない。)彼女が売り出して間もない昭和39年、いまの朝日テレビの第10チャンネルが放送を開始した開局記念作品の一つとして、延若主演のドラマ『樅の木は残った』で、宇乃という、原田甲斐とふしぎな相愛を交わす少女の役を演じて、こういう女優がいるのかと感に堪えたことがある。延若の甲斐も素晴らしかった。数年後にNHKの大河ドラマでやった平幹二郎と吉永小百合のコンビなどメではなかったのだが、このドラマは当時低視聴率の代名詞みたいに言われたものだったから、見た人も少ないに違いない。歌舞伎座制作で、延若のほかにも、伊達安芸に勘弥、老中酒井雅楽守に坂東好太郎、酒井老中を牽制する老中久世大和守に八代目三津五郎なんぞが、こぞって出ていたものだったっけ。)

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随談第449回 歌舞伎の噂あれこれ(増補版)

どうかと思った国立劇場の『塩原多助』を結構面白く見た。新聞にも書いたように、三津五郎以下、孝太郎だ東蔵だ秀調だ万次郎だ吉弥だ團蔵だ権十郎だ、橋之助はともかくとして、地味というなら地味ぞろいのメンバーだし、かつてなら知らぬ者なしだった塩原太助翁(上越国境にある法師温泉への行き帰りのバスから「塩原太助翁生家」と看板のかかった大きな農家を見かけたことがある)も、いまでは,多助? WHO?というほど知名度低下した当節(それでも、平仮名で打ち出して転換したら「塩原太助」とちゃんと出たから、いまどきのパソコンも捨てたものではない。当り前? いや、この手の「当り前」が、案外、当り前でないこともちょいちょいあるのだ)、わっとくるような派手派手な要素は、いっそすがすがしいまでにきれいさっぱり、ない。だがある意味では、むしろそれがよかったともいえる。元々、力はある面々、この麦飯のような芝居をケレン味なく見せるにふさわしい。

一座の中ではやや花形の部に属する錦之助と巳之助が敵役の原丹次・丹三郎父子になるという配役も、なかなか知恵者の策で、吉弥のお亀ともども、ほどのよい存在感があって悪くない。各幕ごとに見れば結構面白いのに、盛り上がっていかないのは、エピソードの羅列のような脚本の作りのせいである。もっとも、外題が『塩原多助一代記』だ、絵巻物風になるのは当然ともいえる。

さてそこでだが、国立劇場で公演ごとに出している「上演資料集」の上演年表を見ていて、私自身の不勉強をもさらけ出すことになるが、これまで『塩原太助』の芝居の解説その他の言説というと、圓朝の原作を五代目菊五郎が劇化して大評判となり・・・云々といったことばかりで、恥ずかしながら私もテンからそう思い込んでいた。たしかに『一代記』の説明としてなら、ちっとも間違いではないのだが、上方では、『塩原太助経済鑑』という外題で五代目以前から頻繁に上演されていて、初代・二代の鴈治郎、二代目延若その他その他、関西のこれと名の知られた面々がくり返し演じているのだ。(面白いのは、かの『残菊物語』の二代目菊之助が、大阪へ流れて行って松幸と名乗って苦労していた頃、娘のおさくという役を勤めたりしている。)たしかに、『経済鑑』の外題の別脚本もある、と書いてある解説もあるにはあるが、上演年表を見る限り、「もある」どころの話ではない。戦後の昭和24年には、なんと「もしほ」時代の17代目勘三郎が新橋演舞場で『経済鑑』を演じていて、共演者は初代吉右衛門、三代目時蔵、のちの六代目歌右衛門、白鸚といった堂々たる顔ぶれである。菊五郎崇拝のもしほが『経済鑑』の方を演じたというのは、勘三郎論としてはいろいろ面白い考察のネタになるが、この上演のことがあまり報道されることがないのは、やはりある種の「怠慢」と言わないわけには行かないだろう。小芝居での上演も想像を超える頻繁さである。

そこで、私自身の恥をさらけ出すことも覚悟でいうのだが、この狂言に限らず、この種の解説のたぐいが、あまりにも東京中心、それも菊吉など有力者の当り役中心であり過ぎたのではあるまいか、ということである。心ある向きの意見を聞きたい。

        ***

染五郎の記者会見のニュースをようやく読み、且つ聞いた。既に衆知となった内容をここに書く必要はないだろうが、会見の模様を伝えるワイドショーの各局の司会者が、思ったよりも早く発表がありましたね、といった風のことを言っていたのが耳にとまった。つまり、当然だがこの人たちは裏話をいろいろ聞いて知っているから、放送では言わないが、じつは・・・といったことが多々あったことが、これで分かる。巷間、楽観論・悲観論、種々こもごも流れたが、幸四郎が語ったという「奇跡的」という表現と考え合わせると、ある線が浮かび上がってくる。

来年2月に日生劇場での歌舞伎公演で再起というのだが、これはじつは幸四郎の公演に参加するということであるそうだから、いわば瀬踏みであって、真実の復活は、4月以降の新しい歌舞伎座のこけら落とし公演ということになるのだろう。

勘三郎の病状についても、まことしやかな噂のいくつかを耳にしたが、それらが、決して、あやふやな風評をまき散らすような人の口から出たものでないだけに、信憑性の程を決めかねるのが、あまりいい気持のものではない。

        ***

このところ、新橋演舞場の歌舞伎公演のメニューにちょっとした異変が現われている。9月の秀山祭、10月、11月の顔見世と3カ月続くのだから、これは、たまたま、ということではなく、一定の意図なり方針なりがあってのことに違いない。

要するに、メニューの品数が少なくなったのだ。昼夜各2本。11月はまだわからないが、9月も10月も、昼の部は2時半前後に終わり、夜の部の開演が4時に繰り上がり、終演は7時40分前後だった。これで料金は変わらないのは・・・という声も、当然といえば当然、しばしば耳にするが、いまここに書こうというのはそのことではない。

9月の『寺子屋』は「寺入り」から出し、『桔梗旗揚』は「饗応」から出した。10月の『御所五郎蔵』は終幕の「五郎蔵内」を出して、尺八を吹きながら腹を切るところまで見せた。11月の『双蝶々』も、いつもの「相撲場」と「引窓」ではなく、「井筒屋」「難波裏」から「引窓」という出し方らしい。

こう見てくると、普段カットされたり、出幕にならないのが慣例化している場面を出して、ストーリーを首尾一貫させようという試みであることが窺われる。「寺入り」は別に珍しいというほどのものではないが、「饗応」を出したことで、春永の光秀いじめが増幅されくどくなるかと思うと、そうではなく、むしろ光秀の謀反に至る心情が、いきなり「馬盥」から始まるよりもくっきりと見えるばかりか、「馬盥」の場そのものまで、芝居の綾がよくわかって、むしろ退屈させなかった。「五郎蔵内」に至っては、ここを出すと五郎蔵の性根が変わる、というより、いつもの「仲ノ町」と「奥座敷」「仕返し」だけで五郎蔵を無理から格好いい英雄風に見せる演出の隙間が露呈されて、五郎蔵という人物がいささかならず異風の主人公であることが見えてくる。つまり、よく言われることだが、本来小團次にはめて書いた風采の上がらない非・英雄の姿が現われることになる。黒手組の助六が、歌舞伎十八番の助六のように格好良くないのと同じように。むしろ、いつもの何となく空疎感の漂う五郎蔵より、こちらの方が、ウン、やっぱりこの男ってこうなんだよなあ、と得心できるところに、新鮮味がある。

そういえば、去年だったか、吉右衛門が『籠釣瓶』前の方を復活させて妖刀の祟りの因縁話として見せたことがあったが、いま思えば、あの辺りから始まった試みと見ることができよう。もちろん反論もあるだろうが、この傾向、すべてが成功するとは限らないが、試みとしては歓迎していいのではあるまいか。もっとも、料理の品数が減ったのに同じ料金とは? という声には、また別の対応も必要だろうが。

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随談第448回 昼夜勧進帳

今月の新橋演舞場は、七代目幸四郎追遠と銘がついて、幸四郎と團十郎が昼夜で『勧進帳』を弁慶と富樫で替って勤めるというのが、事前からの話題だった。事前から、といっても、それでワーッと湧くというより、ヘーエ、と目を丸くする、という方が実の処であったろう。なにしろ、幸四郎はつい先々月、『ラマンチャの男』一二〇〇回達成のさなかに人生古来稀なる古稀の祝いをしたばかりだし、團十郎がつい数年前、別の意味で稀なる難病を病んで生還したことは記憶にまだ新しい。

昼夜で弁慶と富樫を替るというのは、富十郎がまだ市村竹之丞で、(猿翁の名がまだ身に添わない)三代目猿之助と、たぶんそれぞれまだ三〇代と二〇代の精気有り余っていた頃、旧新橋演舞場でやったのを見たことがあるだけだ。(このときは更に、義経も訥升の九代目宗十郎といまの田之助が昼夜で替り、亀井と駿河を團子と精四郎、つまり段四郎と澤村藤十郎が替るということをしている。)このときの『演劇界』の劇評は長老の濱村米蔵だったが、こんな無茶をすることがあるかとしきりに怒っている。

一日替わり、というのは時々ある。実際に見たかぎりでその最大のものは、昭和四〇年三月、やはり七代目幸四郎のこのときは一七回忌追善というので、まだ健在だった(といっても、半年余ののちの十一月に亡くなるなどとは、そのときは誰も夢にも思っていなかった)十一代目團十郎と八代目幸四郎(白鸚という名前で呼ばれるようになるなんてことも夢にも思っていなかった)と二代目松緑の、いわゆる高麗屋三兄弟で弁慶と富樫を一日づつ替り、義経まで雀右衛門と芝翫(にはまだなっていなかったから当時は先々代福助)と延若の三人で替るということをしたときだろう。このときは流石に大変な評判となった。三役三交代だから全部の組み合わせを見るためには何日日参しなければとか、いろいろ話題を呼んだ。私は三日通って三人弁慶・三人富樫・三人義経を見たが、一幕見を見るために長蛇の列となったのはその後もあったが、あれだけ湧いたのはそうざらにはなかったろう。四天王のひとりひとりに声を掛ける(いまなら当り前だが)人があると、「黙れ、百姓」と声が飛んだりした。もっともこの四天王が、常陸坊を除くと後の名で幸四郎、吉右衛門、先代辰之助だった。(そういえばこの三人の日替り弁慶・富樫・義経というのは何回もあった。)

今度だって、今を極める孫たちによる七代目の追遠というのだったら、吉右衛門も出て、義経も併せて三役日替わりというのもあり得たわけで、その方が正当であり、素直にオーッということになっただろう。もっとも、染五郎休演のおかげで昼夜義経を勤める(努める、と書くべきか?)坂田藤十郎は、(初日にはヨッコラショだったとかいう声も聞いたが)高く声を張って、能の子方の感じを出して、流石というところを見せている。(それにしてもこのトリオ、合計すると二百歳を超える筈だが、おそらく新記録に違いない。記録映画に残る七世幸四郎・十五世羽左衛門・六代目菊五郎トリオより上であることは間違いない。)

組み合わせからいうと、昼の部の團十郎弁慶・孝四郎富樫よりも、夜の部の幸四郎弁慶・團十郎富樫の方が坐りがよく、安定感がある。團十郎は、弁慶はむしろ延年の舞以降になってから、弁慶の稚気とご本人の稚気が重なり合うような感じにこの人ならではの大らかさがあったのを良しと思って見た。踊りながらしきりに掛声を発していたのは自らを励ますためと思って聞いた。富樫も、昔の羽左衛門以来の二枚目風と違う、剛直で清廉な武人という感じが強く出て、好もしく見た。

幸四郎は、ひとつひとつの件の仕草や表情に意味を籠め、意味を明らかにしつつ、演じ進める。弁慶が、富樫が、いま何を思い、何を考えてその行為をしているのかが、逐一明らかにされる。義経と知りつつ富樫が去ってゆくとき、(これは幸四郎が亀井役の友右衛門に注文をつけたのだろう)亀井が中腰のまま少し伸び上がるようにして弁慶に何やら問うているかのようにすると、弁慶も(あきらかに口を動かして)何やら亀井に指示(だか注意だか)をする。亀井が得心して引き下がる、というような、やりとりというには時間から言ってもほんのわずか(二,三秒もあるだろうか)、長唄が特に引き伸ばして唄うというほどでもない、気がつかなかった人がいても別に不思議ではないほどのことだが、よかれあしかれ、なるほど幸四郎らしい、と思わず微笑しながら見た。しかしこういう行き方を押し進めるとすると、富樫が一倍検察官風に見え、弁慶が一倍、理非曲直を重んずる統率者としてイメージされることになるのは、当然の結果というべきであろうか? 幸四郎自身は、そこらをどういう風に思っているのだろう? (ここで計算、という言葉を使うのは、語弊があるかもしれないが。)

総じて言えば、弁慶の方が、富樫よりも見ていて安定感があるのは、いまや俳優幸四郎の身に備わった風格が、そうした細部を覆い尽くすだけの大きさになっているからで、それこそは、祖父から父から自ずから伝わり、且つ身につけた「高麗屋の風」というものに違いない。幸四郎は、もっとそのことの方を信じていい。

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随談第448回 リチャ-ド三世・大滝秀治・昼夜勧進帳

>新国立劇場の『リチャード三世』を初日に見る。三年前の『ヘンリー六世』三部作一挙上演とセットという構想で、俳優もすべてそのままというプラン、当然、演出プランも同じで、そのこと自体はきわめてインタレスチングであり、効果的でもあったと思う。それに大体、これは私の好みでもあるのだが、シェイクスピアといえば四代悲劇、という固定観念に前から疑問を持っていて、歴史劇の方がずっと面白い。(『ハムレット』と『リア王』ならともかく、『マクベス』とか『オセロ』って、そんなにも名作なのかしらん?)『リチャード三世』なんて作者が円熟する以前に書いた若書きで、ピカレスクとしては面白いが、大詰めであんなにリチャードの夢枕に、彼に滅ぼされた「善玉」たちが現われてリチャードがうなされてやられてしまうなんて、勧善懲悪劇みたいじゃないか、といった「決めつけ」が、何となく通念として擦り込まれてきたような気がする。その意味からも、『ヘンリー六世』と『リチャード三世』のセット上演は、なかなか結構な企画であった。俳優たちも、この演出を容認する限り、よくやっているといっていい。

演出といえば、シェイクスピアも思えば随分変わったものだ。『リチャード三世』というとどうしたって、日生劇場が開場してまだ半年もたたない昭和39年の3月(つまり東京オリンピックの七か月前である)、勘三郎が(もちろん十七代目ですよ)リチャードをやったのを思い出す。ちょうどその一年前に文学座から大挙脱退した、福田恆存や芥川比呂志達が劇団「雲」というのを作って意気軒昂だった頃で、それと、出来立ての日生劇場を本拠のようにしていた劇団「四季」とが合同してナントカ伯だのカントカ公だのを勤めたのだった。三階席の一番後ろの一番安い席から見ると、「雲」や「四季」の若い俳優たち(と言ったって、高橋昌也だの小池朝雄だの日下武史だのが中心で、橋爪功などという人たちが端役をやっていた)の中に混じると、勘三郎のタイツ姿が妙にカワイラシク見えた。アンだのマーガレットだのという女たちを弁舌をもってたらし込む長台詞が、勘三郎一流の説得力でうまいことはうまいのだが、ときどき、たまった涎をフォーッと吸い込む(らしい)のがちょいとした奇観だった。もうその頃は、勘三郎に限らず、いかにも「赤毛物」でございといった大芝居は演技にも扮装にもなくなっていたが、しかし今から見れば、新劇版「時代物」らしい格を保っていたと思う。中には、あれはリチャード三世というよりリチャードの三公だ、などという陰口もあったが、それとて、「格」というものを思えばこそ出た毒舌であったろう。つまり勘三郎が、まさか道玄と同じにやったわけではないが、意外に世話っぽかったのだ。(勘三郎って、そういう人ですがね。)

それに比べて今は、などと言いだす気はまったくない。むしろ、いまの俳優たちだって(ということはそれを許して(認めて)いるのだから演出だって)、それなりに王なら王、伯爵なら伯爵らしい「格」ということを考えているらしいことは、ある意味では案外なほどだ。と、(大分道草が長くなってしまったが)そのこととも関連することだと思うのだが、ときどき、ピアノでシューマンの「トロイメライ」だの何だのといった昔なつかしいような曲が奏でられたり(そういえば『ヘンリー六世』のときには蓄音機でレコードをかけたっけ)、ロンドン市民が山高帽だのシルクハットに燕尾服だかを着ていたり、リッチモンド伯が金ボタンの付いた軍服を着ていたりするのは、『エリザベート』ではないが前世紀末から第一次大戦ごろの風俗のように見える。あれは、どういう意図なのだろう? エリザベス一世時代を「現代」として生きたシェイクスピアから見てのヘンリー六世やリチャード三世の時代は、現代の我々から見てのその頃とタイムスパンが同じということかな、と考えたのだが、正解か曲解か? 何だかちょいと、わかったようなわからないような、半端なようなあいまいなものが残る。いっそ現代にしてしまったらどうなのだ?

        ***

新橋演舞場の歌舞伎の昼の部第一の『国性爺合戦』が終わった幕間に、大滝秀治の訃報が入ったかして、新聞関係の人たちが大勢、以後の客席からいなくなってしまった。(ところが実際に亡くなったのは二日も前であったらしい。)

俳優大滝秀治には私も好感を持っているから、大名優のように報道されるのに意義を唱える気はまったくないが、そういうこととは別に思うのは、「名優」というもののイメージというか、考え方が、この何年かで随分変わってきたなということである。立川談志が、明治この方最高の名優は九代目團十郎でも六代目菊五郎でもなく森繁久弥だといったというが、その談志自身の死後のもてはやされ方も、良し悪しや賛否は別にして、正直、そうなのかあ、と思う。

ちょっとそれとも文脈が少し違うが、たとえば笠智衆というような人は、名優と呼ばれて少しも異存はないが、しかし一種の「珍優」でもあったのではないだろうか。これは決して批判でも、まして非難でもない。もっと昔の大河内伝次郎などは、大俳優であったことは疑いないが、セリフが何を言っているかわからず、声帯模写の恰好のネタにされるという珍優でもあったのだ。大滝秀治も、そういう種類の「名優」のような気がする。大滝を、宇野重吉は「壊れたハーモニカ」と批判したというが、その宇野重吉だって、本質的には、九代目團十郎や六代目菊五郎が名優であったというような意味での名優ではないだろう。滝澤修なら、武智鉄二が六代目の死んだとき、滝澤が見られるなら六代目がいなくなってもいいと言ったように、従来の名優像の中に納まる。しかしおそらく、もしいま彼らが健在だったとしたら、滝澤より宇野を良しとする人の方が多いのではあるまいか、というのが私の見立てである。

繰り返すが、いまここに挙げた人たちを否定するのでも批判するのでもない。どういう芸をよしとするのか、ということと関わる話であって、翻ればそれは、どういう演技、どういう役者、どういう演出を、現代という時代は求めているのか、ということと関わっている。で、さらに翻って、芸とはなんだろう、というところに話は戻ってくるわけだ。

        ***

話が長くなった。『勧進帳』の話はまたにしよう。

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随談第447回 (またしても)貼り混ぜ帖

思わずも丸ひと月、更新なしのままになってしまった。今これを、と思うほどの話題があまりなかったせいもあるが、何となく小忙しかったせいでもあり、つまりは、これというほどの理由があったわけでもない。

新しい歌舞伎座について、劇場についての概要とスケジュールの概略が発表になったが、劇場内部が凡そ旧歌舞伎座の規模を踏襲すること、来年4月から向こう一年間、お目見え興行があるということ、といった概要の概要といった程度にとどまって、もう一歩具体的に踏み込んだ内容には及んでいない。どういうメニューになるかが一番、誰だって関心のあるところだが、勘三郎の病状、染五郎の怪我の経過など、新陣容の主力となるべきところに不確定要素があることが、具体案を作りかねる要因になっているとは、これも誰だって想像がつくことだ。

染五郎が退院してその回復状況を、幸四郎が「奇跡的」と言ったという。これも、取りようによっていろいろに解釈できるわけで、こういう事柄について迂闊なことを無責任に言いたくはない。

        ***

相撲の話をしよう。東京場所だったので、今場所も二度ほど、国技館に足を運んだ。相撲博物館で栃錦展をやっているのでそれも見る。もう少し現役時代のいろいろな写真を展示してくれればとも思うが(私はベースボールマガジンで出している『相撲』という雑誌を取っていたから、グラビアなどに載っていた写真をあれこれ覚えている)、まあこんなものか。何といっても、場内で放映している昔の画像が一番興味の種だが、こうしてみると、テレビの画像として残っているものよりも、ニュース映画のフィルムに残った画像の方に真骨頂があることを、改めて痛感する。つまり栃錦などの世代までは、テレビよりラジオ、ニュース映画が主力だった時代なのだ。栃若といっても、テレビが普及した両横綱対決のころは、栃錦はやや老境に入っていて若乃花の方が優勢だったが、二人の本当に凄い激戦はそれ以前、(今度も放映されているが、大関と小結だった昭和28年春場所の二度水が入った一番のように、)ふたりともびりびりと神経が行きわたっていて、瞬時も休むことがなかった。

それで思い出すのは、昭和31~2年頃から何時ごろまでだったろうか、場所が終わるごとに「夏場所決戦の記録」とかなんとか言ったタイトルがついて、その場所の好取組のフィルムを編集したものを、映画館で上映していたものだった。30分か、あるいはもうちょっとあっただろうか、幕内上位のいいところまで見せるから、内容としても結構充実していた。(そうだ、いま思い出した。石原裕次郎の『鷲と鷹』と、『誘惑』という伊藤整原作のなかなか気の利いた映画に、『秋場所決戦の記録』と三本立てで池袋日活で見たことがあった。栃錦が若乃花を高々と吊り出して、若乃花は横綱昇進がお預けになったのだった。)テレビはまだ、我が家の場合近所のラジオ屋が宣伝半分サービス半分で、店先で放送を見せているのを見に行くしか手がなかったから、こういう映画が充分商品価値があったのである。

日馬富士は、まあ、よかったと思う。千秋楽の白鵬との決戦はテレビで見たのだが、ああいう死闘という感じの相撲を見たのは久しぶりといっていい。(もっとも、はじめ組み合ったときは、これは日馬富士は失敗したかと思うぐらい白鵬有利だったのに、その後低く低く食いついてゆくのにまかせるばかりで、案外無策に見えたのは少し物足りない。)日馬富士は身体つきといい、風貌といい、喋ると少しズーズー訛る感じといい、むかしの栃の海によく似ている。(栃の海は青森だったが、他のモンゴル力士はそうでもないのに、日馬富士だけズーズー言うのはどうしてだろう。)栃の海も小兵で、スピードがあって技が切れ、大鵬と柏戸を連破して横綱になったときなどは颯爽としたものだった。(吉田秀和氏の『現代の演奏』に確かその時のことが書いてあったのではなかったかしらん。)残念ながら栃の海は短命に終わってしまったが、べつに縁起でもないことを言うつもりではない。

今場所は、全体的に言っても、なかなかレベルの高い取り組みが多かった。近年では随一だろう。先場所は、臥牙丸みたいな体力に任せたような大味な相撲が多かったが、今場所は妙義龍とか安美錦とか高安とか、味のある相撲を取る力士がよかったし、隠岐の海とか枡ノ山のような相撲取りらしい相撲取りとか、なかなか結構だった。

        ***

さっきの、「秋場所決戦の記録」と三本立てで見た『鷲と鷹』と『誘惑』だが、昭和二九年の後半から制作を再開した日活が、はじめは文芸路線のような感じが強くあったのが、『太陽の季節』『狂った果実』以後、方向転換を始める、この二作品はちょうどその端境期を表徴する作という意味で、思い出すと懐かしい。『鷲と鷹』はつい最近、テレビで再会したが、裕次郎映画の中でも(大きな口をきくには、私は裕次郎映画の良い観客ではないが、しかし察するところ)有数の傑作ではあるまいか、とかねがね思っていた持論の正当さを再確認した。「何ともバタ臭い」という評が当時あったが、しかしなかなか上等なバターと言っていい。これだけスマートにバタ臭いというのは大したものだ。(主題歌も、裕次郎の歌の中で、その良さが一番よく出ている。)もう一本の『誘惑』は中平康監督の中でも、その才気がじつにスマートな形で表れている点が出色で、思えば渡辺美佐子という女優を、私はこの映画ではじめて見たのだった。いまはすっかり新派の役者になっている安井昌二が当時は日活の専属で、貧乏画家の役で、化粧っ気のない渡辺美佐子に向かって「君、化粧し給え」と言う。そう安井に言われて、鏡の前でおずおずと口紅を塗るシーンの渡辺に、高校生だった私はちょいと惚れたのだったっけ。

        ***

プロ野球の話もするつもりだったが、結構長々しくなってしまった。まだシーズンが終わったわけではなし、またのこととしよう。

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