随談第446回 貼り混ぜ帖(修正版)

染五郎の転落事故には仰天した。あの日は、九月の演目では吉右衛門の源蔵を相手に染五郎が松王丸に取り組む『寺子屋』が注目、などと、さるところでちょいとしたレクチャーをして帰ったのと、事故はほぼ同時刻に起こったことになる。当夜の我が家のテレビはAKB48の娘さんのお別れ会に席巻されていたので、翌朝のワイドショー番組で知るまでは、まったくのつんぼ桟敷だった。松鵬会の案内を貰って、二日目の方だけ見るつもりだったから、この番組で公演が延期になったことを聞かなかったら、呑気な顔でのこのこ会場まで出かけるところだった。

まあ、そんな個人の事情はどうでもいいが、いまこれを書いている時点までに伝わってきた情報だけでは、本当に知りたいことの勘所がつかめないのが、もどかしいし、不安な思いにもさせる。(あれこれ推測はするものの、所詮、推測は推測でしかない。)

今度の秀山祭の『寺子屋』の松王丸こそ、染五郎の今後を占う試金石と思っていたから、今度の事故は私にとってもがっかりである。先ごろの若手花形の『忠臣蔵』は、総勢をすぐってというわけではないとはいえ、それでも、もっと前に試みられているべき一大イベントであったが、そういう時、誰が由良之助をするかといえば、まずは染五郎ということになる。年齢・実績その他その他、いろいろ総合すると、そういう位置に染五郎が立っているということなわけだ。(私個人の考えとしては、染五郎より先に橋之助こそ次期最適の大星役者だと思うし、それとは別に、染五郎は大星以上に判官役者であろうと思っているが、今はそういう話をしているのではない。)

まあ、確実なことがわからないいま、しばらくは思考停止のままでいるより仕方がないということか。

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春日野八千代とか、内藤武敏とか、訃報がいろいろ伝わってきた。

春日野八千代は宝塚的理想の黄金分割の比率配分を身を以って示し、決定した人、と私は思っている。自身が黄金分割の比率配分そのものの具現である以上、この人を超える者は、未来永劫、出ないに違いない。それにしても、96歳という年齢の若さは意外だった。たぶんこれも、黄金分割の比率配分から割り出された年齢なのだろう。

内藤武敏は、後年のテレビドラマで見せたいろいろな中高年像ももちろん悪くないが(現菊五郎が菊之助時代、知名度全国区になったNHKの大河ドラマの『源義経』で常陸坊海尊になったのが、それまでと違った役どころでヘーエと思ったのを覚えている)、私としては、独立プロ隆盛だった当時の映画で、いかにも純粋純情な左翼青年を演じていた頃の内藤こそが懐かしい。何かの折に、いま、当時の映画を見たりすると、フームと感心してしまうぐらいに、当時の(一部のだろうが)新劇人や映画人が、左翼的思想を純粋、純心に信じ、信奉していたか、痛々しいまでに思い遣らずにはいられなくなる。岡田英次とか木村功とか、当時のその手の代表的な二枚目俳優だが、彼らには、如何に純粋純真とはいっても、二枚目役者としての見栄や気取りは避けがたくあったのに対し、彼等ほどスターでも二枚目でもなかった内藤は、もっと朴訥質実な真実味が、小・中学生だった私などにも、あゝ、この人は(もちろん、演じている役の人物がである)いい人なんだなあ、と実感させるものがあった。

ついこの間、群馬交響楽団の草創期の苦難を描いて評判だった『ここに泉あり』に再会したが、あそこに登場する、クラシック奏者としての理想と田舎楽団の現実のはざまに悩むヴァイオリニスト(ヴァイオリンとバイオリンの狭間に悩む、といってもいいか)を演じる岡田英次などを(いま)見ていると、よくもまあ、あゝも恥ずかしげもなく「悩める青年」でございという顔ができるものだと、可笑しくも感心するほどだが、逆に言えば、岡田がそれだけ二枚目役者として本物だったかという証左ともいえるわけだろう。(改めて思う。歌舞伎の役柄としての「二枚目」という概念は、独立プロの左翼映画の二枚目役をまで規定していたのだ。)

それにつけても、まだ冷房など夢のまた夢、というより、はじめから考えもしなかった当時の、夏など天井に吊るした大扇風機か、ロビー(などといえる代物ではなかったが)に氷柱を立てるのが関の山の邦画専門の映画館で、この手の独立プロ制作の「誠実」で「良心的」な映画を見ていると、熱風のなかにジーッと映写機の回る音が聞こえてくる、という情景がまず思い浮かぶ。岡田英次や木村功や内藤武敏というと、何よりもまず、あの、気分が悪くなって卒倒しそうな人いきれの中から聞こえてくる、映写機の音を思い出す。

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しかし春日野八千代や内藤武敏以上に、ある意味で感慨深く読んだ訃報は、久保幸江のそれだった。まず驚いたのは、2010年9月何日かだかという死亡の時日である。「亡くなっていたことがわかった」という表現は、最近の死亡記事では珍しくないが、それにしても、2010年9月といえば二年前ではないか。それでも、『東京新聞』では死亡記事の他に芸能欄に数段抜き写真入りで扱っていたのは、別にファンであったわけではないが、多少なりと往時の人気を知る者には嬉しいことだった。(第一線級として鳴らした往年のスターが、ほんの申し訳の死亡記事で終りにされてしまうのを見るたびに、大袈裟のようだが、世の無常を感じざるを得ない。)

記事は生前に取材したものを再生しながらのもののようだったが、まずは故人も浮かばれようというものだ。もっとも、「トンコ節」という最大のヒット曲を中心に書くのはいいが、どうやらもうひとつの大ヒット曲「炭坑節」と混同しているのではないかという気がする記述もあったりするのは、まあ、現役の(我々から見れば)若い記者が書くのだから仕方がないか。

それはそれとして、「トンコ節」も「炭坑節」もさることながら、私として久保幸江について忘れ難いのは、「チャンバラ節」という一曲である。「むーかし(昔)サムライさんが本気になってチャンバラしーた。今じゃ女が派手にチャンチャンバラバラ。オトコはたーまらないよ」云々といった調子の歌詞で、何と、『俊寛』などでお馴染みの「千鳥の合方」のメロディでスラスラスイッと調子よく歌うのだ。私と同級生で、後年『演劇界』などにも劇評を書いたりしたSという男などは、はじめて『俊寛』を見たとき、俊寛と瀬尾が切り結ぶ悲壮な場面で下座で弾く千鳥の合方が聞こえてくると、久保幸江の歌う「チャンバラ節」が耳にダブってしまい、思わず吹き出したくなって鑑賞どころではなかったという。それほど、流行った歌である。昭和27年夏封切りの大映映画『花嫁花婿チャンバラ節』の主題歌で、この映画にはデビュウしたてでまだ十代の若尾文子が出ている。この、昭和27年というところがミソであって、つまり、このころ隆盛だった女剣劇にひっかけて、戦後民主主義で強くなったのは女と靴下と言われた世相が映されている、という裏読みができる。妙なところで、独立プロ映画の話と平仄があったことになる。

(「チャンバラ節」については、以前このブログに『チャンバラ節考』という題で書いたことがある。物好きな方は過去の記事検索のところをクリックして、どうぞ読んで下さい。)

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