随談第445回 何故私はサッカーに興味がないか(再修正版)

このタイトルは、じつは少々キャッチコピー風でありすぎるかもしれない。別にサッカーに恨みがあって批判をしようというのではい。前回のブログのオリンピックの話のなかで、あまり興味がないと書いたら、エッ、どうして?と言った人があったのがきっかけで、それからいろいろなよしなしごとが浮かんできたので、ちょっとそれを書いてみようと思うまでである。

サッカーには私は、まあ、乗り遅れたのですね。Jリーグが出来た時に、この機会に好きになれるかなと思ってみたのだが、どうもあの応援団の大騒ぎには乗る気になれなかった。いまは、Wカップなどのこれはという試合は見るし、それはそれで楽しむが、普段のJリーグの動向などにはほとんど馬耳東風という、つまりそこらのおばさんと同程度の関心で、こんなのはファンとはいえない。誰それが海外の何とかいうチームに入ったの移籍したのというニュースにも、ヘーエという以上の興味はない。しかし決して無理解ではないつもりだ。

そもそも、あんな長時間、あんなに大勢が間断なく走り回りながらせいぜい2点か3点しか点が入らないなんて、ほとんどは徒労みたいなもので、その徒労の過程に一喜一憂するという種目なわけだ・・・という風に、長いことずっと思っていた。まあ、むかしの日本のサッカーなんて、学生時代に早慶戦の切符を貰ったので見に行ったことがあったが、(あれはまだオリンピックのために国立競技場が出来る前だから、秩父宮ラグビー場だったのだろうか? 閑古鳥が鳴き出しそうにスタンドはがらがらだった)後ろの方でパスを回してばかりいて、貧打線の野球を見るようで面白くない。足しか使えないんだから不自由ったらしいのも無理もないか、といった感じだった。ときたま新聞で、南米のどこやらいう国でサッカーの試合中に熱狂した観衆が暴徒化した、などという記事を見ると、なんであんな退屈なものに興奮するのだろうと不思議に思ったものだった。

当時は(Jリーグができるまでは)ラグビーの方がはるかに隆盛で、こちらは小学校5年生ではじめて早明戦を見て以来、いまでも正直なところ、ラグビーの方がテレビで見ていても、ゲームとして面白いと思う。もっとも、近年得点の方式が変ってから、やたらに大量得点が多くなったような気がしていまだになじめない。バスケットボールは点が入りすぎてシュートひとつの価値が低すぎるし、その点、野球というのは、程よく点の入るようにできていると思う。要は、ゲーム(つまり、遊び、である)を成立させるためには自由と拘束のバランスを如何に保つかに鍵があるわけで、イギリスのラグビー校の生徒がサッカーの試合中に手を使えないのをまだるっこしく思って ボールを持って駆け出したという、ラグビー発生の「伝説」が真実だとすれば、サッカー好きから見たら、ラグビーなどというものは、相撲好きから見てのプロレスみたいなものかもしれない。制約が多すぎてはつまらないが、自由も過多ではしまりがなくなる。

どんなゲームにも、将棋の千日手みたいに、一種の盲点みたいなものは避けがたくあるもので、がっぷり四つに組んだまま動きが取れず膠着状態になってしまうような局面というものは、野球だろうとサッカーだろうと、相撲だろうとテニスだろうと、「対戦」という形で試合を行うゲームの必然というものだろう。それが、実力伯仲した同士の名勝負ということになるか、決め手に欠けた同士の凡戦ということになるかは、じつは紙一重である。サッカー好きが一喜一憂して興奮する局面というのは、多く、相撲でいえば差し手争いみたいな場面が多いような気がする。柔道がJUDOに変質したいまは、相手の襟の取り合いでごちゃごちゃやっているだけみたいになってしまったが、あれも差し手争いだろう。大体、伯仲した同士の名勝負・好勝負というのは、よくわかっている「通」のファンにとっては応えられないが、何かの時にしか見ない「トウシロ」の見物にとっては、実力にある程度差があって、シュートがぼんぼん入ったり、派手な大技が決まるのが一番面白いのは昔から決まっている。野球好きだったというルーズベルト大統領が、一番面白いのは8対7だか7対6だかで贔屓チームが勝つ試合だと言ったというのは、大方のファンの正直なところを言ったという意味での名言なのだ。

レスリングやフェンシングのような、欧米で早くから発達した種目が、細かなルールを作ってポイントを稼いだ方が勝ち、という方式を早くから定着させた。つまりああいうルールというのは、欧米人の思考法、ひいては欧米人の「思想」や「文化」がうみだしたものなのに違いない。柔道も同じ「思想」の作り出したルールによってJUDOになったわけで、世界のジュウドウになろうとした時から、かくなり果つるも理の当然と思うべきだったのだ。オリンピックのレスリングや何かで、吉田や伊調やメダルを取ったのは私だって嬉しいが、しかし正直なところ、あまり見ていて面白いものだとは思えない。もし野球やサッカーで、点が一点も入っていないのに、何分以内にシュートを何回しないと相手にポイントが行くとか、三回までにヒット数の多い方にポイントを与えるとかいうことになったらどうだろう。そんなバカげたことがあるかとファンなら誰だって怒り出すだろうが、レスリングやJUDOでやっているのは、私から見ればそれと同じとしか思えない。

昔、徳川将軍の上覧相撲のとき、片方が待ったをしたら、行司が「勝負あった」といって突っかけた方を勝ちにした。「気負け」だ、というのである。こういうのは、もしかするとありにしてもいいかもしれない。巌流島なら、遅刻をした武蔵の方が「気負け」になるのか、鞘を投げ捨てた小次郎の方が「気負け」になるのか、どっちだろう?

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随談第443回 オリムピック異聞

>歳のせいか、テレビを通して伝わってくるオリンピックをめぐる狂奔を、うるさいと感じることが多くなってきた。もともと嫌いなものではないから競技そのものの中継放送は結構見るが、風船だのゴムまりみたいなものが並んでいる幼稚園か保育園みたいなセットに「キャゼが吹ーいてる」とかいったテーマ曲が流れ出すと、やれやれとつい溜め息が出そうになる。テレビをつければオリンピック関連の話題が溢れ出してくるという、あの感覚に食傷するのだ。東京オリンピックの時は大学院生だったが、西脇順三郎さんの授業のとき、あゝうるさいなあ、早くオリンピック終わらないかなあ、と言っていたのが妙に思い出される。(西脇さんといえばもうひとつ、重量挙げのバーベルの重さなどというのは詩にならないが金槌の重さなら詩になり得る、と言っていたっけ。)

もっとも、喧噪は喧噪として、その狂奔の様子を少し距離を置いて眺めてみるのは、ちょっと面白くないこともない。取れると思っていた(と言ったって、ナニ、大方はテレビや新聞の言っていることを鵜呑みにする以外にはないのだが)金メダルが思うほど取れず、それがやがて苦難を乗り越えての感動の物語に作り直されてゆく「物語」をメインストーリイにして、さまざまな「感動の物語」が絡まりあって、ジャックと豆の木の豆の蔓のように天に届けとばかりに撚り上げられてゆく。最終日の夜、なんとなくグダーッとしてテレビを眺めていたら、またしても例のセットに例の男女のアナウンサーが出てきて、視聴者の皆さんの選んだ感動のベストテンなる番組が始まった。いつもなら、うへーっとばかりにチャンネルを切り替えてしまうところだが、待てよ、どんなものをどういう風に選ぶのかなと思って眺めてみた。つまり、なでしこジャパンと内村航平と北島康介とナニとナニとナニを、どういう順位に並べるのかな、というところに興味を持ったのだ。つまり、この人たちの作った感動の物語の中から、視聴者がどれをどう選ぶのだろう、という興味である。結果は、なでしこよりも内村、というものだった。北島もいいが、この両者よりはちょっと劣る。フェンシングなどというダークホースがその間に食い込んでくる・・・という具合である。これをどう読み取るか? 金メダルだけがすべてではない、と皆、思いながら、でもやっぱり金メダルでなきゃ、ということなのか。もし航平クンが下馬評通りはじめからスイスイと金メダルを取りまくっていたら、どういう評価になっていたろうか? などと考えだすと、結構面白い。

なでしこもよかったし(ある程度まともに見たのは最後の二試合だけだったが、大儀見という選手の、私はちょっとした贔屓になった。それまで全然知らなかった選手である(という程度にしか、私はサッカーに大した興味を持っていない)。ただ新聞に載る写真やテレビの画面に映るのを見て、いい表情をしている子だなあ、と思っただけの話に過ぎない)、女子バレーもフェンシングも(といっても、正直なところ、私の動体視力では到底、勝負は見極められない)アーチェリーも、間際になって転がり込んできた重量級のレスリングやボクシングも、その他その他、皆がよかったというほどのものはどれも結構だったが、しかし実を言うと、私は、オリンピックは所詮、陸上、それもトラック競技に尽きると思っている。要するに、どう転ぼうとオリンピックとは世界大運動会なのであって、運動会の華は何と言っても駆けっこ、つまり徒競走であり、その精華が紅白リレーに昔から決まっているのだ。競走こそ、人間が最初に考えたスポルトであろう。ボルトに限らず、世界の第一線の選手たちの走る姿こそ、まさに人間の身体の作り出す美の極限であって、あれに比べればいかなる身体芸術も及ばない。最も原初的でありながら最も極限に近い故である。日本人選手が出ていようがいまいが、誰が勝とうが負けようが、そんなことはどうでもいい。短距離は短距離、中・長距離は中・長距離、それぞれに、ただうっとりと眺めているだけで満足なのだ。

だが残念なことに、オリンピック全体が種目が増えたのと、日本人選手が活躍する種目が他にたくさんあるためだろうが、ボルトの出る短距離の他はテレビがちっとも放送してくれない。テレビの前にへばりついて、放送予定を隈なくチェックすれば一回ぐらいはどこかで放送しているのだろうが、生憎それほどの閑人ではない。結局、陸上の種目はほとんど見ることが出来なかった。以前だったら、まあ普通程度に見ていれば、日本選手が出ていなくたって、1万㍍でも八百㍍でも見ることが出来たものだが。ただひとつ、女子の100㍍というのを見ることが出来たが、これはボルト以上に美しかった。山県選手の100㍍予選も素敵だった。400㍍リレーの日本にも、前回みたいなわけには行かなかったが、かなりの程度、満足した。水泳も、陸上競技の美しさから見ると少々かったるいが、速さ比べという点ではこれに準じる。400㍍メドレー・リレーというのは、男女とも、確かによかった。前回の陸上の四百㍍リレーにちょっと似た、ほろりとさせるものがあった。

北島という選手のことは、われわれは、肉屋のにいちゃんがなかなかやるじゃないかと無邪気に驚き喜んだ八年前から、絶頂期の四年前を経て、普通ならもうあそこでやめていたであろうところを、実はみんな薄々、もう難しいんじゃないかと察しつつ、航平康介と大騒ぎしながら迎えた今回まで、八年の内に少年から壮年を経て老いを感じる年配まで、ひとりの選手を通して人生の縮図を眺めてきたようにも見える。戦い敗れた後のインタビューなど聞いていても、衰えを知って人間は大人になるのだ、という長いドラマを見ているような感もあって、なかなかいいものだった。

たぶんこんなことを言っても、賛同してくれる人はたぶん寥寥たるものだろうが、球技というのは、試合に時間がかかるのが、オリンピックという名の大運動会にはどうもあまり似つかわしくない気がする。サッカーなど、開会式の前から始めないと取組をこなせない。入学式の始まる前から補習授業をやっているみたいで、あまりいい感じがしない。野球がオリンピック種目からはずされたのも、その意味ではもっともという気がする。私は野球好きだが、オリンピック種目からはずされたことは別に残念とも思わない。女子のソフトボールがはずされたのは可哀そうだと思うが、それはまだマイナーな存在だからであって、意味が違う。サッカーも、女子はいわば女子のソフトボールに近い存在だからあってもいいと思うが、男子のは、世界選手権の予備軍のリーグみたいなものだろう。つまり、オリンピックはマイナーリーグということになる。

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随談第443回 『ラ・マンチャの男』

帝劇の『ラ・マンチャの男』1200回上演記念公演というのを見た。よかった。70歳を過ぎた幸四郎の、ひとつの境地に達した姿を見たと思った。こういう『ラ・マンチャの男』を、こういう幸四郎というものを、初めて見たと思った。

私は、ミュージカルというジャンルについての、決していいファンではないし、『ラ・マンチャ』についてだけに限っても、そのすべての公演を見て通暁しているわけでもない。そこまで厳密に言わなくとも、今度の舞台が、今度の幸四郎が、いつもとどこがどう違うか、あれこれ指摘できるほどの知識はほとんど持ち合わせていないと言った方がむしろ正しい。少なくともここ数年来、演じてきたものと、演じ方に違いと言うものは、私の目には見いだせない。いつも私が気になっている、セリフのアクセントのつけ方、日本語の常識からすると奇異にも聞こえるメリハリのつけ方のごときにも、改善の跡が見えたとも思われない。が、それにも拘わらず、今度の『ラ・マンチャ』は、今度の幸四郎は、いままでとは異なるものとして私には受け取れた。

なるほど、という感じがした。なるほど、これはこういう芝居だったのだ、とすべてがすんなりと胃の腑に落ちてくれた。幸四郎の口を通して歌われ、語られるセルバンテスやドン・キホーテやキハーナ達の言うところ、語るところの言葉が、そのまま素直に胃の腑に落ちてくる。別に、これまで気が付かなかった新しい解釈が発見されたわけではない。これまで読み取れずにいた脚本の意味が今度初めて理解できたというのでもない。そういうレベルでのことなら、今度の舞台での新発見というものが何一つあったわけではない。だがそれにもかかわらず、私は、今度の舞台を見ながら、この『ラ・マンチャの男』というミュージカル芝居が初めて理解できたと思ったのだ。理解というより、得心出来た、と言った方がいいか。キホーテやセルバンテスの言うこと、語る言葉が、単なる箴言めいた意味以上の意味をもって心に届いてきた。

そうさせてくれたのは、今度の舞台での幸四郎のお蔭、という以外にはない。いつもと同じように演じていながら、(その仕草の癖、セリフの癖、外国人の役を演じる時に特有の、あの少しならず気障っぽい物腰声音、などなどなど)そうした外面に現れたものすべてを越えて、幸四郎の演じるところを通じて、その訴えるところのすべてが素直にこちらの胸に沁みてくる。なるほど、とはそういう意味である。

これまで私は、実を言うと、この『ラ・マンチャの男』というものが、もうひとつ、素直に見ることが出来ずにいた。ひとつには、その賞賛の声の圧倒的なことにいささか臍を曲げていた面もあるが、そんなにいいのかな、と内心呟くのが正直なところだった。同じ西洋人の役なら、むしろ『アマデウス』のサリエリの方が、幸四郎の仁にふさわしい。そうも思っていた。いい意味にも悪い意味にも、ある種の作為を、私は幸四郎の舞台に、演技に覚え、それが、薄紙一重のような微妙さで、私を素直にさせずにいた。もちろん誰であろうと、演技をする上で何らかの作為のない役者はいない。しかし少なくとも、私は、何故彼はあのように演じようとするのか、それを考えることを批評をする上での根底に置いて考えてきた。誰だって、何らかの考えがあればこそ、ああいう風にセリフを言い、こういう風に仕草をして役を演じているはずであり、それを抜きに、あれは間違っている、これはよくないと決めつけることは、するまいとしてきた。そういう私のスタンスからすると、正直なところ、幸四郎は、一口に言えば批評をしにくい人だった、とはいえる。もちろん、これは非難ではない。批評がしにくい、とは、どういう風に評すればいいのかその都度考えさせられる、というほどの意味と思っていただけばいいだろう。

今度の『ラ・マンチャの男』を、しかし私は、そうしたことを一切忘れて見ていた。こんなにも素直に、こんなにも自然に、幸四郎を見たことはないと言ってもいい。私はただ、心地よく心を遊ばせながら舞台を見ていた。しかし同時に(それもまた批評などというこちたき業をする者の哀しき性かも知れないが)、このことをどう考えればいいのか、ということも、頭の一方では考えないわけにいかなかった。が、それは性急に答えを出すべきことではないだろう。見終わったいま、幸四郎のこれから、というものが新たな楽しみとなってきたのは事実である。

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随談第442回 映像再会

昨年の暮れ押し詰まって、昭和27年封切りの新東宝映画『朝の波紋』に再会したときのことはその折書いたが、もう一本、同じ昭和27年夏に封切られた東宝映画『東京の恋人』に、今度ようやく再会を果たすことが出来た。去年にも機会はあったのだが、折悪しく地震と重なって断念したのだった。『朝の波紋』もやはりそうだったのは、大袈裟なようだが奇縁のようにも思われる。

どちらも、小学校六年生という、大人の世界への目が開ける年頃に見たという一点で、忘れがたい懐かしさとなって、私の中で特別の存在としての位置を占めていた。映画そのものの面白さももちろんあるが、それを見た当時の記憶の中の「時代」と、いま改めて再会し、約六〇年を距てて、記憶の正しさを確認したり、あるいは修正したりしながら見る昭和27年という「時代」の間に流れる面白さには、何とも言えない甘酸っぱい懐かしさがある。甘酸っぱい、と言う形容詞はよく初恋の比喩として使われる言葉だが、たしかにこれは、初恋の人に再会するのと似ているかもしれない。映像に切り取られた場面は、そのまま、それを見た六〇年前の私自身を包んでいた時代の記憶と生々しく重なり合い、その匂いを甦らせる。たしかにそれは、初恋と似ている。それは、子供の世界だけに完結していた自分から、自分を取り囲んでいる大人の世界を知り初めた時の鮮烈さと重なり合うからで、ひよこが卵の殻を破ってはじめた外界に接したのと同じかもしれない。新聞と言うものを読んでみようと思い立ったのも、新聞小説というものをはじめて自分から面白いと思って読んだのも、やはりこのころだった。

『朝の波紋』『東京の恋人』も、いわゆる名画列伝に記録されてくり返し語られるという作品ではないが、前者は高峰秀子に池部良、後者は原節子に三船敏郎という、当時すでに人気絶頂だったといっていいスター同士の共演で、五所平之助に千葉泰樹という第一線監督の作品だから、決して粗製乱造の作ではない。前にも書いたが、誰でも知っているような名画より、当時当たり前のように作られていた、こういう作品の方が今の私にはずっと面白い。前者では隅田川のボートレースとか、後者では勝鬨橋の開閉とか、それだけでも時代を語る場面が重要なモチーフとなっているが、改めてオオと声を上げたくなるのは、どちらにも、戦災に会うまでは山の手のお屋敷町とされていたと思われる旧市内に、掘立小屋のような仮普請の家を建てて、池部良や三船敏郎扮する好青年が住まっている場面が出てくることで、つまり戦後七年が経ち進駐軍が立ち去った時点での東京の光景には、まだこれだけの焼跡が厳然と存在していたという事実である。いかなる記録を読むよりも、その数秒間の映像にまさる雄弁はない。

思い出す。この年私は、当時の町名でいう西巣鴨、大塚と池袋の中間辺りに引っ越して「転校」というものを初体験したのだが、辺りは焼跡の跡が生々しく、築地の癌研究所の分院が爆撃に会って建物だけが残っていたが、その中の一隅に居を構えて通学してくる同級生の女の子がいた。本当にこんなだったよなあ、と画面を見ながらまざまざと甦ってくるものがある。この「癌研」が整備されて、再び本来の病院として再開したのは、それから二年後、いや三年後ぐらいだったろうか。つまりその頃から、もはや戦後ではなくなった、のだ。

それにしてもこの映画『東京の恋人』に写し取られている銀座の光景。しかしそれはまさしく、親に連れられて小学生だった私も見た記憶のなかにある銀座に間違いない。そう、こんなだったのだ。いま見ると、自動車の通りが何て少ないのだろう。しかし十朱久雄(幸代の父親である)と沢村貞子の夫婦の経営する宝石店や、森繁久弥の経営するパチンコ玉製造で成金になった会社(パチンコはこの前年ごろから隆盛になりはじめたのだった)の何と素朴なこと。(森繁はもうこのころから「社長」だったのだ。そうして私は、多分この映画で、森繁を、それからそこに出入りする飲み屋のマダム役の藤間紫を、はじめて見たのだったが、六年生だった私は、もうすでにその時、ああこれが森繁久弥か、これが藤間紫か、と思いながら見ていたのだった。)三船敏郎は、お屋敷町の焼跡に掘立小屋に住みながら、バリッとした背広を着、蝶ネクタイをし、パナマのソフトをかぶって銀座を歩いている。かの『羅生門』がこの前年だから名声はすでに鳴り響いているが、まだイメージは固定していないから、こういう都会派風の紳士も役どころの内だった。私には、むしろこういう三船が一番好もしい。そういえば、売り出し間もない有馬稲子と、やはりこの手の役で共演する『ひまわり娘』もついこの間見る機会があったが(これは昭和28年だがやはり千葉泰樹監督である)、黒沢映画だけで三船を論じたりする人たちは、こういう三船を知っているのだろうか? 

『朝の波紋』の封切りがメーデー事件の当日、『東京の恋人』の封切りが7月15日、ヘルシンキ・オリンピックがその四日後に始まる。私にとっては、昭和27年は、どうもひとつのエポックであるらしい。

        ***

同じ日の神保町シアターで、昭和38年の松竹映画『残菊物語』も併せ見た。「三代目猿之助襲名記念」とある。当時二十四歳の猿之助の、なんという若さだろう。こんなにも若かったとは! 六十年ぶりに再会した『朝の波紋』や『東京の恋人』のすべての場面が(見覚えていようといまいとに関わらず)新鮮な驚きに溢れていたのと対照的に、その後の猿之助の変貌を見続け、さらに先月来、二代目猿翁となって口上や『山門』の久吉をつとめる姿を目の当たりにした今、逆に、五十年前の姿を見て一種の途惑いさえ覚えるのは、どういうことなのだろう? 単に、いつも見ているから変化に気が付かないというだけのことではない。記憶は、新たに降り積もる新たな記憶の下に埋もれてしまうのだ。

岡田茉莉子のお徳、嵐寛寿郎、つまりアラカンの五代目菊五郎、市川小太夫(つまり先代猿翁、先代中車の下の、三兄弟の末弟である)の四代目の大芝翫、その子の福助がなんと若き日の津川雅彦、これも、当人とも思われないこと猿之助に劣らずだ。)、黒川弥太郎の12代目勘彌などなど、周囲の配役もなかなかおもしろい。それにしてもアラカンの五代目ぶりはちょっとしたものだ。冒頭の劇中劇で『鞘当』の不破をやっている。名古屋役の猿之助を圧する役者ぶりである。

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