ひと月遅れの旧聞になってしまったが、文学座の加藤武氏の話を聞くインタビュアをつとめる機会にめぐまれた。もっとも聞き手は四人だから、間断なく質問を繰り出すこともないので、すぐ隣りの席から、その語り口の秘密を間近に観察させてもらうことができたのは役得というものである。とにかく、話題に出る誰それ彼それをそのつど、杉村春子だろうと七代目幸四郎だろうと、ご当人の口調をそのまま再現してくれるのだから、面白いこと限りがない。限りなく「声色」に近いが声色とは微妙に違う。そこが面白い。
つまり第三者の言うことを間接話法にして客観的に伝えるのが現代人の(クールで知的な!)物言う術だとすれば、加藤氏の育った東京の下町などでは、誰それが「・・・」と言ってたよ、と言う場合、「・・・」の部分は直接話法で(つまりセリフのように)言うのが、むしろ普通だったのだ。そこから声色まではほんの一歩であり、そこに芝居っ気がプラスされる(いや、掛け合わされる、というべきか?)加藤氏の語り口は更にそれが声色に限りなく近い、というわけだ。圧巻は六代目菊五郎で、なるほど菊五郎のイキというのはこうもあったろうかと納得させられた。そうして、六代目の、何かの折の挨拶やスピーチ(なんて言葉は当時はなかったが)と思われるその口調も、一方では彼の日常の延長であり、また一方では、道玄や魚宗や髪結新三や、更には遠く、松王丸や忠信や勘平のセリフへとつながっていたのだということが、如実に実感された。
それにつけても思うのは、こういう物言う術が日常の中になくなってしまった現代と言う時代に、舞台の上で物を言う声が、表情を失って無機的になって行くのもむべなるかなということである。泣いたり怒ったりしようとすれば絶叫するばかりという俳優、それを容認、あるいは良しとする演出が風土病のように蔓延するのも、それが今日の日本の言葉の風土なのだから、かくなり果つるも理の当然というべきなのだろう。
舞台の役者に限らない。女子ゴルフの宮里藍などを典型とする、インタビューの談話のたぐいを聞いていると、前段も中段も後段もなく、序破急もなく高低もなく、いきなりある高さのところからビーッと喋り出して機関銃のようにダ・ダ・ダ・ダと等間隔で一定量を喋り、その高さのまま突如ビーッと終わる。水鉄砲の水がいきなりビュッと飛び出してビュッと止まるのに似ている。まあ、スポーツ選手(じゃなかった、この頃はアスリートというのだっけ)だから元気がよくてよろしいということなのだろうが(私も、彼女たちは決して嫌いではないが)、かなり聞きなれたつもりでも、テレビで彼女たちが喋り出すたびに、ウッと胸がつまる。一方、男だか女だかわからない、中性というより機械で作った音のような声で舌っ足らずに喋る青年は、いちいち咎めていられないほど、いまや当たり前になった。
こういう、日常レベルでの言語の状況が、舞台のセリフに反映しない筈がない。また、そういう舞台を見て、観客が違和感も感じなくとも当然と思うべきなのであって、無機的な構成舞台の上をを駆け回りながらセリフを絶叫するのが当たり前になり、それを見に来て面白がったり感動したりする人が大勢いる以上、もう逆戻りはないのだろうかね。
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前にも書いたがシアター・クリエでやった藤山直美と高畑淳子が漫才コンビになる『ええから加減』が近頃出色であったのは、少なくともここには、脚本としてもセリフとしても、生きた言葉があるということだろう。ちゃんとした、生きた声があるということだろう。だから舞台が生きている。人物が、脚本家が頭でこしらえた人物でなく、あり得る人物として生きている、ということである。
それにつけても、開場以来もう大分になるのにいまだに路線が定まり切らないシアター・クリエだが、『ええから加減』を見ながら改めて思ったのは、やはりこうした、いわば芸術座以来ともいえる筋道に立った路線が、少なくともひとつ、確立できるといいということである。まともな大人が、あそこに行けばまともな芝居が見られると安心して見に行ける劇場。大人のエンタテインメントとは、そういうことではないか?
『ええあから加減』は、実はそれほどの傑作というわけではないだろう。この程度の作品が、この劇場の路線の、いや現代の演劇界の、ベースとなるといいだろうな、というほどの作である(べき)だろう。年間ベストテンでも選んだなら、このぐらいの作品が、ベストの10には入ったりせず、中程度の作としてごく当たり前の顔をしているようであったなら、一国の演劇のレベルとしてちょっとしたもの、ということになる筈だ。
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名古屋場所は、日馬富士の優勝は悪くないし、もちろん幾つかのいい取組もあったが、概して大味で、味わいのある相撲が少ないのが物足りなかった。稀勢ノ里がいつまでもアンちゃん気分から抜け出せないのは何故だろう(抜け出したときは、横綱になるか、あるいは衰えるか、どちらかだ、などということにならなければいいが)とか、安美錦や豊ノ海といった巧者が元気がなかったのが衰えの前兆でなければいいがとか、NHKが夜中にやる再放送の時間が段々虐待されて、午前3時過ぎになるのが常態化しつつあるのは関係者はどういうつもりだろうとか、ろくでもないことを思い煩っている内に終わってしまった感じだ。(あの再放送は、基本的に、夕方6時の打出しでは見られない人のためのものだろう。だが午前3時過ぎの放送を見ていたら、朝の出勤時間まで何時間寝られるというのだろう?)
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オリンピックの開幕直前になって、イチローだの松井だのの、秋風が立ってそぞろ物思わずにはいられないようなニュースが続いている。逆手に取って反攻に転じたイチローと、ただ待つしかない松井と。それぞれの秋、というわけか。いや、松井にとっては木枯しか。
国際化嗚呼国際化国際化・・・これ、無季の俳句です、なんてね。