随談第425回 雀右衛門の歳月

雀右衛門が亡くなって、ある思いが胸をよぎって、そのまま去らずにいる。個人としての関わりがあったわけではないし、格別な思い入れを持ったということがあったわけでもない。にも拘らずこれは、一体どういうことなのだろうと、自分でも、一種、いぶかしいほどだ。

新聞に書いた追悼の文に中に、不死身のジャッキーとか、熱帯のジャングルとか、ジーンズ姿でバイクに乗って楽屋入りしたとかいう言葉を、まるでちりばめるように私は書いた。決して低次元な意味で奇を衒ったのではない。しかし、その死に当って越し方に思いを馳せて雀右衛門を語るのに、私には、こういうことは抜きに出来ないことだった。

人間国宝の名優が死んだ、その人の芸がいかにすぐれ、かくかくしかじかの当り役があった・・・といったことを書くのが、追悼文というものの常套であるだろう。もちろん、雀右衛門についてそうしたことを書き並べることは、別にむずかしいことではない。しかし、新聞という、歌舞伎と歌舞伎ファンが作っている小社会のはるか何層倍も大きな社会に向けて開かれている場で、そうした美辞をいかに連ねたところで、九割方の読者には何の感興も呼び覚ますことはないだろう。もちろん、それは雀右衛門の場合に限ったことではない。しかし、追悼記事というものが、その人の最も圧縮された形での評伝であるとすれば、雀右衛門を語るのに、とりわけ、その生涯は、その生きた時代との関わりを抜きにしては語れないと思うのだ。ジャッキーと呼ばれたことも、ジャングルの六年間も、ジーンズも革ジャンもバイクも、雀右衛門を語る上で、深く、欠かすことのできない意味を持っていたように、私には思えてならない。

映画俳優大谷友右衛門時代のことも、私は書いた。今更、と考える方がむしろ常識かも知れない。どうしてもイメージが舞台姿と結びつかない、という声も聞いた。確かに、半世紀以上も遠い昔の話である。しかし私は、映画俳優大谷友右衛門を、名女方雀右衛門一代を語る上で抜かすことはできないと思っている。映画界で、映画俳優大谷友右衛門が如何なる評価を受けているのか私はまったく知らないし、そういう話をしようというのでもない。『佐々木小次郎』よりも、『お国と五平』よりも、あるいは『青春銭形平次』よりも、溝口健二監督田中絹代主演の現代劇『噂の女』に登場する、リーゼントスタイルに頭髪を固めた軟派の医師の役で登場する友右衛門が、いま私が言おうとしていることに、イメージとして最もふさわしい。二十代の大部分を戦地で(熱帯のジャングルで)で過ごし、復員して一介の若者として昭和二十年代の日本の現実に放り出された男。言ってしまえば「戦中派」ということだろうが、私は、ロイド眼鏡をかけポマードをてかてか塗ってリーゼントスタイルにまとめた大谷友右衛門の姿を忘れることは出来ない。80歳まで、革ジャンにジーンズでバイクに乗って楽屋入りした、というのは、単なる趣味でもファッションでもないだろうと思いたいものが、私の中にあるのだと言ってもいい。その意味では、猿之助や勘三郎より、雀右衛門こそ、その生きた時代と最も鋭く切り結んだ歌舞伎俳優だったのだ、と私は信じる。

名優雀右衛門、という一点だけに話を限るなら、雀右衛門は、戦後歌舞伎、というより、平成時代の名女方というべきであろう。歌右衛門が、既にもう舞台に立つことがなくなってから、この人は漸く、大輪の花を咲かせたのだったから。実年齢わずか三歳の違いでありながら、中堅世代、次の世代の人として、世代差がその間に存在していたのだった。しかしそれからの数年間、いやもうちょっと長くスタンスを取ってあげたい、10年余、雀右衛門は遂に、自分の時代を持ったのだった。

(もちろん、私個人の、オタク風に自分だけの小部屋に閉じこもるような好みの話をするのだったら、たとえば昭和三十九年五月の歌舞伎座、十一代目團十郎が生涯ただ一度の管丞相を勤めた『菅原』の半通しの折、「筆法伝授」で戸浪を勤めた雀右衛門(いや、あのときはまだ友右衛門だったのだ! あの4ヵ月後の九月に、雀右衛門になったのだったから)の、まさに触れなば落ちん風情とか、始めたら切りもなくありますよ。しかし今はもう少し、客観性を持った話である。)

覚えず、肩に力が入った物言いになってしまった。(どうしてだろう?)私の書いた追悼記事を、何人の読者が読んでくれるか知らないが、たとえ一人でも二人でも、エッ、中村雀右衛門ってあの大谷友右衛門のことなのか、それなら知ってるよ、懐かしいなあ、と気がついてくれる人がいたなら、それだけでも、とても嬉しいことだと思っている。

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随談第424回 勘九郎襲名をめぐる劇評ではない劇評

大分長らくご無沙汰してしまった。勘九郎襲名のことも、長々しく書くにはちょっと時宜を逸してしまった感もあるが、「口上」を見ながら改めて思ったのは、なまじな大一座でないだけに、列座の諸優のこもごも述べる口上が、きちんと心が籠っていて好もしかったことと、勘三郎が親父としてこの倅のために如何に心を砕いているかという、その二つのことである。

勘太郎という青年は、本当に列座の皆から好もしく思われているのであろう。と書くのが却って皮肉めいて取られやしまいかと気になるぐらいに、われわれから見ても好青年だが、我当とか秀太郎とか東蔵とかいった人たちが、あれだけ内実のある口上を述べてくれたことは、われわれ観客にとっても快いことだった。山、高きが故に尊からず、口上また、人多きが故に尊いのではない。

親父である勘三郎の口上も質実でよかった。改めてその真情(心情)を思ったのは、仁左衛門にせよ、久しく共演することのなかった吉右衛門にせよ、僚友ともいえる三津五郎にせよ、「人」を大切にすることが、自分一個のためだけではないということを、わが子の襲名に当ってよく考えたに違いないことが、おのずから伝わってきた故である。

昨秋、勘太郎が菊之助と踊った『関の扉』の関兵衛が、大曲・大役と精一杯取り組んで、未だしの点はいろいろあったにせよ、立派に踊りぬいた。特に、後段の関兵衛の格の高さ、大きさは見事なものだった。指導を受けたという、吉右衛門の存在の大きさが改めて思われたことだった。と、そういったことが、勘三郎の口上を聞きながら、惻々として伝わってきた。別に、倅のために功利を図って仲直りしたわけではないだろう。しかし、襲名を目前にしてあの関兵衛を演じたことが勘太郎、いや勘九郎のこれからにとって、どれだけ大きな意味をもつことになるであろうと思えば、親としての勘三郎の心情が察しやられるというものだ。

吉右衛門との共演が絶えたのは、何時からであったろう。どういういきさつ、どういう理由があったのか、双方の言い分を聞いたわけでもないし私には実情は知りようもないが、その分、それ以来の何年間だかの歌舞伎を痩せたものにしていたことは間違いない。以前に、勘三郎のお玉に吉右衛門の西郷でやった『西郷と豚姫』の面白さなど、この二人ならではないものとして、ついこないだのことのように、いまも記憶に鮮やかである。お玉役者、西郷役者が他にいないのではない。しかし、この二人のこの組み合わせの面白さは、他にはない。事はもちろん、『西郷と豚姫』だけの話ではない。現に見よ。このほど二人で見せた『鈴ヶ森』を。これとても、権八役者、長兵衛役者は他にもいるが、これぞ江戸歌舞伎と実感させるあの面白さ、あの肉厚の味感は、この二人の顔合せ以外では求められないものだ。

権八というと、いまもまず思い出すのは、先代十七代目が随分晩年に演じた権八である。実を言えば、もうそのころの十七代目というのは、かなり肥満もしていたし、以前の盛んなころにあった精悍な感じが失せ、おそらく体調から来るものだろうがちょっと大儀そうな様子も感じられるようになっていた。このときの権八も、実を言えばそうした感を拭い去るものではなかったのだが、むしろそれ故に、というべきかもしれない。印象からいうなら、五頭身か六頭身かぐらいに思われるほど、大きな顔に見えた。七十歳を優に越えていたに違いない年齢も、そこには刻まれていた。もしあの時、はじめて歌舞伎を見に来た人がいたなら(きっといたに違いない)、グロテスクと思ったに違いない。ナニ、私だって、これはグロテスクだと思った。(ゲゲゲの鬼太郎の作者がもしそのとき客席にいてスケッチに描いたなら、すばらしい傑作が出来たに違いない。)だが今にして思えば、あのときのあの権八ほど、それ以前それ以後に見た誰のどの権八よりも、それは見事に権八であったと断言できる。まさしくそこには、権八そのものがいたのだった。権八という役、幾多の権八役者が演じ重ね、演じようとしてきた「権八」という存在そのものが、そこにいた。

饐(す)えたような面白さ、と知り合いの見巧者の女史は言った。その言の意味も面白さも認めながら、しかし、私の見たのはそれとは違うと思った。グロテスクだから面白いのではなく、グロテスクの中に、権八という役の本質が生きて存在していたのだ、と思う。十七代目という役者の凄さを、私はそこに、目の当たりに見たのだと思う。

今度の十八代目の権八は、当然だが、まだそんな「物凄い」ものとは違う。(もう少し、目が生きるともっといいと思う。)しかし、十七代目の中に私が見たのと同じものが、その中には生きている。正直に言おう。病魔から復活してから、私ははじめて、勘三郎に安堵を覚えたのだった。

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