随談第455回 勘三郎随想(連載第2回)・修正版

暮の27日、正午から築地本願寺で執り行われた勘三郎の葬儀から帰って、この連載の第二回目を書いている。

いいお葬式だった、という言い方があるが、本当にそうだったと思う。葬式に参列するというのは、どこか気の重いもので、今日だって、実はそういう気分も幾分目かはなかったとはいえないが、いまは、一つの終わりを見届けたという感が深い。迫本松竹社長、坂田藤十郎俳優協会会長、坂東三津五郎、大竹しのぶ、野田秀樹、片岡仁左衛門らの弔辞もみなそれぞれの思いが籠っていてよかったが、とりわけ三津五郎のには、文字通り涙を禁じ得なかった。

一般参列者一万二千人という数は夜のニュースで知ったことだが、このことをどういう風に考えればいいのだろうか。マイクが拾った一般参列者の声が最も端的な意見であり、私もそれはその通りだと思うが、これからこの「勘三郎随想」を書き続けて行く中で、このことは常に念頭から離れることはないに違いない。

寒かったが、雲一つない晴天だった。それも勘三郎にふさわしいが、私の心象風景として、ひとつの小さなフィクションを加えて、次の一句を得た。

冬空にひとすじ奔る雲のあり

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まずは、個人的な思い出から話を始めよう。 

勘三郎との交友が始まったきっかけも、思えば、いかにも勘三郎流だった。言うなら、一種の喧嘩である。原則として、役者との付き合いは、何らかの理由があって自然に出来て行く以外、こちらから求めてゆくということはしないから、この場合も、先方からの求めから始まったという限りでは例外ではないのだが、それにしてもいささかユニークであったことは間違いない。

一九九八年の一、二月というのはいまの仁左衛門の襲名があった時だが、そのときから向こう一年間という企画で、当時『演劇界』の編集長だった秋山勝彦さんから、「21世紀の歌舞伎俳優たち」という連載の俳優論を書かないかという話があった。第一回が仁左衛門、以下、その当時の名前で幸四郎、梅玉、菊五郎、團十郎、猿之助、勘九郎、八十助、吉右衛門、鴈治郎、富十郎、玉三郎という顔ぶれで、この人選は秋山さんがした。襲名の月の仁左衛門に始まって、月々の公演で中心的な活躍をしている役者をひとりづつ取り上げて行こうというわけだった。「21世紀の云々」というのも秋山さんの命名で、新世紀を間近に望む時点に立って、最も旬の盛りにある人たちについて、現在過去未来を展望し、語ろうというのである。

三月号から連載開始で翌年の二月号まで、一年間の連載だから十二人。勘三郎は、当時はもちろんまだ勘九郎で、第七回に予定されていた。いうまでもないが当時八月の歌舞伎座は「納涼歌舞伎」で、その納涼歌舞伎での勘九郎と八十助を取り上げようというわけだから、連載の第七回と第八回ということになる。

ちょいとばかり、話の仕込みが長くなったが、さてその年八月の納涼歌舞伎に勘三郎は真山青果の『荒川の佐吉』を演じた。もちろんこれ以外にも、三部制の三部それぞれにいくつも役をやっているが、その『荒川の佐吉』について、私は新聞評に「宿願の『荒川の佐吉』を熱演するが意余ってやや臭みに傾くのが疑問」と書いた。途中で休憩なしの一挙上演だったせいもあって、客席はやや披露気味、などとも書いた。もしかすると他にも原因があったのかもしれないが、私とすれば、心当たりといえばそれぐらいしか思い当らない。あれがいけなかったかな、というわけだ。

それが新聞に載って、さあどのぐらいだったろうか、記憶ではほんの数日という感じで、秋山さんから電話があって、勘九郎があの連載、自分の分は除いてくれと言っているという。わたしもずいぶんねばったのですけどねえ、と秋山さんは、当然だがいかにも困ったという声で言う。自分の分は載せてくれなくていいからと言っているという。で、仕方がないからともかく勘九郎の分、一回分を飛ばして、連載はそのまま続けるということに、急遽、決めた。同じ月に八十助が『先代萩』で仁木をやっているのを第八回に書くつもりでいたのを第七回とすることにして、以下、予定の順番を繰り上げる。

秋山さんにしてみれば、そうやって、しばし時間を稼ぐうちに、何とか勘九郎に翻意をさせようという心づもりであったのかもしれない。私にも、正直、その期待はあったけれども、時はむなしく経って、ついに最終回、ではない、第十一回の玉三郎まで来てしまった。

このままでは終わらせたくない、という思いが私にはあった。同時に、決して後から言うのではなく、ある種、予期するものがあった。肚を割って話せばわかる人間だ、いずれは解り合える筈だ、という確信である。これは「勘」であり、「直観」であるという以外はない。事実、八月以降の五カ月間、もちろん困惑はあったものの諦めたことは一度もなかった。このままで終わらせたくないというよりむしろ、このままで終わる筈がない、と思っていたと言った方が正確かもしれない。じつはこの五か月の間に、私はあることを決意していた。秋山さんには内緒である。第十一回が載った一九九九年の二月号が出た後、私は勘九郎に手紙を書いた。

例の一件については、たぶん水掛け論に終わるだけであろうから、何も言うつもりはない。だが次のことだけは、是非とも貴兄に語っておきたい。貴兄は今月、『慶喜命乞』の山岡をつとめているが、(事実、そうだった!)その山岡の心境になって読んでもらいたい。そうすれば、きっと解ってもらえると確信する。

一に、この連載は貴兄を含めて十二人、十二回で完結するという計画でなされている。貴兄を欠いては事は成就しない。別の誰かに入れ替えることも不可能だ。二十一世紀の歌舞伎俳優を語る計画に貴兄を欠くわけにはいかないと考えるからだ。

たとえば貴兄がある計画のもとに舞台をつとめていたとして、それが何かのことで中絶することになったとしたら、どんなにか無念であるに違いない。私にとっても、この連載がこうした形で中絶しなければならないのは堪えられることではない。

二に、もし書くことになったなら、必ずや貴兄を喜ばせ、満足させるものを書いてみせる自信がある。といって、阿諛や迎合をしようというのではない。仮にそんなことをしたところで、喜ぶ貴兄ではない筈だ。

以上のことは、『演劇界』にも誰にも相談してすることではない。ただ私一人の思いを是非とも貴兄に伝えたくてすることである。理解してもらえたなら本懐である。

凡そ、以上のような趣旨だった。手書きで書いた手紙だし、十年を優に過ぎた昔のことで手許に写しを保存してあるわけではないから、言葉遣いに異同はあるだろうが、趣意は違えていない筈だ。和紙に筆で書いたから、便箋で数枚になったろうか。

その頃私は、たまたま、約二週間の予定で北京へ行く仕事があった。私が宮仕えというか、毎月一定の給料の上にボーナスを貰うという生活をしたのは、生涯に十六年間だけのことだが、その前後がちょうどその時期だった。ある小さな短期大学ができたときに専任として拾われたからで、たまたまその年は、二月の末から三月初めまで、中国語の研修に行く学生の引率役を引き受けていたのだった。出発の日に成田へ向かう途次、スーツケースをがらがら押しながら、自宅近くのポストへこの手紙を投函した。帰国まで二週間。どういう結果が待っているか、賭けというなら賭けだった。

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このブログも、本年はまずこれ切りということにいたします。毎度のお愛読、ときどきの拾い読み、たまたまの盗み読みその他その他、如何なる形であれ、お読みくださった方々に感謝いたします。

「勘三郎随想」も、出来れば少々息長く続けていければと思っています。勘三郎のあれこれを、心の移りゆくままに語り述べて行きたい、断続的な連載、とはそのような行き方にふさわしい形をと考えるからです。当然ながら、「随想」以外の回がその間に何回も続くこともあるでしょう。どうぞ気長にお付き合いくださればありがたいと思います。

随談第454回 勘三郎随想(連載第一回)(増補修正版)

いまだにピンとこない、というのが、訃報を聞いた時からずっと、今なお続いている感じである。深く斬られているのに、気がつかずにぼんやり突っ立っている間抜けな切られ役のようなものだ。おそらく、これからゆっくりとさまざまな感慨が波状のように襲ってくるのだろう。

これからこの欄を利用して、随談・随想という形で、断続的に連載という体裁で、勘三郎のことを書いて行こうと思う。どうも、それが一番ふさわしい仕方のような気がする。もしうまく書けそうなら、勘三郎という役者について、随想という形でさまざまに語ってみたい。実は私には、ぜひそうしなければという思いがある。

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実は「勘三郎論」のようなものを、既に四年前に書き上げてある。思い立ってご本人の了解を得たのが十八代目襲名が決まって、まだ勘九郎でいるうちにゆっくり話をしたいという先方からの誘いがあって、東京ではなかなか時間が取れないからと、松竹座に出演中のひと晩、法善寺横丁の小さな寿司屋で酌み交わしながらのことだったから、さらにその四年前ということになる。「十八代目勘三郎論というのを書きたいんだけれどね」と言うと、エッと言う感じで、「勘三郎論って、ぼくのこと?」と自分を指差しながら答えたのを覚えている。もっともこの時は、発想を得た、というか思いつきに毛の生えた程度のものだったが、改めて、もう少しきちんとした形で話がまとまったのが、その翌年の七月、もう襲名公演がはじまってこの時もやはり大阪での公演中のことだった。このときもやはり法善寺横町の店で、好江夫人も一緒だった。

それから多少の事情もあったにせよ、ともかくも一応の完成を見るまでにちょっきり三年もかかってしまったのは、理由はあきらかで、ひとえに、書きにくかった、という一事に尽きる。とにかく相手は、いまめまぐるしく動いている真っ最中である。またそういう、動体としての勘三郎をルポするような、いわゆる勘九郎本、勘三郎本は、さまざまな形、さまざまなライターの手でつぎつぎと出ていて、それらはそれらで、みな、その時々の勘三郎の「いま」を巧みに捉えている。もちろん、それらとは違うスタンスで考えているのだが、書けはしたものの、誰よりも自分が気に入らない。勘三郎も協力してくれて、ひと晩、先代のことや歌右衛門のおじさん、梅幸のおじさん、勘彌のおじさんたちの思い出、などなどなど、それは面白い話を聞かせてくれたりしたのだったが、総体的には、まあ、ともかくもまとめた、という程度のことに終わった。案の定、どこからも買い手は出なかった。

こちらとしては、約束を果たせないでしまったことになる。そのことが、いつも、ずっと、気にかかっていた。二人だけで飲みながらという形で勘三郎と最後に(なってしまったわけだが)会ったのは二年前の六月、コクーンで『佐倉宗五郎』をやっている時だったが、いずれまた仕切り直しをして、というようなことを言ったら、向こうもちょっと真顔になって、ウン、もう少し待って下さい、と言葉も少し改まって答えた。(そういう、折り目正しさは常に忘れない人だった。)言うまでもないが、病に倒れたのはその秋も暮れのことである。約束は不履行のままになってしまったことになる。

驚きとか悲しみとかいったこととは別に、訃報を聞いて、やがて思ったのは、そのことだった。勘三郎の方ではどう思っていたかしれないが、私としては、いわば借りを作ったままでいることが、胸にしこりとなって残っている。私は約束を果たさなければならない。映画のフェイド・インのように、そうした思いが、事態をまだ受け止めきれないままでいる私の中に、浮かび上がってきたのだった。

論じるより、語ろう。それも、随想という、自然体で語るにふさわしい言葉で。あれから、ようやく、一週間が経った。今日は自邸で密葬が行われた日である。顔を見ることが出来る最後の機会と知りつつ、出かけるのはやがて執り行われるであろう本葬の折と決めて、敢えて自宅にこもって、締め切りを控えた原稿の準備に充てて過した。その日に、この第一回をこのブログに載せよう。題は、「勘三郎随想」と、いま仮につけよう。

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その日は、午後から国立劇場で文楽を見る予定だったので、夜中の二時半ごろに床について、途中で居眠りをしたりしないよう、少し朝はゆっくりするつもりだった。今にして思えば、ちょうどその時刻に、息を引き取ったことになる。因縁というほどのことではないにせよ、ひとつの不思議を思わないわけには行かない。突然の電話のベルで夢を破られたのは、まだ外は暗い六時半である。目覚まし時計と間違ったりする寝ぼけた頭がいちどきに覚めたのは、「勘三郎さんが亡くなりました」という日経新聞文化部の川口一枝さんからの一報だった。川口さんは、毎月の劇評その他で、なにくれとなくカヴァーしてくれる、私にとってはいわばキャッチャーみたいな存在で、普段から全幅の信頼を置いている人である。とにかくこれから出社して対策を講じ、結果を知らせるからという話で電話は終わった。

まだ四時間しか眠っていない計算になるが、床に戻ったものの、まともには眠れない。といって、何か激しい感情に襲われるというのでもない。ピンとこない、というのが、在り様だった。信じられない、と言うのとも違う。つい前日、国立劇場の歌舞伎を見に行った幕間の食事の折、たまたま席を隣り合わせた関容子さんと、勘三郎の状態について互いにわずかに知るところを交換し合ったばかりで、つまり関さんのような、先代以来の交際のある人でもこれといった情報を持ち合わせていないらしい、と知ったのがむしろ最大の情報、といった按配だった。いつもなら起き出す時間になっても、せめてもという思いでごろごろしながらテレビをつけると、その関さんが電話出演という形でキャスターと話をしている。目の前の現実だけが進んで行って、実感がなかなか湧かないという状態が長く続いた。

川口さんから電話が入ったのは、結局、十一時半頃で、文楽は十四時始まりだから十二時半には家を出なければならない。いつもは「文化往来」という朝刊のコラムの欄のスペースに明日付で追悼文をという。字数が少ないこともあってちょっきり四十分で行数もぴたりと書けたのは、興奮と緊張とがうまく噛みあって、集中力を増進してくれた賜物である。去年の正月四日、中村富十郎逝去の時を思い出す。あの時も、ちょうど新橋演舞場の正月公演を見る日で、やはり早朝、寝床の中で電話で訃報を聞き、そのまま劇場へ行って、幕間にロビーで書き継いだのだった。異様な昂揚の中でのみ、できることである。昼夜の入れ替えの時間に、原稿を受け取りに来た川口さんに渡して、やがて夜の部が開幕すると、富十郎が翁をつとめる筈だった『三番叟』が始まって、遺児となったばかりの鷹之資が三番叟を踊っている。思えば前日のこの時刻、富十郎はまだ病院のベッドにいたのである。実に不思議な感覚だった。(以後、断続的に連載の予定です)

随談第453回 批評の文章

今年もいろいろな訃報を聞いたが、吉田秀和とか小沢昭一とか、ちょいとひとしなみでない思いで見ていた人の死が多かったような気がする。どちらも、盗んでみたくなるような芸の持ち主だった。吉田秀和は、昭和37、8年頃だったか、「芸術新潮」に連載していた『現代の演奏』というのが面白くて、事実、ときどき、盗んだ。などといったら、おこがましいと言われそうだから、真似をした、と言い換えようか。

当時全盛だった大鵬と柏戸を破って小兵の栃の海が二人の間に割って入って横綱になった。その三人の相撲振りに、誰それの演奏の風を例えたりする。いま久し振りに『現代の演奏』を書棚から引っ張り出して確かめてみたら、別の本だったらしくて見当たらない。その代わりに、フィッシャー=ディスカウを大鵬になぞらえているのを「発見」した。発見と言ったが、見るとちゃんとその箇所に傍線が引いてある! つまり忘れていたのだ。それにしても、何とあちこちに線を引いてあることだろう。あのころは、こんな風にして本を読んでいたのだった。(栃の海のついでだが、風貌といい身体つきといい、日馬富士が何とも栃の海によく似ている。横綱として短命に終わってしまったところまで似ないといいが、とそんなことまで心配になってしまうほどに。)

実を言うと私は、歌舞伎の批評家の文章は、もちろん(『近代歌舞伎批評家論』なるものを書いたぐらいだから)、いろいろ読み、勉強もしたが、本当に楽しんで読むのは、むしろ他ジャンルの批評・評論の方が多いかもしれない。吉田秀和ももちろんその中の最大のひとりに数えていいが、どうしてかといえば、内容もさることながら、批評をするという行為というか営為というか、それから、どういう文章で批評を書くか、ということに興味があるからだ。

というわけで、実は今日やっと、増田俊也氏の『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』を読み終わった。読むのは電車の中だけ、と決めていたので、二段組み、約700頁を読破するのに約ひと月かかった。(あの大きな、嵩張る本を電車の中で読むだけでもひと苦労だった。)別にあの世紀の一戦のいきさつという「事件」自体に、それほどの興味があるわけではない。事実、あの事件のことを書いた本は世にゴマンとあるが、ほとんど読んでいない。にもかかわらずこの本を読む気になったのは、書店でひと目見た時の直観、と言うほかはない。要は、ああいう事件、ああいう世界、ああいう人物たちをどういう批評の文章で書くのか、というところに興味があったのだ。まさか、吉田秀和や戸板康二の文体で、木村政彦や力道山は書けないだろう。

いや、面白かった。柔道について、格闘技というものついて目からうろこが落ちるような思いを何度もした。それにしてもよく調べたものだ。その思いの深さだけでも大変なものだが、そのド迫力が文章となって躍動している。そうしてそれらを通して人間というものの滑稽さや哀しさが行間から溢れ出してくる。(多分この言い方は、著者は気に入らないだろうが。)おそらくこれは、スポーツ紙のスポーツライターの文体でなければ書けないものだろうし、その意味で、スポーツライターの文章が作り出した傑作というべきだろう。

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瑕瑾というほどにもならない小さなことだし、ケチをつけるために書くのではないが、ただ相撲好きの人間から見ると、増田氏は相撲にはあまり関心がないらしく、二カ所ほど、オヤと思った箇所がある。

ひとつは、力道山の相撲界入りの事情を述べる件で、師匠になる玉ノ海(かつてNHKの相撲解説でよく知られたあの人だ)が、現役のまま二所ノ関を襲名し親方となったいきさつを述べる際「この数か月後、二所ノ関親方が急死し」云々とある、その先代の二所ノ関親方というのは、あの双葉山以前の大横綱である玉錦のことだろう。玉錦は、双葉と覇者交代しながらなお現役を続け、二枚鑑札で二所ノ関を名乗っていたのだが旅先で盲腸炎のため急死したのだった。力道山と直接関わりのないそんなことをごちゃごちゃ書く必要はないとはいえ、柔道の関係者を述べるときの詳しさに比べたら、何も触れていないのはちょっと物足りない感じがする。

もうひとつは、力道山が、番付上の不満から関脇のまま突如廃業してしまういきさつを述べる件で、「九月場所の番付発表がある前の地方巡業ではすでに「大関」として相撲を取っていたという証言もある」云々というところ。このあたりになるとわたしも子供なりの記憶があるが、その当時の地方巡業は、今日と違い部屋別、または一門ごとに行っていたから、巡業先では、その一行のなかでの番付順に「大関」「関脇」「小結」と言う風に。

いわばその時限りの番付で興行していたのではなかったろうか? 私が中学一年のとき、大塚駅の駅前に二所ノ関一門の巡業が来たのを見に行ったのを覚えているが、当時(正式には)たしか小結ぐらいだった若ノ花(のちの横綱若乃花である)と玉ノ海(解説の玉ノ海の次の、金色褌で有名になった後の関脇)が(一行の)大関と称していたのを覚えている。だから力道山の場合も、別に「僭称」していたわけではなく、当時の慣例から、巡業先では「大関」だったのではないだろうか?

余計なことかもしれないが、ちょっと口出しをしたまで。

随談第452回 貼り混ぜ帖(その2)・修正版

名取敏行氏が1999年から続けてきた「イプセン現代劇連続上演シリーズ」の第12作目にして最終公演の『野がも』を俳優座劇場で見た。なかなか面白く、且つ好感のもてる舞台だった。不明にして私は、この公演のほんの尻尾の方のいくつかにしか立ち会うことが出来なかったが、おそらくこの最終公演から得た印象をなすものは、シリーズ全体を通しても変わることなく流れていたに違いないと思われる。一口に言えばそれは、知的で洞察力に富んでいたればこそのバランス感覚、とでも言うべきだろうか。

『野がも』という芝居が、とりわけそうした洞察力というか、複眼で見るスタンスというか、を必要とする演目だということもある。初演の頃は不評で、近年になって、研究者がああでもないこうでもないと理屈を付け合い読みの深さを競い合う(インテリごっこ)、というのはこの作に限った話ではないだろうが、悲劇にして喜劇、という複眼でものを見てこそ可能な多様性、というか二重性は、あまりパンチの利いた演技・演出よりも、一見常識的・良識的とも見える演技・演出によってこそ、遠近法の中に定着して見えてくる。その辺の具合が、なかなかうまくバランスが取れていた。こういうのを見ると、新劇(などというと叱られるかもしれないね。これは「イプセン現代劇シリーズ」なのだ)を見るのもときに悪くないなという気がしてくる。俳優たちの演技はどれも適切だったと思うが、グレーゲルス・ヴェルレとヘドヴィクという、鍵になる人物をやっている植田真介と保亜美という二人の若い俳優の感性がなかなかいいと思った。

もっともこれらのことは、12作すべての台本と演出を担当した毛利三彌氏の脚本理解の反映でもあるだろうが、役者たちに当節流行りのセリフの絶叫だの、過度な身体行動だのを求めない。良き意味での大人の仕事である。(話は違うが、いまやっているNHKの大河ドラマはさすがに不評らしいが、たまに覗くと、セリフは、ぼそぼそ独り言みたいに呟くか、突如絶叫するか、どちらかしかないような印象を受ける。たぶんあの番組の演出家は、当今の舞台演出に共鳴するところ多い人なのだろう。)

それにしても、三連休の狭間とはいえ土曜日の午後の公演で、俳優座劇場のあのキャパに空席がある。ま、そういうものなのかなあ。

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大相撲の九州場所は、新横綱の日馬富士が終盤、元の木阿弥に戻ってしまい(いま思えば、審判(オリンピック流にいえばジュリーか?)のミスで助かった豪栄道戦が微妙な影を落としているようにも見える)、見るべき活躍をしたのは松鳳山とぐらいという、あまり実のある場所とはならなかったが、それ以上に腹が立ったのは、NHKが深夜に放送するその日の取組のダイジェスト番組の放送時間を、最後の三日を除いて、連日、午前3時台という時間に追いやったことである。お蔭で何日も、見られない日ができてしまった。

そもそもあの手の番組は、幕の内の取組が夕方の4時から6時という時間では中継放送を見ることが叶わない者のためにあるのだろう。つまりその多くは、会社勤めをしているとか、翌朝にはまた早起きして働きに出かけなければならない人たちだろう。それを深夜の3時半だの何だのに放送したのでは、今度は翌朝の出勤に差支える・・・というようなことを、番組編成の担当者は考えないのだろうか。

ラジオ深夜便とは違うのだ。いやもしかすると、どうせ相撲番組など見るのは、現役から疾うに離れた高齢者ばかりなのだから、夜中に目が覚めて寝付かれずに困っている老いぼれどもには、深夜便並みに夜中の3時辺りがちょうどいいとでも、考えたのだろうか。しかも番組表を見ると、その前にやっているのは再放送ものがほとんどで、その日でなければならないという性格のものとは思われない。それに比べれば、相撲放送は、ダイジェストとはいえその日のうちに放送するべき報道としての性格・役割を持っている。(現に、野球賭博だか何だかでNHKが中継放送をやめたとき、このダイジェストは報道番組だからという理由で放送をやめなかったではないか。)

心あるファンは、優勝争いや話題の力士だけを注目しているのではない。せめて午前1時台か2時台に、できれば放送時刻を固定すべきだろう。

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NHKの悪口ついでに、もうひとつ。午後9時からのニュース番組に登場するキャスター、介助役(?)の女性アナ、天気予報士の女性に至るまで、全員が無声音で早口で喋る癖があるので、何を言っているのかほとんど聞き取れないことがしばしばある。まともに(声を出して)喋れば三人とも、声の質は良い方に属すると思われるが、お互い同士、冗談を言いながらもしゃもしゃもしゃ、とやっていることが多すぎる。その中にひとり、やけに歯の丈夫そうなスポーツ担当の女性アナが、こんどはとんでもないところでやたらに声を張り上げる。高低に落差がありすぎるので、これまた何を言っているのかよく聞き取れないという結果になる。

土曜日と日曜日には、サタデー何とかとかサンデー何とかというスポーツ番組があって、ここに出てくる男女のアナがまた、声の高低に乱高下が激しく、さらに特に男性アナの方は語尾が粒立たないので、何を言っているのかほとんど聞き取れない。(個人攻撃をするつもりはないが、あのアナ氏には、一度、自分の放送を音声だけ聴いて、ご自分のアナウンスが如何なるものか、よく反省してもらう必要があると思う。)

これらはみな、おそらく、昔風のNHKアナウンサーの殻を破って自然な喋り方を心がけているというつもりなのだろうが、凝っては思案にあたわず、誰か注意をしてやるべきではないか。

随談第452回 貼り混ぜ帖

前回書いた橋下VS週刊朝日のバトルが、立会い一瞬の蹴たぐりで勝負が決まったと思ったら、今度は党首討論で、マナジリを決した野田首相の立会い一気のぶちかましからの押し相撲で、薄笑いを浮かべながらゆとりをもってジャブの応酬ぐらいと心得ていたと思しい安倍自民総裁がたじたじとなって土俵を割るという一番があった。もっともこれも、カメラをすこしロングに引いてみれば、民主・自民の八百長相撲のようにも見えてくるわけだが、それはそれとして、野田VS安倍の勝負という一点にズームアップしてみるなら、ちょいと面白い一戦ではあった。四つに組んだ長い相撲しか取れないかと思われていた野田の一気の突進に、安倍は「後の先」が取れず、上ずった声で念押しをして土俵際でねばるふりをするのが精いっぱいという一方的な勝負に終わったわけだ。相手の揶揄挑発にじっと耐えていた主人公が、乾坤一擲、憤然として起つ、というのは「忠臣蔵四段目」にせよ「縮屋新助」にせよ、昔からよくあるスト-リーに違いないが、返す刀、というより、立会い一瞬の張り手に事寄せて、「トラスト・ミー」などと言った人があったために、とかなんとか、味方のはずの鳩山前首相にまで一発食らわせるあたり、じつは手はなかなかこんでいたのを見ると、用意周到に差す手を考えていたに違いない。わが敵は本能寺、腹に据えかねていた相手は味方陣営にもあったという、首相の心中を推し量ってみると、なかなか面白い。

それにしても、急転直下の解散となって、袱紗に包んだ奉書を捧げ持った係官が恭しく廊下を練って歩いたり、勿体のついた解散の儀式を久し振りで見たが、何時も不思議なのは、議長の解散宣言と同時に議員一同が万歳を叫ぶのは何故なのだろう。猿は木から落ちても猿だが、議員は解散すれば失業するわけだから、やけっぱちの万歳のようにも聞こえる。何時、いかなる理由で始まった慣習なのか、知りたいものだ。(今度で引退する森元首相が、議場から引き揚げてきて、どうして万歳というのかわからんなあ、と言っていた。つまり、ああいう人でも知らないわけだ。)

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いろいろな訃報が続く。それぞれへの思いは別として、いつも思うのは、俳優や芸人、スポーツ選手など、華やかな稼業(と思われている)有名人の訃と、それを伝えるマスコミや社会の受け止め方の関係である。私個人の思いとうまく反りが合ってくれたときは、まあ、いいのだが、必ずしもそうとはならない(ことの方が多いかもしれない)。結局それは、自分の胸の内に収めてしまうしか仕様がないのだが・・・

森光子が亡くなってマスコミが大きく取り上げて悼んでいる。もちろんそれはいいのだが、しばらく前の山田五十鈴のとき、もちろんそれなりに大きく取り上げられはしたものの、実は少し、さびしい気がした。その割には、という思いである。理由は明白なのだろう。新聞やテレビの現役のスタッフにとって、森光子ならその活躍の輝かしい部分のほぼ全域を自分の記憶の中でカバーできるが、山田五十鈴となると、調べてからはじめて知る対象なのだということに尽きるのだ。現役のまま、それも後になればなるほど実りを豊かにしていった森光子は、だから、最も幸福な死に方を自ら(この字は、みずから、とも、おのずから、とも読める)演出していったのだ、ともいえる。伝えるマスコミも、仕事を共にしたスタッフや俳優・タレントたちも、観客も、みな、すぐにピンとくる記憶を自分の中に持っている。

1920年生まれの森光子は、映画女優としては原節子と同年である。森光子が『放浪記』で世の脚光をはじめて(といっていいだろう)浴びた時、原節子はまもなく引退をしようとしていた。同年の生まれでありながら、活躍の時期がほぼ完全に食い違っている。どちらが良いか悪いかとは、もちろん次元の違う話である。『放浪記』は高峰秀子も映画にしている。成瀬巳喜男監督で、舞台と同じ菊田一夫の脚本に依っているから、内容は舞台と映画の手法の違い以外は、物語の展開その他、まったく同じといっていい。スタッフも役者もそろっていて、いい映画である。高峰自身も、一番好きな作品と言っていたとも聞く。だが『放浪記』の名声は、森光子の舞台に奪われてしまった。こういうことは、運のあるなしとしか、言いようがないだろう。

アラカンの時代劇映画の娘役から始まって、戦地慰問の歌手(つまり自分の持ち歌ではなく他人のヒット曲を歌うわけだ)から漫才などの寄席芸、それから舞台、さらにはテレビと、その時々の世につれて様々な芸を身に着けた。もしそれを「雑芸」と呼ぶなら、雑芸の上に花を咲かせたことになる。芸とは何だろう、ということを考えさせられる。

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染五郎の休演が続く中、今月は仁左衛門が2日目から休演し、(段四郎も途中休演となったらしい)、さらに勘三郎の病状についてぎょっとするような記事が週刊誌に踊っている。歌舞伎座のこけら落とし公演が間近に迫る中、歌舞伎をめぐる空模様は不穏な雲がつぎつぎと湧いてくる。

国立劇場は、当然だがもう代役とは謳わないで、染五郎に予定されていた筈の役を、名古屋山三は錦之助、白井権八は高麗蔵がはじめから本役として演じている。演舞場では、仁左衛門に変って「引窓」では与兵衛を梅玉、『熊谷陣屋』では熊谷を松緑が、こちらは代役として演じている。(明治座の段四郎の役は、大詰の詰寄りに出るだけの大将の役だから、特に代りの役は設けないですませたらしい。)劇評は新聞に書いたのを見て頂くことにして、国立劇場では、染五郎が出ないのでは・・・という声もあるようだが、ファンの失望はもっともだが、ではさればといって、錦之助なり高麗蔵を見ていて、染五郎に比べて拙いとも見劣りがするとも思わない。特に錦之助は、「浪宅」でお国との別れのところなど、仁の良さを発揮して予期以上の好成績といっていい。ああいうノホホンぶりは、現代にあって貴重なものというべきである。染五郎がやったとして、あれ以上に行っただろうか?

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最後にひとつお詫びを申上げなければならない。新聞の新橋演舞場の評で菊五郎の『四千両』の富蔵を初役と書いてしまった。思い込みから来る粗相以外の何ものでもない。新聞には載せる機会がないので、せめてこの場で訂正とお詫びを申上げます。

随談第451回 だます方もだます方、だまされる方もだまされる方(訂正版)

日本シリーズは、私にとっては残念な結果に終わったが、吉川と武田勝という投手の二枚看板の投げた4試合を全部落としたのだから、かくなり果つるも理の当然といえば、それに違いない。もっとも、第4戦の、零対零で延長の末、決勝打で勝負が決するという、およそ野球というゲームの決着のつき方の中でも最も味な決まり方をしたゲームもあったり、トータルに見ればまずまずのシリーズであったとは言えるだろう。(それにしても、原の勝利監督インタビューは、運動会の最後の校長先生のお話みたいだね。)

あの決勝打を打った飯山は、10何年もプロに居てホームランを一本しか打ったことがないという選手だったというのも、実にいい。つまりプロ野球というのは、草野球からはじまって全国のアマチュア選手の中から上澄みを掬いに掬った果てにいる、天才集団であるわけだが、そうして入った多くは、飯山のように、33歳(ということを、選手名鑑などひも解いて今度知った)まで一本しかホームランを打ったことがないという戦績に甘んじているわけだが、じつは天与の「天才」は自分の中に隠し持っているのであって、天の時地の利にめぐまれれば、あゝした「椿事」を巻起こすこともあり得るわけだ。

ただ決勝打で決まったからいいのではない。それまでの経過の末だからであって、あの試合はハムの中村、巨人の宮国という、どちらも高校出でプロに入ったばかりの若手の好投があり、(それにしても、あの埼玉のダルビッシュが本物のダルビッシュによく似ているのには驚く。その後にいろいろ出てきたどこそこのダルビッシュとはワケが違うわけだ)、九回の裏表に両軍とも二死満塁のチャンスを逸したり、という果てのことであったからだが、ところがこういう経過を、後で見たどの局のスポーツニュースも、きちんと伝えていないのは、何としたことであろう。普段でも、さっき球場で見てきた試合をニュースで見ると、限られた時間内にまとめるとはいえ、何だってあんなまとめ方をするんだろうと思うことはあるものだ。そこに、各局の担当者の見識が顕われるともいえるが、と同時に、業界人独特の、ある一定の固定観念というものもあるような気がする。終了後に誰が表彰されるか、選考の仕方などにも、同じようなことを感じることがある。(今度のシリーズの表彰には別に問題は感じなかったが。)

まあ、試合の山場とか勝敗を分けた急所をどこに見るか、ということには各人各様の見方があるわけだが、ところでその伝でいうなら、今度のシリーズの趨勢を分けたのは第五戦の、危険球退場の判定だったといっても、日ハムびいきの贔屓の引き倒しということにはならないだろう。2勝2敗のタイになっての第5戦の、反撃にかかろうとしていた矢先の場面というところに、皮肉がある。それにしても多田野の投球がバットに当たった一瞬に、打者の加藤も捕手の鶴岡も主審の柳田も三人とも目をつぶっていたというのも可笑しいが、ああいうショットが撮れるというのこそ、テレビカメラならではで、あの写真は、今度の判定が茶番であったことを示す上で、技能賞ものだといっていい。いや、技能賞は痛くもないのにひっくり返って痛がって見せた巨人の加藤か。(それもその一瞬だけのことではない。栗山監督の抗議も長く続いたのだから、すぐにケロッとするわけにもいくまいから、その後も演技は続いたわけだ。)

しかし一番の殊勲は、「だます方もだます方、だまされる方もだまされる方」としめくくった投手の多田野で、こういう言を咄嗟に吐けるというのは、誰にでもできることではない。平素から、超スローボールを投げて見たり、人を食ったピッチングをする多田野ならではのところがいい。プロ選手もめったに出なくなってからの立教出で、誰に注目されたわけでもないのにひとりでアメリカ野球で投げてきたという経歴から見ても、よほど胆力があるのだろう。日ハムに入ってからだって、いちどクビになってから、また這い上がってきたのではなかったかしらん。(エースでありながら二度とも立ち上がりに打ち込まれた吉川など、いかにも胆力のなさそうな顔をしているが、多田野の爪の垢を少し分けてもらうといいかもしれない。)

ところでこの「だます方もだます方、だまされる方もだまされる方」という一言は、いまの日本の社会、いろいろなところに使えるところがシャ-プでいい。経歴詐称でIPS手術をやったという医師もどきの男(あのおじさん、テレビのタレント文化人に転職するらしいが、はじめの記者会見の折のもっともらしさといい、タレント的才能はちょっとしたものがあるに違いない)、連続変死事件の容疑者の女の写真を間違って掲載した新聞各紙なんてのはまさにドンピシャリだが、例の大阪市長をめぐる「週刊朝日」の一件だって、読者というか、世間からみれば、だまされたようなものだろう。連載といっていながら一回だけで取りやめてしまうというのは、注文した料理が運ばれて来て一箸つけたところで、「アッすいません、まちがってました」とか言って下げられてしまったようなものだ。喧嘩は出鼻をくじいた方が勝ち、相撲で言えば、立会い一瞬の蹴たぐりが鮮やかに決まって、大朝日(といえばマスコミ中の大横綱のはずだが)がばったり四つん這いになったようなものだが、先に仕掛けたのは『週刊朝日』の方なのだから、橋下氏の方は「後の先」を取ったわけで、双葉山並みの(ただし相撲ではなく、喧嘩の)名人だということになる。

年内には、と言っていたのが、両投手、じゃなかった両党首会談で、近い内に、と言い換えたのを真に受けて(受けたフリをして)騒いでいるのも、だます方もだます方、だまされる方もだまされる方、の部類だろう。

随談第450回 新国立劇場『るつぼ』

新国立の『るつぼ』を初日に見たが、なかなかよかった。もっとも、中入り前の前半は、かなりの数の登場人物がつぎつぎに現れて、わあわあとわめきたてるのと(魔女がきゃあきゃあわめくのはある程度仕方がないが、今回はかなり抑制されているとはいえ、当世流の絶叫好みはここにもその尾を引いている)、薄暗い照明のもと、聴覚と視覚と両面から過度の刺激を受けるのとで、かなり疲労困憊する。

もっとも、大勢の人物がつぎつぎと出てくるのは脚本がそうなっているからで、これは作者のアーサー・ミラーに文句をいうしかないが、(もっとも考えてみれば、バルザックなどもいきなりパーティの場面で多数の人物をつぎつぎに紹介するところから始まったりするから、これは文学演劇ともに、泰西文化の発想なのかもしれない・・・と書いて、『曽我の対面』なんてのもいきなり大勢出てくるよなあ、とフト思ったりもする。いや、つぎつぎといろんなのが出てきてドラマを設定してゆく、という意味でなら『四谷怪談』の序幕とおんなじか、と思ったりもする)、西洋人の片仮名の名前が頻発し、何人かを除いては出演者の顔を見ただけでは判別のつかないこちらは、人物設定を呑み込むだけで暇もかかれば、神経も脳ミソも疲れる。(あの市蔵がやっている役とか、あの亀蔵がやっている役、という風に、取り敢えず役者本位で押さえておく、という手が利かないわけだ。)

新国立のパンフレットはサイズもよく、ページ数もほどほどで持ち重りがしないのは好感がもてるのだが、毎回一定の編集パターンが定まっていて(そのこと自体は尤も至極、悪いことではないとはいえ)、この役名がどういう人物なのかが、開演前に一瞥しただけでは覚えきれるものではないことに、もうちょっと配慮してもらいたい。(始まると客席は真っ暗になってしまうから、歌舞伎みたいに、オヤ、と思ったらその場で確かめるというわけにいかないのは、実に不便である。)

というわけで、前半(だけでちょっきり100分かかった)が終わった時は疲労困憊、帰っちまおうか、という悪魔(いや、魔女か?)の囁きが一瞬、頭をかすめたほどだった。(劇場側が最近、座席に置くようになったクッションをうっかり尻に敷かずにいた、つまり背もたれにしていたので、尾骶骨が痛くなったのも疲労の一因だが、これは私自身の責任である。中入り後は、尻に敷いたら気持ちがよくなったから、後半の好印象にはそのことも関係しているかもしれない。)が、後半は引き入られて見た。アーサー・ミラーならではの知的な論理性が、折り目折り目を的確に浮かび上がらせていく。17世紀の魔女裁判と、1950年代の赤狩りとの、その様相と構造が鮮やかに重ね合わされていく。宮田慶子芸術監督が始めた「JAPAN MEETS」シリーズでも一番の出来かも知れない。

配役もまず妥当と思われるし、俳優たちもそれぞれに健闘しているように見えた。エリザベス・プロクター役の栗田桃子の抑制のきいたたたずまいが殊勲の第一。この役が駄目だったら、この戯曲は芝居として生命を得ることは出来ないだろう。ジョン・プロクター役の池内博之も敢闘賞を貰っていい健闘ぶりだが、技能賞は、ベテランだから当然とはいえ、ダンフォース副総督役の磯部勉だと思う。存在感、という近頃手垢がつきすぎた言葉で片づけてしまえばそれまでだが、こういう芝居の場合、論理性が明確にされればそれでよしということに、とかくなりがちだが、それでは、舞台で生身の役者が演じる芝居としては面白くない。磯部は、シェイクスピなどで身についた、その役らしさ、というものを表わす術(すべ)というか、雰囲気というか、要するに「お芝居にしてみせる」身体をもっている。つまりは、「時代物」を演じる術といっても同じことで、はっきり言って、彼以外の出演者たちは、戯曲をよく理解し、脚本に書かれた役を的確に演じるうえでは、皆、大したものだが、もしパンフレットで、あるいは大学の教室か何かで教わったかして、アーサー・ミラーのこの戯曲についての知識がなかったなら、舞台の上で展開されている「芝居」が、何時、何処のことなのか、その身体を通した「芸」からは判断がつかない。ひとり磯部勉の身体と演技からは、これが17世紀のマサチューセッツの副総督であることが実感される。アーサー・ミラーといえども、それなくしては、わざわざ劇場まで足を運んで、役者が演じる芝居を見る必要はない。

別の意味で、いま評判(であるらしい)の鈴木杏の演じるアビゲイル・ウィリアムズの存在感も、なるほど、評判になるだけのことはあると思った。後半の冒頭、森の場面でのエロスなど、儲け役を演じて実際に儲けて見せるというのは、じつはそうざらにあることではない。そういえばミラーがマリリン・モンローと結婚したのは、ちょうど赤狩り裁判で議会侮辱罪に問われた頃だった・・・というようなことを、ふと思い出させただけでも、大したものだというべきだろう。つまり、この役と、エリザベスと、対応する二つの役がよかったから、こんどの上演は成功だった、ということになる。(それにしても、6時半はじまりの、終演10時20分というのは、ちとキツイ。帰宅してひと風呂浴びて晩飯を食べたら翌日になっていた。どうして6時開演にしなかったのだろう。)

佐々木愛が、レベッカ・ナースという老女役で出てきたときは目を疑った。まるで母親の鈴木光枝そのままではないか。何だか、彼女のレベッカは日本の尼さんみたいに見えた。(これは必ずしも非難ではない。)彼女が売り出して間もない昭和39年、いまの朝日テレビの第10チャンネルが放送を開始した開局記念作品の一つとして、延若主演のドラマ『樅の木は残った』で、宇乃という、原田甲斐とふしぎな相愛を交わす少女の役を演じて、こういう女優がいるのかと感に堪えたことがある。延若の甲斐も素晴らしかった。数年後にNHKの大河ドラマでやった平幹二郎と吉永小百合のコンビなどメではなかったのだが、このドラマは当時低視聴率の代名詞みたいに言われたものだったから、見た人も少ないに違いない。歌舞伎座制作で、延若のほかにも、伊達安芸に勘弥、老中酒井雅楽守に坂東好太郎、酒井老中を牽制する老中久世大和守に八代目三津五郎なんぞが、こぞって出ていたものだったっけ。)

随談第449回 歌舞伎の噂あれこれ(増補版)

どうかと思った国立劇場の『塩原多助』を結構面白く見た。新聞にも書いたように、三津五郎以下、孝太郎だ東蔵だ秀調だ万次郎だ吉弥だ團蔵だ権十郎だ、橋之助はともかくとして、地味というなら地味ぞろいのメンバーだし、かつてなら知らぬ者なしだった塩原太助翁(上越国境にある法師温泉への行き帰りのバスから「塩原太助翁生家」と看板のかかった大きな農家を見かけたことがある)も、いまでは,多助? WHO?というほど知名度低下した当節(それでも、平仮名で打ち出して転換したら「塩原太助」とちゃんと出たから、いまどきのパソコンも捨てたものではない。当り前? いや、この手の「当り前」が、案外、当り前でないこともちょいちょいあるのだ)、わっとくるような派手派手な要素は、いっそすがすがしいまでにきれいさっぱり、ない。だがある意味では、むしろそれがよかったともいえる。元々、力はある面々、この麦飯のような芝居をケレン味なく見せるにふさわしい。

一座の中ではやや花形の部に属する錦之助と巳之助が敵役の原丹次・丹三郎父子になるという配役も、なかなか知恵者の策で、吉弥のお亀ともども、ほどのよい存在感があって悪くない。各幕ごとに見れば結構面白いのに、盛り上がっていかないのは、エピソードの羅列のような脚本の作りのせいである。もっとも、外題が『塩原多助一代記』だ、絵巻物風になるのは当然ともいえる。

さてそこでだが、国立劇場で公演ごとに出している「上演資料集」の上演年表を見ていて、私自身の不勉強をもさらけ出すことになるが、これまで『塩原太助』の芝居の解説その他の言説というと、圓朝の原作を五代目菊五郎が劇化して大評判となり・・・云々といったことばかりで、恥ずかしながら私もテンからそう思い込んでいた。たしかに『一代記』の説明としてなら、ちっとも間違いではないのだが、上方では、『塩原太助経済鑑』という外題で五代目以前から頻繁に上演されていて、初代・二代の鴈治郎、二代目延若その他その他、関西のこれと名の知られた面々がくり返し演じているのだ。(面白いのは、かの『残菊物語』の二代目菊之助が、大阪へ流れて行って松幸と名乗って苦労していた頃、娘のおさくという役を勤めたりしている。)たしかに、『経済鑑』の外題の別脚本もある、と書いてある解説もあるにはあるが、上演年表を見る限り、「もある」どころの話ではない。戦後の昭和24年には、なんと「もしほ」時代の17代目勘三郎が新橋演舞場で『経済鑑』を演じていて、共演者は初代吉右衛門、三代目時蔵、のちの六代目歌右衛門、白鸚といった堂々たる顔ぶれである。菊五郎崇拝のもしほが『経済鑑』の方を演じたというのは、勘三郎論としてはいろいろ面白い考察のネタになるが、この上演のことがあまり報道されることがないのは、やはりある種の「怠慢」と言わないわけには行かないだろう。小芝居での上演も想像を超える頻繁さである。

そこで、私自身の恥をさらけ出すことも覚悟でいうのだが、この狂言に限らず、この種の解説のたぐいが、あまりにも東京中心、それも菊吉など有力者の当り役中心であり過ぎたのではあるまいか、ということである。心ある向きの意見を聞きたい。

        ***

染五郎の記者会見のニュースをようやく読み、且つ聞いた。既に衆知となった内容をここに書く必要はないだろうが、会見の模様を伝えるワイドショーの各局の司会者が、思ったよりも早く発表がありましたね、といった風のことを言っていたのが耳にとまった。つまり、当然だがこの人たちは裏話をいろいろ聞いて知っているから、放送では言わないが、じつは・・・といったことが多々あったことが、これで分かる。巷間、楽観論・悲観論、種々こもごも流れたが、幸四郎が語ったという「奇跡的」という表現と考え合わせると、ある線が浮かび上がってくる。

来年2月に日生劇場での歌舞伎公演で再起というのだが、これはじつは幸四郎の公演に参加するということであるそうだから、いわば瀬踏みであって、真実の復活は、4月以降の新しい歌舞伎座のこけら落とし公演ということになるのだろう。

勘三郎の病状についても、まことしやかな噂のいくつかを耳にしたが、それらが、決して、あやふやな風評をまき散らすような人の口から出たものでないだけに、信憑性の程を決めかねるのが、あまりいい気持のものではない。

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このところ、新橋演舞場の歌舞伎公演のメニューにちょっとした異変が現われている。9月の秀山祭、10月、11月の顔見世と3カ月続くのだから、これは、たまたま、ということではなく、一定の意図なり方針なりがあってのことに違いない。

要するに、メニューの品数が少なくなったのだ。昼夜各2本。11月はまだわからないが、9月も10月も、昼の部は2時半前後に終わり、夜の部の開演が4時に繰り上がり、終演は7時40分前後だった。これで料金は変わらないのは・・・という声も、当然といえば当然、しばしば耳にするが、いまここに書こうというのはそのことではない。

9月の『寺子屋』は「寺入り」から出し、『桔梗旗揚』は「饗応」から出した。10月の『御所五郎蔵』は終幕の「五郎蔵内」を出して、尺八を吹きながら腹を切るところまで見せた。11月の『双蝶々』も、いつもの「相撲場」と「引窓」ではなく、「井筒屋」「難波裏」から「引窓」という出し方らしい。

こう見てくると、普段カットされたり、出幕にならないのが慣例化している場面を出して、ストーリーを首尾一貫させようという試みであることが窺われる。「寺入り」は別に珍しいというほどのものではないが、「饗応」を出したことで、春永の光秀いじめが増幅されくどくなるかと思うと、そうではなく、むしろ光秀の謀反に至る心情が、いきなり「馬盥」から始まるよりもくっきりと見えるばかりか、「馬盥」の場そのものまで、芝居の綾がよくわかって、むしろ退屈させなかった。「五郎蔵内」に至っては、ここを出すと五郎蔵の性根が変わる、というより、いつもの「仲ノ町」と「奥座敷」「仕返し」だけで五郎蔵を無理から格好いい英雄風に見せる演出の隙間が露呈されて、五郎蔵という人物がいささかならず異風の主人公であることが見えてくる。つまり、よく言われることだが、本来小團次にはめて書いた風采の上がらない非・英雄の姿が現われることになる。黒手組の助六が、歌舞伎十八番の助六のように格好良くないのと同じように。むしろ、いつもの何となく空疎感の漂う五郎蔵より、こちらの方が、ウン、やっぱりこの男ってこうなんだよなあ、と得心できるところに、新鮮味がある。

そういえば、去年だったか、吉右衛門が『籠釣瓶』前の方を復活させて妖刀の祟りの因縁話として見せたことがあったが、いま思えば、あの辺りから始まった試みと見ることができよう。もちろん反論もあるだろうが、この傾向、すべてが成功するとは限らないが、試みとしては歓迎していいのではあるまいか。もっとも、料理の品数が減ったのに同じ料金とは? という声には、また別の対応も必要だろうが。

随談第448回 昼夜勧進帳

今月の新橋演舞場は、七代目幸四郎追遠と銘がついて、幸四郎と團十郎が昼夜で『勧進帳』を弁慶と富樫で替って勤めるというのが、事前からの話題だった。事前から、といっても、それでワーッと湧くというより、ヘーエ、と目を丸くする、という方が実の処であったろう。なにしろ、幸四郎はつい先々月、『ラマンチャの男』一二〇〇回達成のさなかに人生古来稀なる古稀の祝いをしたばかりだし、團十郎がつい数年前、別の意味で稀なる難病を病んで生還したことは記憶にまだ新しい。

昼夜で弁慶と富樫を替るというのは、富十郎がまだ市村竹之丞で、(猿翁の名がまだ身に添わない)三代目猿之助と、たぶんそれぞれまだ三〇代と二〇代の精気有り余っていた頃、旧新橋演舞場でやったのを見たことがあるだけだ。(このときは更に、義経も訥升の九代目宗十郎といまの田之助が昼夜で替り、亀井と駿河を團子と精四郎、つまり段四郎と澤村藤十郎が替るということをしている。)このときの『演劇界』の劇評は長老の濱村米蔵だったが、こんな無茶をすることがあるかとしきりに怒っている。

一日替わり、というのは時々ある。実際に見たかぎりでその最大のものは、昭和四〇年三月、やはり七代目幸四郎のこのときは一七回忌追善というので、まだ健在だった(といっても、半年余ののちの十一月に亡くなるなどとは、そのときは誰も夢にも思っていなかった)十一代目團十郎と八代目幸四郎(白鸚という名前で呼ばれるようになるなんてことも夢にも思っていなかった)と二代目松緑の、いわゆる高麗屋三兄弟で弁慶と富樫を一日づつ替り、義経まで雀右衛門と芝翫(にはまだなっていなかったから当時は先々代福助)と延若の三人で替るということをしたときだろう。このときは流石に大変な評判となった。三役三交代だから全部の組み合わせを見るためには何日日参しなければとか、いろいろ話題を呼んだ。私は三日通って三人弁慶・三人富樫・三人義経を見たが、一幕見を見るために長蛇の列となったのはその後もあったが、あれだけ湧いたのはそうざらにはなかったろう。四天王のひとりひとりに声を掛ける(いまなら当り前だが)人があると、「黙れ、百姓」と声が飛んだりした。もっともこの四天王が、常陸坊を除くと後の名で幸四郎、吉右衛門、先代辰之助だった。(そういえばこの三人の日替り弁慶・富樫・義経というのは何回もあった。)

今度だって、今を極める孫たちによる七代目の追遠というのだったら、吉右衛門も出て、義経も併せて三役日替わりというのもあり得たわけで、その方が正当であり、素直にオーッということになっただろう。もっとも、染五郎休演のおかげで昼夜義経を勤める(努める、と書くべきか?)坂田藤十郎は、(初日にはヨッコラショだったとかいう声も聞いたが)高く声を張って、能の子方の感じを出して、流石というところを見せている。(それにしてもこのトリオ、合計すると二百歳を超える筈だが、おそらく新記録に違いない。記録映画に残る七世幸四郎・十五世羽左衛門・六代目菊五郎トリオより上であることは間違いない。)

組み合わせからいうと、昼の部の團十郎弁慶・孝四郎富樫よりも、夜の部の幸四郎弁慶・團十郎富樫の方が坐りがよく、安定感がある。團十郎は、弁慶はむしろ延年の舞以降になってから、弁慶の稚気とご本人の稚気が重なり合うような感じにこの人ならではの大らかさがあったのを良しと思って見た。踊りながらしきりに掛声を発していたのは自らを励ますためと思って聞いた。富樫も、昔の羽左衛門以来の二枚目風と違う、剛直で清廉な武人という感じが強く出て、好もしく見た。

幸四郎は、ひとつひとつの件の仕草や表情に意味を籠め、意味を明らかにしつつ、演じ進める。弁慶が、富樫が、いま何を思い、何を考えてその行為をしているのかが、逐一明らかにされる。義経と知りつつ富樫が去ってゆくとき、(これは幸四郎が亀井役の友右衛門に注文をつけたのだろう)亀井が中腰のまま少し伸び上がるようにして弁慶に何やら問うているかのようにすると、弁慶も(あきらかに口を動かして)何やら亀井に指示(だか注意だか)をする。亀井が得心して引き下がる、というような、やりとりというには時間から言ってもほんのわずか(二,三秒もあるだろうか)、長唄が特に引き伸ばして唄うというほどでもない、気がつかなかった人がいても別に不思議ではないほどのことだが、よかれあしかれ、なるほど幸四郎らしい、と思わず微笑しながら見た。しかしこういう行き方を押し進めるとすると、富樫が一倍検察官風に見え、弁慶が一倍、理非曲直を重んずる統率者としてイメージされることになるのは、当然の結果というべきであろうか? 幸四郎自身は、そこらをどういう風に思っているのだろう? (ここで計算、という言葉を使うのは、語弊があるかもしれないが。)

総じて言えば、弁慶の方が、富樫よりも見ていて安定感があるのは、いまや俳優幸四郎の身に備わった風格が、そうした細部を覆い尽くすだけの大きさになっているからで、それこそは、祖父から父から自ずから伝わり、且つ身につけた「高麗屋の風」というものに違いない。幸四郎は、もっとそのことの方を信じていい。

随談第448回 リチャ-ド三世・大滝秀治・昼夜勧進帳

>新国立劇場の『リチャード三世』を初日に見る。三年前の『ヘンリー六世』三部作一挙上演とセットという構想で、俳優もすべてそのままというプラン、当然、演出プランも同じで、そのこと自体はきわめてインタレスチングであり、効果的でもあったと思う。それに大体、これは私の好みでもあるのだが、シェイクスピアといえば四代悲劇、という固定観念に前から疑問を持っていて、歴史劇の方がずっと面白い。(『ハムレット』と『リア王』ならともかく、『マクベス』とか『オセロ』って、そんなにも名作なのかしらん?)『リチャード三世』なんて作者が円熟する以前に書いた若書きで、ピカレスクとしては面白いが、大詰めであんなにリチャードの夢枕に、彼に滅ぼされた「善玉」たちが現われてリチャードがうなされてやられてしまうなんて、勧善懲悪劇みたいじゃないか、といった「決めつけ」が、何となく通念として擦り込まれてきたような気がする。その意味からも、『ヘンリー六世』と『リチャード三世』のセット上演は、なかなか結構な企画であった。俳優たちも、この演出を容認する限り、よくやっているといっていい。

演出といえば、シェイクスピアも思えば随分変わったものだ。『リチャード三世』というとどうしたって、日生劇場が開場してまだ半年もたたない昭和39年の3月(つまり東京オリンピックの七か月前である)、勘三郎が(もちろん十七代目ですよ)リチャードをやったのを思い出す。ちょうどその一年前に文学座から大挙脱退した、福田恆存や芥川比呂志達が劇団「雲」というのを作って意気軒昂だった頃で、それと、出来立ての日生劇場を本拠のようにしていた劇団「四季」とが合同してナントカ伯だのカントカ公だのを勤めたのだった。三階席の一番後ろの一番安い席から見ると、「雲」や「四季」の若い俳優たち(と言ったって、高橋昌也だの小池朝雄だの日下武史だのが中心で、橋爪功などという人たちが端役をやっていた)の中に混じると、勘三郎のタイツ姿が妙にカワイラシク見えた。アンだのマーガレットだのという女たちを弁舌をもってたらし込む長台詞が、勘三郎一流の説得力でうまいことはうまいのだが、ときどき、たまった涎をフォーッと吸い込む(らしい)のがちょいとした奇観だった。もうその頃は、勘三郎に限らず、いかにも「赤毛物」でございといった大芝居は演技にも扮装にもなくなっていたが、しかし今から見れば、新劇版「時代物」らしい格を保っていたと思う。中には、あれはリチャード三世というよりリチャードの三公だ、などという陰口もあったが、それとて、「格」というものを思えばこそ出た毒舌であったろう。つまり勘三郎が、まさか道玄と同じにやったわけではないが、意外に世話っぽかったのだ。(勘三郎って、そういう人ですがね。)

それに比べて今は、などと言いだす気はまったくない。むしろ、いまの俳優たちだって(ということはそれを許して(認めて)いるのだから演出だって)、それなりに王なら王、伯爵なら伯爵らしい「格」ということを考えているらしいことは、ある意味では案外なほどだ。と、(大分道草が長くなってしまったが)そのこととも関連することだと思うのだが、ときどき、ピアノでシューマンの「トロイメライ」だの何だのといった昔なつかしいような曲が奏でられたり(そういえば『ヘンリー六世』のときには蓄音機でレコードをかけたっけ)、ロンドン市民が山高帽だのシルクハットに燕尾服だかを着ていたり、リッチモンド伯が金ボタンの付いた軍服を着ていたりするのは、『エリザベート』ではないが前世紀末から第一次大戦ごろの風俗のように見える。あれは、どういう意図なのだろう? エリザベス一世時代を「現代」として生きたシェイクスピアから見てのヘンリー六世やリチャード三世の時代は、現代の我々から見てのその頃とタイムスパンが同じということかな、と考えたのだが、正解か曲解か? 何だかちょいと、わかったようなわからないような、半端なようなあいまいなものが残る。いっそ現代にしてしまったらどうなのだ?

        ***

新橋演舞場の歌舞伎の昼の部第一の『国性爺合戦』が終わった幕間に、大滝秀治の訃報が入ったかして、新聞関係の人たちが大勢、以後の客席からいなくなってしまった。(ところが実際に亡くなったのは二日も前であったらしい。)

俳優大滝秀治には私も好感を持っているから、大名優のように報道されるのに意義を唱える気はまったくないが、そういうこととは別に思うのは、「名優」というもののイメージというか、考え方が、この何年かで随分変わってきたなということである。立川談志が、明治この方最高の名優は九代目團十郎でも六代目菊五郎でもなく森繁久弥だといったというが、その談志自身の死後のもてはやされ方も、良し悪しや賛否は別にして、正直、そうなのかあ、と思う。

ちょっとそれとも文脈が少し違うが、たとえば笠智衆というような人は、名優と呼ばれて少しも異存はないが、しかし一種の「珍優」でもあったのではないだろうか。これは決して批判でも、まして非難でもない。もっと昔の大河内伝次郎などは、大俳優であったことは疑いないが、セリフが何を言っているかわからず、声帯模写の恰好のネタにされるという珍優でもあったのだ。大滝秀治も、そういう種類の「名優」のような気がする。大滝を、宇野重吉は「壊れたハーモニカ」と批判したというが、その宇野重吉だって、本質的には、九代目團十郎や六代目菊五郎が名優であったというような意味での名優ではないだろう。滝澤修なら、武智鉄二が六代目の死んだとき、滝澤が見られるなら六代目がいなくなってもいいと言ったように、従来の名優像の中に納まる。しかしおそらく、もしいま彼らが健在だったとしたら、滝澤より宇野を良しとする人の方が多いのではあるまいか、というのが私の見立てである。

繰り返すが、いまここに挙げた人たちを否定するのでも批判するのでもない。どういう芸をよしとするのか、ということと関わる話であって、翻ればそれは、どういう演技、どういう役者、どういう演出を、現代という時代は求めているのか、ということと関わっている。で、さらに翻って、芸とはなんだろう、というところに話は戻ってくるわけだ。

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話が長くなった。『勧進帳』の話はまたにしよう。