随談第378回 震災をめぐるよしなしごと

悪夢という言葉がこれほど実感されたことはない。夢であってくれという思いというのは、こうしてみると、人間のほとんど本能に近い感覚なのだということが知れる。受け容れざるを得ないものが現実になったとき、これは現実ではないのだという思いの中に逃げ込みたくなることを、悪夢というのだ。

それにしても、刻々と伝えられる報道を、テレビのチャンネルをあれこれ切り換えながら見ている間にも、人間のさまざまな姿やあり方が嫌でも見えてくる。何よりも、深く感動を覚えるのは、被災した人達が、カメラやマイクを向けられたときに見せる、謙虚で素朴な態度と物腰である。想像を超える体験をくぐり抜け、人間の欲にかかわるもののほとんどすべてを失った後だからかもしれないが、どの人も、何という謙虚さなのだろう。人間の尊厳という言葉が、とかく安く使われる現代に、この人たちの姿ほど、人間の尊厳とうものを改めて思わせられることはない。それが、東北という土地の、ごくごく普通の人達であることが、ひとしお、そのことの意味を痛感させる。

それに比べればいくらのものでもないにせよ、肝を冷した地震発生当日の夜、東京の街々でいわゆる帰宅難民が見せた沈着さ冷静さを、外国の新聞が伝えたという報道を見ると、こういうときに見せる日本人の姿というものは、よそ目にも感嘆に値するものであるらしい。数時間びくとも動かない渋滞の中でクラクションひとつ鳴らす者がない、といったことである。阪神の大震災のときにも、給水車に並ぶ長蛇の列が、まるでチケットを求めに劇場の窓口に並ぶ列のよう、と報じたどこかの国の新聞があったっけ。へーえと思いたくもなるが、妙な愛国心を振り回すのと違って、これはやはり自負していいことなのだろう。しかもこれは、日頃、街を歩いても電車に乗っても、お互い、舌打ちをしたり目を剥いて睨んだりし合っている、あの人達であり、私自身なのだ。

こういうものを、仮に「叡智」と呼んでもいいとすれば、対照的に、ほとんど致命的な頭の悪さと思いたくなるのが、東京電力の言動である。原発事故への対応然り、計画停電への対応然り。どちらにも共通しているのは、自分たちの思い込みで事に当ろうとする態度・対策から顕著になってくる不手際と、人間の心理というものに対する鈍感さで、彼らに言わせれば彼らなりの誠実さで事に当っているつもりらしいのだが、その「誠実」さがこちらから見ると、却ってますますいらいらを募らせられる。

計画停電をするなら、もっと単純明快で公平なやり方をしなければ。やるといってやらなかったり、夜になっても明日の予定がまだ公表されなかったり。東電としては、需要と供給のバランスを見ながら少しでも「皆様のご負担を軽減」しているつもりなのだろうが、「皆様のご負担」というのは停電をすることだけにあるのではない。被災現場のあの悲惨を見れば、だれも停電を嫌だなどと思いはしない。予定された停電をしなくてもすみました、と言われて、ああよかったなどとは、誰も思わないということなのだ。むしろそのために、仕事や行動の予定が立てられないことが不満をどれだけ募らせるか。どうしてそういう、当り前のことが分からないのか? 要するに、人間というものがまったく判っていないのだ。

やるならやる、というだけの話ではないか。だれも文句は言わない筈だ。地区別に停電するというのなら、たとえば月曜日はA地区は終日停電、火曜日はB地区、という風にするとか、明快にしなければ。夜10時になったら消灯、と慎太郎都知事が言ったそうだが、まんざらそれも放言ではない。

もっと不可解なのは、何故これほどの大問題を、政府が東電に任せ切りにしておくのだろう。首相はわざわざ物々しい記者会見を開いておきながら、東電が計画停電に踏み切りたいというのを了承しました、と言っただけで傍観しているのは、無責任な話である。慎太郎都知事が、蓮舫担当大臣に対して、どうして政令にしないのか、と言っていたがまったくその通りだ。初日の不手際を見ただけで、あの頭の悪いやり方では東電に任せておけないことは明らかではないか。もっともその慎太郎都知事も、突如四選出馬宣言をして東京に激震を走らせようとしたら本物の地震が起ってしまった。これはまったく、洒落にならないどころの話ではない。

随談第377回 与那嶺追悼

与那嶺が死んだ。王貞治氏が、小学生のときはじめてサインをもらったスター選手が与那嶺だったと語っているように、われわれの年代の者にとっては、一種独特のなつかしさを持っている選手である。川上や藤村だとちょっと畏れ多すぎる。長嶋以降の時代の選手だと、こちらがもう大きくなってしまっているから(向こうの方が年上ではあるのだけれど)、どうしても批評的な目で見ることになるから、有難味が薄くなる。やはり小学生、せいぜい中学生までの目で見た大人でないと、こちらがどんなに齢をとっても永遠に保たれる、英雄としての純粋性?を持ち得ないのはやむをえない。

(私はどうも、同世代だから、という理由で、われらの誰それ、と持て囃す意識が薄いらしい。役者だろうと映画スターだろうと、野球選手や相撲取りだろうと、同年・同世代の人というのは、何だかタイシタコトナイような気になってしまう癖(へき)があるらしく、よく、同世代だから応援します、というようなことを言う人がいるが、フシギで仕方がない。もちろん同世代にも、いいと思う役者や選手や力士はいるが、それは同世代だからいいと思うわけではない。私が同年・同世代の人たちに親しみを抱くとすれば、同年代故におのずから見えてしまう弱みや弱点を共有していることから、同病相憐れむが故である。)

ところで、与那嶺だが、戦前の野球には直接接した記憶を持たず、一リーグ時代のプロ野球と同時代の六大学野球から、私にとっての神話伝説の時代が始まる(それこそ私のような世代の)人間にとっては、突如ハワイからやってきて片言の日本語をあやつる与那嶺のような選手は、一種のガイジンであって、異国情緒を伴って見えるのが魅力だった。専門的に言えば、どなたも言うように、初出場の試合でいきなりセーフティバントを決めたり、アグレッシヴな走塁をしたり、というような(いまさら私などが聞いた風な口をはさむ必要もない)それまでの日本野球になかったハイレベルのプレーの数々ということになるわけだが、縁なし眼鏡をかけレフトへ流し打ちをする打法といい、走塁のときの、当時の日本人選手にはない加速のついたような走り方といい、小学生の目から見ても、それまで見たことのない、当世風にいうところのオーラが漂っていた。

戦後のプロ野球にも、若林のような、ハワイ出身の、やはり普通の日本人選手とは違うスマートさをもった選手はいたが、われわれから見れば、若林は監督を兼任するような戦前派の大選手で、親しみを覚えるという対象ではなかった。初物、というフレッシュさを、与那嶺に感じたのだと思う。千葉、青田、川上と続く巨人の上位打線に、与那嶺が入り込む。巨人のレフトは、一リーグ時代には、塀際の魔術師といわれ外野のフェンスから手を突っ込んでホームランをレフトフライにしてしまうのが得意の平山が5番打者だったが、2リーグに分かれたとき大洋ホエールズに行ってしまったので、レフトがちょっと手薄だった。小松原というまん丸眼鏡をかけた、ちょっともっさりした感じの選手がいて、それなりの働きはしていたが、正直、あまり面白くなかったのだ。そこへ、縁なし眼鏡の与那嶺が入って来て、異国情緒を漂わせながら素晴らしいプレーをする。あの新鮮な驚きは、その後いろいろな外人選手が入って来て見せたものとは一味もふた味も違う、与那嶺だけが見せたものだったような気がする。

縁なし眼鏡というのは野球選手に限らず、当時の一般の日本人にはあまり馴染みのないものだった。(あるとすれば、『金色夜叉』の富山のような、キザでイヤミな人物をあらわす扮装で見るもので、大映映画の『金色夜叉』で、山本富士子のお宮、根上淳の貫一に、船越英二が富山をやったのが金縁眼鏡のイメージどおりだったっけ。)そのころの眼鏡をかけた野球選手といえば、野口二郎とか阪神の御園生とか戦前派の大投手もいたが、アンダースロウの南海の武末とか、火の玉投手荒巻とか、みんなまん丸眼鏡でどうもあまりスマートとはいえないし、大体、眼鏡など掛けていると弱っちく見える。要するに、眼鏡を掛けて格好良く見えた最初の選手が与那嶺だったといっていい。

与那嶺が切り拓いた道はたちまち開けて、以後、キャッチャーの広田とか投手の西田とか、やや遅れて三塁手の柏枝とか(宇野光雄のあと、長嶋登場までの巨人の三塁手の名前をスラスラ言える人はそう多くはいない筈だ)エンディ宮本とかいったハワイ出身の選手が続続入って来るようになる。阪急のバルボンのような黒人選手も入ってくる。しかしまだ、現在のような外人選手たちとはどこか、感じが違ったのは事実だ。皮肉に言えば、一種の擬似外人だったわけだが、一般人の海外渡航がまだ解禁されない時代だったことと、これは表裏一体のことに違いない。そういう時代の「異国」を、かれらハワイ出身の二世選手たちは体現していたことになる。外伝が、与那嶺の死を第二のジャッキー・ロビンソンと報じたというが、なるほど、そういう見方もあるのかと、ちょっと感心した。(続く、かもしれない)

随談第376回 二冊の新書

最近読んだ二冊の新書が面白かった。一冊はPHP新書から出ている、小野俊哉『プロ野球最強のベストテン』、いま一冊が、ちくまプリマー新書の松本尚久『落語の聴き方 楽しみ方』。どちらも昨年末に出て、既に話題にもなっているものだから、紹介という意味は薄いかも知れないが、類書がありそうで、じつはこれまでの類書から抜け出てているという点で、共通する。もっとも、野球と落語、それ以外にこの二冊に重なり合うものがあるわけではない。

『プロ野球最強のベストテン』は、誰それは凄かったでえ、といった口碑による神話伝説のたぐいを一旦捨象した上で、記録の読みに独自のプリンシプルを立てて、ポジションと打順を本位に、昭和11年以降の過去現在を通じてのベストメンバーを選ぶという発想とスタンスが卓抜である。まさに、類書がありそうでない、着眼と方法のユニークさに於いて際立っている。腰巻のキャッチフレーズに、「王貞治を上回る!ミスタータイガース藤村富美男の打点が凄い」とあるが、つまり、四番打者というものはどれだけ打点を稼ぐかの一点に尽きる、という原則から、歴代の強打者の記録をいろいろな角度から比較検討、藤村が史上最高の四番打者であり、王は出塁率と長打率の双方が求められる三番打者として史上最強打者であるということになる。因みに最強の5番はマニエル、6番は張本、というわけで、大下も川上も中西も長嶋も選ばれない。しかし検討の対象として中島治康から始めるという目配りのよさも、なかなかのもので、そこに説得力がある。

ベストナインというからには、当然、打撃・走塁といった攻撃面だけではなく、守備も検討対象になり、一ポジションは原則一人となるから、その面から選ばれないということも生じてくる。どういう結果になっているかは、本書を見てもらうとして、まずは電車内でよむには最適、ときに降りる駅をうっかりしかねない程度の面白さは請合うことができる。遊撃手の選考対象に木塚忠助や平井三郎が出てきたり、強打の捕手として、ベスト五年間の10試合にどれだけ安打を放ったか、という観点から見ると、野村でも田淵でもなく、土井垣武が一位に出てきたりする。読みどころといえば、そういった例が随所に出てくるところだろう。半面、あくまでも記録の読みが本位だから、怪力乱神を語るがごとくあまたの名人上手の神話が語られ、著者がそのつど、腰を抜かさんばかりに感嘆これ久しくして見せるような面白さはないのは、やむを得ないところと言わねばならない。あくまでも記録記録記録、記録をもって語らせるという行き方。だがその間に窺われる見識が、時として覚える一種の味気なさを補うに充分である。

『落語の聴き方 楽しみ方』は、落語論として現代の読者におそらくこれ以上説得力のある方法はないといってもよい。分析力と、目配りと、センスのよさと、落語を愛すれど淫しないスタンスの置き方の絶妙さにおいて、これも類書をはるかに抜いている。滑稽話と人情話を、話し手が現在に身をおいて話すのと、完結した物語を語ることの違いであり、つまり現在時制と過去時勢で語る違いだとし、歌舞伎の世話と時代の構造の違いなどとも重ね合わせる見通しのよさには、なるほど、と少々嫉妬すら覚えつつ、教えられる点も多々ある。これというのも、つねに落語の現在に接し続けながら、過去の名人上手(ばかりでなく)にも(愛をもって)にも目配りを怠らない著者の姿勢が、パースぺクチヴのよい「目」を持つことを可能にしたからに違いない。

歌舞伎でもそうだが、演じる者も、批評をする者も、それぞれの興味からそれぞれの語り口で芸をし、文章を書くわけだが、結局は、少なくともそれがすぐれたものである限り、歌舞伎とは何だ、落語とは何だということを、観客や聞き手や読者に向っておのずと語りかけている、」というのが私の考えである。別に理屈をこねるという意味ではない。客をうっとりさせ、アア私はいま歌舞伎を見ている(落語を聴いている)んだ、そうすることの喜びの中にいるんだ、と思わせることが出来たなら、それはすなわち、歌舞伎とは、落語とは何だ、ということを客に訴えていることになる。それによって、ひとりひとりが、私の歌舞伎、私の落語をもつことになるのだ。ただ残念なことに、評する者、論ずる者は、役者や噺家のよりも理屈っぽくならざるを得ないだけである。

随談第375回 今月の忌辰録より 花柳小菊・浦里はるみ、それから田浦正巳(修正版)

気がつけば早や月末である。本当は先月だったが、花柳小菊が死に、今月に入って浦里はるみが死んだ。往年の、よき時代の時代劇らしい、むかしの女人の匂いを持った、おとなの女たちである。

花柳小菊は、たしか神楽坂の花柳界から出た人だが、まだ一人前の芸者になる前に十四、五歳でデビューしたのだ、といった生い立ちのことなどを、まだ健在だったころ、「徹子の部屋」にゲストとして出演したときに、語っていたのを思い出す。阪妻や千恵蔵、右太衛門といった戦前派の大物スターの相手役をつとめた、永い経歴があるわけだが、たとえば梅幸が昭和二十四年にはじめて映画出演した『山を飛ぶ花笠』のとき、相手役に選ばれている。歌舞伎俳優の相手役という、普通の映画女優ではちょっと荷の重い役割を託されるというのも、彼女が身に具えている素養を見込まれたのだといえる。いかにも花柳界から出た人ならではのたたずまいといい、細面に柳腰の容姿といい、もう、当世の女優にはまったく失われてしまった女の匂いを持っていた人で、それは、玄人でなければ身に備わることのない種類のものだった。

そういうものを、現代の日本の映画界は、そもそも失ったことすら知らず、従って惜しむことも知らない。従って、というべきか、彼女の訃報の記事は小さかった。小さくとも顔写真が載り、数行なりとも映画女優としての経歴が書き添えてあっただけでも、まだしもとすべきなのかもしれないが、投書欄に、84歳という女性の、映画を見ることが最大の楽しみであった時代、立錐の余地もない座席で花柳さんの美しさに酔い痴れた、貧しい私たちの青春の一ページを彩ってくれた女優さんでしたという投稿が載ったのを以って瞑すべしと思うしかない。

ああした風情をもった女優は、現代のような社会には出現しないであろうから、その意味では、最後の存在といっても過言ではないだろう。訃報を知ったとき、たまたまさる人と「東映時代劇歌仙」と題して文音ならぬメール便で歌仙を巻いていた折でもあったので、次のような一句を物した。短句で、

御高祖頭巾のその柳腰

というのである。紫の御高祖頭巾がいかにも似合う人だったが、柳腰ということでは、もう少し後輩の喜多川千鶴と、先日亡くなった千原しのぶとが三絶であろう。年配からいっても、戦後時代劇のはなやかだった昭和三十年代の作品では、姐御役やお局の役などがイメージとしては多かったが、お局といっても、当今の女優たちの演じる大奥物とはまるで違ったものだった。似て非なるもの、という言葉があるが、似てすらいない。前にも書いた千代之介と錦之助が曽我兄弟になる『富士の夜襲』では、兄弟の母の満江のようなやや老け役に近い役を演じたのも、印象に残っている。

浦里はるみは、新派の出だと聞いたが、当時はまだこちらが新派というものへの認識不足で見ていないから、彼女の舞台の記憶はない。デビュウ当初から大変な貫録の姐御ぶりだったので、年齢を聞いて驚いた記憶がある。悪女が巧い人で、姐御役もさることながら、何といってもいいのはお局役で、これも前に書いたが、昭和三十年の『ふり袖侠艶録』という『加賀見山』に設定を借りた作品で、美空ひばりのお初、千原しのぶの尾上に岩藤を演じたのが大傑作だった。こういうことを言うと笑う人もありそうだが、この三人の役のはまり方というものは、いま思っても、歌舞伎を映画にもどく、「もどき」という観点から見て、当時の娯楽時代劇というものがいかに隅には置けない内容を備えていたか、心ある人は思うべきである。(そのころの通念からすれば、どうせ「ひばり映画」だろうと、歌舞伎はもちろん映画の批評家だって、まともに見た人はおそらく、限りなくゼロに近いに相違ない。)

花柳小菊や浦里はるみと同じ舟に相乗りさせるのは、じつはなんとも不似合いだが、同じ月の訃報という一点で田浦正巳の死をここに書くことになる。たまたま知った田浦正巳の死は、新聞にも載らなかった。とんと噂を聞くこともなくなっていたが、いかにもこれは寂しすぎる。全盛期の木下恵介監督作品の常連のひとりではないか。私としては、たまたま去年、『この広い空の何処かに』と『女の園』を見たのが、せめてものなぐさめだが、脇の役をつとめるこれらの作品を見れば知れるように、田浦正巳というのは育ちはいいがへなちょこの青年が妙に実感がある。当時のライバルというなら石浜朗だが、石浜の好青年ぶりにはない屈折があるのが妙だが、この人の最も栄光ある作品といえば、これまた美空ひばりだが、昭和二十九年の松竹映画、『青草に座す』という野村芳太郎監督若き日の傑作青春映画である。美空ひばりとしても有数のものと推奨して憚らないが、ここの田浦はなかなかいい。へなちょこが、ナイーヴと変じて輝いている。

若いころの野村芳太郎監督というのは、市川崑監督ともまた違った輝かしい才気と瑞々しさに溢れていて、この作は、野村芳太郎初期の佳作としても推奨に値する。木下忠司作詞・黛敏郎作曲の『お針子ミミーの日曜日』という和製シャンソンを、十八歳位と思われるひばりが、高い声で晴れ晴れと歌う主題歌は、日本歌謡史の上からも美空ひばり傑作集の上からも、何故みんなもっと喧伝しないのかと不思議でならない名曲である。

随談第374回 株式会社日本相撲協会・論(その2)<修正版>

放駒理事長が、八百長はこれまで一切なかったと言明し、疑惑力士の解明がすまないと次に進めない、と語ったという事実から読み取れるのは、理事長の念頭にあるのは、相撲協会は公益法人として存続できるかどうか、にあることが明らかになったということだろう。もっとも、公益法人申請のための準備委員会はしばらく凍結されたようだが、慎重な構えをとったまでであって方針が変わったわけではあるまい。しかし、すでに指摘されているように、八百長はこれまでなかったという論法は、もはや説得力を失っている。それよりも問題は、公益法人にしがみつくことが、大局から見て得策かどうかということである。玉木氏の提唱する「宗教法人化のすすめ」論も、そこに関わっている。

宗教法人という考えは、相撲の神事としての面を前面に出そうということだが、面白い案には違いないが、そうなると宗教としての内容を整備しなければならなくなり、ちょっと厄介なことになってくる。そもそも行司がいまのようなものものしい格好をするようになったのは大正時代からで、それまでは紋付に裃袴という江戸時代の町人の正装だった。いまも節分の豆まきに狩り出された時にするあの格好であり、歌舞伎俳優が襲名や追善の口上の時の格好と同じである。つまりこの変化には、相撲が国技としての体裁を整えていった過程が反映しているわけだ。すなわち、現在相撲協会が言っている意味での「国技」大相撲というのは、だから、明治末から大正以来のものでしかない。

前にも書いたように、私は、それこそ野見宿禰以来の神話伝説をもつ、いうなら民俗の古い記憶とともに育ってきたという、もっと素朴で根のある文化としてだったら、相撲は国技と言ってもいいと思っているが、やたらに物々しい格式を言い張るのには、ちと疑問を感じている。国技だなどと物々しく言うから、八百長などという「ばい菌」は存在してはならないことになって、ファジイなものを包容するゆとりを失ってしまったのだ。誰もが直感的に感じている、そして大方は暗黙に許容しているものまで、建前としては認めてはならないとする「二枚舌構造」が出来てしまったのだ。

相撲に限らず、よく、あってはならないこと、というが、じつはほとんどの「あってはならないこと」というものは一枚の紙に裏面がないことはあり得ないように、ほとんど避けがたくあることなのであり、それをあってはならないことと過度に言い張ることは、現実として欺瞞に陥る。欺瞞でないと本当に思っているとしたら、それはよほど鈍感な人であって、大概は、責任ある立場に在る者としての立場上、観念として言っているに過ぎない。今度のメールの一件で名前が浮かび上がった力士連中というのは、汚職事件が発覚した官僚や、冤罪事件で名の上った検察官などと全く同じことだと私は思っている。現に、相撲に八百長はあってはならないと主張しているのは、理事長という責任ある立場にある人か、でなければ、ワイドショーのゲスト発言者や通りすがりにたまたまマイクを向けられた街の人という、限りなく責任のない立場の人か、いずれかである。しかし真実は、その手の主張の中にはないのだ。たしかに、汚職も冤罪も「あってはならない」ことには違いないが、そのお題目を合唱して、浮かび上がった容疑者を厳罰に処したところで、この種の「あってはならないこと」はたぶん永久になくならないだろう。

もちろん、今度発覚したメールの一件のようなケースは、タチが良くないことは明らかで、相応に厳しく罰しなければならないが、だからといって、そのために大相撲そのものが存亡の窮地に立たされるような騒ぎになるというのは、公益法人という問題が絡んでいるから以外にはない。先日、NHKが放送した特集番組(これは、かなり内容がきちんとしていた)の中で、当時の二子山理事長(つまり初代若乃花である)が、親方連と力士たちに向って、厳しい口調で、無気力相撲を厳しく注意するよう促している声が放送されたが、じつに興味深いものだった。二子山は、八百長はないとした上で(つまり、建前である)、無気力相撲に対する自覚を喚起しようとしているのだが、その中で、これがもし文部省に取り上げられたらわれわれはすべてを失うことになるのだぞと、声を荒げて呼びかけている。つまり、いまと全く変らない状況が当時もあったのであり、問題の在りどころも現在と全く同じであることも分かる。私が知ってからだって、「大関互助会」」だの「横綱救済組合」だのという揶揄が、時にあったのは、いまに始まったことでなない。しかしそれと時を同じくしながら、数々の名力士好力士による数々の名勝負や忘れがたい一番があったのだ。

落語の『佐野山』の谷風情の相撲といい、歌舞伎の『双蝶々』や『関取千両幟』といい、勝負を「振る」ことに関わるところにストーリイが成り立っている。神事というなら、各地に伝わる「独り角力」というのは、神様を相手に相撲を取って、一番勝って二番負けることによって神を喜ばせるのであるという。(つまり、神様にわざと負けてあげるのだ。)江戸や大阪に勧進相撲という形で「興行」が始まったところから、今日の大相撲につながる歴史が流れ出すわけだが、それまでのさまざまな民俗的なものを含み込みながら、それなりに近代化もしながら今日までやってきた。歌舞伎が、近代化もしながら何も近代劇とイコールになってしまわなくてもいいように、相撲も、欧米起源の近代スポーツと同じになる必要はない。「興行」でいいのである。歌舞伎が、松竹なり何なりという興行会社が運営しているように、大相撲も、株式会社という興行組織が運営すればいいのだ。歌舞伎が、興行会社の手で運営されているからといって、その価値に疵が付くわけではないように、相撲だって、それで伝統が損なわれるわけではない。天皇だって、ときには歌舞伎をご覧においでになるではないか。もちろん株式会社に組織替えして運営してゆくためには、いろいろな改革や経営努力が必要になるのは当然だ。しかし、公益法人にこだわって自縄自縛に陥り、かえって墓穴を掘るよりは、相撲が相撲らしく生きていくためには、よほどその方がすっきりするではないか。(もう長々しく書いている余裕はないが、一つだけ言えば、私は部屋制度というのは必要だと思っている。)

随談第373回 株式会社日本相撲協会・論(その1)

去年の野球賭博一件の折に既に書いたことだが、もう少し整理してもう一度ここに書くことにする。それぐらい、今度の「八百長メール」一件に始まる騒動は深刻である。報道を聞いて、私が先ず思ったのは次の二つのことだった。

第一は、八百長メールそのものである。内容もさることながら、世が世ならば天下の関取とフンドシカツギが、メールでいとも楽チンに対等な口を利いているという、デモクラチックというべきかアナーキーというべきか、このまさに当世的な光景にまず驚く。まるで白日夢を見せられているようだが、しかしこれが現実なのだ。「メール語」とでもいうべきこの気軽さ安直さ、話されている内容の重大さとの呆れるばかりの乖離。ここから読み取れることは二つある。その一、当事者にとってこれはまったく日常レベルの事柄なのだということ。その二、従って彼らに、これがどれぐらいヤバイことなのかという危機感というものがほとんど窺われないこと。彼らとて、知られてはマズイとは思っていたろう。しかし、そのマズサとは自分一身上のことだけに限られる。知られて、それがどういう事態を招き、どういう意味を持つことになるのか、まるで考えが及んでいない。(今日のニュースによると、メールに名前が出ているために調査委員会の質問を受けた中に、妻が踏んづけたので携帯が壊れてしまったと答えた者があったとか。自己保身に汲々とするあまりの想像力の欠如もさることながら、一方、新聞に報道されたアンケート形式の質問条項を見たが、あのアホラシさも相当なものだ。)

第二は、協会の対応のスタンスの取り方である。すでに多くの指摘があるようだが、放駒理事長が、八百長はこれまで一切なかったことであり、八百長と無気力相撲はひとつのものと考えると言明した一点に、すべてが集約されている。(オイオイ、いいのかな、そんな風に言ってしまって、と私はニュースを見ながら呟いたっけ。)過去における、週刊誌との訴訟問題のいちいちについて私はあまり熱心な読者でなかったから、つまびらかなことは知らないが、要するに、協会としてはこれまでと同じスタンスで、但しもっと真剣に対処しようということだろう。(放駒理事長個人の真剣さを、私も疑うものではない。)何らかの処分が下された後、週刊誌や処罰された当事者がどういう居直りを見せるのか、それも気掛かりだが、いまは話を先に進めるなら、協会のこの姿勢というのは、要するに(これも既に多くの指摘がなされているように)相撲協会を公益法人として存続させたいという、その一点に集約されていることは、誰の目にも明らかである。

と、ここまではまず差し当っての話の整理、私の言いたいのはこれから先である。(ついでに、熱心に読んで下さる方は、お手数でもこのブログの去年二月の第332回~335回と、七月の第349回(369回となっているのは誤まり)と第351回の項を見ていただけると有難い。)

玉木正之氏が、テレビで、相撲は神事としての要素が大きいのだから、この際、相撲協会は宗教法人になるべきだという発言をされたらしい。私は残念ながら、たまたまその最後の辺しか見なかったから、細部の論証は聞いていないが、かなり頷ける見解だと思った。即ち、いわゆる八百長相撲の問題というのは、相撲を近代スポーツの枠の中にはめようとするから起るのであって(しかもその場合、非常によろしからぬイメージを纏うことになる)、公益法人として認可され得るか否かという問題も、結局、その一点に追い込まれることにならざるを得ないだろう。今回のメール事件は、最も軽薄で安直な、しかしそれが故に最もドラスチックな形で、問題を白日の下に曝してしまったという意味で、ショッキングなのだが、世間の中で相撲に一定以上の愛と知識を持っている人ならおそらく察知しているであろうように、この問題は、相撲近代スポーツ化論で切り捨てるにはふさわしくない問題をはらんでおり、玉木氏の論の卓抜さはその点に触れているところにある。しかし、(さきにも言ったように、氏の論点をきちんと聞いたわけではないから反論という形は取りたくないが)、共感するところをかなり持ちながら、ちょっと賛同し切れないものも感じる。つまり、相撲は国技であるか否かという問題とも絡んでくるのだが、それは次回ということにしよう。(続く)

随談第372回 高峰秀子追慕・『浮雲』よりも『銀座カンカン娘』を

またしても前説付きで恐縮だが、この文章は旧蝋押し詰まってからの訃報を聞いてすぐ書いたものだが、新年、松が取れてから出すつもりでいたところ、富十郎の訃報が入ったので見合わせていた。このまま時機を失するのも無念なので、ひと月遅れの追悼として載せることにする。

         ***

池部良が逝って、微妙な間を置いて、今度は高峰秀子が逝った。ふたりとも、格別のファンというのではない。しかしほぼふた月の間を置いてのこの二人の死には、いろいろ、物を思わせられる。

池部が兵隊から帰って、焼野が原になった東京を引き払って茨城だかどこだかに疎開していた父を探し当てて、しばらくそこで日を送っていたところへ、高峰秀子が、まだ助監督だった市川崑と連れ立って訪ねてくる。会社からの使者として現場復帰を誘いにきたのだが、このとき使者に立ったのが高峰秀子だったというのが、何とも興味深い。

それから数年後、子役時代から映画の世界しか知らず、休むことなく働きづめに働いてきた閉塞感を、まだ外遊というものが自由化になるはるか以前、梅原龍三郎の肝煎りでしばらくパリに遊んで今で言うリフレッシュをして戻ってきた高峰が最初に撮った映画が、五所平之助監督の『朝の波紋』という作品で、この相手役が池部良である。このパリに遊んだ数ヶ月間というのが、高峰秀子をひとりのスターから後年の名女優へと変貌させる上で絶妙の意味を持つことになるわけだが、そのいわば復帰第一作をスムーズに、手堅く地固めする上で、相手役に選ばれたのが池部だったということになる。つまりこの二人は、当時、というのは昭和20年代、終戦直後から27、8年ぐらいまでの映画界で、好一対の位置に立っていたわけだ。といって格別、ふたりに共演が多かったというわけでもない。池部は池部で、李香蘭、つまり山口淑子が中国から帰ってくれば『暁の脱走』を撮り、宝塚から久慈あさみが映画に転進すれば『ブンガワンソロ』をという具合に、これという女優の相手役はさしあたり池部のところへいったわけで、つまり当時の池部良というのは二枚目スターの代表として、そういう存在だったのだ。

高峰秀子というと、『浮雲』だ『二十四の瞳』だ、というのが決まりごとのように言われ、大女優としての業績が並べ立てられ、雲の上に祭り上げられるのが、定石になっている。(森光子の舞台にすっかり世評をさらわれてしまったが、『放浪記』も高峰として相当の傑作だと思う。ただ、脚本が菊田一夫の作に準拠している点で、損をしているのは彼女のためには残念である。)それはそれで少しも間違っているわけではないが、しかし私などにとってのなつかしい原風景といえば、また、いまになってもう一度見たいなと思うのは、あんなにエライ人になってしまう前の、つまりひと言で言えば『銀座カンカン娘』をもって代表とするような、明るく闊達な現代劇女優としての彼女である。この路線と、後年の名女優のイメージを結ぶのが『カルメン故郷へ帰る』ということになるのだが、高峰前期のイメージとしては、『カンカン娘』の方が、高峰がみずから歌った主題歌がいまでもCMソングとして使われるような斬新さといい、『カルメン』よりも上であろう。日本初の天然色映画とか、木下恵介監督というネームバリューとかいったことを取り除いたならば、である。(大体、映画界の定評ほど、巨匠監督本位の権威主義と事大主義に縛られているものはない。)

それにしても、『私の渡世日記』と題する高峰の自伝が大名著であることは今更私がいうまでもないが、自身の映画女優としての人生を「渡世」と切り捨てて、一読、なるほどと納得させる凄まじさは、大変なものであって、幼き日の東海林太郎との関係などというものは、唖然とするより他はない。五十歳でキッパリと廃業宣言をし、実行した潔さは、女優であることを「渡世」と言い切った凄味と裏表のことであったろう。俳優としては、映画の演技しか知らない、また、出来ないことを誰よりも自覚していた筈で、その意味で、男女優を通じ最も、映画俳優のなかの生粋の映画俳優であったといえる。今の中村雀右衛門が大谷友右衛門として映画にはじめて出演した『佐々木小次郎』のとき、あれこれ途惑ったり思い悩んだりしていると、琉球王女の役で共演していた高峰から、映画なんてヤクザなものなんだからそんなに考えたりすることはないのよ、と言われて、悟るところがあったという。もちろん高峰らしいレトリックなわけだが、ここにも、「渡世」と切り捨てるひとつの「見切り」方が感じられる。

別にことさらに高峰の作品をと思ったわけでもないが、思えば去年一年間に、『女の園』『この広い空のどこかに』『あらくれ』『雁』などを見る機会があって、もちろんどれも役の上とはいえ、この女優の暗く「やりきれない」表情というものに、改めて感じ入った。どの作も、『二十四の瞳』と『浮雲』で一躍、演技派の大女優として遇されるようになった前後の作品であることも、思えば実に興味深い。大女優になってからの高峰秀子は、そういえばどの作品でも「やりきれない」顔をしていたような気がする。どの作品、どの役でも見せるあの「やりきれない」表情が、そのまま、女優渡世を続ける高峰自身のもうひとつの自伝になっていたともいえるが、それだけに『カンカン娘』のあの闊達さがひとしお貴重な意味をもってくるのだ。

エッセイストとして鳴らし、後半生はむしろそれで「渡世」する感もあったという点でも、池部と高峰は共通するが、池部の方には、どうだ、うめえだろうという、やや達者すぎる臭みが往々にして感じられた。あれが東京人の悪い癖だ、という評もあるが、但しどちらも、自身の人生を語った自伝的エッセイに於いては、じつに達人の境にあったといっていい。みずからを語って昭和を、とくに昭和二十年代を語った二人であったというべきであろう。

随談第371回 久しぶり相撲談義

先場所の白鵬連勝ならずの一件については、ついに書かず仕舞いだったので、その辺りのことも含めつつ、相撲談義ということにしよう。

白鵬は、稀勢の里に敗れた二番、とりわけ今場所の一番は、仕切りのときから、妙に間合いを長く長く取って、塩を取りに行くのも、仕切りの動作に入るのも、相手よりひどく遅れるのが気になった。まさか白鵬ともあろうものが、故意のじらし戦法でもあるまいから、何か捉われるものがあったのだろう。立ち上がってからも体の動きからして固かったが、兆しは仕切りの内から見えていた。(それにしても、稀勢の里はこれでようやく地が固まったようにも見える。とにかくこれまでは、工夫がなさ過ぎたのだ。千秋楽の放送で解説の舞ノ海氏が、これからはもっと頭を使って大人の相撲を取るようにすべきだといっていたが、全くその通りである。これからの三場所が肝心、大化けして大関になってしまわなければ鮮度が落ちてしまう。)

それにしても、連勝というのは、確かに過去の記録に照らしても超特級の力士しか達成していないことを見ても、大したものであることは間違いないが、一面、覇を争うような伯仲した相手が不在のときに出来る記録であることも、また間違いない。大鵬が何度も連勝を記録しているのは、柏戸が怪我がちで長期の休場が度々あったことと無縁ではないし、双葉山の場合も、玉錦との新旧交替ということの他に、男女ノ川、武蔵山という同時期の横綱が凋落の時期にあったことも無関係ではないだろう。栃若にはこれといった連勝記録はない。

連勝というと思い出すのは、三遊亭円生が、『阿武松』のような相撲の噺をするときによく、マクラで、太刀山という横綱が四十三連勝していたある日、ワタクシ(というのは円生自身のことである)が拝見しておりますと、太刀山関と西ノ海関(上村註・西ノ海はいずれも横綱で三代あるが、この場合は二代目のことであろう)の取組みで、両者四つに組んで、太刀山関がじりじり下ると、後ろを向いて大きく俵の外に足を踏み出して、それで負けになった。どういうことなのだろうと不思議に思いましたが、その翌日からまた連勝をはじめて、栃木山関に負けるまで、五十六連勝をした。あの西ノ海関との一番がなければじつに九十九連勝になっていたというわけで、ワタクシが実際に拝見したお相撲さんで、一番強いなと思ったのがこの太刀山関、その次が双葉山関でした、というようなことを言っていたのを覚えている。(そういえば、ナントカ関、という言い方をあまり耳にしなくなったような気がする。辛うじて白鵬の談話の中で、昭和の大横綱大鵬関、といった言い方で耳にするのが、せいぜいだ。ところで、それにつけてのついでの話だが、「巨人大鵬玉子焼き」というのは、本来、ほめことばではないだろう。あれはつまり「お子さま向き」であって、オトナは三原監督率いる大洋ホエールズとか柏戸とか、マアそういったものをヒイキにするものだ、というのが、本来の意味だった筈である。柏戸は、さっきも言ったように怪我は多いは取りこぼしは多いはで、優勝の回数は大鵬にはるかに及ばないにも関わらず、二人の対戦成績はほぼ五分だった。なんともステキではあるまいか。)

豊ノ島が、中日まで一勝七敗だったのを七連勝して勝ち越したのはよかった。小結にもまだならない当時の栃錦が、七連敗から八連勝して勝ち越したという先例を、豊ノ島本人は知っていて目指したらしいが、記録がどうとかという意味ではなく、こういうのは実にいい話である。当節数少ない「芸」をもった相撲取りとして、豊ノ島は、安美錦と並んでかねてから私の贔屓力士である。あの腰の低さと反身を使った取り口は、なかなか味があって、風貌といい、イマドキの相撲取りらしくないところが頼もしい。

芸といえば、解説の北の富士氏が、廻しを切るということをいまの力士はしなくなった、と指摘して、昔は琴ケ浜関みたいな上手な人がいたものだと言っていたが、つけ加えるなら、琴ケ浜は廻しを切るだけでなく、廻しを取らせない名人でもあって、相手が上手から手を伸ばして取りに来るのを嫌って腰を振って取らせない。つい相手が焦って半歩足を踏み出す一瞬、内掛け一閃で仕留めるのが名人芸だった。密林の枝の上から獲物を狙う黒豹に譬えられたものだった。琴ケ浜は別格としても、いまの相撲は相手が廻しを取りに来るのを「嫌う」ということをせず、簡単に取らせてしまう。だから攻防にコクがない。

もうひとつ、今場所は何番か、吊り出しで決まった勝負があったが、見ていると、吊られた側がろくに抵抗もせずに大人しく吊り出されている。嘉風のような相当の相撲巧者でさえ、そうだったが、昔は、吊られると足をバタバタさせて抵抗したものだったと思う。必然、相手は吊り切れなくなって下に降ろすことになる。アナウンサーも、単に「攻防があったからよかったですねー」などと決まり文句を繰り返していないで、もう少し、技の中身まで踏み込んでもらいたい。

もうひとつ。かつて朝青龍が勝ち誇ったポーズを取るのを大分非難されたものだったが、それをいうなら、近頃、負けた力士がまだ礼を済ませない内にいかにも未練げな態度を露骨に見せるケースをかなり見かけるが、そのことについての指摘があまりないのは不思議である。「勝って奢らず」の対句は「負けてこだわらず」ではなかったか。○○あたり、目に余ることがしばしばある。

随談第370回 新派『日本橋』

じつはもっと早くに出すつもりで途中まで書きかけていたのだが、何かと隙取って明日が楽日ということになってしまった。またしても効かぬ辛子と出遅れた幽霊のような話だが、せっかく書きかけたものなので、前後を足して掲げることにしたい。

         ***

昨年十月の『滝の白糸』に続く三越劇場の新派公演。この前は春猿が滝の白糸を演じたが、今度は段治郎が葛木晋三をつとめる。猿之助軍団でのユニークなキャラクターを持つ二人を、新派に取り組ませるというのは、誰が考えたのか、興行上のなかなかの名案という以上に、新派にとっても、当のご本人たちにとっても、もっと深長な意味をもつことになりそうである。

段治郎という役者は、ちょっと見にはうまいのだか拙いのだかわからないようなところのある人だが、それがこの葛木のような新派の二枚目によく映る。そもそも新派の二枚目役というのは、うまいのだか下手なのだかわからないような人が、ちょうどうまくはまるところがある。というより、巧さが先に立つようではいけないのであって、実は巧いか拙いかとは別の話なのだと思うが(これはかつての映画の二枚目というのもそうだった。つまり昭和20年代までの映画というのは現代劇といえども、歌舞伎以来の「二枚目」という役柄の上に成立していたからである。「性格俳優」なるものが持て囃されるようになってから、二枚目スター大根説という「迷信」が、定着するようになったのだ、というのが私の考えなのだが、これはまた他日の論ということにしよう)、つまり新派の二枚目というのは、歌舞伎の辛抱立役を近代化したものと考えられる。歌舞伎の辛抱立役が、女のクドキをじっと聞いているとき、片方の膝、というより腿の上に両手を重ねて置いているが、新派の二枚目はほとんど無防備に両手をだらんとぶらさげている。つまりは、書生だからという新派風リアリズムなわけだが、『日本橋』の葛木晋三も例外ではない。

春猿も段治郎も、実はなかなか端倪すべからざる腕は持っているのだが、(今月、浅草公会堂で亀治郎の『黒手組助六』で白玉をやっている春猿は、ちょっとしたおススメである)歌舞伎役者としては、色がすこし原色的というか、テラテラしたところがある。和紙ではなく、アート紙色刷りみたいで、彼らだけでやっているときならともかく、大歌舞伎一同の間に入るとそれがわかる。ところが新派だと、全くではないにしても、あまりそれが気にならない。美男美女ぶりも、新派の方がうつりがいい。少なくともこの路線、しばらく続けてみることだ。段治郎は、たとえば謳い上げるセリフなど、歌舞伎の名調子を張らないで、よく考えているのがわかる。

この芝居は、清葉とお孝と、二枚揃わないと作意が立たないのだが、清葉には高橋惠子が新派初出演で出ている。しっとりとした情感があり、しっかりしたセリフの言える人なので、明治の味、などということさえ言い出さなければ、違和感なく溶け込んでいて悪くない。しかしその分、お孝をやっている波乃久里子がかなり奮闘することになるわけで、本来なら清葉役者の波乃としては、むしろ自分の芝居ではないところで、ウンと踏ん張る芝居をして縁の下から舞台を支えているのがよくわかって面白い。新派役者として「本格」を身に附けた底力を発揮したというべきで、近頃、この人の実力をやや過小評価していたことに気がつかざるを得ない。こういう力技は、本来なら女形がしていたわけだが、そこを女優がすることの面白さがある。やはりこの人は、大した「女役者」なのだ。

その他、安井昌二が巡査をやったり(これは本来なら「ご馳走」であろう)、大小さまざまの脇の役々を新旧各世代の新派の連中がつとめているのを見ると、何といってもここには、ゆるぎのないひとつの世界があることを、改めて実感させられる。腐っても鯛、というのは本来ほめことばではないのかも知れないが、どっこい生きているという意味で、まぎれもないプロフェッショナルの集団がここにこうして健在であることを、せめてこの場でなりと訴えたい。このひとたちの実力を、今の世はもっと知るべきである。

随談第369回 春の嵐=富十郎逝去

中村富十郎の訃は、四日の早朝、まだ寝床にいる内に、共同通信社からの追悼文依頼の電話で知らされた。まったくの不意打ちだった。前日、浅草の若手歌舞伎を見、その日は新橋演舞場を見る予定で、そもそも夜の部の『寿式三番叟』で富十郎の翁を見るつもりでいたのだった。休演の報すら知らなかったのだから、仰天するしかない。(咄嗟に考えたのは、前日の舞台で倒れでもしたのか、ということだった。)そのまま劇場に行き、今度は『日経』に翌日の朝刊に載せる追悼文を、幕間ごとに書き継ぎ書き上げ、夜の部の幕間に校正をするという離れ業を初体験した。夜の部の『三番叟』の幕が開き、鷹之資が附千歳の役で、翁の梅玉・千歳の魁春・三番叟の三津五郎と一緒にせり上がってきたときは、何とも表現の仕様がない空気が場内に流れた。前日のこの時刻、富十郎はまだこの世の人だったのだからまだ一昼夜も経っていないのだ。鷹之資にとってはもちろんだが、われわれにしても、生涯忘れることのない体験である。

というわけで、ちゃんとした追悼文は二紙に二種類書いたから、ここではそういうのではない、追悼文の如きもの、を書くことにする。

           *

富十郎などの世代だと、まだ若手といわれていた時代から知っているから、前時代の大家たちに対するのとはまた違い、その活動のかなりの部分を見ているという親近感のようなものがある。といっても、「扇鶴」と呼ばれた関西時代は知らないから、坂東鶴之助というハリハリしたセリフを言う役者を親しく見た最初は、むしろ映画でだった。昭和二十九年、白鸚の幸四郎が大石になった松竹映画の大作『忠臣蔵』で、矢頭右衛門七をやっていたのを見たのが最初で、その後、映画製作を再開したばかりの日活で『若様侍捕物帖』などをやっていた。新珠三千代の妹で桂典子という、細面の姉と違って顔幅の広い女優が相手役だった。(つまり後の東映版での橋蔵と星美智子の関係である)。ところがこの鶴之助のセリフというのが、映画のセリフとしては息が詰んでいすぎるものだから、どうも座りがよくない。釣をしている若様に、「あら若様、何を釣ってるの?」と桂典子が訊くと、鶴之助若様が「鮒だよ。鯉(恋)も釣れるよ」と答える。富十郎独特の、トーンの高いよく粒立った早口で、弥太五郎源七なり、青果の『慶喜命乞』の山岡のセリフなりを思い浮かべてもらうと、すこーし、わかっていただけるかもしれない。普通の映画俳優が「鯉だよ」を「♪♪♪」というぐらいの感じで言うとすると、鶴之助はそれを三連音譜ぐらいの速さで言ってしまうのだ。当時の時代劇映画の観客などというものは、こんなセリフの言い方には慣れていないから、要するに鶴之助は映画俳優としては失敗だった。(三代目時蔵が錦之助の映画に出演して、舞台の調子でセリフを言ったら、千恵蔵はじめ居並ぶ映画人たちがシーンとしてしまったという話がある。)

坂東鶴之助から市村竹之丞になって、三転して中村富十郎になる。これがたとえば、新之助から海老蔵、団十郎になるようなのと違って、まったく系統立っていないところに、富十郎という人の波乱万丈の役者人生が象徴的に現れている。とりわけ竹之丞襲名は、いまの田之助が由次郎から田之助になるのと同時襲名で、これが羽左衛門の忌譚に触れて物議を醸したりするのだが、それからしばらく、この二人と、いまの猿之助と訥升といっていたのちの九代目宗十郎と四人で組んで、東横ホールや当時の古い新橋演舞場やで芝居をしていた頃が、一番なつかしい。この四人がみんなはみ出し組と見做されて、当時中国で羽振りのよかった紅青女史らのグループにひっかけて「四人組」などと異名をつけられた。竹之丞と猿之助が昼夜で弁慶と富樫を交替し、訥升と田之助が昼夜で義経を替る『勧進帳』などというのもあった。中でもこの四人組でやった『夏祭浪花鑑』の通しは、その後見たどの『夏祭』にもまさって忘れがたい。(八代目團蔵がやった三婦が、いかにも街のすがれた老侠客の凄味があった。この人はこの翌年、瀬戸内海で入水したのだった。)それにしてもこの四人が、「谷間の世代」と呼ばれたその後の長い長い冬の季節を、それぞれ如何に通り抜けたか、考えれば四者四様、じつに面白い。

昭和五52年11月の歌舞伎座と中座に東西の全歌舞伎俳優が結集して同時上演した東西忠臣蔵のとき、富十郎は借金返済のため美空ひばりの芝居に客演していて、そこから駆けつけて十一段目の討入りの小林平八郎一役、二十歳を過ぎたばかりの勘九郎を相手に壮絶な立ち回りを演じた。鬱憤を晴らすかのようだった。勘九郎も実に見事に対抗し、これを見た目には、その後誰のを見たって物足りなくて仕方がない。(この二人は「石橋」で二百何十回だか、毛を振ったこともある。)

どれも昭和五十年代だが、矢車会の第一回で演じた『勧進帳』、国立劇場の舞踊の会で踊った『娘道成寺』『鏡獅子』。ただ一日だけの公演に根限り演じたその凄さは、他の誰のとも比較が出来ない。おそらく、それぞれのその一回限りに、富十郎は賭けていたのだと思う。自分の持てる芸を、アピールしようという強い決意が読み取れた。そうしてそれが、富十郎此処に在り、を見事に証明して見せたのだ。これだけのものを放って置くとすれば、それは悪意としか言い様がない、と私もまだ若かったから本気で思ったものだった。いや、その通り書いた。読んだ人は千人もいなかろう小さな場だったが、当の富十郎から思いもかけず封書が届いた。まだ一面識もない頃である。歌舞伎座に近い某ホテルの名前の入った便箋と封筒だった。その頃富十郎は、住む家を失ってホテル住まいをしていたのだった。とにかく良い芸をして見る人に喜びを感じてもらう、それが自分にとっての喜びである、という意味のことが書いてあった。富十郎の心の悲しみの深さを、私は知ったような気がした。

あの頃のことを、私はいまも、ふと思い出す。舞台の富十郎の思い出は尽きないが、人間富十郎の思い出といえば、それに尽きる。芸で、芸の力だけで、富十郎は生き抜いたのだ。すぐれた役者はさまざまあるが、天才、といえるのは、この人であったと思う。