随談第418回 歳末雑記(その2)『朝の波紋』再会

昨夜、チャンネルNECOなる局から昭和27年5月封切の新東宝映画『朝の波紋』が放映されたのを実に実に懐かしく見た。覚えず、涙が流れた。いい作品だけれども、取り立てて名画というわけではない。だがそれだけに、いやそれ故に、繰り返し論じられてなまじ現代の風に吹かれたりしない分、実に見事に純度が保たれている。覚えず涙腺がゆるんだりしたのは、まさしくそのためである。

高見順原作、五所平之助監督、高峰秀子と池部良主演というこの映画は、まだ大女優になる前の高峰秀子映画のひとつの典型といえる。前にも書いたが、当時の高峰・池部の二人というのは、なかなかの似合いのコンビであって、昭和二十年代という時代を代表する俳優というのは、実はこの二人であったということが、この映画を見てもよくわかるが、こういうたぐいのことは、ある特定のテーマを決めて物々しく論じたり、ある角度から鋭く切り取って見せたりする対象にはなりにくいから、映画論の題材にはならないでしまうのだ。「普通」ということが、「論じる」のに如何に難しいかの好例ともいえる。

昭和27年5月1日というこの映画の封切り日は、物々しく論じるならば、前年九月に締結されたサンフランシスコ講和条約が発効された3日後であり、皇居前広場が流血の惨事となったメーデー事件の当日であり、紋切り型で当時を語るときに必ずのように引き合いに出される有名な出来事をいうなら、この18日後にボクシングの白井義雄が日本人初の世界チャンピオンになるという、つまりそういう時代である。

この映画の画面にも、まだ復興していない焼け跡がしばしば映し出される。池部良の役は、元は大変な家柄の跡取り息子らしい、という設定で、爆撃に会って廃墟のようになった広大な屋敷跡に小さな仮普請の家を建てて住まっている。浅草の「どぜう屋」もバラックの粗末な店で、「トンコ節」が聞こえて来たり、隣席の客が高峰に向かって「アジャパー」とからかったりする。隅田河畔では、ニコヨンと呼ばれた労務者が池部に「旦那、すまないが火を」と煙草の火を借りに近寄ってくる。池部も当然のように、オイ、と気安く吸い差しの煙草の火を貸してやる。こういったことが、当時はごく当り前の光景であったことを思い出さされるが、一方、当時の浅草ってまだこんなにも焼け跡そのままだったのだ、ということを改めて知らされたりもする。その一方で、大阪へ出張する高峰が乗っている東海道線の車内は、座席の様子といい、もう既に随分とスマートである。

当時小学生だった私は、母親に連れられて(つまり母が見たかったのであって、私はただのお供だった)池袋の、現在家電量販店の巨大店舗が並ぶ辺りにあった映画館でこの映画を見たのだった。講和条約発効の翌日、それまでは鷺ノ宮で当時としては結構ましな暮しをしていたのが、俄かに、何分の一かの小さな家に引越すことになって、転校生というカルチャーショックを体験したばかりだった。(中野区から豊島区へ移っただけでも、生徒の気風はまるで違っていた。)池袋という街も、もしかしたらその時初めて行ったのであったのかもしれない。焼け跡に仮普請が立ち並んだ雑駁な感じが、子供心にもわかった。西武デパートが、スレート瓦の切妻屋根の木造の二階家だった。

高峰の役は商社の社員で、当時の女性としてはかなり先端的なわけだが、そういう女性の生き方というのが、芯のテーマになっている。高峰は前年、しばらく映画出演を休んで梅原龍三郎の世話でパリに遊んでリフレッシュして帰ってきた、その帰国第一作というので、当時話題となったのがこの『朝の波紋』であり、しばらくのんびりしたため随分太って顔が丸くなったという評が載ったのを覚えている。この二年後、『浮雲』と『二十四の瞳』という金箔つきの名画で名演技を見せ、あっという間に名女優大女優になってしまうのだが、以後、彼女は若々しい輝くような笑顔を見せることがなくなってしまい、代わりに、「やり切れない」という顔を見せる達人になる。(あんなに、どの作品でも「やり切れない」顔を見せながら、決してマンネリという非難を受けなかったというのも、思えば大変なことだ。)『朝の波紋』は、高峰の若く明るい笑顔を見ることのできる最後の作品かもしれない。

実はこの映画を、私はこの3月14日に池袋の新文芸座の高峰秀子特集の中で上映されるのを知って、久々の再会を大いに楽しみにしていたのだった。後で知った話では、新文芸座が上映中止に踏み切ったのはその数日後であったらしいから、14日には予定通り上映されたのだろうが、原発が爆発し、余震の頻発する中で、幼い者もいる家族を置いて見に行くわけには行かなかった。翌日、税の申告に税務署へ出かけた時、池袋の上空に異様な色をした巨大な雲がかかっているのが見えた。その翌日には、原発の建屋に注水するというので、二階から目薬を差すみたいに、自衛隊のヘリコプターからバケツで水を撒く情景がテレビに写った。あの情けない光景こそ、原発問題の、ひいては今の日本という国の現実の、象徴に違いない。話に聞く爆弾三勇士を連想して、当時このブログに書いたっけ。

『朝の波紋』には、こうしてテレビで再会することが出来たが、原発をめぐる論議は、ますます食い違う一方である。それにしても、よくもまあ、喉もとの熱さを忘れたような顔で、議論をしていられるものだと思わずにはいられない。

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いささか唐突ですが今年はこれでお仕舞いと致します。新しい年は、少しはマシな年でありたいものです。このブログもまた。

何もかも中途のままの年の暮

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随談第417回 歳末雑記(その1):村上春樹の新著を読む

最近知り合いになったフランス文学者のT氏に勧められて、村上春樹の新著『小沢征爾さんと、音楽について話をする』を読んだ。なかなか面白い。『1Q84』(などは、T氏と親しくならなかったらたぶん読まなかったろう)なんかよりはるかに面白い。

小説の方の村上流の気取りはあまり感心しないが、こちらの気取りは気にならない。インタビュアとして、実によく話を引き出して見せる才能だけでもたいしたものだ。相手の信頼を得ていればこそ出来ることで、詳しいことも詳しいが、小沢の方もそれだけ喋る気になったればこそ可能になった仕事だということがよくわかるのが、そのまま、面白さになっている。小沢がまだ駆け出しの頃といえば60年代当初だが、当時はまだ前時代の巨匠大家たちが健在だったから、ルービンシュタインの演奏旅行に連れて行ってもらって遊び人ぶりをじかに見たり、ピエール・モントウと話をしたことがある、などというだけで、ヘーエと感心することになる。(実際には、猿翁のおじさんと話をしたことがある、ぐらいのタイムスパンなのだが、何だか、初代鴈治郎や五代目歌右衛門と話をしたことがある、というぐらいの感覚に襲われる話である。)

しかし何といっても白眉は、マーラーをめぐってのやりとりで、ユダヤ人マーラーよりも世界市民としてのマーラー、というのが小沢にとってのマーラーであり、そこらが村上春樹の世界と反りが合うところなのだろう。ひいては、演歌だって基本的に西洋音楽から出てきているのだから五線譜で説明できる、演歌など一度も聞いたことのないカメルーンの音楽家にもちゃんと演歌は歌えると思う、という辺りに急所があるのに違いない。(以前、山本直純のやっていた『オーケストラがやってきた』というテレビ番組で、森進一にオーケストラで伴奏をつけたことがあったが、実は小沢が、森進一さんが出てくれるなら、と註文をつけたのだという。森進一を選んだ、というところが面白い。)別なところで、小沢は、日本人、東洋人にしかできない西洋音楽のあり方っていうのがあるかも知れない、そういう可能性を信じてやっていきたい、とも言っている。

いま力を入れている若手の演奏家への教育を、オーケストラでなく弦楽四重奏で行なっているというのも、なるほどなあと思わせられる。弦楽四重奏に基本があると思うからで、つまり、オーケストラでは演奏しながらすべてのパートの音は聞こえないが、弦楽四重奏なら、互いにすべての音を聞きながら演奏するからだという。この辺りになると、小沢節も「芸談」らしくなってくる。つまりこの本には、近頃にない面白い「芸談」が満載されている。ああ、それはね、日本の「間」という考え方と同じですね、なんて言葉も出てくる。

グレン・グールドとカラヤンがはじめてベートーベンの三番のピアノ協奏曲で共演したとき、こういう曲の場合、普通はソリストに合わせるところをカラヤンは自分のスタイルで押し通した。貫録の違いだというのだとか(つまり当時のグールドは、大横綱カラヤンに対する新小結ぐらいのものだったのだろう)、指揮者というのは「ある程度棒振りとして場数を踏んでくれば、息の取り方がわかってきます。ところがね、そういうのができない指揮者って案外いるんです、そういう人は、いつまでたっても下手なままですね」なんていうのは、まさしく芸談以外の何ものでもない。

こういうのを読むにつけても、近頃出る歌舞伎の本って、いくらなんでも啓蒙主義万能になりすぎているんじゃないかしらん。

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随談第416回 『澤村田之助むかし語り-回想の昭和歌舞伎-』のこと

年内に滑り込みセーフという格好でようやく出版になった。企画立案の段階からいうと足掛け三年目である。

元はといえば、『演劇界』が現在の体制になる前、2001年から07年の4月号まで足掛け七年にわたって連載した『澤村田之助半自叙伝-世紀を越えて-』である。昭和三十八年から半世紀、ルポだ漫文だインタビューだ聞き書きだ座談会の司会だと、その名の出ない号はなかったろうと思われる程、八面六臂の奮闘をした土岐迪子さんが聞書き形式で記述、途中で体調不良でダウンした後は秋山勝彦氏がバトンタッチしての、ちょっと類のない長期連載だった。神山彰、児玉竜一両氏が発議、誘われて私も一枚加わって発起人のような形になって、以来三年、ようやく出版に漕ぎ付けたというわけ。

長期にわたる聞書きだから、話が前後したり、少しずつヴァリエーションを生じつつ同じ話題が繰り返されたり、急に、こないだ誰それさんが亡くなりましたね、といった風に別な話題が飛び込んで来たり、といったことが幾らもある。そこが連載の面白さでもあるのだが、単行本にするとなればこういうのは適宜整理する必要がある。またこういう仕事は、エイと思い切って集中的にやらないと散漫になる。そんなことも暇取った理由のひとつだが、去年の10月から三ヵ月、一念発起してそれに充てた。といったって、喰うための雑用から表看板にしている仕事まで、諸々こなしながらの作業だが、頭がこんがらかりながらもしかし、なかなか楽しい作業であった。はっきりこれは、役得であった。自分の著書と同じくらい、今では内容はすっぽり頭に入っている。

名子役として重宝されていた少年時代は、いわゆる戦中に当るのだが、当時の楽屋内、「○○屋のおじさん」と呼ぶ往時の名優たちから、子役仲間、脇役端役をつとめる役者たちの生態(といってよかろう)、巡業の様子などなど、記録としての意義はもちろん、読むだに甘酸っぱいような、懐かしさにうっとりする。(古い映像を見るときの、ある種の感動に似ている)。もうひとつユニークなのは、戦後の数年間、すなわち中学高校時代を、役者生活からすっぱり足を洗って全く普通の学生として過ごした時代のことで(田之助氏自身は、『青い山脈』を地で行くような学生生活だったと語っている)、ところがその間に、尾崎士郎や坂口安吾あたりならまだしも、徳田球一だの東富士だのといった名前まで飛び出してくる面白さ、意外性。ここらが、並の俳優本とはひと味違うところだろう。潜伏中の共産党幹部と面と向かい、のちの横綱、イヤサ力道山に誘われてプロレスラーになった当時の大関に、何と相撲部員として裸になって胸を借りたというのだから驚く。

中でも白眉であり且つ貴重なのは、他ではまず見られない往時の写真で、たとえば昭和18年に歌舞伎座で上演された『玉屋』の舞台写真。六代目菊五郎扮するシャボン玉売りのまわりに群がった子供達を見ると、田之助がいる宗十郎がいる先代門之助がいる先代三津五郎がいる、それから萬屋錦之介がいる大川橋蔵がいる。みんな、なんという可愛らしさなのだろう。

タイトルを変えたのは、『世紀を越えて』というのは、新世紀の変り目に当って連載が始まったからで、秋山加代さんの案だと聞いている。(蛇足ながら、秋山さんは小泉信三さんのご令嬢でなかなかの歌舞伎通だった、われわれからすると素敵な老女であった方である。)しかし二十一世紀も、はや十年代に入った今、この本のスタンスを(近頃よく聞く「立ち位置」という言葉を使えばいいのだろうが、どうもこの言葉、なるほど巧い言い方だとは思うものの、なんだかまだ気恥ずかしくて使う気になれない)現在の読者に端的にアピールするには、という観点から「むかし語り」としたのだが、われわれとしては、関心も価値ありと思う意義も、「回想の昭和歌舞伎」というサブタイトルに籠めたつもりである。

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随談第415回 今月の舞台から

歌舞伎が三座もかかった師走の東京。討入り日も過ぎた今更、劇評でもあるまいから、話題あれこれということにしよう。

○三座とは言い条、大人の芝居は国立に尽きる。吉右衛門は三十年ぶりという『御浜御殿』がセリフがちょいとつかえる他は、5年前の「最後の大評定」と合せ、当代歌舞伎の『元禄忠臣蔵』と言うべく、又五郎の富森の大健闘も推奨物。前頭筆頭ぐらいの力士が果敢に横綱に突っかかって行く面白さがあった。とかく、両横綱の対戦みたいだったり、時には富森のほうがエライ役者だったりすることもままあるが、この方が本当らしい。それにつけても、国立劇場には『元禄忠臣蔵』が何とも似つかわしいことよ。

○国立劇場といえば、筋書の「出演者のことば」のページが面白い。イエ、中身の話ではなく、1ページに三人ずつ載っている顔写真だ。とりわけ先頭ページの、上から大谷桂三、澤村宗之助、澤村由次郎が出色。桂三がなかなか風格あるダンディぶりで、優良企業のオーナー社長のよう。下段の由次郎また、温顔を黒スーツで包んで忠実温厚な専務サン、中段の宗之助が、眉までかかったオカッパ頭にストールをグルグル巻きにした軽装で、ナントカ製紙のバカ副社長ではないが、ギャンブルで社費を使い込みでもしそう? と、そう思ってみれば、何故か今月は皆さん、ダークスーツにネクタイをきちんと締めていて、それぞれ、年齢相応の役職者だったり、若手エリート社員であったりのように見えるからオモシロイ。中に一人、白髪で和服姿の播磨屋は創業者かな?・・・と、『元禄忠臣蔵』ならぬ『サラリーマン忠臣蔵』もどきの見立てデシタ。

○平成中村座で四役で五幕に大奮闘の菊之助。最も本役たるべき桜丸よりも、オッと思わせた、しかも自ら志願したという武部源蔵よりも、一番ぴったりだったのは『松浦の太鼓』の大高源吾だったというのは、皮肉といえば皮肉。この辺りの機微は、歌舞伎鑑賞上の奥の院とでもいうべきムズカシイところか。『関の扉』の薄墨は結構でした。それにしてもこの人、踊りにかけては既にお父ツァンをずっと抜いている。

○勘三郎については、とにかくもうしばらく、黙って見守っていることにしたい。

○日生劇場の「七世松本幸四郎襲名百年」というふしぎなタイトルは多分前代未聞だろうが、ひ孫三人にヒイ爺さんゆかりの明治歌舞伎ばかり、しかも所も日生劇場で、という企画は、よく考えるとなかなか味のある企画である。ハイカラ歌舞伎と言おうか、歌舞伎モダニズムと言おうか。どうせのことなら、ヒイ爺さん初演で本邦初の創作オペラという『露営の歌』を、こういう機会に染五郎にさせたかった。(イヤ、本当に。)

○『碁盤忠信』を復活し、『錣引』を復活し、『勧進帳』だは義経という染五郎が、今回最も労多くしていささか割りを喰った形。とりわけ『碁盤忠信』の大詰、同じ二本隈を取った相似形のような扮装で海老蔵とふたり並ぶと、睨んでご覧に入れるのが身上の海老蔵が浚ってしまうのは、気の毒だが仕方がない。碁盤忠信だから荒事、という考えだろうが、染五郎の柄を考えたら、白塗りに生締にでもするべきだった。それにしても、忠臣の忠信が押戻された挙句、三段に上って見得をし、敵役として名高い横河の覚範が押戻しとは、善人悪人とりかばや、というわけだろうか?

『錣引』にしても、46年前、東横ホールで先の権十郎がやったのが目に残っているが、当時はまだそれほどの貫録ではなかったとはいえ、あの羽子板のような役者ぶりは天性のものだから、景清の錦絵美はなかなかのものだった。これもまた、染五郎では仁が違う。とかくに損の卦だった染五郎、日本シリーズだったら負けチームで孤軍奮闘した選手に贈られる敢闘賞でも進呈していい。

○結果的に一番難が少ないのは『茨木』ということになる。松緑は、鬼というより怪猫じみるが、よく研究し神妙に無事つとめ上げた。海老蔵の綱は、何といってもこういう役にはぴったりの容姿風貌で、例の幕切れの舌を出した見得も見栄えがするが、ひと呼吸あって体を決めてから見得をするのは、普通の歌舞伎芝居のやり方で、こういう新しい芝居の息ではない。そこが、歌舞伎モダニズムたるところの筈だ。

○『勧進帳』は、ちょっと困った。いくら睨みが売物とはいえ、弁慶がああ睨んでご覧に入れてばかりいては・・・。海老蔵、惑いの時節か?

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随談第413回 11月ア・ラ・カルト

先月の訃報は談志でおしまいかと思っていたら、西本の訃報がその後から伝えられた。かつてのヒールがいつの間にか国民的ヒーローにすり替わっていたかのような談志の場合と違い、こちらは評価はすでに確立しており、私としてもそれにつけ加えたり、異説を唱えたりする必要はまったくない。(もっとも談志の場合は、談志自身が変ったというより、異質分子の受容に関する世間の感覚が、時代とともに変ったということなのだろう。)

個人的印象をいうなら、壮年期でも、あるいはもっと齢を取ってからでも、西本ほどユニフォーム姿に精悍さが失われることなく、闘う男、という感じを漂わせていた監督はまたとなかった、ということだろう。強いて言えば、仰木がやや匹敵するぐらいか。落合が、この頃のように僧侶みたいになってしまわない、まだ現役引退して間もない頃、野球のユニフォームなんていい大人のする格好じゃないよと言っているのを聞いたことがあるが、たしかに一理はあるのであって、一旦先入観を取り払って考えてごらん、あの格好は他のスポーツに比べてもかなり異様なスタイルであることに気がつくはずだ。(あの下半身はニッカボッカーから変形したものであろう。つまりたっつけ袴だ。)野村でも、長嶋といえども、現役時代に比べると、監督末期のころのユニフォーム姿は、正直なところ、あまり感心したものではなかった。だが、西本に限っては、大毎の監督時代よりも阪急時代の方が、阪急時代よりも近鉄時代の方が、闘う男の精悍さを増して行った。何を格好いいと思うかは、もちろん人さまざまな思い方があっていいには違いないが、西本ほど、野球に徹していることが、そのまま、絵になっている老監督の美しさを感じさせた人はない。

         ***

監督としての落合という存在を、好きか嫌いかと問えば、これほど見解の分かれる存在もないだろうが、(私も決して好きとは思わないが)、しかしこれほど「興味深い」存在もまたといない、という意味でなら、私は現在のプロ野球の監督中、抜群の興味を抱いている。いや、いた、というべきか。先週だったか、長嶋一茂のインタビュウに答えていたのを見たが、紫色の上着がまるで法衣のようなくせに、ズボンが(はっきりとは見えなかったが)色合いから言ってジーンズのように見えるという、珍妙といえば珍妙な格好をしていた。監督をつとめるようになってから、見る見る僧侶のような風貌になりまさっていったのは、監督としての徹し方に、他の監督たちとは質の上で違うものがあるからに違いない。「俺流」の表れでもあろうが、インタビュウを聞いていても、答えの中に「凡」ということがひとつもないのは、大変なことである。

         ***

大相撲では、稀勢の里が、先場所辺りから、いわゆる一皮むけた感じになってきたのが相撲振りにもはっきりわかる。目安の3場所合計33勝などという数字に審判部がこだわらず見識を示したのは、近頃の相撲協会としてはヒットというべきである。(マスコミが相も変らず、あと一敗しか出来ませんだの何だのとしきりに言っていたのは、今更ながら笑止だった。)人相も俄然よくなった。大関昇進をを伝える使者に妙な四文字熟語などを言わなかったのも、近頃天晴れというべきである。

そういえば、テレビのワイドショーで女性のキャスターが、四文字熟語を言わなかったというので、大相撲の伝統から見てどうなんですか、と言っていたのが面白かった。この手の、いちど流行りだすと「流行」がたちまち「伝統の型」と化してしまうのは、面白いといえば面白いし、オソロシイといえばオソロシイ。優勝力士に天皇杯を渡す時、ヘンデル作曲の一節を演奏するのは、いつから始まった「伝統」だろう? まさか双葉山がヘンデルの曲の流れる中で優勝杯を受け取りはしなかったろう。まあ、表彰式のはじまりに「君が代」を歌うので楽隊に来てもらっているので、ついでに、ヘンデルも演奏することになったのだろうが、私の睨むところ、柏鵬時代辺りからではあるまいか?

そういえば、先日相撲博物館で、初代若乃花のことを展示していたのを見に行ったら、横綱昇進のときの伝達式の模様のフィルムが放映されていた。見ると、緋毛氈もなく、何と手あぶり火鉢がひとつ、使者と若乃花の間に置かれているばかりである。つまり、当時はまだ、「伝達式」という儀式ではなく、番付編成に関わるひとつの慣例に過ぎなかったのではあるまいか?

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