随談第412回 私的談志論(修正版)

ナニ、論などというほどのこともない。談志のことについて、心にうつり行くよしなしごとをそこはかとなく書いてみようというだけの話だが、それにしても、訃を報じるマスコミの仕方、それを通じて聞こえてくる世間の反応、へーえ、といささかたじろぎながら、チョイ驚きながら、眺めているところである。額面通りに受取るとするなら、談志サン、よかったね、結局のところ、貴方は勝ったんだよね、と密かに、はなむけの言葉として送ってあげようか。別に、個人としての付き合いがあったわけでないが、それなりに長い年月、高座を聞き、少しは著作も読み、巷間伝わってくる諸々の評判を私なりに腑分けをしながら、これを約めて言えば永いこと親しんできた「彼」に、そのぐらいのことはしてやろうと思うからだ。

勝った、というのは、談志がやろうとしてきたことを、世間がちゃんと理解していた、ということである。世の中も変わったものだ、とちょっと斜に構えてみたい気がしないでもないほどに。こんなにも(あっさりと)理解されちゃって、何だか談志らしくないなあ、とちょっぴり皮肉でも言いたい気も、しないでもない。談志の「毒」って、こんなに口当りがよくってもいいのだろうか? 

私などの年代の者からすると、志ん朝と、何かにつけて対比される存在であった、というのが、談志の位置づけとして、どうしても基本になってしまう。正宗と村正、という風に見られていた。当然のように、オーソドクシイは志ん朝にあり、当時まだそんな言葉は一般にはなかったが、今で言う「ヒール」として談志は見られていた。本当はいい奴なんだってよ、という声はある程度以上熱心な落語ファンには聞こえていたが、世間一般はそんなことまで知らない。落語はうまいかも知れないが生意気だから嫌だ、というのが、平均的な声だったと思う。参議院議員になって、物議をかもして役職を辞任すると、マア、ここらで少し落ち着いて落語の勉強をするといいんだ、などと利いた風の批評をするのも、世間の平均的意見だったが、この手のワカッタ風ノ言い方こそ、談志が最も嫌い、軽蔑するものであったろう。

その頃だったか、歌舞伎座の前で一般客と議論をしている談志を見かけたことがある。談志を異端児と見て、何故もっとまともに落語をしないのか、と問いかけられたのに答えているらしかった。(そんな、見ず知らずの人を相手に真面目に応対している姿が、印象的だったので、いまも覚えている。)その頃私は紀伊国屋寄席の常連だったが、ある時、トリを取る予定の小さんが休演になり談志が代って出たら、バタバタと帰る客が続出した。三越の落語会だったかでは、中入りの後に出る予定の談志が、構わずに高座に上がってしまい、客席が半分も戻ってこない中でさっさと一席終えてしまったりした。(こんなことは珍しくなかったらしいが、私が遭遇したのはこの時一度だけだ。)ここは「古典病患者」の集団、と高座の上から、談志がホール落語の客をからかったりした。

これもそのころ、私の友人で大学の語学教師をしていた男が、談志がしきりにインテリ風の屁理屈を並べて得意がっているが、落語家だから珍しがられているだけで、あんな理屈は大学の教員室では聞き飽きているから少しも面白くない、と言い放った。一理はある、と思いながらも、その男の方もちょっと格好つけてるな、と私は思ったが、今度はある女性が、その男のことを、Sさんて談志に似てるわね、と言い出した。なぜかと言うと、二人とも人を怖れているような眼をしている、というのだった。これにはちょっと意表を突かれたが、なるほど、とも思えたのでSにそれを伝えると、フーム、と考えていたが否定はしなかった。Sは志ん朝の心酔者だったが、内心では、談志のこともまんざら嫌いではなかったのかもしれない。それにしても、いわゆる女性の直感というやつで、これは、談志論としてなかなか急所を突いているのではあるまいか。つっぱったり、髯を生やしたりする奴に限って本当は気が弱いのだ、などと男の論理で一般論化してしまうと面白くなくなってしまうが。

やがて星移り時は流れて、志ん朝も円楽もいなくなり、談志も大名人として見送られる番となった。談志の栄光にして不幸は、演者であると同時に、どの批評家よりも頭の切れる批評家でもあったことだと、私は思っている。その意味では猿之助と共通する面があるが、猿之助にはヒールの要素がないのが、二人の分岐点だろう。しかし二人のしようとしたことは、実は意外に重なり合っている。『現代落語論』を書いた時、あれにまともに応えようとした批評家はいなかったのではなかったろうか。「・・・という部分」というような言葉づかいとか、「業の肯定」とかいうような、それまでの常識だったら生硬で鼻持ちならない(下手な落語家がやったら屁もひっかけられない)用語を連発して、それまでにない落語の「文体」を作ったのが、落語という一点に絞り込んで談志論をするなら、急所のように思う。

それにしても、たとえば『昭和落語家伝』といった本で、先輩の噺家たちを語るときの談志というのは、本当に素晴らしいよね。

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随談第411回 いま、菊之助について考えよう

今月の『娘道成寺』は本当に素晴らしかった。快打一番、打球は見事な放物線を描いて虚空へ消え去った感じである。スラッガータイプとは裏腹の華奢なやさおとこが、肩の力が抜けた美しいフォームで一振すると、思いもかけぬ大ホームランとなったというわけだ。

いや、冗談ではない。この『道成寺』は並の『道成寺』ではない。若手役者のお手柄、などというレベルの代物とは天から違う。前代以来のすぐれた『道成寺』たちの高峰群に優に並ぶ。技術的にどうこうと言うのではない。これは、ひとつの時代を切り開いた『道成寺』であるという意味でなら、前代のどの大家の『道成寺』にも優っているといっても、過言ではない。

ひとつの時代を背負っていた、という意味では、歌右衛門のがそうだった。それは、歌右衛門がひとつの時代を背負う役者であったから、可能であったことだ。ひとつのすぐれた『道成寺』という意味でなら、昭和五十八年の五月と十一月に踊った芝翫のは、一人高く屹立する『道成寺』だったが、しかしそれは、時代を背負うものではなかった。誠に気の毒なことだが、芝翫という人が、ひとつの時代を背負っている人ではなかったからだ。菊之助が、現実にこれからの歌舞伎を背負って行く存在になるかどうかは、神ならぬ私には予言することは出来ない。しかし今度の『道成寺』が、菊之助がいま現に生き、これからも生きて行くであろうひとつの「時代」の扉を、菊之助自身の手で開くものであったとは、確実に言っていいであろう。

菊之助はこれからも何度も『道成寺』を踊るであろうが、きっと後になって、俺、菊之助の『道成寺』見たよ、という者があれば、お前の見たのはいつ、どこで踊った『道成寺』であったのかが問われることになるに違いない。あの時のはああだった、この時のはこうだった、という風に。そしてそれを語り、論じることが、菊之助を、ひいてはその折々の歌舞伎を語ることになるに違いない。

思えば12年前の浅草歌舞伎ではじめて踊ったときも、実にしなやかなよきものであったのだが、その折は海老蔵の初役の『勧進帳』の弁慶が大ブレークしたので、話題をすっかりさらわれてしまったのだった。そしてそれからしばらく、菊之助には惑いの日々があったように、私は思っている。これも海老蔵の光源氏が話題を独占した『源氏物語』では菊之助の役は葵の上だったが、この葵の上は、まるで男のように緋の袴でドスドスという風に歩いていたので私は唖然とし、同時に少し不安を覚えたりした。現代劇に出演して、若き日のゴッホの役を演じたりもした。女方であることに、女方として生きていくことに疑問を抱いているかのように、私には思われた。

もちろん、もう今の菊之助には、そんな惑いやら、青臭い反発などは影も残していない。去年の12月、日生歌舞伎で演じた『合邦』の玉手は、花形だの何だのということを超越した、素晴らしいものだった。つまりこの正味一年間に、菊之助は『合邦』と『道成寺』という、ふたつの飛びぬけた傑作を見せたのだ。もちろん、同じ今月の『魚屋宗五郎』のおなぎのように、どこかまだ固さの残った、若手らしい熟し切らない一面を見せることは今なおある。先月の国立劇場の楠の遺子の姫の場合は、その固さが、両性具有のようなチャームとなって生きたとも言える。これらは多分、いまこのときの菊之助の在り様と関わることであるに違いない。『道成寺』で見せた、あれだけのたおやかさ、匂い立つような若女形ぶりにさえ、獅子奮迅ともいえる激しさ、鋭さを秘めていることとも、それは関わりあっている筈である。そうしてそこに、これからの菊之助を考える上で、抜き差しならない大事な急所があるのだろうと、私は思っている。

今月、『道成寺』を踊ったすぐ後に、『髪結新三』では勝奴を演じてこれがまた傑作だった。大ホームランの次の打席で、今度は右中間を大きく破る二塁打を放ったという趣きである。どこが面白かったと言って、この勝奴は、弥太五郎源七やら家主やらを相手に新三のすることを後ろでよく見て(観察して)いて、腹の中で新三を批評しているという男だった。俺ならああはしないがなあ、などと呟きながら。(そんな男だから、お熊を押し籠めてある押入れの鍵を新三に渡す筈がないのだ、ということがよくわかる。)この男は、新三の後を取って、やがていっぱしの顔役になるつもりでいる。いや他ならぬ菊之助自身が、将来の新三役者としての己れを、視野の内に納めているのに違いない。

ところで来月の平成中村座では、菊之助は『菅原』の半通しで『賀の祝』では桜丸を演じ、『寺子屋』では何と武部源蔵役だという。(夜の部では『関の扉』では墨染だが『松浦の太鼓』では大高源吾である。が、これはまあいい。)桜丸は当然、演じるべき、演じなければならない役だが、武部源蔵にはちょいと驚かないわけには行かない。これは、勝奴とは訳が違う。私が実際に見た限りでだが、源蔵をやり女方も演じた役者といえば、三代目左団次に先代当代の勘三郎ぐらいしか、いま俄かには思い当たらない。それとて、この人たちの演じた女方とは、要するに(若い修業時代は知らず)立役から出る加役としての女方である。しかし一方、かつて戸浪とご法度の不義密通を犯したという過去をもつ男としての源蔵を、『筆法伝授』でなく『寺子屋』で、どう演じるのかという興味も抱かせる。(そんなことを考えさせる源蔵というのも、これまでいなかった。)

七月のチャリティー公演では『藤娘』と同時に『うかれ坊主』を踊ってこれも面白かったが、決して二兎を追う愚は犯さないであろうとはいえ、菊之助の立役志向(試行?)は、当分、はらはらしながら見守って行くしかないのだろう。

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随談第410回 『怒れる十二人の男たち』への「?」マーク(修正版)

俳優座劇場でまた新たに『十二人の怒れる男たち』が始まって、入りも随分とよさそうだ。歌舞伎の観客に比べると皆々教養なり知性なりのレベルが高そうな人たちで、席はほぼ満席に近い。(たまたますぐ前の席が空いていたが、たまたま都合が悪くて来られなかったのだろう。お蔭でこちらは助かった。それにつけても、この間の平成中村座では、昼夜二回とも、すぐ目の前の席に坐った人が(別人であるにも拘わらず!)おそろしく座高が高い人で実に参った。たとえば『浜松屋』の強請場だと、上手よりにいる橋之助の日本駄右衛門と、下手寄りにいる七之助の弁天小僧の間に、前の人の頭がすっぽりと入りこんで、駄右衛門と弁天・南郷を分断するのだから、たまったものではなかった。)

ところで『十二人の怒れる男たち』だが、たしかにうまく出来ている芝居だし、出演者も才人・達者ぞろいで飽きが来ず、数日来の睡眠不足にもかかわらず一睡もしなかった。いや、する気にならなかった。引き込まれて見たし、インタレスチングでもあった。そのかぎりでは、充分に満足したといってよい。だが、いまに始まったことではないが、私はこの芝居にもうひとつ馴染めないものを感じている。今度もまた、それを拭い去るには至らなかった。何故か。

あまりにもこの芝居、うまく出来過ぎている、と思う。陪審員8号の人物が、残る11人を説得する根拠は、疑わしきは罰せずということであり、その間に浮かび上がってくるさまざまな差別や思い込みに由来する、民主主義に反する言論を論破し、説得する。11人はそれぞれ、ああいう人、いるいる、といった平均的アメリカ人であり、それを日本語訳のセリフを日本人である俳優たちが喋ると、ああいう人、いるいる、は平均的日本人に変貌する。これだけ、それぞれがそれぞれの典型であり代表であるように見える配役を考え、出演を実現し、これだけの成果を挙げるまでには、演出家は大変な努力を要したに違いない。が、そうはいっても、善良で保守的なアメリカ市民が自分でも気がつかない内に自分の中にこびりつかせてしまっている偏見、などというものは、その役を演じる日本人の俳優が適役で巧ければうまいほど、ア、この人、ほんとうはアメリカ人なのだ、と自分に言い聞かせながら見る必要が生じてくるのは避けられない。

が、ともあれ、その説得の過程はたしかにスリリングであり、舞台の壁に掛かっている時計が、上演時間とぴったり一致しながら進行し、終るというのだから、これ以上三一致の法則に適った芝居はありようがないわけだ。(ラシーヌも真っ青?)

だが、私だけなのかもしれないが、陪審員8号の説得が少しずつ効果を挙げていくに連れて、私はいつも、逆に少しずつ覚めてゆく自分に気がついてしまうのだ。(熱演し、好演している8号役の松橋登さんにまで、とんだとばっちりで申し訳ないが、冷ややかなものを感じ始めてしまう。つまりそれだけ、「役になり切っている」というせいなのかもしれない。)つまりはこの脚本は、アメリカ民主主義の理念と精神を観客という生徒に教えるための教科書であり、この芝居はそのために仕組まれた模擬演劇ではないか、という思いが募ってくるのである。そう思い始めると、いかにもそれらしく演じている俳優たちも演出家も、ときどき共感の笑い声を立てながら熱心に見入っている観客も、さあ、この芝居はいいお芝居なのだから一生懸命共鳴し合おうね、と言わず語らずの裡に示し合っている同士のように思えてくる。共犯関係、といっては失礼かもしれない。が、私一人?が、のけ者として疎外されて行くような気がしてくるのが避けられないのも事実なのだ。いつの間にか、最後の最後まで8号に反発する3号や11号に、声援を送りたくなっている自分に気がついたりする。(もちろん、彼らの論理に賛同するわけではあるませんよ。)

いつまでこんなことを並べていても切りがない。つまりは、余りにもよくこしらえられている芝居というものは、一旦、それに気づくと、急に醒めてしまうという弱点があるものだ、ということである。妙な例を引き合いに出すようだが、今月新橋演舞場で菊五郎がやっている『魚屋宗五郎』にも、似たようなことを感じた覚えがある。先々代松緑の宗五郎といえば、松緑の当り役中の当り役だと私は考えているが、何とその松緑と梅幸の演じる宗五郎夫婦を見ながら、ふっと、醒めていく自分に気がついたときの不思議な感覚はいまも忘れ難い。そういえばあの芝居も、禁酒を破った宗五郎が酒乱になっていく過程を、一糸乱れぬチームプレイで見せるのが眼目なわけだが、それが舞台の上であまりにも見事に達成されていくのを見ている内に、虚実のバランスが反転してしまうものと見える。

またしても8号役の松橋氏に失礼なことを言ってしまうのだが、私がふと、安らぎを取り戻したのは、終局近く、いわば決めのセリフを8号が言うところで、こともあろうに練達の松橋氏が、やや絶句気味になって、プロンプターの声が陰から聞こえてきた時だった。あの一瞬ばかりは、私は松橋氏に満腔の同情の念を覚えるのを禁じ得なかった。つまり、醒めた心にも共感の糸口が見つかったのである。

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随談第410回 プロ野球選手はグラウンドで帽子を脱ぐな(修正版)

セ・リーグではヤクルト、パ・リーグでは日ハム、ついで西武を応援しているので、結果はともかく、今年のクライマックス・シリーズは、地デジに切替って以来テレビの操作が何だかややこしくなってしまってから見なくなっていたBS放送を、何とかガチャガチャやって、家にいる限りは見た。リーグ戦末期から神宮球場に三度も足を運んだのも、近年では珍しい。まあ結果は、残念ながら実力通り、順当なところであったろう。ヤクルトなど、中日が白鵬とすればせいぜい日馬富士がいいところと思われる。何人かのスター選手を別にすれば、打率が二割そこそこか、外野手でも一割台などという選手がほとんどで、しかしそういう貧打で、3対1とか2対0ぐらいで勝つというのも、なかなか乙なものではある。外野手のくせに打率1割2分でシーズン中本塁打ゼロという飯原のホームランで中日に勝ったのは愉快であった。もし日本シリーズの出場していたら、かつて万年最下位だった大洋ホエールズが、三原監督率いるようになった初年、大毎オリオンズに四タテで勝ってしまった故事が思い出されたりしていたのだったが・・・

ところで、この文章はクライマックス・シリーズの評判をすることが目的ではない。近ごろ気になる野球風俗というか、ファッションというか、あるいは単なるだらしなさか、ともあれ、近ごろのプロ野球でちょっと気になるのは、選手がグラウンド、ダッグアウト内を問わず、帽子をすぐ脱いだり、それどころか無帽でいる光景を、以前に比べちょいちょい見かけるようになったことで、私はそれが気に食わないのである。理由はまず、だらしがない、という気がする。観客見ている前へ出たら、制服制帽、身なりをきちんとしていなければ、そもそも失礼ではないか。ダッグアウトは楽屋ではない。塹壕という、戦場である。(ついでに言うと、同じ意味で、試合途中で降板した投手が、ユニフォームを脱いでしまい、なにやら肩にあてがって治療中みたいな格好でいるのも、アメリカわたりの野球医学から始まったことなのだろうが、私に言わせれば、出番はすんだとはいえまだ試合は続行中なのだから、ちゃんとユニホームを着ているべきだと思う。なんだかパジャマ姿で人前へ出てくるようでみっともない。)

理由の第二は、プロ選手にとっては、試合のときの姿が、観客に見せるすべてであるべきだ、ということである。帽子をかぶっていると、選手はみなそれぞれに、精悍でいい顔に見える。ところが帽子を脱ぐと、いきなり日常の素顔があらわれる。アア、この選手はこんな顔をしていたのか、という興味もないではないが、概して私はこれが気に入らない。多くの場合、帽子をぬいだ途端に幻滅する。現に帽子を脱いだ顔は、ほぼ例外なく、緊張感がなく、だらしがない。

中日の和田という選手は、ちょっと往年の小鶴を思わせるところもあったり、敬服に値する名選手だと思っているが、ところがこの人、中日の選手のなかでも帽子を脱いだ顔をよくテレビ画面に見せることでは一、二を争う。帽子をとると急に、そこらの飲み屋のおじさんみたいになってしまう。西武の本塁打王中村は、この二、三年来頓に風格が出てきて、バットを構えたときの貫録は、まるでベーブ・ルースの再来みたいで惚れ惚れする。ところがその中村が帽子を取るとにわかに、宅配便でも配達に来そうなそこらのオニイチャンになってしまう。この二人だけの話ではない。一事が万事だ。

プライベートな姿を、なにかの番組で見せるのはいい。ファンには、グラウンドでの英雄を見るだけでなく、スター選手の素顔をみたいという心理があり、そこでは、英雄も私生活に戻れば飲み屋のオッサンみたいだったり、ホームラン王が隣りのアンチャンみたいであったって、少しも構わない。だが試合に臨んでグラウンドにいるときは、それではいけない。そうではないだろうか?

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随談第409回 劇団「若獅子」の『王将』

春秋年二回、活動を続けている劇団「若獅子」が、この秋は新国劇の流れを汲む劇団としては本命ともいえる『王将』を、三越劇場で出した。九日間、計十三公演、そのほかに奥州市と前橋市で二公演があるのみという規模で、これは今回に限ったことではない。まったく、主催者の笠原章の志と、それに賛同する少数の座員・座友に、応援の幾人かの協力で成り立っているといっても過言ではない。プロフェッショナルの劇団としては、敢えて言うなら「零細」劇団である。しかしこの「零細」の二文字には、「名誉ある」という形容辞をつけて差支えない。

『王将』は、二年前に初めて試みてかなりのレベルを示し、今度が再演である。笠原は亡き師辰巳柳太郎の坂田三吉を、たとえば当代勘三郎が父十七代目の髪結新三をよく写し、写しながら次第に自分のものにして行ったように、まずよくなぞり、よく写し、ようやく自分のものにしつつある。初演のときは、序幕のまだ路地裏暮らしのくだりは何だか借り着みたいだったのが、芝居が進むにつれ辰巳が乗り移ったような迫真力を見せたのが、驚きつつも面白かったが、今度はもう借り着でなくなっている。まだ改善の余地はあるといっても、既に立派な坂田三吉であることは間違いない。笠原だけではない。初演以来、女房の小春と、年齢が行ってからの娘の玉江の二役をつとめる神野美伽にしても、本来が歌手だという先入観で見たら大間違いであろうし、座員・座友が各々二役・三役をつとめるその他の役役も、かなりの水準でよく整っている。上演脚本は、本来三部作として別々に上演されたこの大作を、三幕物として再編成したものだが、よくまとめ、構成してあって、今後この作が今日の上演形態に適切な形で永らえて行く上で、ひとつのふさわしいものといえる。

だが実は、私がいまここにこの『王将』を取り上げたのは、劇評を書こうとてのことではない。私の見たのは二日目、祭日を前にしてのウィークデイのことだったが、あの小さな三越劇場の客席にはまだまだ空席がいくつもあった。裏返せば、客席の大多数は馴染みの常連客でなければ、何らかの意味での関係者であろうかと推察される。日によって多少の相違はあるにしても、大勢は変るまい。つまり、端的に言えば、この名誉ある零細劇団にとっての最大の泣き所は、新しい観客を獲得することがいまだ充分に出来ないでいることなのだ。

たしかに、しばらく前までの「若獅子」の舞台には、新国劇の「残党」が、何とか灯を絶やすまいと細々と頑張っている、といった趣きが強かった。笠井章もまだ発展途上俳優として、自身を成長させなければならず、演じるものも、そのための「勉強」という面が大きかった。つまりまだ、親しい人たち以外には、よかったら来て下さい、というような言い方しか出来なかったと言ってもいい。しかし、少なくともここ三、四年来(といっていいだろうか)の若獅子は違う。笠原も、役者としての「腕」も「役者ぶり」も飛躍的に上った。実りの時期を迎えたのである。もう、よかったら見に来て下さい、ではなく、れっきとした「商業演劇」の劇団として堂々と胸を張って「興行」をしていいのである。そのためには、新国劇の灯を守るという姿勢だけでなく、灯を育てつつ現代の第一線へと一歩を踏み出さなければならない。観客も、新国劇を愛し懐かしむ人たちだけでなく、新しい観客をも獲得しなければならない。一方また、三越劇場をはじめ各劇場も、若獅子を晴れの舞台に招いてやって然るべきである。

約めていうなら、これだけの芝居を、もっともっと大勢の人が見ないのは、実にもったいないということである。

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随談第408回 今月の訃報―北杜夫の死―(修正版)

芝翫のことは、もちろん別にして、心の底に波紋を広げた訃報といえば、この月では、といってもぎりぎりになってしまったが、やはり北杜夫の死ということになる。もう久しく、読んでいなかった。十年ほど前に父の斎藤茂吉を描いた四部作を書いたときも、久しぶりに読んで見ようかと気を引かれつつ、目先の多忙にかまけてしまった。こういうものは、やはり読まなければいけない。そういう本の読み方を、まったくというわけではないにせよ、いつの間にかしなくなってしまったことを、恥ずかしくも、ちょっと情けなくも思う。本というものは、何かの目的だの、目論みだのがあって読むのは、やはり本当は下の下なのであって、興味とか関心とかいうものは、本来、無目的、無償のものであった筈なのだ。

北杜夫は、新しい作品が本になるとすぐに、リアルタイムで読んだ幾人かの作家のひとりという意味で、ある特別の懐かしさがある。といっても、おそらくかなりの数がいるであろう北杜夫愛好者に比べれば、さほどたくさん読んでいるわけではない。まして、『どくとるマンボウ』シリーズを全部追いかけて読んだ、などという人には、足元にも及ぶまい。つまり、若き日に愛読した作家の一人とはいえても、マニアになるような意味での熱愛はしなかったことになる。しかし懐かしいという意味では格別な思いがあるのは、敢えて紋切り型の常套句を使っていうなら、私にとっての青春の書の一冊だったからという他はない。

懐かしさということからいえば、『どくとるマンボウ』のいちばんはじめの『航海記』が何といっても懐かしい。北杜夫のユーモアということは誰もが言うことだが、書いてある内容と、文章のテンポとかリズムとか間合いとかいうものが、天然自然、その人となりとひとつになっているという意味で、HUMOURとは、つまり文は人なりということなのだということを、私はこの本によって知ったのだという気がする。阪神が(タイガースである)四番バッターの田宮をトレードに出したのを、寄港地で読んだ日本の古新聞で知って、阪神は何故田宮を手放した! と絶叫したり、というような、結構、ワザトラシイ冗句も多いのだが、それすらも、文は人なり、の中に納まっているところに、天然自然のHUMOURたる所以があるに違いない。

『青春記』については、あまりにも語る人が多いだろうし、じつは私はこの本に関しては、後出しジャンケンならぬ後追いの気味でもあったので、あまり聞いた風のことを書くのは面映い。それよりも、何といっても一番愛読みもし、懐かしくもあるのは『楡家の人びと』だ。これこそ、この作者でなければ書けない作品であり、この作者の最も資質に適った作品に違いないが、いま、こういう小説はどのぐらいの人たちに読まれているのだろう? 日本の市民小説を確立した、などと新聞も紹介しているように、文学としての評価は確立していはするのだが、それとはちょっと別に、少し気になる。

「戦前」と呼ばれている、昭和のある時期までの東京の市民が、といってもある限られた一定の階層には違いないが、確実に持っていた生活を、これほど瑞々しく描き出したものはない。それこそ、森本薫が『女の一生』に描き出したのも、いうなら『堤家の人びと』であり、三島由紀夫が推奨した、少年だった作者たちが夏休みに登山鉄道に乗って箱根へ避暑に行く光景の瑞々しさも、やはり根をひとつにするものだろう。戦後になって、人口の98パーセントだかが「中流」の意識を持つようになったり、それがバブル=泡沫と消えた現在にあっても、人々が思い描いている「良き生活」とは、端的にいうなら、『楡家の人びと』に描き出されている「戦前」という時代にある階層の人々が手中にしたような「生活」の当世流のバージョンでることは間違いない。それは、テレビのCMを数時間も眺めていれば明らかである。

「躁」だの「鬱」だのと、しきりに吹聴するようになり、やがてそれが文字通り病膏肓に入って、奇人伝中の人になってしまってからは、私にはあまり面白いとは思えなかった。茂吉四部作は、これからでも是非読みたいと思っているが、私にとっての北杜夫は、やはり遠い思い出の中にだけ生きていたのだった。

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