随談第402回 上方みやげ話(勘三郎、そして海老蔵)

20日の火曜日、中学以来の友人の葬儀をすませ、夜は新国立で三島由紀夫の『朱雀家の滅亡』を見、(これについても別途に書いておきたい)、翌21日、朝立ちで大阪へ。台風15号襲来よりひと足早く大阪着、東京がとんでもないことになっているとは全くの知らぬが仏で終日、新歌舞伎座を見物、夜、ホテルでテレビのニュースを見て唖然とした。そういえば夜の部は、隣が連席で空いていたが、新幹線ストップのため、西下出来なかった客がかなりいたらしい。翌22日は大阪は晴天、今度は松竹座を昼夜見て、最終の新幹線で帰るという強行日程。日付が変わってから帰り着くと、FAXが待っていて96歳になる叔母の死を知らせている。中二日の大阪行きをはさんで喪服を再度着ることになった。

それにしても3月11日といい、今度の台風15号といい、どちらもわずかな時間差で難民にならずにすむという幸運に恵まれたわけだが、そのうち罰が当らなければいいが。

さて新歌舞伎座は勘三郎、松竹座は海老蔵と、もちろん理由は違うがどちらも再起の舞台である。こちらとしては、再起の按配を見極めたい、というのが、せせこましい日程を縫って出かけた理由だった。勘三郎とは、先月、新橋演舞場の花形歌舞伎をたまたま同じ日に見に来ていたので、ほんの立ち話だったが話を聞く機会があった。見た目は浅黒く日焼けして元気そうだったのでそれを言うと、いや、まだダメなんだ、ということだった。

今月は『文七元結』の長兵衛に『お祭り』と、多大な期待をする向きからはやや軽めとも見られる演目、役なのは、まずは瀬踏みという含みでもあるだろう。舞台を見る限り、少しも変るところはない元気さに見える。相変わらずの巧さ、愛嬌で客席を沸かせている。だが、傍目にはそうでも、本人としては思うほど充分ではないのらしい。消耗も激しいらしい。PHYSICALよりMENTALな面に比重のかかっていることだから、本人でないとわからない部分が大きいに違いない。そういえば『お祭り』で光度が少し落ちたような気がするなどと利いた風を言うのは、そう言われてみれば、という賢しらに過ぎまい。

長期戦の構えでこうしたことを積み重ねながら少しずつ直してゆく以外はないのだそうだが、心配なのは、向後、ずっとスケジュールが休みもなく続いていることで、ロビーには、来月の喜界ヶ島への俊寛ツアーのチラシも置いてある。何年前か前にもやった、鹿児島沖の喜界ガ島の海岸で『俊寛』を演じて好評だったのを再現しようというのであるらしい。その後には、平成中村座を隅田河畔に建てた切りにして、約半年間、公演を打つ。その間には勘太郎改め六代目勘九郎襲名という大切な行事があったり、休む暇なく続いている。当然それは、精神的な重圧としてのしかかってくるだろう。何とかならないものだろうか?

勘太郎と七之助が、昼の部に『男女道成寺』、夜の部に『一本刀土俵入り』で茂兵衛とお蔦を演じてどちらもいい。とりわけ勘太郎の茂兵衛は、祖父から親を経由して伝わっている情感の豊かさを、彼もまた紛れもなく多量に有していることである。茂兵衛の感受性の中に、勘太郎自身の感受性が巧まずして入れ子のように入っている。だから素直に泣ける。この辺は天分というべきであろう。

何より目につくのは、副将格の橋之助の役者ぶりの立派さである。『御摂勧進帳』の弁慶と『引窓』の濡髪という、骨格の大きい役がこの人の、当世風のせせこましい小利口さに毒されないおおらかさに、まことにつきづきしい。将来この人は、その古風な役者ぶりを以て珍重されるようになるかもしれない。(コクーン歌舞伎の源五兵衛がはまったのも、このことと無縁ではない。)それにしても『一本刀』に『引窓』に、松竹座では右近が『幸助餅』で関取役をやっているから、合せて角力取りの芝居が三本も出ていることになる。

海老蔵は、丈の高さを感じさせる芸の格の高さに、改めて感じ入った。この辺りが、祖父十一代目団十郎に通じるところで、巧拙を超越している。今月の役では『勧進帳』の弁慶以上に『若き日の信長』にそれが如実に現れる。弁慶でも、物言う術の癖が時にセリフの難となって現われる、たとえば勧進帳の読上げや山伏問答のようなところよりも、中段の「鎧に添いし袖枕」のくだりとか、後段の「延年」を舞うくだりなどの「ますらをぶり」が、余人には求めようもないものである。改めて惚れ直す思いで見た。

それにしても、こういう姿を見ている限り、海老蔵は少しも傷ついていないように見える。あれだけの事件を起しあれだけの目に会い、それがまたあれだけ世間に増幅されて、それでもなおもし海老蔵が本当に少しも傷ついていないとすれば、これはどう考えればいいのだろう?

團十郎を見ていると、海老蔵を保護するかのような富樫にせよ、愛嬌たくさんの河内山にせよ、芸がどうのというよりも、このところのこの人の心境のあり方というものに、思いを遣らないわけには行かなくなる。風貌態度風格、何だかお坊さんのような感じでもあるのは、大病以来の頭(つむり)の様子のせいばかりでもなさそうだ。

もっとも、規矩の定まった『勧進帳』はともかく、河内山の場合は、東京と微妙にしかし紛れもなく違う、大阪という風土の色を感じさせずにはいないこの街の、特に女性客(観客の八割方を占めている)の反応というものを抜きにしては語れないかもしれない。やや過剰とも感じられる愛嬌たくさんの逸脱振り(!)は、決して当て込みなどというものではなく、その土地の水に合ってこその芸だということを思わせられる。現に、團十郎のそうした一挙手、セリフの一言一言に、観客は見事に反応し、素直な喜びをもって応えているのである。

共通したことは、新歌舞伎座の『引窓』で与兵衛をつとめている扇雀を見ていても察しられた。父に習った(倣った)か、和事の味でたっぷり味付けをしたこの与兵衛を見ていると、上方の和事というものがこういう風土の中で生まれてきたのだということを、改めて知る思いだった。行為や仕草のひとつひとつが、観客のひとりひとりによくわかるように、しかしそれがただの説明に終らないように按配されている。果してここでも、観客の反応は上々である。芸の良し悪し、巧拙は他日の論として、私は、扇雀という人に、女方の時には覚えたことのない面白さを見た気がした。

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随談第401回 又五郎その後、その他(修正版)

中学以来半世紀余のつき合いのあった友人の急逝など、数日来身辺少々慌しく、もう少し早くに書くつもりが遅なわったが、先週、せめて『寺子屋』の源蔵だけでもと思って、又五郎の様子を見てきた。事故からすでに十日の余、経っていたせいもあるかもしれないが、まず案じたほどの支障はなく勤め、舞台も滞りなく進められているようなのは何よりであった。もっとも、直後二、三日後に見た者の言によると、事態はもっと大変であったらしいから、これはあくまでも、所見日九月十三日の報告と思っていただくべきだろう。

アキレス腱の「断絶」とこの前書いたのはやや勇み足で、「損傷」という方が、目下のところは無事なようだ。(今月号の『演劇界』の吉右衛門・又五郎の対談を見ると、新又五郎は前にも一度、アキレス腱を切っているのだそうだ。アキレス腱を二度も切ったと聞くと、われわれ世代の者は、かつての大横綱羽黒山が、当時の地方巡業での軟弱な土俵が一因で、二度にわたってアキレス腱を切り、晩年の数年間、優勝から遠ざからざるを得なくなったという「古い話」をつい思い出してしまう。四〇歳近くまで現役を続けたこの老雄の最晩年、涙の全勝優勝というのが、私の大相撲観戦歴中ベスト3に数える記念碑となっている。が、いまは閑話休題としよう。)

ギプスをはめているというので、膝が折れないのでは『車引』もさることながら、『寺子屋』の源蔵で正座が出来ないとすればかなり致命的なマイナスになることだと思うので、何よりもそれが気掛かりだった。負傷したのは右足と聞いたが、見ると、両足とも肌色に近い包帯で包んである。片足だけが太くなったのでは却って見苦しくなるのを考慮したのかも知れない。膝は曲がるので、着流し姿の源蔵の立ち居にさほど気になることはない。冒頭の「源蔵戻り」で花道を歩く足取りなど、何も知らない観客なら何の不審も抱かないかも知れない。しかし七三で、ハタと心付き、早足になるとやや無理が出る。何もあそこで早足にならなくとも性根の解釈としては成立する筈だが、又五郎らしい几帳面さなのだろう。

その他、敷居をまたいだり、首実検の前後「びゃくろく」を上り降りしたりするときには、やや不自由になるのは是非もないとすべきだろう。肝心なのは、身替りを立てるのを打ち明ける戸浪との対話や、後段の松王夫婦とのやりとりなど、膝を折って折目正しく振舞わなければならない場面だが、低い合引を使って、正座は無理なりにさほどの支障は感じさせずに処理している。当然ながら、後見はボーナスを貰ってしかるべきであろう。

『車引』は再見はしなかったが、聞くところでは、花道の出入りはなしにして、下手に入り下手から出ることにしたとの由。後は、事故当日でさえ(それも直後である)、ここでも後見が活躍して何とか乗り切ったのだから、凡その想像はつく。それにしても、当日、脂汗を流しながら(とおぼしい中で)、肉体的にやむを得ない姿勢は別として、能うる限りの姿勢を保ち、動きを見せ、音吐朗々、荒事にふさわしい声でセリフを言う、つまり一点一画おろそかにはすまいと努める又五郎の役者魂は天晴れ見事、見上げたものと言うべきである。また吉右衛門の松王丸の雄大なスケールは、『車引』という芝居の、ひいては『菅原伝授手習鑑』という演劇世界のスケールをも劃して見せるかのようであり、それと見合う量感としては、もうひと息のきらいはなくもないとしても、歌六の時平の妖怪的な凄みもよかった。隈を取らず衣裳も変り色の上方式の桜丸を見せた坂田藤十郎は、後で聞くと、初日にはセリフも入らずかなりの不振であったそうだが、私の見た二日目にはきちんと整え、流石と思わせる仕上がりを見せていた。もっとも、「讒言によってご沈落」を立ち身のまま言ったのは、東京式に合わせた折衷型を狙ったのかと思ったのが、後には膝を突いたそうだから、なお流動的であったのだろう。やっていそうで、実は今度が二回目という。大ベテランにも、そうした盲点はあるものなのだ。新歌昇の杉王丸も骨法が体に入っていて凛然たる趣があって、これもヒット。つまり今回の『車引』というものは、当今かなりの高レベルのよき『車引』であったと見て差支えない。

『寺子屋』の源蔵は、新又五郎として懸命さ故の固さが見え、あまりにも竹本につきすぎるのが少し微笑をさそわれるところはある。しかし好感度としては高点を取れるという半面が、そのまま、この場の源蔵の在り様に通じるのが一得でもある。決して悪い源蔵ではない。吉右衛門の松王は、気宇の高さ、肚の強さと深さに於いて、今日これ以上の松王はないであろうし、魁春の千代、芝雀の戸浪、段四郎の春藤玄蕃らもまた、今日求められる最上の布陣であろう。新歌昇の涎くりが、大叔父(になるのかな?)初代錦之助の若いころにそっくりなのが、懐かしくもまたほほえましい。

新又五郎は、『沓手鳥孤城落月』の秀頼でも、一点一画疎かにしない朗誦的なセリフを聞かせる。ここにも、又五郎という役者としてのスタンスが示されている。ただ今回は、芝翫が初日限りで休演して私の見た日からは福助に代ったので、福助の演じ方との間にある種のズレが感じられなくもない。福助もこの代役、懸命に努めているのだが、良し悪しは他日の論として、これからの時代、この劇が変質してゆく予兆も思わせられる。思えばこの劇、曽祖父五代目歌右衛門以来、あまりにも権威主義的にこしらえられ、伝えられてきた半面がある。変化の予兆には、だから、良否それぞれの側面があるであろう。

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随談第400回 波乱と傑作 ―今月の舞台から―

異例ののろのろ台風が居座って大災害を巻き起こしているさなかに開幕したこの月は、舞台の上も波乱続きである。新橋演舞場の秀山祭は三代目又五郎の襲名披露でもあるわけだが、二日目のいわゆる御社日に、披露演目の『車引』で新又五郎にとんだ災難がふりかかった。桜丸に「来い来い来い」と声を掛けて花道を駆け込んだ梅王丸が、吉田社頭の時平の牛車めがけて花道を駆けて出る、筈が、何と後見に支えられて足を引きずって登場し、只事ならずと客席が鎮まり返った。本舞台に来てからも、腕をぶッ違いにして立つ姿勢が取れないのを後見が支えている。苦痛をこらえ、脂汗をかいているのが見て取れる。だが声は凛然と、見事に梅王丸の声である。『車引』の梅王というのは、それでなくとも肉体的に辛いポーズが多いのだが、当然、充分には出来ない。しかしその点はやむなしとすれば、いい梅王、いい『車引』であることは間違いない。幕になると、各社の記者連が劇場の関係者を取り囲んで事情を訊くが、当然ながら、俄かのことであり劇場側もはかばかしい答えはまだ用意できていない。次の染五郎の『石川五右衛門』がすんで終演となると再び、劇場側の話を聞くが、医者には行ったがまだ確定的なことは病院側も発表できない段階であり、明日の舞台がどうなるか、今はまだ何とも、という返事でその日は終った。

既にその前の『沓手鳥孤城落月』では、淀君の芝翫が休んで福助が代役である。芝翫は前日の初日は出たのだという。もともと、夜の部に福助の役がないところを見れば、代役はかねて、かくあることを想定しての備えであったのだろうか?(これは福助に淀君をさせようがための予定の行動だろうと、穿った説を成す者もあるが、しかしそれにしては、初日だけ出勤とはちと早手回し過ぎる。体調不良に違いはあるまい。)

週が明けて五日に文楽を見る。三日目に当るのだが、『近頃河原の達引』堀川の切りを語っていた源大夫が突如、語るのをやめたので床へ目をやると、白湯汲みの若い大夫に支えられて退場する姿が見えた。肩衣が半ば脱げかかっているが、それに構っているゆとりがないのであろう。藤蔵が演奏を中断し、テンテンテンテンと弾いてつないでいる。と、ついさっき『先代萩』の「御殿」を語り終えたばかりの津駒大夫が現れて床に坐ると、そのまま、中断していた箇所から語り続けた。袴はつけているが肩衣はない。しかし備えがあったと思しく、少しの不安もなく語り終えた。そういえば、源大夫ははじめから顔色が紙のように蒼白だったから、体調が思わしくなかったに違いない。津駒大夫としても用意はあったにしても、まさか肩衣までつけて出るわけにもいかなかったのだろう。

床で語っている最中に不慮の事態が生じた場合のことは、以前、春子大夫が不慮の死を遂げた折、話に聞いてはいたが実際に見たことはない。又五郎の負傷は、アキレス腱断絶とかで翌日からはギプスをはめての出演ということだが、そうなるとむしろ『車引』よりも、『寺子屋』の源蔵が正座できないことの方が本人としてはつらいだろう。昔七代目澤村宗十郎は、巡業先で『五段目』の勘平で「翔ぶがごとくに」花道を駆け込んで揚幕の中で事切れたというが、おそらく異変はすでに花道で起っていて、役者の一念だけで揚幕に駆け込んだのだろうと言われている。又五郎の場合も、異変はたぶん花道の上でであったろう。自身の襲名の興行の二日目のことというのが、いかにも気の毒だ。それにしても今年は、三月十一日のことはいわずもがな、正月早々、富十郎逝去の報で寝覚を起され、その死からまだ一昼夜も経たない内に鷹之資が健気に踊るのを目の当たりにしたのに始まって、なにやら異変が続く。源太夫も又五郎も、病気・怪我だけのことであったのがせめてものことである。

そうした中で、傑作が生まれた。文楽で咲大夫の語った『ひらかな盛衰記逆櫓の段』である。まず何より、時代物浄瑠璃としての芸容の大きさに魂を奪われた。この雄大なスケール感は、かつて先代寛治と津大夫のコンビで覚えて以来の、久々に味わうものであったといって過言でない。しかも樋口・権四郎・お筆・およし・重忠と、各人物それぞれの情理が通り、それがそのまま、作者の描き出した世界の秩序を語り出している。その意味では、今度の咲大夫を聴いて私ははじめて、『ひらかな盛衰記』という劇的世界を知ったと言ってもいい。まさしくこれは、「情」と「理」を尽くし、「私」と「公」の関係を尽した上に、構築された世界なのだ。この作が、いままで思っていたよりも一倍丈の高い名作なのだということを、咲大夫によって知ることが出来た。そこを語り出した明晰さの点で、今度の咲大夫はかつての津大夫に優るであろう。

よく、浄瑠璃は「情」を語ることに尽きるという。しかし、この作のような時代浄瑠璃の場合は、「情」と「理」の双方を語り尽くすのでなければ、その作の世界、作者の本意は立ち現れて来ないのだということを、改めて教えられた。

燕三の三味線もよく弾いた。逆櫓の稽古のくだりの逆巻く潮の様子は、先代寛治以来といっていい。歌舞伎の『逆櫓』がこのくだりを、遠見にしたり、タテのスペクタクルに「逃げ」ざるを得なかった理由も、こういう演奏を聴けば自ずから納得できるというものだ。

ともあれここには、浄瑠璃でなければ、文楽でなければ表現できず、味わうことの出来ない世界があった。

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随談第399回 月遅れの訃報たち

少し前にも書いたと思うが、同世代だから応援するとか、好きだとかいう感覚を私は持ち合わせていない。あるとすれば、同世代ゆえに自ずから見えてしまう欠点や弱みゆえに、同病相憐れむ感情だが、それもどちらかというと、ナニ、エラそうなことを言っていたって兜の内廂が覗けているぞ、というように、つい、しゃらくさがってしまうことの方が多い。

先月の訃報のなかでマスコミが一番共感をもって取り上げていたのは原田芳雄だろうが、私は彼について語る何ものも持っていない。晩年の、まるで別人のようにすっかり爺むさくなってからの幾つかは、それなりの共感や面白さを覚えないでもなかったが、報道振りを見て、ヘーエ、こんなにエライ人だったのかと驚いたぐらいだから、これは批判以前で、いまの映画界についての私の側の無知と音痴を白状する以外の何物でもない。

たまたま先週、このところ毎夏の恒例になった一泊二日の病院ホテルへの検査入院の徒然に、今月号の『文芸春秋』を隈なく読んでいたら、「人声天語」なる坪内祐三氏の文章に原田芳雄の死のことがあって、ちょっと気を引かれた。氏は、原田の死に意外なほどショックを受けたのだそうだが、それはともかく、なるほどうまいことを言うと思ったのは、たいがいの人は「最初の人」すなわち映画俳優としての原田芳雄の新しさを口にするが、しかし同時に彼は「最後の人」でもあったのだ、という指摘である。つまり原田は、斜陽とはいっても映画界がまだ大手映画会社が製作していた時代の「銀幕」のスターとしての体験を持つ最後の人間でもあったのだ、ということである。そうして私は、映画というのはやはり「銀幕」が好きなのである。

いわゆるATGの原田については、先にも言ったように私は語るべき何ものも持っていない。従って、いいも悪いもないのだが、ただひとつ、これも坪内氏が「新しかった」という例に挙げている、「あのボソボソした台詞廻し」というのが私は苦手であって、彼以後、特に男優がみんな、ぼそぼそと「下に置いたような」(と昔なら言ったものだ)台詞を言うのを良しとするようになったのには、疑問を感じないわけに行かない。私の直感では、「存在感」という言葉が流行り出したのが、役者がセリフをぼそぼそ言うようになったのと軌を一にしてのことであるような気がする。役者の存在感というものが、『曽我対面』や『車引』で「デッケエ」と化粧声を掛けるように、歌舞伎だろうと映画だろうと役者にとって一番大切なことは昔から変わりはないが、近頃言うところの存在感なるものは、原田のボソボソ台詞と共に生まれてきたような気がする。(その前には、宇野重吉のボソボソ台詞というのが、絶大な信奉の対象になっていた時代があったっけ。)

つまり原田芳雄も宇野重吉もすぐれた俳優であったことは確かだとして、そしてどちらも、「存在感」ということで評価を得た俳優であったということを考え合わせると、新劇も映画もテレビも含めて、事はかなりややこしくなってくる。ナチュラリズムとリアリズムの区別などということまで話を広げると収集がつかなくなってしまうが、しかしこれは、「演劇論」というもの、「演技論」というものの、ブラックホールに片足のかかった厄介な問題であることは確かだろう。で、私の好み(と、ここでは敢えて言っておく)からすると、ボソボソ台詞の存在感というのは、どうも「うさんくさい」、少なくとも「ずるっこしい」ような気がしてならないのだ。(もっとも、原田や宇野の場合は一種の「高等芸」であったとはいえるだろう。)

もうひとりの同世代人の訃報といえば竹脇無我で、こちらの方が親近感は覚えるが、しかしここでわざわざ語るほどのものを持ち合わせているわけではない。

二葉あき子となると、全盛時代はこちらの幼少の砌であって、母がファンだったからラジオの歌声はもちろん、日劇でその舞台姿を見たのもかすかに覚えていて、そういう意味での懐かしさはあるが、彼女自身に対する思い入れというものとはそれは違う。

となると、私にとっての感慨といえば、先月の訃報欄で見たふたつの小さな記事ということになる。高城淳一といえば、まず大方はテレビ草創期の人気ドラマ『事件記者』での、安ポマードの匂うリーゼントスタイルの髪型で部下の山田吾一を怒鳴りつけてばかりいる二流新聞の記者の役にとどめを刺すだろうが、高城に限らず、当時はまだラジオドラマ全盛時代がダブっていたから、この世代の若い新劇人というのは、同時にラジオドラマの人気者でもあった。高橋昌也だとか名古屋章だとか、その他その他、私はまず、ラジオの声で知ったのだった。(いまもなお矍鑠としている久米明などもその生き残りである。)この辺りのことを、その内、もう少しきちんと思い出して書いておくのは意義があるかもしれない。

もうひとりの浜口喜博は、戦後の水泳界で古橋・橋爪に次ぐスターだった。ということは、全盛時代がオリンピック不在と重なった悲運の世代でもあるわけだが、中・長距離泳者の古橋・橋爪に対し浜口は短距離陣のエースだった。なかなかの男前でもあったから、現役を引退後は大映映画のスターになって、『ブルーバ』という(じつは正確な題名を思い出せなかったので『キネ旬』総目録という虎の巻を確認した)ターザン亜流の映画に主演したのが、当時われわれ中学生の話題だった。1920年代の金メダリストだったジョニー・ワイズミュラーがターザン役者としてハリウッドのスターとなって活躍していたのの、何匹目だかの泥鰌となったわけだ。もっともその後、役者としてこれといった仕事をした記憶はない。訃報を見ると、やはり水泳界ではそれなりのエライ人になっていたらしいから、他人事ながら安心した。

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