随談第395回 名古屋場所・なでしこ・富士乃高嶺、附・松本幸右衛門

三題噺みたいなタイトルだが、あっという間に七月も月末なので、まさに三題噺よろしく、今月の話題をひとくくりにしておこう。

名古屋場所は、たとえ千秋楽一日だけにせよ満員御礼は出るし、またどうせ白鵬かという「予定調和」を破る結果になれたし、魁皇もめでたく「名大関」になり遂せて引退という、少なくともいま現在の相撲愛好者支持者の総体よりはわずかでも広い範囲に話題を広げることができたのは何よりだった。魁皇など、もし13回という、千代大海とともにあやうくワースト記録になりそうな角番を繰り返していた最中に引退に追い込まれていたとしたら、マスコミは名大関とは呼んでくれなかったろう。ここまで「ねばった」からこその栄誉であったともいえる。いや、政界の話ではあるまいし、「ねばった」というのは正しくあるまい。魁皇自身も言っていたように、決断をしそこねていたというのが正直なところなのだろう。またそれを正直に言うところが魁皇の魁皇たるよさなのであって、つまりは、魁皇はその人間味と相撲ぶりによって「名大関」として認知されたのだ。

通算勝ち星が多いということは、シビアに言えば、角番の回数が二番目に多かったということと裏表にあるのであって、どなたかも新聞に投稿していたように、力士としての魁皇の真価はそんな数字にあるのではない。同時に初土俵を踏んだ三人の横綱の誰と比べても、たとえば若の花よりすべてにおいて魁皇の方が力士として上等であったし、「大剛」ぶりにおいて曙に優りはしても劣ることはなかったろうし、貴乃花に比べても、安定度において大きく水を開けられたにせよ、「すまいぶり」の魅力においては優っていたであろう。引退の記者会見も立派だった。(本当は一番強いんだが、とファンを切歯扼腕させながら遂に第一人者になれずにしまった強豪力士としては、栃若時代に「第三の男」であり続けた、あの胸毛の立派だった朝汐以来かもしれない。福岡と直方の間を走る特急列車に「魁皇」と名付けたそうだが、しょっちゅう臨時停車をする特急にならないといいが・・・。)

それにつけても、相撲協会は今場所を無難に乗り切ったことを足場にしてこのまま道を歩き続けようというのであろうが、それならそれで、どうぞ大切に「角力」を守り伝えながら、上手に「大相撲」を経営していってもらいたいと願うばかりである。

なでしこJAPANのことは、既に多くのことがかなり適切に言われている。(これだけ、あるひとつのことについて、かなりのレベルで適切な発言がなされるということは、思えば稀有なことといってよい。もちろんまだ、日が浅いからとはいえだ。)とりわけ、選手たちの置かれている競技者としての環境の劣悪さが、賞賛と表裏一体として指摘されていて、それは概ねその通りだと思うのだが、そのことに関連して、今度の快挙を大方の人々が好感をもって受け止めた理由のひとつは、スポーツというものが本来的に持っていた(筈の)ある素朴さが、あの中に嗅ぎ取れたからに違いないと私は思っている。

オリンピックなどでメダリストになっても、外国に比べ日本の選手は恵まれるところが少ない、とスポーツの関係者がよく声を上げることがある。おそらくそれはそれで正しいのだろうが、しかし私は、もしかしたら、必ずしもそうとも限らないのではないかという気も、一方ではしないでもない。あのタクシーの運転手さん、昔は金メダリストだったんだってさ、というような光景が普通にあったりする方が、往年のメダリストがナントカ連盟の理事だの何だのになってエラそうにしているのを見るよりも、すがすがしくも好もしい光景のような気がする。昔、東京オリンピックで活躍した円谷選手や依田選手は、その活躍で得た名声が重圧になって自殺した。メダリストが社会的名士になって一生リッチな暮しをするのも、それはそれで結構だが、しかし社会がもっと成熟して、世の中がもっと大人になって、往年のメダリストの運転するタクシーに乗り合わせて、アレッなんてことがあったりする方が、もっと自然本来の姿に近いのではあるまいか。(もちろん、それはそれ、女子サッカー界の競技をする上での環境をもっとよくすべきだということは、大いに叫ばれて然るべきである。それにつけても、今度のニュースにかこつけて、昔の日紡貝塚の女子バレーボールのことがちょっとだけ話題になったが、女子ソフトボールのことがぴたっと忘れられてしまったようなのも、ちょっと気になりますね。)

それやこれやのニュースの飛び交う中、訃報欄で富士乃高嶺の死亡記事を見つけた。ああ、と一瞬、時が巻き戻るような気がした。95歳という。「富士乃高嶺(ふじの・たかね)」という芸名は、宝塚の生徒の名前を小倉百人一首から取ってつけたという、幾むかしもの昔の命名法で名付けられた、もう本当に最後の人であるも知れないことを物語っている。つまり春日野八千代だの神代錦だのと一緒に舞台を踏んでいた人である。どちらかというと、和風な扮装の似合う人であったような気がするが、実はそれほど多くを知っているわけではない。葬式はカトリック教会で行なうと書いてあったが、それこそ清く正しく老嬢のまま生を終えた人(なのかどうか知らないが)のイメージにふさわしい。

訃報のついでといっては故人に失礼だが、ひと月前の六月末、松本幸右衛門の訃報も新聞で知った。当時パソコンのトラブル続きでこのブログも半ば放置状態になっていたので、書くことが出来なかったのである。厚木の地芝居の出身という、現代では稀な経歴の持主で、戦後になってから市川中車の門に入った人だというが、まさしく練達の芸の持主であった。セリフ回しに中車に学んだ(真似した?)風のあるのがほほえましかったが、義太夫物などで見せる腰の強いセリフとか、歌舞伎味の濃い芸風は今日ではますます貴重な存在だったが、それでいて、新作物にも腕を見せる、「達意の芸」の持主だった。一度、地芝居時代の話を聞いたことがあるが、『千本桜』の狐忠信を猿之助とはまったく違うやり方で宙乗りで見せるのを売物にしていた役者の話など、実に貴重な話題をもつ人でもあった。謙虚な表情をわずかにほころばせて、「あれを見た目には猿之助さんのなど・・・」と語った顔が忘れがたい。

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随談第394回 菊之助チャリティ舞踊公演

梅雨明け早々のこの十二日、菊之助が主催する「東日本大震災復興に向けて・祈り」と題したチャリティ舞踊公演が、浅草公会堂で催された。昼夜二回、尾上右近の『子守』に菊之助が『うかれ坊主』と『藤娘』を踊るというメニューである。

震災後、多方面から支援・応援・激励等々の声が上がった。とりわけ、歌手やタレント、スポーツ人(いうところのアスリート、である。この言葉も、使われ出したかと思うとあっという間に広まり、認知された。ま、格好よく響くわけだが、この言葉が、各ジャンルの「運動選手」に、それまでになかったある種の「意識」を持たせた効果というものは、馬鹿にならないものがあるに違いない)といった人々の声は、メディアに乗りやすいためもあって、最も轟々たるものがあった。楽天イーグルスの島捕手の言った「見せましょう、底力を」という宣誓は、各地で始まった夏の高校野球の地区予選の選手宣誓に、その影響力をあきらかに見せている。一方では、辟易するような口を利く者も少なくなかったが、ともあれ、そうした中で、歌舞伎界から聞こえる声というものは、極めて少なく、また小さかった。

それが何故か、というようなことは、ここでは問うまい。歌舞伎界というものが、小回りの利きにくい体制だということが、ひとつあることは、確かだろう。ともあれここに一人、声を上げた若い歌舞伎俳優があった。ブレーンとして誰かが智恵を貸したり、というようなことは当然あったろうが、菊之助が敢然と声を上げたことは紛れもない事実である。

基本の姿勢ははっきりしている。「歌舞伎役者は、どんなときも、芝居をし、踊りを踊ります」と挨拶の言葉に自ら述べている。漁夫が魚を獲り、農夫が田畑を耕すように、役者は芝居をし、踊りを踊る。東北の被災地には、だが魚を獲ることも出来ず、田畑を耕すことも出来なくなった人々がいる。その人たちに向かって、頑張れ、などとは言わない。日本は強い国、復興を信じてる、などとも言わない。「いっとき心を遊ばせていただければ幸せ」と菊之助は言う。菊之助の踊りを見ていっとき心を遊ばせるのは、現地の被災者ではない。菊之助の挙に何らかの意味で心を動かして、彼の踊りを見に来た人々である。入場料収入と、ロビーに置いて呼びかけをする募金箱への募金とを、義捐金として全額寄付し、菊之助と右近は出演料を受取らない。そういうスタンスを明確にしたこともよかった。

演目の舞踊三本は、いずれも、曽祖父六代目菊五郎、祖父七代目梅幸の当り芸、尾上家ゆかりのものばかりであり、小品だが、彼らにとってはおろそかにできない大切な演目である。当り前のことのようだが、しっかりした目的意識があっての演目選択であることが窺える。

果して、よい舞台だった。実はその日は少々遠い土地に夕方まで仕事があって、遅刻を覚悟で駆けつけたような具合だったので、右近の『子守』はひと足違いで見はぐった。菊之助のふたつの踊り、とりわけ『うかれ坊主』に感服した。『藤娘』も結構だったが、こちらはある程度の成果は予測できるから、驚きといっては少ないが、花形の女方である菊之助が、ほとんど全裸の願人坊主の姿になるのは、本人にとっても冒険であったろう。しかしこれには、実はミソがあって、かつて現菊五郎がNHKの大河ドラマ『源義経』に主演して第一回目から大ブレイク、翌二月の東横ホールの公演は、今の東急渋谷店の九階にあったホールから、当日売りを買う人々の行列が階段を幾曲りして下の階まで延々と出来たという、大騒ぎをした公演のとき(私もその行列の中にいた)、この二つの踊りを当時の菊之助が踊った、そのひそみに倣ったのに違いない。つまりこれは、女方だけの枠にははまらないぞ、という菊五郎の将来へ向けての宣言であったわけだ。いま菊之助が、親のかつての姿に倣って、いま他ならぬこういう機会に、抜け目なく将来の自分の道を宣言する。やるじゃあねえか、というわけだ。

踊りにかけては、菊之助は既に親を抜いている。が、それにしても、この『うかれ坊主』には敬服した。もちろん、もし劇評をするのが目的だったなら、必ずしも非を打つ余地がないわけではない。菊之助の体には、先代当代二代の勘三郎や、亡くなった富十郎のような、近年この踊りを得意にし、われわれの眼にもまだ残像が残っている名手たちのような、おのずからなる愛嬌がない。だから、洒脱な味というものはない。だがそんなことは、最初から知れていることだ。菊之助は、おめず臆せず、規矩正しく正攻法で踊る。伸びるべき手は充分に伸び、腰は見事に割れ、足は見事に拍子を踏む。腿から脛へ、浮かび上がる筋肉はそれこそ100メートルのスプリンターのようだ。リズムは正しく拍子を刻む。だが、この踊りが素晴らしいのは、正確だからではない。規矩正しくありながら、なんという伸びやかさであろう。この、あくまでも素直な暢達さこそ、菊之助の生命であり、天分であるに相違ない。私は陶然としている自分に気づき、そのことに心地よく酔った。

時計を気にしながら電車を乗り継いで、ようやく会場に駆けつけたとき、実は私の心はややざらついていた。だが『浮かれ坊主』と『藤娘』と、ふたつの小品に快く酔って帰路につくとき、それはきれいに拭い去られ、豊かな思いだけがそこに残っていた。疲れはすっかり取れていた。

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随談第393回 『芸の心』を読む

コンピュータに関するドガチャガが続いて、神経も脳味噌も不慣れな作業でいらいらするはで、心ならずも大分永いこと、古い壁新聞を貼り付けたままのような状態が続いてしまった。お詫び申し上げます。書く材料というのは、野菜や魚介類と同じくやはり時季のものだから、時期を逸してしまうと、書こうという心持ちが殺がれる。亀治郎が井上ひさしをやったりしたのも、もういまさら古証文を出しても始まらないだろう。(もっとも、多少遅れても是非書いておきたい、というほどでもなかったこともあるかもしれないが。あれは、それはまあ、いい経験ではあったろうが、芸という観点から見て、亀治郎は何か得るところがあっただろうか?)

そうこうする内に「あれ」から4ヶ月の余が経ち、ある程度予想されたことではあるとはいうものの、政治や原発問題など、案の定(とは言うまい、案以上に)二極分解し、悲喜劇的様相を呈してきたいま、この分では、「某氏」なども、ダメ首相と言われながら粘りに粘っているうちに、風向きが変わって、あっぱれ原発を止めた名首相なんぞと言われる日が来ないとも限らない。

お蔭で、というべきか、その陰で、というべきか、海老蔵がごく静かに、舞台に戻ってきた。あれほど、海老蔵の舞台復帰はいつか、と騒いでいたTVのワイドショーはまるで無関心である。風向きが変わったのだ、と考える他はない。(海老蔵復帰の舞台については、いまここには書かない。当座の評は新聞に書いた通りである。詳しくは、『演劇界』に書いたから、八月上旬に出る九月号をご覧いただきたい。)

そんな中、三月書房から、八世坂東三津五郎と安藤鶴夫の対談『芸のこころ』が出版された。昭和四十四年に日本ソノ書房というところから、「心の対話」シリーズの一巻として出たものだが、今度はそれを底本としたいわば決定版である。「心の対話」シリーズというところが、ミソでもあり、あまり心、心、と強調すると、どうしてもミソがミソ臭くなってしまうところが出るのは避けられないが、そこらはまあ、読む者の読み方次第であって、これを機会に四十余年ぶりに読んで見ると、なかなか面白い。この本が出たのが四十四年の六月、安藤鶴夫が死んだのがその九月、というタイミングである。

自分から、「感動鶴夫」と「感動三津五郎」と言っていた二人だし、たぶん、安藤の側から出てきた企画と思しき形跡があり、安藤が煽りに掛かっているところがあるのが玉に瑕なのは確かだが、四十年も経った今となっては、それもまた、「ひとつの風景」として見ると別趣の興味ともなるだろう。まあ、よきにつけあしきにつけ、「感動」し「慷慨する」二人ではある。

三津五郎の対談本といえば、これもつい最近、雄山閣から復刻本が出た、武智鉄二との『芸十夜』が名著の誉れ高いが、これはその、相手を変えての三津五郎語録の余滴版として読むのが、一番いい読み方だろう。もっとも、「余滴」といったが、『芸十夜』の方は昭和四十七年の出版だから、時系列としては「余滴」の方が先ということになる。

昭和四〇年代といえば、安藤鶴夫にしても三津五郎にしても、名声は赫々として社会全般に及んでいた。絶頂期といえる。ふたりとも、テレビ文化人でもあったから、まず日本中、知らぬ者とてなかったろう。しかし一方から言うと、このころは大学紛争が盛んだったり、高度経済成長の様相が誰の目にもはっきり見えてきた時分でもあったわけで、(三億円事件があったのはこの前年だし、よど号ハイジャック事件が起るのはこの翌年である)、そんなことが、二人をしてしきりに慷慨させたり慨嘆させることにもなるのである。

まっとうな読みどころとしては、もちろん、第一部の「芸のこころ」にあるのは当然だが、むしろ第二部の「日本人のこころ」や第三部の「世間のこころ」で二人がしきりに慷慨する「光景」も、「時代を読む」という意味では、捨てがたいともいえる。そうした意味をも含めて、三津五郎節・アンツル節満載の一書として、楽しめることは疑いない。

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