随談第372回 高峰秀子追慕・『浮雲』よりも『銀座カンカン娘』を

またしても前説付きで恐縮だが、この文章は旧蝋押し詰まってからの訃報を聞いてすぐ書いたものだが、新年、松が取れてから出すつもりでいたところ、富十郎の訃報が入ったので見合わせていた。このまま時機を失するのも無念なので、ひと月遅れの追悼として載せることにする。

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池部良が逝って、微妙な間を置いて、今度は高峰秀子が逝った。ふたりとも、格別のファンというのではない。しかしほぼふた月の間を置いてのこの二人の死には、いろいろ、物を思わせられる。

池部が兵隊から帰って、焼野が原になった東京を引き払って茨城だかどこだかに疎開していた父を探し当てて、しばらくそこで日を送っていたところへ、高峰秀子が、まだ助監督だった市川崑と連れ立って訪ねてくる。会社からの使者として現場復帰を誘いにきたのだが、このとき使者に立ったのが高峰秀子だったというのが、何とも興味深い。

それから数年後、子役時代から映画の世界しか知らず、休むことなく働きづめに働いてきた閉塞感を、まだ外遊というものが自由化になるはるか以前、梅原龍三郎の肝煎りでしばらくパリに遊んで今で言うリフレッシュをして戻ってきた高峰が最初に撮った映画が、五所平之助監督の『朝の波紋』という作品で、この相手役が池部良である。このパリに遊んだ数ヶ月間というのが、高峰秀子をひとりのスターから後年の名女優へと変貌させる上で絶妙の意味を持つことになるわけだが、そのいわば復帰第一作をスムーズに、手堅く地固めする上で、相手役に選ばれたのが池部だったということになる。つまりこの二人は、当時、というのは昭和20年代、終戦直後から27、8年ぐらいまでの映画界で、好一対の位置に立っていたわけだ。といって格別、ふたりに共演が多かったというわけでもない。池部は池部で、李香蘭、つまり山口淑子が中国から帰ってくれば『暁の脱走』を撮り、宝塚から久慈あさみが映画に転進すれば『ブンガワンソロ』をという具合に、これという女優の相手役はさしあたり池部のところへいったわけで、つまり当時の池部良というのは二枚目スターの代表として、そういう存在だったのだ。

高峰秀子というと、『浮雲』だ『二十四の瞳』だ、というのが決まりごとのように言われ、大女優としての業績が並べ立てられ、雲の上に祭り上げられるのが、定石になっている。(森光子の舞台にすっかり世評をさらわれてしまったが、『放浪記』も高峰として相当の傑作だと思う。ただ、脚本が菊田一夫の作に準拠している点で、損をしているのは彼女のためには残念である。)それはそれで少しも間違っているわけではないが、しかし私などにとってのなつかしい原風景といえば、また、いまになってもう一度見たいなと思うのは、あんなにエライ人になってしまう前の、つまりひと言で言えば『銀座カンカン娘』をもって代表とするような、明るく闊達な現代劇女優としての彼女である。この路線と、後年の名女優のイメージを結ぶのが『カルメン故郷へ帰る』ということになるのだが、高峰前期のイメージとしては、『カンカン娘』の方が、高峰がみずから歌った主題歌がいまでもCMソングとして使われるような斬新さといい、『カルメン』よりも上であろう。日本初の天然色映画とか、木下恵介監督というネームバリューとかいったことを取り除いたならば、である。(大体、映画界の定評ほど、巨匠監督本位の権威主義と事大主義に縛られているものはない。)

それにしても、『私の渡世日記』と題する高峰の自伝が大名著であることは今更私がいうまでもないが、自身の映画女優としての人生を「渡世」と切り捨てて、一読、なるほどと納得させる凄まじさは、大変なものであって、幼き日の東海林太郎との関係などというものは、唖然とするより他はない。五十歳でキッパリと廃業宣言をし、実行した潔さは、女優であることを「渡世」と言い切った凄味と裏表のことであったろう。俳優としては、映画の演技しか知らない、また、出来ないことを誰よりも自覚していた筈で、その意味で、男女優を通じ最も、映画俳優のなかの生粋の映画俳優であったといえる。今の中村雀右衛門が大谷友右衛門として映画にはじめて出演した『佐々木小次郎』のとき、あれこれ途惑ったり思い悩んだりしていると、琉球王女の役で共演していた高峰から、映画なんてヤクザなものなんだからそんなに考えたりすることはないのよ、と言われて、悟るところがあったという。もちろん高峰らしいレトリックなわけだが、ここにも、「渡世」と切り捨てるひとつの「見切り」方が感じられる。

別にことさらに高峰の作品をと思ったわけでもないが、思えば去年一年間に、『女の園』『この広い空のどこかに』『あらくれ』『雁』などを見る機会があって、もちろんどれも役の上とはいえ、この女優の暗く「やりきれない」表情というものに、改めて感じ入った。どの作も、『二十四の瞳』と『浮雲』で一躍、演技派の大女優として遇されるようになった前後の作品であることも、思えば実に興味深い。大女優になってからの高峰秀子は、そういえばどの作品でも「やりきれない」顔をしていたような気がする。どの作品、どの役でも見せるあの「やりきれない」表情が、そのまま、女優渡世を続ける高峰自身のもうひとつの自伝になっていたともいえるが、それだけに『カンカン娘』のあの闊達さがひとしお貴重な意味をもってくるのだ。

エッセイストとして鳴らし、後半生はむしろそれで「渡世」する感もあったという点でも、池部と高峰は共通するが、池部の方には、どうだ、うめえだろうという、やや達者すぎる臭みが往々にして感じられた。あれが東京人の悪い癖だ、という評もあるが、但しどちらも、自身の人生を語った自伝的エッセイに於いては、じつに達人の境にあったといっていい。みずからを語って昭和を、とくに昭和二十年代を語った二人であったというべきであろう。

随談第371回 久しぶり相撲談義

先場所の白鵬連勝ならずの一件については、ついに書かず仕舞いだったので、その辺りのことも含めつつ、相撲談義ということにしよう。

白鵬は、稀勢の里に敗れた二番、とりわけ今場所の一番は、仕切りのときから、妙に間合いを長く長く取って、塩を取りに行くのも、仕切りの動作に入るのも、相手よりひどく遅れるのが気になった。まさか白鵬ともあろうものが、故意のじらし戦法でもあるまいから、何か捉われるものがあったのだろう。立ち上がってからも体の動きからして固かったが、兆しは仕切りの内から見えていた。(それにしても、稀勢の里はこれでようやく地が固まったようにも見える。とにかくこれまでは、工夫がなさ過ぎたのだ。千秋楽の放送で解説の舞ノ海氏が、これからはもっと頭を使って大人の相撲を取るようにすべきだといっていたが、全くその通りである。これからの三場所が肝心、大化けして大関になってしまわなければ鮮度が落ちてしまう。)

それにしても、連勝というのは、確かに過去の記録に照らしても超特級の力士しか達成していないことを見ても、大したものであることは間違いないが、一面、覇を争うような伯仲した相手が不在のときに出来る記録であることも、また間違いない。大鵬が何度も連勝を記録しているのは、柏戸が怪我がちで長期の休場が度々あったことと無縁ではないし、双葉山の場合も、玉錦との新旧交替ということの他に、男女ノ川、武蔵山という同時期の横綱が凋落の時期にあったことも無関係ではないだろう。栃若にはこれといった連勝記録はない。

連勝というと思い出すのは、三遊亭円生が、『阿武松』のような相撲の噺をするときによく、マクラで、太刀山という横綱が四十三連勝していたある日、ワタクシ(というのは円生自身のことである)が拝見しておりますと、太刀山関と西ノ海関(上村註・西ノ海はいずれも横綱で三代あるが、この場合は二代目のことであろう)の取組みで、両者四つに組んで、太刀山関がじりじり下ると、後ろを向いて大きく俵の外に足を踏み出して、それで負けになった。どういうことなのだろうと不思議に思いましたが、その翌日からまた連勝をはじめて、栃木山関に負けるまで、五十六連勝をした。あの西ノ海関との一番がなければじつに九十九連勝になっていたというわけで、ワタクシが実際に拝見したお相撲さんで、一番強いなと思ったのがこの太刀山関、その次が双葉山関でした、というようなことを言っていたのを覚えている。(そういえば、ナントカ関、という言い方をあまり耳にしなくなったような気がする。辛うじて白鵬の談話の中で、昭和の大横綱大鵬関、といった言い方で耳にするのが、せいぜいだ。ところで、それにつけてのついでの話だが、「巨人大鵬玉子焼き」というのは、本来、ほめことばではないだろう。あれはつまり「お子さま向き」であって、オトナは三原監督率いる大洋ホエールズとか柏戸とか、マアそういったものをヒイキにするものだ、というのが、本来の意味だった筈である。柏戸は、さっきも言ったように怪我は多いは取りこぼしは多いはで、優勝の回数は大鵬にはるかに及ばないにも関わらず、二人の対戦成績はほぼ五分だった。なんともステキではあるまいか。)

豊ノ島が、中日まで一勝七敗だったのを七連勝して勝ち越したのはよかった。小結にもまだならない当時の栃錦が、七連敗から八連勝して勝ち越したという先例を、豊ノ島本人は知っていて目指したらしいが、記録がどうとかという意味ではなく、こういうのは実にいい話である。当節数少ない「芸」をもった相撲取りとして、豊ノ島は、安美錦と並んでかねてから私の贔屓力士である。あの腰の低さと反身を使った取り口は、なかなか味があって、風貌といい、イマドキの相撲取りらしくないところが頼もしい。

芸といえば、解説の北の富士氏が、廻しを切るということをいまの力士はしなくなった、と指摘して、昔は琴ケ浜関みたいな上手な人がいたものだと言っていたが、つけ加えるなら、琴ケ浜は廻しを切るだけでなく、廻しを取らせない名人でもあって、相手が上手から手を伸ばして取りに来るのを嫌って腰を振って取らせない。つい相手が焦って半歩足を踏み出す一瞬、内掛け一閃で仕留めるのが名人芸だった。密林の枝の上から獲物を狙う黒豹に譬えられたものだった。琴ケ浜は別格としても、いまの相撲は相手が廻しを取りに来るのを「嫌う」ということをせず、簡単に取らせてしまう。だから攻防にコクがない。

もうひとつ、今場所は何番か、吊り出しで決まった勝負があったが、見ていると、吊られた側がろくに抵抗もせずに大人しく吊り出されている。嘉風のような相当の相撲巧者でさえ、そうだったが、昔は、吊られると足をバタバタさせて抵抗したものだったと思う。必然、相手は吊り切れなくなって下に降ろすことになる。アナウンサーも、単に「攻防があったからよかったですねー」などと決まり文句を繰り返していないで、もう少し、技の中身まで踏み込んでもらいたい。

もうひとつ。かつて朝青龍が勝ち誇ったポーズを取るのを大分非難されたものだったが、それをいうなら、近頃、負けた力士がまだ礼を済ませない内にいかにも未練げな態度を露骨に見せるケースをかなり見かけるが、そのことについての指摘があまりないのは不思議である。「勝って奢らず」の対句は「負けてこだわらず」ではなかったか。○○あたり、目に余ることがしばしばある。

随談第370回 新派『日本橋』

じつはもっと早くに出すつもりで途中まで書きかけていたのだが、何かと隙取って明日が楽日ということになってしまった。またしても効かぬ辛子と出遅れた幽霊のような話だが、せっかく書きかけたものなので、前後を足して掲げることにしたい。

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昨年十月の『滝の白糸』に続く三越劇場の新派公演。この前は春猿が滝の白糸を演じたが、今度は段治郎が葛木晋三をつとめる。猿之助軍団でのユニークなキャラクターを持つ二人を、新派に取り組ませるというのは、誰が考えたのか、興行上のなかなかの名案という以上に、新派にとっても、当のご本人たちにとっても、もっと深長な意味をもつことになりそうである。

段治郎という役者は、ちょっと見にはうまいのだか拙いのだかわからないようなところのある人だが、それがこの葛木のような新派の二枚目によく映る。そもそも新派の二枚目役というのは、うまいのだか下手なのだかわからないような人が、ちょうどうまくはまるところがある。というより、巧さが先に立つようではいけないのであって、実は巧いか拙いかとは別の話なのだと思うが(これはかつての映画の二枚目というのもそうだった。つまり昭和20年代までの映画というのは現代劇といえども、歌舞伎以来の「二枚目」という役柄の上に成立していたからである。「性格俳優」なるものが持て囃されるようになってから、二枚目スター大根説という「迷信」が、定着するようになったのだ、というのが私の考えなのだが、これはまた他日の論ということにしよう)、つまり新派の二枚目というのは、歌舞伎の辛抱立役を近代化したものと考えられる。歌舞伎の辛抱立役が、女のクドキをじっと聞いているとき、片方の膝、というより腿の上に両手を重ねて置いているが、新派の二枚目はほとんど無防備に両手をだらんとぶらさげている。つまりは、書生だからという新派風リアリズムなわけだが、『日本橋』の葛木晋三も例外ではない。

春猿も段治郎も、実はなかなか端倪すべからざる腕は持っているのだが、(今月、浅草公会堂で亀治郎の『黒手組助六』で白玉をやっている春猿は、ちょっとしたおススメである)歌舞伎役者としては、色がすこし原色的というか、テラテラしたところがある。和紙ではなく、アート紙色刷りみたいで、彼らだけでやっているときならともかく、大歌舞伎一同の間に入るとそれがわかる。ところが新派だと、全くではないにしても、あまりそれが気にならない。美男美女ぶりも、新派の方がうつりがいい。少なくともこの路線、しばらく続けてみることだ。段治郎は、たとえば謳い上げるセリフなど、歌舞伎の名調子を張らないで、よく考えているのがわかる。

この芝居は、清葉とお孝と、二枚揃わないと作意が立たないのだが、清葉には高橋惠子が新派初出演で出ている。しっとりとした情感があり、しっかりしたセリフの言える人なので、明治の味、などということさえ言い出さなければ、違和感なく溶け込んでいて悪くない。しかしその分、お孝をやっている波乃久里子がかなり奮闘することになるわけで、本来なら清葉役者の波乃としては、むしろ自分の芝居ではないところで、ウンと踏ん張る芝居をして縁の下から舞台を支えているのがよくわかって面白い。新派役者として「本格」を身に附けた底力を発揮したというべきで、近頃、この人の実力をやや過小評価していたことに気がつかざるを得ない。こういう力技は、本来なら女形がしていたわけだが、そこを女優がすることの面白さがある。やはりこの人は、大した「女役者」なのだ。

その他、安井昌二が巡査をやったり(これは本来なら「ご馳走」であろう)、大小さまざまの脇の役々を新旧各世代の新派の連中がつとめているのを見ると、何といってもここには、ゆるぎのないひとつの世界があることを、改めて実感させられる。腐っても鯛、というのは本来ほめことばではないのかも知れないが、どっこい生きているという意味で、まぎれもないプロフェッショナルの集団がここにこうして健在であることを、せめてこの場でなりと訴えたい。このひとたちの実力を、今の世はもっと知るべきである。

随談第369回 春の嵐=富十郎逝去

中村富十郎の訃は、四日の早朝、まだ寝床にいる内に、共同通信社からの追悼文依頼の電話で知らされた。まったくの不意打ちだった。前日、浅草の若手歌舞伎を見、その日は新橋演舞場を見る予定で、そもそも夜の部の『寿式三番叟』で富十郎の翁を見るつもりでいたのだった。休演の報すら知らなかったのだから、仰天するしかない。(咄嗟に考えたのは、前日の舞台で倒れでもしたのか、ということだった。)そのまま劇場に行き、今度は『日経』に翌日の朝刊に載せる追悼文を、幕間ごとに書き継ぎ書き上げ、夜の部の幕間に校正をするという離れ業を初体験した。夜の部の『三番叟』の幕が開き、鷹之資が附千歳の役で、翁の梅玉・千歳の魁春・三番叟の三津五郎と一緒にせり上がってきたときは、何とも表現の仕様がない空気が場内に流れた。前日のこの時刻、富十郎はまだこの世の人だったのだからまだ一昼夜も経っていないのだ。鷹之資にとってはもちろんだが、われわれにしても、生涯忘れることのない体験である。

というわけで、ちゃんとした追悼文は二紙に二種類書いたから、ここではそういうのではない、追悼文の如きもの、を書くことにする。

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富十郎などの世代だと、まだ若手といわれていた時代から知っているから、前時代の大家たちに対するのとはまた違い、その活動のかなりの部分を見ているという親近感のようなものがある。といっても、「扇鶴」と呼ばれた関西時代は知らないから、坂東鶴之助というハリハリしたセリフを言う役者を親しく見た最初は、むしろ映画でだった。昭和二十九年、白鸚の幸四郎が大石になった松竹映画の大作『忠臣蔵』で、矢頭右衛門七をやっていたのを見たのが最初で、その後、映画製作を再開したばかりの日活で『若様侍捕物帖』などをやっていた。新珠三千代の妹で桂典子という、細面の姉と違って顔幅の広い女優が相手役だった。(つまり後の東映版での橋蔵と星美智子の関係である)。ところがこの鶴之助のセリフというのが、映画のセリフとしては息が詰んでいすぎるものだから、どうも座りがよくない。釣をしている若様に、「あら若様、何を釣ってるの?」と桂典子が訊くと、鶴之助若様が「鮒だよ。鯉(恋)も釣れるよ」と答える。富十郎独特の、トーンの高いよく粒立った早口で、弥太五郎源七なり、青果の『慶喜命乞』の山岡のセリフなりを思い浮かべてもらうと、すこーし、わかっていただけるかもしれない。普通の映画俳優が「鯉だよ」を「♪♪♪」というぐらいの感じで言うとすると、鶴之助はそれを三連音譜ぐらいの速さで言ってしまうのだ。当時の時代劇映画の観客などというものは、こんなセリフの言い方には慣れていないから、要するに鶴之助は映画俳優としては失敗だった。(三代目時蔵が錦之助の映画に出演して、舞台の調子でセリフを言ったら、千恵蔵はじめ居並ぶ映画人たちがシーンとしてしまったという話がある。)

坂東鶴之助から市村竹之丞になって、三転して中村富十郎になる。これがたとえば、新之助から海老蔵、団十郎になるようなのと違って、まったく系統立っていないところに、富十郎という人の波乱万丈の役者人生が象徴的に現れている。とりわけ竹之丞襲名は、いまの田之助が由次郎から田之助になるのと同時襲名で、これが羽左衛門の忌譚に触れて物議を醸したりするのだが、それからしばらく、この二人と、いまの猿之助と訥升といっていたのちの九代目宗十郎と四人で組んで、東横ホールや当時の古い新橋演舞場やで芝居をしていた頃が、一番なつかしい。この四人がみんなはみ出し組と見做されて、当時中国で羽振りのよかった紅青女史らのグループにひっかけて「四人組」などと異名をつけられた。竹之丞と猿之助が昼夜で弁慶と富樫を交替し、訥升と田之助が昼夜で義経を替る『勧進帳』などというのもあった。中でもこの四人組でやった『夏祭浪花鑑』の通しは、その後見たどの『夏祭』にもまさって忘れがたい。(八代目團蔵がやった三婦が、いかにも街のすがれた老侠客の凄味があった。この人はこの翌年、瀬戸内海で入水したのだった。)それにしてもこの四人が、「谷間の世代」と呼ばれたその後の長い長い冬の季節を、それぞれ如何に通り抜けたか、考えれば四者四様、じつに面白い。

昭和五52年11月の歌舞伎座と中座に東西の全歌舞伎俳優が結集して同時上演した東西忠臣蔵のとき、富十郎は借金返済のため美空ひばりの芝居に客演していて、そこから駆けつけて十一段目の討入りの小林平八郎一役、二十歳を過ぎたばかりの勘九郎を相手に壮絶な立ち回りを演じた。鬱憤を晴らすかのようだった。勘九郎も実に見事に対抗し、これを見た目には、その後誰のを見たって物足りなくて仕方がない。(この二人は「石橋」で二百何十回だか、毛を振ったこともある。)

どれも昭和五十年代だが、矢車会の第一回で演じた『勧進帳』、国立劇場の舞踊の会で踊った『娘道成寺』『鏡獅子』。ただ一日だけの公演に根限り演じたその凄さは、他の誰のとも比較が出来ない。おそらく、それぞれのその一回限りに、富十郎は賭けていたのだと思う。自分の持てる芸を、アピールしようという強い決意が読み取れた。そうしてそれが、富十郎此処に在り、を見事に証明して見せたのだ。これだけのものを放って置くとすれば、それは悪意としか言い様がない、と私もまだ若かったから本気で思ったものだった。いや、その通り書いた。読んだ人は千人もいなかろう小さな場だったが、当の富十郎から思いもかけず封書が届いた。まだ一面識もない頃である。歌舞伎座に近い某ホテルの名前の入った便箋と封筒だった。その頃富十郎は、住む家を失ってホテル住まいをしていたのだった。とにかく良い芸をして見る人に喜びを感じてもらう、それが自分にとっての喜びである、という意味のことが書いてあった。富十郎の心の悲しみの深さを、私は知ったような気がした。

あの頃のことを、私はいまも、ふと思い出す。舞台の富十郎の思い出は尽きないが、人間富十郎の思い出といえば、それに尽きる。芸で、芸の力だけで、富十郎は生き抜いたのだ。すぐれた役者はさまざまあるが、天才、といえるのは、この人であったと思う。