随談第360回 「チャンバラ節」考 (修正版)

このHPの「お知らせ」の欄にも紹介しておいたが、この程、森話社というユニークな良書を出している出版社から、『映画のなかの古典芸能』という本が出た。というと何だか他人事のようだが、神山彰・児玉竜一ご両所の編集により、いわば講座形式のテーマごとの分担執筆で、かく言う私も一枚噛んでいる。「日本映画史叢書」全13巻という大きな企画の最終巻で、この卷は題名通り、古典芸能がいろいろな形で映画と関わり合う、その諸相をさまざまな面から述べるというもので、私にお鉢の回ってきたテーマは「映画音楽と純邦楽」というのだった。

こういう場合、大抵は、与えられたテーマについてトータルな観点から抜かりなく通観するというのが普通のようだが、下手をすると、ああいうのもあるこういうのもある、と羅列して読者を退屈させるだけに終りかねない。はじめに編集の意図を聞いたとき、ふと閃いたのが、小学生のころラジオからしきりに流れてきた、久保幸江という当時大人気だった歌手の歌う『チャンバラ節』という歌だった。

久保幸江というのは、日本髪の芸者のお座敷姿で拍子良く歌ういわゆる日本調歌手だが、まつげの長い目に赤々と塗った口紅がちょっとバタ臭い印象だった。小唄勝太郎とか赤坂小梅とか市丸といった、戦前から戦後まで息長く活躍した「本格派」とは違う、リズミカルで戦後の匂いが芬々としたところに特徴があり、その分、歌手としての寿命は短くとも戦後という一時代を語る上で抜かすことのできない、その意味で忘れがたい歌手だったといえる。『チャンバラ節』のはやったのは昭和二十七年だが、その前年に歌った『炭坑節』がまさに一世を風靡するものだった。朝鮮戦争を背景にした軍需景気のシンボル、というのが定説となっている。「月が出た出た、月が出た。三池炭鉱の上に出た、あんまり煙突が高いので、さぞやお月さん煙たかろ」という歌詞を知らない小学生は当時いなかったろう。『トンコ節』、続けて出した『ヤットン節』というのは曲名からみても明らかな、二匹目の泥鰌を狙ったものだが、『野球拳』というのがもうひとつの大ヒットだった。つまりお座敷で酔客と戯れるための歌で、「野球するならこういう具合にしやしゃんせ、投げたならこう打って、打ったならこう受けて、ランナーになったらエッサッサ。アウト、セーフ、ヨヨイのヨイ」といって拳を打つのである。昭和三十年正月、片岡千恵蔵が多羅尾伴内になる『隼の魔王』という東映映画で、久保幸江が芸者の役で特別出演して、千恵蔵扮する多羅尾伴内七変化の内のまん丸眼鏡のおっさんの役と野球拳をする場面を覚えている。

『チャンバラ節』は、当時ヒット続きだった久保幸江としては、ONE OF THEM という程度のヒット曲であったのかも知れないが、しかしわれわれそのころの小学生としては、ラジオを通じて自然に耳に入り、おのずから覚えてしまった歌だった。「むーかし侍さんが本気になってチャンバラしーた、いまじゃ女が派手にチャンチャンばらばら、男はかーなわないよ」云々という歌詞を、あの「千鳥」の合方のメロディでリズミカルに歌うのである。歌舞伎の『俊寛』で、沖から赦免の船が海原を渡ってくるところとか、俊寛と瀬尾が切り結ぶ場面など、一幕中、ふんだんに下座の黒御簾から聞こえてくる、歌舞伎好きならだれでも知っているあの曲である。何故『チャンバラ節』のメロディが「千鳥」の合方かというと、かつてサイレント映画の時代、チャンバラ、つまり立ち回りの場面になると、楽隊(これを下座と称したらしい)が和洋合奏で「千鳥」の合方を伴奏として弾いたからで、『勧進帳』の「延年」などとともに、歌舞伎から出て映画にもちこまれた「邦楽」の代表だったわけだが、さてそれから先は、どうぞ本を読んで下さい。

題して『チャンバラ節考』。木下恵介監督の『楢山節考』など、大家巨匠の手になる芸術映画には、文楽や能その他、それこそ「純」邦楽がさまざまな意匠の下に使われているが、そういうものよりも、職人型監督が量産し、ジャリやらミーハーやら、映画ファン一般が、毎週々々新作が封切られるたびにまるで使い捨てるように見ていた、俗に言うプログラム・ピクチャーの方が、いまの私にはこよなくなつかしいし、また振り返ってみるだけの意味があるような気がする。ちなみに『チャンバラ節』は、『花嫁花婿チャンバラ節』という、デビュー間もない若き日の若尾文子の出演する、何とも安手で安直な映画の主題歌だった。『楢山節考』より『チャンバラ節考』というわけである。

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随談第359回 初代若乃花のこと(その3)

前回の最後に、若乃花にはヒールの面影を秘めていたと書いたが、そのことについてもう少し説明をしておく必要がある。「面影を秘めている」と言ったのは、当然ながら、ストレートな意味でのヒールという意味ではない。正統に対する異端、与党に対する野党、マジメに対する笑い、洗練に対する野生・・・この随談の332回と333回にも書いたことだが、そうした、ある種の異種の趣きを持っていたところに、魅力と真価があった。

引退後しばらく、NHKの相撲中継の解説をしたことがあったが、実におもしろかった。当時の解説者といえば、神風正一、玉の海梅吉の二人が対照的な個性と語り口でよく知られていたが、そういう、いわば専業の解説者とは違う、ついこの間まで現場にいた人ならではの匂いが芬々とする解説だった。(現在、北の富士と舞の海以外、交代で解説に出る協会の親方連でひとりとして面白い解説をする人がいないのにうんざりするが、ああいうのとは、若乃花はまったく類を異にしていた。)

たとえば当時、大鵬は第一人者の地位に立ったばかりで、すでに記録の上では破天荒な数字を次々と積み重ねて無敵の境に入りつつあったが、相撲ぶりがどこかヤワで、慎重に過ぎて面白みに欠けるところがあった。何が足りないのか、というアナウンサーの問いに、若乃花は言下に、上手投げを覚えさせたいね、と答えた。相手を組みとめて、慎重に寄り切るだけでは、勝ちみが遅いし、相手を威圧する凄味がない。第一、見ていて面白くない。(事実、大鵬の相撲は面白くないという評判だった。)それを、上手投げを覚えさせたい、と具体的な一言をズバリと言う。専業的な解説者だと、こうはいかない。どうしても、もっと客観的に、抽象的になりがちだ。たしかに、大鵬が10秒かかって慎重に寄り切るところを、若乃花だったら、豪快な上手投げ一発で相手を土俵に叩きつけたに違いないのだ。

それを、ぶっきら棒の中に、一種の笑いをはらんだ口調で語る。真面目な中に、とぼけた、おのずからなるユーモアが漂う。そのころ、金田正一はまだ現役の真っ盛りだったが、国鉄スワローズという優勝に縁のないチームのエースだった金田は、日本シリーズなどになると解説者になってネット裏に坐る。ホラ、巨人の打者ってのは打席に入って考え込んでるから、必ずファーストストライクを取られるんですよ。ホラね、という具合である。具体的で、ストレートで、どこかすっとぼけていて、現場の匂いが芬々とする。それで気がついた。若乃花と金田って、どこか似ているんだ。しゃべり方だけではない。どこか、人間として、共通するものがあるに違いない。つまりそれが、ヒールの面影、というわけである。

若乃花が死んだ翌日のテレビで、北野武氏が、しゃべり方が野球の金田正一氏に似ていた、と言っているのを聞いたとき、アッと思ったのはそういうわけである。さすがだ、と思った。

その金田が晩年、巨人に入り、若乃花は栃錦の春日野の後を継いで相撲協会の理事長になった。異端が正統の場所に坐った。もちろん、それからだって、ふたりの業績は立派である。(訃報のニュースの中で流した映像の中に、甥のおにいちゃんの若ノ花に、背広姿の若乃花が、仕切りというのはこうやるんだと言いながら手本を示す場面があったが、ほんの一瞬、背広姿でありながら、目を瞠るような素晴らしい仕切りだった。)退職に当って自分の部屋を貴乃花の部屋と合流させたので、双子山部屋が膨大な勢力になってしまったとき、梅原猛さんが、栃錦を聖徳太子に、若乃花を藤原不比等に譬えたことがあった。栃錦は清貧を貫いて協会の繁栄のために尽くしたが、自分の部屋の隆盛のためには欲に欠けるところがあった。若乃花は、協会のためにも尽したが、一門の隆盛にも一倍貪欲だった、というのである。なるほど、と思わないでもない。

前々回に、栃錦には戦前の古き良き時代の相撲のムードがあったが、若乃花はまったくの戦後派であると書いた。戦前に入門した栃錦と、終戦直後に入門した若乃花には、否定できない世代と時代の違いがあったと思う。栃錦の師匠の当時の春日野親方というのは大正時代の名横綱の栃木山で、人格者で、相撲以外には欲というもののまったくない人であったらしい。尊敬はされて協会の理事にはなったが、理事長になるようなタイプではなかった。(何となく私は、踊りの神様といわれた七代目三津五郎と重ね合わせてイメージしている。)一方、若乃花の師匠の大ノ海という人は、自身は平幕で終ったが才覚をもって部屋を起こし、若乃花を育てて一代を築いた人である。(戦後の二所ノ関部屋は、大ノ海は若乃花を、琴錦は琴ヶ浜を、という風に、現役の内から子飼いの弟子を持って、引退すると独立して部屋を起こした。そうでない人は、力道山や神風のように、自分で廃業してしまった。部屋の方針というより、そうせざるを得ない事情だったのだ。)

若乃花が「土俵の鬼」と呼ばれるようになったのは、横綱目前の大関時代、幼いわが子を、ちゃんこ鍋の熱湯を浴びるという不慮の事故で亡くす悲運を押して、土俵をつとめたことからだが、栃錦が「マムシ」と呼ばれたのは、まだ幕下時代の若い頃の稽古ぶりを見た六代目菊五郎が、そのしぶとさに、マムシのような奴だといって目をかけてやるようになったのが始まりと聞いている。少なくとも、今度の報道にも見られた「土俵の鬼とマムシ」という対比の仕方は、あまり適切なものとは言いがたい。

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随談第358回 初代若乃花のこと(その2)

前回、栃若というのは群雄割拠の中から登場し、独自の道を切り開いたのだという話をしたが、報道を見ていると、人気低迷の時代にふたりが登場し大相撲隆盛時代を築いた、という風な言い方をしているのに、ちょっとひっかかる。たしかに、栃若末期から柏鵬前期時代の昭和三十年代半ばが、相撲人気の絶頂で、六場所制が始まり、NHKだけではなく民放各社も加わって、どのチャンネルに回しても相撲中継をしていたほどだったのは事実だが、だからといってそれまでを低迷時代と決めつけるのは事実を知らな過ぎる。

戦前派の羽黒山と照国が引退したのは共に昭和二十八年で、羽黒山は終戦直後の二十二年前後に全盛時代を迎え、その後二回にわたってアキレス腱切断という事故のために後半生は群雄のひとりになってしまったが、同部屋故に双葉山とは顔が合わなかったがもし対戦したらむしろ羽黒の方がまさったのではないかと囁かれ、本来なら20年代はこの人の時代だったろうと言われる強豪だった。照国は桃色の音楽となぞらえられた美しい超アンコ型の相撲巧者で、優勝回数こそ少ないがその相撲振りと風格は名横綱列伝に加えるべき名力士だった。つまりこの二人は、終戦直後の混乱期、大相撲などどうなってしまうかも分らない苦難の時代を支えた大功労者である。両国の国技館が進駐軍に取られてメモリアルホールと名を変えてしまい、本拠を失った相撲は神宮外苑相撲場(いまの第二球場のところにあった屋外の相撲場で、小学一年生の私はそこで羽黒山と照国の両横綱や、新進気鋭の東富士や千代の山を見た)や、浜町公園に仮設の国技館を仮普請で作って興行していた時代である。

そこへ台頭した東富士、千代の山、やや遅れて吉葉山、鏡里たちもみな相当の強豪で、吉葉山などは後世のオタク研究家が記録だけで調べるとダメ横綱列伝の中に入ってしまいかねないが、大関時代の強さというものは大変なものだった。昭和二十六年秋、東富士が高熱を押して対戦、水入り取り直しを繰り返し、遂に勝負預かりとなった東富士・吉葉山戦の熱狂などというものは、後世に語り伝えらるべき名勝負である。こういう事実が、マスコミの紋切り型の報道のために埋もれ去ってしまうどころか、存在しなかったも同然になってゆく。語り伝えられるべき「記憶」も、語るべき場と耳を傾けてくれる聞き手を得ることの難しさゆえに、空しく埋蔵され、やがて消えてゆくのだ。この時代に、蔵前に仮設の国技館が出来、数年がかりで本普請の蔵前国技館が完成する。大阪でも本場所を開くようになって三場所制になるという復興時代である。『三太と千代の山』に出てくるのはこの蔵前仮設国技館である。低迷の時代に、映画会社がこんな映画を作っただろうか?

繰り返す。そうした状況の中に、まず栃錦が、ついで若乃花が、小兵で異色の強豪として存在をアピールしていったのだ。その痛快さが、栃若神話の根元である。(もっともこの当時、小兵はこの二人だけではなく、鳴門海、信夫山など80キロ、90キロ台の好力士は少なくない。鳴戸海などは二十一貫五百目、というから80キロかすかす、それで150キロの横綱鏡里に三連勝したのだ。この当時、幕内力士の平均が身長は180センチに足らず、体重も30貫(112キロ)に届かなかったろう。)

さてここらで、栃若の世代差の問題に話を戻すと、ここで無視できないのが、テレビという問題である。テレビの相撲中継は、テレビ放送の開始とほぼ同時、昭和二十八年に始まっているが、当時は近所のラジオ屋(という言葉があった)の店先で宣伝とサービスを兼ねて映していたり、駅前広場などに受像機を設置して放映していたりするのを、放送時間が来るとわざわざ見に行ったもので、よく言われる、皇太子ご成婚を機に各家庭に受像機が普及したのが昭和34年、視聴者の数も飛躍的に増加したという通説に従うなら、まさしく、栃若時代後期とドンピシャリである。十年に及ぶ栃若の対戦は、前半は栃錦優勢、後半若乃花優勢となるが、昭和33年初場所、水入り取り直し後、立会い一瞬の小手投げで若乃花が勝って優勝、横綱昇進を決定的にした一番が分水嶺であったと私は考えている。これまた、テレビ受像機普及とほぼ足並みを揃えているのである。(この一番を私は、近所のラジオ屋の前に集まった黒山のような群集の中で見た。勝負が決まって散り始める群衆の中で鼻を突き合わせた、若乃花ファンに相違ない、満面をにこにこさせている五十年配のサラリーマンらしい紳士の顔をいまも覚えている。)つまり、テレビで相撲をはじめて見、その面白さを知るようになった人々にとって、そこにいた一番新しい英雄が若乃花だったのだ。

それで思い出すのは、あるとき、世代の違うある人物と相撲談義をしていると、その男にとっては、若乃花が正統派で、栃錦はその前に立ちはだかる敵役というイメージであることを知って、世代によって認識にこうも違いのできるものかと驚いたことがある。どちらがいいの、悪いのの話ではない。私にとっては当然のようにオーソドクシイは栃錦にあり、若乃花は異端としての魅力に輝く存在と思っていたからだ。(先に言った、異能力士という若乃花観を思い出していただきたい。)

たまたま今日、テレビで北野武氏(というべきか、ビートたけし氏というべきか)が、若乃花の思い出として、若乃花は喋り方が野球の金田正一氏とよく似ていた、と語っているのを聞いて膝を打った。まさしく同感、引退後まもなく、NHKに解説者として登場したときからそう思っていた。北野氏もたぶん、そうに違いない。つまりどこかにヒールの面影を秘めていたところに、若乃花はその魅力の真骨頂があるのである。(まだつづく)

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随談第357回 初代若乃花のこと

若乃花といえば、私にとっては「初代」とわざわざ断わるまでもなく、「あの若乃花」しかいない。あれだけ激しい稽古と相撲振りで鍛え上げた人であるにも拘らず八十二歳という長寿に達したのは、本質的に強靭な身体だったのと、やはり時代の違いだろう。横綱で還暦過ぎまで永らえた人は珍しいというのが、今日でもまだ生きている世界である。

思い出は尽きないが、それよりむしろ、その死を伝えるマスコミの報道に、間違いというわけではないが、やはり往時を知らない人が調べて書いていることから来る違和感を多々覚えざるを得ないので、それを私なりに正しながら、思い出すことどもを語ってみることにしよう。

テレビのニュースやワイドショーを見て今更ながら痛感するのは、余儀ないこととはいえ、若乃花の土俵ぶりを実際に知っている司会者がほとんどいない、いたとしてもいわゆる栃若時代の末期を知っているのがせいぜいらしいということである。つまり、若乃花が横綱に昇進した昭和33年辺りが、新聞を含めマスコミの現役世代の知識の上限であるようだ。

「栃若時代」は短かった、という。それはまあ、定義の仕方の問題でもあるから、そういう見方も分らないではないが、しかしそれは、十年にわたるふたりの対戦の最後の三年かそこらでしかない。つまり、二人が横綱同士で対戦した期間は、栃錦の晩年の三年弱に過ぎないということである。どうしてそういうことになるのかといえば、まず二人の実年齢とそれ以上に土俵経歴に、かなり大きな食い違いがあるからで、ここを見ないと本当のことは見えてこない。

栃錦は大正生まれ最後の横綱であり、若乃花は昭和生まれ最初の横綱である。戦争と戦後という時代背景を考えると、これは年齢差以上に世代の違いとして現れる。栃錦の入門は昭和14年(ちょうどその一月場所の4日目、双葉山が70連勝目に安芸ノ海に負けた日だったという)、若乃花は戦後の昭和二十一年である。つまり土俵経歴に七年の差があるが、同時に、栃錦は戦中の相撲黄金時代と軍隊生活を体験しているが、若乃花はそれを知らない。「古き良き時代」を知る者のムードが栃錦の土俵には漂っていたが、若乃花の土俵ぶりはいかにも戦後派のそれだった。これは是非善悪とは別の問題として、見る側の受け止め方に関わってくる。

第二に、ふたりははじめ、割拠する群雄の一人として頭角を現し、悪戦苦闘しながら周囲を切り平らげて頂点に立った存在だということである。相撲は個人競技だから誰だってそうではないか、というのとは、ちょっと意味が違う。たとえば柏鵬は、すでに幕下時代に頭角を現し、入幕したときは既にスターだった。大鵬の納谷、柏戸の富樫は幕下時分からすでに知名人だった。同様に、栃若以前のスターといえば千代の山だが、この人は栃錦より後に入門し、杉村といった幕下時代から大器と騒がれたちまち追い抜いて入幕し、横綱まで駆け上がった。この前書いた『三太と千代の山』という映画は、その千代の山の新横綱当時の颯爽たる英姿の記念碑なのである。あの映画の中に出てくる、小結か関脇と思われる栃錦は、千代の山に次ぐスターとして、知らない人が見たらいわば弟分のような存在のような扱いになっているが、実は、実年齢はともかく土俵経歴からいけば栃錦の方が古参なのだ。栃錦が注目され出したのはちょうどあの映画に撮られた小結時分からで、それも技能賞を毎場所独占するからで、大関になる力士とは思われていなかった。

若乃花は、その栃錦の更に後から、小兵だが目立つ存在として追いついてきた力士で、やはり大関になるような存在とは思われていなかった。彦山光三という、その当時の相撲評論の権威が「異能力士」と呼び出したのはそれから間もなくの28、9年頃からで、大物食いだが同等以下に星を落すので、星勘定はあまりぱっとしないのをそう呼んだのだった。しかしその昭和28、9年、栃が大関で若が小結から関脇頃の両者の対戦が、栃若戦としては一番白熱して面白かったのではないだろうか。栃錦の元結が切れてざんばら髪となり、水が入ったとき紙縒りか何かで束ねている映像が残っているはずだ。

当時は、羽黒山・照国という戦前に既に横綱だった老雄がまだ頑張っており、戦後まもなくに台頭した東富士に千代の山、その後から出た鏡里、吉葉山といったところが横綱大関の強豪、うしろからは大内山や朝汐などの巨漢力士も追い上げてくる、栃若はそういうところへ肉薄し、苦闘しながら切りなびき切り従えて、独自の道を切り開いていったのだ。40貫、150キロ、あるいは6尺4、5寸、2メートル近い強豪連の間へ、はじめは80キロ台、後にもせいぜい百キロちょっとという身体で切り込み、切り開いたから、それが強烈な印象となって焼きついたのだ。これが栃若前期、この群雄時代の颯爽さが原点である。(続く)

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随談第356回 ささやかな収穫(続):再会『笛吹童子』

前回書き切れなかった話題をもうちょっと続ける。

『とび助漫遊記』も『三太と千代の山』もそうだったが、同じ神保町シアターの特集「昭和の子どもたち」の中に、『笛吹童子』三部作が入っていた。録画したビデオは持っているが、映画はやはり映画館のスクリーンに映写してこそ醍醐味がある。この機会を逃してはいつまた再会できるやら、幸い日程の折り合いがついたので見に行った。映画館で見るのは、リアルタイムのとき以来五十六年ぶりの再会である。もっともリアルタイムといっても、封切館ではなく、東上線の北池袋駅の線路際にあった北映座という三番館で三本立ての一本として見たのだった。

三番館というのは、封切館で一週間、二番館で一週間上映した後、つまり二週遅れで見せる館のことで、この北映座は二週遅れの東映作品の他に、松竹と東宝のやはり二、三週遅れの作と三本立てでお安い料金で見せるという館だった。『笛吹童子』はもともと二本立て用の添え物で、一回が四、五〇分の短尺物の三部作だったから、三週間続けて見に行くことになる。商魂逞しいジャリ向け作品、と当時の映画ジャーナリズムから嘲笑されたものだった。ジャリとは、小人料金で見る小中学生のことである。いわば薄利多売のこの商法は東映が先鞭をつけたもので、『里見八犬伝』が五部作、『紅孔雀』も五部作だった。つまり、ジャリどもは30円だったかの小人料金を三週間なり五週間なり、払い続けてくれるわけだ。錦之助・千代之介というのは、つまりそういう作品用のスターとして売り出したのである。

さて、五十六年ぶりに見る『笛吹童子』は素晴らしかった。もちろん、映画としての作りはチャチなものである。原作は毎日十五分づつ、一年間連続したラジオドラマ(当時は放送劇という言い方の方が普通だった。当時は当然のこととして生放送、声優たちはそのつど、マイクの前で演じたのだ)で、さらに作者がそれを小説に書き直したものを基にしているので、その記憶がまだ新しかった当時は、ストーリイからいうと映画は何だか簡略版みたいな気がして実はちょっと味気ない気もしないでもなかったものだが、半世紀の余も距てた今は、むしろ映画として独立して見ることが出来る。チャチな中にも、今の世に希薄になってしまった浪漫な味が結構あって、それが、そこはかとない感動をそそる。原作者の北村寿夫は放送作家として鳴らした人だが、元は小山内薫門下のドラマチストであり、子供向けの作なればこそ自身の内なる浪漫の夢を前面に押し出すことができたのだ。監督の萩原遼は、元は例の鳴滝組のメンバーで、リーダーの山中貞雄が死んだ時に追悼作品を撮ったという経歴をもっている。チャチなジャリ向けの作品にも、随所に捨てがたい味わいを見せる。それに、あの福田蘭童作曲のあまりにも有名な主題歌。これはやはり名曲に違いない。だがこうしたことは、当時の「良心的な」大人の映画ジャーナリズムは一笑に付してろくすっぽ見ようともしなかったのだ。

それにしても、床下の落とし穴だの、肉付きの面だの、蔓草を編んだ吊り橋だの、蜘蛛の糸の妖術だの、名笛の威力で荒れ海が治まるといった、怪奇ロマンの古典的な手法がふんだんに盛り込まれているのを見るだけでも価値がある。前回書いた『エノケンの飛助冒険旅行』でも、一ツ家の鬼女だのお化けきのこなどの手法がふんだんに盛り込まれていた。まさしくこういうことは、学校では教えてくれない貴重な、民間伝承ともいえる知識なのだ。そういえば、第二部第三部の冒頭に前回までの粗筋を説明するナレーションの、「今を去ること五百年のむかし」とか「そのとき一天俄かに掻き曇り」といった常套的フレーズも、私はじつはこの映画で覚えたのだった。(学校の作文の授業ではこういう言葉は教えてくれない。)

役者もいい。錦之助はデビュウ二年目だが、こういう秀麗な美しさを具えた役者は以後決して現われなかったばかりか、錦之助自身からも、『宮本武蔵』あたりを最後にして見られなくなってしまった稀有なものであったことが、改めてわかる。大友柳太朗も、このころはまだ暗い翳があって、霧の小次郎という足利将軍の落し胤にして妖術使いという役にふさわしいし、高千穂ひづるも田代百合子も、その一番いいものがここに表われている。松浦築枝という老女役の女優は東映のトップ監督だった松田定次夫人だが、品のある長い顔は、いまはもう歌舞伎界にも、吉之丞を例外として見られなくなってしまったような、古典的ないい顔をしている。

三部作を一気に上映してほぼ二時間半。往年のジャリファンが六十代・七十代となってほぼ満席の客席から、終了とともに拍手が起こった。拍手をしなかった人も、思わず共感の微笑をうかべている。

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