随談第335回 相撲騒動(その4)

相撲談義がずいぶん長々と続いてしまった。世の中はもう朝青龍のことなど忘れたように、オリンピックで明け暮れている。出遅れているうちに丑三つ時はおろか、夜が明けてしまった幽霊のような気分だが、ここまで続けた以上、もう一回だけ書くことにする。

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ところで相撲協会のことだが、江戸の勧進相撲の昔はともかく、明治この方だけを考えても、全員が引退したOBだけでひとつの組織をつくり、運営してきた集団というのは、考えてみればきわめてユニークといわねばなるまい。ギルド制度が今なお存続しているようなものかもしれないが、プロ野球は、選手出身者で球団やプロ野球機構にたずさわる者は、ほんの例外でしかない。(だから、たかが選手の癖に、などという経営者が現われたりすることにもなる。)プロ野球の欠点を研究して結成したJリーグは、その点うまくやっているようにも見えるが、往年の人気力士がいまは木戸係りになって切符もぎりをしてくれる、などというユーモラスでほほえましい光景は、大相撲だけだろう。

このところの不祥事に対して、することなすことが裏目裏目に出るものだから、中には愚者の集団のような言い方をする向きもあるが、明治維新この方百数十年という激動の時代を現代まで乗り切ってきたのだから、考えればただごとではない。(本当に愚者の集団だったら、とっくの昔につぶれていた筈ではなかろうか?)面白いといえば、朝青龍のサッカー事件のときだったか、当時の北の湖理事長が二言目には、協会より先に各部屋の責任ということを言ったが、協会と各部屋の関係というのは、徳川幕府と各藩の関係に似ているように見える。理事長というのは、連邦共和国の大統領みたいでもある。それはそれで、経験から割り出された方式なのだろうから、うまく機能しさえすれば、味のあるやり方のような気もするが、どうなのだろう? 少なくとも、高校・大学・実業団とアマチュア界で相当レベル以上の上澄みを掬い取って成立しているプロ野球やJリーグに対し、基本的には無から修行を始める大相撲は、おのずから組織の構造が違うのだということである。つまり擬似家庭であり学校でもあるわけで、だからこそ言葉本来の字義通り「親方」が存在するのだ。

もっとも、やれ大麻汚染だ外国人横綱の暴力事件だと、これまで経験しなかった「外患」に次々に見舞われると、黒船渡来の折の徳川幕府みたいに、内向きの姿勢が目立って外への対応がいかにも拙い。しかし民主党だって某有名自動車メーカーだって、いざ外憂に見舞われるとつい内側にばかり気が回るという構図は、相撲協会と大して変わるところはない。その目で見れば、相撲協会のあり方は日本社会の縮図なのであって、ワイドショーでもっともらしく相撲協会批判をしているテレビ文化人諸氏だって、夫子自身が勤めている大学だの何だの、ご自分の職場に戻ったら、協会の理事たちとあまり違わないことを言ったりやったりしているのではないだろうか?

こう言ったからといって、昨今の協会のすることしたことをそのまま、支持するわけでも弁護するわけでもない。やはり改革は必要なのであって、時津風部屋の事件にひきつづいての大麻事件の時、外部理事制度を導入したが、もしあのとき外部理事を参画させていなかったら、今度の一件も、切り抜けられたかどうか疑わしい。しかし、民間企業だったら、とテレビ文化人がよく言うように、何でも民間企業と同じにするばかりが能でもないだろう。そもそも日本の民間企業って、そんなによく出来た組織なのだろうか? まして大学が?

それにしても、本場所休場中に戦後初のアメリカの野球チームの来日だったサンフランシスコ・シールズ(日本の野球が全然歯が立たず随分強いと思ったが、あれはじつはメジャーではなかったのだ!)の試合を見に行って(しかもオドール監督と握手までしたのだから、大胆不敵といおうか能天気と言おうか)、それが問題となって引退に追い込まれた前田山といい、横綱をやめてプロレスラーになった東富士といい、朝汐二代といい、高見山や小錦といい、そして朝青龍といい、高砂部屋というのは、良くも悪くも、ユニークな人材を輩出する部屋ではある。しかし良い方に働けば、それは進取の精神にもつながるのであって、かの前田山は理事になってから、協会として初のアメリカ遠征を企画し、それが高見山を発掘し外人力士を導入する契機を作ったのだった。また千代の山が九重部屋を起して出羽ノ海一門を破門になったとき、高砂一門へ迎え入れるという男気を見せたのもこの人だった。この人の全盛は戦前の大関時代で、猛烈な張り手で恐れられ、双葉山と羽黒山の二大強豪を同じ場所のうちに張り倒して物議を醸したという人である。誰かさんと似ていませんかね。

と、大分長話になったので、相撲談義はこのぐらいで打出しとしましょう。

随談第334回 相撲騒動(その3)

朝青龍騒動を伝える一連のテレビ報道の中で、女性記者に品格とはと訊かれた朝青龍が、ウームと少し考え込んでから、イヤよくわかんないんですよと答えている映像があった。今度の事件後ではなく、しばらく前のものであるらしく、食事をしながらの朝青龍の態度には、相手との信頼関係がある程度保たれている雰囲気が感じられ、それだけに朝青龍の神妙な顔つきが印象的な映像だった。(前にも書いたが、一連の朝青龍問題のかなりの要素は、報道関係とのねじれがしこりになっていたに違いないと私は見ている。少なくともそれが、世人の朝青龍批判を増幅していたことは間違いない。(それにしても、報道陣に対する朝青龍の態度や応答ぶりを見ていると、かの小沢一郎氏と共通するものをかなり発見するが(いや、逆か?)、人物観察の上から、これはなかなか興味深いテーマである。)

朝青龍でなくとも、(われわれだって)品格とは何ですかと訊かれてすらすら答えられないのは当然である。答えられたところで、そんな想定問答集の模範回答例みたいな答は屁にもなるまい。昔、西鉄ライオンズ全盛のころ、稲尾だ大下だ中西だといった猛者たちが、大酒に酔って海に飛び込んだり、大暴れをした翌日の試合にちゃんと勝ってしまったという話がある。すげえなあ、と誰しも微笑したくなるだろう。つまり、泥酔して翌日の勝負に勝つことは、ある条件さえ満たしていれば、非難の対象どころか、英雄伝説になるのである。ある条件とは、笑って許し、許されるだけの雅量と愛を、世人と当人と、双方がもつことができるかどうかだ。

野球の選手にしてその通り、いわんや天下の相撲取りに於いておや。お相撲さん、といういい言葉がある。お野球さんともおサッカーさんとも言わない。(最近は、力士さん、などという妙な言葉ができているらしいが。)常人とは違う、桁外れに大いなる者への愛と親しみ、そしてユーモア。国技とは何か、品格とは何かなどと御託を並べる隙に、思うべきはそれではないのか? 朝青龍にも、間違いなく、そうした愛すべきお相撲さんとしての要素はあったはずだ。相撲が国技というなら、野見宿禰や手力男の命以来の、日本人にとっての愛すべき英雄伝説をよしとするこころが、時を変え形をかえても、現代のわれわれの胸の奥に生きて棲み続けているからこその国技なのであって、後から作った格式や儀礼やなにやかやより、まずそのおおらかさこそが先にあるべきものだろう。

手力男の命といえば、『日本誕生』という映画に、当時の横綱の朝汐が手力男の役で特別出演したことがあったっけ。もちろん、朝青龍の親方のあの朝汐ではなく、そのもうひとつ前の、栃若と覇を争った、つまりほんとの朝汐である。その朝汐が、まさしく手力男の命の再来のような雄大なガカイに太い眉、堂々たる男ぶりにテンガロンハットだか何だかをかぶって街を行くのを、進駐軍の米兵が唖然として見上げているのを見て、ザマアミヤガレと溜飲を下げたと書いていたのは、野坂昭如だったか小沢昭一だったか。これぞ国技大相撲ではないか?

懸賞金の受取り方がどうのという非難があった。手刀を切るという仕種は、戦後しばらく中断されていた懸賞が復活したとき、忘れていたり、そもそも知らない戦後派力士が多かった中で、名寄岩という昔かたぎの力士が範を示して見せたのが、まもなく始まったテレビ中継を通じて知られるようになったのだった。しかしたとえば横綱の柏戸などは、厚さ十センチもあるような束をむんずと鷲掴みにしていたと思う。

千秋楽に是より三役となって、小結に叶う勝ち名乗りを上げる力士が弓の矢を受ける。栃錦だったか、正式のやり方を親方(当時の春日野親方、つまり、大正時代の名横綱栃木山である)に教わったのだが、間違うとみっともないからよしちゃった、と言っていたっけ。つまり、正式の作法というものがあるにせよ、それをきちんと知っていて、実行している者は、ごくわずかな一部の者なのだ。それでも、いいのである。

手刀の切り方の範を垂れた名寄岩という力士は、双葉山・羽黒山と立浪三羽烏と呼ばれた戦前派で、若いころ「怒り金時」という仇名があった。金太郎が顔を真っ赤にして怒っているような、真っ正直な頑固者だったのでついた仇名だった。れっきとした関取になってから、あるとき門限に遅れそのまま朝まで門外に立ち尽して開門を待ったという逸話の持主で、大関から数度陥落して平幕に落ちても四〇歳近くまで取り続けた一徹者として人気があった力士だが、見習うべきだと言ったってこんな人物は滅多にいるものではない。当時まだ劇作家だった池波正太郎が一代記を芝居に書いて、新国劇で上演したことがあった。つまり芝居になるほど、お相撲さんの中のお相撲さんだったのだ。(まだ続く)

随談第333回 相撲騒動(その2)

初代若乃花の話をもう少し続けよう。若乃花というとよく語られるのが、土俵の鬼と呼ばれた異名と、土俵の中に金が埋まっていると若い者に教えたという逸話だが、どちらも、この人がどんな相撲取りであったかを明快に語っている。朝青龍が引退会見で、土俵上のマナーのことに質問が向けられると、土俵に上がったら鬼になると答えたのと、土俵外での行状に何かと金の噂がつきまとうのとを、もちろん、短絡させるわけには行かないが、しかし両者の土俵人生を語る上でのキーワードが「鬼」と「金」であるというのは、おもしろい符合ではある。

初代若乃花が土俵の鬼と呼ばれるようになったのは、初優勝を目前にした大関時代、ぐらぐら煮立ったちゃんこ鍋の熱湯を全身に浴びるという悲惨な事故で幼い長男を亡くしながらなお、土俵を勤めたことからだったし、土俵に金が埋まっているという若い者への教えはもちろん比喩であって、その心を現代語訳するならハングリー精神と訳すべきだろう。

しかしその土俵上の闘魂と出世への意欲とを、土俵に金が埋まっていると表現する実に端的で明快な精神に、若乃花という人間像が鮮やかに浮かび上がる。巷間噂される朝青龍にまつわるマネーの問題とて、つきつめれば、ハングリーという一語に還元され得るに違いない。つまりそれは、相撲という「伝統芸能」の根底を支える根元に触れているのだ。

太宰治に、まだ戦前、国技館で大相撲を見物したときの小文があったはずだが、相撲を稚拙で貧しい民芸品だか何かになぞらえていたのではなかったか。当時は双葉山の全盛時代で、不敗の横綱が敗れて「我、いまだ木鶏たり得ず」と語ったのを、太宰は、横綱の語る箴言は哀しいと評している。当時、ようやく作家として遇されるようになった太宰が、新聞社かなにかから招待されて、往時の両国国技館の桟敷に座ったときの言である。太宰一流の気取ったポーズの陰に、鋭く本質を射抜く目が感じ取れる。

相撲を国技と呼んだのは板垣退助だと聞いたが、この言葉には、歌舞伎座を国劇の殿堂と呼ぶのと同じで、いかにも明治という時代の匂いが芬々とまつわりついている。太宰が直感的に感じ取ったのは、もっと土俗的な、それだけもっと古い民俗の層につらなる何かだろう。

横綱の品格というイメージを最初に作ったのは、明治の角聖といわれた常陸山という大横綱である。好敵手の二代目梅ヶ谷と「梅常陸」と呼ばれた相撲人気が、明治末という時代に国技館という巨大な建造物を建てさせたのだから、ここに今日の相撲につながるひとつの原点がある。つまり、「国技」とか「国技館」という言葉と、常陸山の示した横綱の「品格」とは、この時点で、二にして一なるものとして確立されたのだと見ていい。行司の装束が、足利時代の武家の風俗になったのもそれ以降で、つまり国技としての格式を整えたのだろう。梅常陸の時代までは、紋付に裃袴という江戸の勧進相撲以来の服装である。いまも神社やお寺の豆まきで見るあの姿だが、あれはつまり江戸時代の町人の正装である。

常陸山は、常に相手を受けて立ち、相手に充分に組ませてからおもむろに料理するのが横綱相撲だという、横綱の理想像を作り上げた。ところがこの常陸山が、あるとき大敵を破った誇らしさに、土俵の廻りを勝ち誇って一周したと言う話を、むかし何かの本で読んだ記憶がある。いまとなっては確証できないのが残念だが、事実としたら朝青龍のガッツポーズどころの話ではない。

その次に横綱の品格というイメージを作ったのは、双葉山である。写真で見ても剛勇という感じの常陸山に対し、静的で、一種宗教的で(いまここで蒸し返す必要はなかろうが、双葉山にある種の宗教への志向があったことは隠れもない戦後史の一事件に関わっている)、フィルムに残る土俵入りの様子を見ても、神々しくさえある。まさしくそこには「品格」があるかのようである。相撲ぶりも、後の先という、受けて立ちながら一合するときには既に自分の方が先んじているという、常陸山の打ち立てた横綱像に沿いながら、より洗練された横綱像に塗り替えた。これが、いまもって理想の力士像であり、「品格」なるものの本尊である。

ところで、白鵬が双葉山の土俵入りを真似ようとして、頭がお留守になり、肝心のセリ上がりを忘れてしまったというお笑いぐさが、朝青龍引退騒動と同じ今場所に起ったという偶然は、もしかすると、相撲の神様の悪戯かもしれないし、天の示した暗示かもしれない。品格を言うのはいいが、あまり持って回って振りかざすと、かえって滑稽にもなる。近代の相撲が作り上げてきた「品格」という陽の面と、太宰が直感したような、一種物哀しくさえある土俗や芸能としての陰の面と、その両面があってこその国技大相撲なのではないかというのが、私の考えなのだが・・・。(まだ続く)

随談第332回 相撲騒動 その1・品格って何だ?

朝青龍の引退はたしかに衝撃的だったが、一言で言えば、本人も相撲協会も、ぎりぎりのところで正常な判断が出来たということだろう。朝青龍の引退記者会見はなかなか立派だったと思う。わずか数時間の間に事態が大転回して、そのほとんど直後にあれだけの会見が出来るということは、頭脳と胆力の優秀さを物語っている。会見という建前を語る場ではあっても、語るべき自分はちゃんと前に出している。自分を客観的に捕える目も理性も持っている。運命という言葉をたしか使っていたが、達観する目を持っている人間なのだ。そこがいい。(それにしても、この日一日の急転直下ぶりは、松の廊下の刃傷の日の浅野内匠頭なみといっていい。)

引退はきわめて残念だが、今度のことは対一般人、つまり社会に対する問題だから、やむを得ない。品格とか何とかいうよりもっと直截的な、弁解の仕様のない問題である。(それにしても、ふた言目には示談示談と繰り返すばかりの高砂の対応は、ちと醜態だったといわざるを得ない。)しかし毎度のことだが、テレビのニュース解説者やワイドショーのゲスト発言者のしたり顔ともっともらしい言い種には、いい加減いらいらさせられた。相撲のことをよく知らないなら知らないで仕方がないが、それにしても半可通がよくもああ聞いた風なことを言えたものだ。わけても聞き捨てならないのは、朝青龍で相撲を知ったファンは相撲の本質を知らないといった論をなす向きである。それなら、若貴兄弟で相撲を知った者は相撲の本質を知っているのだろうか? ちゃんちゃらおかしい、と私は思う。

前に何度も書いたが、私は横綱二場所目の朝青龍の姿を本場所で見て、しばらく眠りかけていた相撲への興味を回復した人間である。これは、この頃しきりに言われる、品格という問題と絡まりあっている。私は、ちかごろしきりに言われる「品格」という物言いに、ちょっと疑問を持っている。

相撲取りに、とりわけ横綱に品格を期待するのは、もちろん間違っていない。相撲が単なる格闘技ではないことも、むしろ私は人一倍主張したい人間である。しかしこのところ、マスコミ(とそれに引きずられる社会一般人)の言い立てる品格なるものは、随分と硬直して画一的でお題目化しているように、私には見える。

横綱の品格ということが、ことさらのように言われるようになったのは、私の見るに、小錦の横綱昇進問題と絡めてのことだったと思う。このときは、外人力士が横綱になってしまいそうだという未曾有(みぞうゆう?)の事態に、昇進に否定的な向きから言い出されたのではなかったか? むしろ世論は、品格をうるさく言い立てることに懐疑的だったのである。外人横綱は、この後、曙がなり武蔵丸がなって平常化したが、品格というテーマは翻って貴乃花という、仮面をつけたかのような態度を貫き通す横綱を生むことになる。(サイボーグ、とマスコミは当時批判したのだったっけ。)つまりこの頃から、「品格」は必要以上にご大層なものになったのだ。相撲が「文化」だとか「伝統」だとか、やたらに言うようになったのも、このことと無縁ではない。それは一面、相撲に対する認識のあり方が変わってきたことの反映でもあるから、一概に否定はできないが(だからこの問題は厄介なのだ)、それがまた、事を必要以上にご大層なものにしてしまう。

朝青龍は、綺麗ごとに傾いていた大相撲に、荒ぶる魂を回復させた存在として、私は評価する。もちろん、物議を醸した土俵上のさまざまな振舞いを、そのまますべて容認するわけではない。しかし、はじめて目の当たりにした当時横綱二場所目の朝青龍に、私が連想したのは初代若乃花だった。その荒々しいすまい(相撲)ぶり、その不敵な土俵態度。栃若といわれた初代若乃花より、私は栃錦の方が好きだったが、(だって、栃錦は何と言ったってお江戸の相撲だったもの)、しかし異能力士と呼ばれた若乃花の、伝統という名の正統からやや逸脱しかねない危うさをはらんだ、荒ぶる魂が顕現したような、それでいてどこかトッポイような、投げやりなものを潜ませているような、放胆な感覚は、当時の角界にあって屹立する魅力を放っていた。その意味で、同時代のもうひとりの異能スポーツ人(アスリートなどという言葉は、当時、誰も知らなかった)として、野球の金田正一にも、どこか似ていた。それは一面で、戦後(アプレゲール)という時代の空気を反映するものでもあった。(続く)