随談第368回 『不滅の熱球』月遅れの忌辰簿から

ブログを更新するゆとりもないままに、早くも歳末である。書きたい題材はつぎつぎありながら、機会を逸してしまうと、出遅れたお化けと同じで、気が利かない以上に気が抜けてしまう。中日の落合監督がますます坊さんめいてきて、ユニフォームよりも墨染めの衣の方が似合いそうな面相になってきこととか、白鵬の連勝記録にまつわることだとか、今更めいて書きにくい。いま、という話題も幾つかあるが、既に残り日は一日しかない。

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月末ごとに何回か続けたその月の忌辰簿のなかに、それと知りつつ、池部良のことを書かないままでいるのが、気になっていた。といっても、格別なファンというわけではない。しかし私自身の子供のころの記憶からいっても、昭和20年代という時代を最も体現している役者はこの人であるという思いが強い。『平凡』という、それ自身がいかにも昭和20年代を物語っている雑誌が、毎年恒例で行なっていたファンの人気投票で、つねに上位を占めた現代劇の俳優は、三船敏郎でも鶴田浩二でも佐田啓二でもなく、池部良ではなかったか。少なくとも、石原裕次郎が登場するまでは。私がいま言いたいのは、人気のことではない。タイプからいけば一番のほほんとした、甘い二枚目でありながら、20年代を誰よりも体現できたのは、ひと言で言えば、既に戦中にスターとなり、兵隊に行ってそれも生半可でない体験をしてから、戦後ふたたびスターであり続けたという、ありそうで実は他にあまりない経歴がものを言っているからだろう。(軍隊を体験した有名スターは他にも居るが、多くは戦後、輝きを失ってスターの座から失墜している。)

池袋の新文芸座で池部良特集をやっているのを、ようやく押し詰まった30日に見に行った。『不滅の熱球』という、澤村栄治のことを映画にしたのを、せめてこれだけはと思ったからである。『青い山脈』ももちろん、現在の目で見直したかったが、結果的には、『不滅の熱球』の方がむしろよかったかもしれない。そのぐらい、面白かった。(ついでだが、『青い山脈』の亜流のように見做されがちだが、『山の彼方に』というのを是非改めて見たいと思っている。主題歌もいかにも藤山一郎流のなかなかいい唄でヒットもしたが、こちらも『青い山脈』の二番煎じと見做されがちなのは、映画・歌とも、不運な巡りあわせである。)

昭和三十年三月の封切りで、冒頭、当時の後楽園球場の巨人・中日戦の情景が写し出される。別所が投げたり川上が打ったりしている。もうそれだけでもタマラナイ。長嶋出現以前のプロ野球というのは、ON以後しか知らないヒトビトには神話伝説時代の如くに見られそうだが、この映画では、冒頭の「現代」の情景に、こんな今日のプロ野球の隆盛もその土台が築かれる陰にはこんな物語もあったのです、と言った風なナレーションがかぶさって、話は昭和十一年、まだ後楽園球場もなかった時代にさかのぼって、マウンド上の澤村、つまり池部良がGIANTSの文字が胸に入ったユニフォーム姿で、大きくワインドアップをして足を高く上げたなかなか堂に入ったフォームで投球する。つまり、現代からみれば、神話伝説のもう一つ昔の時代ということになるわけだが、投球フォームだけでなく、捕手の内堀保(千秋実がやっていてなかなかいい)から返球を受けたり、ボールをこねたり帽子をかぶりなおしたりする池部良の仕草が、いかにも澤村がこうであったろうと思わせてなかなかうまい。技術指導として名を連ねる往年の選手の中に、阪神の御園生(みそのう)崇生(たかお)の名前があったのにアッと思った。もっともそれに気を取られてあとの三人の名前を残念ながら覚え切れなかったが、つまり、往年の澤村をよく知る人たちが、仕草やフォームの特徴や癖を教えたのだろう。内堀の他、当時の巨人の藤本監督の役を笠智衆がやっていてこれも面白い。ソックリさんというわけではないが、ある風格をあらわしている。

と、こんな風に書いていては切りがないが、再三にわたって応召し、カムバックしながら遂に戦場に倒れるまでを、当然美化もあるだろうが、諄々と描いてゆく。つまりここらで、スターとしての池部良と澤村の軍隊体験が、ごく自然に重なり合うのだ。当時見るより、いま見る方が、ある種の感動があるのかもしれない。

満州事変が始まって最初の応召から昭和十四年に一度復帰したとき、その間に巨人軍に入団した、吉原・川上・千葉・平山・中尾といった選手が紹介される場面がある。別にご本人が出演しているわけではないが、戦死した吉原以外はすべて、我々世代には、オッと声を上げたくなる名前である。いかにもそれらしい俳優が選ばれているのも面白い。

沢村の英姿を見に球場に通いつめ、やがて結ばれる妻の役に、デビュウ間もない司葉子が出ていて、現代には存在しなくなった、しかし昭和のある時期までには実在した、ある女性像をあらわしている。この女性は、芦屋の富豪の令嬢だから、つまり『細雪』の姉妹たちと、まったくの同時期、芦屋の空気を吸っていた人であることになる。

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まず本年はこれ切り。来年もご愛読ください。

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随談第367回 海老蔵と琴光喜

海老蔵騒動も、海老蔵の退院と記者会見、犯人出頭(というより名乗り出)と逮捕と、第二幕に入って、いまこの時点ではボールは向こう側のコートにある感じである。記者会見での海老蔵の発言などなど、気掛かりなことはいろいろあるが、いまあまり不用意なことは言わないほうがいいだろう。ただ、あの時点での会見は、一月のル・テアトルの興行をどうするのか、ぎりぎりのタイムリミットであったというのが一番の理由であったと思われるが、マスコミ(と世間)の関心は事件の方にあり、質問も時間も大半はそちらに費やされることになったのは、余儀ないところと言わなければならない。しかしいま、海老蔵が何よりも痛切に気づかなければならないのは、事件の黒白よりも、あの会見に対する世間の痛烈な空気だろう。

事件の黒白は、ここまでくれば警察に、もし裁判に持ち込まれたなら裁判所にまかせるしかないのであって、大切なのは、一件落着したあとに社会が「海老蔵という存在」をどう受け止め(てくれ)るかにある。社会の受けとめ方としては、極論をすれば、ある意味では、仮に「黒」であったとしてもいいのだ。それを社会が、納得して、海老蔵というものを、よしと認められるようなものであるならば。逆に「白」であっても、世人の得心がいかないような「白」ならば、人気役者海老蔵は死ぬだろう。仮に「黒」であったとしても、海老蔵っていい奴なんだ、と世人が思うなら、海老蔵は甦るだろう。要は、正直に認めるべきは認め、自らの内にわだかまるところないようにする以外はない。ひとは、そういうことにかけては、おそろしいほど敏感に見抜くものだ。これは、警察のレベルの白黒とは別のレベルの話である。

海老蔵は荒事役者である。仮に光源氏を演じようと、海老蔵が演じる以上は、それは本質的な意味において、荒事である。荒事は、わっさりと、明々白々でなければ意味がない。心に曇りがあっては、荒事など無意味である。海老蔵という天性の荒事役者が、ことばの真の意味に於いての荒事を演じられなくなっては、海老蔵は死んだのも同然である。(それは手術の後遺症がどうのこうのといった話とは全然別の問題である。)

私の見るに、海老蔵は21世紀という現代に生まれた助六である。助六は、毎日喧嘩をしに吉原にやってくる。雷門でヘソを取ったり、砂利場に喧嘩の相手を蹴込んだり、カラスの鳴かぬ日はあっても助六の喧嘩の噂を聞かない日はないほど、乱暴はするが天真爛漫な男である。助六が喧嘩をして警察につかまれば、ときには喰らい込むこともあるだろう。しかしそんなことで、だれも助六を悪くいうものは出ない。もう一度言う、助六は乱暴はしても天真爛漫で、じつは誰だって、助六のようにふるまえたら、助六のように生きられたら、どんなに気が晴れ晴れするだろうと思うからだ。海老蔵の助六が誰の助六よりも、本当に助六がそこに、われわれが手を伸ばせばすぐそこにいるような感じがするのは、海老蔵が助六そのものだからである。しかし髯の意休やくわんぺら門兵衛を相手に喧嘩をしている内はいいが、今度の一件の相手はいかにもタチが悪すぎる。どちらが手を出したの出さなかったのというより前に、あの手の連中と酒の席で関わりを持ったというのは不敵すぎ不用意過ぎる。ただの喧嘩沙汰ではすまされないところへ踏み込んでしまったことになる。

いまの時点で、無期限の出演見合わせという松竹の取った措置は、適切というべきだろう。琴光喜が永久追放になってしまったのとはもちろん意味が違う。あれは、警察のターゲットは暴力団にあり、大相撲はそのキャンペーンを世間に周知させるよい見せしめとして使われたようなものだ。窮地に立った大相撲としては、これだけ真剣に取り組んでいるぞというところを世間に周知させる必要があり、大関という地位にある琴光喜は、見せしめのまた見せしめとして格好と見做されたわけだろう。調べに対し、自分は潔白と嘘の供述をしたのが罪を重くしたというのが外部識者による委員会の説明だったが、一旦の保身のためのウソを理由に力士生命を奪うほどの罪を犯したとは思われない。それこそ無期限なり、一年なり半年の出場停止ぐらいで充分であったはずで、復帰嘆願の運動が始まっていると聞くが、尤もなことである。かつてのプロ野球の黒い霧事件で、西鉄の池永が追放処分になったのと同じ、つまり協会なり野球連盟という組織のための生贄になったわけだ。

海老蔵の場合は、ことの事情はもちろん異なる。が、暴走族とかその背後に暴力団の存在が見え隠れしているのが、事態を想わぬ方向へ急転回させないとも限らないイヤな感じである。それが、気になる。

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随談第366回 ささやかな傑作たち・今月の舞台から

傑作篇その1・『国姓爺合戦』序幕「大明御殿」における家橘の大明国皇帝が、いかにも滅び行く老大国の最後の皇帝らしい。さらば江戸の地よ、江戸の人々よ、などと気取っていないで、暗愚の君主は暗愚の君主らしく滅びてゆくところが、いかにも実利本位のCHINESEらしくていい。思うに、人間には暗愚の君主という存在に対する、憧れというと妙だが、少なくとも生半可でない興味があって、それゆえに、一条大蔵卿のような、暗君と賢君が斑状に現れる、作り阿呆の殿様や王様の物語を考え出したりするのに違いない。アヌイの『ひばり』やシェイクスピアの『ヘンリー六世』にも登場する、ジャンヌ・ダルクが仕えたフランス王も、英仏戦争中、フランスを史上最も窮地に立たせた暗君だったが、トランプの発明者として後世の人々に恩恵を残した。なまじな賢君よりはるかに、人類の幸福のために貢献したわけだ。

家橘は、愚かであっても品格のある皇帝にぴったりの仁といい、余人をもって代え難いところ、さすがに殿様役者故吉五郎の子である。吉五郎はその昔、いまの菊五郎がやったNHKの大河ドラマの『源義経』で、凱旋将軍義経にすり寄ったかと思うと不利とおもえば手の平を返すように見捨てる殿上人を演じて、唖然とするほどさまになっていた。こういうあたりが、歌舞伎役者ならではの値打ちであって、腐っても鯛とはこういうことを言うのだと思わされた。そういえば吉五郎は、当時は大河ドラマの常連で、緒方拳が秀吉になった『太閤記』では、それこそ足利最後の将軍義昭をやってぴったりだったし、『竜馬が行く』では山内容堂だったのだから、嘘のような本当の話である。山内容堂はもちろん暗君ではないが、しかし、いかにも殿様らしい殿様という意味で、歌舞伎役者ならではの値打を示した。歌舞伎役者以外の何物でもないという意味で、市村吉五郎は、私の密かな贔屓役者だった。これはこの春の訃報の折、追悼の文章を他事にかまけて書かなかったせめてものつぐないのつもりでもある。ともあれ今月の家橘は、知る人ぞ知る、といった体の傑作である。

傑作篇その2・芝喜松の『上野初花』大口楼の遣手おくまと『都鳥廓白浪』按摩宿の女按摩お市。いまや芝喜松は吉之丞の後をゆく婆役の名手であり、今度の二役が彼として格別の傑作というわけではないが、しかしそれだけに、その安定した実力を証明して余りあるというもので、つまり「ちょっとしたってこんなもの」なのである。芝居の寸法、役の寸法を心得ている、というより、生理となって身についている。仮に舞台の上ですべって転んだとしても、やり手婆ァならやり手婆ァとして、按摩なら按摩として転ぶにちがいない。国立劇場の研修生も、四十年経ってこういう名手を生んだのだ。芝喜松のいいところは、あくまで真摯でありながら、おのずからなるユーモアがあるところである。登場するだけで、オッ、出てきたな、と思わせる。どんな小さな役の役者であろうと、役者はこうでなくってはいけない。

つい先月には、これは既に書いたが、『将軍江戸を去る』の黒門前で、彰義隊幹部の天野八郎を由次郎がやったのがじつに面白かったし、その前の秀山祭の『沼津』では、幕開きの立場の棒鼻での点景人物、茶店の床机にかけてお茶を飲んでいるうちに産気づいて慌て出す、歌江の妊産婦と、桂三のその夫がなかなかの秀逸だった。今年のベストスリーに選ぼうかと追ったほどだった。

夏の『四谷怪談』では小山三もまだまだ元気だったが、あの人、雀右衛門と同年、誕生日まで同じ日なそうだ。このところの気掛かりは、山崎権一のあの鼻にかかった声音を、しばらく聞かないことである。

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随談第365回 やけたトタン屋根の上の猫

新国立劇場の演劇芸術監督が替わってから始まったJAPAN MEETS・・・というシリーズがなかなか悪くないスタートを切っている。そのIの『ヘッダ・ガーブレル』は面白いながらもちょっと飲み込みにくい(呑みこみ、ではない)ところもままあったが、今度の『やけたトタン屋根の上の猫』はかなり気に入った。『ヘッダ』の方は、現代の俳優が現代の演出家の手で、手馴れた(?)手を使って、軽く運ぶところはそれなりの諧調があるのだが、何といっても一世紀昔の、それも北欧という社会の話であることからは避けがたく逃れられないのは、そういう部分でのギクシャクは、やっている側はどうか知らないが、見ているこちらは気になることになる。石造の建材にプラスチックやセラミックの部品を取り付けたような、軽い違和感として、意の腑にしこりが残ることになる。新しいかと思っていると、やっぱり百年前の芝居なんだというところが混在するからだ。(これがいっそシェイクスピアなら、そんなことはたいして気にならなくなるのだが、イプセンではそうは行かない。)

が、まあ、いまは『ヘッダ』の話をするつもりではなかった。『トタン屋根』がかなり気に入ったというのは、テネシイ・ウィリアムズにせよ誰にせよ、アメリカ演劇というものが私はどうも苦手で、あまり面白いとか、いいなあとか、思った記憶がほとんどないのだが、その意味では、こんどはじめて面白い、簡単に言えば、よくわかると思った。こちらがそれだけ齢をとって、理解が練れて来たせいもあるかもしれないが、芸術監督の宮田慶子氏も筋書(歌舞伎風にいえば)に書いているように、アメリカ南部の風土というか、喉が乾きそうな感じに「距離感に茫然とし、挫折感に捉われる」ことがあまりなくてすんだのは幸せだった。学生だった昔、杉村春子の『欲望という名の電車』とか、滝沢修の『セールスマンの死』とかいった、新劇の極め付物を見て、劇の内容そのものよりも、新劇流名人芸というものの、ある種のアクの強さに、正直なところ、いささか辟易した記憶が、いまも結構後遺症として残っている。新劇歌舞伎、と言う言い方もできるだろうが、それは少し面白がりが過ぎかもしれない。要するにそこにあったのは、杉村とか滝沢という名優たちの一代芸であったのだというのが、いま振り返って、一番正直なところなのではないかと思う。(名優の芸というのは、そういうものなのかもしれないが。)

いまはそういう「名優」たちはいない時代である。今度だって、Big Daddyをやった木場勝巳などという人はじつにうまいけれども、すくなくとも杉村だの滝沢だのがそうであったような意味では、名優ではない。そうしてそれ故にこそ、このBig Daddyはとてもいいし、ランクは少し違うが北村有起哉のBrickもなかなかのものだし、ひいては今度の『トタン屋根』という芝居の舞台そのものもとてもいい、という結果になったのだ。

それに、平凡なことをいうようだが、一九五〇年代のアメリカの家庭のここに描かれているような形とかあり方とかが、現代の日本人としてのわれわれに、大した違和感も距離感もそれほど気にせずに、受け入れられるように、いつのまにかなっている、ということなのだろう。

とはいえ、テネシイ・ウィリアムズというのはどうしてああ言葉が多いのだろう。ことに第一幕は、あれほどまでに長い必要があるのだろうか。寺嶋しのぶのマ-ガレットは、あんなに長時間、のべつ幕無しに(この言葉、歌舞伎から出た演劇用語である。『忠臣蔵』の口上人形の言う「幕あり幕なしにご覧に入れますれば」という、あれだ)がなりたてる必要があるのだろうか。その寺嶋も、二幕目のカマトトぶりはなかなかチャーミングだった。その他の役々も概していいが、広岡由里子のMaeの演じ方は、あまりにも現代の日本人の日常にひきつけ過ぎているように見える。昔はああいうのは、我でやっている、といったものだが、じっさいにそうなのかどうかは私にはわからない。

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随談第364回 大沢啓二とコロンビア・ライト(十月の死亡記事から)

戦後65年という年月を思えば当然なのだろうが、このところ、その死が何らかの戦後史を語ることになる人物の訃報が目につく。

親分としての大沢啓二氏については、多すぎるほど多くの人が物を言っているから、改めてここに書くほどのものは何も持ち合わせていない。ただ思うのは、あの人がはじめからあれだけの存在になるとはおそらく誰も思っていなかったであろうということで、その意味では意外性の人であり、その意味で、興味のある人物だったということになる。どこかに、人の見ていないものを見ていた人の視線を感じさせた。

現役時代は、守備の巧い外野手ということは野球好きなら知っていたが、打撃はたいして当らないし、人相もややヒールっぽいし、つまり全国区規模の有名選手というわけには行かなかった。一躍名を挙げたのは、昭和三十四年の、南海が巨人に4タテを喰わせた日本シリーズで、ヒットかと思うと落下点に大沢がいて難なく捕ってしまう、というプレイがしばしばあった。一番有名なのは、三塁に広岡がいて、森(のちに西武の監督になったあの森)がやや浅いフライを打った。タッチアップして広岡が生還、と思うとあっさりアウトとなって、ああこれも大沢だ、というので皆を唸らせた。(反対に、広岡はなぜ滑り込まないのだ、と物議をかもした。)当時の野球は、ベンチから外野手に守備位置の指示などしないから、自分ひとりの読みと判断で、予め移動していたというのだが、思えば、この種の「俺流」が後の野球人としての人生を貫いていたのに違いない。

コロンビア・ライトの死は、半ば忘れていた名前だけに、感慨は大沢よりはるかに深い。コロンビアというネーミングは、レコード会社のコロンビアが由来で、テレビ出現以前、ラジオの「コロンビア・アワー」というコロンビア提供の歌謡番組の司会役をトップと一緒にやっていたのが、私にとっての一番古い記憶である。やがてテレビ草創時代にやった『おトボケ新聞』というのがじつに面白かった。昭和三十四、五年ごろ、つまりクレージー・キャッツの『おとなの漫画』と同時期だが、こっちの方が面白かった。三国一朗が編集長でトップ・ライトが記者、松任谷国子というのがマア賑やかしの女子社員、社員四人だけの小さな新聞社という設定で、ときのニュースをぼんぼん取り上げる。もちろん生放送で、たぶん毎日の放送だったのではなかったか。草創期のテレビでなければあり得ない番組だった。ゲストのコーナーがあって、社に来てもらうという設定で渦中の人物に生出演してもらう。安保騒動だか何の時だったか忘れたが、椎名悦三郎とか河野一郎などという超大物の政治家が登場したのをおぼえている。思えばこの頃が、トップ・ライトの花の季節だったろう。

ライトの悲劇は、これに味をしめたトップがどんどん政治づいて、ついに参院選に出馬して当選、本当の議員になってしまうというところまでエスカレートし、もう漫才なんかやっていられるかという態度を露骨に見せるようになったことで、つまりライトの存在はあってなきが如くになってしまった。歌謡番組の司会をしていても、「お年寄には青春の思い出を」までを普通ならトップが言い、「若人には永遠の喜びを」までを普通ならライトが言い、「ではまた来週」というのを一緒に言うべきところを、トップがひとりで全部言ってしまうようになったのだ。(昔式の亭主関白で、酒の気の絶えない父の暴君ぶりにトップの横暴を重ね、結局我慢するしかないライトにわが身を重ねて、わが母がおかしがりつつ同情していたのを、今度の訃報は思い出させてくれた!)

つまりあのストレスは胃にいい筈がないのであって、癌にかかり克服し、晩年は癌撲滅運動に専念していたという報道は、思えばなにやら物悲しい。漫才師になる前は落語家だったというが、きれいに髪をリーゼント・スタイルにし、スーツを身ぎれいに着こなした姿は、ちょっぴりだが、大川橋蔵に似ていないこともなかった。たぶん、同世代であろう。つまり、そういう世代の人間の匂いを色濃く持っていた芸人だった。

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随談第363回 『滝の白糸』のこと

このところ、事情あってこのブログを書く時間がなかなか取れずにいる。書きたいことはいろいろあるのだが、こういうものは日記と一面共通するところがあって、タイミングを逸すると、時事性や話題性が薄れ、ひいては感興が失われてしまう。白鵬の連勝のことも、野球のことも、時期を失してしまった。が、これらはまだ話題にするチャンスがまた巡ってくるだろう。しかしこれから書く新派公演のことは、いま書いておかないと書く折をなくしてしまいそうだ。舞台を見てからもう2週間も経ってしまった。

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三越劇場の『滝の白糸』は、人によっていろいろな意見が出るだろうが、わたしは結構面白いと思って見た。理由は一に舞台成果、二に今度のような上演形態である。

「花形新派公演」と謳ってはいるが、滝の白糸の春猿をはじめ、南京寅吉を猿弥、一座の三味線引きのお辰を笑三郎、先乗りの新助を市川弘太郎その他、配役のいいところを猿之助軍団の面々で占めるというチームである。これら歌舞伎勢と、今度でいえば井上恭太等、新派側の若手の組み合わせで、新しい流れを作り出そうというのが、狙うところなのだろう。

春猿の滝の白糸というのは、たしかにアイデアである。何とはなしに、もう少し前の玉三郎に似たところもある。つまり歌舞伎の女方というより女優に近い感触であることとか、歌舞伎古典よりも新派ぐらいの方が水に合う芸質なのだ。まず、なかなかのものである。

改めて思ったのは、鏡花物というのはやはり女方の芝居なのだということである。名前を出しては何だが、たとえば波乃久里子(の方がもちろん春猿よりずっと巧い)が緻密に堅実に、みっちりと白糸を演じて充分納得させながら、土壇場の大芝居になると、芝居がくすんでしまう。これは芸の良し悪しとは別の問題である。つまり、法廷の場から幕切れへかけてのあんな芝居は大嘘なのであって、ナチュラルな芝居で埋めようとしても埋めつくせるものではない。そこへ行くと春猿は、いくら女優に近いとは言ったって女方には違いがない。久里子があれだけ努力しても飛び越えられない芝居の嘘を、やすやすと飛び越えてしまっている。

思えばさよなら公演が始まる以前、毎年七月の歌舞伎座は玉三郎を中心とし、春猿だの笑三郎だのが、専ら鏡花物を演じて相当の成果を見せていた。いまさら驚くことではないのだ。一月には、今度は『日本橋』を段治郎が出すらしい。この路線がしばらく続くこを期待したい。

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随談第362回 『将軍江戸を去る』

国立劇場の真山青果二本立てが、入りが薄いとかいう噂も聞いたが、どうして、なかなか結構である。とりわけ、『将軍江戸を去る』が近頃出色だ。またかと思うほどよく出るので、あまり食欲をそそられないのももっともだが、この狂言に対する固定観念を洗い落とすよい機会と思って、ご覧になることをお勧めする。

出色は、例の「上野大慈院」の慶喜と山岡の応酬だ。ちょっと考えると、染五郎は山岡には線が細いのではないか、といったことを思いがちだが、今度の染五郎と吉右衛門の応酬を見ていて、なるほど、と思った。近くは吉右衛門と仁左衛門とか、遠くは寿海と八代目三津五郎とか、この場はとかく、大物同士の互角の渡り合い、いわば横綱同士の対戦のように思いがちだが、それは配役がそう思わせるのであって、戯曲として考える限り、むしろ今度の吉右衛門・染五郎の方が、本当の姿なのではあるまいか。山岡は少壮の身である。少壮の身ながら一身を賭して、慶喜に諫言しようとする。だがただの諫言ではなく、敢えて慶喜の逆鱗に触れ、慶喜を煽ることで、慶喜に翻然と悟らせようとする。その一身を賭した懸命さが、慶喜の琴線に届くのだ。

図らずも先月、『荒川の佐吉』で一身を賭した佐吉が成川郷右衛門を倒すのを見たばかりだが、そこに、両者に共通する青果の哲学があるわけだ。もっとも相手は成川と違って天下の将軍慶喜だが、自分よりはるかに巨大なものにぶつかってゆく捨て身が事をなさしめる、という意味では変わることはない。慶喜は、蟄居謹慎の身となった事のゆくたては、正確に認識している。だが「勤皇」という二字の故に胸中に鬱壊がわだかまっている。山岡はそこを突く・・・という経緯が、今度の吉右衛門・染五郎の応酬ほど、すっきりと伝わってきたことは、これまで幾度見たとも知れぬこの芝居で、あまりなかったのではないか。山岡の説く勤皇と尊王の相違など、とかく理屈のための理屈のように聞こえて、正直、この狂言にすこし食傷を感じていたこともあった。今度は、それがない。

もうひとり、ここで感服したのが東蔵の高橋伊勢守で、重鎮のつとめる役でありながらとかく不得要領に終わりがちなのを、東蔵は、この戯曲の中でこの役が占める役割を、はじめてじつに明晰に見せてくれたといって過言でない。伊勢守は慶喜と山岡の間に、さりげなく布石を打っているのだ。もちろん戯曲にそう書いてあるのだが、それがこれほどくっきりと見えたことは、これまであっただろうか?

久しぶりに「薩摩屋敷」の勝と西郷の会談が出る。ここでは、説得する勝の方が口数が少なく、説得される方の西郷が多弁なのが、「大慈院」との対照が利いている。歌昇は最初出てきたときは、西郷らしく作ろうとする扮装がちと気になったが、素直に衒いなくつとめているのに好感が持てた。この場もとかく、英雄、英雄を知る、といった事大主義から、やたらに豪傑笑いをしてみたり、妙に物々しくなりがちなのだが、その幣のないのがいい。

歌六は当代での海舟役者であろう。微笑をふくみながら、西郷の言に耳を傾けている風情が実にいい。

歴史劇というと、とかく、その人らしく、ということに、役者も見物もとらわれがちになる。この『江戸を去る』のような芝居だと、おなじみの人物たちだけに、」そちらが優先しがちになる。そういう通念からいうなら、山岡はもっと野生的な豪傑肌だろうし、伊勢守だって槍の泥舟である。やさおとこの染五郎や、根が女方の東蔵は剣客や槍の達人というイメージにはやや距離がある。しかし、というより、むしろそれだからこそ、というべきか。彼らはそうした出来合いのイメージよりも、脚本の求めるところを的確に演じて、効果を上げたのだ。

折から日生劇場では幸四郎が『カエサル』をやっていて、図らずもローマ史をベンキョウすることになった。塩野七生『ローマ人の物語』からカエサルに関わる部分を取り出して戯曲化したものだが、思うに脚本は、カエサル伝としてのローマ史の筋骨と、主な登場人物のキャラクターとを、塩野氏の著書に負っているのであろうと推察する。史劇というものは、シェイクスピアだってそうだが、歴史の筋(HISTORYのSTORY、つまり歴史とは本来「物語」なのだ)を要領よくかいつまんで運び、その間にいかに面白いキャラクターを登場させ人間模様を展開させるかに尽きるわけだが、さてここに、キケロというローマ屈指の文人が登場するのだが、渡辺いっけい扮するキケロはおよそ物を書くような人間には見えない。もっともキケロは、現実にはけっこう不器用でぶざまな姿をさらすのだが、渡辺はそっちの方は、持ち前のひょうきんさでそれなりに見せる。もっとも配役を考えた時点で、演出者にはこういう結果になるであろうことは織り込み済みなのだろうが。

『江戸を去る』では「黒門前」で天野八郎を由次郎がやっていて(この人としては三年分ぐらいの量のセリフをしゃべる役だ)ちょいとおもしろいキャラクターを見せている。つまりこれも、彰義隊副頭取にしては弱そうだが、山岡に揶揄されるように「上州あたりで饂飩ばかり食っていると知恵はその辺でとまりそうな」草莽の人物らしくは見えるわけだ。

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随談第361回 九月の訃報欄から

小林桂樹に谷啓、そして最後の日の夕刊に池内淳子の訃報が載ったと思ったら、翌日の朝刊にトニー・カーチスの死を知らせるちっぽけな記事が載って、へーえと思った。外電だから、これも九月の訃報の内だろう。池内淳子はちょっと別だが、いずれもに共通するのは、それなりの遇され方はしても、その本当のところを伝える人、語る人が、もう既にいないのだ、ということである。

私とても、これらの人たちに格別の思いを寄せていたわけではない。しかしそれぞれの時代の記憶を背負っている人たちという意味で、私の中にある、ある思いをそそられる人たちではある。無関心ではいられない。

小林桂樹が、昭和十七年という戦中にデビュウしていたことは知らなかった。常に「戦後」という時代とともにあった人、というのが、決定的なイメージとしてまずある。その意味では、おそらく誰よりも、この人は「戦後の顔」であったのだと言えるかもしれない。『ホープさん』だの何だのといった昭和20年代の戦後サラリーマンの風俗を描いた作品を原点に、三十年代以降は例の森繁社長の部下として少しずつ出世してゆき、その後も年齢と共に相応の風格と貫録を備えるようになってゆく。これほど、戦後日本人の平均値を、自身の俳優としての成長・成熟とぴったり重ね合わせた俳優は他にはいない。つまりEVERYMANを終生演じ続けた俳優ということになる。かなり骨っぽいところも持ち合わせていたが、そういう一面は、昭和二十六年の『めし』の最後の方で登場して、上原謙と原節子の夫婦に手厳しい忠告をする役などに既に萌芽があって、それが、晩年の携帯電話のCMという傑作に至って、日本的ユーモアを湛えた老人像として結実することになる。(その間には、結構、歴史上の偉人の役などもやっているが、それも、この延長線上にあるものだろう。)しかしいまとなって一番懐かしいのは、昭和三十年前後の東宝作品に出てくるサラリーマン役で、新劇女優になる前の河内桃子が相手役として、その後の誰よりも一番ふさわしかったと思う。(森繁社長に於ける司葉子よりも!)

谷啓は、というより、クレイジー・キャッツは、何といっても『おとなの漫画』の記憶が最も鮮烈である。たまたま昭和三十四年というのはわが家にテレビが来た年で(といっても、この年四月の皇太子ご成婚のときにはまだなかったから、私の母などは親戚の叔母の家にわざわざ大塚から幡ヶ谷まで電車に乗って見に行ったものだった)、この年フジテレビが開局して、昼の12時55分から5分間だけやる『おとなの漫画』は、ちょうど受験浪人中で毎日家にいたせいもあって、いやでも見ることになる。当時のテレビの生放送というのは、何ともいえないチャチな感じで、それにもかかわらず、というか、それ故にこそ、というべきか、何とも不思議な味があって、それがクレージー・キャッツと不思議な波長が合っていた。つまり、それまでの日本の喜劇俳優というものと全然違うものが、そこにあった。あの一種のいかがわしさを、偉くなったからも終生持ち続けていたところに、谷啓だけでなく、クレージーの面々のよさがあるような気がする。あのいかがわしさは、いまにして思えば、まさしく昭和三十年代という時代の持っていた、独特のいかがわしさのシンボルであったともいえる。

女優としての池内淳子については、もちろんそれなりの思いはあるが、とくにここに書いておきたいというような思い入れはない。それよりも、彼女のいかにも東京の人間らしいたたずまいやら、物の言い様やらが、私にとっては、他にはない好もしいものだった。しかしそれは、もしかすると、女優としては、もう一倍の大成を阻むものであったかも知れない。彼女に限らず、東京人というのは、役者としては、ある種の限界を持っているのかも知れないという気が、私はしている。小林桂樹における東宝のサラリーマン映画、谷啓における『おとなの漫画』に相当するものを池内について挙げるなら、まだテレビに転進して大当りを取る以前、新東宝の女優として撮った『新妻鏡』で、文金島田に角隠しをした花嫁衣装で黒眼鏡(サングラスではない!)をかけた姿だろうか。

トニー・カーチスの死亡記事のいかにも小さいのには、多少なりと昔を知る者としては、感慨なきを得ない。好きでも何でもなかった俳優だが、ポマードをてかてかつけたリーゼントスタイルで、妙にテラテラした感じの典型的なヤンキーの安っぽいハンサムぶりが、これもいかにも五十年代の匂いをぷんぷんさせていたのが、いまとなっては妙に懐かしい。それにしても、かつてはあれだけの人気スターだったのだ、誰か、せめて三百字程度でもいいから、彼について薀蓄を傾けられる映画批評家は、もういないのだろうか?

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随談第360回 「チャンバラ節」考 (修正版)

このHPの「お知らせ」の欄にも紹介しておいたが、この程、森話社というユニークな良書を出している出版社から、『映画のなかの古典芸能』という本が出た。というと何だか他人事のようだが、神山彰・児玉竜一ご両所の編集により、いわば講座形式のテーマごとの分担執筆で、かく言う私も一枚噛んでいる。「日本映画史叢書」全13巻という大きな企画の最終巻で、この卷は題名通り、古典芸能がいろいろな形で映画と関わり合う、その諸相をさまざまな面から述べるというもので、私にお鉢の回ってきたテーマは「映画音楽と純邦楽」というのだった。

こういう場合、大抵は、与えられたテーマについてトータルな観点から抜かりなく通観するというのが普通のようだが、下手をすると、ああいうのもあるこういうのもある、と羅列して読者を退屈させるだけに終りかねない。はじめに編集の意図を聞いたとき、ふと閃いたのが、小学生のころラジオからしきりに流れてきた、久保幸江という当時大人気だった歌手の歌う『チャンバラ節』という歌だった。

久保幸江というのは、日本髪の芸者のお座敷姿で拍子良く歌ういわゆる日本調歌手だが、まつげの長い目に赤々と塗った口紅がちょっとバタ臭い印象だった。小唄勝太郎とか赤坂小梅とか市丸といった、戦前から戦後まで息長く活躍した「本格派」とは違う、リズミカルで戦後の匂いが芬々としたところに特徴があり、その分、歌手としての寿命は短くとも戦後という一時代を語る上で抜かすことのできない、その意味で忘れがたい歌手だったといえる。『チャンバラ節』のはやったのは昭和二十七年だが、その前年に歌った『炭坑節』がまさに一世を風靡するものだった。朝鮮戦争を背景にした軍需景気のシンボル、というのが定説となっている。「月が出た出た、月が出た。三池炭鉱の上に出た、あんまり煙突が高いので、さぞやお月さん煙たかろ」という歌詞を知らない小学生は当時いなかったろう。『トンコ節』、続けて出した『ヤットン節』というのは曲名からみても明らかな、二匹目の泥鰌を狙ったものだが、『野球拳』というのがもうひとつの大ヒットだった。つまりお座敷で酔客と戯れるための歌で、「野球するならこういう具合にしやしゃんせ、投げたならこう打って、打ったならこう受けて、ランナーになったらエッサッサ。アウト、セーフ、ヨヨイのヨイ」といって拳を打つのである。昭和三十年正月、片岡千恵蔵が多羅尾伴内になる『隼の魔王』という東映映画で、久保幸江が芸者の役で特別出演して、千恵蔵扮する多羅尾伴内七変化の内のまん丸眼鏡のおっさんの役と野球拳をする場面を覚えている。

『チャンバラ節』は、当時ヒット続きだった久保幸江としては、ONE OF THEM という程度のヒット曲であったのかも知れないが、しかしわれわれそのころの小学生としては、ラジオを通じて自然に耳に入り、おのずから覚えてしまった歌だった。「むーかし侍さんが本気になってチャンバラしーた、いまじゃ女が派手にチャンチャンばらばら、男はかーなわないよ」云々という歌詞を、あの「千鳥」の合方のメロディでリズミカルに歌うのである。歌舞伎の『俊寛』で、沖から赦免の船が海原を渡ってくるところとか、俊寛と瀬尾が切り結ぶ場面など、一幕中、ふんだんに下座の黒御簾から聞こえてくる、歌舞伎好きならだれでも知っているあの曲である。何故『チャンバラ節』のメロディが「千鳥」の合方かというと、かつてサイレント映画の時代、チャンバラ、つまり立ち回りの場面になると、楽隊(これを下座と称したらしい)が和洋合奏で「千鳥」の合方を伴奏として弾いたからで、『勧進帳』の「延年」などとともに、歌舞伎から出て映画にもちこまれた「邦楽」の代表だったわけだが、さてそれから先は、どうぞ本を読んで下さい。

題して『チャンバラ節考』。木下恵介監督の『楢山節考』など、大家巨匠の手になる芸術映画には、文楽や能その他、それこそ「純」邦楽がさまざまな意匠の下に使われているが、そういうものよりも、職人型監督が量産し、ジャリやらミーハーやら、映画ファン一般が、毎週々々新作が封切られるたびにまるで使い捨てるように見ていた、俗に言うプログラム・ピクチャーの方が、いまの私にはこよなくなつかしいし、また振り返ってみるだけの意味があるような気がする。ちなみに『チャンバラ節』は、『花嫁花婿チャンバラ節』という、デビュー間もない若き日の若尾文子の出演する、何とも安手で安直な映画の主題歌だった。『楢山節考』より『チャンバラ節考』というわけである。

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随談第359回 初代若乃花のこと(その3)

前回の最後に、若乃花にはヒールの面影を秘めていたと書いたが、そのことについてもう少し説明をしておく必要がある。「面影を秘めている」と言ったのは、当然ながら、ストレートな意味でのヒールという意味ではない。正統に対する異端、与党に対する野党、マジメに対する笑い、洗練に対する野生・・・この随談の332回と333回にも書いたことだが、そうした、ある種の異種の趣きを持っていたところに、魅力と真価があった。

引退後しばらく、NHKの相撲中継の解説をしたことがあったが、実におもしろかった。当時の解説者といえば、神風正一、玉の海梅吉の二人が対照的な個性と語り口でよく知られていたが、そういう、いわば専業の解説者とは違う、ついこの間まで現場にいた人ならではの匂いが芬々とする解説だった。(現在、北の富士と舞の海以外、交代で解説に出る協会の親方連でひとりとして面白い解説をする人がいないのにうんざりするが、ああいうのとは、若乃花はまったく類を異にしていた。)

たとえば当時、大鵬は第一人者の地位に立ったばかりで、すでに記録の上では破天荒な数字を次々と積み重ねて無敵の境に入りつつあったが、相撲ぶりがどこかヤワで、慎重に過ぎて面白みに欠けるところがあった。何が足りないのか、というアナウンサーの問いに、若乃花は言下に、上手投げを覚えさせたいね、と答えた。相手を組みとめて、慎重に寄り切るだけでは、勝ちみが遅いし、相手を威圧する凄味がない。第一、見ていて面白くない。(事実、大鵬の相撲は面白くないという評判だった。)それを、上手投げを覚えさせたい、と具体的な一言をズバリと言う。専業的な解説者だと、こうはいかない。どうしても、もっと客観的に、抽象的になりがちだ。たしかに、大鵬が10秒かかって慎重に寄り切るところを、若乃花だったら、豪快な上手投げ一発で相手を土俵に叩きつけたに違いないのだ。

それを、ぶっきら棒の中に、一種の笑いをはらんだ口調で語る。真面目な中に、とぼけた、おのずからなるユーモアが漂う。そのころ、金田正一はまだ現役の真っ盛りだったが、国鉄スワローズという優勝に縁のないチームのエースだった金田は、日本シリーズなどになると解説者になってネット裏に坐る。ホラ、巨人の打者ってのは打席に入って考え込んでるから、必ずファーストストライクを取られるんですよ。ホラね、という具合である。具体的で、ストレートで、どこかすっとぼけていて、現場の匂いが芬々とする。それで気がついた。若乃花と金田って、どこか似ているんだ。しゃべり方だけではない。どこか、人間として、共通するものがあるに違いない。つまりそれが、ヒールの面影、というわけである。

若乃花が死んだ翌日のテレビで、北野武氏が、しゃべり方が野球の金田正一氏に似ていた、と言っているのを聞いたとき、アッと思ったのはそういうわけである。さすがだ、と思った。

その金田が晩年、巨人に入り、若乃花は栃錦の春日野の後を継いで相撲協会の理事長になった。異端が正統の場所に坐った。もちろん、それからだって、ふたりの業績は立派である。(訃報のニュースの中で流した映像の中に、甥のおにいちゃんの若ノ花に、背広姿の若乃花が、仕切りというのはこうやるんだと言いながら手本を示す場面があったが、ほんの一瞬、背広姿でありながら、目を瞠るような素晴らしい仕切りだった。)退職に当って自分の部屋を貴乃花の部屋と合流させたので、双子山部屋が膨大な勢力になってしまったとき、梅原猛さんが、栃錦を聖徳太子に、若乃花を藤原不比等に譬えたことがあった。栃錦は清貧を貫いて協会の繁栄のために尽くしたが、自分の部屋の隆盛のためには欲に欠けるところがあった。若乃花は、協会のためにも尽したが、一門の隆盛にも一倍貪欲だった、というのである。なるほど、と思わないでもない。

前々回に、栃錦には戦前の古き良き時代の相撲のムードがあったが、若乃花はまったくの戦後派であると書いた。戦前に入門した栃錦と、終戦直後に入門した若乃花には、否定できない世代と時代の違いがあったと思う。栃錦の師匠の当時の春日野親方というのは大正時代の名横綱の栃木山で、人格者で、相撲以外には欲というもののまったくない人であったらしい。尊敬はされて協会の理事にはなったが、理事長になるようなタイプではなかった。(何となく私は、踊りの神様といわれた七代目三津五郎と重ね合わせてイメージしている。)一方、若乃花の師匠の大ノ海という人は、自身は平幕で終ったが才覚をもって部屋を起こし、若乃花を育てて一代を築いた人である。(戦後の二所ノ関部屋は、大ノ海は若乃花を、琴錦は琴ヶ浜を、という風に、現役の内から子飼いの弟子を持って、引退すると独立して部屋を起こした。そうでない人は、力道山や神風のように、自分で廃業してしまった。部屋の方針というより、そうせざるを得ない事情だったのだ。)

若乃花が「土俵の鬼」と呼ばれるようになったのは、横綱目前の大関時代、幼いわが子を、ちゃんこ鍋の熱湯を浴びるという不慮の事故で亡くす悲運を押して、土俵をつとめたことからだが、栃錦が「マムシ」と呼ばれたのは、まだ幕下時代の若い頃の稽古ぶりを見た六代目菊五郎が、そのしぶとさに、マムシのような奴だといって目をかけてやるようになったのが始まりと聞いている。少なくとも、今度の報道にも見られた「土俵の鬼とマムシ」という対比の仕方は、あまり適切なものとは言いがたい。

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