随談第327回 野球回顧話

次は野球の話と予告めいたことを書いて、本当にそのつもりでいたのがのびのびになってしまった。クライマックス・シリーズだ日本シリーズだ、イチローだと、3回分ぐらい書くことがあったのだが、こういう話はやはりホットな内にすべきもので、日数が経ち、湯気も立たない今となっては、利かない辛子とこわくないお化けみたいなものだ。そこで仕切り直して年間回顧風の簡略版、そのつもりでお読みください。

『わが生涯の最良の年』という映画がかつてあったが、春のWBCからリーグ制覇、日本シリーズと、監督の原にとって生涯にこういう年が再び巡ってくるかどうか。しかしまあそれだけのことはあったといっていい。現役時代はあまり積極的な興味を感じたことのない選手だったが、監督になった姿を見ている内に、これはこれでひとつの人物なのだなと思うようになった。優等生風のいい子ぶりに、それなりに筋金が入っている。そのあと、例の「人事異動」があって、去年・今年である。悪童風、チョイ悪風のオジサンが、とりわけテレビなどでは持て囃される当今、たまにはこの手の桃太郎風が脚光を浴びるのも悪くない。ダラ幹風でないところ、北京オリンピックの誰かさんとは大違いである。

しかし今年話題の監督というなら、原以上に野村であって、一監督が野球とかスポーツとかいった枠を超えて、社会一般への広がりを持つに至ったというのは稀有なことである。つまり、野球などにたいして関心のない者から見ても、面白い人物と見做されたわけで、その意味では、それこそ国民的な人気を獲得しながら、同じ「現代奇人伝」中の人物としても、人間としては結局野球という枠を出ることがない長嶋とは好対照といっていい。いつもスターであろうとし、そのグロテスクさゆえに「奇人」になりえた長嶋と、つねに貧乏人根性から離れることが出来ないが故に、「奇人」でありながら「普通の人」でもあり続けざる得ない野村と。われわれは普通、野村みたいに表立ってのべつぼやき続けるわけではないが、実は心の内では何ごとかをぼやき続けている。それにしても、ああいう嫌みな親父を、かくも多数の人達が愛しているというのは、現代の日本のさまざまな事どもの中でも興味深い現象ではある。

イチローのことを書くつもりでいたが、新聞テレビの回顧番組・回顧記事のなかであまりにも語られているのを見ている内に、いまさら書く気も失せてしまった。ただ、(少々わざとらしい臭みはあるにせよ)何を言ってもつい耳を傾けざるを得ない「芸談」になっているのは見事なものだ。反対に松井が、何を言っても想定問答集の模範回答例のようなコメントになってしまうのと、あまりといえばあまりにも好対照なのが面白い。松井も、ヤンキースをやめたことでいろいろな世間の風に吹かれて、少しは言うことに味が出てくるようになることを期待しよう。フォア・ザ・チームはもちろん結構だが、優勝を目指せるチームばかり歩いてのフォア・ザ・チームではなあ。日本に帰ってきて、横浜ベイスターズにでも入団して、フォア・ザ・チームの精神で優勝でもさせたら、同じ言葉を吐いても、想定問答集の回答例みたいには聞こえなくなるに違いない。

松井のことを書くつもりはなかったのだが、イチローから話が思わずこうなってしまった。メリケン野球に行った選手で他に興味を感じさせるのは松坂ぐらいのものだが、今年の松坂にはWBC以外には、材料がなさ過ぎる。他のメリケン組にはあまり興味を起させる人がいない。メリケン野球の似合う人とそうでない人があり、多少戦果を挙げても、似合わない人はどこか痛々しく見えるのは不思議である。

ダルビッシュだの岩隈だの、日本で活躍している選手のことも書きたいがもうスペースがなくなった。それより、今年も幾人かの訃報を聞いた中に、国鉄スワローズで金田正一の球を受けていたキャッチャーの根来の名前があった。新聞の小さな記事以外、テレビなどでコメントされることもなかったような気がする。野球選手でも映画スターでも何でも、当時は相当の存在でありながら、現在のマスコミに知られることが少ないために、わずかでも往年を知る者からすると、義憤を覚えるような扱いになってしまう例が気になるのは、こちらも齢を取ったせいだろうか。その意味で、先月書いた往年の時代劇女優千原しのぶのを偲ぶ記事を、いくつかの新聞の投書欄に見つけたのは嬉しかった。切り抜いて保存しておいた。

松も飾り新しいカレンダーもかけ替えた今ごろ、こんな回顧の文を載せるのも気の利かない話だが、どうぞ鷹揚のご愛読を願います。年内はこれでおしまい。年が明けてから、ご挨拶を申し上げます。

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随談第326回 顔見世便り

暮れも押し詰まった24,25日の両日、南座の顔見世を見に、歳末の京都を訪れた。永観堂から南禅寺辺り、あるいは八坂神社から知恩院界隈、残んの紅葉といった気配が冬枯れの中に感じられるのが、いかにも京の冬らしい。月は隈なきをのみ見るものかは、紅葉も盛りをのみ見るものかは、というのは必ずしもただの負け惜しみではない。

顔見世を見に行こうと思い立った直接の動機は、仁左衛門の助六を見たいと思ったことだった。あるいはこれが見納めにならないとも限らない。そんなにしょっちゅうやる機会がある役ではない。襲名の折、出してから彼此十年の余、経っている。十一代目團十郎最後の助六は昭和39年十月、東京オリンピックのさなかだったが、その折の十一代目は思えばまだ六十歳になっていなかったのだ。わが仁左衛門は、すでにその年齢を越えている。

和事のかかった助六として、仁左衛門の助六というものは当代の歌舞伎にあって異彩を放つよきものである。昭和五十八年三月、玉三郎の揚巻で歌舞伎座ではじめて見せた助六は、それまで体験したことのない忘れがたいものだった。襲名の折を含めて、その後幾度か見たどれよりも、その初演の折のが深く記憶に留まっている。十三代目が意休、白酒売りが当時の扇雀の坂田藤十郎、くぁんぺらが左団次という顔ぶれの、意休がこんどは我当に変っているが、偶然のように、今度の配役がその折をいやでも思い出させるかのように同じであるのも、何かの辻占ででもあるかのようだ。ただ当今の仁左衛門は、そのころに比べ、和事味において比較にならない柔らか味が得も言われない。そこが、いま見る助六としてどうか?

さて、十余年ぶりに再会した助六は、半ばは期待を満たし、半ばは、期待を膨らませすぎていたわが身に、やや反省を促すものだったと言おうか。それに、仁左衛門は喉をかなり痛めていて、すこし疲れているようでもあった。そのことが、やや翳りを落としていたことも否めない。紅葉も盛りをのみ見るものではないように、この助六は、仁左衛門の今を見るべき助六であった。そうしてみれば、味わい深いところも多々見えてくる。初演から二十六年の歳月は、仁左衛門だけでなく、玉三郎にも、坂田藤十郎にも左団次にも、当然ながら陰影を刻んでいる。玉三郎の玲瓏さまも、いまや昔日とは比較ならぬほど澄み切っているが、それはまた自ずから、ある種の翳りを潜ませている。

結局、こんどの顔見世の眼目は、助六では白酒売りだった藤十郎の忠兵衛で、仁左衛門が八右衛門に回っての『封印切』ということになる。この顔ぶれもまた、偶然だが同じ昭和五十八年の暮れ、南座の顔見世で見せたのと同じ配役である。仁左衛門はその後、他の忠兵衛にも八右衛門をつきあっているが、何といっても藤十郎を相手にしたときに、その真価が輝き出す。上方言葉の応酬の面白さが他優のときとは比較にならない。それにしてもこの二人の応酬のスピードは、歌舞伎のセリフのスピードとして記録物ではあるまいか。秀太郎が梅川で、玉三郎がおえんという配役も味なものである。それにしてもこの顔見世の仁左衛門は、八右衛門をつき合った以外の自分の出し物は、助六に『お祭』というのだから、すっかり江戸っ子である。

藤十郎・仁左衛門の顔あわせを他所にしたかのように、菊五郎が『土蜘』と『一条大蔵卿』を出していて、この『大蔵卿』がなかなかいい。初役かと思ったら、はるか以前の昭和六十年、国立劇場でやっていたのを思い出した。あまり阿呆を際立たせない、菊五郎らしい穏当なやり方だが、四半世紀前とは比較にならないのは、ひとえに、昔と今では、菊五郎の役者振りが段違いであるという一事に尽きる。自ずからなる公卿の品格という一事に関する限り、この大蔵卿は天下一品である。それと、時蔵の常盤の十二単の立派なこと。

我当が、『時平の七笑』という父十三代目の珍品の棚卸しをしているのも、京の顔見世ならではである。これだの『血判取り』だの、十三代目はよく、それを見逃したらもう滅多にはお目にかかれないような珍品を見せてくれたが、いまやそれらは我当が一手販売の役回りであって、それも南座か松竹座でないと見られない。我当は、意休も手強くてなかなかよかった。これはこれで、父十三代目の一面をよく継いでいるというべきである。

暮れともなると、顔見世も、東京から大挙押しかけたかのような客は見当たらず、客席もロビーも、京言葉が行き交っている。祇園や先斗町の総見の賑わいもさることながら、この一抹の寂びしみを帯びた風情も捨てがたい。残んの紅葉の風情はここにもある。

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随談第325回 ブログご無沙汰の弁

随分久しいこと間が空いてしまった。三月に3週間の入院騒ぎで丸ひと月休んで以来の長期のブランクである。いくつか理由の根本のものは先月の半ば頃から血行不良のために左手の指が利かない状態になったことだが、むしろその前段階として、小ひと月ばかり、背中だの左腕だのに劇痛が走って、そうなるとしばらくウンウン唸っているしか如何ともし難い。ときには夜中、そのために目が覚めることもあって、こんどは寝不足につながる・・・といったようなことがしばらく続いて、その間、机に向かう仕事がろくすっぽ出来なかった。といっても、締切のある仕事はやらないわけに行かないが、下調べだの資料の準備だのといった作業が、ざっと3週間から小ひと月、滞った。そのツケが塵も積もって、切り崩すのに思わぬ手間がかかった・・・というのが真相である。

幸い、命にかかわるようなことでも、この後不自由な身体になるというわけでもなく、つまり病気ではないのだが、話をしてみると、実はわたしも経験があります、という人が身近な範囲だけでも結構いるのだということがわかった。早い人はひと月か二月でいつの間にか直ってしまったと言う。もっとも整体師に言わせると、それは本当には直ったわけではなく、人間の体はおのずからバランスが取れるようになるために、現象としてはなくなるのだそうだ。幸い、肩甲骨の辺りに鈍い痺れのような痛みが残っているが、劇痛は去ったので、仕事にならないという状態は抜け出すことが出来た。

後は指が自由になるのを待つだけだが、それまではいわゆるヨイヨイの状態である。何ごとにも発見ということはあるもので、普段何気なくやっている仕草で、わずか左手の指が自由にならないだけでどうにもならないことが、日常茶飯、至るところにあったことに気がつく。拍手ができない。(舞台の上から、役者諸氏はどう思って見ているだろう?)チケットだの何だの、小さいものや薄いものを受取ったり新聞をめくったりするのもちょいと厄介だし、いちばん手こずるのは、右手首のシャツのボタンをはめることと、化粧水を左手のひらで受けること。しかしどちらも、ほぼ毎日欠かせない作業である。丹下左膳は、刀を抜くのにあの方式を思いつくまで、かなりの試行錯誤を要したに違いない。

たぶん、直接の引き金はパソコンのキー打ちだろうが、近頃日常至るところに増えた、軽くワンタッチ触れるという動作が曲者なのだ。湯沸かし器、ポット、トースターからエレベーター、券売機etc.etc.至るところに待ち構えている。整体師の話だと、ひと昔前、女性の代表的な職業だった電話交換手の職業病だったという。肩にも肘にも力を入れないで指先だけで、チョイと押したり刺したりする。あれが曲者なのだ。思うに、現代というワンタッチ時代、このワンタッチ病が社会問題となる日が、遠からず来るに違いない。医師から携帯をピコピコやるのを止められてノイローゼになる中高生、などというのも出る筈だ。

と、いうわけで、近々再開します。(と書いたら、今度はインターネットの不具合で、二日間、通信が停まってしまった。ようやく本日再開という次第。相変わらずご愛読ください。)

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