随談第321回 今月の舞台から(続)菊之助のこと

もう少し書いておきたいことがあるので、続編としよう。

『吉野山』の幕が開いて、花道から菊之助の静が出てきたとき、誰だろう?といぶかって筋書の配役を確かめた・・・というのは嘘で、もちろん、菊之助が静をすることは知っていた。だが、それにも拘わらず、オヤ、誰だろう、と一瞬目を疑ったことは事実である。つまり、菊之助と承知していながら、菊之助、と認めるのに手間がかかったのである。それは何故か?

妙な言い方になるが、菊之助が菊之助の顔をしていないから、というのが、私としては一番正直な答え方かも知れない。昔からよく言う批評の常套句を使うなら、菊之助はまだ自分の顔を持っていない、というのがほぼ近いか? また別な言い方をするなら、役の顔をしていない、と言ってもいい。この場合、最初に言った「菊之助の顔」と、「役の顔」とういうのは、結局のところ、同じことを意味する。つまり、「吉野山」の静の顔と、それを演じる菊之助の顔が、ドンピシャリと一致していないのだ。

菊之助はたしかに美しい。チャーミングでもある。私が菊之助を認める者として人後に落ちるものでないことは、これまで書いてきた幾多の菊之助評を見てもらえば了承されるはずだ。この二月、玉三郎と例の『京鹿子娘二人道成寺』を踊ったときなどは、さよなら公演中にもう一度出してもいいのでは、などとさる人に勧めたぐらいだ。と、これだけ言っておけば誤解はないと思うが、今度の『吉野山』の静を見ながら、ふと思ったのは、これは、たとえば何かのCMとか広告のために静御前の扮装をしているような、そういう美しさだということだった。『義経千本桜』の「吉野山」の静ではなく、つまり舞台で演じる役の顔ではなく、何か別の場で静の化粧をし、衣裳を着、鬘をつけて美しく装った菊之助の顔ではないか、と。

この場合、役の扮装をしても菊之助の顔をしているというのは、それだけ個性が強いという意味ではない。役者の顔は、演じる役を通じ、役と重なり合いつつ、個性として輝き出るのでなくては、本当の「いい顔」にはならない。何の役を演じていようと、その役と重なり合い、その役の輝きとともに、菊之助なら菊之助として輝き出すのでなければ、歌舞伎役者菊之助としての魅力にならない。現に菊之助自身、『娘二人道成寺』を踊ったときはそういう顔をしていた。

思うに、菊之助はいま、一見盛りのさなかにいるように見えながら、じつは惑いの時節にあるのではあるまいか。元より菊之助にも自負があるだろう。自惚れだって、あるだろう。あって当然、自惚れを否定するものではまったくない。むしろ自惚れは、自負と抱負を人一倍大きく強く持つ者であることの証明ですらある。またおそらく、菊之助には菊之助なりの歌舞伎に対する考えも、意思表示もあるだろう。それやこれ、さまざまな思いに包まれながら、あるいはいま、歌舞伎に対する惑いの中にいるのではあるまいかと思うのだ。あの静の顔は、そうした、いまある菊之助の在り様を写す鏡なのではあるまいか?

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随談第320回 今月の舞台から

芝居の話が大分ご無沙汰になってしまった。ちょいと駆け足気味だが、月末になってもまだ記憶の篩にかかって残っている話題から、二、三拾ってみることにしよう。

坂田藤十郎の『河庄』、当代菊吉の『千本桜』と並ぶと今さら劇評でもあるまいという感じにもなるが、吉右衛門の知盛が岩組みの上に立った時の歌舞伎座の大舞台にピタリとはまる量感とか、『吉野山』で紫の衣裳の菊五郎の忠信がせり上がってきたときの何ともいえない寸法のよさ、などといったものは、いま彼等がそれぞれに、役者としての完熟の時節にいることを改めて思わないわけには行かない。やはり、彼等の「いま」を見ておくべきなのである。だが、かつてのわが身を振り返ってもそうなのだが、人間というものは、実はいまその時、その只中にいながら、案外それとも気づかずに過ごしてしまうものだ。だがその「いま」は容赦なく過ぎ去って、永遠に戻ってこないのだ。

坂田藤十郎が、いまなお、すこしのたゆみもない治兵衛を演じていることにも、改めて感服する。取り分け凄いのは、終局、いったん帰りかけた治兵衛が花道に座り込んで、せめてもう一度、小春にひと言、言ってやりたいと言い出すところである。あそこは、藤十郎のある意味での「新劇」であると私は考える。たとえば先代の鴈治郎だったら、ああも鋭く、治兵衛の、いや人間の痴愚の姿を描き出しはしない。和事の芸の内にくるんだ愛すべき治兵衛として、そこにいるという感じだった。だが藤十郎だと、治兵衛というひとりの男を突き抜けて、痴愚の中に陥った一人の人間を舞台の上に実存させる、という趣きになる。それは見ようによっては、歌舞伎の芸を突き抜けてしまったともいえる。しかし凄いと思うのは、その「新劇」を、藤十郎があくまでも、その身体に叩き込んだ「和事」の芸でくるめて少しの違和感をも感じさせないことである。

ただそうであればあるほど、段四郎の孫右衛門が、役をよく理解して適切に演じているにも拘らず、上方人の体臭がその身体になく、そのセリフに大阪弁の一種の泥臭さがないことが、痛感させられてしまう。これは決して段四郎を責めて言うのではない。東京人段四郎としては如何ともし難いことである。「もう一遍、小春にひと言言うたらいけませんやろうか」と治兵衛が言うと、「そりゃちょっと具合が悪いなあ」と孫右衛門が応じる。深刻なことを、まるで漫才みたいな軽い言葉でやりとりする。その落差が、見ているこちらを慄然とさせる。そのあたりの、何とも言われニュアンスとでも言おうか。

だが誤解しないでいただきたい。私は、この狂言は上方の狂言だから上方の役者でないとやるべきでないなどと言っているのではない。あくまでも、坂田藤十郎の治兵衛に対する段四郎のことを言っているのであって、それ以外ではない。むしろ私は、紙治にせよ『封印切』にせよ、あまり上方上方と言いすぎる最近の傾向には、意義を唱えたいと思っている。わたしが実際に見て知っている範囲でも、以前は、たとえば先代の勘三郎が『河庄』の治兵衛をしたりすることが、もっとたびたびあったように思う。いまの菊五郎や勘三郎も、若い頃には『封印切』をやっている。あたら名狂言を、融通の利かないローカリズムの中に押し込めるのは愚かであり、もったいないことだ。

最後に、今月のひとつのトピックとして、国立劇場の例の乱歩歌舞伎での意外な功労者たちのことを書いておこう。あまりほめられない乱歩歌舞伎の中で、意外なところにヒットがあった。たとえば松本錦成の丁稚長吉である。先輩格の錦弥の番頭とつるんで出て、こまっしゃくれた丁稚ぶりを見せるのが寸法にはまり、堂に入っていて、目を奪われる。つぎに中村梅丸の人形花がたみである。人形の無機的な不気味さを見事に演じている。もしかしたら彼等は、人間豹の落としていった置き土産だったかもしれない。

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随談第319回 楽天騒動

楽天イーグルスの野村監督の去就をめぐる騒動がなかなか面白い。これぞ、野村ぼやきイズムの集大成の如き趣きがある。それでなくとも、このシーズンの楽天監督としての野村は面白かった。毎晩のスポーツニュースで、試合終了後の記者団とのインタビュウでの「野村語録」を面白がって報道していたのが、もろもろのことを雄弁に物語っている。他球団の監督であんな待遇をされた監督は一人もいない。また事実、あの夜毎の野村談話はなかなか面白かった。

しかしよく聞いていると、とぼけているようで実はなかなか正直な人であることも見えてくる。喰えない人物、には違いないが、そうとばかり見ていると、却ってたぶらかされるに違いない。クライマックス・シリーズの出場を確定した日、万歳、と言ったひと言が、その意味からも白眉だった。クライマックス・シリーズで対戦した印象を、ソフトバンク監督の秋山が、野村さんは本気だ、まるでヤクルトの頃みたいだ、と語っているのも意味深長だ。

去就をめぐる話は、要するに球団経営者連に、ある種の感覚の欠落があるのだと私には見える。今度の騒動のいきさつを新聞で読んでの勘や、五年前、球団経営に乗り出したときの楽天社長の人相風体や人品骨柄や態度物腰をテレビで見ての勘から、そう察するだけの話だが、かの人一人だけのことではなく、ある種の雰囲気や傾向が感じられる。

つまり、理は球団側にあるのだ。昨年で当初の約束の三年契約の期限が切れ、一年の約束で契約を延長したのだから、一年経ったいま、約束通りにしましょう、それがどうしていけないんですか、というわけだ。どこも、何ひとつ、間違っているわけではない。野村も、たぶん、そんなことは分っているに違いない。

それにも拘わらず何故怒ったのか。ひと言でいえば、しゃらくせえ、からだろう。そう思わせるものが、球団経営者連にあるのだと思う。新聞を読み、ニュースで聞いて、わたしはそう感じ、たぶん野村もそうだろうと勝手に思って、何分目か共感し、半ば肩を持つような気分になっている。要するに、同じことを言うにも、物の言い方、話の持って行き方というものがある。それを、怠った、のではなく、無視したか、あるいははじめからする気がないのか、あるいはまた、知らないではないが、つまらぬことだと思っているか。たぶん、そこらのどれかだろう。

記者たちを相手に、野村監督がぶちまけている不満の言のいちいちを真に受けることはない。騎虎の勢いで言っているだけで、内容は要するに、これだけやったのだからもう少し人情味のある対応をしてくれてもいいではないか、ということで、今さらそんなことを言ったってどうなるものでもないことは、野村自身分っている。俺にこんなことを言わせるなよ、というのが本音に違いない。要するに、しゃらくさいのだ。

それにしても、楽天の経営者に限らず、同じ五十年配の、最近脚光を浴びだした新しいタイプと見られる経営者や政治家に、同じような雰囲気を感じることが多い。新内閣のナントカ大臣になった前原などという人にも、共通するものを感じる。自信家で独善的で、青臭い。つまり、成熟の度が年齢、立場、経歴の割りに低いのだ。この手の人類がひとつの「人種」として社会の各方面にはびこるのかと思うと、危ういかな、という取り越し苦労もついしてしまいそうだ。もっとも、それがひるがえって野村ぼやきイズムの集大成を引き出すきっかけとなったのならば、それはそれなりに、天晴れというべきか?

それにしても、CSの一,二戦で、岩隈と田中が完投したのはよかった。久しぶりに、エースと呼ぶにふさわしい姿を見た気がする。もちろん、頭脳的な采配で、B級投手の小刻みな継投で逃げ切ったりするのもそれはそれで面白いが、はじめからナントカの方程式などと言って、判で押したように決めてしまうのは味気ない。山崎が、いいベテランぶりでいい顔になったのも、興味深い。中日にいた頃は、ただの力持ちのクマさんだったのだが。

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随談第318回 ジーンズ随談

三月に十二指腸潰瘍のために20日間入院した話は前に書いたが、はじめ8日間点滴だけ、その後も、重湯からはじまって五分粥、ようやく普通の粥という病院生活のおかげでざっと5キロ余り、減量することができた。別に減量しようと思っていたわけではないが、いざ体が軽くなってみると、これが思いの外に気持がいい。ちょいとした発見といってもいいだけの快感がある。それに伴って、当然、ウェストも細くなる。ざっと5センチ、スリムになった。(つまり1キロで1センチということか?)これも気持ちがいい。腹の出具合もさることながら、腰から背にかけてすっきりした感じがするのが、これまた思いの外に気持がいい。このままキープしてやろうと思い立った。

そこで、待てよと思った。以前はいていたジーンズのことを思い出したのだ。いつの頃からか、きつきつになって、そのままはかずにいたのを、久しぶりにはいてみようか、多分大丈夫だろうと、戸棚の奥から引っ張り出した。見事にはけた。ざっと十年ぶりぐらいになるのだろうか。つまり十年前には、胴回りはいまぐらいのものだったということになる。はいて外出する。悪くない。もうちょっと色合いの違うのも欲しくなって、一本新調した。もう、病膏肓になる。

さてそうなってみて、改めて世間を見回すと、世はまったくジーンズの世の中であることに気がつく。電車に乗る。座席に坐って向かい側を見やると、仮に七人掛けとして、まず五人まではジーンズをはいている。老若男女を問わない。それまでだって気がつかなかったわけでもないが、自分もジーンズ党の一員になってみて、改めて、その多さを実感する。これが政党だったら、ジーンズ党が政権を取るのはいともたやすいことに違いない。

若い連中に多いのは当たり前のことで特におもしろくもないが、中高年の男女、高齢者と思われる人にこれほど多いのは、一考に値いしそうである。

値段の安さということも、もちろんある。何万円もするのはこの際別として、つまらないズボン一本買う値段で、ジーンズならもっとマシなのが買える。しかし、それだけではないだろう。ひとつ思いつくのは、ジーンズをはくことで年齢不詳の人間になれるということである。単に若く見えるということだけではあるまい。年齢不詳、という曖昧さを手に入れる。そこに、えもいわれぬ快感がある。喜びがある。

もちろんそれには、ジーンズとはもともと若者のものだったという、社会が暗黙のうちに了解している前提がある。社会全体がもっている記憶といってもいい。とにかく、この前提がまず確固としてあることが肝心である。まず正があって、反がはじめてあり得るように。若者もすなるジーンズというものをオジサンオバサンもはいてみた。オジイサンオバアサンもはいてみた。若くなれた、ような気がした。みんなではけばこわくない。いま擦れ違ったひと、向かい側の席に坐っているひと、みんながはいている。本当には若くはなれないが、若さを装うことならできる。

谷崎潤一郎の小説に、夜な夜な、女性の着物を着て御高祖頭巾をかぶって外出する男の話がある。女装愛好者の話と取るより、別の自分を装う喜びを告白する話と取った方が面白い。しかしまさか、そこまでする勇気はないし、気も回らないから、もっとささやかな、もうひとつの、あり得るかも知れない自分にな(ったつもりにな)るために、ジーンズをはく。性は簡単には偽れないが、年齢なら、誰でも多少は偽った気になれる。ここで大事なのは、七人の内五人は、同じくジーンズをはいている、群衆の中のひとりになれるということである。こうして世の中の七人中五人の人々は、何千円かの出資で(近頃は800円台などというのもあるらしいが)、ごくかるーく人をも身をも偽りながら、今日も街を歩いているのだ。

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