随談第317回 イチロー論

『イチロー論』という本をタイトルに惹かれて読んだ。張本勲著である。面白くないわけではない。つい最近、東京新聞に永く続いている「この道」という、さまざまな名士が自らを語る一種の自伝風の連載コラムに書いた文章がなかなか面白く、張本という人の認識を改めさせるほどだったことも、手に取った理由のひとつではあったが、しかしこのタイトルにはだまされた。専らイチローのことを論じた本だと素直に受取ったこちらがウブすぎたのかもしれないが、イチロー論は最初の一章だけというのは、ちと羊頭狗肉ではあるまいか。

気に入った点がふたつ。まずイチローが打率よりも安打数に重きを置いて、百年も昔のメジャー記録をブラックボックスから引っ張り出してきたのが面白い、と言っているのは、イチローという「人間」を論じて炯眼ではある。もうひとつは、東映の選手時代接した水原監督を語るくだり。水原こそ真のプロフェッショナルと評する。水原は試合中、自軍相手チームを問わず、投手の投球を一球たりとも見逃さない。的確な用兵と勝負の仕掛はそこから来ている、と張本は言う。密かに嘔吐している姿を目撃したことも両三度あるという。それほど、毎試合ごとに心胆を砕いていた、というわけだ。なかなか読ませる。

(さらにこの本には、張本氏の考える日本野球界史上ベストナインというのが載っているが、それより、「この道」に挙げた、史上最強打者ベストファイブというのが面白かった。左打者では、川上、大下、王、イチロー、それに自分だという。こちらはまあ、常識でもわかるが、右打者では別当、藤村、中西、長嶋に落合だというのがなかなかユニークで、張本という人がただ者でないことを窺わせる。別当と落合を入れ、野村が入っていない!のが面白い。)

最近見かけたイチローを論じた文章のなかでは、やはり東京新聞のコラムに、政論家の中谷巌氏が、イチローは「別解」を求める人であるといっていたのがわが意を得た。(中谷氏は、最近、かつての自説のあやまりを認めた頃から、言うことに味が出てきた。秀才病が少し治ったのだろうか。)通念、常識、紋切り型のセオリー。世の監督・コーチから野球通、オタクファンまでを一色に染めているこうした思い込みから、イチローは遠いところにいる。

それにしても野球界といわず、現在の日本のさまざまな分野を通じても、イチローほど、「人間」として興味を誘われる人物はちょっとない。たとえばビールのCMに出ているイチローの表情の、あの曲者ぶり! JOKERのようでもあり、一種悪魔的でもある。食えない奴なのだ。同じビールのCMでも、松坂のあのお人よしぶりには少々がっかりさせられるのと好対照といってよい。松井にいたっては、あのオバカサンぶりはほとんど痛々しいほどだ。かのクサナギクンと双璧と言ってよい。この人は苦労するためにアメリカへ出かけたようなものだ。

前にも書いたが、メジャー志向でアメリカに渡った日本人選手で、動機・結果共に明確なのは野茂とイチローの二人だけではあるまいか。後は、すこし違った意味で長谷川と、さらに違った意味で大家と、さらにまた違った意味で新庄や岡島などは、なまじビッグでないだけ、自分をきちっと見切っているのが感じられて、そこが面白かったが。

随談第316回 三津五郎山帰り奉納

三津五郎が、三代目が初演したいわば家の芸である舞踊の『山帰り』を、その舞台である大山阿夫利神社に奉納するという催しがあったので、こちらもついでの大山参りも兼ねて行って来た。新宿から小田急で伊勢原まで一時間、それからバスで30分という近間なのが、却って盲点となってまだ行ったことがないので、当然、その興味もある。

『山帰り』という踊りは、本興行ではごく稀にしか出ないが、清元の地で、粋でイナセでさっくりとした小品で、いかにも三津五郎の踊りらしい。山帰りの「山」というのが、おのずから大山のことを指しているという暗黙の了解が成立したほど、大山参りというのが、殊に江戸の鳶や職人といった連中にとっては一種のお定まりの行事だった。

林家正蔵も一緒に奉納落語として『大山詣り』を一席口演したのは、三津五郎から誘ったのだそうだが、『山帰り』だけでは短いからということもあるだろうが、なかなかいいアイデアである。落語の『大山詣り』も参詣の帰りがけの話しという意味では、題材としては共通している。お参りは建て前、お楽しみは帰り道で、まっすぐ江戸へ帰らないで、江ノ島見物をしたり寄り道をして帰る。落語で熊公が大暴れの果てに頭を剃られるのは神奈川の宿での出来事だし、『山帰り』でお土産の麦藁のラッパを吹くのは開港場の横浜名物だというのは、今回の番組のひとつ、三津五郎、正蔵に阿夫利神社の宮司、寄席文字の書家の橘右之吉氏の座談会で知った。(してみると、三代目の頃はまだ横浜は開港していないはずだから、ラッパは初演のときにはなかったことになる。)

催しだけ見るのなら午後から出かけても充分なのだが、お参りも兼ねているからちょっぴり早起きして、昼前にはついた。(途中、バスで太田道灌の墓所というのを通り過ぎた。)会場の能楽堂は、門前町の入口付近だが、さらに奥まで歩いてからケーブルカーで下社まで登ると、標高六百メートルとあって、相模湾から三浦半島、その手前に江ノ島が可愛らしく見える。本社は大山の頂上、標高千二百メートルにあるというから、ハイキングのこしらえでないと到底辿り付けない。戻りがけ、程よきところで昼飯をと物色していると、向こうから上って来るやや物々しげなお供に囲まれた上品な御婦人に、沿道から中高年の女性たちが「テレビで見るよりきれい!」と声を掛けている。悠然と振り返って「ありがとう」とにっこりほほえんだ件の御婦人を見ると、高円宮妃殿下で、三津五郎をご覧になりにきたのだった。それにしても、妃殿下に向かって「テレビで見るよりきれいよ」という掛け声が面白い。

認識を改めたのは、その昼食といい(鹿の刺身というのを取ってみたらなかなか美味い。なるほど、むかし殿様の食べ物だっただけのことがある。この辺り、鹿が随分多いらしい)

別な店でひと休みして注文したシャーベットといい、なかなかのレベルであって、門前町の風情も、さすがに由緒ありげなたたずまいだし、想像していたよりはるかに懐の深さを感じさせる。かなりの数ある旅宿に先導師という看板が掛かっているのは、講中を先導する、つまり伊勢講だったら御師に相当するのだろう。例の『伊勢音頭』の福岡貢と同業者なわけで、中には立派な門柱を立てた何様のお住まいかと見紛うようなのもある。なるほど、貢がまるで武士かと見紛うような大きな態度でいるのがわかる。

開場を待つ間に、すぐそばに小体だが趣のある住まいがあったので、見ると、「元緒方竹虎別邸」と小さな札が掲げてある。良質の保守政治家として知られた人物らしい、一面が偲ばれるようなよきたたずまいである。能楽堂も本格的ななかなかのもので、来月には観世流の人たちで薪能の催しがあるらしい。もちろん屋外だから、見所は野天で、今日のために特設スタンドまで作ってある。ざっと見て、見物は千人は優に越えていただろう。昨夜の雨で埃っぽさは拭われ、日盛りの暑さも開演の4時ともなると夕風が吹き出して程よく涼しく、5時をまわっていよいよお目当ての『山帰り』の始まる頃には、やや暮れなずんで舞台の照明が美しい。

三津五郎にとっても襲名以来の宿願だったそうだが、彼ひと共に、よき一日だった。

随談第315回 文楽見物記

今月の文楽は第二部に人気が集中。すでに完売という。第三部の『天変斯止』に若手大夫が揃うあおりで、切語りが顔を揃えるからというより、住大夫人気が原因だろう。いわゆる御社日に都合がつかず別の日に行ったら、第二部だけはもう席がなく、普段は御簾のかかっている特別室での見物となった。しかしこれが、予想外に面白い体験となった。もっともこの部屋から見るのは別に初めてではない。稚魚の会だったか音の会だったか、歌舞伎を見たことがあるが、文楽の舞台をこの部屋から見た結果は、ちと大仰に言うと、ちょいとした「新発見」だった。

普通の客席よりも目の位置がぐんと高いので、平素見慣れたのとは別なアングルから舞台を見ることになる。額縁舞台とよく言うが、まさしく舞台がきれいに額縁の中に納まっていて、そのフレームの中を人形が遊弋するかのように見える。大夫・三味線の坐る床も、舞台と床がひとまとまりのセットとして、きれいに絵面に納まって見える。人形と、大夫・三味線が常に一つのものとして視野の中にあることが、これだけの違いとなって印象づけられるわけだ。もうひとつ、舞台・床とも、客席で見ているときにはフラットに感じられる照明が、ここから見ると、やや光度を落としている客席との対照のせいでか、何とも言えず明るく、じつに美しい。これも、普通の客席では気づかないことだ。

さてその第二部の『沼津』を綱大夫・清二郎と住大夫・錦糸が前後に分けて語る。大変な豪華版といわねばならない。住大夫は期待にたがわず。もっともそれは当然そうあるべきもの、むしろ、予想外といっては失礼だが、このところ生気のない床が続いていた綱大夫が、宿場の棒鼻から平作内の前段までを語って、さすがと思わせる実力を見せる。つまりは、コトバの巧さである。すっかり小音になってしまっているので、語り出しの立場の情景などはよく聞き取れないが、「旦那もし」と平作が十兵衛に声を掛け、ふたりのやりとりが始まると、見る見る状況は一変する。義太夫は、特に世話浄瑠璃は、つまるところコトバこそが生命であることが改めて痛感される。これこそ紛れもない大人の芸である。

第二部はもうひとつ、嶋大夫が『酒屋』を語る。コトバの巧い人だから、人物の語り分けも的確、巧いには違いないが、いかにもべちゃべちゃした「嶋大夫節」になるのが難。得意の演目だけに却って欠点も出る。この二月に聞いた『襤褸錦』の「春藤出立」のような感動はない。春藤次郎右衛門の骨格の大きな時代物らしい人物のスケール、それにも増して阿呆の助太郎の人物・状況を浮き上がらせて粛然とさせたのが、蓑助の人形ともども、いまも忘れがたい。大きに感服、この人への認識を改めさせる名演だった。

もうひとつ面白かったのが、第一部の『鬼一法眼』で津駒大夫の語った「書写山」で、時代物の二段目らしいロマン性があって、これはちょいとした拾い物といってよい。この人も芸歴すでに四十年。若いころはなんとも不安定な浄瑠璃を語る、というより歌う人だったが、恰幅風貌、重みがついてなんとなく津大夫に、たとい万分の一なりと似てきたのは、芸がそれだけ進んだ、というより、芸がしっくり身に備わってきたのだ。そういえば寛治も、風貌風格、お父さんが彷彿されるぐらい、よく似てきた。

「書写山」といえば、文楽でも、昭和41年の国立劇場開場のときに復活されたのだが、歌舞伎でも、奇しくも同じ昭和41年に一度だけ、出たことがある。瀬戸内海で入水した先代團蔵の引退興行で、團蔵は『菊畑』の鬼一をつとめ、その前幕として、若き日に見覚えていたという「書写山」を復活上演、孫の銀之助に鬼若を演じさせて死出の置き土産にしたのだった。銀之助、いまの團蔵のことである。その後再演の折がないが、團蔵たるもの、折角の祖父の遺志をせめて一度、後世のために生かす機会を実現するのがつとめではあるまいか。役の仁からいって、現松緑にうつすというのも、ひとつの方法としてよさそうな気もする。先の権十郎が、『野晒悟助』を辰之助経由で現菊五郎に伝えたように。

『天変斯止』は、老齢に至った作者の夢みたいな、シェイクスピアの中でもあまり面白い舞台に出会わない芝居だが、夢幻劇風の感覚が人形に合っていないこともない。どうかと思ったエアリアル英理彦など、人形ならではの軽味が生きている。とはいえ、歌舞伎版『十二夜』の大成功の夢を文楽でも、というわけにはいかない。これで文楽に新作品誕生、とまで言えるようになれるかどうかは、観客の支持次第。功はひとえに、琴をうまく使った清治の作曲にある。

随談第314回 映画の中の昭和20年代

神保町シアターで佐田啓二特集をやっている中から、ほんのぽつりぽつりだが、いくつか見ることが出来た。佐田啓二もさることながら、昭和二十~三十年代の映画を見たいからだ。作品自体への興味もむろんあるが、それ以上に面白いのは、そこに切り取られている映像が語ってくれるさまざまなことの雄弁さである。しかし『君の名は』三部作をはじめ、お目当ての作品の上映日時と、こちらの都合がうまく出会うのは、ほとんど天の配剤のようなものだ。久しぶりに典型的な木下恵介の世界にどっぷり浸るのもいいかと思って出かけた『この広い空のどこかに』も、完売札止めだったし。

そんな中で『自由学校』に出会うことが出来たのは幸いだった。これは小学生のときに、母親に連れられてリアルタイムで見ている。この手の社会風俗を風刺した映画は子供にはよくわからないことが多いが、獅子文六の原作小説は、当時隆盛を極めていた新聞連載小説のなかでもとびきり評判のもので、わが家でも、父が大の気に入りで、あそこがうまい、ここが面白いと、食事のときに母に向かって話しているのを耳学問に聞いていたから、子供なりに勝手はわかっていた。半世紀余りの記憶の奥底から、オオと叫び出したい程に甦るショットがいくつもある。子供の記憶というものは、実に確かなものである。記憶違いももちろん多々あるが、それはそれで、記憶と実際のギャップが多くのことを無言の裡に語ってくれる。

淡島千景と佐田啓二がやっている当時のアプレゲールを戯画化した二人の役が、懐かしいという意味では何とも懐かしいが、映画としていま見るといかにも浮いている。二人が連発する「トンデモハップン」とか「ネバースキ」とかいった流行語は、当時は一世を風靡したもので、当時の『サザエさん』にも出てくる。ちょっと通訳しておくれとお母さんに助けを求められたサザエさんが、ハンサムなGIでもお客に来たのかと出てみると、「なーんだ、チヨコさんじゃないの」。つまり知り合いの娘さんがすっかりアメリカナイズされたアプレ娘になって、「うちのパパ、とっぽいのよ。だからネバースキ」などとやっている、という落ちがつく。トンデモハップンは「とんでもない=じょうだんじゃないわ」、ネバースキは「NEVER好き(こっちは日本語)」つまり「だいっきらい」というわけだが、流行語としては短命だった。わずかに「とっぽい」という形容詞だけが、ある人種の急所をつかまえている分生き永らえた。「とっぽい奴」は、当時もいたし、いまも間違いなくいる。

劇中、清水将夫扮する気障な男に誘われて高峰三枝子が歌舞伎座で歌右衛門の『娘道成寺』を見る場面がある。この映画は昭和26年製作だから、出来立てほやほやのいまの歌舞伎座で、襲名早々の歌右衛門が『道成寺』を踊っているわけだ。当然、ほんの短いショットなのだが、わざわざタイトルに麗々しく断っている。このころの松竹映画にちょいちょい歌舞伎座が出てくるのは、たぶん、社内で何か指令でも出ていたに違いない。二階の吹き抜けロビーがよく使われるのは、あそこが一番「映画的」な場所というわけだろう。

それにしても、この映画は、主役の佐分利信と高峰三枝子に淡島佐田の若手スター以外の重要な脇役に、清水将夫の他にも、田村秋子、三津田健、杉村春子、竜岡晋、小沢栄、東野英治郎などなど、当時の新劇の名優たちがまだ若い顔で続々出てくる。あきらかに彼等の仁と芸を宛てにした配役である。名画から粗製乱造作品に至るまで、「新劇の名優」達なしに当時の日本映画はあり得なかったが、新劇俳優を論じる新劇の論者でそこに目を向ける人があまりいないのは何故だろう? それで思い出すのは、こないだ死んだ山城新吾が映画の現場で実感した「三すくみ説」というのを唱えていた。歌舞伎の俳優は結構映画の俳優を買ってくれる。映画俳優は新劇俳優に一目置く。新劇俳優は歌舞伎の役者にコンプレックスがある、というのだが、なるほど、うまいところを穿っている。

『鐘の鳴る丘』も見た。じつに面白かった。ラジオドラマの映画化によくある、原作に拠りかかった荒っぽい脚本なのだが、焼野が原の新橋駅頭といい、昭和23年という時代が見事に映像の中に切り取られている。菊田一夫作詞、古関裕而作曲のあの主題歌は、われわれ世代の者の耳に貼りついていて、たぶん痴呆症になっても忘れることはないだろう。ところでここにも、往年の名優井上正夫が出ている。映像でその姿を見、声音を聞くだけで、想像するばかりだったその人の芸が、なるほど、と判ったような気がする。