随談第313回 難波昭二郎と古橋広之進

難波昭二郎の訃報を新聞で見つけた。私が見たのは東京新聞だが、朝日には載らなかったようだし、どの新聞にも載ったというわけでもないのだろう。まあ、結果からすれば、プロ野球選手としてその程度の存在だったということになる。何はともあれ、何がしかの感慨なきを得ない名前である。

東京新聞の記事には、「1958年に大学のスター選手同士だった長嶋茂雄氏とともに巨人入り」とあったが、実はこの「とともに」が問題なことは、知っている人も多いだろう。長嶋の巨人入りに際して当て馬にされた男。長嶋は南海に行く筈じゃなかったのか?

別にここで長嶋の古傷を暴いて貶めるのが目的ではないし、事情はともあれ難波自身が巨人入りを決めたことも事実なのだから、いまさらこんなところであげつらっても仕様もないようなものだが、ともあれ、訃報欄に「難波昭二郎」という文字を見たとき、ある感慨が湧き上がってきたのはやむを得ないことである。巨人軍にはめられた人のよい男、しかし自身もおそらく巨人病に罹っていたに違いない。結局のところ、その無念を見返すことができなかった男・・・と、半世紀もむかしの、一銭の関わりもない一野球選手の訃報を見て、しばし追憶に耽ってしまった。

相前後して、こちらは大々的なニュースとして、古橋広之進氏の訃報があった。難波の記事とは天地の違いなのは当然だが、こちらはこちらで、その報道のされ方、各界著名人の追悼の言が、そろいも揃ってあまりにも同じ紋切り型なのに、少々ならず、物思わざるを得なかった。「敗戦に打ちひしがれていた日本人に勇気と希望を与えた・・・」まあ、それはそうに違いないだろう。しかし、あまりにもワンパターン過ぎないだろうか。そんな決まり文句でひと括りにされてしまって、第一、古橋は嬉しいだろうか? それだけでは括り切れないさまざまな思い出が、古橋自身にも、往時をわずかでも知る一般人にもある筈なのだ。そこを、新聞も放送局も、何故拾おうとしないのだろうか。

マスコミ界の現役にいる人たちが、既に現役時代の古橋をリアルタイムで知らない世代だということもあるだろう。はじめから、ひとまとめにされたワンパターン評価でしか知らないから、勘が働かないのに違いない。いわゆるエライ人ほど、評価がパターン化されてしまい、一度出来上がってしまうと、万人によって果てしなくコピーがリピートされる。棺を覆ってのち定まる、というのはウソで、つまり古橋氏は、生前からすでに戒名が決められていたようなものだ。せめてもの救いは、ライバルの橋爪などと一緒に写っている当時の報道写真で、そこに切り取られている情景だけが、当時の息吹きを見事に伝えてくれる。(同時代に活躍した浜口という短距離のスペシャリストは、ターザン役で鳴らしたワイズミュラーの向こうを張って、大映の映画俳優になったが、その後どうしただろう? 確かターザンならぬ「ボナンザ」とかいう映画でデビュウしたのだったっけ。)

ヘルシンキ・オリンピックの400メートル決勝でビリになったときの、ああやっぱり、というかったるい空気をよく覚えている。代表選考のときから、記録が伸びずパッとしないムードだった。本人も照れ隠しに野球帽なんかかぶって記者団の前に現われて「巨人軍にでも入ろうか」などと下手なジョークを飛ばす談話を新聞で読んだ記憶がある。子供心に、こりゃダメだと直感したものだ。むしろ二年前の一九五〇年に神宮プールで開催された日米水泳選手権(のラジオの実況放送)が颯爽たる古橋の最後だったろう。マクレーンという、ロンドン・オリンピックの金メダリストが米軍チームのエースで、つまりこの大会は、前年のロスで開かれた大会といわばセットで、ロンドンの仇を神宮で討つという意味合いをもっていたのだった。私はボール紙を切り抜いて手製の水泳ゲームを考案して、ゲーム上の日米選手権を飽くことなく畳の上で繰り返し開催したものだ。

写真といえば、この春からベースボールマガジン社から刊行が始まった『週刊プロ野球60年』を、書店に予約注文して毎号欠かさず読んでいるが(こういう本の買い方というのは、小学生のころ『相撲』や『ホームラン』や『おもしろブック』を定期購読していた頃以来である)、難を言えば、第一に編集方針がスーパースター中心主義過ぎて、同時代の第一線クラスの選手たちの記事が少なすぎる。(巻末に年度ごとの各チームのスターティングメンバーを載せているのが、わずかに渇を潤してくれるが。)これもスーパースター偏重のあおりで写真が少ないのも残念だ。ONの大きな写真一枚分に、藤尾だの国松だのといった選手の写真を二枚でも三枚でも載せれば、往時は遥かにヴィヴィッドに甦るのに。

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随談第312回 「田之助に聞く会」余燼

やや旧聞めいてしまったが、予告欄に出しておいた「澤村田之助に聞く会」が、今月二日、行なわれた。いまのような装いになる前の『演劇界』に、新世紀第一年の四月から最終号まで六年間、『世紀を超えて』という題で連載していた自伝に、言い足りないところ、こちらからすれば聞き足りないところを補おうというのが趣旨だったが、ここでは、その前後の時間に控え室で田之助氏と交わした、ひとときの雑談の話をしよう。

別にまとまった打ち合わせをしたわけではない。一時間の余も早めに到着した田之助氏が、着替えをしたり何やかやの合間に、同じ控え室にいた私や、神山彰・児玉竜一氏などと、野球の話だの相撲の話だの、あれこれの雑談をする。その事前の雑談に身が入り過ぎて、本番がすこし割を食ったかもしれない。

とにかく、打てば響くようなやりとりである。ツーといえばカーというやりとりがごく自然に運ぶほど、愉快なことはない。たとえば先場所の朝青龍の櫓投げの話題が出る。潮錦がやりましたっけ、と神山氏が言う。櫓投げなら何といっても羽島山だと私が言う。よくご存知、と田之助氏が大喜びする。羽島山は一場所の内に何番も櫓投げで勝ったという話になる。横綱や大関が相手だろうと平気で櫓投げという大技を仕掛ける豪快な力士だった。岐阜の羽島の出身で、だから私は、東海道新幹線に岐阜羽島という駅が大物政治家の慫慂で田圃の中にできるはるか前から、この地名を知っていた。田之助氏は、小学校に上がる前から、幕下以上の全力士の四股名から本名、得意技から出身地まで暗唱していたそうだが、それにははるかに及ばないけれど、私も小学生時代は、十両幕内の全力士や歴代横綱と優勝力士の名前ぐらいはそらで言えた。

『世紀を超えて』をお読みになった人なら覚えていようが、田之助氏は、疎開先の伊豆の伊東でまったく普通の生徒として中学・高校生活を送り、相撲は学校に働きかけて本格の土俵を作り、時の大関東富士に土俵開きに来てもらい、野球は準硬式のボールでプレイをしたという経歴の持主である。裸になって廻しを締めて、現役の大関の胸にぶつかったことのある歌舞伎俳優なんて、しかも女方なんて、他にいる筈もない。

野球の話になる。話のはずみに関根潤三が話題に出る。テレビの野球解説でお馴染みのあの人である。法政のエースだったが、プロ野球が二リーグ制になった最初の年に新人として近鉄パールズに入ったのだが、同時に、同じ六大学から立教のエースだった五井も近鉄に入団したという話になる。こんな話題がすらすら出る人というのは、滅多に出会えるものではない。当時の『ベースボールマガジン』だったか『ホームラン』だったかのグラビアに、五井・関根両投手が仲良く並んだ写真のキャプションに「昨日の敵は今日の友」と書いてあって、私はこの言葉をこのとき覚えたのである。

(五井投手といえば、その二リーグ制最初の年のシーズン開幕間もない一九五〇年の三月三十日、後楽園球場に近鉄・毎日戦を見に行った確かな記憶がある。小学校三年生の春休みだ。荒れ球の五井は、当時はまだビーンボールなどという言葉はなかったが、打者がのけぞるような球を投げて、毎日オリオンズの強打者たちを相手にシャットアウト勝ちしてしまった。この年、毎日は、七色の球を投げると言われた名投手若林や、別当、土井垣、本堂といった、前年ダイナマイト打線と異名を取った阪神から主力選手を大量に引抜いたため、この日も、バカバヤシーとか弁当ベントウとか、しきりに野次が飛んでいたのを覚えている。私に言わせれば、阪神タイガースの苦難は、実にこのときから始まっていまなお続いているのだ。)

・・・というような話を、田之助氏と控え室で楽しんだ私は、すっかりそちらで満足してしまって、肝心の本番がややおろそかになってしまったのではないかと反省している。六代目菊五郎に可愛がられた子役時代の後、自分の意志で小学校六年生から勉強をやり直し、中学高校をまったく普通の生徒として少年時代を過ごしたという田之助氏には、ある特別なバランス感覚が備わっているようだ。

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(番外)歌舞伎座評の一部訂正について ─上村以和於

13日付け日経新聞夕刊に掲載の「歌舞伎座納涼歌舞伎評」の内、第三部の『お国と五平』についての文中、「原作にないセリフを補綴して」としたのは筆者の早計による誤りでした。面目ありませんが謝ります。そこで『お国と五平』の部分を、つぎのように訂正させていただきたいと思います。関係者各位と読者の皆様にお詫び申し上げます。

    

第三部は谷崎潤一郎作『お国と五平』。大正期に書かれた異色作が、ますます今日的な真実味を持つようになった。三津五郎の友之丞のセリフの説得力。扇雀のお国、勘太郎の五平もよくやっているが、幕切れに二人を抱擁させた演出は解釈が一面的過ぎて異論も出よう。あれでは友之丞がまるで結びの神のようになってしまう。

   

(ついでに)

つい先日、神保町シアターで成瀬巳喜男監督の昭和二十七年作東宝映画『お国と五平』を見ました。大谷友右衛門時代の雀右衛門が五平、木暮実千代がお国、山村聡の友之丞という配役で、前にも見ていますが、改めて再見して、いろいろ興味深い点を発見しました。そこではラストが、友之丞を斬った五平が、内心の虚を突かれたかのように駆けるように立ち去ろうとするのが印象的でした。

さまざまな解釈を可能にするのがこの作品の面白いところで、観客にひとつの答えだけを見せるのは、この作の場合、少なくとも賢明な演出とは言えないでしょう。

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随談第311回 東宝現代劇75人の会『浅草瓢箪池』

毎年7月末に東京芸術劇場小ホールで恒例の東宝現代劇75人の会の公演は、今日の劇界にあって知る人ぞ知る、上質の大人の芝居を見ることの出来る数少ない場のひとつである。

ざっと半世紀前、東宝が新しい現代劇の路線を開拓する本拠地として日比谷に芸術座を作るに当たって、座付きともいうべき自前の俳優たちの育成を計画、早速に着手した、つまり言い換えれば、菊田一夫がみずから天塩にかけて育てた俳優集団である。日頃は、芸術座(は既にないが)をはじめ東宝系の各劇場で、脇の役々をつとめるお馴染みの人たちである。森光子の『放浪記』のことは誰でも知っているが、その『放浪記』も、この人たちが脇を固めていればこそあり得たのだともいえる。作者として、また制作者としての菊田のことは誰もが言うが、じつはそれと同時に、こうした集団を育て(ることを考え)た菊田の慧眼こそ、非凡といわねばならない。ともあれ爾来半世紀、長老クラスは、当然だが、半世紀の芸歴を有するベテランたちである。

今年の出し物は『浅草瓢箪池』。おととしは『恍惚の人』、去年は『がめつい奴』だったから、ある意味では、往年の芸術座の再現ともいえる。悪口をいえば、「菊田学校」OBの同窓会と言えなくもない。(そういう、危うさをも孕んでいることは否定できない面もあるのは事実だ。何百かしかない客席のかなりは、関係者や知人友人で占められている気配である。)しかしともあれ、老いも若きも若がろうとする芝居ばかりが隆盛の(そういうものしかないとすら言える)今日、何はともあれ大人の芝居を見せてくれる集団といえば、ここに如くはない。

ともあれ、面白かった。作としても、それは『放浪記』の方が名作だろうが、作者菊田一夫として、より菊田一夫らしいという意味でなら、『浅草瓢箪池』の方が純度が高いだろう。昭和戦前の浅草という土地こそ、作者菊田の揺籃の地であることが、この作を見ているとしみじみ分かる。別に作者論をするのではない。そのことが、作そのものの魅力として、全編を貫いているところに、得がたい味わいがある。

決して格調は高くない。あくまで大衆演劇である。チャチで、安っぽくて、適度にご都合主義的で、程よくあざとい。昭和のはじめ、エノケンが売り出したプペ・ダンサントの裏話という設定で、作者の若き日の自画像を狂言回しの役で登場させ、家出してきた子爵令嬢が一座の踊り子になるなどという「あざとい」設定が、やがて子爵家の没落、時代が飛んで戦後という、時が流れて終幕に至ると、昭和という時代の断面を見事に切り取る仕掛であったことがわかる。この辺が、手だれの作者ならではの手際というものだが、同時に見過ごせないのは、演者たちの舞台俳優としての素養の確かさである。

子爵令嬢になる白井あゆみにせよ、子爵になる児玉利和にせよ、執事になる丸山博一にせよ、見事にそれらしい人物としての身仕舞いを見せる。歌舞伎で言うところの位取りがきちんと身についていればこそである。そう言っては失礼だが、白井など、普段見慣れた舞台からは子爵令嬢など俄かに結びつかない庶民派女優である。だがここという急所になると、ちょっとした身繕いひとつで、凛然とした「姫」としてのたたずまいを見せる。満場、息を呑ませたのは見事といってよい。あれが駄目なら、この芝居、勘所を失してしまう肝心要の役どころであり、場面である。

こういうことがきちんと出来る。そういう芝居が、いまや貴重になった。それにしても、今度の公演、あの小さな小ホールでわずか七回の公演数である。つまり連日満員になっても、見た人は数千人という数でしかないのだ。もう少し、何とかならないものだろうか。

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随談第310回 名古屋場所あれこれ

日馬富士の横綱昇進の話題で持ち切って始まった名古屋場所が、日馬富士の「は」の字も出なくなり、白鵬大横綱論が飛び交いはじめる中で終った。日馬富士は、大関昇進の場所もそうだったが、どうも片真面目なあまり固くなる傾向があるらしい。琴光輝などと違い勝負度胸はありそうに見えるのだが、度胸や勝負勘を管轄する司令塔と、クソ真面目に作動する管制塔と、指揮系統が二極に分裂しているのかも知れない。

琴光輝は俗に言う蚤の心臓というのの見本みたいなもので、優勝のチャンスかと思われた安美錦戦など、最後の仕切りで安美錦が手をついているのに手を下ろせない。駆け引きなのではなく、逡巡なのだ。後のインタビュウで安美錦が、左から攻めようと思ったのだが立会いが合わないので戦法を変えたと話していたが、完全に読まれていたわけだ。普段から、琴光輝と琴欧州は、立会いでいつまでも手を下ろさないことがよくある。駆引きかと思っていたが、そうではないらしい。二人とも、戦略で下ろさないのではなく、躊躇していて下ろせないのだ。つまりは自分のことだけで一杯だからで、ことに琴光輝は自分充分のいい態勢になると、後生大事に守りに入って攻めようとしないので、結局何のための勝負なのか分らない結果になってしまう。勝負師になり切れないイイ人なのだろうが、皇太子さんのところの愛子姫が琴光輝のご贔屓なのだそうだから、愛子姫付きの侍従にでもなったら、気は優しくて力持ちの、宮内庁史上最強の侍従になれるに違いない。

琴欧州は、しかし、先場所白鵬を投げ飛ばした辺りから、やや吹っ切れてきた感じがする。腰が下りて、足が地に着いてきた。今場所も、朝青龍戦と日馬富士戦は立派な大関の相撲だった。負けた白鵬戦だって、四つになって右からオッつけて寄りつめたところなど、かなりの力を感じさせて悪くなかった。優勝した白鵬が支度部屋で髷を直しながら記者団に優勝の弁を語っているテレビに見入りながら、あそこに坐りたかったと語ったそうだが、その言やよしというべきである。

朝青龍は、勝敗よりも、何かの拍子に見せる表情に、盛りを過ぎたベテランらしい風格が漂っているのが印象的である。34年ぶりという櫓投げもよかった。昭和20年代に活躍した櫓投げの名手羽島山は、たしか一場所に櫓投げだけで何勝もしたことがあったのではなかったかしらん。全員が理詰めな相撲ばかりになっては面白くない。

白鵬が土俵下の優勝インタビュウで、相撲道を追求し双葉山のような力士になりたいと語ったのは、モンゴル力士がどうしたのとしたり顔で談ずる人士の少なからぬ中で、痛烈な皮肉というものである。イチローや松井が仮に、タイ・カップやベーブ・ルースのような選手を目指したいと言ったら、アメリカ人はブーと叫ぶだろうか。それにしても、夜のスポーツニュースで野球解説の与田のインタビュウに答える白鵬の日本語の、何となめらかになったことか。これだって、日本の相撲取りはおろか野球選手の「頑張りますので応援よろしくお願いしまーす」一点張りを思えば、思い半ばに過ぎると言わねばならない。充分に組み止めておいて、一発で仕留める投げ技の切れ味は、確かに双葉山流に違いない。

しかし双葉山はともかく、大鵬と比べても、対戦相手の貧困さは往時に比べ否定できないだろう。個々に見れば好力士は少なくないのだが、強豪曲者とりまぜ多士済々という感じがいまひとつ物足りない。安美錦が好調で技能賞を取ったのは、贔屓としては喜ばしい。栃若時代に、若乃花をしばしば破り、双差し名人でりゃんこの信夫と異名のあった信夫山の速攻と、体重が倍以上もある鏡里に三連勝した鳴戸海の妙技を搗き混ぜたような存在と見て、私は珍重しているのだが。勝利の弁を語るインタビュウのとぼけたような応答も、紋切り型の多いいまどき、なかなか味があって面白い。

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