随談第309回 急がない話

十五年ほど続いた新橋演舞場の舟木一夫公演が今年はなさそうなので残念に思っているのだが、その代わりのように、明治座で五木ひろしの歌手生活45周年記念の公演が結構楽しめた。「歌舞奏スペシャル」と題する二部構成の第一部は、洋舞・日本舞踊のアトラクションがちとわずらわしいのが玉に瑕だったが、第二部の、45年を象徴する56曲をひとりで歌うメドレーというのが、なかなか聞かせた。時代を表すというので、いわゆるフォークソングが主体、自分の歌他人の歌、たっぷり聴かせるのもあればほんのひと節というのもあり、1時間半、歌い通すサービスぶりに芸がある。

私は別に五木ファンというわけではない。よほど大ヒットした歌でなければ、格別な親しみがあるわけでもない。しかし、常に客と有形無形の綱引きをしながらステージを展開してゆく歌謡曲というジャンルならではのサービスぶりには、確かに見るに値する芸がある。それは舟木についても毎度楽しんでいることだが、まあ、なかなかのものである。

舟木の場合は、前にも書いたが、間奏の間に、つぎつぎとファンから手渡しされるプレゼントだの花束だのを片端から残らず受取るのが既に見ものになっている。間に合うかとはらはらさせながら、時には、紙袋を小指一本で受取ったりしながら、見事に残らず受取ってみせる。ステージの上にそれを置き並べる台が舞台装置のひとつとして用意してあって、そこへ並べてゆく。この芸当は、五木には出来ない。代わりに、すべてのステージが終った後に、つぎつぎと受け取ってフィナーレになる。それはそれで悪くないが、それで気がついたのは、舟木と五木と、ふたりの歌う歌の違いということである。

二人にどれほどの年齢差があるのか知らないが、彼らがスターとして登場した約十年の時間差の間に、歌謡曲というものが、私の見るところでは、大きく変化している。つまり、舟木の時代までの歌謡曲は、基本的には、(岡晴男を最も典型とするような)スッチャカスッチャカと楽隊が演奏する(仮にこれを「スッチャカ歌謡曲」と名づけようか)戦前から続く歌謡曲だったのが、五木の時代になると、ごく初期の、売り出しのころには多少その名残りがあるが、スッチャカスッチャカという、あの何とも(ときには軽薄だったり安っぽかったりする)調子のよい歌謡曲ではなくなってしまうのだ。「演歌」という、湿度がやたらに高い歌がそれに取って代わる。

ところで私の見た日、日替わりのゲストに、新谷のり子が出てきてあの『フランシーヌの場合』を歌った。70年代という時代に格別の思いのある世代の人間では、私はない。私にとっての記憶の根元となる郷愁の日々はもう少し前の時代だからだ。しかし、四十年間ほとんど忘れていたような彼女が登場して、あの歌を歌うのを聴く内に、何とも名状のできない思いに捉われて、いつか目頭が熱くなっている自分に気がついた。歳月というものの力である。歳月は、それだけで、人を感動させるのだ。新谷のり子という存在には、歳月を甦らせるだけの力があった、ということなのだろう。

ちょうど七月の最終土曜日で、隅田川の花火の日である。公演が終って浜町公園まで出てみると、川を隔てたビルの合間に遠花火が見えていて、それを見物にそれなりの人出がでている。さまざまな花火が間断なく打ち上げられ、音も遠く響いてくる。遠花火には遠花火の風情があって、これも悪くない。小一時間、充分に楽しんだ。

一年前の今ごろは、暑いさなかの京都に出かけ、半日を祇園の一力で過ごし、一日を賀茂川の水源に遊んだが、格別な夏の予定のない今年はこれがほんのひとときの夏の息抜きともいえる。そういえばつい前々日、検査のため一日入院をしたが、あれも思えばケア付きホテルで一泊したようなものかもしれない。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

随談第308回 今月の(やや強引な)お奨め

その一。海老蔵の『海神別荘』の公子。とりわけ終盤の、そして眼目の、玉三郎の美女との対話のセリフ。人間界の愚かさを嘲笑し、驕慢と独善と、同時に寛大さと優しさと、無知と理解と、相反するものを平然と同居させている竜宮城(彼、あの乙姫様の弟なのだ!)の公子というキャラクターに、およそ海老蔵ほどふさわしい役者は、過去をさかのぼってもいないだろう。私の見た日、この場面は満場固唾を呑んで聴き入ったかの如く、水を打ったような静けさだった。やがて緞帳が下りてくると、張り詰めたような拍手が降ってきた。

そもそも、じっくりと人の話を聞くという愉しさ、喜び、快さを、現代人が忘れてしまってから久しい。名人の噺に固唾を呑んで聴き入って、サゲを聞いてからどよめきと共にほっと我に返るという、かつての落語会で時に覚えた醍醐味を、しばらく忘れていたような気が私自身している。あれは何とも、いい気分なものだった。『海神別荘』の幕切れの拍手を聞きながら、私はそのことを思い出していた。セリフ劇として、海老蔵と玉三郎の対話は、今月といわず近頃の演劇界での白眉と言ってよい。

鏡花の魅力はつまるところ言葉である。玉三郎の舞台俳優としての最大の功績は、もしかすると鏡花の言葉を肉声として魅力的に聞かせた最初の役者であることかも知れず、それは『天守物語』を見れば、いや聞けば、よくわかるが、それとはちょっと意味合いが異なるにせよ、セリフを聞かせる劇としてこれだけのレベルで演じたと言う意味で、こんどの『海神別荘』は上演史上ベストといってもいい。

その二。梅枝の『藤娘』。こちらはまさか上演史上最高というわけではない。しかし、やや初物買いの意味合いも含めて、これこそまさに「お奨め品」である。まだ手付かずの処女峰を征服する登山家の気分が味わえるかもしれない。

国立劇場の鑑賞教室の演目に舞踊が選ばれたのはもしかするとはじめてかもしれないが、梅枝にしてみればそういう機会なればこそ巡ってきたチャンスだったといえる。私としても密かに期待するところがあったのだが、果たして、予期に勝る上等なものである。「上品」と書いて「じょうぼん」と読む。清らなる上品。そこが値打ちであり、それは点数などには換算出来ない性質のものだ。もちろんまだ幼さの残る花なら莟だが、しかしいまそのときにしかない美しさという意味でなら、梅枝のこの踊りは極上品である。その清楚さ。文字通りの意味でのORTHODOXYの持つ端正の美。それを守り通す意志の勁さ。幕切れの余韻の美しさに至っては、いま既に、どこの誰と比べてもヒケを取るまい。

じつはつい先月末、移転新築に伴って開場した新しい日経ホールの杮落しで玉三郎の踊る『藤娘』を見た。まさに豊潤の極みの『藤娘』で、その微醺に心地よく酔ったが、時分の花と誠の花と、短時日の内にふたつの素晴らしい『藤娘』に巡りあえたのは仕合せここに尽きるといってもよい。

それにしても、梅枝のあの(何と表現すればいいのだろう)玲瓏な肌をした長い顔の、何と曽祖父の三代目時蔵によく似ていることだろう。まだ自分でその美しさをどう有効に使えばいいかも知らないナイーヴさだが、やがてよい年配になり芸も実った時、その古典美は、ちょっと類のないものになる筈だ。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

随談第307回 新国立劇場『鵺』

三津五郎が出演する新国立の坂手洋二作『鵺』を見た。先月は勘三郎に引かれて現代劇バージョンの『桜姫』を見て、案に相違の結果にがっかりしたが、こんどもまた、あまり感心するわけにはいかない。勘三郎にせよ三津五郎にせよ、いま最も盛りの季節にいるふたりが、いろいろな試みに挑戦してみようという意欲は壮とすべきだが、せっかく取り組もうとする作がこれでは、応援し期待するこちらも、不完全燃焼限りもない。企画や、出演を決意する段階ではまだ脚本は出来ていないのだろうから仕方がないといえばそれまでだが、せっかく、客席から切歯扼腕するしかないこちらとしては、勘三郎や三津五郎があたら才能とエネルギーを無駄遣いさせられているように見えて仕方がない。やって甲斐ある失敗なら結構だが、やっても甲斐ないことに精力を消費するのは、見るだに切ない。作のつまらなさは措くとしても、勘三郎にせよ三津五郎にせよ、これらに出演したことで、何か得るものがあっただろうか。少なくとも客席からみる演技の上では、どうもそうは思われない。

『鵺』は、例の『平家物語』の源三位頼政の退治した猿と狸と虎と蛇が合体した怪物をモチーフに、能の同名の作を書替えの典拠として、「現代能楽集」と銘が打ってある。と聞けば、それなりの期待を抱いても不思議はないが、現代と過去の重ね方が散漫で、説得力が弱い。さまざまな矛盾を抱え込んだ人間の状況や人間そのものを「鵺」的な状況、「鵺」的な存在として捉え、天皇制の問題だの何だのを心棒か団子の串のように貫いてみせるというその構想は理解できる。だが、そこに寄せ集められたモチーフが、思いつきといっては悪いが、作者が考えたであろう程には必然性が感じられない。寄席でよくやる「音曲吹寄せ」ではないが、「鵺」という一点で重ね合わされるものを吹寄せただけ、というように見える。大体、人間と言う存在そのものが「鵺」的な存在であり、あなたもわたしもその意味ではみんな「鵺」なのだ、ということは現代人にとっての常識であって、この戯曲に吹寄せられた程度の「鵺」的状況は、別に、何かをわれわれに気づかせたり、ショックを与えたりするほどのものとも思われない。

第一部の時代劇の部分で、鎧をつけ烏帽子をかぶった武者姿で登場する三津五郎は、そのたたずまいといい、朗々としたセリフといい、かくもあらんというだけのものを見せるが、三津五郎としては当然持てる力を発揮したというまでだろう。つまり、特別出演としてこの部分だけの出演なら、それだけの存在感を示してさすが、という評価もあり得るが、その後の、復員兵になったり現代の企業マンになったりという部分に、三津五郎なりの損境地開拓はあったのだろうか?

それにしても、いつも思うのは、新国立劇場としては、出演者をどういう基準で選ぶのだろう? 今度の四人の出演者の中に、セリフをろくに言えていない俳優がいる。はじめの時代劇の部分など、鎧武者になってのセリフが何を言っているのかまるで聞き取れない。最後のベトナム青年の片言みたいな日本語が一番それらしかったというのは、ほめていいのかどうか? 迷わざるを得ない。文学座なら文学座の公演だったら、座員という限定された中から選ぶのだから、適任者不足を次善三善の配役で我慢するということも、まあ、あり得るだろう。だが、新国立の場合は・・・。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

随談第306回 幸四郎に弥太五郎源七を

六月の歌舞伎座は、と今ごろになって言い出すのは既に旧聞のようだが、黙阿弥狂言が同じ夜の部に二つ続いて出たり、その他も何とはなしに献立がちぐはぐで、一品料理としてはそれぞれ悪くないのだが、フルコースとしてはお腹の納まり具合がよくなかった。仁左衛門ファンは見納めの与兵衛に堪能しただろうし、高麗屋贔屓は金太郎君の四歳とも思えぬ毛振りに涙腺を刺激されただろうし、そうした話題性には欠けたとしても播磨屋党は長兵衛の見事な風格と、達師と呼ばれる身の哀しみまで余すところなく聴かせるセリフの妙に酔っただろうし、一つ一つ見る分には、なかなかの好舞台が並んでいたのだが。

私は敢えて、新聞評のトップに『双蝶々』の「相撲場」を掲げた。評判物を横目に見るというへそ曲り気分もないではなかったが、しかし何と言っても、幸四郎と吉右衛門が濡髪と放駒になるという顔合せを立派に満足させてくれた、これぞ大歌舞伎ならではの贅沢というものである。幸四郎という人は、この濡髪のように、大づかみに役を掴んで太い線描でぐいと描いて見せたとき、いい芝居を見せる。かれこれ二十年の余になるが、毛剃をやったとき、アッと思うような出来映えだった。また見たいと思うのだが、何故かやらないのは惜しいものだ。濡髪はもちろん敵役ではないが、この「相撲場」では、ちょっと悪が利いているぐらいの方が、放駒との対照が面白い。

対する吉右衛門も、久しぶりに大人の芸で見せる放駒を見せてくれた。この役はもちろん、若くて直情で少し生意気なアンチャンだから、いつか海老蔵が博多座でやったのがドンピシャリのような面白さだったが(海老蔵十傑の内に入れていいと思っている)、とかく、まあひと通りというところで終ることになりがちだ。いつか十三代目の仁左衛門が与五郎と二役変って見せたときに面白かったのがいまも目に残る。吉右衛門はもちろんそれとは違うが、大人の芸で見せる面白さという意味ではそれ以来かもしれない。おまけに、吉之丞と歌江が仲居の役で顔を見せる。ただ舞台を通り過ぎるだけのようなものだが、彼女!たちがいなくなってしまったら、おそらく永遠に見られなくなるという代物である。これぞ文字通りの意味の無形文化財だ。

ところで、この月好調の幸四郎がもうひと役、夜の部に髪結新三をやっている。二度目だけのことはあって前回よりもずいぶんこなれがよくなっていて、周囲も手ぞろいなお陰もあって面白く見られたが、幸四郎がやると新三が何だかエライ人みたいだという批評があるのは尤もではある。弥太五郎の歌六が演技としては申し分ないのに、幸四郎とのバランスがよくないのもそのためだが、もっともそれをいうなら昔の松緑の新三だって、江戸っ子ぶりはいまも目に鮮やかでも、どこかの大親分みたいな貫録だった。幸四郎としては、濡髪との対照で、新三のような小手の利いたところをやってみせたかったのかも知れない。

ところで、と先にこの話を切り出したのには、じつは訳があって、まあ新三も悪くないが、じつは私は、前から、幸四郎の弥太五郎源七というのを見たいと思っているのである。弥太五郎という役は、いまの『髪結新三』の立て方では、新三役者との対照上、相当の役者の勤める役ではあるものの、役としては新三の言うように箍の緩んだおじさんのまま終ってしまうが、『梅雨小袖昔八丈』全編としてみると、閻魔堂橋で新三が死んでしまった後は、即ち劇の後半の主役である。演じようによっては、なかなか演じ甲斐のある役だと思う。いちど幸四郎の弥太五郎で『梅雨小袖』全編を通し上演してみたら、さぞかしいいのではあるまいか。そおらく幸四郎十傑に入る傑作になる可能性があると思うのだが。

よしまた通し上演でなく、いつもの『髪結新三』ででもいいから、深刻すぎてちょっと役をはみ出してしまう懼れもあるが、いちど幸四郎の弥太五郎をみたいものだ。言うまでもないが、この役、かつては初代吉右衛門のやった役である。むかしの奥役よろしく、こう勧めてみようか。いかがです、お祖父さんの当たり役、やってご覧になる気はありませんか?

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket