随談第299回 文学座『花咲くチェリー』

文学座が北村和夫追悼と銘打って、ロバート・ボルトの『花咲くチェリー』を坂口玲子新訳、坂口芳貞演出で上演した。大勢の脱盟者が劇団「雲」を結成するという騒動のあった後の、残った人たちや新進の俳優たちの活動がそのまま、今日の文学座の基盤となる。北村和夫の『花咲くチェリー』はそのシンボルともいえる、いろいろな意味で記念碑的な成果だった。ロバート・ボルトも脂の乗り盛りで、トマス・モアとヘンリー八世の確執を題材にした歴史劇『わが命つきるとも』は、ポール・スコフィールドがモアになった映画もよかったが、芥川比呂志がモアになった舞台も面白かった。私にとっての「新劇」は、あの昭和四十年前後が一番なつかしい。今度の舞台にも、久しぶりに「新劇」らしい「新劇」の匂いを嗅いだ思いがする。

紀伊国屋ホールの舞台も、演じる側から見ると仕勝手の悪さとか、いろいろ問題もあるらしいが、久しぶりに客席に坐ってみると、近頃出来の、どこかよそよそしい小劇場にはないぬくもりが心地よい。思えばこのホールは、小劇場の草分けでもあるわけだ。(ロビーに「紀伊国屋寄席」のポスターが貼ってある。紙の色は少し変ったが、デザインは昔のままだ。この寄席にも、ある時期までほとんど毎月欠かさず通ったものだ。当時はホール落語の全盛時代で、東横ホール、三越劇場、国立小劇場でのTBS主催の落語研究会など、いろいろ梯子もしたが、場内の雰囲気といいキャパといい、顔ぶれといい、紀伊国屋が一番よかった。開場が東京オリンピックの年だから、志ん生はもう倒れた後だったが、桂文楽はまだ健在だったし、円生、正蔵、小さんに馬生が常連で、他に誰かしらが出る。これらの名前が円生以外すべて先代であるのは今昔の感という他ないが、この人たちの一番いい時期を聴けたのは、いま思えば何という贅沢であったことだろう。)

さて、いい加減に閑話休題としないと、『花咲くチェリー』がどこかへ行ってしまう。間口が狭いのを工夫した大道具の飾りが、この家の構造がどういう風になっているのかつい考えてしまうのが、ちょっと判じ物めいた面白さもあって、それが、劇の進行につれて、この家の住人たちの抱えている問題があからさまになってくるのと平仄を合わせているようなのが、なかなか上手くできている。(下手の黒い塀がちょっと源氏店みたいで、お富を尋ねて与三郎が現れそうな気がしないでもないけれど、もっとも、そんなことを考える観客は、私ぐらいなものかもしれない。)

息子の兵役の問題とか、しきりに読んでいる本がT.S.エリオットであったりとか、初演当時と時世の変ってしまった点はあるが、これは妙にいじるより、そういうものだと割り切ってしまったのは賢明だった。それを気にさえしなければ、夫婦の関係とか、息子や娘との関係とかいったことは、むしろ現代の方が、日本人の家庭や社会のあり方がこの作の家庭のあり方と重なり合い、身につまされたり共感したりできる面が多くなっている。主人公のジムが火掻き棒を捻じ曲げることにこだわるのは、多くの日本の男性には意味は判るが実感は遠い。渡邊徹の巨体をもってしても如何ともしがたい。アングロサクソンの男というのは何ともマッチョなものよと思うしかないが、こういうことは翻訳劇には大なり小なりついて回る、致し方のない問題である。サムソンだのヘラクレスだのの記憶が、西洋の男には濃厚に刷り込まれているのだろう。

役者も適材適所、おおむね的確な演技だが、息子のトムをやった植田真介が感受性豊かな柔軟な演技で、この役の多面性を面白く見せたのは、何かご褒美を貰って然るべきだろう。キャロルの吉野実紗の健康なグラマーぶりも悪くない。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

随談第298回 日馬富士の優勝

日馬富士の優勝はよかった。何と言っても新鮮である。いざ優勝が決まってみると、それは想像していた以上のものがある。間際まで、優勝するとは想像し難かった意外さも、新鮮味を倍加した。大関での優勝、それもまだ昇進して日の浅い若い大関というのもいい。何がなし、ずっと続いてきた地図が書き換えられそうな予感をさせるからだ。

しかし何と言っても、この優勝を価値あるものにしたのは、本割と決定戦と、千秋楽での二番の相撲である。本割の琴欧州戦がよかった。立会い、その後の展開、完全な失敗で、長身の琴欧州に双差しを許した上、片手バンザイという絶体絶命の体勢になったところから文字通り乾坤一擲の首投げで逆転、一発で仕留めた勝負勘と勝負根性が素晴らしい。テレビで解説をしていた北の富士氏が、伝説の栃錦・大内山の一戦を連想したと言ったのは流石である。栃・大内戦は、大内山の猛突っ張りを掻い潜っての首投げだったから、展開はまったく違うし、2メートルを超える大内山がオランダの風車みたいに大きく弧を描いて投げられたのだから、絵模様にも差はあるが、一瞬の勝負に賭けた勘と度胸には相通じるものがある。胸がすいた。北の富士氏の言を受けて、身体の大きさと身長の差は共通しますねとアナウンサーが受けたのも、褒めていい。(いつも相撲放送のアナの悪口ばかり言っているが、これは、なかなかよく受けた。)前に、その風貌から、日馬富士を栃ノ海になぞらえたことがあるが、この一番の、ズバリと切り落とすような鮮やかさと度量を感じさせる見事さは、栃錦以来といっても大袈裟ではない。

優勝決定戦もよかった。相撲内容としてはこちらの方が完璧に近く、左差しで喰いついて、機を計って片手で相手の膝を叩きながら下手投げを打って、連続業で決めた。これは、昭和37年夏場所、関脇だった栃ノ海が横綱の大鵬に渡し込みで勝って初優勝したときの相撲を思い出させた。

白鵬は、この一番と十四日目の琴欧州戦で見ると、双葉山風の受けて立つ自然流の相撲を心掛けようとして、やや後手に回ったきらいがある。大鵬や双葉山風の、すべてに応じ流れに従う相撲は、たしかに王者の安定感があるが、下手をするとやや甘い相撲になりかねない。今場所の白鵬には、負けた相撲以外にも、若干そういうきらいがあったと思う。

朝青龍のことは、おそらくいろいろな方面から言いたい放題の批判が出るだろうが、ベテランの横綱らしい大人の風格はなかなかよかった。相撲というものは、勝負ばかりでなく、土俵を通じて見る力士たちの風情やら風格やらにも、見逃せない味や面白みがある。そういう意味から、今場所の朝青龍は私には興味深く、また好もしかった。優勝決定戦前の支度部屋風景で、準備運動をしている日馬富士に朝青龍が声を掛けに来たシーンなど、なかなかよきものだった。白鵬がひとり鉄砲柱に向かっている光景も印象的だった。

高見山の東関親方が停年で退職するというので、実況の合間に特集があったが、観客入口で切符のもぎりをしている光景が印象的だった。私も、もぎってもらった覚えがある。去年の不祥事続きの折、相撲界出身者だけで協会を運営することに批判が続出したが、それはそれとして、昔の人気力士が年寄として入場券をもぎったり場内整理をしたりする光景はなかなかいいものだ。プロ野球なんかでも、球場の入口で往年の強打者や名投手に入場券をもぎってもらえたらどんなに嬉しいことだろう。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

随談第297回 このごろ都に流行るもの

蒙古襲来騒ぎみたいなインフルエンザ水際作戦の素人の常識でもわかるアホラシさについて、「戒厳令のススメ」というパロディを書こうと思っていたら、『週刊文春』に戒厳令という言葉を先に使われてしまった。小手先の水際作戦などよしにして、やるならいっそ戒厳令を出して、まず隗より始めよで上は国会から各銀行や企業から、コンビニや飲み屋に至るまで、はたまたプロ野球だろうと大相撲だろうとJリーグだろうと、とにかく世を動かし人が集まるものはすべて中止、空港も閉鎖して一時鎖国状態にしてしまったらどうだ、というススメである。

蒙古軍は船団でやってきたので神風の加護もあって水際で何とか防げたが、目に見えないウィールス軍は水際を楽々と越えていたわけだ。アタリマエの話だと思うのだが、専門家というものはそういう常識を働かせるということをしないのだろうか。こうしたときに何より必要なのは、なまじな専門知識より、コモンセンスなのだ。渡航歴にこだわって患者を見逃した、などというウソみたいなホントの話は、専門家というもののアホラシさの見本のようなものだ。もちろん、見逃したお医者さんはむしろ被害者で、罪はそういうガイドラインを打ち出した厚生省だの何だのの方にある。

昔は風が吹けば桶屋が儲かったそうだが、当世は風邪が流行るとマスク屋が儲かるらしい。蒙古襲来ならぬ敵機B29来襲に竹槍で立ち向かえと督戦された昔を思い出す。みんなそろってマスクをして、あれで鉄兜をかぶれば70年代の全共闘隆盛時代のゲバ学生の集団の光景にも似てくるが、B29のころは、防空頭巾というのをかぶったものだ。むかしの山賊がかぶっていた山岡頭巾というのと同じ形で、各家庭で手製でこしらえた。綿入れだから防寒にはいいが、火がついたら大変だろうに、みんな、空襲警報が鳴ると大真面目でかぶったものだ。そのうち、目だけ出して鼻と口を覆うようになっている改良型が推奨され、わが家でも母親が改良型を子供たちにこしらえてくれたのをかぶるようになった。これなら安全だ、と子供心に思ったのを覚えている。まだ小学校にも入らない幼時の記憶だが、こういう記憶は確かなものである。マスクも、この改良型防空頭巾に負けずに役に立つといいですね。

それにしても、休校措置を取った関西の高校で、親が勤務先から出社を止められたとか、休校が解除になってからも、制服を着ているとどこの学校か分ってしまうから私服での登校を認めた、などというニュースを聞くとつくづく溜息が出る。どうしてそういうことになるのだろうか。とかく日本人は・・・といったたぐいの俗流日本人論は嫌なものだが、日本人だろと何人だろうと、こういうときの世人の心の狭さというものは、なんともやり切れない。

こうしたニュースを伝える若手のアナウンサーや報道記者も、若いから気負うのも無理はないともいえるが、妙に物々しい態度・口調なのも気になる。あれでは北朝鮮の例の女性報道官を笑えなくなってしまう。本当はみんなワカッテイルのかもしれないが、建て前上、また立場上、マジメな顔をしていなければならないということもあるだろう。しかし、自分は今、こんな重大ニュースを報道しているのだぞ、という自負があの物々しさにつながるのに違いない。それをスタジオにいて受けるキャスターだのゲスト発言者だのなかにも、物々しいしたり顔でコメントをする人が、たいがい一人ふたり混じっている。こうして、狼ならぬウィールスは、実際の何倍もの巨大怪物に変貌してしまうのである。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

随談第296回 文楽の『ひらかな盛衰記』

この月の文楽は国立文楽劇場開場二十五周年とかで、開幕に『壽式三番叟』を出したりするわりには、『伊勢音頭』だの『日高川』だの、何だか納涼公演みたいな演目が並んだ。住大夫が『油屋』を語るというので、それ目当ての人で昼の部の方が大勢押しかけているようだが、住大夫の芸を聞く面白さはあるにせよ、やはり『伊勢音頭』というのは歌舞伎で見てこそ面白いのだということを改めて思わざるを得ない。「奥庭十人斬の段」などを見ると、随分残酷なんだなあ、などと他愛もない感想が浮かんだりする。よく福岡貢の役の性根としていわれるピントコナという、和事と辛抱立役を掛け合わせたような、わかったようなわからないような役柄に、夏芝居の風情をブレンドしたところに、歌舞伎ならではの知恵があったのだ。

『日高川』も、今度切語りになった咲大夫に「真那古庄司館」を語らせるところにミソがあるのはわかるが、それ以上に出るほどの感興は湧かない。せっかく切り語りになっての初の床としては、第一球に変化球を投げるようなものだ。(むかし阪神の名投手で、七色の球を投げるといわれた若林というピッチャーがいた。セ・パ二リーグに分かれた年、新結成の毎日オリオンズに移籍したとき既に四〇歳になっていた。この若林が、第一回の日本シリーズ第一戦に先発として登板することになって、ひと晩考えて第一球はボール球を投げることにした。老巧な知性派投手の高等数学的投球というので伝説になったが、今度の咲大夫の「真那庄司館」にそれほどの「哲学」があったかどうか。)

というわけで、今回の文楽は夜の部の『ひらかな盛衰記』の方がはるかに面白かった。「梶原館」などは、文楽だとちょいと地味目で、平次景高の役を、お弁当をいろいろくっつけて仕立て直した歌舞伎版の方がおもしろいが、「先陣問答」から「源太勘当」と語りこむ内に、やはりこの作は浄瑠璃をみっちり聴くために出来ているのだと思わせられる。

しかしそれよりも更に面白かったのは、「辻法印」から「神崎揚屋」で、嶋大夫のねっとりした語りとコトバのうまさで、堪能させられた。しかし思いもうけぬ拾い物は、次の「奥座敷」で母の延寿とお筆千鳥の三人の女を語った咲甫大夫で、お筆と千鳥の姉妹の、おとこまさりで思考も行動も直線的な姉と、女性らしいやさしさの陰に、強烈なまでの芯の強さを秘めた妹の対照、母の延寿の知的な捌きを浮き彫りにしたのは手柄といってよい。それにしても、梶原家というのは、余計な賢しらから矢を射そこなって恥をかく父の平三景時にせよ、先陣争いで負けて恥をかき、名誉回復のための戦を前に女房を廓勤めさせる源太景李にせよ、(平次景高は問題外にせよ)男たちは揃いもそろってダメ男で、女たちのおかげで持っているのが、こうして見るとよくわかる。(当節はやるジェンダー論のセンセイたちに教えてあげよう!)

改めて思ったのは、この前の『襤褸錦』といい、文耕堂という作者の知的な魅力である。前者で、阿呆の兄助太郎を敵討ちの足手まといと我が手にかける母と、後者で、廓の客になりすまして傾城梅ケ枝の千鳥に三百両の合力をし、敵討ちのみを念じて生きてきたようなお筆の説得に成功する、情理兼備の母延寿と。

率直に言って随分と手薄になってしまった文楽の現有勢力だが、いざ聴いてみると、予期せぬヒットが巧打される。腐っても鯛? いや、これぞ底力というべきだろう。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

随談第295回 前進座『江戸城総攻』

国立劇場でやっている前進座の『江戸城総攻』がなかなかいい。「勝安房屋敷」といわゆる『慶喜命乞』を第一幕、「薩摩屋敷」の勝・西郷の会談といわゆる『将軍江戸を去る』を第二幕として合計二時間と五分に圧縮した鈴木龍男の改訂がよくできている。先達ての劇団若獅子の『王将』もそうだったが、本来別々に作られ、上演された三部作を、一本の長編として再生させることに成功している。

成功と言った理由は二つ、ないし三つある。ひとつは、このような形で一日の上演を可能にしたこと、それ自体の意義。もうひとつは、別々に上演したのでは見えにくい一貫性を明らかにし、一本の歴史劇として成立させたこと。もうひとつは、平素、ついアプリオリにあるものとして継承され、ときには一種の「型」のようにすらなっている演技や演出を、洗い直し、一作品としての構成上、本当に不可欠であるかどうかを検討・反省する契機としての意義である。第二と第三は連動しているが、どちらかといえば第二は、脚本に内在するものの「読み」にかかわる問題であり、一方第三の理由は、演技演出という舞台上の表現にかかわる問題と言える。

たとえば第一幕で「勝屋敷」を出すことによって、益満休之助という人物の輪郭が明確になり、勝と山岡と西郷の三者の関係が平素の『慶喜命乞』だけ見るよりもくっきり描き出されることになる。おのずからそれは演技にも反映して、山岡が必要以上に江戸っ子がったり、西郷がむやみにワハハハと高笑いして豪傑ぶりを強調したりする必要がなくなる。夾雑物をそぎ落とすことが可能になった。(それにつけても、「勝安房守屋敷、慶応四年三月六日午後」という場面ははじめて見たが、序幕としてなかなか面白い。勝も山岡も、いつもの『慶喜命乞』や『薩摩屋敷』だけで見るより、人物としてもうひとつ奥行きのある姿を見ることになる。改めて気がつくのは、山岡は青果好みの人物であるばかりか、更に進んで、作者の分身でもあるかのようだ。)

通常の『将軍江戸を去る』の序幕の、天野八郎以下の彰義隊の面々が警固している中を山岡が押し通る場面もカットされる。これはこれで、彰義隊を一筆書きにした面白さもあって捨てがたい場面だが、大総督府の詰所に駆けつける場面と趣向がつく半面があるのと、時間の関係もあるだろう。 さっき成功の第二の理由として挙げた、別個に上演したのでは見えにくい歴史劇としての一貫性というのは、こうして場面を時系列に従って組み替えて提示すると、わずか一ヶ月という切迫した中での動きが明瞭に見えてくるわけで、歴史の急所に触れるスリリングな経験を観客もおのずからすることになる。

役者も気合充分、稽古も充分。山岡が全編を通じての中心であり儲け役でもあるが、嵐広也は若々しい山岡であるのがいい。大歌舞伎でやる山岡は、どこか、後年の名士となってからの姿から逆算してこしらえている気配があるが、それと無縁なところが前進座ならではといえる。藤川矢之輔の西郷も、のちの大西郷のイメージからは大分軽い人物に見えるのは、大局において、すなわち七分目は納得、それにしてももうちょっと重みがあってもと思わせるのが三分というところか。嵐圭史の慶喜は、知的でありながら内面に湿潤な鬱屈を秘め持っているところが面白い。歴代の慶喜役者中でも相当の成績。一番儲けたのは勝海舟の瀬川菊之丞で、知の爽やかさを演じて、まさしく前進座の三津五郎である。

「中村梅之助舞台生活七十年」に「松本清張生誕百年」という肩書のついた『左の腕』は、四十年近く前に見た翫右衛門所縁に比べ、二番目狂言としての座りがよくなっている。そのことが、前進座特製の新世話物として、いいことかどうかはまた別の問題だろうが。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

随談第294回 大正9年生まれ

前回、森光子と雀右衛門が大正9年、1920年生まれの同い年で、ふたりがいつまでも若いのは、前半生は何かと頭を押さえられたり、紆余曲折の歩みの果てに、ようやく高齢に達して頂点に立ったという人生の歩み方にあるのではないかと書いたが、もうちょっとその続きを書きたくなった。

森光子が『放浪記』で主役をつかんだとき、すでに四十歳になっていた。あいつよりうまいはずだが何故売れぬという自作の川柳は、内心の口惜しさと鬱屈を、川柳という自身を客観視する笑いの器に盛ってみせたところが、おのずから森光子の芸と会い通じているのが卓抜だが、名句というべきである。その無念さ、満たされぬ思いが、彼女の役者人生の根元にあって、人一倍の売れっ子になってからも、飽くなき貪欲さとなって生きつづけているのに違いない。満たされぬ者は、若いのである。

雀右衛門は、戦地に六年を過ごした後、戦後帰国してから女形の修業を始めた。わずか三歳しか違わない歌右衛門を、遥か先を行く先輩と立てて、しかし機鋒は内に密かに秘めて、追走する。ほとんどそれは、絶望的な努力であった筈である。歌右衛門・梅幸に続く第三の女形などと、マスコミ流のキャッチフレーズがついたりもしたが、歌右衛門は第一世代に数えられ、雀右衛門は第二世代に属するものとされた時代が、ほとんど昭和という元号が終わりになろうという頃まで続いた。この第二世代には、当時「谷間の世代」という別名がついていた。第一世代と、その子どもたちの世代である第三世代との間に存在する、くすんだ世代というわけだ。雀右衛門の無念さ、満たされぬ思いは想像に難くない。

森光子が、従兄弟のアラカンのもとで映画女優から出発し、前座歌手となり、戦後はラジオや初期のテレビで、ダイマル・ラケット等の漫才師の相手をするといった波乱に富んだ前半生は、彼女の芸が、日本の大衆芸能のさまざまなジャンルから養分を吸い取って肥やしにしていることを物語る。このほど本になった半生記は、一見さらりと語りながらじつは凄いことを語って実に面白いが、思えばこういう、雑多ともいえる経験があの芸を作り出したわけだ。自伝を読んで面白かったのは、まだ駆け出しの映画女優の頃から、他人の芸をよく見ていて、それとは違うことをやろうとしたという一節である。他人のすることをよく見て、芸を盗むというのとは、ちょっと違う。私は生意気な女優だったと自ら言うが、不逞といえば不逞な、いわば、中日の落合監督言うところの「俺流」である。

雀右衛門には、女形として売り出して間もなくから、映画俳優大谷友右衛門としての約十年間がある。その末期から、関西歌舞伎に事実上籍を移したかに見える数年間がある。しかもそれは、ちょうど関西歌舞伎凋落の時期と重なる。(当時の『演劇界』の記事を見ると、ブームを起して売り出した今の坂田藤十郎の扇雀が東宝に行ってしまった穴埋めの意味合いであったとある。)国立劇場が出来てからは、勘弥の相手役を勤めたりそれなりの活躍は見せたものの、この人には遂にホームグラウンドというものを持たない不安定さがついて回った。平成の世となり前代の大立者たちが姿を消す頃から、ようやく雀右衛門の時代が来たが、裏返して言うなら、それだけ、雀右衛門の芸は海千山千の人のそれなのである。森光子とは少し意味が違うが、この人もやはり「俺流」なのだ。

大正九年生まれとは、終戦の年を二十五歳で迎えた、当時の流行語で言う「アプレゲール」の金箔つきの世代である。森光子にも、雀右衛門にも、大俳優になった今日といえども、アプレゲールの匂いを嗅ぐことが出来る。もっとも、たとえ子どもの記憶にせよその匂いを辛うじて知っているのは、私などの世代が最後のぎりぎりかもしれない。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

随談第293回 おそれ入りました

森光子の『放浪記』を見て、素直におそれいりましたと頭を下げようと思った。実は危うんでいたのだ。よした方がいいのではないかと思ってもいた。根拠がないではない。この正月、元日に民放で恒例の長時間時代劇のほんの一部、たまたまテレビをつけたら映っていたのをほんのしばらく眺めただけだが、(たしか亀治郎が秀吉の役をやっていた)、そのナレーターがひどく生気がないので誰かと思って新聞で確かめたら森光子だったので、覚えずぎょっとしたことがあった。

しばらく前にNHKの大河ドラマの語り手を奈良岡朋子がやっていた。これは悪くなかったが、しかし妙に下に置いたような、低音で抑揚のない語り口という、この手の語り手のお定まりのやり方であることに変りはなかった。(ついでにけなすようで申し訳ないが、いま放送中の直江兼続のドラマで宮本信子がやっているのは、ちと臭すぎないか。あの妙に勿体をつけた抑揚は、一体どういうところから出てくるのだろう? 宮本信子という女優は、達者にまかせて臭くなることはあっても、あんな風にエラそうにもったいぶるヒトとは思っていなかった。ちと幻滅せざるを得ない。さらについでだが、大体、新劇の有名俳優がよくやっている名作物のナレーションというのが、私はあまりぞっとしない。妙に「コセイテキ」だったり、感情移入の度が過ぎたりするからで、イメージが限定されてしまうのが邪魔臭い。語り手というのは、NHKのアナウンサーみたいなフラットな方がいい。想像力をはたらかせるのは聴く側にまかせてもらいたい。)

話がそれたので閑話休題として、話題を元に戻すと、その時の森光子のナレーションを聴いて、正直なところ、これはいけないと思わざるを得なかった。奈良岡朋子の意識しての抑揚のなさとは似て非なるものである。生気がないだけでなく、たとえば足弱の人が、自分の足で歩いているつもりでも、はたから見れば、辛うじて転ばないだけ足が動いているだけのような歩き方をするようなもので、言葉がまったく立ってこないのだ。いくら何でも、半年後に『放浪記』をやることになっている人のものとは思われない。その一年前、昨年春のシアタークリエの時も心配したが、講談本で読んだ、笹野権三郎と立ち会う八十翁の宮本武蔵みたいに、北条秀司作の『京舞』の三代目井上八千代みたいに、いざとなると、見事にやってのけた。そのためしがあることは重々承知していても、あれを聞いては、今度ばかりは悲観的な観測をせざるを得なかった。もう、よした方がいいのに・・・

だが、それは文字通りの杞憂だった。最初の出の足取り、セリフの声音から、過不足なく、且つ力強い。しかも序幕は大正12年のまだ若い芙美子なのだ。二十代の、若い芙美子になっていなければならない。その意味では、武蔵や井上八千代以上ともいえる。

そういえば、先月末に歌舞伎座でやった俳優祭の『シンデレラ』に、雀右衛門が出演したという。一日だけ、小さな役なら、まだ出られるのか。思えば、森光子と雀右衛門は同じ大正9年、1920年生まれの同い年の筈である。二人に共通するのは、若いときには頭を押さえられ、高齢に近づいてから頂点に立ったという人生の歩み方である。いつまでも元気でいるためには、あまり若くして得意の絶頂に立ってしまわない方がいいのかもしれない。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket

随談第292回 退院後一ヶ月

退院は三月の末日だったから、ちょうどひと月経ったことになる。退院といっても、飲酒はもちろん食事にも何かと制限があるから、保護観察つきの仮釈放みたいなもので、入院が二〇日間だったから、〆て四十九日、アルコールから遠ざかった計算である。酒を飲む習慣がついて以来、未曾有の長期に及んだわけだ。しかし意外なほど、飲みたいとは思わない。酒が恋しいとも思わない。そういうものだと観念しているからで、ではこの機会に、これきり酒を絶とうなどともまったく思っていない。そうと決めたら、未練がましいことやわがままらしいことをするのが嫌なだけだ。(こういうことは、しばしば、親が反面教師になるものだが、私の場合もその例外ではない。父親というものは、ぶざまな姿を倅に見せるのが、教育として最も効果があるわけで、これはおそらく永遠の真理であるに違いない。すくなくとも、自分の親を見ながら、ああいう風になりたいと思いながら大人になる人間と、ああいう風にはなるまいと思いながら大人になる人間と、人類に二種類あるとしたら、私はあきらかに第二の人種に属することになる。もっともこれは、他人から見てどう見えるかとは、もちろん、まったく別の話だが。)

というわけで酒はまあいいとして、厄介なのが外でする食事である。これは、思いの他に不自由なものだ。ランチひとつ食べるにも、みな制限に引っ掛かる。世の中というものは、要するに、健康な人間だけを対象に作り上げられているのだということを、病人になってみてはじめて痛感する。胃だの腸だの十二指腸だのにやさしい食べ物というなら、昔ながらのお惣菜を食べていれば問題はないわけだが、和食というのはいかに温和なものかということに改めて気がつく。そこへ行くと、イタリアン、フレンチ、洋食はどれも潰瘍にはよろしくない。西洋人って、潰瘍になったら何を食べるのだろう。そもそも、向こうの人というのは、みな神経が太いから潰瘍などにならないのだろうか? 

もっとも、お陰で4キロあまり減って、ウェストがベルトの穴ふたつ近く細くなった。身が軽くなった感覚が、思いのほかに気持ちがいい。ふと思い立って、試しに、ざっと十年近くもはけなくなっていたジーンズを試してみたら、誂えたようにぴたりというサイズで、身に添う感覚が快い。忘れていたジーンズのはき心地がよみがえって、以来、このところ専らジーンズ党になってしまった。何となく若返ったような気持になるのも、ひとつの効用というものだ。それと、いわゆるコーディネートが、どんなものにも意外なほどうまく合うのも一得だし。

さてそうなって、ジーンズをはいて街を歩いてみると、改めて、男も女も、年齢を問わずジーンズ姿の多いことに今さらながら気がつく。ざっと見たところ、十人のうち三人ぐらいはいるのではないかしらん。年配者にも多い。なるべく若い気でいたいという、現代の人間の意識の反映でもあるような気もするが、そうであったとしても悪いことではない。

しばらく歌舞伎の話を書いていない。書くことは沢山あるようで、どうしても書かなくてはと思うほどの気持が湧いてこないままに、つい間遠になってしまった。入院などという体験から、われ知らず、少し冬眠状態になっていたのかも知れない。そういえば、二十日ぶりにわが家に帰ってきたときの、わが家がわが家でないような不思議な感覚は、あれは何だったのだろう?

このエントリーを Google ブックマーク に追加
Pocket