随談第327回 野球回顧話

次は野球の話と予告めいたことを書いて、本当にそのつもりでいたのがのびのびになってしまった。クライマックス・シリーズだ日本シリーズだ、イチローだと、3回分ぐらい書くことがあったのだが、こういう話はやはりホットな内にすべきもので、日数が経ち、湯気も立たない今となっては、利かない辛子とこわくないお化けみたいなものだ。そこで仕切り直して年間回顧風の簡略版、そのつもりでお読みください。

『わが生涯の最良の年』という映画がかつてあったが、春のWBCからリーグ制覇、日本シリーズと、監督の原にとって生涯にこういう年が再び巡ってくるかどうか。しかしまあそれだけのことはあったといっていい。現役時代はあまり積極的な興味を感じたことのない選手だったが、監督になった姿を見ている内に、これはこれでひとつの人物なのだなと思うようになった。優等生風のいい子ぶりに、それなりに筋金が入っている。そのあと、例の「人事異動」があって、去年・今年である。悪童風、チョイ悪風のオジサンが、とりわけテレビなどでは持て囃される当今、たまにはこの手の桃太郎風が脚光を浴びるのも悪くない。ダラ幹風でないところ、北京オリンピックの誰かさんとは大違いである。

しかし今年話題の監督というなら、原以上に野村であって、一監督が野球とかスポーツとかいった枠を超えて、社会一般への広がりを持つに至ったというのは稀有なことである。つまり、野球などにたいして関心のない者から見ても、面白い人物と見做されたわけで、その意味では、それこそ国民的な人気を獲得しながら、同じ「現代奇人伝」中の人物としても、人間としては結局野球という枠を出ることがない長嶋とは好対照といっていい。いつもスターであろうとし、そのグロテスクさゆえに「奇人」になりえた長嶋と、つねに貧乏人根性から離れることが出来ないが故に、「奇人」でありながら「普通の人」でもあり続けざる得ない野村と。われわれは普通、野村みたいに表立ってのべつぼやき続けるわけではないが、実は心の内では何ごとかをぼやき続けている。それにしても、ああいう嫌みな親父を、かくも多数の人達が愛しているというのは、現代の日本のさまざまな事どもの中でも興味深い現象ではある。

イチローのことを書くつもりでいたが、新聞テレビの回顧番組・回顧記事のなかであまりにも語られているのを見ている内に、いまさら書く気も失せてしまった。ただ、(少々わざとらしい臭みはあるにせよ)何を言ってもつい耳を傾けざるを得ない「芸談」になっているのは見事なものだ。反対に松井が、何を言っても想定問答集の模範回答例のようなコメントになってしまうのと、あまりといえばあまりにも好対照なのが面白い。松井も、ヤンキースをやめたことでいろいろな世間の風に吹かれて、少しは言うことに味が出てくるようになることを期待しよう。フォア・ザ・チームはもちろん結構だが、優勝を目指せるチームばかり歩いてのフォア・ザ・チームではなあ。日本に帰ってきて、横浜ベイスターズにでも入団して、フォア・ザ・チームの精神で優勝でもさせたら、同じ言葉を吐いても、想定問答集の回答例みたいには聞こえなくなるに違いない。

松井のことを書くつもりはなかったのだが、イチローから話が思わずこうなってしまった。メリケン野球に行った選手で他に興味を感じさせるのは松坂ぐらいのものだが、今年の松坂にはWBC以外には、材料がなさ過ぎる。他のメリケン組にはあまり興味を起させる人がいない。メリケン野球の似合う人とそうでない人があり、多少戦果を挙げても、似合わない人はどこか痛々しく見えるのは不思議である。

ダルビッシュだの岩隈だの、日本で活躍している選手のことも書きたいがもうスペースがなくなった。それより、今年も幾人かの訃報を聞いた中に、国鉄スワローズで金田正一の球を受けていたキャッチャーの根来の名前があった。新聞の小さな記事以外、テレビなどでコメントされることもなかったような気がする。野球選手でも映画スターでも何でも、当時は相当の存在でありながら、現在のマスコミに知られることが少ないために、わずかでも往年を知る者からすると、義憤を覚えるような扱いになってしまう例が気になるのは、こちらも齢を取ったせいだろうか。その意味で、先月書いた往年の時代劇女優千原しのぶのを偲ぶ記事を、いくつかの新聞の投書欄に見つけたのは嬉しかった。切り抜いて保存しておいた。

松も飾り新しいカレンダーもかけ替えた今ごろ、こんな回顧の文を載せるのも気の利かない話だが、どうぞ鷹揚のご愛読を願います。年内はこれでおしまい。年が明けてから、ご挨拶を申し上げます。

随談第326回 顔見世便り

暮れも押し詰まった24,25日の両日、南座の顔見世を見に、歳末の京都を訪れた。永観堂から南禅寺辺り、あるいは八坂神社から知恩院界隈、残んの紅葉といった気配が冬枯れの中に感じられるのが、いかにも京の冬らしい。月は隈なきをのみ見るものかは、紅葉も盛りをのみ見るものかは、というのは必ずしもただの負け惜しみではない。

顔見世を見に行こうと思い立った直接の動機は、仁左衛門の助六を見たいと思ったことだった。あるいはこれが見納めにならないとも限らない。そんなにしょっちゅうやる機会がある役ではない。襲名の折、出してから彼此十年の余、経っている。十一代目團十郎最後の助六は昭和39年十月、東京オリンピックのさなかだったが、その折の十一代目は思えばまだ六十歳になっていなかったのだ。わが仁左衛門は、すでにその年齢を越えている。

和事のかかった助六として、仁左衛門の助六というものは当代の歌舞伎にあって異彩を放つよきものである。昭和五十八年三月、玉三郎の揚巻で歌舞伎座ではじめて見せた助六は、それまで体験したことのない忘れがたいものだった。襲名の折を含めて、その後幾度か見たどれよりも、その初演の折のが深く記憶に留まっている。十三代目が意休、白酒売りが当時の扇雀の坂田藤十郎、くぁんぺらが左団次という顔ぶれの、意休がこんどは我当に変っているが、偶然のように、今度の配役がその折をいやでも思い出させるかのように同じであるのも、何かの辻占ででもあるかのようだ。ただ当今の仁左衛門は、そのころに比べ、和事味において比較にならない柔らか味が得も言われない。そこが、いま見る助六としてどうか?

さて、十余年ぶりに再会した助六は、半ばは期待を満たし、半ばは、期待を膨らませすぎていたわが身に、やや反省を促すものだったと言おうか。それに、仁左衛門は喉をかなり痛めていて、すこし疲れているようでもあった。そのことが、やや翳りを落としていたことも否めない。紅葉も盛りをのみ見るものではないように、この助六は、仁左衛門の今を見るべき助六であった。そうしてみれば、味わい深いところも多々見えてくる。初演から二十六年の歳月は、仁左衛門だけでなく、玉三郎にも、坂田藤十郎にも左団次にも、当然ながら陰影を刻んでいる。玉三郎の玲瓏さまも、いまや昔日とは比較ならぬほど澄み切っているが、それはまた自ずから、ある種の翳りを潜ませている。

結局、こんどの顔見世の眼目は、助六では白酒売りだった藤十郎の忠兵衛で、仁左衛門が八右衛門に回っての『封印切』ということになる。この顔ぶれもまた、偶然だが同じ昭和五十八年の暮れ、南座の顔見世で見せたのと同じ配役である。仁左衛門はその後、他の忠兵衛にも八右衛門をつきあっているが、何といっても藤十郎を相手にしたときに、その真価が輝き出す。上方言葉の応酬の面白さが他優のときとは比較にならない。それにしてもこの二人の応酬のスピードは、歌舞伎のセリフのスピードとして記録物ではあるまいか。秀太郎が梅川で、玉三郎がおえんという配役も味なものである。それにしてもこの顔見世の仁左衛門は、八右衛門をつき合った以外の自分の出し物は、助六に『お祭』というのだから、すっかり江戸っ子である。

藤十郎・仁左衛門の顔あわせを他所にしたかのように、菊五郎が『土蜘』と『一条大蔵卿』を出していて、この『大蔵卿』がなかなかいい。初役かと思ったら、はるか以前の昭和六十年、国立劇場でやっていたのを思い出した。あまり阿呆を際立たせない、菊五郎らしい穏当なやり方だが、四半世紀前とは比較にならないのは、ひとえに、昔と今では、菊五郎の役者振りが段違いであるという一事に尽きる。自ずからなる公卿の品格という一事に関する限り、この大蔵卿は天下一品である。それと、時蔵の常盤の十二単の立派なこと。

我当が、『時平の七笑』という父十三代目の珍品の棚卸しをしているのも、京の顔見世ならではである。これだの『血判取り』だの、十三代目はよく、それを見逃したらもう滅多にはお目にかかれないような珍品を見せてくれたが、いまやそれらは我当が一手販売の役回りであって、それも南座か松竹座でないと見られない。我当は、意休も手強くてなかなかよかった。これはこれで、父十三代目の一面をよく継いでいるというべきである。

暮れともなると、顔見世も、東京から大挙押しかけたかのような客は見当たらず、客席もロビーも、京言葉が行き交っている。祇園や先斗町の総見の賑わいもさることながら、この一抹の寂びしみを帯びた風情も捨てがたい。残んの紅葉の風情はここにもある。

随談第325回 ブログご無沙汰の弁

随分久しいこと間が空いてしまった。三月に3週間の入院騒ぎで丸ひと月休んで以来の長期のブランクである。いくつか理由の根本のものは先月の半ば頃から血行不良のために左手の指が利かない状態になったことだが、むしろその前段階として、小ひと月ばかり、背中だの左腕だのに劇痛が走って、そうなるとしばらくウンウン唸っているしか如何ともし難い。ときには夜中、そのために目が覚めることもあって、こんどは寝不足につながる・・・といったようなことがしばらく続いて、その間、机に向かう仕事がろくすっぽ出来なかった。といっても、締切のある仕事はやらないわけに行かないが、下調べだの資料の準備だのといった作業が、ざっと3週間から小ひと月、滞った。そのツケが塵も積もって、切り崩すのに思わぬ手間がかかった・・・というのが真相である。

幸い、命にかかわるようなことでも、この後不自由な身体になるというわけでもなく、つまり病気ではないのだが、話をしてみると、実はわたしも経験があります、という人が身近な範囲だけでも結構いるのだということがわかった。早い人はひと月か二月でいつの間にか直ってしまったと言う。もっとも整体師に言わせると、それは本当には直ったわけではなく、人間の体はおのずからバランスが取れるようになるために、現象としてはなくなるのだそうだ。幸い、肩甲骨の辺りに鈍い痺れのような痛みが残っているが、劇痛は去ったので、仕事にならないという状態は抜け出すことが出来た。

後は指が自由になるのを待つだけだが、それまではいわゆるヨイヨイの状態である。何ごとにも発見ということはあるもので、普段何気なくやっている仕草で、わずか左手の指が自由にならないだけでどうにもならないことが、日常茶飯、至るところにあったことに気がつく。拍手ができない。(舞台の上から、役者諸氏はどう思って見ているだろう?)チケットだの何だの、小さいものや薄いものを受取ったり新聞をめくったりするのもちょいと厄介だし、いちばん手こずるのは、右手首のシャツのボタンをはめることと、化粧水を左手のひらで受けること。しかしどちらも、ほぼ毎日欠かせない作業である。丹下左膳は、刀を抜くのにあの方式を思いつくまで、かなりの試行錯誤を要したに違いない。

たぶん、直接の引き金はパソコンのキー打ちだろうが、近頃日常至るところに増えた、軽くワンタッチ触れるという動作が曲者なのだ。湯沸かし器、ポット、トースターからエレベーター、券売機etc.etc.至るところに待ち構えている。整体師の話だと、ひと昔前、女性の代表的な職業だった電話交換手の職業病だったという。肩にも肘にも力を入れないで指先だけで、チョイと押したり刺したりする。あれが曲者なのだ。思うに、現代というワンタッチ時代、このワンタッチ病が社会問題となる日が、遠からず来るに違いない。医師から携帯をピコピコやるのを止められてノイローゼになる中高生、などというのも出る筈だ。

と、いうわけで、近々再開します。(と書いたら、今度はインターネットの不具合で、二日間、通信が停まってしまった。ようやく本日再開という次第。相変わらずご愛読ください。)

随談第324回 汽車の窓からハンケチ振れば

ちょいと身辺小忙しく、且つ予期せぬ椿事に責め立てられて、なかなかブログを更新する暇がない。野球の話も書きたいと思っているのだが、折がないままに日が過ぎて、今日はと思っているうち、千原しのぶが死に、丘灯至夫が死ぬという、訃報が立て続けに新聞に載った。で、野球の話は今さら急いでも詮無いので、こちらの話を先にすることにしよう。

千原しのぶは、やはり何といっても思い出深い。あまりにも細く痩せぎすで、楚々とした形を作りすぎるところがあったのと、割りに早くにやつれが目立つようになってしまったために、その魅力を十全に発揮した期間は永くはなかったが、時代劇女優として水際立った美しさを持っていたという意味では、誰よりも鮮烈な印象をいまに残している。東映オールスター映画の『任侠東海道』などで見せた鳥追い姿のサマになったことといったら、山田五十鈴あたりを持ち出したところで、絵になる、という一点に関する限り、千原の方が上だろう。

新聞の記事は、例によって往時を知らない人が調べて書くだけだから、東映城のお姫様と言われた、などと紋切り型で片付けているが、お姫様より鳥追いの方がピタリとはまる容姿であり、仁であった。つまりやや老けだちの、年増の風情に独特の風情があって、(前にも書いたが)『鏡山』をもじった『振袖侠艶録』の尾上のような、奥女中の役などでは、普通の映画女優ではちょっと表わせない格と雰囲気をもっていた。たまたま去年、池袋の文芸座で佐々木康監督特集の際、再見の機会に恵まれたが、このあたりに彼女の真骨頂があったことを確認した。もうひとつつけ加えて、千原しのぶベストスリーを選ぶなら、『竜虎八天狗』四部作の、東千代之介扮する真田大助の姉奈都女(なつめ)というのがある。少年向け活劇映画だから、知る人はほとんどあるまい。

さて丘灯至夫だが、こちらはさすがにテレビのワイドショーなどでも軒並み取り上げて、かなり的確なコメントもあったようだから、ある程度溜飲が下がったが、本当はもっと評価されて然るべき人だった。ひと足先に死んだ石本美由起などにしてもそうだが、あまりにも典型的な歌謡曲の作詞家として、重んじられたような、安く見られたような、評価にあいまいなところがある。特に丘は、歌詞だけ読んでいるといかにも平凡で切れ味のようなものがないから、(連れて逃げてよ、などという殺し文句が石本にはあるが、丘にはない)、なおさら軽く見られることになる。しかし『高原列車は行く』にせよ『高校三年生』(この歌の流行った当時、私は大学生だったが、正直、愚劣な歌だと思ってバカにしていた)にせよ、その凡庸さ故に、文字通り一世を風靡しただけでなく、時代の表徴として後世に残ることになったのだ。

『高原列車は行く』の作曲は古関裕而だが、じつは先ごろ発売されたCD6枚組みの「古関裕而全集」を買ってこのところ愛聴しているが、昭和20年代という時代の空気をこの歌ほど捉えている歌謡曲はまたとあるまいと思わせられる。「汽車の窓からハンケチ振れば、牧場の乙女が花束投げる、明るい青空白樺林、山越え谷越えはるばると、ランラララン、ラララララララーラ、高原列車はラララララ行くよ」というのだから、およそ、実態は何もない。こんな高原列車や、ハンケチを振ると花束を投げ返してくれる牧場の娘など、実際にいるとも思われない。だが、それ故にこそ、終戦から十年近く経った、哀しくなるほど貧しく、純情な憧れを歌っているという意味で、これは実に見事に、昭和29年を、そして永遠の若さを歌っている。すくなくとも、誰でもが知っている、という一点に関する限り、これに勝るものはそうはないに違いない。

それにしても、ハンカチ、ではなく、ハンケチ、であるところが、今にして思えばなんとも泣かせる。この言葉、近頃とんと、目にも耳にもしない。既に古語であろう。ハンカチと言わずに、ハンケチという言葉を使った人種は、もはや死に絶えたのだ。

随談第323回 森繁久彌の死

森繁の死のニュースを見ながら、マスコミや世間の反応の様子に改めて考えさせられた。もちろん訃報の中で悪口を言う者がある筈もないが、そういうレベルの話ではなく、この俳優が、いかに広く受け容れられ、理解され、親しまれていたかということのただならぬ意味を、そこに察しないわけにはいかないからである。

立川談志かねてよりの説によると、明治この方の日本の芸能人で最大の俳優は九代目団十郎でも六代目菊五郎でもなく、森繁久彌だ、というのを、ゆくりなく思い出したりした。あくまでも目に入った範囲内でだが、新聞に載った各界有名人の談話の中で、それだ、と一番同感したのは、小沢昭一氏の、偉大なる素人のような人、というのだった。伝統的な芸の世界や芸人の血とは無縁なところから生まれ、演技も過去の表現とは別のところから生み出した、具体的で自然な演技だった、と小沢氏は言う。だから万人に分り、万人に愛されたのだ、と。まさしくその通り。そうしてこれは、談志師の真意がどこにあるのかは確かめる伝手がないから別として、私なりに理解するところでは、談志師の意見と相響き合っている。

素人だったから、表現の方法は我流である。しかし凡百の我流芸人・我流俳優と一線を画しているのは、他人の芸を雑多に取り入れるその直観力の格段の相違であり、それをフィルターにかけてわがものにする、その我流の在り方の卓抜さである。そこには、森繁一流の知性が介在する。その知性もまた、決して系統的だったり、論理的だったり、まして学者的だったりなどせず、卓抜な直観力と結びついた我流の知性だった。おそらくその我流の知性において、森繁は、現代のあらゆるジャンルの誰に比べても、一級品であったに違いない。誰もが指摘することだが、満州での体験というものなくては、このあたりの機微は解き尽せまい。人間通。一言で尽すならこの一言に尽きる。素人の役者が玄人の役者を凌駕する秘鍵は、ただこの一点にある。

離見の見と、複眼と。その点に於いて、すなわち森繁久彌が森繁久彌を演じるうえに於いて、森繁は見事に玄人だった。偉大なる素人という小沢氏の言に一語つけ加えるとすれば、偉大なる素人にして玄人、というべきか。

ラジオで聞いた「僕等の仲間」が、私が森繁を知った最初だった。藤山一郎と洒落た掛け合いで運ぶスマートな感覚は、小学生だった私にもありありと感じられた。映画では詐欺師のような役をよくやっていた。これも印象は極めて鮮明で、よく覚えている。つまりキャラが立ったのだが、それでいて、そこだけが突出することがない。『スラバヤ殿下』というのが、そういったたぐいの集大成であったのだろう。つまり主役の座に躍り出て、それから間もなく『夫婦善哉』『猫と正造と二人の女』以下の、誰もが知るモリシゲが始まる。もう私が口をはさむ必要はないようなものだが、ただひとつ言うなら、そういう中で『雨情』というのが、森繁一代を語る上で重要な位置を占めていると思う。かの「船頭小唄」もここで唄ったというだけでなく、雨情という歴史上の実在の人物を演じて見事に、森繁的ペーソスを確立し、森繁のキャラを立たせていたという点で、この作この役は森繁一代のなかでもユニークであり、これあって、『屋根の上のヴァイオリン弾き』その他、後の役々が開けたのではないかと、私は思っている。

随談第322回 新国立ヘンリー六世

新国立劇場の『ヘンリー六世』三部作を一日通しで見た。11時開演で第三部の終演が午後10時20分、『忠臣蔵』を大序から討入りまで、九段目も一挙に見るようなものだ。 午前11時から一日がかりなど、歌舞伎ではいつもやっていることで珍しくもないはずなのだが、尾てい骨が痛くなったり、疲労の度が強いのはなぜだろう? 尾てい骨の方は椅子が歌舞伎座より軟らかなためだろうが、疲労度の方は、歌舞伎とシェイクスピアではリズムの生理が違うためだろうか? もっとも、決して不快な疲労ではない。

なかなか面白かった。久しぶりでシェイクスピアらしいシェイクスピアを見たような気がする。なまじ有名作だと演出家がいじくりまわすのが当たり前のようになってしまい、大概、事を壊す結果に終ることが多いのに比べ、こういう非有名作は比較的素直にやるのが却っていい。それと、これは私の好みだが、いわゆる四大悲劇などより歴史劇の方にこそシェイクスピアらしい面白さがある。善も悪も、偉人も凡人も、身分ある者も無名の者も、すべてを等距離に置く相対的人間観で見る人間模様が、歴史劇の場合の方がドラスティックに出る。シェイクスピアの神髄はむしろ歴史劇にこそある。登場人物一人ひとりについて見れば悲劇だが、トータルにみるとむしろ喜劇にも見えるところが、まさに「神の喜劇」である。(四大悲劇を深刻がって、やたらに持ち上げすぎる19世紀以来の事大主義にいまだに捉われているのは、不思議な話だ。)

俳優たちもいかにも乗りがよくて、なかなかよくやっている。ヘンリー六世の浦井健治は、カマトト風というか中性風もしくは両性具有風というか、下手うまみたいなところが面白い。王よりも羊飼いの生活に人間の幸福を見るというセリフなど、なかなか聞かせた。優柔なダメ男が却って人間の真実に目覚めかけるというのは、つまり王にして道化の視点をももっているかのようでもある。もうひとり、後のリチャード三世になる岡本健一が、よく動けて情感もあってなかなかの好演なのと、ジャンヌ・ダルクとエドワード皇太子二役をつとめるソニンが特異なキャラを生かして印象的だ。ベテランではトールボットの木場勝巳(もっともこれは儲け役だ)とウィンチェスター司教になる勝部演之の演技に格がある。

さっき、なまじ有名作でないだけ比較的素直にやるのがいいと書いたが、鵜山仁演出は実はけっこういじくっている。シェイクスピアというと最近は現代服でやる方が当たり前になってしまったが、鵜山演出は兵士の服装などから察するに、第一部は第一次、第二部は第二次世界大戦頃、第三部はベトナム戦争頃をベースにしているかにも見えるが、第三部に至ると、リチャードの独白のバックに「オーバー・ザ・レインボウ」を流したり、はては昔のビクターの商標みたいな大きな喇叭のついた蓄音機でレコード(CDではない)をかけたり、エドワード王が迷彩服のベストにジーンズをはいていたりする。(ベテラン陣が主力を占める第一部に比べ、登場人物が世代交代する第三部になると俄かに役者も安くなった感じがするのも、演出の計算だろうか?)シェイクスピアが百年戦争や薔薇戦争の時代を芝居に書いたタイムスパンから考えたのかと想像するが、そのくせ、フランス王ルイが昔の赤毛物の王様みたいな格好で出たり、オヤオヤという感じになる。マーガレットが戦場に出るときのスカート(といっていいのか?)が大正から昭和ひと桁時代に流行った銘仙の腰巻みたいに見えるのは、まさか第一次大戦時代に歩調を合わせたわけではないだろうが。

昔みたいに「時代物」だからというのでトランプのキングやジャックみたいな格好をする必要はないが、(いつか前進座がやった『ヴェニスの商人』は今どき稀な昔ながらの赤毛物流でナツカシクもおかしかったが)、一方でナントカ伯だのカントカ公だのと言っているのだから、あまり時代を限定するような格好をするのもかえって観客を途惑わせる。(それが狙いだというのかも知れないが。)演出者の解釈なるものがあんまり見え透いてしまうと、せっかくの美人が、X線写真で骸骨を見せられるようで、味気ない思いをさせられる結果になることも少なくない。演出があんまりのさばると、絵解きごっこにつき合わされることになり、迷惑する。あんたひとりのシェイクスピアじゃないんだよと言いたくなる。(その意味では今回のは、まあいいか、といったところか。)少なくとも、現代服でやらないと現代的ではないと、もし思い込んでいるとしたら、却って公式主義に捉われていることになるのではあるまいか?

随談第321回 今月の舞台から(続)菊之助のこと

もう少し書いておきたいことがあるので、続編としよう。

『吉野山』の幕が開いて、花道から菊之助の静が出てきたとき、誰だろう?といぶかって筋書の配役を確かめた・・・というのは嘘で、もちろん、菊之助が静をすることは知っていた。だが、それにも拘わらず、オヤ、誰だろう、と一瞬目を疑ったことは事実である。つまり、菊之助と承知していながら、菊之助、と認めるのに手間がかかったのである。それは何故か?

妙な言い方になるが、菊之助が菊之助の顔をしていないから、というのが、私としては一番正直な答え方かも知れない。昔からよく言う批評の常套句を使うなら、菊之助はまだ自分の顔を持っていない、というのがほぼ近いか? また別な言い方をするなら、役の顔をしていない、と言ってもいい。この場合、最初に言った「菊之助の顔」と、「役の顔」とういうのは、結局のところ、同じことを意味する。つまり、「吉野山」の静の顔と、それを演じる菊之助の顔が、ドンピシャリと一致していないのだ。

菊之助はたしかに美しい。チャーミングでもある。私が菊之助を認める者として人後に落ちるものでないことは、これまで書いてきた幾多の菊之助評を見てもらえば了承されるはずだ。この二月、玉三郎と例の『京鹿子娘二人道成寺』を踊ったときなどは、さよなら公演中にもう一度出してもいいのでは、などとさる人に勧めたぐらいだ。と、これだけ言っておけば誤解はないと思うが、今度の『吉野山』の静を見ながら、ふと思ったのは、これは、たとえば何かのCMとか広告のために静御前の扮装をしているような、そういう美しさだということだった。『義経千本桜』の「吉野山」の静ではなく、つまり舞台で演じる役の顔ではなく、何か別の場で静の化粧をし、衣裳を着、鬘をつけて美しく装った菊之助の顔ではないか、と。

この場合、役の扮装をしても菊之助の顔をしているというのは、それだけ個性が強いという意味ではない。役者の顔は、演じる役を通じ、役と重なり合いつつ、個性として輝き出るのでなくては、本当の「いい顔」にはならない。何の役を演じていようと、その役と重なり合い、その役の輝きとともに、菊之助なら菊之助として輝き出すのでなければ、歌舞伎役者菊之助としての魅力にならない。現に菊之助自身、『娘二人道成寺』を踊ったときはそういう顔をしていた。

思うに、菊之助はいま、一見盛りのさなかにいるように見えながら、じつは惑いの時節にあるのではあるまいか。元より菊之助にも自負があるだろう。自惚れだって、あるだろう。あって当然、自惚れを否定するものではまったくない。むしろ自惚れは、自負と抱負を人一倍大きく強く持つ者であることの証明ですらある。またおそらく、菊之助には菊之助なりの歌舞伎に対する考えも、意思表示もあるだろう。それやこれ、さまざまな思いに包まれながら、あるいはいま、歌舞伎に対する惑いの中にいるのではあるまいかと思うのだ。あの静の顔は、そうした、いまある菊之助の在り様を写す鏡なのではあるまいか?

随談第320回 今月の舞台から

芝居の話が大分ご無沙汰になってしまった。ちょいと駆け足気味だが、月末になってもまだ記憶の篩にかかって残っている話題から、二、三拾ってみることにしよう。

坂田藤十郎の『河庄』、当代菊吉の『千本桜』と並ぶと今さら劇評でもあるまいという感じにもなるが、吉右衛門の知盛が岩組みの上に立った時の歌舞伎座の大舞台にピタリとはまる量感とか、『吉野山』で紫の衣裳の菊五郎の忠信がせり上がってきたときの何ともいえない寸法のよさ、などといったものは、いま彼等がそれぞれに、役者としての完熟の時節にいることを改めて思わないわけには行かない。やはり、彼等の「いま」を見ておくべきなのである。だが、かつてのわが身を振り返ってもそうなのだが、人間というものは、実はいまその時、その只中にいながら、案外それとも気づかずに過ごしてしまうものだ。だがその「いま」は容赦なく過ぎ去って、永遠に戻ってこないのだ。

坂田藤十郎が、いまなお、すこしのたゆみもない治兵衛を演じていることにも、改めて感服する。取り分け凄いのは、終局、いったん帰りかけた治兵衛が花道に座り込んで、せめてもう一度、小春にひと言、言ってやりたいと言い出すところである。あそこは、藤十郎のある意味での「新劇」であると私は考える。たとえば先代の鴈治郎だったら、ああも鋭く、治兵衛の、いや人間の痴愚の姿を描き出しはしない。和事の芸の内にくるんだ愛すべき治兵衛として、そこにいるという感じだった。だが藤十郎だと、治兵衛というひとりの男を突き抜けて、痴愚の中に陥った一人の人間を舞台の上に実存させる、という趣きになる。それは見ようによっては、歌舞伎の芸を突き抜けてしまったともいえる。しかし凄いと思うのは、その「新劇」を、藤十郎があくまでも、その身体に叩き込んだ「和事」の芸でくるめて少しの違和感をも感じさせないことである。

ただそうであればあるほど、段四郎の孫右衛門が、役をよく理解して適切に演じているにも拘らず、上方人の体臭がその身体になく、そのセリフに大阪弁の一種の泥臭さがないことが、痛感させられてしまう。これは決して段四郎を責めて言うのではない。東京人段四郎としては如何ともし難いことである。「もう一遍、小春にひと言言うたらいけませんやろうか」と治兵衛が言うと、「そりゃちょっと具合が悪いなあ」と孫右衛門が応じる。深刻なことを、まるで漫才みたいな軽い言葉でやりとりする。その落差が、見ているこちらを慄然とさせる。そのあたりの、何とも言われニュアンスとでも言おうか。

だが誤解しないでいただきたい。私は、この狂言は上方の狂言だから上方の役者でないとやるべきでないなどと言っているのではない。あくまでも、坂田藤十郎の治兵衛に対する段四郎のことを言っているのであって、それ以外ではない。むしろ私は、紙治にせよ『封印切』にせよ、あまり上方上方と言いすぎる最近の傾向には、意義を唱えたいと思っている。わたしが実際に見て知っている範囲でも、以前は、たとえば先代の勘三郎が『河庄』の治兵衛をしたりすることが、もっとたびたびあったように思う。いまの菊五郎や勘三郎も、若い頃には『封印切』をやっている。あたら名狂言を、融通の利かないローカリズムの中に押し込めるのは愚かであり、もったいないことだ。

最後に、今月のひとつのトピックとして、国立劇場の例の乱歩歌舞伎での意外な功労者たちのことを書いておこう。あまりほめられない乱歩歌舞伎の中で、意外なところにヒットがあった。たとえば松本錦成の丁稚長吉である。先輩格の錦弥の番頭とつるんで出て、こまっしゃくれた丁稚ぶりを見せるのが寸法にはまり、堂に入っていて、目を奪われる。つぎに中村梅丸の人形花がたみである。人形の無機的な不気味さを見事に演じている。もしかしたら彼等は、人間豹の落としていった置き土産だったかもしれない。

随談第319回 楽天騒動

楽天イーグルスの野村監督の去就をめぐる騒動がなかなか面白い。これぞ、野村ぼやきイズムの集大成の如き趣きがある。それでなくとも、このシーズンの楽天監督としての野村は面白かった。毎晩のスポーツニュースで、試合終了後の記者団とのインタビュウでの「野村語録」を面白がって報道していたのが、もろもろのことを雄弁に物語っている。他球団の監督であんな待遇をされた監督は一人もいない。また事実、あの夜毎の野村談話はなかなか面白かった。

しかしよく聞いていると、とぼけているようで実はなかなか正直な人であることも見えてくる。喰えない人物、には違いないが、そうとばかり見ていると、却ってたぶらかされるに違いない。クライマックス・シリーズの出場を確定した日、万歳、と言ったひと言が、その意味からも白眉だった。クライマックス・シリーズで対戦した印象を、ソフトバンク監督の秋山が、野村さんは本気だ、まるでヤクルトの頃みたいだ、と語っているのも意味深長だ。

去就をめぐる話は、要するに球団経営者連に、ある種の感覚の欠落があるのだと私には見える。今度の騒動のいきさつを新聞で読んでの勘や、五年前、球団経営に乗り出したときの楽天社長の人相風体や人品骨柄や態度物腰をテレビで見ての勘から、そう察するだけの話だが、かの人一人だけのことではなく、ある種の雰囲気や傾向が感じられる。

つまり、理は球団側にあるのだ。昨年で当初の約束の三年契約の期限が切れ、一年の約束で契約を延長したのだから、一年経ったいま、約束通りにしましょう、それがどうしていけないんですか、というわけだ。どこも、何ひとつ、間違っているわけではない。野村も、たぶん、そんなことは分っているに違いない。

それにも拘わらず何故怒ったのか。ひと言でいえば、しゃらくせえ、からだろう。そう思わせるものが、球団経営者連にあるのだと思う。新聞を読み、ニュースで聞いて、わたしはそう感じ、たぶん野村もそうだろうと勝手に思って、何分目か共感し、半ば肩を持つような気分になっている。要するに、同じことを言うにも、物の言い方、話の持って行き方というものがある。それを、怠った、のではなく、無視したか、あるいははじめからする気がないのか、あるいはまた、知らないではないが、つまらぬことだと思っているか。たぶん、そこらのどれかだろう。

記者たちを相手に、野村監督がぶちまけている不満の言のいちいちを真に受けることはない。騎虎の勢いで言っているだけで、内容は要するに、これだけやったのだからもう少し人情味のある対応をしてくれてもいいではないか、ということで、今さらそんなことを言ったってどうなるものでもないことは、野村自身分っている。俺にこんなことを言わせるなよ、というのが本音に違いない。要するに、しゃらくさいのだ。

それにしても、楽天の経営者に限らず、同じ五十年配の、最近脚光を浴びだした新しいタイプと見られる経営者や政治家に、同じような雰囲気を感じることが多い。新内閣のナントカ大臣になった前原などという人にも、共通するものを感じる。自信家で独善的で、青臭い。つまり、成熟の度が年齢、立場、経歴の割りに低いのだ。この手の人類がひとつの「人種」として社会の各方面にはびこるのかと思うと、危ういかな、という取り越し苦労もついしてしまいそうだ。もっとも、それがひるがえって野村ぼやきイズムの集大成を引き出すきっかけとなったのならば、それはそれなりに、天晴れというべきか?

それにしても、CSの一,二戦で、岩隈と田中が完投したのはよかった。久しぶりに、エースと呼ぶにふさわしい姿を見た気がする。もちろん、頭脳的な采配で、B級投手の小刻みな継投で逃げ切ったりするのもそれはそれで面白いが、はじめからナントカの方程式などと言って、判で押したように決めてしまうのは味気ない。山崎が、いいベテランぶりでいい顔になったのも、興味深い。中日にいた頃は、ただの力持ちのクマさんだったのだが。

随談第318回 ジーンズ随談

三月に十二指腸潰瘍のために20日間入院した話は前に書いたが、はじめ8日間点滴だけ、その後も、重湯からはじまって五分粥、ようやく普通の粥という病院生活のおかげでざっと5キロ余り、減量することができた。別に減量しようと思っていたわけではないが、いざ体が軽くなってみると、これが思いの外に気持がいい。ちょいとした発見といってもいいだけの快感がある。それに伴って、当然、ウェストも細くなる。ざっと5センチ、スリムになった。(つまり1キロで1センチということか?)これも気持ちがいい。腹の出具合もさることながら、腰から背にかけてすっきりした感じがするのが、これまた思いの外に気持がいい。このままキープしてやろうと思い立った。

そこで、待てよと思った。以前はいていたジーンズのことを思い出したのだ。いつの頃からか、きつきつになって、そのままはかずにいたのを、久しぶりにはいてみようか、多分大丈夫だろうと、戸棚の奥から引っ張り出した。見事にはけた。ざっと十年ぶりぐらいになるのだろうか。つまり十年前には、胴回りはいまぐらいのものだったということになる。はいて外出する。悪くない。もうちょっと色合いの違うのも欲しくなって、一本新調した。もう、病膏肓になる。

さてそうなってみて、改めて世間を見回すと、世はまったくジーンズの世の中であることに気がつく。電車に乗る。座席に坐って向かい側を見やると、仮に七人掛けとして、まず五人まではジーンズをはいている。老若男女を問わない。それまでだって気がつかなかったわけでもないが、自分もジーンズ党の一員になってみて、改めて、その多さを実感する。これが政党だったら、ジーンズ党が政権を取るのはいともたやすいことに違いない。

若い連中に多いのは当たり前のことで特におもしろくもないが、中高年の男女、高齢者と思われる人にこれほど多いのは、一考に値いしそうである。

値段の安さということも、もちろんある。何万円もするのはこの際別として、つまらないズボン一本買う値段で、ジーンズならもっとマシなのが買える。しかし、それだけではないだろう。ひとつ思いつくのは、ジーンズをはくことで年齢不詳の人間になれるということである。単に若く見えるということだけではあるまい。年齢不詳、という曖昧さを手に入れる。そこに、えもいわれぬ快感がある。喜びがある。

もちろんそれには、ジーンズとはもともと若者のものだったという、社会が暗黙のうちに了解している前提がある。社会全体がもっている記憶といってもいい。とにかく、この前提がまず確固としてあることが肝心である。まず正があって、反がはじめてあり得るように。若者もすなるジーンズというものをオジサンオバサンもはいてみた。オジイサンオバアサンもはいてみた。若くなれた、ような気がした。みんなではけばこわくない。いま擦れ違ったひと、向かい側の席に坐っているひと、みんながはいている。本当には若くはなれないが、若さを装うことならできる。

谷崎潤一郎の小説に、夜な夜な、女性の着物を着て御高祖頭巾をかぶって外出する男の話がある。女装愛好者の話と取るより、別の自分を装う喜びを告白する話と取った方が面白い。しかしまさか、そこまでする勇気はないし、気も回らないから、もっとささやかな、もうひとつの、あり得るかも知れない自分にな(ったつもりにな)るために、ジーンズをはく。性は簡単には偽れないが、年齢なら、誰でも多少は偽った気になれる。ここで大事なのは、七人の内五人は、同じくジーンズをはいている、群衆の中のひとりになれるということである。こうして世の中の七人中五人の人々は、何千円かの出資で(近頃は800円台などというのもあるらしいが)、ごくかるーく人をも身をも偽りながら、今日も街を歩いているのだ。